2020年9月23日 (水)

新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて

サル9月3日、当ブログは12年目に突入。総記事数は公開したものだけで 728件 となりました。

皆様の「面白かったよ~」の一言に励まされてここまで続けてこれました。本当にありがとうございます。心より感謝申しあげます。これからもよろしくお願い申し上げます。

え?つまり、ということは、マリコ・ポーロ、あの頃からもう10才以上年をとっちゃったということか!でも、当初から読んでくださっている皆様もですよん。ふふふ。


さて、本題。

 Photo_20200921154501
~鎌倉「九品寺」。新田義貞が、鎌倉攻めの時に本陣を置いた場所に北条慰霊のために建立した。坂の向こうは海(材木座)。高い所にあるので見晴しが良かったのか。鎌倉唯一の義貞開基の寺で、山号の額は義貞の文字(の写し/本物は保存)~


というところで、さて本題。

新田義貞には詳しくあらねど、義貞を考えると「かわいそう…しかありません。

この後のことになりますが、後醍醐天皇(上皇)をも手離しちゃうでしょう。御上のクチグルマに乗ってしまって。というか、そのクルマに乗るしか他に道は無かったのかな…。


大河「太平記」24回目は「新政」。

後醍醐天皇の公家一統の政(まつりごと)が始まりました。皇子の大塔宮は尊氏様のことが大っ嫌いで、なかなか信貴山から下りてこないのですな。

鎌倉幕府を滅ぼすために当初からあんなにパパ上帝のために頑張ってきたのに。事が成ったら「また坊さんに戻れ」というパパ上もどうなのかと思ってしまいます。


そして、義貞。
妻に、短絡的に「あなた!ファイトッ!」とづけられて上洛を決意します。

あーあ、いかんぜよ~。ニッタムサク で鎌倉を出たら(そんな無策じゃなかったかもしれないけど💦)。武家の聖地鎌倉を足利方に取られちゃうじゃん…と、思ってしまいました。


新田義貞の女人としては勾当内侍が浮かびますが、内侍は京での側室です。そういえば、義貞の正室は誰だったのだろう?

調べてみました。


正室は嫡男の義顕のママで、実家は北条得宗家の被官だった安東氏なのですね。ドラマでは、足利家は北条におもねて北条一族の娘を娶ったように周りから言われていましたが、それは足利だけではないじゃあないですかねえ。なーんだ。

北条高時の重臣であった、義貞室の安東の叔父上は義貞の鎌倉攻めの時に自害しています。また、尊氏の正室の兄上である執権赤橋殿の討死も自害同然。鎌倉幕府はすでに腐りきっていたと言われていましたが、東勝寺での一門の最後といい、やっぱり坂東武士。最後は潔かったのですねえ。


先の話になりますが、義貞室は義貞亡き後、新田荘の義貞の館跡ではないか?と伝わる「明王院安養寺」で夫の菩提を弔って暮らしたと伝わっています。

こちらの不動明王は、義貞の鎌倉攻めの時に山伏に化身して一族に触れ回ってくれたのですって!?


🍸 大河「太平記」の記事

「大河「太平記」の再放送が始まりますね!」

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」

「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」
「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて

「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」
「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年9月15日 (火)

現存していた北条氏照の「下原鍛冶の槍」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Img_20200915_111306_20200915170901
~北条氏照の文書集より(見づらくて恐縮)~


9月とはいえ夜はまだまだ暑いのう…と濡れ縁(そんなの無いけど💦)に出て月を眺めていたところ、ヒュッ!頬をかすめて矢文が!

うぬっ!なに奴!
柱に刺さった矢文を抜き、文をハシッと開くと…

驚くことが書かれていました!


って、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、なんと、氏照が下原鍛冶に発注した「槍」が某刀剣商から売りに出されているとのことなのです。

文書集を見たところ、三田の福島が所持していた槍の銘文で、北条氏照が下原の照重に発注した槍(の穂先)だろうとありました。刀槍に不案内なマリコ・ポーロでさえ、ドびっくり~!
(*_*)

そして、矢文をありがと~!


