2020年3月24日 (火)

追記~北条氏康の長男と北条家和歌短冊集

マリコ・ポーロ


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タイトルの北条家和歌短冊集とは「喜連川文書」にある『足利義氏等和歌』のことです。東大の史料編纂所に写本があります。北条ファンでは有名な和歌集ですが、いつのもので、どういうものなのか、今更ながら知らなかったということに気が付きました。

手持ちの本々やペーパー類を見ても、検索をしても、ヨッシー(義氏)の代に収められたということと、黒田基樹著『瑞渓院』(P78)の写真しか分かりません。図書館は閲覧が出来ない状況です。ご存知の方教えてください。


なぜ知りたいかというと…

前回のブログ記事で、16才で天に召された氏康の長男、新九郎くん(氏親か?)のことを書きました(文末添付)。新九郎くんが頭から離れずにいると、昨夜のこと、北条師匠から「氏親」の署名の画像がメールで送られてきました。かたじけのうござる。眺めながら、この和歌短冊集のことを考えました。


ブログにも書いた新九郎くんの実名のことですが、黒田基樹氏の数冊の本によると、実名が「氏親」だということは次の2点から分かったとされています。

① くだんの『大宅高橋家過去帳』」(公開資料ではない)に、天用院殿は「実名新九郎氏親云」とバッチリ書かれている。

② ヨッシーの代の、この和歌短冊集『足利義氏等和歌』に、「氏親」含め誰だか分からない人が3人いる。

ゆえに、①と②を合わせて、氏康の長男=新九郎さん=「氏親」である。


和歌短冊集に収められている和歌は、いつ、どうやって集められたのでしょう。


▲ 妄想1
ある時(いつ?)歌会が開かれて、その時の和歌をまとめられたものなのでしょうか?

・ 新九郎くんが亡くなったのは、天文21年3月
・ ヨッシーが公方に就任したのは、同年12月

なので、それはないですかねえ。


また、収められている和歌の詠み人は、
~ 氏康・氏堯・氏光・氏忠・氏親?・氏政・氏照・氏規・氏邦・氏直・氏能?氏冬?・範以(今川)~
です。

ジジ氏康が他界した時に国王丸(氏直)くんは9才位ですから、まだ歌は詠めない…ことはないですが、今川範以にいたっては生まれたてホヤホヤ~ぐらい。これらの13人で一緒に「歌会」は不可能ですな。


ということは…

▲ 妄想2
和歌短冊集は、ヨッシーの代に、以前に集めた和歌の数々を編纂したものなのでしょうか。


ヨッシーこと足利義氏は、若くして生涯を終えてしまった氏康殿の亡き子息を悼み、彼が残した歌も一緒に収めたのでしょうかねえ…。


「今日(3/21)は、北条氏康の長男の命日です」
「小田原城のライフスタイルと饗応の膳」


🎠 余談になりますが、きょうは景虎さんが鮫ヶ尾城で果てた日ですね。

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画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年3月21日 (土)

今日(3/21)は、北条氏康の長男の命日です

マリコ・ポーロ

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~早雲寺と門前の桜。北条歴代当主とその正室、そして、氏康・氏政の早世した嫡男たちの菩提寺でもあった。~


北条一族で、ついつい忘れがちですが、時々思い出しては気になる人がいます。その人は「新九郎」くんとおっしゃいます。

新九郎くんは氏康の長男で、氏政の 2-3才 上の兄上になります。亡くなったのは、天文21年3月21日。16歳で天に召されました。


元服したのは亡くなる前年の末あたりとされています。急な病だったのでしょうか。

実名は、近年の研究では「氏親」とされています。もしそうだとしたら、母である今川の瑞渓院の父親の名前、つまり祖父と同じ名前です。今川を大きく発展させた当主にあやかったのでしょうか。次代当主として嘱望されたであろう矢先に命尽きるとは…可哀想でしたねえ。


天文21年といえば、上杉憲政が越後の謙信君の元へ行った年ですね。パパ氏康は上野への侵攻を進め、謙信君も越山。また、氏康の妹芳春院の子である足利ヨッシー(義氏)が、古河公方に就任。前年、ヨッシーのパパはるる(晴氏)と氏康は、一応和睦したんですね。(このあたりのことは先のブログ「北条五代の娘たち」の芳春院のところで書きました。)

新九郎くんが此の世を去ったのは、そんな頃です。


その容貌ですが、以前ブログにも書きましたが、数年前に「馬の博物館」で公開された謎の少年像が新九郎くんかもしれないかもしれないそうですよ。朝倉直美氏が検証され、その可能性があると講演会でおっしゃっていました。

なかなかイケメンで、少し憂鬱な表情がかえって魅力的。そうだったらいいな~~。


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~桜々の滝山城(2013年)もしかしたら氏政の城だった…わけないね。~


氏照の少年時代を妄想する時、松千代丸くん(氏政)& 藤菊丸くん(氏照)&助五郎くん(氏規)&乙千代丸くん(氏邦)の4人だけの絵面が脳裏に浮かびます。しかし、本来は新九郎くんを入れた5人が兄弟として過ごしていたのですね(景虎さんは新九郎くんが亡くなってから生まれた)。

もし、もし、新九郎くんが生きていたら、彼らの構図はどうなっていたでしょう。氏政さんは、どこかの支城を任されたはずです。どこかしら?順繰りにズレたのかな。それともパパ氏康がそれぞれの資質に合った地を選んだか。


氏政&氏照の最強ペアは、新九郎くん&氏政ペアになっていたでしょうか。いや、やっぱり政&照ペアは不動で、照は政を当主につかせるために……

なーんて、Black、ブラック。。。


新九郎くんが存命で四代当主になっていたら、氏政さまの生涯に渡るストレスもまた違ったものになっていたでしょう。そして、当主が違えば、小田原北条もまた違う方向に向かっていたかもしれません。

考えても詮無いことですが…。


法名は「天用院殿」。墓所の天用院は早雲寺にあったそうですが、早雲寺一帯は秀吉に焼かれたため跡形もありません。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

少年像が馬の博物館にて公開された時のブログ記事です。
「謎の北条家少年像~馬の博物館(2017年)」

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2020年3月 6日 (金)

「北条氏綱像」は後世に改変されたのか?

マリコ・ポーロ


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~小田原北条二代当主 北条氏綱 花押~


ここ数日、北条氏綱の肖像写真をずーっと眺めています。

知りませんでした…
改変された痕が、いくつかうっすらと透けて見えるそうですね。


昨年より末席に参加させていただいている「小田原北条の会」での鳥居和郎氏(神奈川県立歴史博物館/小田原市文化財保護委員)の講座でチラと小耳にはさんだ、氏の研究ノート『北条氏綱像の改変についてー北条早雲像、氏康像、時長像などとの比較からー』(2016年) を拝読。

改変されたと思われる細かい点と、改変の時期とその理由、改変前は何だったのか…などが検証されていました。昔からバランスの良くない絵だとは言われてはいますが、びっくり&色々納得。


ただ、鳥居氏も書かれていますが、たとえ改変されたからといっても、改変が良くないとか氏綱公へのリスペクトがないということにはならない、ということは最初に書いておきたいと思います。


▲ 北条氏の肖像

当ブログを読んでくださっている皆様はとっくのとうにご承知のことですが、北条一族で現在のところ分かっている像は、宗瑞・氏綱・氏康・氏政・氏直の五代と、幻庵殿の子息である時長、そして、数年前に発見され話題となり「馬の博物館」で展示された謎の少年 の7幅です。


それぞれが描かれた時期は…

(宗瑞)晩年、または没後すぐ
(氏綱)没後わりとすぐ、又は、寛文十年頃に土佐光起により描かれた(小田原開府五百年より)
(氏康)没後わりとすぐ
(時長)没後しばらく経ってから、作風や装束からして氏康没頃か?
(氏政と氏直)寛文年間に玉縄北条の子孫である北条氏平が土佐光起に描かせ、寄進した

とされています。


氏政と氏直像は没後80年位経った江戸時代に描かれたものなのでチト置いておいて、氏康、時長、謎の少年像は作風も装束も似たようなイメージです。氏綱像が明らかにこれら3像と違うのはポーズと装束です。凄く違う。


ポーズは前のめりな感じで、他の戦国武将像でもこのようなポーズは見たことがありません。装束も、ジミ~~~。いくら質素を旨とする北条家でも地味~すぎ。

だいいち、直垂と袴の色が違う。氏綱公のお好み?刀も貧相(刀よく知らない私感)。なんだか阿弥衆みたい。なんで氏康は父上の肖像を描くのにこんな地味~な装束にしたんだろう?ご自分はオシャレな肩身替わりの小袖なんか着ちゃっているくせに。

なにより、口元が妙。これは後世に修復でもして、その時に修復が失敗しちゃったのかな?

などと、ずーっと思っていました。


研究ノートの マリコ・ポーロ がビビットきたところを以下に写させてていただきますが、詳しく、正確に!知りたい方は『神奈川県立歴史博物館研究報告ー人文科学 第43(2016)』を。


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~氏綱印判「郡」~


さて、今私は肖像画を見ながらこれを書いております。ここに早雲寺さんの許可なく肖像画を載せるわけにはいかないので、皆様も是非お手持ちの肖像をご覧くださりませ。


▲ 改変の可能性のある箇所について

① 坐り方

・中世の武家の坐り方は「胡坐」が正式なのに「正座」である。「正座」が正式となったのは江戸時代から。
・両ひざの間にうっすらと描線が見え、位置から見ると「胡坐」の描線とみられる。
・直垂の絵の具が薄くなっている部分には畳の絵の具が透けて見える箇所がある。


坐り方については、早雲寺さんでも「正座」に書き直していると見ているようです(早雲寺図録)。 武田勝頼とか真田信繁の像は正座ですが、これらは正式な場面ではないからなのかな…。

・また、マリコ・ポーロの疑問の直垂と袴の色が違うことについては、「正座に改変された時に塗り直されたからであろうか」とありました。


② 風折烏帽子

・氏康像に比べてかなり省略されている。
・烏帽子の前部が、前頭部の輪郭線と重なっているのは不自然。

そう言われてみると、氏綱公の烏帽子はかぶって(のって)いなくて、縁部が張り付いているようです。まさかの、絵師がヘタとか…。


③ 肩のライン

・左肩より右肩がかなり上がっている。
・右肩より下がった位置に輪郭線が見え、改変されたことが分かる。元の輪郭線だと左右ほぼ同じ高さ。

うーん。写真では輪郭線は見えぬが、もし改変されたとのだとしたら、左右の肩の高さを違えた理由はなんだろう…?


④ 扇

・宗瑞や氏康や時長や謎の少年像のように握っておらず、人差し指と中指で挟み込んでいるよう。
・同じく4像のように親骨が明瞭に描かれておらず、絵柄も不自然。

そう言われて見ると、親骨が無いです。妙な(チャッチイ)扇ですな。ヒラヒラし感じ。しっかり握っていないし。やっぱり絵師がヘタクソ?
(^^;


⑤ 袖の先
たいがい、左の袖の先端が上の方にハネ上がっている。

・元はハネ上がっていたようで、上畳の彩色の下に元の線がかすかに見える。

そう言われてみると(←また💦)、氏康・時長・謎の少年、みなハネ上がっていますが、江戸時代に描かれた氏政・氏直の袖はハネ上がっていませんね。


⑥ 刀

・氏康も時長も謎の少年も腰刀だが、氏綱は脇差。
・柄&鞘口と鞘尻との曲線がつながらず、曲線が不自然。
・鍔がない。

つまり、もともと脇差は描かれておらず、後から脇差を書き加えた。だから、鍔を描くと親指と重なってしまうから鍔も描かなかった。


ホントだ!他の3像は立派な目貫や笄が描かれているのに、氏綱公のさびしい~。


⑦ 直垂

・胸紐や袖露が無い。
・腰の後方の膨らみの位置が不自然で輪郭線も他より細い。


以上が改変の可能性がある箇所についてですが、じゃあ、改変、改変って元はなんなの?ですよね。

例えば、烏帽子。時代としては烏帽子を被らない風習が徐々に広まってはいるが、当主の肖像としてある程度の格式が求められたであろうから露頂で描かれた可能性は少ないと。


で、烏帽子や脇差があとで描き加えたとするならば…


「もとの像は俗体像ではなく法体像だったのであろう」


▲ 宗瑞像との比較

北条家に限らず、没後何十年も経ち当人を知る人が誰もいなくなってから肖像や銅像を作る時は、故人の親族の面差しを元に作られることが多いですよね。氏綱の親族で法体像といえば、父親の北条早雲こと伊勢宗瑞です。


研究ノートでは、宗瑞像と氏綱像の頭部の大きさをそろえた画像などから二人を比較しています。以下。

・氏綱の瞼の輪郭線はかなり後世の手が入っていて当初の状態は確認できない。
・マリコ・ポーロが気になっていてチト妙だった氏綱の口については、やはりこの部分も描き直されていて当初のままではないことが分かる。

また、
・宗瑞には髭が無く、氏綱にはある。また、宗瑞には皺があるが、氏綱にはない。つまり二人の年齢が描き分けられている。
・二人の顔の各部位の位置がほぼ同じであるため、顔の印象が極めて似ている。


つまり、「氏綱像の制作にあたり早雲像が土台となったことがうかがえる」と。


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▲ ほな、なにゆえそういうことをしたのだろうか?

それは、天正18年、おサル…いや、秀吉殿によって早雲寺が焼かれた時に「氏綱像は失われてしまったとみられる」からとな。

以前、早雲寺の曝涼の時に伺いました。宗瑞の肖像が無事だったのは、お寺の方が持って避難させていたからそうです。箱書きとか書付とかはあったのかともお聞きしたところ、それは無かったけれど、早雲寺初代&二代の住職の頂相と一緒にあったから宗瑞に間違いないとのことでした。


もし鳥居氏のご研究の通りでしたら、氏綱公の肖像は避難させなかった(避難できなかった)のですかねえ。もしくは、避難させてはいたが、戦後のドサクサでどこにいったか分からなくなってしまったとか。

だとしたら、いまに突然どこかから発見される可能性もありますね!お顔も全然違って、宗瑞似ではなく氏康系のお顔だったりして。もしそうだとしたら、ですが。


やっと最後。いつも長くて恐縮です…

▲ 『北条五代記』に書かれた氏綱像のこと

五代記に書かれていることが本当なら、江戸時代になってからのことですが、かつて北条家の家臣だった三浦浄心が早雲寺を訪ね氏綱像を拝したようですね。


そこにはこうあるそうです。
…俗体にして白衣の上に掛羅をかけ、顔相にくていに書り、物すさましく有て、てきめんにむかひかたし、子細有ゆへにや、荒人神のように…


「俗体」ですか。「白衣」の上に「掛羅」をかけているのですか。掛羅(から)とは、お坊さんが両肩から前に垂らしている四角い布ですよね。宗瑞や謙信君が肖像でまとっていますね。俗体で掛羅だと、朝倉義景や信玄パパ信虎の肖像が思い浮かびます。

「にくてい」(憎体)= 不敵な面構え ということで、研究ノートでは、「早雲像の方が相応しいように思える」としています。


「白衣」とはなんだろう?白の直垂?それとも夜着?夜着なら烏帽子も脇差も付けないですよね。病に伏してから、夜着の上に掛羅を付けて肖像を描かせたのでしょうか?そんなことあるかな。武将の肖像としてはチト弱々しいですよねえ。

研究ノートには、この場合の「白衣」は白色の着衣ではなく、着衣に彩色が加えられていなかったので衣を「白」としたのではないかとありました。なるへそ~。


つまり…

浄心が拝んだ「氏綱像」は彩色がされていない白描の肖像で、それは、不敵な面構えからしても「早雲像であったのかもしれない」。

烏帽子や脇差を後で加えた可能性があり、お顔も早雲像とよく似ていることから、「早雲像の模本があり(氏綱像が残っていなかったので)それを氏綱像と見なしていたのかもしれない」。そんな中で氏綱像も必要とされ、「父早雲像の模本(おそらく白描)などを土台として制作されたのではなかろうか」と。

そして、この研究ノートは、外見を中心とした考察であるので、今後、科学的手法による精度の高い検証がされることを期待するとしています。


ただ、マリコ・ポーロ思うに…
もし早雲寺や一族の子孫が改変したとしたなら、このような地味~な仕上げにしただろうか?氏康と並んで遜色がないようにしたのではないだろうかにゃ?

それとも、北条家の質素倹約の見本として地味~にしたのか?不思議なり。

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時代は落ち着き、寛永・寛文の世。早雲寺、小田原藩、狭山北条家、旧玉縄北条家などによって早雲寺が復興されます。氏政と氏直の肖像も描かれ、現在の北条五代の供養墓も造られることになるのです。


最初にも書きましたが、たとえ改変したからといって、改変が悪いとか氏綱公へのリスペクトがなかったということではないと思います。

氏綱公の肖像がない。肖像が欲しい。なんとかして肖像を作りたいという想いからなされたのでしょう。


鳥居氏も最後に書いてらっしゃいます。

「…氏綱像が早雲像を土台として制作されたとしても、肖像が果たす精神的な役割を念頭において制作されたことは言うまでもなく、氏綱像は数百年にわたり二代当主の肖像として尊崇されてきた。この点において今後も氏綱像が果たす役割と重要さは変わるものではない。…」


今年の秋は久々に早雲寺「曝涼」に行き、氏綱公のご尊顔を拝そうか。


「早雲寺 「北条早雲画像」の曝涼 2010」
「今日は北条早雲こと伊勢宗瑞の命日」
「「早雲 足洗いの湯」 箱根湯本」


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2020年2月20日 (木)

公方の姫~青岳尼事件 あらたに知ったこと

マリコ・ポーロ


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~垂木、詰組、波連子…屋根の内側まで繊細で華やかな国宝「円覚寺正続院の舎利殿」は「太平寺仏殿」だった~


青岳尼 は小弓公方足利義明の姫として坂東戦国時代ファンのヒロインとして有名ですし、姫のことは幾度かブログにも書いておりますが(文末添付)、も一度。


義明が国府台で討死したのち、姫は北条氏康殿の庇護のもと鎌倉「東慶寺」へ入り、その後、鎌倉「太平寺」の住持となりました。東慶寺の住持は、青岳尼の妹の旭山尼です。

のちに、いかなる次第か定かではありませんが、姫は鎌倉を出奔。海を渡り里見義弘の元へゆき、二度と戻りませんでした。太平寺は廃寺となりました。

太平寺は、碑文によると元は比企一族の尼寺で、頼朝が池禅尼の旧恩に報いるためその姪を開山として創建したそうです。

初代鎌倉公方足利基氏の子孫の尼僧を中興の祖として発展し、「鎌倉五山」第一位の格式あるお寺でした。トップ写真の円覚寺正続院の舎利殿は、廃寺となっていた鎌倉太平寺から移されたものです。


前回のブログ記事「玉縄水軍の御しんぞう様」でも少し触れましたが、昨年、玉縄城址まちづくり会議さん主催の真鍋淳哉氏の講座「戦国江戸湾の海賊と玉縄城の水運」を拝聴しました。そこで、青岳尼についてマリコ・ポーロの今までの謎が解けたり、また、あらたな謎?となったことがありました。

講演で新しく知ったことや疑問を以下の4鱗▲に沿って書いて見ます。同じく真鍋氏の著作『戦国江戸湾の海賊』も参考にさせていただきました。

▲青岳尼は連れ去られたのか?共謀だったのか?/ ▲聖観世音菩薩は青岳尼と共に安房へ渡ったのか?/ ▲それは本当に弘治2年なのか?/ ▲公方の姫は東慶寺(か太平寺)にもう一人いた?


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~太平寺から移築された円覚寺正続院の舎利殿。屋根の反りがハンパない~

▲ 青岳尼は連れ去られたのか?共謀だったのか?

