2022年5月19日 (木)

① 上杉憲実~贖罪の行脚をした関東管領

マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。詳しくはこちらに→「拙本『北条五代の娘たち』の販売」


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~実さまを書くにあたり参考にした本(何度読んでも脳内クリアに整理できない…)~


まだ9歳だった。

応永25(1418)年、孔雀丸は、残雪深い越後から春の気配ただよう鎌倉へやって来る。しかしその頃の鎌倉は、いや坂東は、春を楽しむような状況ではなかった。

前々年、先の関東管領上杉禅秀は反旗を挙げる。鎌倉公方持氏は、鎌倉から時の管領上杉憲基の領国伊豆・駿河へ、憲基はいったん越後へと逃れた。そして憲基は伊豆へと移る。


その後、公方・管領軍は持ち返す。翌25年正月、禅秀は自害すれど、それに先立ち管領憲基は病により鎌倉にて死去する。憲基は27歳だった。

同年、孔雀丸は元服し山内家を継承。翌26年、正式に関東管領となる。上杉憲実の誕生である。


上杉憲実といえば、関東管領で、足利学校を再興し、永享の乱で鎌倉公方持氏を自害させた人物ということぐらいしか知らなかった。新九郎さん こと 伊勢宗瑞のことを調べていて、乱後に憲実が突然行方知れずになり、西国行脚のような数年を送っていたことを知り、管領が行方不明!? 行脚っ!?と驚いた。


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~↑ 孔雀丸はレストランを覗いていた😜(多摩動物公園にて)


鎌倉公方持氏と関東管領憲実が初めて会ったのは、持氏22歳、孔雀丸は10歳の時だった。

管領となる孔雀丸からしたら、補佐する相手はひとまわりも年上の大人で、鎌倉府にキラキラしく暮らす公方。翻って持氏からしてみれば、自分を補佐することになる管領は、地方から来たばかりの子供。


なんだこのガキッチョ (-_-)

……とまでは思わなかったかもしれないが、ただでさえ放埓な(たぶん)持氏が孔雀丸を相手にしなかったのは想像できる。この初対面の印象が、その後の二人の関係や、孔雀丸あたらめ憲実の持氏に対する思いに影響しているのかもしれない……などと思ったりする。


将軍就任への野心を燃やし幕府への対抗行動を続ける鎌倉公方持氏と、自分の政策を推し進めるに邪魔な持氏を排除したい将軍義教。

そもそも二人は同じ足利尊氏を祖とするもかなり血筋が離れている。将軍義教にとっては祖父、鎌倉公方持氏にとっては曾祖父が兄弟だ。

将軍と鎌倉府長官(鎌倉公方)との関係は、足利幕府設立当初は兄弟(尊氏&直義 / 義詮&基氏)だった。次ぎに従兄弟同士となり、血の繋がりはだんだんと薄れてゆく。兄弟でも父子でも争う時代、次第に敵対していくのもむべなるかな。


憲実は幕府と鎌倉府との間を保つべく、暴走しようとする持氏を抑え、将軍義教や幕府への取り成しに力を尽くす。しかし持氏は憲実を幕府よりと見、また、様々な噂も飛び交い、憲実と持氏の溝は深まるばかり。

憲実は、ここで持氏に抗議すべく関東管領を辞任してしまう。


持氏らに請われ(なぜですか?)憲実は管領に復職すれど、持氏の息子の元服のことなどでまたもや対立。なんと憲実は自害を図る😲。

それでも憲実は持氏の処分を即す幕府に持氏助命を嘆願。


なにゆえ、そこまで…。

足利学校に「五教」を寄進したのは、そんな頃だ。


されど関東管領として幕府の再三の要請に応じざるを得ず、永享11(1439)年2月、出家し鎌倉永安寺で蟄居していた鎌倉公方持氏に兵を差し向け自害へと追い込むこととなった。

持氏の嫡男義久(10歳)は報国寺で自刃。安王丸・春王丸・永寿王丸(のちの成氏)ら他の子供達は鎌倉から逃れた。これが後に、結城合戦へと繋がる。


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~持氏が出家した称名寺(金沢文庫)~


同年6月、憲実は持氏の墓所を訪れ、墓前にて2度目の自害を図った😲。

「心ならずも主君を滅ぼしてしまったことを悔い臣(憲実)はこの度讒者の申すに従い勘当を蒙り敵となりました、けれども心中に不義はございません、天からご覧ください」と涙ながらに腰刀を脇腹に突き立てたが、家臣達に阻止され一命はとりとめた…
と『永享記』にあるそうだ。


主君を死に至らせてしまったこと、自分が主を滅ぼしてしまうような人間だと周囲や後世の人に思われてしまうことの不本意さ。悔やんでも悔やみきれなかったのだろう。

この年の暮、憲実は家督を弟に譲り、出家して山内上杉の守護所のひとつである伊豆の国清寺へ引き籠る。


法名は「雲洞院高岩長棟」。30歳の時である。

憲実は隠遁した伊豆に持氏供養の寺「蔵春院」を建てている。


なぜ憲実はここまで持氏に対して忠の心を持ち続けたのか…。たぶん持氏から信頼されたことなど一瞬たりともなかったと思うのに…。

それについて田辺久子氏は『上杉憲実』(1999 吉川弘文館)で、「憲実の基本的立脚点は儒教であったとみられる」と書いてらっしゃる。


しかし、憲実の出番はまだまだ終わらない。

結城氏が亡き持氏の遺児安王丸・春王丸を擁し決起したのだ。歴史上いうところの「結城合戦」である。


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~結城合戦で憲実が陣とした「祇園城」~


幕府の強い要請により、憲実は管領への復職はせねど鎌倉へ戻り乱をおさめ、佐竹攻めなどにも出陣し関東の情勢が落ち着くことに努めている。


そんな折、京都では大事件が起きてしまう。

鎌倉公方持氏排除を強行に推し進めた将軍義教が家臣に暗殺されてしまったのだ。


どうする、憲実!(いや、違う…)

憲実は幕府やその周囲からはかなり頼りにされていたようで、所領争いの斡旋や次期鎌倉公方任命についての相談などをうけ、いくつかの戦にも出ている。幕府は憲実に管領職へ戻すため、綸旨を賜ることまで考えたほどだったらしい。


それでも憲実は管領への復職を固辞。隠退の思いやまず、息子達も政界にかかわらぬよう出家させた。それも束の間、家督を譲っていた弟が死去してしまう。


自身と息子達が鎌倉を去り、持氏の菩提を弔いながらの静かな日々が始まるはずだったのに。

憲実の苦悩はまだ続く……。


🍷 今、足利学校で企画展「上杉憲実と足利学校」が開催中ですね。5/29 まで。


🍷以前のブログ記事です
「瀬戸神社展と金沢文庫」
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2022年5月13日 (金)

堀越公方は公方ではなくなったのですか?

 マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。詳しくはこちらに→「拙本『北条五代の娘たち』の販売」


まず、朗報!
『新九郎、奔る!』ゆうきまさみ(小学館)の 10巻が出ました!義尚様おっしゃるとおり、新九郎さんたら随分と骨っぽくなっていますね。

当ブログは氏照の追っかけブログだったはずなのに、最近はその百年前のことばかり書いておりますが、当初は新九郎さんの追っかけでした。時々は氏照に戻りまするゆえ、長~い目👀でご覧くだされましたらいと嬉し。


さて、

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堀越公方は都鄙和睦の後も「公方」と認識されていたのですか?


対決の東国史(吉川弘文館 2022)。シリーズ中のどれかは我慢できずに買うだろうと自分でも思っていましたが、やっぱり買ってしまいました。それも2冊…。図書館で借りると、何かの時に急いでチョット確認ということができないし、付箋紙も痕が残るからあまりペタペタ貼れないですものね。

と、最初に言い訳。


買ったのは、木村聡『山内上杉氏と扇谷上杉氏』と植田真平『鎌倉公方と関東管領』。

『山内上杉氏と扇谷上杉氏』の「長尾景春の乱と都鄙和睦」のあたりを読んでいて、あれ?と思うところがありました。またですかい?ですが。


「享徳の乱と景春の乱がもたらしたもの」の項は、とても読みやすくて納得(すぐ忘れちゃうと思うけど😓)でしたが、そこで引っ掛かったのが、都鄙和睦のあと堀越公方政知の処遇がどうなるかというところでの、以下の文章です。


「幕府が関東の公方を政知ではなく、成氏とすることが都鄙和睦成立の大前提だったので、政知が公方でなくなるのは既定路線だが…」

幕府は政知を京都へ戻すことはしないし、シゲッチはシゲッチで、
「(政知は)公方から降格されるわけだから…」不足なく暮らせるようにすることに「同意」したと。


ということは、
都鄙和睦の後、政知はまだ「堀越公方」という「公方」だったのか? もしくは「公方として共通認識」されていたのか? それとも、伊豆の一守護大名として認識されるようになったのか?

気にしたことがありませんでした。それなら小弓公方は?「小弓公方」は歴史概念用語で、当時はそう呼ばれていなかった?


手持ちの他の研究者の先生方の本をいくつか見てみましたが、特にそのことについて見つけられませんでした。史料を読めば、当時の関係者が都鄙和睦後に政知をどう呼んでいたか(小弓公方がどう認識されていたかも)分かるのでしょうが、古文書読めないし(恥💦)、今、他にも気になって読んでいる歴史本があり、あまたの名前と年号で脳内がいっぱいいっぱいです。

どなたか教えてくだされ。


🍷 関連ブログの一部

「宗瑞・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏「願成就院」」
「ついに分かった?北条氏照正室の最後と、氏綱正室の出自」

「細川政元はなぜ新九郎さんを外したのですか?」
「宗瑞は京で失脚したため駿河へ下った!?~森幸夫氏」

「宗瑞を圧迫した立役者、赤沢朝経~家永遵嗣氏 講演」
「今川義忠への制裁に宗瑞が関与していた?~家永遵嗣」

「宗瑞は京で失脚したため駿河へ下った!?~森幸夫氏」

「① 新九郎さんはいつ頃から幕府からの独立を考え始めたのか?」
「② 新九郎さんはいつ頃から幕府からの独立を考え始めたのか?」

「玉縄城は宗瑞が築いた城ではなかった…」

「早雲こと宗瑞の履歴についての講演会(相模原)2019」
「マリコ・ポーロ の「伊勢宗瑞(早雲)の履歴書」」

🍷 当ブログを始めた頃(13年前)は、新九郎さんのことを書いていました。今よりもっと知らない頃に書いたのですが、その頃のパッションを残したくコッソリ修正をしないでおります。あまーい目でご覧いただけだら嬉しいです。

「ディスカバー 伊勢新九郎の相模へ」
「伊勢新九郎 湘南ボーイへの道」
「‘元祖 義’ 伊勢新九郎の韮山へ」
「伊勢新九郎さん in 駿河の巻」
「伊勢新九郎さん 伊豆で温泉にはいるの巻」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2022年5月11日 (水)

続・まだまだ病みつき!中国の時代劇

マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。北条支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。
詳しくはこちらで →「販売します 『北条五代の娘たち』」


最初に悲報😢
再来年の大河ドラマは、紫式部だそうな。


さて…

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~我が家のニャンコ🐱のしっぽ~


♪ テーレビばっかり観ていると
いーまにシッポがはえてくる ♪

なんでしたっけ?この歌。


TokyoMX で今放映している、「大明皇妃」は凄いドラマです!