刀剣商のホームページを開くと、認定書や鑑定書を含めた槍の写真と詳細が出てきました。銘文の部分もアップで載っていました。

刃長は、73.3cm(二尺四寸二分(73.3cm)、茎(なかご)は生ぶ目釘孔一の、平三角造り大身槍。刃文は焼深い湾れ直刃で、匂い口明るく沸つく…などなど。


下原(したはら)鍛冶については分かっていないことも多いようですし、詳しくない私なぞが書くのもなんですが、むか~し八王子郷土資料館でゲットした下原刀の冊子と、むか~し「旧・八王子城を守る会」の刀槍に詳しい方からいただいたペーパーからチビットだけ。


下原鍛冶が制作した刀槍は「武州下原刀」と呼ばれ(通称)、刀匠は山本氏。工房群があった八王子の恩方には「下原刀匠山本但馬国重鍛刀の地」の碑が建っています。小田原北条ファンや大石ファン、特に氏照ファンでは有名な戦国時代では武州一の刀工集団です。

「拵」は好きですが「刃」が苦手で(実際使われたらしき刃はもっとアカン)刀槍にはあまり興味がないのですが、それでも北条氏照の追っかけなので下原鍛冶のことはよく耳にしていました。


古くをいえば小田原相州鍛冶の流れのようで → 当初は相州藤沢に住し → 山内上杉の重臣だった大石に呼ばれ八王子に工房を構えて代々続いたらしいです(諸説あり)。

その後いくつかに分かれて、小田原北条が滅びた後は家康にも取り立てられ大久保長安の管轄となり、江戸時代初期には「下原十家」として繁栄したとのこと。


北条時代、下原鍛冶は氏康の代から庇護を受けたようです。それは初代下原鍛冶の「康重」や二代「照重」の名前からも分かります。(始祖の「周重」は、大石綱周からの偏諱かな?)

こたびの 槍 は、「照重」の作なのだね。


011
~氏照が貰ったレースガラス器(残っているのは黒い部分のカケラだけ)~


さて、この槍。ここまで書いてきてなんですが、

私が知った時はすでに売れてしまっていました…


考えてみれば、「氏照のもの」というものはまったくありません。レースガラスの壺だって、氏照は貰ったのであり、本当に自身の趣味だったかどうかは分かりませんよね。

この槍は文書とバッチリ合って、氏照からなぜ福島氏に渡ったのかは分からないけれど、まさに氏照のもの!です。ひっじょーに、残念ですよねえ。その前に知っていたら、マリコ・ポーロが買って小田原か八王子に寄贈したのに…。

まあ、それ以前にそもそも買えないでしょうが…テンテンテン。


小田原北条が滅びた後、照重は甲斐へ移り作刀したそうで、一族の他の流れが八王子に残り幕末まで続いたようです。


と、うまくまとめられたかどうか超不安。ネットに論文でも載っていたら興味のある方にご紹介したいと探ったところ、ありました。武州下原刀研究の第一人者である、故後藤安孝氏 が、とても詳しくお書きになったものです。

福生市『武州下原刀』

また、福生市は武州下原刀を約40振所蔵してらっしゃり、時々特別展も開かれるようですね。


せめてこの槍を買った方が小田原北条領域のどこかの博物館か資料館に貸し出してくださり、北条ファンが見る機会ができることを願うものです。

以上、「小田原北条ぶんぶん(聞聞)録」でした。

🐎 北条氏照についてここ最近書いたブログ記事です。

「①~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「②~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「③~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」

「前編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」
「後編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」

🐎 過去10年でたっぷりこってり書いている氏照のことは、カテゴリー「八王子城と北条氏照」からご覧くださいますと嬉しいです。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年9月12日 (土)

北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて

 マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Img_20200912_102344
~池谷初恵著『鎌倉幕府草創の地 伊豆韮山の中世遺跡群』2010(新泉社)


韮山は我ら小田原北条ファンの「聖地」である。

しかし、韮山は小田原北条にとってだけではなく、鎌倉幕府を開いた頼朝の源氏にとっても、その後の執権政治を行った前の北条にとっても「聖地」だった。


現代の私達からしたら、伊豆韮山は伊豆半島の付け根で、歴史と仏の里であり、ある日突然畑の真ん中から温泉が湧き出た風光明媚な観光地のイメージだ。そんな韮山が中世、なぜ前北条の拠点となったのだろうか?

当時の伊豆の国府は三島にあった。韮山には国府三島と半島を繋いだ下田街道が通る。また、狩野川という駿河湾にすぐ繋がる狩野川も流れていた。つまり、韮山は陸運と水運の交通の要所だったのである。


(小田原北条にとっての「聖地韮山」のことはたっぷりこってり今までブログに書いてきたので割愛しますが、文末に少し添付いたしました。ご覧くださいましたら、いと嬉し。)


028
~前の北条氏館跡&堀越公方屋敷跡~


さて、大河「太平記」第22回は「鎌倉炎上」。ついに鎌倉幕府の終焉を向かえましたね。レンタルビデオで何度も観て、東勝寺跡にも何度詣でたことか…。なんだか月並みな言い方で恥ずかしいですが、本当にこの大河は名作中の名作ですよね~。

小田原北条が大河になる時もこのぐらいのクオリティでお願いしたいです。いつになるか分からぬが、それはコロナ終息より遠い道のり…。


何度も観ているのに今回初めて思ったことがあります。高時の母、覚海尼はその後どうなったのだろう?