里見義弘が鎌倉へ攻め入った時に青岳尼を連れ去った、いや、義弘と事前に示し合わせ安房へ行ったなどなどと様々言われています。

以前のブログ記事は、共謀説を取って書きました。だって、姫にとって北条は父親の仇ですからね。太平寺に「庇護された」というより「剃髪させられ、浮世から離された」みたいなイメージでした。姫は義弘殿のいる安房へ帰りたくて、ふたりでもくろんだと妄想しました。


また、青岳尼が出奔したあとに氏康が東慶寺に出した有名な手紙には、「大平寺殿 むかい地へ御うつり、まことにもってふしぎなる御くわたて…」とあります。

ただの「くわたて」ではなく「御くわたて」と「御」が付いているのも、青岳尼も企てに関与したのだと受け取ったんです。


講演で真鍋氏は、
「父義明を殺されている姫。義明は里見の元にいたから、おそらくふたりは顔見知り。自らの意志で義弘と図って北条の監視下より逃れたのでは…?」
とおっしゃっています。


興味深いのは、安房の館山市立博物館の「たてやまフィールドミュージアム」のサイトに書かれていることです。

…(青岳尼は)義明が討死した際には、義明の遺児頼純とともに安房の里見義堯のもとへ保護されたと考えられている。その後足利氏と縁のある太平寺へ入寺したものであろう。…


すでに、青岳尼は義明と結婚していたことになっていますねえ。息子を安房に置いて鎌倉へ来させられたということですよね。もしそうだったら尚更帰りたいですよね。

真実はどうだったのか。それは、いまだ不明だそうです。


▲ 聖観世音菩薩と青岳尼は一緒に安房へ渡ったのか?

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~東慶寺で購入できる「聖観音」のポストカード~

鎌倉東慶寺宝蔵におわす「木造聖観世音菩薩立像」は、かつて青岳尼が住持していた太平寺の本尊で、円覚寺舎利殿(写真)が太平寺の仏殿だった時はそこに安置されていたと伝わっています。


チト話は逸れまするが…
廃寺にした太平寺の建物の移築のことで氏康が円覚寺に出した手紙(後述)には、「太平寺 客殿」とあります。

玉縄の講演の時に玉林美男氏がおっしゃるには、これは「太平寺 仏殿」ではないかと。「客殿」とは長方形の建物で、円覚寺舎利殿は正方形だから「仏殿」だと思われるそうです。

氏康殿、アバウト?間違えて書いちゃった?それとも移築されたのは舎利殿ではない他の建物?それとも、複数の移築があったのか?


話を戻し…
そもそもこの聖観音はいつ誰によって造られたのでしょうか。


東慶寺の、江戸時代に書かれた聖観音の由来書には、元は源頼朝の守本尊で、佐殿が、鎌倉に在住していた宋の工人陳和卿に依頼したとあるそうです。陳和卿って、実朝は誰それの生まれ変わりだとか言ったり、実朝の命で製造した舟が浮かばずに沈んだりという例の話の人ですよね。美しい仏様を造るんですねえ。

当初は東慶寺に置かれましたが、太平寺が建立された時に移したそうです。


へえ~~ (´▽`)
知らなんだ。


時は流れ…

同じく由来書によると、
里見安房守 が鎌倉に乱入し鎌倉の神社仏閣とともに太平寺も焼き払い → 御本尊と青岳尼を 連れ去り → その後、聖観音は氏綱公が東慶寺蔭涼軒からお願いして返してもらった → 戻った聖観音は 東慶寺に置かれ → 氏綱公は喜び蔭涼軒に感状を出し、その感状は今(江戸時代)も東慶寺にある…

のだそうです。


太平寺の仏殿は円覚寺で今も残っていますから太平寺は焼き払われてはいないと思いますし、里見安房守って誰?ではありますが、そのへんは江戸時代に書かれたものなので気にしないでおくとして、その他は由来書の通りだとすると‥


青岳尼の父足利義明が国府台で討死したのは天文7年。青岳尼はそれから鎌倉へ来ました。青岳尼と聖観音が一緒に安房へ渡り、聖観音の返還に氏綱がかかわることができるのは、氏綱が亡くなる天文10年までの3年の間ということになります。

3年もあれば起こった可能性もあります。太平寺跡の碑文にも、事件が起こったのは「天文中」とありますし。


でもそれでは、氏綱公が聖観音返還の担当で東慶寺に依頼をし、氏康は青岳尼の担当で東慶寺に手紙を出した、ということになります。それはなんだか妙です。

それに、天文7年~10年の間に、里見が鎌倉へ入ってきたという話を私は聞いたことがありません(ある?)。


これはどういうことだろう?
マリコ・ポーロなりに妄想してみました。


(妄想①) 聖観音と青岳尼は別々の時期に安房へ渡った

由来書の通り聖観音は氏綱公の時代に奪われた。それは大永5-6年の里見の鎌倉侵攻の時だと思われる。しかしそれは聖観音ひとり(?)だけで、青岳尼も一緒というのは後世の勘違い。


なぜなら、繰り返すが、青岳尼は天文7年までは鎌倉にはいないはずだし、もし一緒に安房へ行ったとすると天文7年~10年までの間になるが、その間に里見勢は鎌倉に来てない。

ま、コッソリ小舟で来て上陸し、聖観音と青岳尼を密かに連れ去ってしまうということも出来るかもしれないが、となると、後の氏康の手紙と合わなくなるから。


(妄想②) 氏康の時代に青岳尼だけが安房へ渡った

なぜなら、氏康が東慶寺に出した「ふしぎなる御くわたて」の手紙は、聖観音のことには触れていないから。聖観音は ① のように氏綱の時代に持ち去られ、その後東慶寺に戻されたままだったので無事だった。由来書は江戸時代に書かれたものなので氏綱と氏康とを混同した。

しかし、氏綱の感状のことはどうなるのか?感状、まだ残っているなら見たいです。


(妄想③) 氏康の次代に聖観音と青岳尼は一緒に安房へ渡った

上の②と同じく氏綱と氏康との記録違いで、全ては氏康が手紙を書いた頃に起こった。手紙で聖観音のことに触れていないのは、それは別の手紙に書いていて、その手紙はまだ発見されていないから。もしくは、聖観音のことは口頭で伝えた。

感状も、氏綱ではなく氏康の名前になっているとか?やっぱり感状を見たいです。


その感状とは、上でも触れた館山市立博物館「たてやまフィールドミュージアム」のサイトに載っているもの氏綱の、年未詳10月13日の書状でしょうか?ワテ読めないので分かりません。これです→ 「尼僧略奪」


う~む。疑問の解決には青岳尼がいつ安房へ渡ったかを知る必要があるのう。しかし、それが一番の疑問なのである!


▲ それは、本当に弘治2年なのか?

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~青岳尼が当初入った鎌倉東慶寺の梅~


通説では、由来書は「氏綱」と「氏康」を混同していて、青岳尼と聖観音が安房へ渡ったのは弘治2年の 北条vs里見 の戦時だとされていました。


弘治2年の海戦が本当にあったのかどうかについては、以前からマリコ・ポーロの謎でした。前回のブログ記事「玉縄水軍の御しんぞう様」でも書いたように、玉縄城での真鍋氏の講演でその謎は解けました。「弘治2年の海戦」といわれるものは、永禄4年の戦との間違いではないかというのです。

海戦がだったのかどうかは分かりませんが、永禄4年に里見が城ヶ島(三浦)を攻撃し、腰越(鎌倉)に侵攻したことが、氏康が玉縄の綱成の家臣に出した手紙に書かれています。


講演で真鍋氏は(何度もお名前を出して恐縮)、『北条家所領役帳』を示してくれました。なんと、役帳には「泰平寺(大平寺)殿」があるそうです!役帳は永禄2年ですよね!

弘治2年に太平寺から青岳尼がいなくなって廃寺となっていたら、永禄2年の役帳に載っているのはおかしいですね。太平寺は、少なくとも永禄2年は存在していたということです。里見の鎌倉侵攻が永禄4年なら、辻褄は合いますな。


が、しかし!

再三書いている「ふしぎなる御くわたて」の手紙には年が記載されていませんが、氏康が東慶寺住持の旭山尼に出したと言われています(もちろん侍者を通して)。旭山尼は青岳尼の妹です。旭山尼の経歴を見てみました。


あにゃ~~?
旭山尼は、弘治3年に他界しています


事件が起きたのが永禄2年以降でこの手紙もその時に書かれたものなら、手紙を見てほしい相手は旭山尼ではないですねえ。旭山尼の次か、次々代の住持の方でしょうか?調べたところ、次代は、足利政氏の孫で高基の娘(つまり古河公方の姫)。次々代は、義明の孫(つまり元小弓公方の姫)ですな。

それならそれで別によいのですが、そうではなくて、もし相手が旭山尼だったら、氏康の手紙は弘治3年より前の手紙になります。もしくは、永禄4年に氏康が アノ世の旭山尼に出したか(ひえ~~💦)。


手紙の直接の宛先は当然「いふ(衣鉢)侍者」ですし、文面には「その御寺へうらミ申へく候よし御ひろう、かしく、」で、お名前が書いてありません。

宛先は旭山尼と言われてきましたが、どこから旭山尼という話になったのだろう?

…………。


うぎゃ~
ややこしくて何を書いているか分からなくなってしもうた。


太平寺については、くだんの手紙に「大平寺の伽藍を廃絶するしかない(大平寺御事ハ、からんの事たやし申よりほかこれなく候)」とあります。実際に円覚寺に移築したのは永禄12年(これも年未詳だが氏康の円覚寺宛ての書状より)とされています。

太平寺の建物は、廃寺となった後しばらくはそのままだったようですな。


ちょっと思っちゃったのですが、青岳尼が鎌倉を出奔し安房へ戻ったのがもし永禄4年だったとしたら、鎌倉へ来てから 20年以上の月日が過ぎています。

そんなに逢わずに愛情とか執着とかって継続するものなのでしょうか?
え?する?失礼(^^;


そして、ここにもう一人謎の女人が出てくるのです。

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~青岳尼が渡った海~


▲ 公方の姫は東慶寺(か太平寺)にもう一人いた?

それは、先ほどから何度か書いている、氏康殿が東慶寺に宛てたお手紙の後半にあります。


「…(里見方は)また御新造を盗み取るとの噂を聞きつけました(又御しんそうをぬすミ取へきよし)…」

私はこの「御しんそう」は青岳尼の妹である東慶寺旭山尼のことだとずっと思っていました。なんだかどこかにそう書いてあったような記憶があるんだもん。


ところが「御新造」とは出家していない女性に使う言葉だそうですね。知らなかった(恥💦)。講演で真鍋氏は、「御新造」が誰かは不明だが、まだ出家していないが後々出家させようとしていたのか、足利関係の女性が寺にいたのだろうとおっしゃっていました。

そして氏康は、「御新造」を玉縄へお移しする旨を指示し、もし何かあったら東慶寺様へお恨みを申し入れる(若とかくあつてハ、その御寺へうらミ申へく候)とまで書いているのです。


誰だろう…?ということは、小弓公方関係の姫でしょうか?

小弓公方足利義明殿には3人の姫がいることになっています。青岳尼と旭山尼。もう一人は、山内上杉を継いだ上杉憲寛=足利晴直(晴氏の同母弟だそうな、よく知らにゃい)に嫁いだ方です。夫の憲寛殿は義明殿の元にいたそうです。


この方が未亡人になっていて、義明殿亡きあと青岳尼と共に氏康に庇護された可能性があるのでは!と張り切りましたら、御主人はもっともっと長生きしていました(天文20年没)。

なーんだ。


青岳尼が義弘殿の正室だったか側室だったかは定かではありません。青岳尼の子供のこともはっきりとは分かっていないようです。

青岳尼は天正4年に亡くなったと、安房の菩提寺の供養塔に刻まれているそうです。天正4年、里見義弘の正室は、小弓公方と敵対していた古河公方足利晴氏の姫となりました。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ


「里見へ走った公方の姫」
「弘治2年の「北条 vs 里見の海戦」は本当にあったのか?」
「鎌倉に訪ねる小田原北条ゆかりのヒロインの寺

・「南総里見ファンタジーツアー 1」
・「南総里見 5 「戦国人たちは消えてゆく~里見忠義」」

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年2月12日 (水)

まとめ「北条五代の娘たち」~宗瑞と氏綱の娘たち

マリコ・ポーロ


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~湯河原幕山~


シリーズ「北条五代の娘たち」の早雲こと宗瑞&二代氏綱のお嬢さんは、8人目の「玉縄水軍の御しんぞう様」をもってひとまず終えました。訪ねる場所は広範囲、読むものも大量、妄想すること果てしなく、宗瑞と氏綱のお嬢さんだけで足掛け4年もかかってしまいました。

日を置いて年を置いてバラバラと書き散らしたので、自分でもどこに何を書いたのか分からなくなったため以下にまとめてリンクを添付しました。暇で暇でどうしようもない時-そんな時ないでしょうが-にでもご再読賜りましたら、いと嬉し。


何度も書いており恐縮ですが、「北条の女人たち」を題するものは本でも講演でも展示でも、今川の瑞渓院(氏康室)、武田の黄梅院(氏政室)、徳川さんの督姫(氏直室)など北条に嫁いできた「他家の女人」ばかり取り上げられることが多いです。北条では武田に嫁いだ桂林院と今川に嫁いだ早川殿(どちらも氏康の娘)がいいところ。

北条家は子女が多く、お家乗っ取り養子&お嫁さん送り込み作戦は男女共同参画。お姫さま方も有効活用され、それぞれが歴史に影響を及ぼす大きな家に嫁ぎそのミッションを果たしています。そして、彼女たちのほとんどは、一族の重鎮であった幻庵殿の「覚え書」の教えゆえか、家同士が手切れになろうが夫君が死去しようが実家には戻りませんでした。


このシリーズは、北条の血を引く姫たちが、他家から北条に嫁いできた姫達や他の有名人気戦国大名ゆかりの女人達に負けず劣らず波乱万丈ドラマチックな人生を送ったことを北条ファンの皆様に思い出してほしくて始めたものです。蟻の爪(?)の先(?)ほどにもならない力ですが、少しでも興味をもってくださっていたら幸いです。

では、以下リンクにござる。(昨年ブログ屋のシステムが変わってから過去のブログ記事の改行が上手く反映されなくなっている場合がありますが、ご了承くださいませ。アクセス数が多い記事から順次修正しておりますが、なんせ大量のためはかどらずで。)


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~古~い プチ内裏雛~


▲初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女

「北条五代の娘たち①今川から戻った長松院様」

「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」

「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」


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~本城は蝋梅が満開。そういえば…北条の頃、城内の庭園(←どこか不明)に「泉式部」という梅があって、鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進したと本で読んだが、今でもその梅の子孫は小田原城や八幡宮にあるのだろうか?~


▲二代 北条氏綱の息女

(太田殿室)
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「太田道灌の子息「資康」と、孫?「資高」の不思議」

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」


(吉良殿室)
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」

「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」展」

「吉良頼康ゆかりの寺々(川崎・目黒・世田谷・蒔田)」


(今川六郎殿室)
「北条五代の娘たち ⑦ 錯綜する堀越(今川)六郎室」

(古河公方室)
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」

(葛山殿室)
「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」

(北条綱成室)
「北条五代の娘たち ⑧ 玉縄水軍の御しんぞう様」


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~八王子城城下の個人の方のおウチの中に残る土塁の上に咲く梅(入れません)~


▲三代 北条氏康の息女~大河「直虎」の時に今川さんが出たので先に書きました

(今川殿室)
・「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html
・「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
・「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html
・「今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-88b5.html
 


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年2月 7日 (金)

北条五代の娘たち ⑧ 玉縄水軍の御しんぞう様

マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち【二代北条氏綱の息女~北条綱成室大頂院】

コメントをくださった皆様へ~
ブログのシステムが変わってから、くださったコメントへのお返事がうまく送信されていないことに今頃気が付きました。コメントへは必ずお返事を差し上げているのですが、もし届いていなかったら本当に申し訳ございません。違う方法で順次再送させていただいておりますが、もしお届けできていない方がいらっしゃいましたらお許しを。今後もコメントいただけましたら嬉しいです。



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~相模湾と玉縄を繋ぐ柏尾川(写真の向こうが相模湾、城は右側、左に現代の大船駅)~


永禄10年、三船台で負けた後、綱成の舟が座礁した。玉縄の舟はどこに停泊していたのだろうか?現在の柏尾川はほぼ改修されているとはいえ、戸部あたりに「舟入」の跡らしき場所があるようなそうな。ただ史料はないそう(玉林美男氏)。


さて、シリーズにしている「北条五代の娘たち」。二代氏綱公のお嬢さんたちの、やっと最後の方にござりまする。前回の ⑦山木大方は、なんと!一年前だったのですね。山木の方の印判がイノシシだったので、昨年亥年の年頭にアップしたのでした。(シリーズのブログ記事は文末に添付。ご覧くださるといと嬉し。年齢順不同。)

昨年は玉縄や江戸湾の海賊や水軍関係の講演をたくさん拝聴しました。それらを元に玉縄に嫁いだ姫のことを書きたかったのですが、講演をあまた聞き過ぎ、その上、すぐ他に気が散るため、まとめられぬまま今となっては忘却の彼方。
(ノД`)シクシク…


▲ 玉縄の御しんぞう様とは

法名:大頂院殿さま

父上:二代当主、氏綱
母上:養院さま
(近年、伊豆の横江北条の娘だとされている。)

兄上:三代当主、北条氏康

夫君:氏康のバディ💛、初代玉縄北条、北条綱成
嫡男:玉縄北条二代、北条氏繁


夫君の綱成のことは皆さんご存知ですし、今まで史実・妄想含めたくさん書いてまいりましたので割愛しますが(下記にリンクを添付)、とにかく氏綱公や氏康殿にとっては無くてはならぬ人で、非常に大事にされました。

綱成の出自は今川の福島くしま だとか 父親が伊勢九郎だとか諸説あります。北条での立ち位置を細かく言うと、綱成は北条の家臣であったのが→北条の娘を娶り北条「一門」となりました。大頂院の子、氏繁の時代から「氏」をもらい北条の「一族」となりました。あ、ご存知?失礼。


一門の中でも綱成は随分と特別扱いされていますよね。前にも書きましたが、私なぞ、綱成は氏康の腹違いの弟なのではないかと妄想するほどです。母親の身分が低いとか差し障りある筋とかで公にはせず、でも、公然の秘密だった…みたいにゃ。家光と保科正之みたいにゃ感じ。

大頂院さまが嫁いだ時期は定かではありませんが、長男の氏繁が生まれたのが天文5年です。その頃は玉縄領も玉縄水軍も、氏康の弟であり大頂院の兄である為さま(為昌)のものでした。河越の夜戦(夜戦かどうかは諸説あり)も起きていないですし、鎌倉の鶴岡八幡宮の再建もされていません。まだまだ北条盤石とはいえない頃です。綱成の力がたいそう必要だったのでしょうねえ。


綱成は、天文2年頃には玉縄城代として為さまを補佐していたようです。

数年後に、氏康のバディ💛だった綱成には氏康の妹が嫁ぎ、

為さまは 11年に突然他界します。まだ23才でした。

綱成は為さまの所領の多くを受け継ぎます(その後所領は少し分散)。


だからなんなんだ?思わせぶりな書き方して…ですが、為さまの死因にワテは疑問があり、いや、つまるところ、とにかく、氏康と一心同体のそんな最有力人材に嫁いだのが 大頂院です。以後、夫君の綱成は小田原北条躍進の一翼を担い、その子供達は一族の重鎮となってゆきます。


▲ 大頂院さまが御しんぞう様だった前後の頃の主な海戦(もちろん、対里見)

(大永5年&6年)
里見が三浦に侵攻。天文2年にいったん解消するが、6年に手切れ。


(弘治2年)
これは以前に当ブログ「弘治2年の北条vs里見の海戦は本当にあったのか?」でも書きましたが(下記にリンクを添付)、ずっと疑問でした。里見が城ヶ島を攻撃し、腰越に侵攻とされていましたが記録で見つけられなかったんです。

昨年の玉縄での真鍋淳哉氏の講演で少し謎が解けました。真鍋氏がおっしゃるには、これは永禄4年の出来事との間違いではないか?とのこと。

しかし、『海の日本史 江戸湾』の「戦国期の江戸湾をめぐる攻防」には、
この時(弘治2年)に発給された氏康の書状には、里見水軍を退散させて勝利に導いた梶原・愛洲・橋本・安宅氏に感状を出すとしている…」
とありました??