私は前回のBS12で観ましたが、装束、セット、戦や軍議のシーンが素ん晴らしく、もう本当にこれがテレビドラマとは驚きです。超大作の映画みたい。映画館の大スクリーンで観たいものです(それは長すぎ💦)。


まーあ、だまされたと思って一度観てみてくだされ。おおよそ史実に沿っているから(たぶん)まだ追いつけると思いますし、これまでのストーリーはホームページに。

これからも、皇帝がオイラト(平原の遊牧国家)の捕虜となる前代未聞の出来事(史実)でまだまだまだまだドラマは盛り上がりますよん。


「ミーユエ(宣太后)」の時もでしたが、中国王朝と敵対する遊牧民の主要メンバーが「マスケティアーズ」みたいでカッコイイったらないのですよ。中国時代劇は馬を扱うシーン(CG多用アクロバット馬術ではないドラマの場合)が多く、それがまた見事!

そういえば、「ミーユエ」では、様々な儀式の式次第のシーンがしっかり描かれていましたね。時代考証が合っているかどうかマリコ・ポーロには分かりませんが、紀元前にあれほどの文化が花開いていたとはと興味深く観ていました。

それぞれのドラマには、屈原、張儀、李白などなど耳に覚えのある文化人達もたくさん出てくるところも楽しいです。


今観ているのは「司馬懿 軍師連盟」。最初は似たようなメンズばかり出てきてよく分からなかったのですが、観続けていれば分かるようになるだろうと観ていたら、だんだん次回が楽しみになってきました。私が司馬懿にもっていたイメージとは随分と違う司馬懿で、それもまた面白いです。

「大明皇妃」「ミーユエ」などと同じく、お化粧臭いイケメンや女優さんは出てこず、イケオジ(イケてるオジン)が多くて、CG多用のアクロバット殺陣も少なく、バックに音楽や効果音が常に流れていることもありません。ラブロマンスや側室同士の争いがメインでないところも良いです(マリコ・ポーロ もう若くないのでラブロマンスドラマに萌えない)。

転びそうになったヒロインの腕をハシッととらまえてクルッとまわし、胸に抱きかかえたところに歌謡曲が流れる…なんて中国ラブ史劇お得意のシーンも無いし。


この3年間でどれだけ観たのだろうと自分でも知りたく、時代順で以下に書いてみました。他にも2-3回でリタイアしたドラマがいくつかありますが、我ながらドびっくり~😲。それも中国の時代劇って長いのですよ。70回と80回なんてザラ。日本では、大晦日も元旦も関係なく平日毎日放送があります。

前にブログに書いた時のベスト1は「三国機密」でしたが、今のベスト3は、①大明皇妃 ②如意伝 ③三国機密 ④ミーユエ になりました。

ずいぶん勉強しましたよ~。ウィキペディアで……テヘヘ😜。


▲ ミーユエ(宣太后/秦/紀元前475~221年頃?)
▲ 麗姫と始皇帝(秦)

▲ 三国機密 Secret of Three Kingdoms(三国時代)
▲ 司馬懿 軍師連盟(三国時代)

▲ 独弧伽羅(南北朝~隋)

▲ 武則天(唐)
▲ 麗王別姫(唐)

▲ 大明皇妃(明)

▲ 如懿伝(清)
▲ 花散る宮廷の女たち(清)

▲ 花不棄(架空/不明)
▲ 白華の姫(架空/不明)

少し毛色は違いますが、
▲ 君、花海棠の紅にあらず(1930年代の北平)


↑ 時代の順番合ってる?
それぞれ時代によって装束、宮廷衣装や甲冑などが違っているのにも興味を持ちました。


📺 オマケ

ミステリーと銘打ちながらまったくミステリーではない日本のドラマ(私感)は観ませんが、海外、特にイギリスのミステリーはよく観ています。

ホームス、ポワロは言わずもがな。
フォイルさんや、モースさん(若い時の)や、シャーロックも好きです。今は、19世紀のトロントが舞台のBS4「刑事マードックの捜査ファイル」(カナダ)のマードック刑事が好き。英国領だったトロントの雰囲気が珍しいです。

また、BS11「ヴェラ」(英国)、BS11「私のおばさんは推理作家」(英国)もなど面白く観ています。「私のおばさん…」はコメディタッチかと思ったら、ぜんぜんシリアスでした。なぜ軽いタイトルを付けたのだろうと原題を見たら、「Queens of Mystery」。うーん、どっちもどっ…ゴニョ。

どれも少し重いけれど後味悪くはないです。とにかく面白い。


ドラマではないですが、『関口宏のもう一度近代史』が終わり、このあいだから始まった『一番新しい古代史』も興味深いです。

今は「仁徳天皇陵」ではなく「大山古墳 」、「大和朝廷」ではなく「ヤマト王権」なのですって?!古代史は好きなので少しは知っているつもりでした。しかしそれは大昔の知識で、今は知らないことばかり(恥💦)。


と、つらつら自分の好みと私感を書き連ね(いつも)失礼しました~。
お!
シッポがはえてきちゃってる!😲


🍷 前のブログ記事
「病みつき!中国の時代劇」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2022年5月 9日 (月)

鶴岡八幡宮 ~ 折れた大銀杏

 マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。詳しくはこちらで →「拙本『北条五代の娘たち』の販売」


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~2015年5月~


🌸 アナザーブログ「萩よりほかの花も見るべく-萩のつゆ」(記事数54)を徐々にマリコ・ポーロ へ移しております。


大河『鎌倉殿の13人』ですが、なかなか主役が主役になる段にならないですね。本題の北条義時殿の時代は半年間ということになりますな。

当初は連呼される「北条」に違和感を感じ、こりゃあリタイアだと思いました。しかし、家族が観ているのを横目で観ていたらだんだん面白くなってきて、先日、一応録画していたここ数回をじっくり一人で😊一気に再見してしまいました。


逆に、今まで観ていた我が親や叔母や高齢女子の友人達は、誰が誰やら分からないとか、身内や仲間内で殺しあってばかりで見ちゃいられんと、観なくなってしもうた。

確かに~。三谷幸喜氏の脚本なのでそんなに血で血を洗う的な描き方にはならないと思っていたけれど、洗っていますものね。これからもっともっと洗いまくるのが、鎌倉です。(マリコ・ポーロ けっして血で血を洗う時代劇が好きなわけではない。)


さて、こちらも本題。大銀杏のこと。

以前のいくつかのブログ記事を、花ブログの方で加筆しまとめたものです。


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~在りし日の大銀杏(幹)~


まだ夜も明けやらぬ暗い境内。

轟音に驚き駆けつけ、ライトで照らし出された先にあったのは壮絶な大銀杏の姿。強風の中ただ呆然と立ち竦んだであろう、その時の神職たちの衝撃を想像すると鳥肌がたつ。

2010年の春、樹齢千年ともいわれた鶴岡八幡宮の大銀杏は折れて倒れた。


実朝暗殺は800年前。

昔、この大銀杏の樹齢をよく知らなかった頃、たとえ「言い伝え」としても、はたして当時この銀杏は人が隠れられるほどの太さがあったのかと尋ねたことがある。

「(本当に公暁がこの木に隠れていたかどうかは分からねど、)樹齢千年だから当時でも200年。充分隠れられる。」という八幡宮関係の方もいれば、八幡宮裏に代々住む友人や観光ガイドさんは、「二代目という話も聞く」と。

最近では、公暁は銀杏に隠れていたのではないという話も聞く。


ちょっと余談だが、
これを書いていてイチョウを「銀杏」「公孫樹」のどちらにするか迷った。園芸のHPを見てみた。

どちらも中国語からきていて、「銀杏」は実の形が杏子(あんず)に似ていること、「公孫樹」は植えた人の孫の代になって実が食べられることに由来するとあった。


へえ~~ (´∀`)

ってことは、どちらを使ってもいいってこと?分からんが、八幡宮さんが「銀杏」を使ってらっしゃるのでそれに倣った。


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~頼朝手植えと伝わる海南神社(三浦三崎)の樹齢800年と伝わる大銀杏。魔王が両手を広げたよう。~


ダーウィンは、イチョウを「生きた化石」呼んだそうな。なんでも、地球上で植物が繁茂したジュラ紀の植物は、イチョウ以外はすべて化石となっているからなのだそうな。

へえ~~ (´∀`)
だから、イチョウは神の木としてあがめられるのかもしれない。


大銀杏は、実朝の暗殺も、西行が遊んでいる子供に銀の猫をあげちゃったのも、鎌倉が衰退し悪党(歴史用語の悪党)達が神宝や御正躰を盗んだのも、新九郎さんや里見の侵攻も、小田原北条の大再建事業も、上杉謙信が関東管領就任式で成田殿を扇子で打ったのも、芳春院さまが息子義氏と共に公方就任パレードを行ったのも……

みんなみんな見ていた。


上にも書いたように、八幡宮の大銀杏の樹齢については諸説ある。でも、長~い歴史の八幡宮の境内に立ち拝殿を背景にしたこの木を見ると、その神々しさの前では八百年だの千年だの、そんなことはもう大して重要ではないことのように思える。

例え二代目だろうが三代目だろうが、「記憶」は初代から受け継がれて今の大銀杏に宿っている……

そんな風に思ったりなんかするのだよ。


🍷 鎌倉のことを書いたブログのほんの一部なり

「氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」」

「北条氏綱が鶴岡八幡宮へ奉納した太刀」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-6e31.html
氏綱の鞍 「ススメ!小田原北条氏展」 馬の博物館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/at-e4d3.html

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2022年5月 4日 (水)

小田原北條五代祭りオンライン配信(2022)

マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。詳しくはこちらで →「拙本『北条五代の娘たち』の販売」


さて…

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~新九郎さんは五代祭りの時だけ金色の陣羽織(数年前に撮った)~


その前に…
北條五代祭りの日は氏康の弟、為さまの命日でもあります。こちらも是非→「北條五代祭りの日は、北条為昌の命日なのです」


本題。
3年ぶりに開催された「北條五代祭り」は、今年から「北條五代歴史と文化の祝典」と名称も内容も変わったようです。「祝典」になったのですね。

思い起こせば……生まれていないのでよく知らないですが(え?😜)、牧伸二さんがお殿様をされていたかつての「お城まつり」から随分と時代に合わせて進化してきているのですねえ。


私が知っているこれまでの「北條五代祭り」は、銅門広場にて超個性的なコスプレをした観光協会会長さんによる出陣式から始まっていました。今年はコロナ禍のためもあり新築の三の丸ホールでのスタートなのです。

会長さんも、蒲鉾屋さんから外郎屋さんに変わったのですね。外郎会長さんはコスプレはせずスーツに陣羽織。出陣式ではなく「祝典」だからでしょうか。


武者パレードも縮小はされど、復活!

そして三の丸ホールでは、小和田哲男氏や、外郎会長さんいわく「小田原市の歩く文化財」😲諏訪間順氏によるシンポジウムと基調講演が行われたそうです。MCは、「お江戸に恋して」などでおなじみの堀口茉純氏。

それらの模様がオンラインで配信されています。

「ホールイベント第1部」

*私のPCだと冒頭9分ぐらいは画面が動きませんが先に進めると始まりました。


しっかし…
「障子」が分からない世代が増えてくると、なんと表現したらよいのか。「ワッフル堀」ではオッサン…いや、高齢のジェントルマン方が分からないですし🤣。そういやあ、すでに数年前に、「二重戸張」も、ふたえ?とばり?何それ?もう誰も言わないよって言われちゃいましたし🤣。後付けの名称も概念用語も、時代に合わせて変えないとだめなのかな。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2022年4月26日 (火)

その梶原は、景時か?小田原北条の家臣か?

マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。


さて…

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~梶原景時の墓と伝わる萬福寺(太田区)の石塔~


馬込。
ゆったりとした大きな家が立ち並ぶ今の住宅地からは想像しづらいですが、名前からも分かるようにかつては武蔵荏原の馬の産地だったそうです。

ご存知、梶原景時の息子景季の「宇治川の先陣」で知られた名馬 🐎 磨墨(するすみ)は馬込の産だとも伝わっています。


東京の方以外には馴染みがない地域だと思いますが、馬込は大田区の北部にあたり、武蔵野台地の突端です。明治~昭和初期にかけては文士や芸術家たちが移り住み「文士村」と呼ばれた所で、郷土博物館発行の「文士村ガイドブック」などを見ながら旧宅を巡る散策は楽しそう。

また、馬込は太田道灌が江戸城築城の候補地のひとつにあげた場所で、扇谷の定正が荒川で横死したあと新九郎さんがここで一戦、敗走😢。曾孫である我らが北条氏照が馬込の農民に出した指令書も残っています。



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~萬福寺門前の磨墨像~


先日、親の知人で馬込の超高級高齢者施設で暮らしている方への届け物を頼まれて(面会は不可)馬込へ行きました。いまだ逼塞中の身。せっかく馬込に来たのだから、なにか戦国時代の名残はないかと検索したところ、梶原氏の「馬込城」という城跡があるのを見つけました。

道灌がやめた馬込に城があったとは😲!

知りませんでしたよ~。いつの城?誰の城?


🐎 湯殿神社 / 馬込城跡

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~本殿はこんなに高いところにある~


馬込についても梶原景時についても、手持ちの資料がまったく無いので、馬込城については現地の説明板や大田区のHPを、神社とお寺についてはHP「猫の足あと」さんを参考にしました。

城は今の湯殿神社と隣の湯殿公園を中心に郷土資料館も含むかなり広いエリアを有し、城の主は、小田原北条の家臣「梶原助五郎三河守」とのこと。


馬込は今でも非常にアップダウンが激しい土地で、湯殿神社は一番高い所にあり、かつては周囲には沼が点在していたようです。

『新編武蔵風土記稿』に「小名根小谷梶原屋敷の内にあり」と書かれた館があったとされる神社隣の湯殿公園あたりは、昔「根古屋谷」と呼ばれていたそうです。


城とはいえ、ちょっと大きめの館があったぐらいの規模だろうと最初は思いましたが、そうでもなかったみたいですね。また、助五郎殿は『所領役帳』にもあるように、馬込が所領でした。

馬込の梶原助五郎三河守については諸説あります。


● 梶原景時の末裔だ!説

今、千葉広常とともに話題沸騰の梶原景時。その末裔だというのです。

これについては分かりません。本当に末裔かもしれませんし、たまたま同じ名前なので後世の誰かが勘違いしたかもしれません。もしかしたら、助五郎殿の家に伝わってきた話だということもあります。


● まさに景時自身だ!説

時代は随分とさかのぼってしまいますが、景時は「助五郎」ではなく「平三」なので違うと思います。

もっと海の方(現在の海)へ行った大井(品川区)にも、梶原稲荷神社・梶原塚・来福時など梶原景時ゆかりと伝わる寺社があります。行ったことはないです。


● 小田原北条水軍の梶原氏の一族だ!説

水軍の梶原吉右衛門尉は「三河守」ではなく「備前守」です。そして、水軍の梶原氏は紀伊に本拠地があり、北条では三浦群の小坪や横須賀などを所領に貰っています。どーも馬込は関係なさそうです。

吉右衛門尉も梶原景時の子孫という話も聞きますが、助五郎殿と同様それは分からないようです。


🚢 またまた余談

小田原北条に重用された水軍の梶原氏については、真鍋淳哉『戦国江戸湾の海賊』2018 に詳しく書かれています。

梶原水軍は「傭兵」だったのですってね。だから、遠山さん等と取り交わした書状で、紀伊に行くことを「帰国」としているのですね。知りませんでした。家臣だと思っていましたわ。


🐎 梶原景時の開基と伝わる「萬福寺」

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湯殿神社から郷土博物館の前を通り、歩くこと7-8分。都心の真ん中にこんな素敵な茅葺の山門があるなんて!たいそうな高台にあり、境内からは住宅密集状況(?)が見晴らせます。

開基は建久年間(1190~1199)梶原景時によるとあります。もとは、上 ↑ に書いた大井のあたりにあったものが、6代景嗣(だれ?)の時に今の地に移転したとあります。


さはそうらえども、
お墓の地輪の部分には「萬福寺殿」と刻まれているのですが(トップの写真を拡大すると見えますかね)、『新編武蔵風土記稿』や『大田区の寺院』によると「萬福寺殿」とは助五郎殿の法名で、助五郎殿はお寺の大旦那だったとあります。

『新編……』には、助五郎殿が「先祖梶原景時を慕ひて其の名を冒し…」と、助五郎殿は梶原景時の子孫だとしています。

また、大田区指定有形文化財として16世紀前半の作りの馬具(鞍・鐙・轡)が残り(非公開)、教育委員会の説明板には「『新編武蔵風土記稿』に記される梶原三河守所用のそれにあたる可能性がある」とありました。


またまた余談ですが、境内から、元徳2年(1330)位~明応2年(1493)までの板碑が約50基発掘されているそうです(未公開)。すごい!!


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~お寺の中は梶原氏の「丸に並び矢」の紋だらけ~


と、馬込の梶原氏が鎌倉時代の梶原景時なのか? 戦国時代の助五郎三河守なのか? 梶原助五郎三河守は景時の子孫なのか?違うのか?
ハッキリしたことは分からないままです。

でも、たまたま行った場所が、家臣とはいえ小田原北条に関係あったとは嬉しいかぎりなり。


🍷 伊豆や鎌倉のことはたくさん書いてきましたが小田原北条のことばかりなので、こたびは以下だけ。

「小田原にある、巴御前開基の寺」
「頼朝の伊豆山権現(熱海)」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2022年4月12日 (火)

『桜の森の満開の下』~吉野の白山桜

マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。


さて…

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~心にかかる み吉野の山(デジカメもスマホも無い時代に撮った写真を、撮った)~


▲ 白山桜(シロヤマザクラ)

吉野の桜と聞いて真っ先に浮かぶは、坂口安吾「桜の森の満開の下」。遠い昔。小説を読んだ時はさほどではなかったのだが、映画を観た時には、それはそれは強烈なインパクトをうけた。

主演は、若き岩下志麻さんと若山富三郎さん。吉野ロケの満開の桜と、志麻さん演ずる怪しく美しい女が謡った今様が忘れられず、今でも桜を見るとその今様を口ずさんでしまう。

仏はつ~ねにい~ませど~も
うつつならぬぞ あ~われな~る
人の音せぬあかつきに~
ほのかに ゆ~めに見えたまふ


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~上千本の水分神社~


映画の最後のシーンの怖い怖い桜吹雪の中に立ってみたくて 心は身にもそわずなりにき(西行)となり、桜が散る頃に吉野へ行くのが夢だった。

当時はインターネットがそんなに普及していなかったので、何年もにわたり吉野町役場に「咲いてまっか?」と電話をし、「下(しも)は咲いてまっけど、上(かみ)はまだでんな」とか「下と中は終わってまっけど、上は咲いてまんがな」とかのお答えをいただいたりしていた(注・役場の方はそんな言い方はようせーへんです)。


そんなこんなしていたある年のこと。やっと、下千本は散り始め、中千本・上千本の桜🌸が満開の時に行くことが出来た。

まーあ、それはそれは大層な人出で、関西言葉が飛び交い山中のどこもかしこも、うるさ…ちゃうちゃう✋賑やかなことったら。


ロープウェイに乗るのも長蛇の列。しかも、いざ乗るとなった段、今まで並んでいたのは何だったのぉ?のごとく、どやどやどやっと順番もなにも関係なくグチャッと乗り口に殺到。

「〇〇ちゃん、乗ったか~?」
「△△さーん、ここにおるで~」

と大騒ぎの中、私達もわやわやと押されながらいつの間にかロープウェイの中へ。


見下ろせば眼下は桜色に染まり、皆、この人混みに押されることさえ浮かれ気分に拍車がかかるよう。


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黒門から上千本まで歩いて登りながら、カーブを曲がるごとに、「わあ!綺麗やなぁ」、「こっちの方がもっと綺麗やで!」、「あっちが一番綺麗やん?!」とすっかり関西言葉(大阪か京都か奈良かは不明💦)が感染った私達も大はしゃぎ。

陽気な吉野山には怖さのヒトカケラも無く、大海人皇子の決意も、南朝や静御前の悲哀も、西行の風雅も感じることはできなかったが、それでも余は満足であった。


🍷 アナザーブログ「萩よりほかの花も見るべく-萩のつゆ」(記事数54)を徐々にマリコ・ポーロ へ移しております。


🌸以前のブログ記事から
「西行 小夜の中山越えてゆく」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2022年4月 6日 (水)

早雲こと宗瑞の履歴についての講演会(相模原2019)

マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。


さて…

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~レジュメ、とっておいてよかった~


某番組を観て、坂東以外&小田原北条の専門ではない研究者の方達の認識はまだまだそういうものなのかと驚き😲、思わず『マリコ・ポーロ の「伊勢宗瑞(早雲)の履歴書」』を書いてしまいました。

そこで、「北条早雲没後500年」の一環として2019年に相模原市立博物館で催された連続講座のことをブログにまだ書いていないことを思い出しました。


私が拝聴したのは連続講座の2回目で、沼津市教育委員会の木村聡氏による駿河時代の北条早雲ー旗揚げの城 興国寺城を中心にー』です。

ブログに書かなかったのは、諸説ある、新九郎さんと興国寺城の出会いのことが引っ掛かかっていたからです。いまだによく分からないので、「興国寺城を中心に」の講座ではありましたが講座前半のことだけを書こうと思います。


数年前の記憶ゆえ間違えたら申し訳ないので、レジュメと雑なメモを見ながら少しだけ。

お話の前半は、新九郎さんの年齢や出自や職歴に、「今の決着がつくまで、どういう経過をたどってきたのか」についての解説でした。


🐎 最初に
「駿河と伊豆と、宗瑞の主体性はどこにあったか?野望はあったのか?」
とおっしゃっていました。

お!これは、マリコ・ポーロが最近気になってしつこく書いている、新九郎さんはいつ頃から幕府や今川や伊勢宗家からの独立を考えていたか?に繋がりますな。


🐎 年齢、出自、職歴についての説の経過

今の共通認識となっている新九郎さんの履歴については、研究者の間では 1950年代 から分かっていたことで、79年頃には確証となったそうです。

司馬遼太郎の『箱根の坂』の出版は、82-3年のこと。徹底的に調べて小説の参考とする司馬遼太郎氏がこれらをまったく知らないわけはなく、少しは知っていただろうとのこと。


まずは、北条ファンの皆さまには今更のことですが、一応。

▲ 年齢
永享4年(1432)の生まれで、没年齢が88才。
これは江戸時代からの通説。


(現在)
康正2年(1456)の生まれで、64才没が主流。


▲ 出自
(1980年代まで)
荏原荘の土着武士説。
『太閤記』からきていて1980年代まで通説となっていた。

(20世紀前半の主流)
伊勢の豪族 関氏 の出身で、その後、荒野の素浪人…ちゃう✋伊勢の素浪人となった説。

(その後)
伊勢氏説。
江戸時代の諸系譜などの研究による。


(現在)
・伊勢氏の出身で、叔父は政所執事伊勢貞親。
・新九郎さんは備中荏原荘を所領をもつ、京都住まいのスーパーエリート。


すてきーー💓
(マリコ・ポーロ、別にエリートが好きというわけではにゃい)