伊豆韮山で晩年を過ごしたこと以外ぜんぜん知らないので、以前に小田原北条や堀越公方のことを読みたくて買った冒頭写真の本『鎌倉幕府草創の地 伊豆韮山の中世遺跡群』に何か書かれていたことを思い出し開いてみました。


▲ 実家:安達氏
▲ 実名:不明
▲ 法名:覚海円成
▲ 享年:不明(60代位 カ?)


▲ ポジション:側室

側室だったんだ!(*_*)
沢たまきさんの貫禄💦から正室だとばかり思いこんでいました。

貞時の正室は、北条得宗家の人なんですってね。安達が貞時に対して謀反を起こし、許された後に安達家庶流の娘であった覚海尼が嫁がされたんですってね。

戦乱の時代にはよくあることですが、覚海尼は、一族の仇に嫁いだのですね。


息子の高時さんが24才で病のために執権を退いたあとの後継者問題では長崎殿と組んで騒動を起こし、これで、先の称名寺のブログ記事に書いたその時の金沢貞顕殿が執権を降りることになったのです。

ドラマでは、しょっちゅう、いきなり、高時さんの部屋へ現われます。「山内禅尼」と呼ばれていたので山ノ内にお住まいだったのでしょうが、それは、貞時亡き後の出家後のことかと思っていました。側室だったからハナから山ノ内にいらしたのですかね?


▲ 鎌倉炎上の後

それが、伊豆韮山です。

堀越公方の屋敷があったところは、以前は前北条家の屋敷がありました。そこに、覚海円成尼と一門ゆかりの女人のために「円成寺」が建立されたのだそうです。


円成寺を安堵するよう尊氏さまに命じたのは、なんと…

後醍醐天皇!


御上~~、あなたって人は…


そして、尊氏様の弟の直義さんも円成寺に寄進をしているのです。
へえ~~。鎌倉北条を滅ぼした、みんなの複雑な心境が分かるような気がしますよね~。


覚海尼は、残された一門の女人達を引き連れて寺へ移ります。


030


覚海尼は夢窓疎石を師と仰いでいたそうで、師と交わした和歌が残っています(『正覚国師集』)。


相州高時禅門の母儀、伊豆の北条にすみける時、よみてたてまつられける

あらましに
まつらん山ぢ たえね ただ
そむかずとても
夢の世の中

此歌は、世をそむく我があらましの行末にいかなる山のかねてまつらん、とよみ給ひたりしを思ひ出でられたるにや


御返し

夢の世と
思ふうき世をなほすてて
山にもあらぬ
山にかくれよ


「あらまし」とは、いわゆる物事のあらまし の あらまし ですよね。

険しい山道ですらすでに途絶えてしまった。自らあえて世にそむかずとも、今やこの世のことは夢の中のよう…と覚海尼。

それなら、夢のようだと思う浮き世をなおも捨てて、山にもあらぬ山の中へとお隠れくだされ…と師。

マリコ・ポーロ意訳。違っていたらゴメンナチャイ覚海尼様、夢窓疎石様。


ご興味ある方は、『鎌倉幕府草創の地』を是非!各時代の発掘調査のことがたくさん載っています。


🍸 大河「太平記」の記事

「大河「太平記」の再放送が始まりますね!」

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」
「尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」

「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて
「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


🍸 小田原北条にとっての聖地韮山についてたくさん書いたブログ記事の一部です

「小田原北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム」
「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏~願成就院」

「北条氏政が謙信や信長にプレゼントした、韮山の江川酒」
「後北条の女領主、伊豆の山木大方」


「北条幻庵の伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」~シリーズ北条五代の娘たち「伊勢宗瑞の娘たち」」
「‘元祖 義’ 伊勢新九郎の韮山へ」

「前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」
「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年9月 9日 (水)

八王子城が「日本遺産」に!

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。

008_20200909164501
~このあたりの杉の木が撤去され、大手道から御主殿の威容がよく見えるようになったそうです~


北条氏照ファンの皆様!昨日の朝日新聞の夕刊「まちの記憶」をご覧になりましたか!?「霊山を守った山城の悲劇」として我らが北条氏照が載っています!