(永禄4年)
謙信君の小田原攻め時に、里見は鎌倉へ侵攻(和睦は天正5年)。


このあたりが大頂院さまの頃の玉縄の主な海戦ですが、大頂院さまが亡くなって以後、江戸湾の緊張感は益々高まっていくことになります。

「…玉縄城は北条氏にとって重要な役割を果たした「水軍」を統括する役割を果たす」
まさにこれが玉縄城の役割だったと真鍋氏。そして、三浦郡が独立し、三崎城と役割を分担することになります。



▲ 大頂院の菩提寺「大長寺」

大長寺は、玉縄城のある大船駅からバスで10分かかるかかからないか。開基は夫君の綱成殿です。

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墓所は檀家さん墓地の一角にあります。大頂院の息子氏繁の室、七曲殿(新光院殿)は氏康の娘ですが(イトコ同士の婚姻ね)、七曲殿のお墓もこの中にあるそうです。


私にはどれがどなたのやら分かりません。江戸時代に入ってから亡くなった方の新しいお墓は没年や法名が読み取れますが、摩耗していて分からない墓石もあります。たぶんそれらが大頂院や七曲殿のお墓でしょう。一番奥の隅の墓石が最も古そうです。

先日、小田原で梅の枝をゲットした帰りにも立ち寄りました。梅枝は一本だけだったので、ひとつひとつの墓石の前に順番に手向けながら、「本城の梅にございますよ~🌼」とお参りしました。


永禄元年(1558)大頂院死去。嫡男の氏繁はもう 22才位になっています。大頂院さまは 40才 になるかならぬかだったと思いますが、後に憂いはなかったことと…思いたいです。


🐎 綱成母、氏綱正室 養院菩提寺、浅倉の娘 養院菩提寺「香林寺」の 超・錯綜について

ご興味ある方は以前のブログ記事(下記リンク「前編~玉縄の&氏綱ご正室養珠院の謎」)をご覧くださいましたら助かりまする。大頂院さまには直接関係がないのと、本が出るたびにどんどん説が変わってゆき、よりややこしくなるので、ここにあらためて書くことはしないでおきます。


🐎 主に参考にした本

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・『海の日本史 江戸湾』2018.8.17 石村智/ 谷口榮 / 蒲生眞紗雄(洋泉社歴史新書)
・『戦国江戸湾の海賊 北条水軍vs里見水軍』2018.5.1 真鍋淳哉(戎光祥出版)
・『江の島、神の島から人の島へ』2019.3.29 伊藤一美(藤沢市文書館)


🐎 参考にした講演・シンポジウム
(今レジュメが手に入るかどうかは不明。紹介しておきながらすみません。)

・真鍋淳哉 講演「海と川をめぐる戦国大名の戦い~海をめぐる北条・関東上杉・三浦・里見の戦い」
戎光祥ヒストリカルセミナー 2019.4

・戦国時代の鎌倉の実況 2019.5、玉縄城址まちづくり会議
「戦国江戸湾の海賊と玉縄城の水運」真鍋淳哉
「玉縄領の家臣は何処にいたのか」真鍋淳哉・伊藤一美・玉林美男・大竹正芳

・「最新玉縄城資料から見える、実況検討」2019.6、玉縄城址まちづくり会議
黒田基樹・伊藤一美・玉林美男・大竹正芳


マリコ・ポーロ こと 萩真尼


☆ 以下、玉縄城についてのブログ記事の一部なり
「玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ」2011.10
「玉縄城-2 現代の難攻不落の城」2011.10
「玉縄城-3 現代の難攻不落の城」2011.10

「玉縄城下の探索会へ(2019.11)」
「玉縄主催セミナー 「まだナゾだらけ戦国時代の鎌倉」」

「弘治2年の「北条 vs 里見の海戦」は本当にあったのか?」

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」

「為さま(北条為昌)の菩提寺探しに、お助け本が!」

「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッきた氏綱ご正室の出自
「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
「後編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の、謎」
「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッときた氏綱ご正室の出自」
「香林寺の開基は、氏綱公ご正室?為昌殿ご正室?」

「小説 「後北條龍虎伝」と「早雲の軍配者」」
・綱成のお嬢さんの菩提寺のこと含む→ 「「吉祥寺」 古河公方室、太田道灌、遠山氏ゆかりの名刹」


☆ 以下は、まだまだ途中ですが、シリーズ「北条五代の娘たち」

▲初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女

・「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
・「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」

http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
・「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html


▲二代 北条氏綱の息女

(浄心院)
・「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
・「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html
・「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html
・「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
・「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html

(吉良殿室)
・「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

(今川六郎殿室)
「北条五代の娘たち ⑦ 錯綜する堀越(今川)六郎室」
「吉良頼康ゆかりの寺々(川崎・目黒・世田谷・蒔田)」

「「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」展」

(古河公方室)
・「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

(葛山殿室)
・「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html


▲三代 北条氏康の息女

(今川殿室)
・「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html
・「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
・「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html
・「今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-88b5.html



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2020年1月21日 (火)

「小金城と根木内城」 松戸市博物館

マリコ・ポーロ


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~3/22(日)まで。オススメ!~


学芸員さんの展示解説の日に行ってきました。人数が多過ぎて、なんと2回に!人気ですねえ。

「松戸市の戦国末期の全てをご覧に入れたい」とおっしゃる中山学芸員の説明は熱く、面白くて、2回目までの間の30分も 根木内城 のジオラマの前で質問を受けながらの城や地形の解説をしてくださいました。


実は根木内城を知らなかったのでとっても勉強になりました。「根木内城」という名は文書には出てこないし、戦国時代中に埋められたんですってね。

 

展示も充実。遺物のそれぞれの展示には『酒飯論絵巻』が、文書のそれぞれの展示には状況解説がマンガでされていました。分かりやすいです!

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~それぞれにこんな感じ。こちらは高城殿が氏康に「今がチャンス!」と知らせた時の国府台。~


これだけのものが 無料 で観られるなんて。
ドびっくり~(*_*)


根木内城の解説に興味をそそられ、帰りにチラッとでも残っている遺構を見ようと思ったのですが結局2回目の解説も聞いてしまった(途中まで)。今回は寄れませんでしたので、あらためて行ってみたいと思います。

というか、3月に博物館の見学会があるのだね。競争率が高そうですが申し込んでみます!


松戸市は城跡がたくさんあって羨ましい限り!しかし、小金領の人々にとって、北条は侵略者のイメージだったかもしれないそうな。考えて見れば、そりゃそうですよね~。


展示資料リストです ↓ どれも見応え・読み応えあり!博物館HPはこちら

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「国府台城つながりで「小金城」」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年1月17日 (金)

発掘ヶ所は 124!~戦国ワンダーランド小田原

 マリコ・ポーロ


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~小田原城で剪定された梅一枝いただき氏政さまと飾ってみた~


時々ブログに書いておりますが、昨年の夏以来ほぼ毎月参加させていただいている「小田原北条の会」の講座。昨日はおなじみの土屋健作氏による、今まで行われた小田原市内各所の発掘調査についてでした。先月は佐々木健策氏の「御用米曲輪」で、小田原の「ダブルけんさく さん」が続きました。


その前、12日には杉浦平太夫邸の発掘調査を見学して参りました。かながわ考古学財団と小田原市との共催で、内容は▲現場説明 ▲杉浦邸の概要と遺物説明 ▲江戸時代の銅門などの現地説明 の三鱗で盛りだくさん。みっちり濃厚。面白かったです。

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~腐食痕たっぷり付きの、るつぼ~。がたくさん出てきているそうですよ。~


さて4日後。再びの小田原へ。

小田原市内での発掘ヶ所は、その数なんと!
124 !

知ってはいたものの、あらためて資料でそれらを示されると圧巻。配布されると皆さんから ド・ヨ・メ・キ が。さすが我らが大途の本城。凄いですねえ。市内を歩いていると、同時多発、アチコチで発掘に出会いますが、現在も数ケ所で行われています。我が町でもそうですが、今、家の建て替えラッシュですもんね。


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「この調査地点の中に、ご自分の家がある方いらっしゃいますか?」
お一人いらした!
「ではそこをアップにしてみましょう」

うぉぉっ!なんですか!このソフト!
だんだんアップになるにつれ、ついに障子堀が現われた!どんどんクローズアップ出来るのはスマホでなんでも普通なので分かりますが、地下遺構まで現われるとは!どよめきアゲイン。

この場所はとっくに調査が終わりすでに上に建物も建っていますが、そんなところにお住まいだなんて、なんと羨まし~~。というか、どのおウチもビルも北条時代の城域の遺構の上にあるのですから当たり前といえば当たり前。


お話しの内容は、「最新のこと」と「まだ皆さんにお伝えしきれていないこと」。124ヶ所全ては到底無理なので、主なところの詳細をこの素晴らしいパワポで説明してくださいました。

画面に次々と現われる迫力ある堀や土塁。調査地点地図と合わせ見て、脳内に広がるのは戦国時代後半の小田原の姿。そのワイルドでスペクタクルでダイナミックな光景に、しばし忘我の境地。あ、今、会議室にいるんだよねっと我に帰る。


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この景色は氏綱公や氏康殿は見ていないのだよね~。が、しかし、天正18年の日本中の戦国武将達は見たはず!みんな、「凄い、凄い」って記録にもっと残しておいてほしかった…。いや、残したのに無くなってしまったのか、廃棄したのか…。

もし、これらの遺構を全て表に出したままなら、小田原市はディズニーランドに負けないぐらいのワンダーランドになるでしょう。広過ぎてそんなことしたら生活圏が無くなっちゃうから無理ですが。


お話しは非常に興味深く、数十人で聞いているにはもったいない。と思ったら、毎年恒例の遺跡調査発表会で、今年はこれらの報告があるようです。「いらして損はないと思いますよ~」と。

小田原市では学芸員さんなどがこういう市内で行われる少人数の講座や勉強会にも協力してくれるんですね。しかも内容も濃く熱い講演ばかり。まあ、我が町でもそうなんでしょうが、なんせ血湧き肉躍る史跡が皆無な地域なもので…。


講座のあと、なんだか無性に堀や土塁を見たくて新堀から板橋方面へ堀沿いに右に左に寄り道しながらずーっと下りました。歩数は約1万4千歩也。

「小田原北条の会」では、このような講座を月一回催しています。ビジターも大歓迎ですが、会員も募集中。


小田原北条の会の講座記事の一部です ↓

「「北条の 城郭(支城)ネットワーク は本当にあったのか?」鳥居和郎氏」



萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年1月10日 (金)

再びの「なぜ小田原北条は大河にならないのか?」と戦国武将ランキング

マリコ・ポーロ


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~お習字のワークショップで自作したブックカバー~


前回に続いてしつこくブログに書こうと思ったら、10年前!にも書いていました。書きたいことは同じでした。文末に添付しましたので読んでくださいませ。


なぜ小田原北条は大河にならないのか?平安時代からの有力武家はほとんど大河になっているのに。有力でなくてもなっている武家はあるのに、北条と今川、そして太田道灌(含む上杉)もならない。

それには3家共通の理由があるような気が…。徳川以前に駿府や坂東や江戸に勢力を張っていた家があるとイヤな人が世の中にいるとか…。マリコ・ポーロの考え過ぎ?まあ、大河がすべてではございませんので。


年末のテレビ番組「戦国武将総選挙 戦国武将ベスト20」をご覧になりましたか?伊勢宗瑞(北条早雲)も名将北条氏康も、東海一の弓取り今川義元殿も、ベスト20に入っていませんでしたね。

いくらバラエティとはいえ、これには愕然としました。


あんな何もしていない傀儡武将や、少し前まで歴史オタクぐらいしか知らなかったあの武将や、史実では大した功績どころか大した戦績もない武将が入っていたりしました。ゲームの影響なら、北条氏康だってかなりカッコ良いそうなので(ゲームはやらないから分からんが)、やっぱりこれは大河ドラマの影響が大だと思いました。番組も大河推しでしたし。

それにしても信玄殿が7位だったのは…時代が変わったのでしょうか。



北条は戦国の大大名なのに、イベントだって宣伝だって大々的にやっているし、有名だし、なんといってもあの時代に百年続いたなんて家、滅多にないですよ。名門中の名門ですよ。どうして北条は(名門でいえば今川さんもですが)こういう時に出てこないのでしょう?

北条ファンの皆さん!次の「戦国武将総選挙」には、組織票で行きましょう!そしてテレビでもっと宣伝してもらいましょ!「バラエティでしょ」なんて気取っている場合ではありませぬぞよ!


新年早々…(ノД`)シクシク

こちらです↓
「なぜ小田原北条は大河にならないのか?」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年1月 8日 (水)

よりによって、「前」の北条…

マリコ・ポーロ


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~鎌倉殿のお墓への石段~


一瞬、「北条」が目に入り心の臓が飛び出るぐらいドキドキして、こりゃあ北条ブログやめられない!と、血湧き肉踊ったら…


義時?
前の北条じゃないですか!

なんと紛らわし…


しかも、まったく違うならいざ知らず、よりによって「前」の北条。前にもやったじゃないですか、鎌倉北条。「草燃ゆる」とか「北条時宗」とか。これって、「だから の北条はないよん…という放送局のメッセージですかね?


というか、

意気消沈…


大河になる「条件」とは、色々言われていますが、どの大河もそれらに当てはまりませんよねえ。結局なんなんでしょうねえ、大河になる「決め手」って。

でも、考えてみたら、あの放送局で小田原北条が大河になることはないですよね…。あんな理由やこんな理由があるからです。今川家が主役にならないのと同じだと思います。


鎌倉殿の13人の家臣たちですか。キリストと弟子たちのパロディ…なんてことはないですよね。

鎌倉殿亡きあと…。さぞや血で血を洗う…いや、脚本家があの方ですから、もっと軽いタッチになるのかな。


「前」と「後」との違いがあまりにショックで、新年早々もうな~んもやる気がなくなった。眠れん。

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~ニュースを聞いた直後、天を仰ぐマル「天は我々を みはにゃしたかー」~


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年1月 5日 (日)

北条氏照と太田資正(三楽斎)は義兄弟!

マリコ・ポーロ


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~いつも静かな、大石氏から氏照のものになった滝の城(2020.1.3)~


♪ 親の血をぉひく
きょおぉだ~いぃぃ よりぃも~
かた~い 契りの~


違う…
それに、
いつものことながら古過ぎる💦


そう、義兄弟と言えば…
今、BS12 トゥエルビ で放映中の「Secret of Three Kingdoms(三國機密)」の、陛下と司馬の御曹司の義兄弟にはまっております。

三國志の時代は(も)詳しくないので最初の頃は状況把握が大変でした。しかし、メインテーマが曹操や孫権や劉備玄徳たちの活躍ではなく、許都の皇帝たちによる漢王朝の復活!でどうにかついてゆけています。毎日録画して観ているせいか、このところ脳内が献帝(?)と司馬懿の義兄弟(そこだけは架空の話)で占められていました。なんと、全54回!すでに40回を過ぎました。毎日だから、もうすぐ終わっちゃう。それから何を楽しみに生きていけばよいのか…シクシク。


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滝の城 は、またまた発掘調査中。橋があったとされる箇所の堀あたり。2月初めまで続くらしい。~


さて、本題の我らが北条氏照と太田三楽斎殿が義兄弟だということ。それぞれの正室は姉妹だったそうですね。

皆様ご存知でしたか?私はまったく気が付いていませんでした。不覚。前回のブログ記事で紹介させていただいた「中世太田領研究会」の方に教えていただいて、ドびっくり~。

こりゃまた、♪ かた~い 契りの~♪ どころではない義兄弟ですな。氏照と資正殿に義兄弟という認識があったかどうかも分からないところ。ま、当時は義兄弟だろうがなんだろうが、そんなの全然関係ない!


ふたりの姫は当然、大石氏のお嬢さん。同腹の姉妹だそうな。氏照の正室はご存知「比佐」。三楽斎殿の後室は「登志」さんとな。

教えてもらった帰り道、そいういえばどこかでその字面を見たことがあるな~と思い、家に帰ってから、図書館でコピーしたのだのなんだのとドサドサとペーパー類が入っているポケットファイルの「大石」のポケットを漁ってみました。

ありましたよ。『論集 戦国大石と国衆』黒田基樹編 2010.5 の 「大石氏の研究 大石史跡調査研究会」P117 に。比佐さんのことが書かれたところをコピーしたのですが、たまたまコピーの最後のページにありました。


ということは、登志さんが梶原政景の母上ということです。梶原政景は、前にブログに書いた『雪の峠』というマンガの冒頭に出てきていましたね(文末添付)。

ええ、冬、謙信殿が越後から松山城へ峠を越えて来た時の、あのシーンですよ。母さん、あれは好きなマンガでしたよ。謙信殿はあのときずいぶんくやしった。(←むろん西条八十先生のパクリです)


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~二の郭西側の堀の角のところ。登城していた少年に教えていただいた。枝に引っ掛かったままのビニールがお邪魔虫。~


マリコ・ポーロのブログのアクセス数(&滞在時間)の上位は何年も、常に、「江戸は寒村だったのか?」と、武田信玄の娘たちのことと、豊嶋氏のことを書いた記事です。あのう、これって、小田原北条の追っかけブログなんですけど…。悲し過ぎるぅ~~。

そんななかで、北条関係で一番読まれているらしいのが、我が氏照どのの女性関係の記事のようです(文末添付)。


🐎 氏照の正室 比佐さま と、謎の女性たち

以前の記事にも書きましたが、実のところ氏照の女関係には興味がありません。少年関係には興味津々(そんなのあったかどうか知らない・腐)ですが、北条関係の姫君たちのことを書くのがマリコ・ポーロのマリコ・ポーロたる所以 ♪ ユエンナキバラハンドッ? だと皆さんおっしゃいますし、縁戚関係は当時の情勢に影響するのでやっぱり避けては通れにゃい。


今まで書き散らしたものを整理すると…

女人- その1
いわずもがな、大石殿のお嬢さんで、氏照の正室 比佐 さま

母上は 金指平左衛門珍兼 のお嬢さんです。金指殿とは、信玄殿の滝山城侵攻の時、十々里で討死した方だそうですね。『論集戦国大名大石氏と国衆』黒田基樹編 2010.5 「大石氏の研究(大石氏史跡調査研究会)」で知りました。


しかし、同じ本の「武州前沢浄牧院と大石氏(前島康彦)」 には、母上は、「…宗関寺古記録によれば 帯刀先生藤常治 の娘 だという。片倉城主安藤氏の出自で…」とあります。

宗関寺の記録にあるのですか…。安藤氏の帯刀殿?誰ですか?奥州の片倉の安藤氏ではないのですか?八王子の片倉城の城主は長井氏ではないのですか?それから「先生」とはどういう意味ですか?