▲ 職歴

(かつて)
文明15年に、51才で 足利義視 の申次衆に登用されたとされていた。


(現在)

文明15年に、28才で 足利義尚 の申次衆に登用された。これは、年齢の確定に伴う見直し。

「足利義視には仕えておらず、申次衆になったのは28才のころ。老年になってから大成したわけではない。」


司馬遼太郎の話ですが、マリコ・ポーロ 思うに、『箱根の坂』の最後はなんとなく尻切れトンボのように思えて、読後消化不良でした。

もしかしたら司馬さんは、書き進めているうちにどんどん新情報が入ってきて、年齢や出自や経歴があまりに小説とかけ離れてしまうがためにモチベーションが下がってきてしまったのかもしれないとも思いました。まったくの憶測ですけれど。


🐎 マリコ・ポーロ のオマケ
▲ 北川殿
(かつて)
新九郎さんの とされていた。


(現在)
姉 が定説。
職歴と同じく宗瑞の年齢の確定に伴い、北川殿が嫁いだ時、新九郎さんはまだ13才とみられることから。


🐎 興国寺城のこと

このあと、「伊勢新九郎盛時の駿河下向」についてのお話になり、後半は本講座タイトルにもある興国寺城のことへと続きます。


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以前のブログにチビット書きましたが、皆さんご存知のごとく、氏親様を当主に据え河東を制圧したあとに新九郎さんが今川で最初にもらった城が興国寺城なのかどうかは諸説あります。

興国寺城を新九郎さんがもらったことは、江戸時代の今川家の記録や『北条五代記』などに書かれていますが、現代の考古学からすると、「宗瑞の存在は分からないが、拠点化し始めたのは15世紀後半で、急にすごく使われている」のだそうです。


興国寺城はその後、中村氏(豊臣家臣)、天野氏(徳川家臣)によって使われていますが、慶長12年に廃城となりました。


🍷 以前のブログ記事

「マリコ・ポーロ の「伊勢宗瑞(早雲)の履歴書」」

「今川義忠への制裁に宗瑞が関与していた?~家永遵嗣氏寄稿より」
「① 新九郎さんはいつ頃から幕府からの独立を考え始めたのか?」
「② 新九郎さんはいつ頃から幕府からの独立を考え始めたのか?」
「細川政元はなぜ新九郎さんを外したのですか?」

「北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作」

「伊勢宗瑞(早雲)が焼いた鎌倉の寺々」
「宗瑞・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏「願成就院」」
「伊勢宗瑞(早雲)が開基した大船のお寺」


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2022年3月23日 (水)

玉縄城は宗瑞が築いた城ではなかった…

マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。詳しくはこちらで →「販売します 『北条五代の娘たち』」


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~玉縄城のあまたの竪堀(黄色線)~


知らなかった……

玉縄城を最初に築いたのは 山内上杉 だったのですか!!

新九郎さんが、岡崎城を攻略した後、鎌倉街道を守り三浦に対抗するために築いた城だとばかり思いこんでいました。

ドびっくり~😲 皆様はとうにご存知でしたよね~。


某番組に驚いて書いた前々回のブログ記事『マリコ・ポーロ の「伊勢宗瑞(早雲)の履歴書」』の最後で、次回は宗瑞の経歴に関係する相模原市での講座についてでござるなどと申しておりましたが、気になることが次々と浮かんでしまいまして、またまた先延ばし。


玉縄の築城者のことは、則竹雄一『古河公方と伊勢宗瑞』2013年 を再読していて気が付きました。今更💦。

アチコチのページを拾い読みしていた時、P121 に「(明応3年、扇谷が)9月19日には相模国玉縄要害(鎌倉市)を攻略した。」とあったので、あれ??と思ったのです。玉縄城は永正時代の築城じゃなかったっけかしら??と。

それは、前にブログに書いた、北条氏照の介錯人は「伊勢大和守」だとの不思議なことが書かれている『石川忠総留書』にあるそうです。

歴友師匠が「玉縄築城のことは『関東の名城を歩く』2011 に書かれているよん」と教えてくださったので、引っ張り出して見てみました。

書いてありましたよぉ…伊藤正義氏が。それも冒頭に「…山内上杉氏が築いた丘陵城郭で…」と。

気が付きませんでした……というか、そもそも読んでいませんでした(読んだ所は鉛筆で線だのマークだの書き込みがしてあるが、玉縄城のページにはそれがまったく無い😓)。なんと築城は約50年も遡ってしまうではありませんか。


築城年ははっきりとは分からないが、大庭城よりは少し早く、「鎌倉の北側の出入り口を抑えて、鎌倉公方に圧力を掛けるために関東管領山内上杉氏が築城したのであろう」ともありました。また、大庭城のところにも玉縄築城のことは詳しく書いてありました(同じくワテ読んでにゃい)。

その後、新九郎さんが「主郭部付近一帯」を大改修したと推定されるそうですねえ。


どうして新九郎さんが築いたと思いこんでいたのだろう?

北条に興味を持ち始めた十数年前、ネットを開くと「北条早雲が築城」とたくさん目に入るので、その字面が目に焼き付いてしまい、疑いもせで。以後、山内が築いたと書いてある研究本をどれだけ読んでも読み飛ばし、聞いても聞き流ししていたのでしょうねえ。


あらためて他の研究者の方達の本で、手持ちの比較的新しめの8冊を見直してみました。明応3年に扇谷上杉が玉縄要害を落としたことが書かれていたのは、下山治久『戦国北条氏五代の盛衰』2014 だけでした。同じく『石川忠総留書』からでした。

P18「…同(明応3年)19日には(宗瑞に)同調して扇谷上杉定正が同国の玉縄要害を攻めた。」と下山氏は書いてらっしゃいます。


下山氏も則竹氏も伊藤氏も『石川忠総留書』なのですね。『留書』の信ぴょう性は私には分かりませんし、新九郎さんが援軍してきたのは、玉縄攻めの後か、または玉縄攻めに参加したのかどうかも私には分かりません。

ネットで文書を見ても、古文書が読めないので💦原文にはどう書かれているかも私には分かりません。(加筆。黒田氏の『伊勢宗瑞』にも書かれていました。新九郎さんが相模に援軍してきたのは、玉縄攻めの後になっていました。』)


この十数年ブログに玉縄のことを時々書いてまいりましたので心配になり、チェックしました~。拙書「北条五代の娘たち」で書いた大頂院様(綱成に嫁いだ氏綱の娘)の項はセーフ😌でしたが、ブログ上で気になった箇所には、山内上杉の可能性を加筆しました。あとは大丈夫かなぁ。

🍷 以下

「玉縄城下の探索会へ(2019.11)」

「玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ」2011
「玉縄城-2 現代の難攻不落の城へ」2011
「玉縄城-3 現代の難攻不落の城へ」2011

「玉縄主催セミナー 「まだナゾだらけ戦国時代の鎌倉」」

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」2012
「為さま(北条為昌)の菩提寺探しに、お助け本が!」

「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッきた氏綱正室の出自」
「前編~玉縄の北条為昌&氏綱正室・養珠院の謎」
「後編~玉縄の北条為昌&氏綱正室・養珠院の、謎」
「香林寺の開基は、氏綱公ご正室?為昌殿正室?」


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2022年3月15日 (火)

小野正敏氏 講演「本佐倉城 」配信!

マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。


相模原市立博物館の講座のことをアップする予定でしたが、高札でこれを知りました。期間限定配信なので先に書きまする。

小野正敏氏 の講演会を佐倉市生涯学習さんが YouTube で無料配信(レジュメ付き)してくださっています。演題は「城と城下にみる戦国大名の権威-本佐倉、小田原、甲府-」。配信期間は 3/12~3/25 です。


私はお城の縄張りにも興味がないことはないですが、どちらかというと系図や、館・城下の機能の方に興味があります。

小田原のことは2018.11 の講演会(文末添付)と重なるお話も少しありますが、松原明神周辺や、やはり「早川の機能」のお話がもっと詳しくて興味深かったです!鉢形城のことも例に出してらっしゃいますよ。

こちらです→「本佐倉城跡講演会 期間限定配信中」


🍷 以前の拝聴した小野先生の講演会のブログ記事

講演「戦国時代の「城館」とは?の」小野正敏 2013
「講演会「中世東国史の軌跡と未来」2014」

「シンポジウム「小田原北条氏の絆」 2018.1
「シンポジウム「戦国都市小田原の風景」 2018.11」


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2022年3月11日 (金)

マリコ・ポーロ の「伊勢宗瑞(早雲)の履歴書」

マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。


東日本大震災で犠牲となられた方々のご冥福と被災された地の更なる復興を心よりお祈り申し上げます。


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~今は無き銘酒「火牛」~


こたび某番組とそれに対するSNSなどを見て、小田原北条好きでないと昔の認識の方達がいまだに多いことを知りました。そういえば数年前の某情報メディアでも、他の歴史家の方が「北条早雲は伊勢の素浪人だった」と書いてらっしゃいましたっけ。

並列で書くのもおこがましいですが、私も北条に興味がなかった十数年前までは昔の通説しか知りませんでした。それこそ、荒野の素浪人だったとまでは思っていなかったですが、新九郎さんは50歳過ぎてから歴史の舞台に現れ、たいそう長生きをしたと思っていました(恥ずかち)。


そこで、ここ数十年で通説とされ、今の時点での最新の新九郎さんの履歴書を、先日の履歴書😝にのっとり、記載されている経歴とそれに関係する事柄のみ記してみました。

自分の記憶と思い込みだけでは不安なので、手持ちの、北条研究ではお馴染みの家永氏、黒田氏、浅倉氏、則竹氏、森氏ほか小田原市の学芸員さん方などなどの比較的新しい本の、系譜に関するところを再読し確認しました。

以下。


▲ 姓名
伊勢新九郎盛時
~出家後は伊勢早雲庵宗瑞

▲ 生年月日
康正2年(1456年)
*新九郎さんのその後の経歴、生まれの干支が子年(『異本小田原記』)、過去帳などから

▲ 出身
京都
~家系的には備中国荏原郷


▲ 経歴

・1456年(康正2年)
1歳
幕府の高級官僚伊勢盛定の子として誕生

・1474-77年(文明6-9年)
20歳前後
家督を継ぎ幕府直臣となる


*1476年(文明8年)今川義忠横死により今川家家督争いがおきる。この時、新九郎くんが直接かかわったかどうかについては所説あり。
黒田氏は、新九郎くんがかかわったというのは江戸時代の軍記物の話で、「実際の事態の経緯とは整合せず、後世における混同ないし創作によるものである。」(『戦国大名・伊勢宗瑞』角川選書2019)としている。



・1483年(文明15年)
28歳
将軍足利義尚(義政の子)の申次衆となる

・1487年(長享元年)
32歳
駿河下向 小鹿方を討ち氏親を据え今川家の家督争いを決着
*下向時期には所説あり


・1491年(延徳3年)
36歳
在京、将軍義稙(義視の子)の申次衆となる
*『北野社家日記』による/ 新九郎さんは北野社の申次でもあった


・1492年(延徳4年/明応元年)
37歳
堀越公方足利政知死去

・1492-3年(明応元-2年)
37-8歳
申次衆から奉行(在国奉行か?)へ異動 /ふたたび駿河下向


・1493年(明応2年)
38歳
伊豆出兵 茶々丸を追う💥
*幕府の指示だったかどうかは諸説あり


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・1495年(明応4年)
40歳
伊豆韮山城を本拠地とする!
この頃出家か?