かつて、北条氏照が全国紙でこんなに大きく取り上げられたことがあっただろうか…

いや、ない!
望外の喜びじゃ~


今年6月、八王子はストーリーを「霊気満山 高尾山 ~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」として、日本遺産に認定されました。東京では最初だそうです。

日本遺産は「ストーリー」が選択基準で、そのテーマに地域の特色や歴史文化財を織り込むものだそうです。ちょっと難しい。


認定された八王子のストーリーは、戦国時代に八王子に城を構えた「北条氏照」から始まる…とされています。

まあ、ストーリーは高尾山の知名度によるところが大きく、新聞でも氏照の高尾山への政策をからめて紹介されていますが、それにしても1頁全部ですよ。嬉しいですねえ。


ここに新聞記事の写真は載せられないので、図書館が使えるようでしたら是非ご覧くださいまし。

以上、「小田原北条ぶんぶん(聞聞)録」でした。


八王子市のHPにもストーリーが載っています。

八王子市HP「日本遺産認定ストーリー」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年9月 2日 (水)

「小田原北条ぶんぶん録」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Img_20200901_160841
~こちらは学研さんの『天正壬午の乱』で恐縮。戎光祥さんももちろん出されています。なぜ2社でなのかは分かりません。~


当ブログも今月12年目に入ります。

が、しかし…
見聞したき場所はあまたあれど見聞には行けず、北条追っかけの「」ネタのストックがほぼ無くなりました。


なぜ見聞に行けないかというと、都心はいまだ陽性確認者が多く、都知事も「東京の人は他府県への移動はまだ控えて~」とおっさっていることもあり、また、もし自分が無症状の陽性者だった場合も怖いので、いまだ逼塞中だからです。


我が家には高齢の親や超高齢(20才)の猫又(?)🐱 がおり、万が一私が感染したら家族に感染することは必至。親しい親戚や友人は江戸にはおらず、その上みんな車を持ってにゃいので援軍も呼べない。近所の人なんてどんな人がいるかも知りません。

それでも、人間は世の中がどうにか面倒を見てくれるでしょう。お子さんなら一緒に入院も出来ますし(有名人だけ?)。でも、猫はたぶんそのままで餓死 or 持病の薬が飲めずに…テンテンテン。


と、長々と自分のことを書き連ねて失礼しましたが、何を申したいかというと…

本や論文の感想文ばっかり書いていも読んでくださる方達も楽しくないでしょうから、「小田原北条見聞録」も終止符を打つ時か…とドヨ~ンとしていました。


そんなところ、歴友さん方より、北条ゆかりに限らず今までに訪ねた史跡を再度調べたりして書いてもよいのでは?とか「見」はなかなか出来なくても「聞」だけだってよいのでは?などなどの励ましのお言葉をいただき思い直しました(すぐ立ち直る💦)。

そだね~。マリコ・ポーロは現地に立ってこそのブログなのじゃが、ブログを書くこと自体は趣味なのだから自分の書きたいことを書けばエエ。ほな、「小田原北条ぶんぶん(聞聞)録」としてもうしばらく続けてみまひょか。


ということで、早速の「ぶんぶん」。

▲ 戎光祥ヒストリカルセミナー
平山優氏オンライン講演会「天正壬午の乱」

すっごく興味ありますね!

実際の講演会はすでに終わっていますが、参加出来ない人のために家で拝聴できるようにしてくれました(有料)。「一般販売」は9月9日からのようです。支払いをすると、動画のURLアドレスがメールされてくるそうです。それも、レジュメ付で。ありがたい!


本の方の『天正壬午の乱』は拝読しましたが、読むのと実際に聞くのとはまた違いますよね~。講演会に参加した方達からは、とても面白かったという話を聞きました。今夜ゆっくり拝聴します。楽しみ~。

動画配信だと何回も聞き直せるところも助かります。こういう方式で、講演会や発掘調査現地説明会などを他でもやってくださると嬉しいのですが。


私は会員でもなんでもないのですがSNSですでに申し込めたため今夜から観られるそうです。「一般」とはなんだか分からなくて恐縮ですが、ご興味ある方は、戎光祥さんのHPをちょこちょこチェックしていてくだされ。

戎光祥ヒストリカルセミナー



▲ BSプレミアム「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城」は「小田原城」だそうですよ

日時:9月4日(金)22:00~

以上、取り急ぎの「ぶんぶん」。


🐎 神流川の地を、名胡桃衆と一緒に見聞した時のブログ記事です

「神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱」
「激戦!金窪城から神流川へ~天正壬午の乱」

「「関東戦国の大乱~亨徳の乱展」 & 天正壬午の乱」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年8月27日 (木)

八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Image11951_2 
~多摩川に日が沈む。「田園調布八幡神社」創建は鎌倉時代中期?鳥居の先が多摩川(9年ぐらい前にお詣りした時に撮った)。~


南無八幡だいぼさーつ!