ちなみに、八王子市史の「宗関寺」のところには…

四世豁州達翁 武州の人、片倉城主大炊允常貞安藤氏の子、幼くして舜悦に侍して一四歳祝髪、一八年間宗関寺に住したが、兵火で焼かれたのを再興し、ほぼ旧観に復した。寛永一五年(一六三八)一〇月五日寂す

とあります。

宗関寺さんは今は「北条氏照の菩提寺ではない」そうですが、つまり、北条ではなく大石氏や片倉城の安藤氏の寺だということなんですかねえ。よく分かりませんが、氏照は中興開基ですし、今のお墓(供養墓?)は、江戸時代の中山家のものです。氏照のお墓に堂々と並んで中山家のお墓がありますでしょ。家臣だったのに…ごにょ。


比佐さまがいつどこで亡くなったかは様々な言い伝えはあれど、史料にはありません。八王子にはそれと伝わるお墓も供養塔もありません。比佐さまのお墓がどこにあるのか、はたまた、すでに時代に埋もれてしまったのか分からないのです。


女人- その2
浄牧院にお墓(供養塔?)がある女人

① お寺さんの言い伝え

お参りした時のことを書いたブログ記事を文末に添付しましたが、東久留米の浄牧院には「伝・北条氏照内室の墓」があります。「内室」とは微妙な書き方です。こちらもハッキリとはどなたのことかは分かりません。お寺の方がおっしゃるには「自害したお姫様のお墓だと聞いている」とのことで、その「お姫様」が誰かは分かりません。

② 滝の城の言い伝え

八王子城が落城した天正18年6月23日、城から氏照の正室が 浄牧院 に落ち、そこで自害したというのものです。城山神社の社務所に、このことを書いたもの(古文書ではない)が額に入れられて飾ってありました。これを見た時は伝承のたぐいだろうとメモもせず、写真も撮りませんでしたので、なんと書いてあったのか正確には思い出せません。

今になって、伝承も一縷の手掛かり、もう一度ジックリ読もうとお正月に行ったところ、社務所は改装工事中で閉っていました。しまった💦

なんて。

③ くだんの高橋家過去帳

氏照正室の比佐さまが、「天正拾八庚寅年六月弐拾参日滅 大石駿河守安祝開基神護山 浄牧院 ニテ自害」とあります。最初にこれを読んだ時はビビビッときましたが、高橋家過去帳以外に史料にないので確実とは言えないと思います。


しかし、①~③を合わせて推察するに、浄牧院には、滝の城から逃れてきて自害した大石氏ゆかりの姫がいたことは確かなようです。浄牧院は、今でもそうですが当時はたいそう大きな大石氏ゆかりの寺院ですから、娘の比佐さまが落ちてきた可能性は充分あります。


女人- その3
志木の柏の城に墓があったらしい、女人と思われる人


こちらも探した時のことをブログに書きましたが、これは本当に謎の女人です。言い伝えしか残っていません。

「志木町の城跡に、天正18年八王子城落城当日、柳瀬城(滝の城)から逃れてきて、ここで自殺した女性の墓があり、それは氏照夫人との言い伝えがある」「碑面は全く摩滅して、僅かに六月二十三日の他判読できない」

と、上記の『戦国大名と国衆…』「大石氏の研究(大石氏史跡調査研究会)』に載っているだけです。


私が行った時は、その墓さえまったく見つけられませんでした。6月23日に亡くなったお墓の主は誰なのでしょう。

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~柏の城に残る堀跡だそうな~


🐎 比佐さまの姉妹 登志さま

氏照の義兄弟ということになってしまった太田三楽斎殿の、正室であり大石殿のもう一人のお嬢さんである 登志さん。姉妹はそれぞれ結局は生涯の宿敵となる夫を持つことになりました。登志さんは、どういう人生を送ったのでしょうか。


後妻ゆえ三楽斎殿とはかなり年が離れていたでしょう。先妻(難波田氏)の子であり北条の婿であった氏資に岩付を乗っ取られたあと、三楽斎殿や息子の梶原政景についていったのでしょうか。それとも、人質として小田原にいたりしてそのまま天正18年を迎えたのでしょうか。それとも、実家大石の縁故を頼ったのでしょうか。それとも、すでに…。

登志さんのことは、太田資正研究の方々にお委ねしてもよろしかろうか。

(’∀`)ノ


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~堀跡の横の道にいた猫。「比佐さまっ!」「登志さまっ!」どっちで呼んでも振り返った。戦のさなかなのにチトふっくらでござるにゃ。~


「浄牧院~北条氏照 「謎の内室」の墓」

「ついに分かった?北条氏照正室の最後と、氏綱正室の出自」

「「柏の城」 北条氏照、第3の室の最後」

「「滝の城」 焼かれた(焼いた?)四脚門跡」

「岩明均 『雪の峠』 (1999)」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年1月 1日 (水)

令和二年(2020年)かのえね

マリコ・ポーロ


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~令和元年12月5日撮影~


昨夜は二本の杉の大木をネズミがかじっている夢を見ました。ついに杉は倒れネズミは虎に変じました!
なーんて。


あけましておめでとうございます
今年も当ブログをよろしくお願い申し上げます


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~令和元年12月25日撮影~

キラキラしかったです☆☆☆

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~両陛下がお上がりになる後ろ側~


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2019年12月27日 (金)

『太田資正と戦国武州大乱』中世太田領研究会

マリコ・ポーロ


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~まつやま書房 2019.12.15 ~


ついに出ました!
特に太田氏関係では御教授いただいている歴友師匠方の共著です。楽しみにしておりました。

我らが小田原北条の好敵手。なのに北条ファンにも大人気の太田三楽斎殿。拠点であった岩付や、主な舞台となった坂東の戦乱の中心地のひとつであった比企はじめ、三楽斎殿や取り巻く人物の足跡を丹念に訪ね、史料を丁寧に調査し、通説(?)とは違う視点も含めてまとめられた本です。


目次だけ見ても興味津々。

(武州大乱前夜を考える)
太田家の出自 / 太田「道真」資清 / 太田左衛門大夫「道灌」/ 道灌の家族 / 養竹院殿義芳永賢の死 / 太田美濃守資頼…等

("反北条の岩付城主"の虚像と実像)
虚像の資正 / 実像の資正(武州大乱以前)/ 実像の資正(武州大乱の四年間)…等

(勢力として見る岩付太田氏)
戦国期の支配領域・城館・家臣構成 / 関東幕注文から見る岩付太田氏家臣 / その他の一族・上級家臣


第四章は、三楽斎殿や家臣たちが活躍した地の解説です。

(現代に残る戦国を歩く)
埼玉郡地域の岩付太田氏史跡 / 足立郡地域の岩付太田氏史跡 / 入間郡・比企郡地域の岩付太田氏史跡

携帯しやすい本なので、こちらを持って巡ってみたくなりそう。


著者の「中世太田領研究会」とは…
「太田資正を中心として太田家の支配領域について、歴史学者や地方史研究家の著作から学び、文書館などで原典にあたり、また現地に赴いて残されている遺跡を確かめながらそれぞれが学習した成果を持ち寄る会」
だそうです。

素敵ですねえ。小田原北条や我が八王子城と氏照にもこういう会がほしいです。(他人まかせにしないで自分が作れ!と言われこともあるが、単騎千里を行くことが多いので仲間がいない。羨ましくてござる。)


本のあとがきで、「…もっと他に書くにふさわしい方はたくさんおられると思うと恥ずかしい限りであるが」と謙遜してらっしゃいますが、皆さん本職は違えど研究者であり、単なる趣味の歴史好き同好会が出した本ではないです。本格物です。

また、「学者には書けない大きな疑問についても記すことができた」とあるのも興味津々のところ。


発売されたばかりなので「はじめに」と「おわりに」を読んだだけですが、今まで伺っていた研究会の方のお話しと合わせて考えると、この本は、現代の武州における三楽斎殿と岩付太田の 復権 の本だとも思いました。


年末からお正月にかけて、テレビはまた4時間・5時間の、同じようなメンツが大量に出て大声で大騒ぎしたり、大勢で食べ歩き「ん~、メッチャ美味しい~」と言ったりするような番組ばかりになりますね(←私感なり、大勢で楽しくにぎやかに番組を盛り上げている…という見方もあります)。

現代の武州でこの本をゆっくり読みながら、450年前の武州大乱に身を投じてみようか。


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~充実の厚さですがソフトカバーで軽く、文字も大きくて読みやすい(出版社の人か?って)~


🐎 余談
俳優のモックンのお家は「鴻巣七騎」のひとつだった本木家なんですってね!ドびっくり~。来年の大河「麒麟がくる」で、大河史上最美 の美濃のマムシ殿を演じられますな。


よろしくば

「岩付城を築いたのは、太田か成田か?」



萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2019年12月16日 (月)

北条家臣 桜井武兵衛さん、はしりめくる!

マリコ・ポーロ


超々 オススメ!
22(日)までです。急ぎお走りくだされい!

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~コレクション展は無料でござる~


神奈川県立歴史博物館で開催中の「桜井家文書ー戦国武士がみた戦争と平和ー」は、戦国時代から江戸時代への転換期に生きた一人の武士の「奮闘記」を見るようでした。


奮闘記の主人公の桜井武兵衛さんは、父上が北条氏康・氏政に、自身は氏直に仕え → 小田原の役後は結城秀康に仕え → 越前の松平家の家臣となり、ここではけっこう御出世されたようです。

北条家臣時代は小石川に所領を持つ江戸衆で → その後は新田に所領が移り上野方面で活動したそうです。小田原籠城時は最後まで城内におり、氏直が高野山に旅立つ2日前に感謝のお手紙をもらっています(7年前に書いたブログ記事を文末に添付しました)。


実はコレクション展の前の「博物館入門講座」で、このコレクション展担当学芸員さんのレクチャーもあり、予算ゼロのコレクション展を開催し図録まで作成する奮闘を拝聴していました。それはまさに「学芸員はしりめくる之覚」でした。たぶん、どこの学芸員さん方も戦国武士の武兵衛さんのようにいつも「はしりめくって」らっしゃるのだろうな~と認識がちょっと変わりました。

企画展を観て、もっとこうすればいいのに、ああすればいいのに…なんて、もう言えにゃい。。。
(^^;


展示の解説もぜひ伺いたかったので、昨日の展示解説に参加してきました。集まったのは34-5人で展示室いっぱい。時間も30分のところ1時間にもなり、もはや講演会状態。面白かったです!

「桜井家文書」は「ウブな状態」で現存していたそうで、紙質や折り筋や封の仕方や墨引きがしっかり残っています。特に北条時代のものは、それが良く分かるように展示台の敷布を黒色にしたそうです。こたび修復が成ったので、お披露目となったそうです。


▲ 笑った後に、な~るへそ~の虎朱印

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~我が家の猫朱印。反対向きにゃ。~


朱印のスタンプが捺せるコーナーで「どうしても掠れてしまって上手く捺せない」と言っていた小学生が北条の朱印状を見て「なーんだ、北条も上手く捺せてないじゃん」だったそうです(笑)。

確かに~。掠れて半分位しか良く見えない虎朱印と、バッチリ捺せている虎朱印がありますよね。


他の研究者の方達と考えたところ、どうやらそれは、捺すスピードにあるのではないかとのこと。

個人個人に発給したものは、時間もあるのでゆっくり捺せた。戦の招集など多数の人に同じ文章で発給したものは、一枚一枚丁寧に捺していては手間がかかる。バシバシ捺していったので綺麗に捺せてないのではないか?って。もしそうなら、今の私達と同じですね。


虎も、北条初期のものは尻尾もお耳もハッキリ見えるけど、後期になると尻尾もお耳も無くなっています。たぶん、朱印は限界まで使って、もうこれは使えないとなった時に、それを写して新しく作ったからそうなったのではないか?って。

物持ちのよい北条家らしく、な~るへそね~です。


▲ 北条ファンは涙なくしては見られない、氏直最後の朱印状

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7年前の期間限定の常設展で観た時は、紙質までは気がまわりませんでした。こたびは紙質も良く見えました。学芸員さんもおっしゃていましたが、「懐紙」のようなものでした。

高野山へ旅立つ2日前。今までのような良い料紙はもう使えなかったのでしょう…。


朱印も掠れていますな。綺麗に捺せていません。最後まで付き従ってくれた家臣たちに、♪ ありがとうって伝えたくて~ このような朱印状をたくさん皆に出したのでしょうか…。

そして、次に書きますが、これは家臣たちの再就職の時の武功の証にもなります。氏直さは、当主としての最後のつとめを果たしたのでしょうか。

しかし、もう北条当主ではないので虎朱印は使わず、自身の印を使っているのだよ。


▲ はしりめくり

展示の「桜井家文書」は全部で30点。武兵衛さんの父上に宛てられたものが数点。あとは武兵衛さん宛と武兵衛さん自身が書いたもの(1点)です。北条時代が11点。秀吉・徳川の時代でした。北条や結城や松平忠直が武兵衛さんに出した感状や朱印状、知行宛行状やお手紙です。

この記事のタイトルの「はしりめくる」は武兵衛さん自身が書いた「我等はしりめくり之覚」のこと。最初に見た一瞬、「はしりまくり」をどこで切るのか分からなかったそうです。「我等は、尻めくり」か??って。展示のトリを飾っていました。


当時の「我等」は「我」の一人称だそうですね。

これは、戦国武将が就職活動をする時の履歴書(職務経歴書)だそうです。自分で自分の戦功を書き綴るんですね。しかし、当時は今と違い話を盛ったりは出来ないそうです。全ての戦功には証明する人の名前や、その人の現在の居所(連絡先)を明記するそうです。


そこから分かることのひとつとして、つまり居所を書くということは…
それは、小田原北条が滅びたあとも、北条OBのネットワークは残っていた!ということだそうです。

そうですよね!でなければ居所は知らないですものね。そして北条OB達は、けっこう徳川御三家に仕えている人が多いということも分かるそうです。


読むと、細かいですよ~。時系列が合ってないので、武兵衛さん、思い出しながら、思い出しながら、思い出したことから書いていったんですねえ。戦国武将の手紙や指示書って、いつも細かいな~と思いますが、履歴書も細かいんですねえ。私は就職の時の職務経歴書にこんなに細かく書きませんでしたよ(書くほどの功績がないということもある💦)。

武兵衛さんの、氏直時代から結城・松平時代へ「はしりめくった」数々を読んでいくと、武兵衛さん頑張ったな~、でも、それは武兵衛さんだけではなく当時の戦国武将たち誰もがそうだったんだろうな~と、感慨深いものがありました。


自身の41年に渡る戦功を書き連ねた最後の最後の項に、
我等むすこ十大夫、あしがるかしら松崎弥五介打死仕候
とありました。ご嫡男、討死されたんですね…。元和になっての、越前でのお家騒動でした。


▲ 新出の秀吉朱印状(常設トピック展示「展関東足利氏―新収蔵史料の紹介―」 )

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~写真の一番奥。桜井家文書ではないので、常設展で期間限定(27金まで)。~


県博が今年(2019)入手した、秀吉が小弓足利頼淳(頼純)に出した朱印状です。頼淳は国府台で戦死した義明の息子で、青岳尼は女兄弟。息子(国朝)のお嫁さんが、古河公方の娘氏姫です。

この朱印状の存在は知られていたものの所在が不明でしたが、某古美術商が持っていたそうです。


宛名が「鎌倉左兵衛督殿」になっています。当時の頼淳は里見のところにいました。鎌倉に住んだことも、もちろん公方でもありませんでした。

この宛名のことから某新聞社がこれは秀吉の「徳川シフト」だとの旨を書いているが、そうは言ってなく、秀吉の意図はチト違うんじゃないか?とのこと。


朱印状の日付は、くしくも、上記の氏直が武兵衛さんに感状を出した日と同じです。

こちらも必見!ぜひ!


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~充実の図録 A5判(700円)。新出の秀吉の朱印状のことも載っています!~



🐎 別件

先日、小田原でのシンポジウム「伊勢宗瑞の時代」で家永遵嗣先生の講演を拝聴しました。

恥ずかしながら私には難しく、まったくついていけませんでした(ホント)。まさに「伊勢宗瑞の時代」の京都・北陸・周防・甲斐・信濃などなど広域にわたる話で、今まで調べたことのない登場人物も多くとてもブログに書けないでいます。

しかし、その中の初めて聞いたある人物に興味が湧きました。もう少し調べてから書いてみたいと思っています。


「北条氏直、最後の当主の 「最後の朱印状」」
「「こもんじょざんまい」 神奈川県立歴史博物館」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2019年12月 4日 (水)

講演 「上杉三郎景虎 勝つための戦略」乃至政彦氏(2019.11)

マリコ・ポーロ


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~越後。車窓より~


風が冷たくなると上越に行きたくなる。かつて常宿にしていた直江津のホテルの窓から眺めた早朝の鈍色の空や、能生の古い屋並の向こうに横たわる初冬の日本海を思い出す。冷え切った五臓六腑に沁みわたる、ほど好く温められた糸魚川の銘酒が越後に来たなあという想いを更に強くする。


八王子市民講座 「上杉三郎景虎 勝つための戦略~上杉謙信の死後、景勝と越後を争った北条氏康の七男~」を拝聴しました。講師は、あの 乃至政彦氏。満席でキャンセル待ちも出たそうです。70名定員ではもったいなかったネ!

景虎さんが特に好きだというわけではないですが、景虎さんのことを考えるととても切なくなります。講演の内容を以下に書きますが、書いているうちに切なくなり、力が入り過ぎて長~~くなってしまいました。


乃至氏は参加者の質問に、「八王子の人は景虎が好き」とおっしゃいました。確かに、八王子城では男女問わず景虎さんの話がよくでます。なんででしょうかねえ?上杉は我らが氏照が取次でしたし、最後に援軍に行ったからでしょうか?

それなら氏邦さんの寄居でも、景虎さんは人気があるのかな?


これもよく書いていることで恐縮ですが、皆さまと同じく マリコ・ポーロ も子供の頃から歴史が大好き。その頃からほんの10年ぐらい前までは、何といっても上杉謙信が No.1 でした。それでブログを始めた前後も、たびたびたび!上越に行っていました。(謙信くんは好きですがその後の上杉家にはあまり興味がなかったので米沢は数回しか行ったことがありまへん。)

ブログも初めの頃には上杉謙信のことをよく書いておりました。しかし、八王子城と氏照に出会い小田原北条に興味が出てから、それまで私が知っていた上杉謙信とは違う謙信像が再構築されていきました。


また、北条を追いかけているなかで景虎さんのことも何度か書きましたが、その後、乃至氏や今福匡氏の本を読んで(けっして自ら文献を調べたわけではにゃい💦)、当時ブログに書いたことがけっこう違っているのではないかと思いました。かと言って、過去のブログをこっそり書き換えてしまってはその時のパッションが薄れた文章になってしまうし。そんなわけで、文末に添付した当時のブログ記事は、そういうことをお含みおきの上ご覧くださると助かります。

こたびの乃至氏の講演でも認識が変わること多々ありました。


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~「マル、今日はこの講演会へ行ってきたのだよ」「講演会ばっかりだにゃ~」~


講演は数年前に出版された、乃至政彦・伊東潤共著「関東戦国史と御館の乱 上杉景虎・敗北の歴史的意味とは?」(2011. 歴史新書y) に沿っていましたが、発売当時読んだきりのこともあり、凄く面白かったです!

・メインテーマは、
「景虎は、どういう終着点を目指して挙兵したのだろうか」

・内容は、
上杉景虎の初期行動 / 景虎は北条氏の血を頼みに決起したのではない / 上杉景虎と合戦 / 謙信の急死と遺言 / 北条氏の動向 / 武田勝頼の動向 / 上杉景虎の戦略 / 北条景広の役 / 景虎の敗北 / その後の評価


皆さんはとうにご存知のことかもしれませんが、不肖 マリコ・ポーロ がビビッときたことを講演と本とレジュメの内容を合わせて、簡単な話(簡単か?)から順番に。


▲ 謙信は、厠で脳溢血で倒れたのではないのでは?

このことは、2011年に発売された上記の本で読んで知りました。


甲陽軍艦に「閑所」にて謙信が倒れたとあります。「閑所」とは「私室」という意味もあり、伊達政宗が毎日「閑所」に2時間こもってご飯のメニューを考えましたが、そこが厠のわけはないだろうと。それは前から妙な人だな~、でも政宗は妙な人だからそうなんだろうな~と思っていました。好きですが。

「閑所」を「厠」と訳したのは江戸時代の軍学者だそうで。


また、景勝殿が、謙信は「不慮の虫気」で倒れたとお手紙を書き、これを上杉年譜では「卒中風」としています。

謙信がお酒好きだったと伝わることからも脳溢血を疑ったことがありませんでしたが、「虫気」とは「ちゅうき」ではなく「むしけ」とそのまま素直に読むもので、それは「腹痛」のことだそうです。そういえば、むか~し、子供が「むしけ」を起こしたとかオバアチャンやオジイチャン達が言いましたよね~。

謙信殿はお酒が好きで、梅干しをアテにお酒を飲むことを好んだ…も根拠がないとか。これには、ドびっくり~。なーんだ、真似っこしたのに…という御仁も多いのでは?


脳溢血で倒れたなら遺言を残せるわけがないだろう、直江殿の奥方が枕元で今際の際の謙信から聞いたとウソついたとかつかないとかとか言われていました。しかし、それで景勝殿が「謙信公が脳溢血で急死したので、遺言により実城にはいります」としたら、遺言うんたらは捏造このうえない。

腹痛ならどうにか遺言は伝えられますな。それで景勝殿は、謙信が「虫気(腹痛)で遠行(逝去)したため、遺言により実城にはいります」と書状に書いたのだろうと。

では、謙信殿は後継者をどのように考えていたのか?