・1498年(明応7年)
43歳
茶々丸を滅ぼし伊豆をゲット

*明応の大地震と台風 / 翌9年 相模湾地震


・1501年(明応9年/元亀元年)頃までに
46歳頃までに
小田原城をゲット

*小田原城奪取については諸説あり。こと小田原城奪取の火牛の計🐄や鹿狩りの勢子にいたっては、江戸時代に書かれた物語の創作だということは書くまでも、にゃい。書いたけど。


着々と相模を侵略

・1516年(永正13年)
61歳
三浦氏を滅ぼし相模をゲット💪

・1518年(永正15年)
63歳
嫡男氏綱に家督を譲る


1519年(永正16年)
64歳
伊豆韮山にて永眠

以上


再確認作業は面白く、今更知ったことや忘却していたこともあり勉強になりました~。またすぐ忘れちゃうと思うけど…テンテンテン。

次回は、宗瑞の履歴書にまさに関係する、2019年に相模原市立博物館で催された沼津市教育委員会の木村聡氏による講座駿河時代の北条早雲ー旗揚げの城 興国寺城を中心にー』です。ブログに書き忘れておりました。


🍷 以前のブログ記事より

「北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作」
「伊勢宗瑞(早雲)が焼いた鎌倉の寺々」
「宗瑞・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏「願成就院」」
「伊勢宗瑞(早雲)が開基した大船のお寺」

「今川義忠への制裁に宗瑞が関与していた?~家永遵嗣氏寄稿より」
「① 新九郎さんはいつ頃から幕府からの独立を考え始めたのか?」
「② 新九郎さんはいつ頃から幕府からの独立を考え始めたのか?」
「宗瑞は京で失脚したため駿河へ下った!?~森幸夫氏」
「宗瑞を圧迫した立役者、赤沢朝経~家永遵嗣氏 講演」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2022年3月 6日 (日)

『偉人・素顔の履歴書』には驚きました

マリコ・ポーロ


ウクライナが大変な状況の時に恐縮ですが…

3月5日放映された BS11『偉人・素顔の履歴書』「戦国の先駆け・北条早雲編」をご覧になりましたか?


呼ばないでって言ってるのに🤣「早雲」の連呼や、北川殿が宗瑞の「妹」は許せても、享年88才・大器晩成・鹿狩りの勢子は…。


駿河下向が45才?
応仁の乱で京にいられなくなった者たちが京で暮らしていけなくなり全国へ散ったが、早雲(宗瑞ですよ!)もそうだった?宗瑞が駿河へ下ったのは、応仁の乱が原因?まだ少年なのに…。

そして、52才で義尚の申次衆に?
50代で将軍の申次に就任するなんてありますかね?


トドメが、小田原城奪取に鹿狩りの勢子!?


まだまだありますが、ドびっくり~😲いつの時代の歴史バラエティ番組かと思いました。コメントで出演されてた方達がお気の毒だと思もっちゃいました。

早雲(宗瑞ですよ!)長生きの秘訣として、ストレスをためないこととやっていましたが、こちとら、かえってストレスが。


どうしちゃったんでしょう?この番組。こんな番組だと他の人物の回の内容も信じられないです…。

今時あきれてしまう内容だったので番組へ意見を送ろうと思ったのですが、私がしなくてもたくさん送られていそうなので送るのはやめようかとも思ったのですが、やっぱりやめようと思ったのをやめようと思います(←某CMのパクリです😝)。


見逃し配信をYouTube で観られます→こちら


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2022年3月 1日 (火)

火急!小田原北条のテレビ (3/2・3/5)

マリコ・ポーロ


明日 3/2(水)と 3/5(土)、お馴染みの歴史バラエティ番組が小田原北条だそうです!


▲ 3/2(水)『歴史探偵』
「天下統一 秀吉の一夜城」
NHK 総合 よる10:30~

予告動画①→「再現 これが秀吉に立ちはだかった北条氏 小田原城の総構だ!」
予告動画②→「伝説の一夜城 秀吉の白壁マジック 」


某所(遺構が無い場所)に障子堀を再現!
キッチリ、カッキリした氏政さん好みの障子堀です。すごく羨ましい。我が家の周りにも欲しい→領地が狭くて無理😢ですが、このあと壊しちゃうのかな…。

(加筆。記録を取り、転圧して埋め戻したそうです。)


▲ 3/5(土)『偉人・素顔の履歴書』
「戦国大名の先駆け・北条早雲 編」
BS11 よる8:00~

加来先生なので楽しみです。


(加筆。ガッカリしました…)


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2022年2月28日 (月)

小田原北条家もお歯黒?~木五倍子(キブシ)

マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。
詳しくはこちらで →「販売します 『北条五代の娘たち』」


さて、キブシのこと……

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~キブシの元の如意輪観音観音さま~


人は「花鳥風月」の順番で年をとるとタモリさんが言っていた…と、前に柴田理恵さんが話していた。つまり、年を経るにつれ、まず「花」に興味が出て、次は「鳥」。そして「風」「月」とだんだん興味の対象が移っていくと。

タモリさんがおっしゃることにゃ、その先がまだあって、それが「石」だそうな。マリコ・ポーロ「石」まではいっていないが、すでに「月」ぐらいまでにはなっちょるか……😢。


ヌルデの木のコブを「五倍子(ふし)」と言う。お歯黒は、五倍子(ふし)を粉末にしてお歯黒水と混ぜたりして使う。木五倍子(きぶし)は、五倍子(ふし)の代用になる木なので、その名前が付いた。

な~んて知ったように書いているが、これは、いっとき輪島塗のショップで働いていた時のご当主からの受け売りなり。


『北条五大記』には、武将は戦場ではお歯黒をするよう心掛けていたことが書かれている。討ち死にし、首を取られた時に恥をかかないように。首実検の時も、死者を称えるためにお歯黒をするね。武将のお歯黒は、ただ京のお公家さんの風習にのっとったというだけではなかったのだ。

戦場でお歯黒をしていたら、強そう!我らが小田原北条の当主たちもお歯黒をしていたと聞くが、それは何かの史料に書いてあるのだろうか?


東京国立博物館には、お歯黒道具を入れる室町時代の美しい黒塗の「五倍子箱(ふしばこ)」がある。これは、後にお香合として使われたそうだ。お歯黒は風雅で格調が高かったのだね。


「木五倍子」の花言葉がふるってる。「出会い」と「嘘」。花言葉には興味はないが、なんだか……意味深い。


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2022年2月18日 (金)

細川政元はなぜ新九郎さんを外したのですか?

マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。
詳しくはこちらで →「販売します 『北条五代の娘たち』」


本題には関係ないですが、今年の東京は雪が多いので先の小田原城の雪の写真に続き八王子城の画像も1枚。

Img20131130_224922_2
~雪の大手(マリコ・ポーロが末席会員だった旧八王子城を守る会保存)~


さて、本題……

家永遵嗣氏が新九郎さんのことを「戦国大名というより将軍の側近というイメージ」だとおっしゃるのを聞いて以来、幕府官僚時代、特に今川義忠横死の頃の新九郎さんが気になっております。出たばかりの『新九郎、奔る!』9巻はまさにその頃のことで、とても面白かったです。

同じくご興味あらば、ここ最近のブログ記事を先にご覧くださいましたら助かります。
「今川義忠への制裁に宗瑞が関与していた?~家永遵嗣氏寄稿より」
「① 新九郎さんはいつ頃から幕府からの独立を考え始めたのか?」
「② 新九郎さんはいつ頃から幕府からの独立を考え始めたのか?」


上記のブログで書いてまいりましたが、新九郎さんが幕府から独立を考えるキッカケとなったのは、茶々丸の死以後、細川政元が旧茶々丸派を将軍義澄派(&自派)にどんどん取り込んでいくことにより、新九郎さんが孤立してしまったところにあるようです。気が付いたら(そうか?)ボッチ状態😢になっていたと。


そこで、ザクザク出てきた疑問のひとつ。

新九郎さんは、もともと チーム政元 ですよね。将軍義澄や、亡き義澄パパ政知(堀越公方)、もちろん伊勢宗家の仲間です。旧茶々丸派の取り込みを、なぜ新九郎さんは政元と一緒になって行えなかったのですか?


新九郎さんが後見している今川氏親が、チーム政元の斯波と遠江をめぐって敵対していたから?

それとも、一応チームでありながらも実は前から仲が良くなかったとか?このあたりの情勢に昏いマリコ・ポーロにはよくわかりません。


要!脳内整理。

チーム政元の主要メンバーの変化をちょっとまとめてみました。
(参考にさせていただいた本やレジュメ、視聴した講演会などは上記「①新九郎さんはいつ頃から幕府からの…」にズラズラズラッと挙げましたので、ご参照くだされまし。)


▲ 明応2~3年頃、政元が将軍義稙を追いやり堀越公方の息子義澄を将軍に据え、新九郎さんが茶々丸に討ち入った頃

(チーム政元)
将軍義澄、新九郎さん、今川氏親、伊勢貞宗(伊勢宗家)、扇谷上杉定正→朝良、大森、三浦、斯波、赤沢など

(チーム茶々丸)
前将軍義稙(義視の息子)、越後上杉房定→房能(房定息子)、山内上杉顕定(房定息子)、古河公方足利政氏、中部・北陸・西国の大名達など


なんとなく茶々丸派の方が多いような。義稙がさっきまで将軍だったので、その名残りかな。


▲ 明応7~8年頃、茶々丸が滅亡した後

(チーム政元)
義澄、越後上杉房能(顕定弟)、山内上杉顕定、古河公方足利政氏、斯波、赤沢、小笠原、甲斐武田、諏訪など


つまり、将軍義澄の母の仇である茶々丸が滅したことで、政元(&義澄)は山内上杉と敵対する理由がなくなったということなのだそうです。山内上杉顕定が政元に付けば弟の越後上杉や古河公方も和睦。チーム政元はどんどん増えてゆき、新九郎さんの仲間はどんどん減ってゆきます。

そして、チーム茶々丸で残された義稙は、周防の大内の元へ💨💨


▲ 文亀2年9月までの頃

(チーム反政元)
新九郎さん、今川氏親、「トリオ・ザ・扇谷」の扇谷・大森・三浦など

であったが…

斯波・赤沢らによって氏親の遠江が攻められ、赤沢の縁故小笠原により甲斐武田・諏訪が大森の御厨を攻撃。新九郎さんが武田と闘いますが、大敗。だめじゃん、新九郎さ~ん😢。


ここで大森さんはギブアップ
\(~o~)/


▲ 永正になると

続いて扇谷・三浦も山内上杉に降参。
\(~o~)/


家永遵嗣氏は、「宗瑞が文亀2年9月に(武田に)大敗を喫したことが影響して、(大森)藤頼死没の前後に大森氏が離反し、甲斐武田氏や山内上杉氏の側に転身した」としています。

そうなの…?新九郎さん、自業自得?

ついにボッチになっちゃった新九郎さんは、義稙とくっついたとさ。


いや、ちゃうちゃう✋。そんなんなっちゃう前に、そもそも新九郎さんはチーム政元に何故いられなかったのか?が、知りたいのでした。

伊豆侵攻後、新九郎さんは伊豆から京へ戻らず、すでに政元(京の幕府)とは離れていたのかな。だとすると、冒頭添付のブログで書いてきましたが、森幸夫氏おっしゃるように伊豆侵攻は政元の指令ではなかったことになるような…。それなら新九郎さんが政元の義稙派切り崩し作戦にかかわらなかったのも納得なのですが…。


その新九郎さんが、義稙と結んだメリットは?また、伊勢宗家との関係は?