丹波 篠村八幡宮。太刀を掲げ、高らかに北条討伐を宣言する尊氏様。


大河「太平記」も気が付けばすでに 20話。

再放送が始まった時、よし!毎週の放映に合わせてなにかしら書こう!と決めたものの、何週分かまとめて録画を観ることがあったり、なにより、この時代には(も)詳しくないため調べることが多く、マリコ・ポーロにはチト無理のよう💦


さて…

尊氏様が唱える「南無八幡大菩薩」で、思い出しました。

とある、由緒の古い八幡様(田園調布ではにゃい)の説明板を読んでいて、目からミツウロコだったことがあります。


時を遡ること長元の頃(平安時代中頃)。

その八幡神社は、上総下総で起った平忠常の乱を治めるために源頼信がその地に宿営した時に八幡大神を奉斎し、戦勝祈願をしたのが始まりとありました。それは源氏と八幡神の、「坂東への第一歩」であったようです。

源頼信って誰?とスマホで検索したら、河内源氏の祖だそうな。


源氏は坂東の武士の象徴、みたいなイメージがあります。その氏神であり坂東にあまたある八幡様は、つまりは西から勧請された神社だったのですね。源氏は元々は天皇家から出ているから、考えてみればそりゃそうなのですが…。

その土地を侵略する場合、自家や一族が信仰する神社をどんどん置いてゆくと言われます。江戸人の代表のような我らが太田道灌も、その手法を使って豊嶋氏を追いつめていきました。


八幡神もそうなのかどうかは私には分かりません。ただ、前々回のブログ「峰岸純夫著『中世鎌倉盛衰草紙』を読みました」に、

関東中央部からは戦国大名権力を生み出せなかった。北条・上杉・武田などの関東の外に成長した戦国大名たちの草刈り場… とある

と書きました。もしかしたら坂東の外から入ってきた侵略者たちによって、坂東土着の神は追いやられてしまったのでしょうか。


もしそうなら、それよりもっと昔の坂東の神様ってなんなのだろう?図書館に行けないのでネットで探してみると、神について書かれたものは厖大で様々でとても知り得ません。

稲荷神も秦氏で京都ですし、天神様も、諏訪神社も、恵比寿様も坂東発祥ではないでしょう。そもそも、古事記の神様もほとんどが 西 発祥。源氏ではなく平氏を考えても桓武天皇で、西から始まった一族。千葉氏の妙見?いや、千葉氏も平氏か。

坂東のもっと古い氏族の氏神を探せば分かるかな…。鹿島神社?香取神社? 平将門?いや、アニミズム!?


我が家のエリアの氏神様も八幡様です。坂東の地の氏神様なのに坂東発祥の神様じゃなかったことに今更気が付いてしまいましたが、これからも尊崇してまいりますよぉ。

南無八幡大菩薩!
疫病退散!


注)神様のことは難し過ぎるため、これ以上は深く突き詰めて考えることはしないと思いますので専門的なコメントにはお返事しかねる…いえ、ワテには出来ないと思います。←すごいエクスキューズ💦


🍸 大河「太平記」の記事

「大河「太平記」の再放送が始まりますね!」

| | コメント (0)

2020年8月14日 (金)

江戸時代、隕石は本当に八王子に落ちた!「暴れん坊将軍」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連、クリーニング店などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Img20131019_212128
~彗星とはなんの関係もないが、明日8月15日は新九郎さん こと 伊勢宗瑞の命日です。~


さて、
ドびっくり~\(◎o◎)/ したこと。

今朝の「暴れん坊将軍」(再放送)のことを小耳にはさみ、また、Twitter(ツイッター)でも盛んに書かれていたので、なんだろう?どれ!と興味が出て観てみました。

「暴れん坊将軍」は皆さんけっこうご覧になってらしたかと思います。マリコ・ポーロ 時代劇は大好きなのですが、「暴れん坊…」をチャント観たのは初めてでした。


今日は、ペルセウス流星群が最も近づいている今にピッタリの内容(か?)。「江戸壊滅の危機!すい星激突の恐怖」。あ!と思い出す方はきっと多いのでしょう。「暴れん坊将軍」では名作・怪作・神作と称される回だったそうですね。

上様が江戸に ほうき星=彗星(水星ではない)が接近していることに気付き、その機に乗じて謀反を起こそうとする若年寄とその一味を「しぇーばい(成敗)!」するというストーリーでした。


彗星が地球に迫って来る映像は昔の特撮ドラマやウルトラマンのようで、へえ~、おっかし~😃、それに、彗星って落ちるものか?(落ちるの?)それって隕石じゃないの?そして、松永弾正も真っ青の大爆発にはドびっくり~。

あーだこーだと一人でツッコミを入れたりしながら、ま、これはドラマであると視聴。


ドラマでは、落下地点は八王子の大和田村(今の北野駅あたり)と、上様が西国から呼び寄せた天文学者が分析。上様は め組 や配下の者に命じ付近の村々から民を非難させます。

八王子ですと!大和田村ってどこかしら?観終わってから検索してみたところ…


ドびっくり~ \(◎o◎)/!←しつこい…💦


これは史実なのですね!