▲ 上杉謙信の気持ちの移り変わり

顕景(景勝)体制

景虎さんには「山内上杉」を名誉職として譲る

しかし、山内の家督が家中で必然化してきたため…

顕景(景勝)ではなく、景虎さんと自身の姪との子(景勝にとっては甥)である 道満丸 体制へ


それを充分に練られないでいる時に「虫気」で倒れてしまった

のではないかと乃至氏はおっしゃいます。


当初の景勝体制構想は、名前からも見て取れるそうです。

長尾家の相続者は、政景・晴景など「景」が に付きます。景勝も「顕景」でした。しかし、顕景が長尾家→上杉家となった場合そのままではいかず、「景」を上に「景勝」としたのでは?って。


そして、一番 ドびっくり~ したこと。皆さん、ご存知でしたか?


▲ 景虎さんは北条を頼みに決起したのではない

と乃至氏はおっしゃいます。もちろん実家得意の養子縁組作戦で上杉を乗っ取ろうとしたのでもないということでしょうか。

何故なら、謙信死去の約2ヶ月後の5月17日、景虎さんは数日前に移った御館から、飯山の桃井に春日山城を攻めさせていますが、景虎さんはこの時点でまだ自分の挙兵を氏政さんに伝えていないからだそうです。


しかし桃井は討たれてしまいます。景虎さんはこの初戦で失敗したため、実家に援軍を求めた…ということでおそらく間違いないだろうとのこと。景虎さんは初めは自力で家督を継ごうとしていたのでしょうか。

景虎さんが、「真っ先に北条の支援を取り付けるのは得策ではないと考えていたのだろう」としています。


では、御館の乱はどのような経緯をたどったのでしょうか?


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~伝景虎屋敷跡(二の丸)より頚城平野を眺める。ここが景虎屋敷だったという考古学的な根拠はない。~


▲ 謙信死去後の当初は景勝殿と景虎さんは争っていなかった

大河ドラマなどでは、謙信が厠で倒れた後 → 間髪入れず景勝方が米蔵を押さえ → 景勝が実城に入り → 景虎屋敷に攻撃を加え → 景虎さんは御館に逃れる…という場面が息つく間もなく続くというのが今までのパターンでした。


事実は皆さんご存知のように違いますよね。乃至氏のレジュメにある年表を少しハショッテ写させていただきます。長いので読むのがメンドクチャイ方やご承知の方はすっ飛ばして先をお読みくだされ。


(天正6年)
3月13日、謙信死去

同月24日、遺言により景勝が実城に入る

同月28日、三条城の神余親綱が会津蘆名を警戒し独断で周辺から人質を集め、景勝からとがめられる

(春日山はまだ静か)

5月1日、「三条手切」
蘆名がやはり侵攻してきたことにより、人質の件で景勝から責められた三条の神余は憤慨し、景勝から離反

同月5日、三条方の本庄ら(栃尾)vs 景勝方、大場で戦闘


同月13日、景虎が御館に入り、三条&栃尾と連合する

同月17日、景虎は桃井(信濃飯山城)に春日山に先制攻撃をさせるが失敗

同月28日、北条氏政、武田勝頼に越後派遣を要請

↓(氏政は佐竹と相対していたため動けず)

6月11日、景虎方 vs 景勝軍、荒川館・大場・居多ヶ浜方面で激突するが、景虎方が敗北

同月12日、再び景勝軍勝利し御館周辺を焼き払う

同月29日、武田勝頼軍、木田(春日山と御館双方から一里)に布陣

8月28日、勝頼が帰国を開始


9月、北条氏照が坂戸城に迫る ( `д´)/

10月、雪が近づいてきたので撤退 (ノД`)

同月24日、上野から御館に入っていた北条(きたじょう)景広 vs 景勝軍と戦闘するが敗退

(天正7年)
2月、景広討ち取られる


3月16日、御館、総攻撃はじまる


というように、景虎さんが御館に移ってからは怒涛の展開になります。

でも、景虎さんが御館に移り乱が始まったのは、謙信死去の約2ヶ月後です。それまで表立った「家督争い」のようなことは起きなかったようです。景勝殿も景虎さんに対して特に行動は起こしていません。


▲ では、なぜ景虎さんは決起したのでしょう

乃至氏がおっしゃるには、景虎さんは、「景勝体制のスタートダッシュの危うさを見て、景勝では越後を保っていけないと考えたのではないだろうか」と。

チョットびっくり~。それまでのワテの認識とブログに書いてきたことと全然違います。


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~『関東戦国史と御館の乱 上杉景虎・敗北の歴史的意味とは?』乃至政彦&伊東潤(歴史新書y) 、『上杉景虎 謙信後継を狙った反主流派の盟主』今福匡(宮帯出版社)~


マリコ・ポーロの受け取り方違いや読み間違いや聞き違いがあるかもしれないので、ご興味ある方はこちらを読まれるとよいと存ずる。謙信の後継者構想が、道満丸へとなった理由と思われることも色々と書かれています。

そんなら最初からそっちを読めばよかったって?


そうそう、謙信の軍役帳に景虎さんの名前がない理由の話で、乃至氏は、以前は景虎さんに実践経験がないとしたが、今は実戦経験があると考えられているとおっしゃっていました。

軍役帳には、楡井・蓼沼・大石・楠川らの名前がないことから、元々謙信のそばにずっといる直属の馬廻り衆は書かれていないようですよね。乃至氏は、これは「増員名簿」であり、これによって謙信は全てを直轄化するつもりだったのでは?と。


▲ 北条氏政と武田勝頼

(氏政)
「佐竹に常陸小川台合戦を仕掛けられて、景虎の挙兵に即応できなかった。もし、景虎が御館に入る直前から援軍を要請していたら、また違った戦略を取っていただろう」


(勝頼)
景虎や氏政を軽視していたとよく言われますが、「たぶんそうだろう」と。

また、よく言われる、跡部と長坂が景勝から賄賂を受け取ったというのは「有り得ない」。なぜなら、交渉には「信豊や香坂らが関与しており、ふたりが賄賂を受けて勝頼の判断を曲げることはできないから。」


勝頼が景勝に味方したのは、
「勝頼は、最大の脅威として信長対策を考慮せざるを得なかったのであり、関東に専念する北条氏政とは意識の違いがあった。」

こっちも大変な時に一銭にもならない北条のために戦うなんやってらんない、しかも氏政来ないのに…って。確かに~。同盟を結んでいたらお互い様なことですが、でも分かるぅ(勝頼さま、マリコ・ポーロなんぞに分かってもらわなくったっていいでしょうけど )。


え?ということは、つまり…誰も悪い人がいない。。。

もちろん、明日の命さえ分からない戦国時代。皆、自分や一族や領地を守るためにそれぞれの正義があって、それに即して動いている。それにしても、乃至氏にかかるとみんないい人。講演を拝聴して、私なぞが申すのも失礼ですが、乃至氏もいい方なんだろうな~と思いました。


(景虎さん)
たいがい負けた武将は後に悪く言われるが、景虎にはまったくそういうことはない。景勝も、この挙兵について批判はしていないし、上杉家の記録も景虎をいっさい愚将扱いしていない。きっと景虎は周囲に随分と気を遣って越後で暮らしていたのだろう。

(景勝殿)
軍記などでは強引に実城を制圧して景虎を追い出したように語られるが、これは後に言い伝えられただけではないだろうか。景勝に自己弁護の形跡はない。

(勝頼さま)
北条方の声により、御館の乱で判断を見誤って後の没落に繋がった愚将のように語られてしまった。

(氏政さん)
同時代に氏政を非難する記録は特にない。自身も景虎救出の失敗を悔み、その供養に努めている。


「それぞれの評価は今も揺れ動いている。その時その時最善を尽くしていたわけで、結果から評価をせず当時の状況を見ながら評価をした方が、あとからあてる評価を見るより楽しいと思う」
by 乃至氏。


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御館からは逃亡兵が相次ぎ、館に残るは「雑兵二三百人(景勝公御年譜)」。2月11日、景虎は本庄に「人数千も二千も可相立候」と、千から2千の人数を送って欲しいと切望。(乃至氏レジュメより)

3月16日、御館、落城。
上杉憲政は殺害され、道満丸は華渓院(妻・景勝妹)と共に自害(と伝わる)。景虎は鮫ヶ尾城へ。


3月24日、鮫ヶ尾城は総攻撃をうけ景虎自害。享年26。

やっぱり、切ない…


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

🐎 以下は、景虎さんや上杉謙信や上越の旅を書いたブログ記事の一部です。

「北条氏照の悩める存在‘上杉謙信’と、景虎さん」

「琵琶島など「北条氏照の悩める存在 上杉謙信と景虎さん」」

「能生・米沢「北条氏照の悩める存在 上杉謙信と景虎さん」」



画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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2019年11月26日 (火)

玉縄城下の探索会へ(2019.11)

マリコ・ポーロ

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~玉縄城下にある「玉の井戸」。氏繁の室、七曲殿がお茶に使ったと伝わっている。~


昔、鎌倉の水は山の方へ行くと鉄分が多く、海の方へ行くと塩分が強いというもので、鎌倉は良質な水に恵まれない土地だったそうな。それで「鎌倉十井」などと言われるように井戸が大切にされたそうな。

この「玉の井戸」は鎌倉十井ではないが、七曲殿 がお茶に使う水を探していたところ重臣の井戸の水が美味しかったため、七曲の館から毎日汲みにこさせていたと言われているそうな。



七曲殿 とは、北条氏康の娘で、玉縄北条の綱成の息子氏繁の室であった 新光院殿 のことである。城内に「七曲」という場所があるが、そのあたりに屋敷があったのでそう呼ばれたとされている。

井戸の水は玉のように美味しい水だったので「玉の井戸」と名付けられたそうな。井戸には特に案内板などはなく、個人宅の所にある。


ということで、玉縄城址まちづくり会議 さんが主催する「玉縄城まつり」の、玉縄北条研究ではお馴染みの大竹正芳氏の案内による玉縄城址探索会に参加しました。城内へは入ったことがありますが城まわりを案内していただくのは初めてで、色々と興味深い発見がありました。

行事は、まずは玉縄北条六代の菩提寺龍宝寺本堂での北条早雲没後五百年の法要が営まれ、次に寺内の古民家にて、同じく玉縄初め逗子や鎌倉など三浦半島の戦国時代研究ではお馴染みの伊藤一美氏が、玉縄北条六代についてしみじみ~と(?)お話しされました。続いて上泉信綱の流れを組む新陰流の、身が引き締まるような演武がありました。



🐎 探索会に出発!

玉縄城・玉縄領の機能や歴史や玉縄衆については皆さんの方が詳しいと存ずるし、どこにでも書いてあるので割愛。玉縄の舟運のことや柏尾川の舟溜まりのことは、追って、いずれ、いつかは、以前の講演で伺ったことを書きたいと思います(思ってばかりで全然書かないけど)。



上にも書きましたが、玉縄は、城内にはガイドツアーで入ったことがあるのですが(文末添付ご参照くだされ)城下は初めてです。玉縄に限らず岩付や葛西のように住宅街になってしまっている城跡は多く、そういうところは教えていただかないとどこがなにやら分かりません。城跡歩きの強者は古地図や絵図面を見ながら住宅街を、なるほど、なるほどと歩かれますが、城郭に不得手で、その上、超ド級の方向音痴のマリコ・ポーロ にはトント無理。


▲ 七曲坂

ご存知、鎌倉側から城内に入る口で、七曲殿(新光院殿)の屋敷があったとされるところでもありますね。

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8年前の写真が ↑ です。建物に遮られておらず、また、階段ではなく土の坂でしたので往時の雰囲気を想像できるい~い感じでした。今は階段や幼稚園やマンションが出来、下から見上げる景観が随分と変わっています。 でも、階段になったおかげで、この日のような雨の日も快適に登り降りができるようにもなりました。

マンションのところに公園を造ってくれていて、そこにマンション建設時の発掘調査のことが詳しく書かれていました。是非読んでくださいと、大竹氏。


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七曲階段(?)は突き当りを右に行くようになっていますが、それは新しい道で、旧道は左へ行って太鼓曲輪へ至るそうです。侵入禁止の柵がありました。


▲ 太鼓曲輪

玉縄城の往時を偲べる、自由に入れる唯一の場所です(あとは学校や個人の敷地裏などなので所有者がいらっしゃいます)。七曲坂からの旧道を行けないので、右側から廻り上がります。

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太鼓曲輪からは、南側の下に硝煙曲輪の平場を見ることができます。探索会では硝煙曲輪に降りることになっていましたが、雨で足場が悪くて行けず残念なり。

太鼓曲輪も個人のお宅の畑だったそうですが、玉縄城を訪れる人達が自由に入れる遺構がないため、地主さんと契約をして入れるようになったそうです。ありがたいです!

七曲坂の旧道は、太鼓曲輪の南側の堀切の堀底を通り、尾根の反対側の曲輪に出るようになっていたそうです。


▲ 城主の館

発掘調査により分かった門の跡や、木が生い茂って見えなくなっている堀の跡や、残った家臣のオウチなどを教えていただきながら、学校の周りの住宅街を坂を登ったり下りたりグルグル歩きました。学校が出来たことを嘆く方もいますが、私はむしろ学校が出来たことでかろうじて残った城内遺構があるのだと思っています。学校がなければ、これら全部宅地開発されてなんも無くなっていますよぉ。



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城主の館があったとされる場所には、こちらもド真ん中にマンションが建っています。発掘調査では、池跡や、なんと並木道跡も出てきているそうですね。

並木道!
綱成ったら、すてき~☆ いや、氏繁かもしれんが。趣味人だし。

たまに氏康殿と轡を並べ、「孫九郎、この並木道はよいのう~(並木道と言ったか?)。小田原にもほしいものじゃ。」「はっ。お褒めに預かり恐悦至極」なーんて、鎌倉街道下道から → 池を眺めながら並木道を通り → 七曲を上り → 城内に入っていったのでしょうねえ(黄色い矢印)。

あ!妄想してたら伺い忘れた。並木道にはなんの木が植えられていたのでしょう?


▲ もっと妄想ですぅ~

(その1)
早世した為さま(為昌)は、その勢力拡大を懸念した兄氏康・綱成ペアによって抹殺されたのではないか…。
これは、歴史師匠や歴友さんたちでもけっこう言う方が多いです。


(その2)
綱成は氏康の腹違いの弟、つまり氏綱の息子だったりして…?
以前にも書きましたが、色々かなり特別扱いされていることが多いので、フト、身分の低い女人とかの所生だったのではないのかにゃ~と思った次第。なんの根拠もありまへん。

ほな。

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


🐎 以下、玉縄城についてのブログ記事の一部なり

「玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ」
「玉縄城-2 現代の難攻不落の城」
「玉縄城-3 現代の難攻不落の城」

「玉縄主催セミナー 「まだナゾだらけ戦国時代の鎌倉」」

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」
「為さま(北条為昌)の菩提寺探しに、お助け本が!」
「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッきた氏綱ご正室の出自」

「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
「後編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の、謎」
「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッときた氏綱ご正室の出自」
「香林寺の開基は、氏綱公ご正室?為昌殿ご正室?」


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2019年11月 6日 (水)

滝山城の講演会 「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候」

マリコ・ポーロ

なんと血湧き肉躍るタイトルでしょう!

が、その前に…
これまたタイトルに凝ったシンポジウムのお知らせが高札に掲げられましたね。
   ↓
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~伊豆の国市さんのHPにまだ出ていないようなのでポスターをコピペさせていただく。拡大してご覧くだされ。~


まさに討ち入りの日に合わせて、のようですね!「うちいり」を「討ち入り」ではなく「打ち入り」にされたのも意味があるようで、また、「たいへん」も「てーへんだ、てーへんだ、親分」の「大変」(←分かりる?)とか、「時代が大きく変わる」の「大変」とかを掛けているのでしょうかねえ~。

おのおのがた、意味深で興味をそそられるタイトルにござるのう。


(コピペ)~今年は明応年間の伊勢宗瑞の伊豆進攻にフォーカスし、はたして宗瑞は成り上がり者だったのか、足利茶々丸はどのような人物か、なぜ宗瑞に打たれなければならなかったのか、伊豆国にとどまらず、関東地方や遠く京都まで波及する、二人にかかわる壮大な歴史の流れを解き明かしてみたいと思います。皆さまぜひご参加下さい。(コピペ以上)~

日時:12月14日(土)13:00~16:30
場所:韮山文化センター(韮山時代劇場)

(講演)家永遵嗣
「伊勢宗瑞の伊豆進攻と戦国時代のはじまり−宗瑞の立場、茶々丸の抵抗とその背景−」

(報告)島田章広(伊豆の国市教育委員会文化財課)
「堀越御所から韮山城へ−発掘調査成果からみた伊勢宗瑞と韮山−」

(シンポジウム「宗瑞打ち入り!茶々丸たいへん!!」)
齋藤慎一・家永遵嗣・望月保宏・竹井英文・島田章広

申し込み不要、参加費無料(資料1冊300円程度で販売)*満席の場合(500名)入場をお断りすることがあります。ご了承ください。とのこと。


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~内容充実、引用文書たっぷり、凄いレジュメ。これだけで本になりそう。~


今年は伊勢宗瑞没後500年目。いつにも増して内容充実の記念イベントが多いので、この機会を逃してはならじ…とパワーと経費と家庭の事情が続く限り馳せ参じる覚悟にて候!なーんて。

ブログには書いておりませんが、玉縄城さんでの真鍋淳哉氏・伊藤一美氏・玉林美男氏・大竹正芳氏らの玉縄水運についての講座や、戎光祥ヒストリカルセミナーでの同じく真鍋淳哉氏の「海をめぐる北条・関東上杉・三浦・里見の戦い」や、先日の相模原市の木村聡氏による「興国寺城」の最新研究についての講座などなども大変興味深く勉強になりました。


また、品川歴史博物館で今開催中の特別展「中世寺院と品川ー妙国寺の歴史と寺宝ー」は、妙国寺に氏綱公が発給した例の制札や、管轄エリアだった氏照ので文書もけっこう出ており、オススメですよ。古川元也氏の関連講演「中世の品川と妙国寺ー往来する商人・宗教者・戦国武将ー」も初めて知る話や文書が多かったので是非ご紹介したいのですが、我が浅学と拙筆でブログに書けるかにゃ~。

そうそう、玉縄水軍についての講座のことも、柏尾川のどこに「舟入」があったかとか、以前から気になっていた弘治2年の海戦のこととか、青岳尼のこととか、八丈島のこととかも含めて、追ってブログに書きたいとは思っているのですが、そうこうしているうちに寄る年波でだんだん記憶が…💦



さて、本題。

過日催された、北条氏照ファンクラブの集い …ではなく、滝山城跡群-自然と歴史を守る会 さん主催の第14回歴史講演会は、我らが北条氏照の滝山合戦450年記念「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候~滝山城主北条氏照の人と合戦~」でした。

講師は、氏照研究では第一人者である、お馴染みの 加藤哲 先生です。様々な方面からの文書や、地図や地形図をたくさん使い、戦に明け暮れた氏照が歩んだ人生を時系列で辿りました。それは氏照の存在がはじめて史料で確認できる古河公方ヨッシー(義氏)の元服式から始まり、いつも通り話は分かり易く、スペクタクルなのに全ての話は史料を見ながらなので、説得力があります。


帰りは、十数年前に初めて出来た八王子城&氏照友と一緒だったのですが、駅までの道々、氏照のことと加藤先生の話の持って行き方の巧みさについて話はスパーク!やめられない止まらない。このところ我が氏照どのから少し離れていましたが、あらためて氏照のカッコ良さを認識できた講演でした。

氏照のカッコ良さについては書き出したら限がなく、過去10年間にこってりと書かせていただいたカテゴリー「八王子城と北条氏照」をご覧いただけると恐悦至極。ここでは、こたびの講演でビビットきたところを少しだけ書きます。


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~御主殿から出てきた琉璃釉碗の底に描かれていた八王子城マスコットのウサちゃん&氏照印判「如意成就」の缶バッチ。如意成就はニューバージョンが資料館で絶賛販売中!~


🐎 氏照の人物像

残念なことに、氏照の私信はまったく発見されていません。笛を嗜んだ…ということも後世の話で、史料的には出てきていません。そこで、先生は手掛かりを「同時代人の評価」に求めたそうです。

戦国史研究のどなたに聞いても(たぶん)、その能力を「抜群だ」と言わせる我らが北条氏照。高い評価は現代のファンだけではなく、当時の北条以外の人達からもうけていたようです。今まで拙ブログにて自分でもたんまり書いてきたことでもありますが、加藤先生がまとめて話してくださり再認識しましたので以下に。