うーん、分からん。明日考えよっと。


新九郎さんが義稙と結んだ2年後、なんと政元は暗殺されてしまいます。「月待ちの行水」とやら言う行水をしていたところを、絡まった養子縁組問題の反対派らに襲われたのです。

せっかく大所帯になったチーム政元は赤沢ら側近の反乱や主導権争いなどにより崩れてきており、また義稙に付く者も増えてきていたのだとな。(でも赤沢さんはじめ、その後また政元に戻っている人もいるけど。)


義澄は近江に逃亡。義稙は京に戻り再び将軍となり、15年にわたる争乱は一応終息することになるのであ~る(←大隈重信風に)。が、その後も義稙は京から逃げたりまた戻ったりを繰り返し、そのたびにアッチと組んだりコッチと組んだりと しぶとい!最後は阿波で病死なさったそうな。


新九郎さん、周りの去就ばかり伺いながら日々を送る幕府なんかから離れていて良かったね😊。


🍷 冒頭添付のほかの関連ブログなり

「宗瑞は京で失脚したため駿河へ下った!?~森幸夫氏」
「宗瑞を圧迫した立役者、赤沢朝経~家永遵嗣氏 講演」


🍷 当ブログを始めた頃(13年前)は、新九郎さんのことを書いていました。今よりもっと知らない頃に書いたのですが、その頃のパッションを残したくコッソリ修正をしないでおります。あまーい目でご覧いただけだら嬉しいです。

「ディスカバー 伊勢新九郎の相模へ」
「伊勢新九郎 湘南ボーイへの道」
「‘元祖 義’ 伊勢新九郎の韮山へ」
「伊勢新九郎さん in 駿河の巻」
「伊勢新九郎さん 伊豆で温泉にはいるの巻」


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2022年2月14日 (月)

惜別 ~ 木蓮(もくれん)

 マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。
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さて、木蓮……

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昔から住んでらした老婦人が引っ越し、解体が始まった家のモクレンです。他のモクレンは咲き始める頃でしたが、こちらはもう枯れつつありました。

長年自分を愛でてくれた去りゆく人に、咲いた姿を見せたくて早く咲いたのかな…。

木蓮は「天国に咲く蓮」ともいわれるそうですね。


最古の花で白亜紀の地層から木蓮の化石が出ているとな😲。


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2022年2月 8日 (火)

玉縄城と滝山城の情報(2022.2)

マリコ・ポーロ『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。
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本題の前に…

今日2月8日は 北条氏規 の命日です。
想いは、以前のブログ記事をご覧いただけましたら嬉しいです(文末添付)。

046
~狭山陣屋跡~やっと本題。
以下、八王子と玉縄の方から教えていただきました。


▲ 滝山城

2021年12月に開かれた、小和田哲男先生の記念講演会が You Tube で視聴できます。

10月にはジオラマ制作の二宮博志氏による「滝山城を復元するオンラインツアー」も催されています。滝山城は、コロナ禍でも可能な面白い企画を次々と打ち出してらっしゃいますね。


決死の覚悟で2回目のワクチンを接種したのに、もう3回目が迫ってきました。3回目をうったとて逼塞生活は変わらないであろう マリコ・ポーロ。そんなわらわにとってもですが、仕事や家のことで講演会に行けない方達や、これからまだ続くであろう緊急事態宣言やまん延防止で遠方への外出を控える方達にとっても、講演会をオンラインで拝聴できるのはありがたや。

コロナが無ければ、もっともっとたくさんの記念行事が出来たでしょうに…。


小和田先生の講演はこちら→「滝山城築城500年記念講演会 小和田哲男」

記念事業のHPはこちら→「滝山城築城500年記念事業」


▲ 玉縄城
企画展「玉縄城下の石塔展」パネル展示

ところ: 玉縄歴史館(龍寶寺境内)
期 間: 4月20日まで

主 催: 玉縄城址まちづくり会議


城下には、こんなに石塔が残っているのですね!ドびっくり~😲。市民の方達が学芸員さんの指導により調査・研究を行ったそうです。

詳細は市民活動センターHPに→「玉縄城下の石塔展」


🍷 命日によせる氏規さんへの想い

「菩提寺から知る伊豆への想い」
「北条氏規の大阪の菩提寺」

「江戸時代の北条家「狭山藩邸跡」」
「江戸時代の北条家、東京の菩提寺」
「江戸時代の北条家下屋敷跡「北条坂」」


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2022年1月31日 (月)

北条時長~幻庵の悲しみ

マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。北条支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。
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さて……

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~裏側は時長のプロフィール~


郵送をお願いした、神奈川県立歴史博物館の「開基500年記念 早雲寺―戦国大名北条氏の遺産と系譜―」展の図録に、北条時長 のカードが付いてきました。

このカードは、こたびの特別展にあわせて作られ、ゆかりの施設などでそれぞれ配布されたもののようです。7種類あるんですって。なんと早雲寺初代住持の以天宗清和尚カードまであります!特別展で買い求めた方のカードも、みな時長殿だったのかしら?それとも選べたのかな?


新九郎さんのカードが欲しかったにゃ…と一瞬は思ったものの、カードとして持つなら、法体でオジイサンになった新九郎さんより、烏帽子姿の若き時長殿のカードで良かったとも。新九郎さん、ゴメンナチャイ 😜。

それに、北条時長 という人はあまり知られていないので(たぶん)、このカードは北条オタクにとっては貴重だとも言えますな。


時長殿とは、北条ファンが敬慕する大長老 幻庵殿 の長男です。氏康がお酒の飲み方を諫めたという、あの三郎さんです。肖像画が若い姿なのは、若くして亡くなったから。肖像画は大概、その人の晩年や没後に描かれますものね。

時長は北条一族内でも序列が高く期待の星でしたが、家督を継いで 5-6 年で亡くなっています。一族の喪失感は大きかったでしょう。なかでも幻庵殿の悲嘆はいかばかりだったでしょう。さぞや頼りにしていたでしょうに…。


幻庵長老は一門でもたぶん最も長生きした方だと思います。しかし、以前にも書きましたが息子達には恵まれませんでした(文末添付「小机はまづ妄想の初めなり」)。

長男の時長は若くして戦死。そのあとを継いだ二男と三男は、対武田戦で蒲原城にて戦死。大河「風林火山」で、信玄殿の重臣 諸角虎定が後継ぎに次々と先立たれ、老骨の身で戦に出ていた姿を思い出します。


幻庵殿は妻も、二人の娘のうち吉良に嫁いだひとり(もうひとりの氏光妻は不明)も早くに亡くしています。

人より長く生きるということは、それだけたくさんの親しい人を見送ることになる。そして周りはみな若く共通の知人も少なくなり、ひとり年老いてゆく…。若くして亡くなった人はもちろん可哀想ですが、長生きするということも辛い…。


しかし、ご安心あれ!😊
幻庵殿の場合は、二男の子である嫡孫が成長して家督を継ぎ慶長期まで続いています。ちょっと救われた。


コロナ禍でさえなければ、宝泉寺をお参りしてこの記事を書きたかったです。
無念じゃ……


「北条幻庵の子息の菩提寺「三島 祐泉寺」」

「小机は まづ妄想の初めなり…」

「小田原の古民家で「北条幻庵の一節切」を聴く」

「今川から戻った長松院様~①北条五代の娘たち」
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」~北条五代の娘たち」

「北条幻庵の箱根神社」
「「早雲 足洗いの湯」 箱根湯本」


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2022年1月23日 (日)

② 新九郎さんはいつ頃から幕府からの独立を考え始めたのか?

 マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。
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~(前回と写真を交換しました)年号がゴチャマゼになってしまうので栞にしてみた~


このところ考え続けている、新九郎さんが<幕府><今川>そして<伊勢本家>からの独立を考え始めたのはいつ頃なのか?ということについての前回の続きです

よろしければ、前回を先に読んでいただけると助かります → 前回はこちら


まずは<幕府>からの独立を考え始めたキッカケについてですが、前回は、家永遵嗣氏おっしゃる(それは)細川政元の裏切りである」というところまででした。

先にかいつまんで申すと、その裏切りとは……

義澄(茶々丸の義弟)を将軍に擁立した政元(明応の政変)が、義澄のまわりをかためるために、それまで新九郎さんと(自分とも)敵対していた勢力をどんどん仲間に取り込み、結果、新九郎さんの仲間がどんどんいなくなってしまい、新九郎さんピーンチ!
……になったことなのだそうです。


なーるへそ~ (^.^)
ピンチがチャンス!かぁと、どこかのテレビ番組「知恵〇」のようですが納得。

ところが、念のため他の研究者の方達がお書きになったものもいくつか読んでみたところ、キッカケの時期については諸説あるようなんですね。(拝読&視聴した本やオンライン講演などなどは前回のブログをご参照くだされ。)


その中の家永氏と森幸夫氏の考察を中心に、自らの備忘のため以下に整理してみました。ことは、新九郎さんが仕えていた将軍足利義尚の死去から始まります。

長いですよん💦


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~いただいた三つ鱗のスタンプ&虎朱印を捺しまくっている~


家永氏の特別寄稿等からが、ブルー。森氏の本からをピンク にしました。時系列に沿わせて書き込んでいきます。
以下。


(長享元)
・義尚、総力戦で六角征伐にのぞむ💥
・新九郎さん、駿河にて今川の小鹿を討つ💥


▲ 新九郎さんは義尚の六角征伐に参加していない。
六角氏との関係から出陣前に申次衆を解かれ……事実上の失脚であり…京都で失脚して駿河に下向し滞在するなかで、氏親母子を支援して、首尾よく小鹿を滅ぼしたと考える。小鹿を討つために駿河に下向したわけではない。

▲ 黒田基樹氏は、新九郎さんが六角征伐に参加していないのは、小鹿討ちのため駿河に行くことを幕府にOKされていたからとしている。


(延徳元)
・義尚、六角征伐中に陣中にて死去
・新九郎さん、京へ戻る


( 〃 3)
・新九郎さん、義植(義材)の申次となり復権
 *知らなかった😲!『北野社家日記』というものにあるそうです。新九郎さんのベースはここでまだ京都にあるってことですね。

・新九郎さん、再び駿河へ


( 〃 4)明応に改元


(明応2)クーデター💥

細川政元、足利義澄を将軍へ擁立
・新九郎さん、伊豆へ侵攻💥


▲ 少し前まで、新九郎さんの伊豆侵攻は幕府の指示だとされてきましたが、このところ批判的な意見もありますね(池上裕子氏2017)。森氏も、幕府の指示ではないとおっしゃっています。

葛山が新九郎さんを支援するため将軍義尚の代始めを欠礼し幕府にとがめられていることについて、もし幕府の命により宗瑞とともに伊豆に侵攻したのなら欠礼をとがめられるというのは不思議なことである。

それに、そもそも幕府が奉行衆クラスの伊勢盛時に堀越公方である足利茶々丸の討伐を指令することが想定しにくいのではないだろうか。


▲ 家永氏は幕府の指示説を唱えてらっしゃいます。
宗瑞が足利茶々丸を討って足利義澄の生母の仇討ちを果たした、という功績は、細川政元の裏切りで吹っ飛んだことがわかった。


(明応3)新九郎さん、このころ出家する

▲ 新九郎さんの出家は、幕臣として都へ戻ることはないという意思を表明したものだと考えられる


(明応7)茶々丸、滅亡


( 〃 8)政元、自分や新九郎さん側と戦っていた勢力を義澄支持に取り込むため切り崩し作戦を開始


▲ 政元は、義澄(&自分)支持派を増やしたかった。
この政元の方針転換は、それまで義澄・政元と結んで戦ってきた宗瑞・氏親に対する軍事的政策へと発展する。「裏切り」と言って良いだろう。

「義澄からも義植からも切り離されていた文亀年間」という期間を注視し、宗瑞の志向性の変化をとらえられるのではなかと考えてみた。……将軍権威からの離絶は手痛い体験であったのではないかと考える。細川政元の「裏切り」というピンチに抗堪する過程で、将軍の権威を相対化し、自立した地域権力に転生したと考えた。


この頃、新九郎さんは小田原城をゲット!