八王子市のHPにありました。落ちたのは彗星ではなく隕石ですが、ご存知でした?天文ファンでは有名な話なのですかね。


それは、文化14年12月29日(江戸時代の暦(旧暦)では文化14年11月22日)午後2時頃のこと。

惜しい!上様は家斉殿。


当時の日記や書物などに記載されていて、目撃者もあまた。飛行経路は甲州街道に沿っていたそうです。ドラマのように大和田村一ケ所に ドッカンーン💣 と落ちたのではなく、八王子・多摩・日野の広範囲に渡ってアチコチに落ちたようです。

記録に残っている落下地点は13ヶ所。でも具体的に伝わっている場所は、現在ないそう。


八王子や滝山の城跡も、登城した時に下ばっかり見て戦国時代の遺物を探していますが、もしかしたら隕石を探す目で見ればあったりして!!柚木にも落ちたらしいし。

なーんて。見つけたら八王子市に届けましょ~。


若年寄の掘田殿が天文方に調査を命じたが、結局、「空中より石が落ちるという理由はなく、高い山の硫黄の蒸気で土石が飛び出すもので、西洋書にもこの類のことは時々あるので、今回の落石も、追々出所がわかるでしょう」

ってなことになったそうです。ドラマに近いですな。


以後、隕石落下のことは忘れられていたが、なんと昭和になってから京の土御門家から隕石の破片と書付が発見されたのですって!

国立科学博物館が調査し、国際隕石学会に登録されているそうです。日本の隕石落下の記録では5番目に古く、今、隕石の破片は国立科学博物館が所蔵。非公開だそうですが💧。


あなどれない…暴れん坊将軍。

こちら ↓ に詳しく書かれています。その隕石や文書も絶賛募集中ですよ。
八王子市HP「八王子隕石落下200年」



萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年8月11日 (火)

峰岸純夫著『中世鎌倉盛衰草紙』を読みました

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連、クリーニング店などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Img20171115_171538
~アクリル板が反射し見づらくて恐縮。3代北条泰時邸の遺構が保存され上から見られるようになっている。若宮大路の執権小町亭跡に建つ、中世鎌倉ファン(含むワテ)が立ち寄る鎌倉武士グッズ「侍気分」さん店前の床。M's Ark Kamakuraビル 内。また、大路向いの Tully's は北条時房(義時弟/初代連署)の屋敷跡で、発掘された遺物を見ながらの一服。~


さて、前回は峰岸先生の新刊の、印象的な挿絵についてご紹介しました。


読み始めました。

第一部は頼朝から宗瑞までが、鎌倉の素っ晴らしく美しい写真(原田寛氏)や水彩画(矢野元晴氏)と共に時系列に進み、とても読み易く、行きた~い、歩きた~いと欲求不満にさせられます。

第二部は、も少しピンポイント&安達氏のこと。


目からミツウロコだったのが、
関東中央部からは戦国大名権力を生み出せなかった。北条・上杉・武田などの関東の外に成長した戦国大名たちの草刈り場…


たしかに~。小田原北条は元は関西の人だし、あらたに関東を支配したのも三河の人だもの。恥ずかしながら、今までそこには気が付きませんでした。

太田道灌はアカンかったし。

道灌状から、旧来の体制の枠内に止まった彼の限界を見ることができる
と先生は書いてらっしゃいました。


「氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」」
「北条氏綱が鶴岡八幡宮へ奉納した「太刀」」

「①大河「太平記~父と子」と、北条高時のこと」
「②大河「太平記~芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」
「④ 大河「太平記~帝ご謀反」と、北条家はなぜ将軍にならなかったのか?」
「⑨大河「太平記~宿命の子」と、金沢氏の称名寺」

「非公開 「英勝院」の御廟内部~鎌倉」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年8月 9日 (日)