▲ 同時代人の評価

① まず兄上の氏政さまが、豊前山城守(足利公方のお医者さん)へ宛てたのお手紙

氏照が病気だった時ですね。この時だけではなく氏照は何かの慢性的な病を抱えていたようですよね。山城守だけではなく、北条お抱えの芹沢先生などとも薬のことでやり取りしている手紙もいくつか残っています。

こちらの手紙は、源三(照)の具合がかんばしくなく、氏政さん「一段到恐怖候…」 とな。

氏照の存在がとっても必要で、異常に大事に思っていることが表れている。そりゃあそうですよね~。二人は一心同体。バディですもん。


② 同じく兄上さまの朱印状
陣庭の造りは肝要。陸奥守(照)の陣取りを参考にするように。

氏照モデルを高評価。


③ 阿部正勝殿が本多重次殿に宛てたお手紙(天正10年)
氏照を「是非 生捕候て…」

生捕りにしたいというところに、氏照の価値の高さが表れている。


④ 足利公方超重臣の芳春院松嶺が鑁阿寺に宛てたお手紙(天正12年)
「奥州(照)万端頼入候間…」

万全の信頼


⑤ 石田三成殿が宇都宮国綱殿へ宛てたお手紙(天正16年)
例の、氏照が先に秀吉殿へ挨拶に来てあーだこーだ話されたら終わりだどー。早く上洛しろと国綱を即している手紙。

照殿の外交手腕にも高い評価があった。


▲ 後世の人物評

また、当時の評価だけではなく、後世書かれた軍記物「徳川実記」「武田三代軍記」や謡曲「豊公能」(秀吉が創らせたもの)などからも、過去から伝わってきた氏照の評判が、いかに優れていたかをうかがい知ることが出来るという例をあげられました。


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~八王子城から破片が出土したレースガラス(レプリカ)~


▲ 氏照の文書からみた人物像

また、氏照自身が出した手紙に「彼の感情などが見られる」部分があるとのことで、氏照ファンには有名な永禄12年の山吉殿宛ての手紙-講演タイトルの「…今般信玄不討留事 無念千万存候」はこちらにありますーや、同じく永禄12年の越相同盟の時の直江殿への、弟の氏邦さんに対するライバル心満々の手紙などを引用されました。

負けず嫌いですよね~。だからこそ、北条軍団を率いて勢力を広げていけたのでしょう。そんな 熱い照 なのに、お兄ちゃんにコキ使われても文句を言わずミッションをこなしていってるところが興味深いです。


ふぅ~。加藤先生が怒涛の如くたたみかけるように話す氏照の人物評価。
氏照、カッチョエ~~。


▲ 知らなかった氏照のある側面

こたびの講演で一番印象に残ったことです。10年以上、氏照を追いかけてきて、いや、追いかけてきたからこそかもしれませんが、深く刻まれました。私よりもっともっと古くからのファンの方達や、新しいファンの方でも氏照をちゃんと顕彰している方達はこの手紙をご存知でしょうから、知らなかった私とよく話が合ったな~と恥入る次第。


それは、氏照が富田氏実殿に宛てた、天正14年の手紙です。富田殿は、蘆名の家臣です。蘆名は佐竹殿の弟君が当主になっています(よね?)。天正14年は北条が佐竹と和議を結んでいた頃のことですね。読み下し文(by 加藤先生)も書きます。


佐竹・当方和融之儀、有馳走度之由、披露書面ニ尤令得其意候、何ニ而も可被敵対題目雖無之、近年弓箭ニ而過来候

(佐竹と当方和融の儀、馳走ありたきの由、書面にあらわされ、もっともその意を得せしめ候、何にても敵対せらるべき題目無きといえども、近年弓箭にて過ぎ来り候)


戦いたいわけではないけれど、なりゆきで戦う状況になってしまっている…。強気のテル の、葛藤や心の疲弊が垣間見えるような気がします。いんや、もしかしたら、本当はそんなことは思っちゃあいないけど、そう思っているふりをしていたりして?なんせ、外交上手の照どのですからねえ。


そんなこんなから、氏照の性格はなんとなく分かりますが、分からないのは氏照の趣味趣向ですよね~。

 

知りたいです。愛馬とか、着物や甲冑の好み(前立ては何)とか、ご贔屓の絵師はいたのか、どのような本をよく読んだのか、ご持仏は、氏綱公のように工作は好きだったのか、氏康のように恐妻家だったのか、氏繁のように茶道に興味があったのか、謙信くんのようにお酒は好きだったのか、秀吉のように能は好きだったのか、家康のように薬草に興味はあったのか、政宗のように食にこだわっていたのか、景勝のように武具のコレクションはしていたのか、ペットは飼っていたのか(鷹じゃ!)、お休みの日は何をしていたのか(休みはない!)、美女が好きか美少年が好きか(これっ!)etc.etc.


そして、最も知りたいことは…

最後の籠城中、何を考え、どこでどうしていたのか…。

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


🐎 カテゴリー「八王子城と北条氏照」の中の昔の記事よりほんの少しだけ以下に添付しました。むか~し書いたものは最新の研究結果とは違う部分もありますので、そのへんお含みおきの上ご覧くださいませ。

「八王子城その1「北条氏照 夢と覚悟の城」」
「八王子城 その4 「北条氏照の葛藤」」
「八王子城落城、氏照の残・念」
「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
「北関東の侵略者、北条氏照の「祇園城」」
「北条氏照の存在が抹殺された?「星谷陣屋」」
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」

🐎 以下、この秋冬の北条・道灌など関係の存じている限りの企画展や講演会情報です。それぞれの記事は、後ろになるほど新しい情報になっています(見づらくて恐縮)。

「小田原北条関係のイベント情報(2019 秋・冬)」
「どんどん加筆~これからの講演会・企画展(2019年秋・冬)」
こちらにも ↓ 八王子と荒川の追加情報
「八王子城の台風被害と露出した石垣のほんの一部分(2019・10)」


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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2019年10月22日 (火)

八王子城の台風被害と露出した石垣のほんの一部分(2019・10)

マリコ・ポーロ

その前に、またまた北条その他関係の企画展・イベント情報の追加の追加です。

▲ 企画展「北条氏の進出と八王子ー館蔵・市内所在文書を中心にー」

会 期:令和元年10月29日(火)~12月15日(日)
会 場:郷土資料館特別展示室

講座「北条氏照文書を読む」はキャンセル待ちになってしまいましたね。
詳細は 資料館HPを。


▲ 八王子市民講座「上杉三郎景虎 勝つための戦略~上杉謙信の死後、景勝と越後を争った北条氏康の七男~」

講師は、あの 乃至政彦氏 ですよ!

対象者:市民以外でもOK
日 時:11月30日(土)14:00~
場 所:八王子生涯学習川口分館

申し込みが始まっています。先着70名。
詳細は 川口分館HPを。


▲ 企画展&講演「あらかわと太田道灌」荒川ふるさと文化館

企画展:11/2(土)~12/1(日)

講演:

①11/17 齋藤慎一氏「太田道灌と江戸」②11/24 黒田基樹氏「太田道灌とその時代」
申し込み:11/1 開始
詳細は、ふるさと文化館HPを。


あちゃ~ ()
11/17 は、馬の博物館での講演、真鍋淳哉氏「三浦道寸」&浅倉直美氏「北条氏規―小田原北条一門の役割と苦悩―」とかぶりますねえ。

というかんじなので、その他の、北条の本城・支城で目白押しっている企画展・イベントなどについては先のブログ記事をご参照ください。ページの後ろになるほど新しい情報になっております(見づらくてすみませぬ)。

こちら と こちら です。


さて、本題の八王子城。

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~御主殿の池の奥が土砂崩れを起こしている~


台風15号に続き、19号の被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げます。

人や家や地域の生活が大変なことになっているのに史跡の被害などのことで恐縮ではありますが、八王子衆が連絡をくださったこともあり見て参りました。


ここ数年、当ブログは小田原を中心に北条一族と北条領域全般にわたってアレコレ書いておりますが、実はマリコ・ポーロの インナーマッスル(?💦)は、八王子城と北条氏照で出来ています。今は無き「八王子城を守る会」でも10年程、末席で活動しておりました。ブログも、八王子城と氏照についてもっと知ってほしくて始めたものです。当初のブログ記事では、人様が辟易するほど(たぶん)濃く熱く、大量に八王子城と氏照を書いております。

守る会の活動も終わり古参の会員の方達が相次いで氏照の元へ逝かれてより、八王子城からは少し足が遠のいておりました。しかし、こたびは八王子の浅川の氾濫もニュースでずっと観ていたので気になり、久々に登城しました。


🐎 被害

Img_20191021_160501
今現在(2019.10.21)、ガイド詰所脇の鳥居のところからは登城出来ず、私有地のため普段は「立入禁止」の看板がある石段から「あしだ曲輪」を通って登るようになっています。

また、大手に行く小さな橋も通行止めでした。

Dsc_0177
こちらは、御主殿への現代の近道通路です(向こうに通称曳橋が見える)。写真ではよく分かりませんが、通路はガタガタに壊れ、たくさんの石が道を覆っていました。

茶色いのは枯葉ではなく崩れ流れてきた石です。これは城山川が溢れたのではありません。八王子城は湧き水が豊富なため山から出た多量の水が、御主殿へ上がる通路を通ってダーーーッと通路を流れた落ちてきたものだそうです。通路にまだ水が流れているのが、写真で分かりますでしょうか?

そして、上の御主殿の写真。御主殿全域も荒れていましたが、池跡奥の林野庁が持っている崖に土砂崩れが起き池跡に流れ込んでいました。


麓だけしか歩きませんでしたが、城内はどこも同様の状態のようです。昨夜深夜の大雨でダメージはもっと大きくなっていることとも思います。今まででさえ上の方は傷んでいるのに、今後どうなるのでしょうか。

知人達のSNSによると、八王子城に限らず東日本の城跡、特に山城はどこもこのような状況のようですね。


🐎 チビットだけ表面が出た石垣

同じく八王子衆からご連絡をいただきました。

Dsc_0174

御主殿の滝の、ナンタラ修験者の慰霊碑(みんなが落城時の供養碑と勘違いして拝んでいる碑)がある城山川に張り出したところです。

写真上部の角張った隅石は前から出ていましたが、今回土砂が崩れピンクの矢印のところが現われました。私と同じく「旧守る会」残党?で、私の八王子城&氏照師匠のお一人でもあるガイドS氏が説明してくださいました。


これは、隅石と繋がり御主殿まで続く石ですね。江戸時代に描かれた「武蔵名勝図会」にも描かれているとS氏に聞いたので、あらためて図会を見てみました。

Photo_20191022143301
左下、城山川に付き出た石積みの一部ですね。昔のブログ記事では散々書きましたが、今の御主殿に行く近道通路は新しく造られた道で当時は無かったのです。


廃城後に大久保氏が手を入れて以来、今回のような大きな台風や大地震は四百年の間に何度もあり、そのたびに城の原型は崩れてきたのでしょうねえ。

八王子城や戦国の悲劇や戦の浅ましさを後世に伝えるためにも、全国の山城や戦国ファンのためにも、せめて今の城の姿が保てるように、供養の気持ちが感じられないイベントなどに使う経費も城の維持管理にまわしてほしいな~と思いました。


このところブログの更新が少なくなっております。自家の大したことのない歴史を調べていることもありますが、八王子城や氏照についても、やれ鐘だの能楽堂だのと、自分でも調べたり、関連自治体や中世専門の研究者の方達から助言をいただいたりとかなりの時(すでに半年!)を費やしております。

その結果、資料は神社仏閣の御縁起・御由緒など(これらが資料になるのか?ですが)、それも後世に書かれたものしか無く信憑性に欠ける話ではありました(なかったことは証明できないが、あったことは史料や発掘調査で証明できる)。

その間、諸先生方より様々な勉強をさせていただけて、時間の無駄にはなりませんでした。ありがとうございました。ただ、八王子城もいい加減なことを…みたいなことをアチコチから言われ、ちょっと恥ずかしかったし悔ぴかった…テンテンテン。

あーあ、書いちゃった~。


戦争も災害も無い令和になることを祈ると共に微力ながら協力もしたいと思います。


以下、八王子城と氏照について今まで書いたブログ記事の超々々々一部です。
「6月23日、八王子城は今年も落城す」

こちらの文末に、今までの記事がけっこう添付されています

「八王子城、消えた橋と現われた石垣」
「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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2019年9月14日 (土)

どんどん加筆~これからの講演会・企画展(2019年秋・冬)

マリコ・ポーロ

どんどん加筆したものはどんどん最初のブログ記事に追加しておりますので、どうぞそちらをご覧くださいませ。こちら→ 「小田原北条関係のイベント情報(2019 秋・冬)」


▲ 小田原市最新出土品展&遺跡調査発表会、そして遺跡講演会

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毎年恒例の最新出土品展&遺跡調査発表会に、今年は遺跡講演会が加わりました。小田原北条ファンお馴染みの、大島慎一氏、山口剛志氏、諏訪間順氏が来年3月でご定年。3人揃っての「卒業興行」になるそうです。

詳細はこちらをクリックしてくだされ → 小田原市のHP


(近況 ♪)
現在、我が家の ファミリーヒストリー 作りにとりかかっており、ブログがなかなか進みません。人様の家(北条家や太田家)の歴史ばかり調べていないで 💦 自家の歴史も調べ、冊子にしてイトコ達に配りたいと思ったのです。

庄内藩士でしたが大したことのない家ですし、口伝のみで資史料のことは聞いていません。というか資史料なんかに残るほどの家でもないですが。亡き祖父は次男であり嫡系の家とはもう付き合いもなく、手元にあるのは、幕末の家長の名前(口伝)&取り寄せた一番古い戸籍&明治時代からの写真のみ。藩士時代の菩提寺もわかりません。


自分で検索したり図書館で手あたり次第に本を見たりしたのですが、いまひとつ。あるところからどうにも手掛かりが無くなってしまったので、鶴岡市郷土資料館さんへ問い合わせさせていただきました。何を調べたらよいか、急がないので教えてほしい旨メールをしたところ、何を調べたらよいかどころか、調べて関連史料まで添付してくださいました。本当に感謝です。これを元にもう少し調査するつもりです。

鶴岡市に限らず文化財課さんや学芸員さんは、イベントやご自身の研究や、公務員さんとしての自治体のお仕事などでとってもお忙しいでしょうに、どこも皆さん親切ですねえ。くれぐれも御身おいといくださいませ。


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~庄内藩士が勉学した藩校「致道館」~

萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2019年9月11日 (水)

小田原北条関係のイベント情報(2019 秋・冬)

マリコ・ポーロ

台風15号の被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。


2009年9月3日に北条追っかけブログを始めました。総記事数は 671記事になります(いったん公開したあと後悔して💦 非公開にした記事がいくつかあり。)1回目の記事タイトルは「ディスカバー 伊勢新九郎の相模へ」。その頃から 伊勢新九郎 だよん(ウフフ)。弱小ブログなのにいつも読んでくださりありがとうございます。これからもご贔屓のほど御願い上げ奉りまする~。


2
~最近の滝山城某所…~


久々の講演会・見学会の情報にござる。矢文、投げ文、高札などでたくさん情報をいただきました。本当にありがとうございます!その中で 恐縮ながら マリコ・ポーロ が気になるところを以下に。

凄くたくさんあります。下にいくほど、日程が後になります。どんどん加筆しております。


まずは、我らが北条氏照の城のひとつ「滝山城」の大変魅力的でスペクタクルな見学会と講演会から。

▲ 見学会「滝山城・城攻めガイド」

今年は、北条 vs 武田信玄の、廿里・滝山合戦・小田原攻め・三増合戦 450年になります。滝山城では記念のガイドツアーと講演会が行われるそうです。個人では見学出来ないところも見られるそうですよ。


日にち:10月6日(日)
時 間:9時半~15時
3コースを6班に分けて見学

申し込み:9月24日(火)必着
コースを選んで往復ハガキにて

どのコースにしよう…。超迷う~。

詳細はクリックしてくだされ→「よみがえる滝山城」HP


▲ 講演会「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候~滝山城主北条氏照の人と合戦」

氏照の書状の文面が講演のタイトルになっていますね♪ 講師は八王子ではお馴染みの氏照研究の第一人者、文化財審議会副会長で市史編さんにも携わってらっしゃる、加藤哲氏です。 ナイスボイスで分かり易く滝山合戦の最新研究を解説してくださることでしょう。楽しみです。


日にち:11月4日(月・祝)
時 間:13時半~16時
ところ:八王子加住市民センター(城址バス停から徒歩3分位)

申し込み不要。先着順100名。


▲ 第20回「三増合戦まつり」

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数ある歴史まつりの中でも、津久井開城祭と並んで 不肖マリコ・ポーロ の琴線にググッと触れる「三増合戦まつり」です!つまり今年は450年ということですね。津久井も三増も土地の方や関係者の方たちの熱い供養の想いと、地元保存会さんや武将さん達による資史料を重視した寸劇が大好きです。

当ブログでも、こってり従軍レポートを書いておりますので読んでくださったら嬉しいです。こちらはそのひとつ→ 「2013年従軍レポート」


日時:10月13日(日)8時~16時
場所:言わずもがな、三増合戦場跡

古戦場には椅子やテーブルを用意してくださり、津久井と同じく業者の屋台ではなく土地の方達による売店がたくさん出ます。そりゃあ楽しいですよ~。

愛川市のHPに見つけられないのですが大丈夫。近くに行けば、旗々が戦国時代に誘ってくれます。


▲ 相模原市立博物館
北条早雲没500年連続講演会 

連続講演会ですと ♪

①~③全ての回
時間:午後2時~4時
入場無料、定員200人

① 学芸員講話「市内に残る北条早雲制札~無量光寺文書を中心に~」

日時:9月22日(日)
講師:歴史担当学芸員 木村 弘樹
申し込み不要


② 「仮)駿河時代の北条早雲-旗揚げの城 興国寺城を中心に-」  

日時:10月6日(日)
講師:沼津市教育委員会 木村聡氏

要申し込み:9/17~相模原市コールセンター(042-770-7777)へ 


③ 「小田原時代の北条早雲~見直されるその実像と小田原城」

日時:11月10日(日)
講師:小田原城天守閣館長 諏訪間順氏

要申し込み:10/17~同じくコールセンター(042-770-7777)へ

詳細→ 相模原市立博物館HP


🐎💨 玉縄城もありまっせ。

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~玉縄城ジオラマ~


▲ 玉縄歴史の会10月度(263回公開講座)
「にらみ合った小田原北条氏と徳川家康」

玉縄歴史の会や玉縄まちづくり会議さんのいくつかの、特に水運や江ノ島についての面白い講演会に参りました(戎光祥さん含め)。シリーズ「北条五代の娘たち」での氏綱の娘があと大頂院さまだけになっているのもあって、合わせてブログに書きたいのですが他に気をとられなかなかアップできないでおるうちに、興味深い講演会はどんどん進んでしまうにゃ~。


次は天正壬午の乱です!若神子城に陣を取り、徳川家康と対峙した時の様子についてのお語しで、10月16日(水)開催の第146回 歴史散策会「甲斐路を訪ねるバスツアー」の事前学習を兼ねた講座とのこと。うーーん、聞きたい。なにゆえ同日なのか…シクシク。

日時:10月6日(日)13時半~15時半
会場:NPOセンター大船(たまなわ交流センター)
講師:大竹正芳氏 日本城郭史学会委員


今年も龍寶寺さんで玉縄北条墓前祭は営まれるのかしら?
9月から11月にかけて講演会・見学会たくさんあるので、詳細はこちらを→ 玉縄歴史の会HP



▲ 本佐倉城見学会
中世城郭研究会主催

中世城郭を初めて見学する人も、土の城ベテランも楽しめるそうです。


日時:10月26日(土)13時~16時
雨天の場合は翌日

集合場所:京成本線「大佐倉」駅 改札前
参加費:500円
申し込み不要

詳細は→中世城郭研究会HP


🐎💨 次は本城小田原にて開催されるイベント


▲ 馬の博物館

① 企画展「名馬と武将」
10月5日~12月8日


② 記念講演会「神奈川ゆかりの武将たち」
日時:11月17日(日)13時~

内容
・「三浦道寸-文武兼備の武将」
講師:真鍋淳哉氏

・「北条氏規ー小田原北条一門の役割と苦悩」
講師:浅倉直美氏

申し込み不要、詳細→ 馬の博物館HP


▲ 本城天守

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~ブログに書いた先日の講演会で配布。カラーはまだだそうです。~


12月のことですが本城のことですし、なんせ、公の告知はどこも遅くて(失礼)前月中に有休を強奪する身には間に合わないことが多いです。講師は、いつもの方も、北条の城郭ではお馴染みの方も、お馴染みの伊豆や沼津(三島?)の方もたくさんでした(忘れちった💦)。日曜日にお仕事の方は有休申請!申請!