( 〃 10)文亀に改元
( 〃 14)永正に改元


(永正3)新九郎さん、義植と提携
*新九郎さんまでアッチについたりコッチにつたり…😢


( 〃 4)政元、暗殺される!

*政元派、てんやわんやの大騒動~。義植は京へ戻り、義澄は近江へ逃亡。

( 〃 8)義澄、没


新九郎さんの相模征服が本格化。義植の動向とは無関係になってきて、将軍権威からの完全な独立を果たしたとみられる!


以上、<幕府>からの独立のキッカケ~独立を成したとみられるまでを、家永氏と森氏の講演・レジュメや本などを中心にまとめてみました~。(合ってるかにゃ…💦)


いずれにしても、駿河という新天地に姉という縁故がなければ、新九郎さんは幕府からの独立は考え得なかったのであり、それが無ければ、あのまま幕府の官僚として、荏原荘などからの微々たる上りで細々とした生涯を送っていたのでしょうかねえ。

いや!伊勢盛時たる者は、ただ者ではない。駿河に無関係でも、京や岡山を起点に何かを成していたに決まってますよね、ね、ね。


最後になりますが、宗瑞が幕府に戻らなかった理由について黒田基樹氏はこう書かれています。

「もはや宗瑞の存立を支えていたのは、荏原郷など従来からの所領などではなく、駿河国での所領となっていた。……従来からの所領の維持は、ますます戦国争乱の展開によってほとんど不可能な状態になりつつあったろう。……京にあってそこでの政争を潜り抜けながら、各地に散在しえいたであろうそれら所領の回復やその維持を図るよりも、駿河での存立を維持することにしたといえ、それこそが自然な流れとみることができよう。」

(冒頭の繰り返しですが、参考にさせていただいた本や講演&レジュメについては前回のブログ記事をご覧くださいませ。)


ほな、今川からの独立はいつ頃から考え始めたのでしょう?それについてはもっと勉強してから後日、いつか、たぶん…。


🍷 以下、以前のブログ記事より。

・家永氏
「宗瑞を圧迫した立役者、赤沢朝経~家永遵嗣氏 講演」
「今川義忠への制裁に宗瑞が関与していた?~家永遵嗣氏」

・森幸夫氏
「宗瑞は京で失脚したため駿河へ下った!?~森幸夫氏」 


🍷 以下、2009年の一回目からのブログ記事です。
今よりもっと知らない頃に書いたのですが、その頃のパッションを残したくコッソリ修正をしないでおります。あまーい目でご覧いただけだら嬉しいです。

「ディスカバー 伊勢新九郎の相模へ」
「伊勢新九郎 湘南ボーイへの道」
「‘元祖 義’ 伊勢新九郎の韮山へ」
「伊勢新九郎さん in 駿河の巻」
「伊勢新九郎さん 伊豆で温泉にはいるの巻」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2022年1月 6日 (木)

① 新九郎さんはいつ頃から幕府からの独立を考え始めたのか?

 マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。北条支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。
詳しくはこちらで →「販売します 『北条五代の娘たち』」


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~本日の相模や武蔵は雪、2016年12月の雪の小田原城を思い出す(前に載せた写真ですが)~


年末年始のテレビ番組は再放送ばかりになってしまいましたが、やっと再放送ではない大河ドラマが始まりますね。

それにしても、年賀状や年賀メールで「今年の大河は マリコ・ポーロ が大好きな北条で良かったですね!」的なことを書いて来る人の、我が親戚含め、なんとまーあ😲多いことよ。


そこそこ歴史が好きな人でも、「北条早雲て、北条義時のずっと後の子孫でしょ?」とか、「政子さんの北条が滅亡して、子孫が浪人になって、油売りとなっていた北条早雲が北条家を復活させたのよねえ?」← 完全に美濃のマムシと混同しちょるぜよ、とかとかとか……。

氏綱さまぁ、なんで「北条」なんて苗字にしちゃったのよぉ(マリコ・ポーロ)

当時はそれが必要だったのじゃ💦(氏綱さま)


さて、やっと本題。

前々々々回のブログ「今川義忠への制裁に宗瑞が関与していた?~家永遵嗣氏」(文末添付) を書いて以来、義忠事件 についてもっと知りたくなり 以下いろいろ 読んでみました。

以下いろいろ がメンドクチャイ方は、虎&猫の写真の後まですっ飛ばしてくださいまし。


☆ あらたに読み聞きしたもの

● 家永氏、2017年
藤枝市郷土博物館特別展「駿河の戦国大名今川氏展」での講演『今川氏親・伊勢宗瑞と山西の人々』のレジュメ
(送ってくださった m(__)m )

● 家永氏、2020年
戎光祥ヒストリカルセミナーでの講演「今川義忠の討死と摂津之親・伊勢盛時」のオンライン視聴とレジュメ

● 黒田基樹氏、2019年
今川氏親と伊勢宗瑞』平凡社 / 義忠の遠江侵攻と敗死のことあり(図書館で借りたので少ししか読んでいない) 


☆ 再読したもの

● 2018、日本史史料研究会『室町幕府 全将軍・管領列伝』の足利義政~義澄&細川勝元・政元・畠山政長・斯波義康の項
(伊勢宗瑞のことはまったく書かれていないが、貞宗の伊勢宗家がかなり力をもっていたことは書かれている。)

● 「宗瑞を圧迫した立役者、赤沢朝経~家永遵嗣氏 講演」のブログ(文末添付)で書いた、
家永氏、2019年
小田原城シンポジウム「伊勢宗瑞の時代」での講演『伊勢宗瑞と明応の政変~戦国争乱の先駆けとしての伊勢宗瑞

● 「宗瑞は京で失脚したため駿河へ下った!?~森幸夫氏」のブログ(文末添付)で書いた、
森氏、2019年
小田原城編「戦国大名北条氏の歴史」の森幸夫氏『大森氏と伊勢宗瑞の時代

● 同じく、小田原城編「戦国大名北条氏の歴史」の岡潔氏『関東諸勢力と小田原北条氏

● 「今川義忠への制裁に宗瑞が関与していた?~家永遵嗣氏」のブログ(文末添付)で書いた、
家永氏、2021年
神奈川県立歴史博物館「早雲寺展」の図録特別寄稿『早雲庵伊勢宗瑞と箱根湯本早雲寺

● 黒田基樹、2019年
戦国大名・伊勢宗瑞』角川選書


22
~チト休憩、本題とは関係にゃいがナイスポーズで撮れたので…~


以上いろいろ では、義忠への制裁と新九郎さんとの繋がりについては家永氏にしか見つけられませんでした。それは今回棚上げして追々(えーっ)。

が、しかし、そこで家永氏がおっしゃる「(宗瑞は)戦国大名というより、将軍の側近というイメージ」という言葉にはビビビッ!ときてしまいました。


このところ新九郎さんを書くことが多いです。そもそも当ブログは、2009年、伊勢新九郎さんの追っかけから始まりました(文末に当初のブログ記事添付)。

一回目の記事は「ディスカバー 伊勢新九郎の相模へ」。しばらくしてから、「ディスカバー 伊勢新九郎…」なら「 相模」ではなく「伊豆」にすればよかったと思ったのですが、まあ相模の方がイメージかとそのままにして13年目。


この12年間、新九郎さんのステージは伊豆に拠点を置いてからがメインだと思っていました。でも、そうではないかもしれないのですね。メインステージは坂東に来る前の京にあったのかもしれない。

家永氏のお説にのっとり、チト難しいですが、幕府官僚としての新九郎さんの立場から考えてみました。


新九郎さんが<幕府><今川>そして<伊勢本家>からの独立を考え始めたのはいつ頃なのか?


この妄想にお正月中 トラわれておりました。トラ年だけに…テンテンテン。

いやいや、自然な流れでそうなっていったのかもしれませんし、他者の行動によってやむを得ずそうなっちゃったのかもしれません。いずれにしてもキッカケはあったと思うのです。


🐎 ピンチがチャンス!<幕府からの独立> のキッカケ

家永氏いわく、それは、

細川政元の裏切りである


細川政元 ―ーー
ゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』でも存在感が出てきたアヤツですよ。勝元殿の子息、聡明九郎くんです。

というところで、長くなってしまうので次回に続く……難しいのでチョット日数がかかりそうですが。


(今年の大河はたぶん観にゃいと思います。小田原北条ではなく鎌倉北条を大河にされてハラタツノリなのではなく、鎌倉時代前半にあまり興味がにゃいから。それでなくても中国時代劇を一日3本週5日観ていて大変なのよ。)


🍷 以下、関連ブログ記事

・家永氏
「今川義忠への制裁に宗瑞が関与していた?~家永遵嗣氏」
「宗瑞を圧迫した立役者、赤沢朝経~家永遵嗣氏 講演」

・森幸夫氏
「宗瑞は京で失脚したため駿河へ下った!?~森幸夫氏」 


🍷 以下、2009年の一回目からのブログ記事です。
今よりもっと知らない頃に書いたのですが、その頃のパッションを残したくコッソリ修正をしないでおります。あまーい目でご覧いただけだら嬉しいです。

「ディスカバー 伊勢新九郎の相模へ」
「伊勢新九郎 湘南ボーイへの道」
「‘元祖 義’ 伊勢新九郎の韮山へ」
「伊勢新九郎さん in 駿河の巻」
「伊勢新九郎さん 伊豆で温泉にはいるの巻」

このあと暫くは輪島塗や会津塗が続き、そして氏照と八王子城にはいるんですねえ。懐かしぃ~。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2022年1月 1日 (土)

謹賀新年(2022) ~ 葉ボタン

 マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。
詳しくはこちらで →「販売します 『北条五代の娘たち』」


さて、葉牡丹……


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~食べたらアカンよぉ(今年22才になるにゃ🐱)~


ちょっと前まで、お正月に飾るにしては葉牡丹は地味ぃ~な植物だと思っていた。

が、しかし、
まーあ、ここ最近の葉牡丹の種類の多さにはビックリ!😲

華やかで、お正月でなくても、葉牡丹だけで花束にできそうなものばかり。


葉牡丹の原種は、サラダや青汁などに入っているあの ケールだそうな。

ケールは鎌倉時代に日本にはいってきたと知り(所説あり)、またまたビックリ!😲。江戸時代に観賞用として品種改良されたのですってね。


ケールの和名は 緑葉甘藍。ご存知のように甘藍(かんらん)とはキャベツのこと。

鎌倉武士や戦国武将も、緑葉甘藍の 青汁 を飲んだのかな?


キャベツやブロッコリーの仲間だから、葉牡丹も食べられるのだそうです。

食べないけどね。


ほな、今年もよろしゅうお願い申し上げまするぅ。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ
🍷アナザーブログ「萩よりほかの花も見るべく」(記事数54)を徐々にマリコ・ポーロ へ移しております。


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2021年12月24日 (金)

シクラメンのかほり~シクラメン

 マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。
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さて、シクラメン……


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~Mary Christmas!~

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🎄 シクラメン(豚の饅頭・篝火花)

♪ うす紫のシクラメンほど
淋しいものはない~


小椋桂・布施明のこの歌が流行った頃、薄紫色のシクラメンは無いと言われていた。

しかし、歌のヒットにより薄紫色のシクラメンが開発されたそうな。


最近のクリスマス頃のお花屋さんでは、ポインセチア より シクラメン の方を多く見かけるようになった。どんなシクラメンがあるのかと花屋さんのページを検索してみた。

セレナーディア、ライラックフリル…
薄くなくて濃い紫の 「江戸ノ青」なんてのもあった。
素敵!見てみたい!