印象的な挿絵の『中世鎌倉盛衰草紙』峰岸純夫著

マリコ・ポーロ

8月6日 広島、8月9日 長崎。陽性確認者が激増している状況下ではありますが、忘れてはならない歴史


Photo_20200809114601
~雨の八幡宮、早朝(2019.7)~


チト先に…
八王子城
御主殿の奥の一段高くなっている方、9月から大きな調査が入るそうです。
毎日公共交通機関でお仕事に行っている方達には申し訳ないですが、我が家からは平日土日・時間問わず満員電車に片道1時間以上は乗らねばならず、見にいけません…。近くの方や車の方、どんなだったか教えてくだされ。

もう丸半年、家族以外の誰とも会っていない…。外で発する言葉は「袋いらないです」「Suicaで」「一括で」のみ←近所での買物。


さて、

氏直たちが高野へ旅立ち、家康殿も江戸へ入り小田原北条開城落城強化月間も一段落。そんなところで、我らが「旧・八王子城を守る会」の会長でもあった峰岸先生の新刊が出ました!

中世鎌倉盛衰草紙 東国首都鎌倉の成立と展開

歴史探訪社。ムック本です。峰岸先生の本では珍しいです。


写真(原田寛氏)も素ん晴らしく美しいですが、さし絵の水彩画の素敵なことったら!

表紙は「毘」の旗を掲げ鶴岡八幡宮の参道をゆく謙信くん。裏表紙は、弓を掲げ由比ヶ浜(材木座?)を駆ける太田道灌殿。そのバックには江の島が。

同じく砂浜を駆ける尊氏さま(暴れん坊将軍ではない)、竹林をゆくシゲッチ(足利成氏)、切通を超える我らが伊勢新九郎さん、後醍醐天皇、大塔宮護良親王さん、直義殿(昔頼朝像といわれていたアレみたいな)、佐殿(木造のアレみたいな)…。


画家は矢野元晴氏。「じゅん散歩」で見たことがあります。水彩画の教室をされていて、鎌倉マダムに大人気の若い方です。

武将絵も描かれるとは知りませんでしたので、原画が欲しいです。検索してみましたが、どこで手に入れられるのか、それより価格はいったいどのぐらいなのか、まったく分かりません。

本から切り抜いて額に飾っちゃおうか!そうしたら読めまへんな。まだ拝読していまへんので。


🐎 アナザーブログ
鎌倉の蓮、酒田の紅花などなどアップしています。八王子城や小田原ももちろん。よろしくば。
「萩よりほかの花も見るべく」


🐎 マリコ・ポーロ ブログ

「氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」」
「北条氏綱が鶴岡八幡宮へ奉納した「太刀」」

「①大河「太平記~父と子」と、北条高時のこと」
「②大河「太平記~芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」
「④ 大河「太平記~帝ご謀反」と、北条家はなぜ将軍にならなかったのか?」
「⑨大河「太平記~宿命の子」と、金沢氏の称名寺」

「非公開 「英勝院」の御廟内部~鎌倉」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年8月 1日 (土)

家康は8月1日以前に江戸へ入っていたのか?

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどなどなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


089

今日8月1日(朔日)徳川家康は、それまで北条領だった江戸に入封する


家康は秀吉から一方的に江戸への移封を言い渡された…とされているのだと思っていました。

しかし、今はそうは言われてないようですね。それは二人の合意のもとに決まったことだとされているようです。


そこで以前からの疑問が持ち上がってきました。

家康は秀吉より後に江戸に入ったことになっています。小田原開城からの家康と秀吉の動きを簡単に書いてみます。


(7月)
5日 北条氏直が投降


6日 秀吉&徳川の家臣達が城受け取りに入城(秀吉家臣=脇坂安治、片桐且元、家康家臣=榊原康政、井伊直政、本多忠勝)


10日 氏政・氏照が城を出、入れ替わりに、まず家康が入城


13日 秀吉が入城、家康殿がお出迎え

同日 家康の江戸移封が皆の者に告知される


ですよねえ。
普通は先に下の者が入り、その後上の人をお迎えしますよねえ。しかし…


15日 秀吉が江戸着

24日 秀吉は奥州に向けて出発


29日 家康は小田原を発つ

8月1日 家康の江戸入封


まだ不安定な江戸に上様が先に入るかな?家康は小田原でまだやることがあり、秀吉は奥州攻めを急いでいたということかもしれませんが、そういうことってあるのかな~とずっと思っていました。

まあエエ。北条が出たあとの江戸は、家康殿や秀吉殿で好きにしちくれと思いながらも、気になっていました。


幕末以外の徳川さんには興味がないので、手持ちの本は『江戸はこうして造られた』鈴木理生(ちくま学芸文庫)のみ。自主自粛生活で図書館へも行けないため、ネットで何か論文が読めないかと探ってみました。