① 天守閣企画展「伊勢宗瑞の時代」
10月12日(土)~12月10日(火)

② シンポジウム 「伊勢宗瑞の伊豆進出」
日にち:12月1日(日)
講 師:家永遵嗣)、齋藤慎一、望月保宏

③シンポジウム 「伊勢宗瑞の小田原進出」
日にち:12月15日(日)
講 師:黒田基樹、金子浩之、長塚孝

②&③ どちらも、時間は13時~17時。ところは小田原市民会館ホール。要事前申込。
詳細→ 「小田原市HP」


▲ 小田原北条の会講座

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~拡大してご覧くだされぃ~


小田原では公私ともに、すでに「北条早雲」ではなく「伊勢宗瑞」になっていますな。
先日ブログにアップした「手づくねかわらけは威信財だったのか?」の会の主催です。

①「石垣山一夜城」
日時:9月17日(火)10時~11時半
場所:小田原 内野邸宅(板橋のあの黒ナマコ壁の元お醤油醸造所)
講師:塚田順正氏(元小田原市学芸員)


②「伊勢宗瑞の足跡」
日時:10月17日(木)10時~11時半
場所:小田原市学習センターけやき
講師:鳥居和郎氏(小田原市文化財保護委員会委員)


どちらも参加費500円
申し込み:曽根さん(写真をご参照)

以後も興味深い(←こればっかりで恐縮ですがホントなんだもん)講座が続きますよん


▲ 「北條五代四方山話」

(コピペ)早雲庵宗瑞没後500年の今年、​北條五代の話題は広がり続けてい​ます。伊勢宗瑞に弥次郎の他にも​弟?、修禅寺再興の隆渓繁紹禅師​は宗瑞の叔父?などの話題につい​て、最新の史実を基に石井 啓文氏が3回講座で解説します。


日時:9月26日 (木)~3回連続
13時半 ~ 15時半
場所:生涯学習センターけやき
講師:石井啓文氏(小田原ではお馴染みの郷土史家)

要事前予約

・第1回 伊勢宗瑞の弟?宗瑞の「伊勢出身​」説など
日にち:9月26日(木)
・第2回 北条氏綱と三浦義意、そして居神​明神社
日にち:10月31日 (木)
・第3回 高潔の武将・北条氏照と室・比佐
日にち:11月14日 (木) 

詳細→きゃんぱす小田原HP


▲ 伊豆の国市「北条早雲公没後500年祭」

日にち:11月1日-2日

小和田先生の講演はじめ、様々なプログラムですね。
「ごめんね早雲」は、「ごめんね青春」をもじったのか?ミシマル君も来るのかな?

詳細はこちらしか見つかりませんでした→ 「伊豆を知的に楽しむサイト」


ふぃ~。あるねえ。

🐎💨 小田原北条とは直接関係がありませんが、ビビッとくる講演会と見学会が以下。


▲ 講演会「鎌倉大仏の鋳造と物部鋳物師」

日時:9月28日(土)14時~
場所:川越市立博物館視聴覚ホール

講師:村上伸二氏
嵐山の金平遺跡や杉山城で調査成果をあげた方です。(コピペ→)河内鋳物師と称されてきた物部鋳物師とは一体何者か!金平の調査以来ライフワークとして精力的に取り組み積み重ねてきた村上氏の研究成果が披瀝されます。

コメンテーター:馬淵和雄氏(『鎌倉大仏の中世史』の著者)


すっごく面白そうですねえ~。他に重要な用事があり参れませず非常に残念なり。資料代:300円~500円(現在のところ不明)


▲ 道灌びいき~9月の見学会💨
「東中野氷川神社から中野陣跡、宝仙寺を巡る」

横浜歴博での黒田氏の講演「太田道灌の子孫たち」での my 疑問のひとつである、あの謎の「六郎」さんが殺害されたと伝わる中野陣です。宝仙寺は源義家創建とされ、赤塚不二夫大先生の葬儀が営まれたお寺ですよねえ。

道灌が豊島氏と戦うにあたって戦勝祈願をし、勝利後には社殿を造営したとの伝承が残る東中野氷川神社から、道灌の後継者・太田六郎が殺害された中野陣跡(=谷戸城址・推定)、「芸能コース」があることでも知られる堀越学園、宝仙寺を巡ります。


日時:9月28日(土)13時~15時半
案内役:豊嶋氏や道灌研究ではお馴染みの、葛城明彦氏

集合:JR東中野駅西口改札前(一番大きな改札の前です)
解散:東京メトロ・都営地下鉄中野坂上駅前

参加費:ビジター 500円


🐎💨 申込締め切りもあるので取り急ぎ以上です。また追加するかもしれまへん。

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


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2019年9月 2日 (月)

講演「伊勢宗瑞 漫画家と歴史家が語る北条早雲」

マリコ・ポーロ

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~来場者は新九郎さん(表)と権兵衛さん(裏)のクリアフォルダーがいただけた♪ ~


来年は伊勢宗瑞没後五百年目をむかえます。氏綱公が小田原に本拠地を構えてからも五百年(たぶん)が経つわけで、本城小田原をはじめ領域では企画展や講演会が盛んですね。

北条ファンは会社からは休みを奪取し、家族とは折衝を重ね💦 講演を聞くために東奔西走。メンツは毎度ほぼ同じですから講演される研究者の先生方ももう話のネタがなくなるのではないかと、いらぬ心配をしてしまうほど。心配ご無用?


さて、小田原城天守閣で現在開催されている「センゴク権兵衛原画展-「センゴク権兵衛」に描かれた小田原」(~9/8)の関連イベントのひとつである 特別講演「伊勢宗瑞 漫画家と歴史家が語る北条早雲」を拝聴しました。こたびは、いつもの講演会と来場者の雰囲気が違いますな。なにより、若い!

え~ん( ノД`)


カトケン市長さんのご挨拶に始まり、内容は…

① 特別講演「見直される北条早雲こと伊勢宗瑞」諏訪間館長
② 特別講演「最新研究 伊勢宗瑞」黒田基樹氏

そしてここからがメーンエベントのトークセッション!

③ 「新九郎、奔る!に描かれる伊勢宗瑞」
ゆうきまさみ氏(著者)、黒田氏、諏訪間氏

④ 「センゴク権兵衛に描かれる宗瑞と北条氏」
宮下英樹氏(著者)、黒田氏、諏訪間氏

⑤ 「伊勢宗瑞~漫画家と歴史家が語る北条早雲」
ゆうきまさみ氏、宮下英樹氏、黒田氏、諏訪間氏


チト所用があり、ゆうき氏のトークセッションが終わったところで脱走したのですが、著者の ゆうき氏のお話しが今回一番聞きたかったところだったので最初が ゆうき氏で良かったです~。申すに及ばず面白かったし非常に興味深かったので、僭越ながら、いらっしゃれなかった方のために私がビビットきたところだけで恐縮ですが書きます。


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~宗瑞殿にもチト来ていただいた (^^;)~


ゆうき氏のお話しはとても明快で、まじめなのに面白く、失礼ながらお歳よりとてもお若く感じました。以下は、マリコ・ポーロの要約です。


▲ 何故これを書こうと思ったか

昔から歴史は好きだった。司馬遼太郎先生が「箱根の坂」を書いていてそれがとても面白かったから、自分はもういいやと思っていた。それから何年も経ち黒田基樹氏の『伊勢宗瑞』を読んだら随分と研究が進んでいるので、それを自分は書いてみたいと思った。


▲ 「はしる」に「奔る」という漢字をあてたのは?

・京の町を「奔っている」イメージがした。
・「いせしんくろう」とは、キレのある名前だと思う、と。
・新九郎さんの顔は、早雲寺に残る肖像画に似せた。特に 👀 を。
(ほんとだ!)


▲ 新九郎さんのイメージは?

・野心的な人間ではなかったと思う。真面目にやっていたらいつの間にかそうなっていったという感じ。
・新九郎にとって、応仁の乱の最中が一番大事だと思った。応仁の乱は本当は1年で書き終える予定だったが…💦


▲ 黒田氏

・出版された時、研究者たちの間に衝撃が走った。
ただし…
・進み方が遅い(笑)。この調子では、宗瑞が死ぬまであと20-30年はかかるのでは(会場爆笑)

・分かっていることと分かっていないことがある中で、北川殿のこと、横井家のこと、まったく史料にないお兄さんのことなどを、史実を上手に取り込んでいるのは、どういう発想から?お兄さんが死んだ時はビックリした(会場笑)

ゆうき氏
分かっていることとは仲良くしたいが、伝承も取り込むようにしている。そうでないと「学習マンガ」になってしまう。

(ゆうき氏は系図を含めかなりの資史料を、それも細かく読んでらっしゃるように思いました。マリコ・ポーロ)


▲ 新九郎さんの、シスターコンプレックスについて

「北川殿と異母にしたのは何か意図が?」の質問から、新九郎さんのシスコンについての話に。黒田氏、諏訪間氏とも同感。「ちょっとした思慕のようなものを書くかもしない」と、ゆうき氏。


(会場ウケていました。皆さんもでしょうが、私も思っていました。以前ブログに書きましたが、私なんて、北川殿と新九郎さんは血が繋がっていなくて、氏親さまは北川殿と新九郎さんの子ではないか、だから氏綱公と氏親さまは異母兄弟で、だからあそこまでの今川への思い入れが宗瑞・氏綱にはあったのだと妄想していましたよ。)


▲ 冒頭シーンを宗瑞の伊豆侵攻にしたのは?

「最低でも、ここまでは書きたいと思ったので…」(会場動揺)
「はじめに、予告ではないが、こうなるというところを書いておかないと、ただ子供が京の町をウロチョロしているだけになってしまう」と。

会場だけではなく諏訪間氏も机から乗り出し、
「となると小田原は出ないの?!!」「それじゃあ困るんですけどぉ~」(会場爆笑)

ゆうき氏「そうなると、『新九郎、奔る!』 じゃなくなっちゃう…」


(『宗瑞、走る!』。のち、『早雲庵宗瑞、歩く』かね。。。)


▲ 顕定が出てきたあたりのことなどについて

新九郎の人生に影響していくと思われる人物を、文正元年に勢ぞろいさせた。


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~こたびはレジュメもファイル風。紙も良いね。(左は宮下英樹氏の権兵衛さん)~


諏訪間氏は、従来の北条五代記などでは表し得ない新しい共通の認識がベースにあって、そこに小説なりマンガなりで新しいイメージがつくられていく、とおっしゃいます。

まさに~。
私たち北条ファンは、「歴史ファンでいまだに伊勢の素浪人はもとより、宗瑞88才没などと言う人はいないだろう」と思いますが、実際はいますよねえ。つい先ごろも、歴史ファンを自認してらっしゃるらしき著名な人(らしい)が某大手メディアに伊勢素浪人と88才を書いていましたしね。


そして、こういう魅力的な新九郎さん像を描いてくだされば、小田原北条も全国区になってゆき、謙信君や信玄殿や信長・家康・秀吉殿はもとより、孫の氏康殿や曽孫の氏政さんの知名度に負けないぞ!って。あと、坂東の戦国初期のことも、諏訪間さんおっしゃるところの、日本中の共通認識となりますよねえ。

そうすれば、坂東戦国初期が大河ドラマになるのも夢じゃない。原作は大河初のマンガ!とか。


あ、それから!
「新九郎は、太田道灌と会いますよ。ちゃんと。」by ゆうき氏。史実は分かりませんが、嬉しいねえ。会場からは大拍手~。やっぱり皆、新九郎さんと道灌殿の出会いシーンには期待しているのですね。が、しかし…

「皆さんが思っている感じとはちょっと違うかもしれないですが…」

えーー!なにそれ~
楽しみぃ!


「『新九郎、奔る!』 ゆうきまさみ 著」

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


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2019年8月28日 (水)

月命日に公開される 太田道灌像「静勝寺」

マリコ・ポーロ

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~歴戦連勝。負け知らずの道灌殿の御像は法体姿。~


…当方滅亡!

文明18年7月26日、太田道灌はそう言い残し相果てた。


「当方滅亡」は、主君扇谷上杉定正の命をうけた者の手により殺害された道灌が、今わの際に放った言葉だと伝わっています。

これが書かれているのは、道灌の子孫の資武の書状『太田資武状』です。道灌の死後百年ほど後に書かれたもので、もちろん資武は道灌に会ったことがありませんし、道灌暗殺の地である伊勢原にも行ったことがないでしょう。高齢の親族や古参の周りの家臣たちの間で語り継がれた話だと思います。


道灌殿が本当に「当方滅亡」とおっさったかどうかは定かではありませんし、もし言ったとして、その意図も、

「自分(道灌)を殺そうとするとは…扇谷上杉は滅びるぞ」
なのか、はたまた、
「家宰を殺そうとする主君の家なぞ滅びるぞ」
なのか。はたまた、
「これで太田家は滅びてしまう」
なのか。はたまた、

全然違うのか💦 道灌の暗殺状況にしても諸説ありますね。


なんにしても、『道灌状』を読むと道灌という人は、主君(定正)のことを友人(状を宛てた人)に愚痴ったり文句を言ったりはするものの、主君の言うことには諾々と従う人のようです。扇谷での自分の貢献度にも絶対の自信があったでしょうし、よもや定正に討たれるとは考えてもいなかったでしょう。

警戒していたら、お風呂になんて入らないしね。


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~立派なお寺~


太田資高が一時いたといわれる「稲付城」には、道灌の菩提を弔うためのお寺があったとされています。その後、江戸時代の明暦元年に子孫により城跡には堂宇が建立され、道灌の法号をとり「静勝寺 じょうしょうじ」とされたと伝わっています。

道灌堂に安置された「道灌像」は、元禄8年、道灌死後二百年程経ってから造立されたもので、通常は扉は閉っています。命日の6月26日には当代の太田家当主も参列する法要が営まれますが、命日と、毎月の月命日26日に扉は開かれます。



「道灌びいき」の会にいながら、こたび初めて訪問いたしました。

よく見るレプリカとは全然違いますねえ。造立後、6回も修復されたそうで色彩も鮮やかです。当時の太田家ご当主やご隠居様に似せて造ったのでしょうかねえ。現代のご当主にも似てらっしゃる…かな? 似てないかな…?(法体を想像~)


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~稲付城の築城も諸説あり~

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~さすが城跡。高台ですな。~


小田原北条もですが、同じく太田道灌も大河ドラマになってほしいと思います。私の一番の希望は、道灌の時代から新九郎さん(宗瑞)の時代になっていくあたりからをやってほしい。

ふたりが実際に会ったかどうかは分かりませんが、駿河の海岸で馬を並べる道灌殿と若き新九郎さん。新九郎さんはその時、道灌殿がふと言った一言に示唆を受け、自らが向かう方向を決める…みたいな。


ひっじょーに個人的妄想ですが、道灌殿は 大沢たかお さんに演じてもらいたいな~。あの「JIN」の仁先生ですよ。「アテルイ」や映画「風に立つライオン」、「桜田門外の変」で関殿を演った方。

大河でメインをやっていないし、悲壮感が似合うし、肖像にお顔も似てる。

…くぅっ!
当方…滅亡…

と、静かに倒れていってほしいにゃ~

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▲ 以下、太田資高の室である北条氏綱の娘「浄心院」の謎について追いかけたブログ記事です。また、資高については、道灌の孫ではなく道灌の伯父(かどうかも不明)ともいわれる「太田大和守資俊」の子孫という話もあります。また、資高の父と伝わる、三浦についた資康についても諸説あるので、そのへんのところをお含みおきの上ご覧くだされませ。

「北条五代の娘たち②太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「太田道灌の子息「資康」と、孫?「資高」の不思議」

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「三浦道寸の娘は宅間上杉に嫁いだのか?」

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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2019年8月19日 (月)

消えた「豊島一族」はどこへ?

マリコ・ポーロ


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~練馬城付近のかつての石神井川(石神井公園ふるさと文化館展示より)~


文明9年4月。
太田道灌によって練馬城から誘き出された豊島方は、江古田原にて敗退。石神井城も落城し、豊島方は逃亡する。

翌、文明10年1月。
豊島方は「対城 むかいじろ」平塚城を築き道灌に対峙するも、戦わずして北へ逃走したまま歴史上から姿を消した。

それから早(か?)541年が経つ。


酷暑ゆえ講演会のことばかり続きますが、昨日は、石神井城で催された豊島一族についての講座を拝聴して参りました。主催は「江古田の歴史を知り繋げる会」。講師は、坂東戦国史、特に豊島一族の研究ではお馴染みの 葛城明彦氏です。

こたびの講演では、道灌時代より以前の、豊島一族の平安後期~南北動乱期についても詳しく解説がありました。あまり(ほとんど💦)覚えていないあたりだったのでとても興味深かったです。


初めに…

● 豊島?豊嶋?
以前から当ブログでは「豊島氏」と書いておりますが、本来は「豊嶋氏」だそうですね。当時の記録でも「豊嶋氏」とあるそうです。遥かに時代は下って、「豊島区」が出来てから「豊島氏」と使われることが多くなったそうです。


● 豊島泰経の名前
豊島氏は代々、鎌倉北条の「北条泰時」の「泰」を使っていると言われています。坂東戦国時代好きの私達が一番知っているのは「豊島泰経」の名前だと思いますが、実は「泰経」という名は江戸時代に出てきたもので、今の歴史研究者や豊島氏ファンは「泰経」とは言わないそうですね。『道灌状』などの当時の記録には「豊島勘解由左衛門尉」と官途名があるのみで名前は不明だからだそうです。


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ほにゃ、にわか仕込み の豊嶋一族の歴史をレジュメを元に(ほとんど書き写し状態)時代順に書きながら、余談を混ぜて一族の興亡を辿ってみたいと思います。余談の面白い話が多過ぎてここに書ききれないのが残念なり。


▲ 豊嶋氏とは

豊嶋姓の初出は、治承4年(1180)『吾妻鏡』。
初期は川や海での交易が中心 → 農業中心となり → 四百年余り続いた一族。


源氏に従っていた、平安後期~鎌倉初期

(保元の乱)豊嶋俊経、源義朝に従う
(平治の乱)豊嶋清元、滝野川にて首藤家通を討つ
この 清元=法名清光 の代に豊嶋氏は鎌倉幕府の御家人として勢力を拡大。

ここが一族の 最盛期 ヾ(´∀`)ノ


☆ 余談のひとつ「平塚神社の甲冑塚」
豊嶋氏が源義家から賜った鎧を、元永年間に埋め塚を築いたとあるが、この塚は、甲冑を埋めたのではなく古墳(たぶん)。


鎌倉北条についたと思われる、鎌倉中期

嗚呼、しかし…
(仁治2年/1241)清元の曽孫である豊嶋時光は自身の所領
(豊島荘犬喰名=北区尾久か?)をサイコロ博打の質とし、その罪で所領を没収!

ドびっくり~ (@_@)


新田義貞についた、鎌倉幕府滅亡時
(元弘3年/1333)分倍河原で幕府軍を打ち破る。


☆ 余談のひとつ「石神井の道場寺」
中先代の乱を起こした北条高時遺児・時行の子を、石神井城主豊島景村が養子とし建立と伝わっている。しかし、この頃このあたりはまだ豊嶋氏の所領ではない。

たぶん、豊嶋氏の前にこの辺を支配していた宇多・宮城などの菩提寺を、のちに豊嶋氏が中興したものであろう。


足利方についた、南北朝時代
(貞和5年/1349)豊嶋宗朝に石神井郷が譲り渡され、豊島一族による石神井の支配がはじまる。


これを一族の発展とみるか衰退とみるか?というと、衰退であろうと。勢力が衰えてきたので、このあたりへ来たのではないか。

また、本拠地を移動させたのはこの頃だと思われるが、(応永2年/1395)に以前没収されていた石神井郷を戻された直後かもしれないとのこと。


☆ 余談のひとつ「豊嶋泰景」
初代の石神井城主は豊嶋泰景で、次代が景村とされているが(『新編武蔵風土記稿』)、泰景・景村が実際にいたかどうかは不明。


平一揆

(文和2年/1353)武蔵野合戦での尊氏さま方の勝利により、貢献した平一揆の中心となった豊嶋氏も少し盛り返す
ヾ(´∀`)ノ


が、しかし…

尊氏さま子息基氏&執事の上杉憲顕は平一揆の勢力拡大を警戒(たぶん)

(応安元年/1368)基氏死去の翌年、ついに平一揆は上杉憲顕とぶつかる!