種類もたくさんあって、それぞれ華やかだね~。

全然、淋しいもの…ではない。


歌のタイトルは「シクラメンのかほり」だけど、本来、香りは無い。

もしかしたら、そちらも開発されて、今は かほり があるシクラメンもあるのかな?


ブログが長いといつも言われるので今回は短くしてみた。

ウソだ~!
シクラメンについてそんなに書くことがないのに、また飼い猫の写真を載せたくて書いたんだ~!


おっしゃる通り!
♪ ウチの猫ほど カワイイものはない~


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2021年12月14日 (火)

今宵は討ち入り!

 マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。
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さて……

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~雨の泉岳寺12月14日~


時は元禄15年

南部坂雪の別れ

おのおのがた討ち入りでござる

蕎麦屋かぁーーーっ!

天野屋利兵衛は男でござる

む、布団はまだ温かい!まだ遠くへは行っておらぬ

狙うは怨敵、吉良上野介ただ一人

御首級ちょうだいつかまつる

では、お先に…


なんだか、歌舞伎とドラマと三波春夫と桃屋のCM が入り混じっておりますが、今日は旧暦元禄15年12月14日。今宵は討ち入りですな。


かつての定番「忠臣蔵ドラマ」はやらなくなりましたが、先日の中村勘九郎さんの BS「忠臣蔵狂詩曲 No.5 中村仲蔵」は面白かったです。

以前から、仮名手本忠臣蔵「五段目」の盗っ人が斧定九郎である意味が分かりませんでしたが、ドラマのこの部分がノンフィクションだったとしたら、劇作家が仲蔵への嫌がらせで斧定九郎に設定したところ、仲蔵の芝居が当たってしまったため、今に続いている、ってことなのかしら…?


中学生の頃、大佛次郎の「赤穂浪士」に感動し四十七士の名前を全部覚えたことがあります(今は忘却の彼方)。

当時は、赤穂浪士は再仕官など考えてもおらず、内匠頭が背後から吉良殿に切り付けたことをなんとも思わず、義士たちは蕎麦屋の二階に集合し、お揃いの火事装束に着替え、吉良殿は炭小屋から引きずり出され討たれたと思っていました。

また、今は「忠臣蔵」ではなく「赤穂事件」と言うそうですね。それでも年末になると、なんとなく「忠臣蔵」が気になるのは江戸っ子ゆえか。


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~この日だけの限定販売は赤穂のお塩を使った赤穂名物「塩味饅頭」、あんこ入り落雁を柔らかくしたような感じでスッゴク!美味しくて包装紙も good~


前にも書きましたが、「忠臣蔵」を知らない人が多くなってきているそうです。実際、かつての後輩同僚に、大学で近世文学を専攻した20代の方がいたのですが、「忠臣蔵」も「赤穂浪士」も「討ち入り」も聞いたことが無いと言っていました。ドびっくり~😲でした。

何十年も前の話ですが、オフィスで仕事中、上の階からドンドン、ドンドンという音が聞こえてきました。同年代の同僚が、「討ち入りかしら?」と言い、まわりの全員が大爆笑。

そういう共通認識を持っている世代がだんだん少なくなっていくのは、うら寂しいものじゃ😢。


厳密には、討ち入りは15日未明だったそうな。ただ今、14日の深夜。お、太鼓の音が聞こえませんか?

一打ち二打ち、三流れ
あれは、まさしく山鹿流の陣太鼓!

そろそろ始まりますな……


おっと。この山鹿流の陣太鼓の話も創作だそうで。


🍷 以前のブログ記事でござる
「映画 「最後の忠臣蔵」と泉岳寺」
「末年始の時代劇と昔の時代劇の話」


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2021年12月 9日 (木)

今川義忠への制裁に宗瑞が関与していた?~家永遵嗣氏

マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。お問い合わせくださいませ。
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さて……

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神奈川県立歴史博物館の企画展「開基五〇〇年記念 早雲寺―戦国大名北条氏の遺産と系譜―」が終わりました。行かなかったので、図録を取り寄せました。


ページを開くなり!ドびっくり~😲😲😲

今まで、こんなにドびっくり~したことはないと何度も書いてまいりましたが、今回はMAX!これほど ドびっくり~することがまだあったとは!


それは、冒頭の家永遵嗣氏の特別寄稿「早雲庵伊勢宗瑞と箱根湯本早雲寺」のショッパナにありました。

御寄稿の内容は、宗瑞と曹洞宗、大徳寺、臨済五派などとの縁についてなのですが、ドびっくり~は、宗瑞が臨済禅に傾倒するキッカケの考察のところです。


解釈違いがあると申し訳ないので、そのまま引用させていただきまする。

 それ(キッカケ)は宗瑞自身の働きで義兄弟の今川義忠を討ち死にさせてしまったことにあったのではなかろうか。

 ほえ (・・? 

幕府は宗瑞を通じて勝間田氏・横地氏らを動かし、文明八年二月に義忠を滅ぼした。

えーーっ!(*_*;

● 宗瑞は義忠を滅ぼす時に…後略

がくぜん… ( ̄□ ̄;)!!


宗瑞は、今まで自分を助けてくれた義忠や勝間田氏などの縁者を死なせたことに自責の念を感じ、それが宗瑞の転機になったのではないかと思われるそうです。

どいういうことなのでしょう!? 今の共通認識なのですか?


則竹雄一『古河公方と伊勢宗瑞』2013、小和田哲男『駿河今川氏十代』2015、黒田基樹『戦国大名・伊勢宗瑞』2019、大塚勲『今川氏と遠江・駿河の中世』2008 など、手持ちの本の義忠のくだりをいくつか読みなおしてみました。

しかし、義忠が勝間田や横地を討ち、その帰路に非業の死を遂げたということは『今川記』(小和田先生の本に原文の引用あり) と各先生方の本に書かれていますが、新九郎さんの幕府への働きかけのことなどはどこにも見つけられません。


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~安倍川 / 対岸には北川殿の菩提寺「徳願寺」がある~


🐎 毎度で恐縮ですが、ことの次第を時系列にすると…

(文明5年~7年)
義忠、幕府(義政)より遠江代官の役職を賜り進軍!
*幕府は、細川(三河守護)の斯波氏(遠江守護)への対抗の支援を命じた
*義忠は遠江を取り返したかった


幕府(伊勢家/貞宗)は斯波の家宰・甲斐氏を東へ寝返らせ、遠江守護代としてしまった😲


甲斐(貞宗や宗瑞達の叔父)氏、義忠へ対抗😲


(文明8年)
幕府の命で、勝間田・横地ら遠江の国人達がこれを支援


義忠、勝間田・横地を滅ぼす
(横地は滅ぼせなかった?義忠の方が敗退?)


義忠、その帰路、残党に襲われ討死


🐎 義政方だった義忠は、何があって義政方から干され制裁を加えられる側になったのだろうか?

どこもそうだったと思いますが、遠江にも様々な問題があったようです。脳内整理のため、微妙なところはありますが「東」「西」で分別(?)しました。


(小和田先生)
・斯波氏(西)は遠江のほかに越前&尾張の守護も兼任していて遠江にはいなかった
・遠江守護の甲斐(西、あとで東に寝返る)も越前の守護代を兼任していて、遠江は支配が行き届いていなかった

・だから、実際の権力は国人領主達(勝間田・横地・狩野など)が握っていた

・そこへ、隣国駿河の守護今川義忠(東)が代官となってやってきた


(家永氏)

・文明5年、義忠は、義忠の遠江入りに抵抗した国人領主狩野氏と紛争を起こし滅ぼしてしまった「宗長手記」


義政の評定衆、摂津が駿河にやってきて 義忠の暴走を監察

摂津が 幕府に義忠征討を進言したらしい


つまり、義忠さまが討たれる立場になってしまったのは… 
暴走族 🏍 で天上天下唯我独尊だったから

(>_<) アチャー

いや、ちゃうちゃう✋
それだけじゃないと思うが、状況が複雑でわらわの理解は追いつきませぬ。


新九郎さんは、勝間田らに幕府の意向を働きかける時、義忠の暴走を抑えるだけで命まで取ることになろうとは考えていなかったのかもしれない。

でも、もし新九郎さんが義忠さまを滅ぼすことに関わる側だったら、その後、お姉ちゃんや甥っ子とああいう関係でいられたかな…?いや!もしかしたら共謀?お姉ちゃんの指示…とまでではなかったでしょうが、お姉ちゃんには先に伝えていたかもしれない。

拙書『北条五代の娘たち』の冒頭にも書きましたが、北条の百年は、お姉ちゃん こと 北川殿が家督争いの助けを新九郎さんに求めたことから始まります。北川殿あなどれない。なーんて、まったくの妄想にござる。


🍷 以下、以前のブログ記事より。

・家永先生
「宗瑞を圧迫した立役者、赤沢朝経~家永遵嗣氏 講演」

・最近のドびっくり~

前回のブログ「北条氏房の妻は太田の娘ではないのか!?」

「宗瑞は京で失脚したため駿河へ下った!?~森幸夫氏」

「北条氏直は武田信玄の孫ではなかった!~浅倉直美氏」
「信玄の娘「黄梅院」は甲斐に戻っていなかった!~浅倉直美氏」

「その①~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その②~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その③~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その④~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」

などなど


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2021年12月 7日 (火)

火急!「北条氏康伝」小田原城天守閣(2021.12~22.2)

マリコ・ポーロ

『北条五代の娘たち』を出版いたしました~。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市の図書館2館でも蔵書としてくださっています。お問い合わせくださいませ。
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さて、その前に……

先の週末、八王子城や小机城(珍しい)で発掘調査の現地説明会があったそうですね。まったく知りませんでした。

八王子城の場所は、ここ数年、氏照仲間でも話題だった御主殿の奥(西側)のエリアだったそうです。氏照仲間からいただいたメールやSNSへのコメントなどでも知らない人が多く、知っていたらブログやSNSでお知らせできたのに残念なり。

こちらに少し載っていました→読売新聞オンライン「落城危機示す?遺構発見」


以下、挽回😜 というわけではないですが、本題です。


「竜馬伝」ならぬ 「氏康伝」!!

我らが名将、北条氏康 没後450年にちなみ、小田原城天守閣で特別展が開催されるそうです。すでにご存知の方も多いと思いますが、ひっじょーーに魅力的💓な講演会が3回も開かれますね!

天守閣のHPを添付したく探したのですが、見つけられないので以下に概要だけ。


会期:2021年12月18日(土)~ 2022年2月28日(月)

▲ 講演会:諸事情で3回とも平日の夜 18:30~だそうです

・1/12(水) 黒田基樹「戦国大名北条氏康」
・2/2 (水) 平山優「北条氏康と武田信玄」
・2/16(水) 大石泰史「北条氏康と今川義元」

申し込み:12/10(金) ~


▲ 学芸員解説

1/12(水)、22(土)、2/2(水)、16(水)、26(土)
各回 15:00~
(定員15人、当日先着順)


詳細は、お調べくだされ。←投げやりみたいであいすまぬが、HPが見つけられないのと、SNSに載っているポスターを勝手に添付するのは躊躇われるので💦。

大石氏の講演には特に興味があります。オンラインでやってくれると嬉しいのですがね、ね、ね。

続けて、「宗瑞伝」「氏綱伝」「氏政伝」「氏直伝」「氏照伝」(←番外編として) が開催されるといいですね、ね、ね。


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