上杉方の勝利


豊嶋氏は領地をうばわれ、また衰退
(ノД`)・゜・。


以後は上杉に従う


豊嶋氏は入間川(隅田川)や江戸湾沿いの活動をやめ、石神井川沿いの開拓を始めて付近の土地に根付いた領主となっていったのではないか?そして、

石神井城・練馬城の築城

石神井城と練馬城は、三宝寺池や石神井川の水源をおさえるための城とみるのが一般的だそうですね


チト休憩

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~石神井城の戦国期の溝の跡(オレンジ)は ↓ のように垣根で示されているそう。知りませんでした。~

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~溝で囲まれたエリアはけっこう広さがあります。何に使われたのでしょうか?~


休憩おわり 


滅亡への一歩、享徳の乱

関東は、利根川・渡良瀬川・荒川をはさみ、上杉方と足利公方方に二分する。豊嶋氏は上記のように上杉方。地理的にもまわりはすべて上杉方だったから。


(長禄元年/1457)太田道灌により、足利公方と戦うための最前線基地として江戸城・河越城・岩付城が築城される

(同年)江戸と河越を結ぶ軍用道路として、河越街道 を整備する


☆ 余談のひとつ「川越街道」
当時の河越街道は、3㎞ ぐらいもっと北にあった

江戸時代以降は農道として使われるようになり、急坂もものかはの最短距離で両城を繋いでいた直線道路では通行が大変。緩やかな場所を通ることができるように変わっていったそう。

また、川越街道は当時だけではなく実は現在も軍用道路。街道沿いの施設を考えてみてごらんくだされ。


話を往時に戻し、

そして、江戸や川越街道周辺に領地を広げたい道灌殿にとって豊嶋氏は、だんだんだんだん、だんだんだんだん邪魔な存在に…
(>_<) アチャー

しかし一応味方同士なので攻めるわけにもいかない。では道灌殿はどうしたか?


豊嶋領内へ、どんどんどんどん寺社を建立したのです。つまり、領地を浸食し、道灌自身の領から住民も移住させたそうです。これらになす術がなかった豊嶋氏の力はかなりの衰えですな。

豊嶋氏はどうしたらいいのでしょうか?


長尾景春の乱

(文明5年/1473)長尾景春の乱勃発!

豊嶋氏は、長尾景春につくのですね~。
講師の葛城氏はこれを、「豊嶋氏勢力回復のための最後のチャンス!」とおっさいます。

(文明9年/1477)豊嶋勘解由左衛門尉(いわゆる泰経)&平右衛門尉(いわゆる泰明)の兄弟は、

石神井城と練馬城を戦闘用にリフォーム

河越街道閉鎖できまっせーん(by 織田裕二)…ちゃうちゃう、閉鎖します!

開戦!!


以下は以前ブログに書いた「江古田原古戦場」の記事(文末添付)とほぼ同じですが、よろぴくご覧くだされ。

豊嶋軍 vs 太田道灌「江古田原合戦」

(同年3月14日)道灌、相模の兵を呼び寄せようとするも、川の増水にて失敗
(同年4月13日)道灌、少数にて豊嶋弟の練馬城に矢入れし周辺に放火

豊島方、練馬城・石神井城両城から出撃!
「豊嶋方は、道灌が相模からの増員が出来なかったことを知って、勝てる!と思ってしまったのかも…」by 葛城氏


道灌軍、逃げるふり


道灌「馬を返して」🐎 江古田原で迎え撃つ!
伏せておいた兵達とともに三方から攻撃!両軍、総力戦。

江古田あたりは、これまで道灌殿が着々と築いてきた寺社が取り囲むエリア。つまり、道灌軍の基地状態。


豊嶋軍、敗退


☆ 余談のひとつ「平塚城」
道灌殿が最初に攻めたのは平塚城だとする説が通説でしたが、これは『鎌倉大草紙』の作者の誤解だそうです。


豊嶋軍 vs 道灌「石神井城攻め」

(同年4月14日)道灌、城山(現・早稲田高等学院付近)に布陣
(同年4月18日)豊嶋方、降参/城の取り壊しを命ずる

(同年4月21 or 28日)豊嶋方が実行しないため、道灌、再び攻撃

豊嶋方、夜逃げ


☆ 余談のひとつ「彦五郎」
どうやら豊嶋本家の彦五郎殿という方は、寝返ったようです。文明2年・福徳元年の板碑や上杉の感状などに名前があるそうです。その後も現在に至るまで、地元の有力者として同地に住んでらっしゃるそうです。

まあ、皆さんご存知のように、自家を守るためには当時はこんなこと日常茶飯事。誰もやっていることです。


豊嶋方の再蜂起

(文明10年/1478 1月)豊嶋方、平塚に「対城」を築く


道灌軍、平塚城へ向かう


豊嶋方、戦わずして北へ逃亡


以後、現在に至るまで豊嶋宗家の行方は不明


☆ 余談のひとつ「小机への逃亡」
豊島方は丸子城(川崎)から小机城に逃亡との従来の通説は誤りだそうです。記されているのは「(道灌は)北へ逃げた豊嶋方を追いきれず、その夜江戸に戻った。翌朝、丸子城の攻撃に向かった」とのみ。

北へ逃げた豊嶋方が、翌朝川崎に現われること、および、道灌が翌朝までに豊嶋方の逃亡先を突き止めることは不可能だからだそうです。


豊嶋はどこへ向かったのか?

この時、豊島が頼れるのは長尾景春と公方ぐらい。葛城氏いわく、北に向かったということは、古河に向かったのだろうか?そして、その途中で落ち武者狩りにでもあい古い名族は消えてしまったのではないだろうか、と。


ふぅ~。以上でござる。講演の内容はこれで合っているかな。不審な方、もっと知りたい方は、葛城明彦氏の著作「決戦」をお読みくだされ。

講演の後半は、石神井城に伝わる照姫伝説と金の鞍伝説がどのように作られていったかの話でした。

ほにゃ。


「太田道灌 vs 豊島一族の「江古田原古戦場」」
「豊島一族の「練馬城」を歩く」
「講演 太田道灌と豊島一族 2013」



マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2019年8月 6日 (火)

「手づくねかわらけ は権威の象徴だったのか?」鳥居和郎氏

マリコ・ポーロ


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「手づくねかわらけ は本当に威信財だったのか? その流通や価値観からみたらそうではないのではないか? かわらけ をもらって喜ぶのだろうか?」

前回のブログ記事で書いた、「小田原北条の会」主催の 鳥居和郎氏 による講演 「北条の城郭(支城)ネットワークは本当にあったのか」での、「イメージをつくってしまうと、それが本当だと思い込んでしまうから…怖い」のお話しの中で鳥居氏がおっしゃいました。


ビビッ!ときたので、論文を拝読しました。『戦国大名北条氏と手づくねのかわらけについて』神奈川県立歴史博物館 研究報告 人文科学 第40(2013年)です。

目からミツウロコ
👀


▲ 
アゲイン


カラオケ♪ …ちゃう、かわらけ や 手づくねかわらけ については、マリコ・ポーロなぞより皆様の方が良くご存知のことだと思いますので省くとして。

手づくねかわらけ は ロクロ成形の量産品とは違い格の高いもので、北条に関しては当初は本城主が生産し、儀礼に使われ、何かのおりに支城主に下賜されるものであり、当主の権威を示すものだ、と私は認識してきました。

ところがギッチョン。


● 手づくねかわらけ は威信財だったのか?

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しょえ~。そんなこと考えたことも読んだこともなかっただ。


そう言われちゃうと、すぐ、確かに~(-_-) かわらけ は使い捨ての食器。素材も単なる土だしね(土物の陶芸家の方すみもはん)と思っちゃうマリコ・ポーロ。

でも 手づくねは、支城より本城からの方がたくさん出てきているし、博物館の展示では特別扱いだし、白だのピンクだのと分類され、なかには年号が入っていたり金箔を貼ったりしているものもありますよねえ。唐物ではないけれど、なんとなく価値高そ~な雰囲気。


論文には、「「権力の象徴」とみることには慎重になる必要があり」「継続的に使用された背景には、当主の「好み」という要素も考慮する必要があろう」とありました。

また、北条の かわらけ の研究は、「発掘資料という性格上、考古学的な手法で分析がおこなわれ…」、「発掘状況からみると、そのような解釈は可能となるのかもしれぬが、他の視点も交えて見ると別のイメージも浮かび上がってくるのではなかろうか。」ともあります。


それが、上に書いた、その流通や価値観からみるとか、かわらけ をもらって喜ぶのか?ということなんですね。元々の 手づくねかわらけ の価値がどれほど~ だったかですよね。例えば氏綱公が今川とか京から 手づくねかわらけ を頂戴して「威信財」と感じるほど嬉しかったのか?

もしかしたら、単なる氏綱様のお好みとして、「お!ちょっと味があって良いのう」だったかもしれない。支城主に与える時にも、「これをそちに進ぜよう」と三宝に載せて恭しく渡したのではなく、「ワシの好みなんじゃが、ちと良いじゃろ~。あげる。」とおっさっただけかもしれない。


でも、いただいた方の息子や孫や重臣達は、大途がくださったものだから大事にしなきゃと思ったかもしれないし。そして、次の世代になっていくと当主や息子たちが支城で儀式を行う時なんかに持ち込んで使うようになった…

あ、イカンイカン。どんどん脳内でイメージがつくられてしまうだよ。


● 小田原での手づくねかわらけ登場のキッカケ

手づくねかわらけ の北条での使用が始まったのは氏綱の頃ですよね。私は、それは、北条の支配が確立し始め、幕府の儀礼の導入や京の武士達の小田原への流入が盛んになったからだと思っていました。

しかし、もともと伊勢家は儀礼の本家本元であり、ましてや将軍の申次である新九郎さんは武家儀礼については専門家。息子の氏綱も、とっくのとうにそれらのことは承知の介。だから、「北条家に手づくねかわらけが登場した契機を、同家が幕府の儀礼を導入することに伴ってとみることは、やや説得量に欠けるところがあるのではなかろうか」と論文にはありました。

確かに~(←すぐ、また)


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~その頃のことは ↑ ここに。「新九郎、奔る!」ゆうきまさみ 小学館。~


では、キッカケはなんだったのだろう?

氏綱様の仲良しイトコ今川氏親さまのところでの手づくねかわらけ の登場は、氏親さまが京から中御門家の姫(寿桂尼)が嫁いできた頃。そして、北条で手づくねかわらけ が登場したのは、氏綱様が近衛さんから後添いをもらわれた頃。


論文には、「このような両家の状況は偶然の一致とは思えないものがある」「公卿家の女性との婚姻が契機となったと考えることも不自然ではない」と。つまり、武家の下向ではなく、公家の下向がそのキッカケかもしれないということですか。確かに~(あっ、イケネ💦)

でも、「裏付ける史料も存在しないため可能性を指摘するにとどめる」って。


むすび

手づくねのかわらけが、清浄な食器(一回使ったらもう使わない)という本来の機能に加えて、北条氏の権力の象徴という評価が行われることについて、

「この評価には、権力者側(北条氏)だけではなく、支配される側もその価値観を共有する意識がないことには成り立たない。… 検出状況からはそれらを読み取ることができず…」。


そして、登場キッカケ状況が類似する今川家では、手づくねかわらけ は定着しなかったそうです。では、なぜ北条家では定着したのか?ロクロ成形も外見を「手づくね風」になっていったので、それらの理由を考えることも重要であるとされています。

ここまで読んでくると、それはやっぱり、おっさる通り、五代当主の「お好み?」って思ってしまいましたが、論文でも「そこには「権力の象徴」というような意識は存在せず、単なる「嗜好」の領域と考えることができるのではなかろうか」。


以上、私がビビッ!ときたところだけを書きました。万が一、勘違い間違いがあると鳥居氏に申し訳ないので、ご興味がある方は論文を読んでみてくだされ。手づくねかわらけの本城から支城間での移動など、もっと色々なことが書かれています。


「戦国時代の「ウズマキかわらけの謎を解く」展」(2011.2.23)

「北条の「城郭(支城)ネットワーク」は本当にあったのか?」(鳥居氏講演)


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2019年7月20日 (土)

「北条の 城郭(支城)ネットワーク は本当にあったのか?」鳥居和郎氏

 マリコ・ポーロ

その前に…

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~会場入口では、この前に立って資正殿とツーショット写真が撮れる。~

横浜歴史博物館で開催中の「"道灌以後"の戦国争乱 横浜・上原家文書にみる中世」を観てきました。大変密度の濃い展示で、全部観るのにかなりの時間がかかりました。

長塚孝氏の「葛西城の攻防と東京湾の戦国」、黒田基樹氏の「太田道灌の子孫たち」の講演も拝聴しました。特に長塚孝氏のお話しのメインは、足利のヨッシー(義氏)と国府台合戦だったので、とても面白かったです。

それにしても、企画展のポスターや ツーショット写真が撮れるのは太田資正殿なのに、展示会場入口の太田系図に資正殿が載っていないのは何故だろう…?兄弟の資頼や女子まで載せているのに…。ふしぎ~。


本題へ。

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~講演「北条氏の城郭ネットワーク」レジュメと史料~


イメージをつくってしまうと、それが本当だと思い込んでしまうから…怖いですよ
(by 鳥居和郎氏)


このところ立て続けにそういう事例に遭遇しているので、他人事ではなく、超素人のたかがブログなれど自らも肝に命じてブログを書きたいと思いました。しかし、マリコ・ポーロ、はじめにイメージ有りきだからにゃ~…。


冒頭は、
北条の支城ネットワークは本当に「ネットワーク」だったのか?

って?いきなり目からミツウロコ
👀





小田原にて開かれた講座「北条氏の城郭ネットワーク」を拝聴してまいりました。

講師は元神奈川県立歴史博物館で現在は小田原市文化財保護委員会委員である、鳥居和郎氏。主催は、「小田原北条の会」です。会は3年前に発足。皆さんお馴染みの北条研究者の方達の講演などを毎月精力的に催しています。


講演の最初は発掘調査研究の現状についてでした。こちらに関しては、私の聞き間違い・勘違いなどがあると申し訳ないので割愛。へ~、そういうものなんだ~! という感じでした。(←気になっちゃいますかね。)

そこで例としてお話しに出たのが、「手づくねかわらけ は威信財なのか?」ということでした。


鳥居氏はこのことを数年前に論文に書かれたそうですね。とても興味をひかれましたゆえ、終了後に城内図書館でコピーし拝読しました。それは次回に。こちらも…👀 ▲▲▲(横向き~)でした。

色々な見方があるのですねえ。


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~本城小田原は、百合が真っ盛り~


講演は、当然に史料中心になりました。

また、鳥居氏は、「なるべく客観的に話すようにするが、自分は文献史学の人間なので、その面からの話になってしまう。だから全てが合っているわけではない」との旨の前置きがありました。上の赤字のフレーズはその時に発せられた言葉です。


支城制の展開
1.伊豆(口伊豆・伊豆奥)2.相模(西・中・東・三浦・奥三保)3.武蔵、それぞれの領とそれを管轄する城についての、詳しい解説。

支城制というのは北条だけではなく、どの戦国大名もやっていたこと。北条は印判状制度でその機能をより発揮した。


城の維持や管理について

1.郷村に対する賦課
銭で払う役銭-段銭・懸銭・棟別銭と城米銭
肉体労働の夫役-大普請・陣夫・廻陣夫

役銭は、氏康の時に3種類(段銭・懸銭・棟別銭)に整理されたが、文書(相模原の田名への朱印状など)によるとその後も城米銭が使われている。これは、「追加」ではなく「名目」か?


ここでビビッ!ときたのが、「竹千代殿の御飯米」
~玉縄の城米銭を小田原へ持ってくるように。これは、「竹千代殿」のご飯米で使う。~

永禄8年9月3日の田名(玉縄領)への朱印状です。永禄8年に小田原にいた竹千代「殿」!? 家康では年齢が合いません。小田原にはたくさんの他家からの預かり人がいましたからねえ。


あ、いかん、いかん。「イメージを作ってしまうと怖い」でした。人質とは限りませんよね。

永禄8年。国府台が終わり、岩付から三楽斎殿を追い、氏康殿が関宿を攻めた頃ですね。この竹千代殿とは、どなたですか…?


2.職人に対する賦課
鍛冶・番匠・船番匠・大鋸引・石工など


3.家臣に対する賦課
役(普請)、人数着(軍役)、出銭(銭)

例えば、岩付の氏房さんが道祖土氏(さいと氏-正確な漢字がPCで出ません)へ、本城へ人足を出すようにとの朱印状があります(天正15.2.6)。


道祖土氏は岩付の有力国人で、現在も岩槻にお住まいの家だそうです。これは、支城主が、本城への人足を自身の領域の有力国人から出させるという指示書です。

(それにしても鳥居氏、終始、「国衆」という言葉はお使いになりませんな。ワテもワテの知人方にもそういう人多いですが。)


例の、六郎さん(佐野の氏忠)が、某城(前欠のためどこの城か不明だがたぶん本城小田原)での番衆についての指示内容にもあるように、何度も何度もどこへも同じ指示がされているということは、つまり、それが徹底されていないからだと。

そうか…。そういうことって、今も普通によくあることですよね。例えば「掃除をしろ」という文言についても、これだけ書かれているのだから、さぞや城は綺麗に掃除されていたのだろうと私は思っていましたが、違うかもしれないんですね。何度言っても(書いても)出来てないから、また言う(書く)ということか。

ってことは、けっこう汚れていたってことでっかね? 掃除しようよってね。


イメージをつくってはいけないね。多方面からみないとね。

そして、城への兵力配置の様子などを、主に朱印状を元に解説してくださいました。面白かった~。


史料からみる本城と支城

まとめです。
以上の私の書き方では伝わりにくくて申し訳ないですが、本日のポイントは、果たして北条の「城郭(支城)ネットワーク」というものは本当にあったのかということを様々な史料から検討したところです。


北条の特徴のひとつであるといわれる「支城ネットワーク」。講演のテーマが「北条の城郭ネットワーク」でしたから、私は、そのネットワークがどういうものだったかの話かとばかり思っていました。「そもそも論」からくるとは考えたこともなかったので、目からミツウロコが落ちたのです。

もちろん、「城郭」も「支城」も「ネットワーク」も当時は無かった言葉です。鳥居氏いわく、「実はネットワークという言葉の検証はされていない」「なんとなく使っている言葉」とのこと。


「ネットワーク」の意味を調べると、それは「相互」に働くものとなっています。しかし、本日参考とした史料からうかがうと、確かにそれは「相互」には働いていないです。

鳥居氏は、
‐ 史料をみる限り、双方向的なものではない
‐ 支城ネットワークというより、本城からの一方的な指示のよう


受講者からの質問「支城間での相互援助のようなものはあったのか?」に、
「たぶん、ない」。


そして、最後の天正18年の頃。
本城は支城の精鋭たちを本城に全部集結させ、仮に「支城ネットワーク」のようなものがあったとしても、それは完全に機能しなくなってしまった、と。

…無念なり  by マリコ・ポーロ


支城ネットワークについて、あらためて考えてみたいと思いました。

というところで、次回のブログ記事は、同じく鳥居和郎氏の論文より、「手づくねかわらけ は権威の象徴だったのか?」を。


玉縄城の会でも、江戸湾の北条水軍についての真鍋淳哉氏の興味深い講演があったのですが、なかなか書けないでいるんです。

それから、
↓ 「小田原北条の会」、次回の案内です。

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マリコ・ポーロ こと 萩真尼

「「手づくねかわらけ は権威の象徴だったのか?」鳥居和郎氏」


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