見つけました!
チト古いですが、『徳川氏の関東入国に関する一考察』村上直氏(法政大学史学会 1995)です。


Dsc_0244


色々と面白いことが書かれていました。

家康好きの方でしたらすでにご存知のことかと思いますが、家康は、八朔以前に江戸に入国していたのではないか?というのです。そこには、水江漣子氏や中村孝也氏などの研究による上記とは違う秀吉と家康の動向が検討されていました。


🐎 その中のひとつ『徳川家康公伝』

(7月)
15日 家康は秀吉に先立って小田原を発して江戸入り


19日 秀吉が江戸着、家康殿がお出迎え


20日 秀吉は奥州へ、家康殿がお見送り


8月朔日 家康は縁起の良いこの日を選び、正式な形であらためて江戸城へ入城


🐎 また『文政寺社書上』には

秀吉は法恩寺を宿舎としたとあるそうです。

七月廿一日昼御膳御上り被成候、御城在御眼前秀吉公対家康公被し仰候

と、21日に法恩寺にて家康と対面しているとあるそうです。


以前にも書きましたが、法恩寺は、太田道灌が江戸城を築くに際し、江戸城鎮護のために建てたお寺です。早雲寺といい、法恩寺といい、秀吉ったら、もう!

いや勝った方はそういうもの、致し方なし。


この『文政寺社書上』の末尾には、これは誤りだと記されているそうなのですが、村上氏らは、そんなこともないのではなか?と。

他の数点の史料によると、秀吉が江戸を発ったのは 7月24日だと記されているそうです。


村上氏は、
…これによって家康が19日に江戸に着いたという確証はないが、恐らく20日には江戸に到着し、翌21日には法恩寺において秀吉と面談し、24日に奥州へ出発する秀吉を見送り…
と書いています。


家康や秀吉が江戸へ入った日もですが、秀吉が奥州へ発った日も、私の浅い知識とは違っています(そりゃ浅識だからじゃ)。それは、

…この点、のちに家康の関東入国を八月一日とするため、それに合わせるために行動内容がきわめて暖昧になっているともみることができるのである。…


驚いたことに、『家忠日記』には家康の江戸入りの日が書かれていないんですってね。そんな大事なことが書かれていないなんて。いや、家忠殿は、江戸は単なる通過点だと思ったのかもしれへん。

なんだか、納得~。


🐎 オマケ

この論考には、家康が入る前の江戸は寒村だったという解釈はあまり適切ではなく、道灌時代は文化的にも華やかで、以後、江戸城下には江戸湊を中心とした中世都市が広がっていたと思われると、ちゃんと書いてありますよん。

入国した家康の居城に相応したものであったことを知ることができるって。


ということで合っていますかね。
マリコ・ポーロの読み間違え、受け取り間違えがあるかもしれないので、ご興味ある方は村上氏のこの論考をご覧くださいませ。


でも、そもそも家康殿って江戸があまり好きではなかったようですよね。将軍職を秀忠に譲ったあと、サッサと江戸から出てっちゃいます。

それは、そのまま江戸城(家康の隠居所)にいたら秀忠のためにならないと考えてとも言われていますが、そうじゃなくて、家康殿は嫌いだったんですよ、坂東が。


「家康以前の江戸は本当に「寒村」だったのか?2015」
「太田道灌と小田原北条の江戸城 2010」

萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年7月30日 (木)

猫は二十歳になるとシッポが二つに分かれる説

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、雨、地震、ウィルスへの用心は怠りのう。


Dsc_0591
~ハタチの朝にゃ~


猫は二十歳になるとシッポの先が二つにわかれ「猫又」になる

と、むか~し「ゲゲゲの鬼太郎」で聞いたような覚えがあるので調べてみた。


🐱 その前に、チビット…

新暦 平成12年7月12日。
生まれたての4匹の猫たちは、江戸時代の北条家菩提寺である広尾「祥雲寺」の門前に捨てられていた。

奇しくもそれは、氏政・氏照が自決した翌日であった(年は違うけど…)。同年9月、その中の1匹は奇しくも北条追っかけのマリコ・ポーロの元にやってくることになる。


たびたびたび、このブログに登場している我が家の猫 マル こと マルゴー・ポーロ が二十歳になりました。高齢猫にありがちな甲状腺機能亢進症の持病で薬は常用しておれど腎臓は問題なく、お陰様で、まあそれなりに元気に誕生日を迎えることができました。

マル、これからもよろしくにゃ。


さて、猫又さんのこと。

Photo_20200730105901
~ハタチの朝、ふたつに分かれているか見てみた。生まれつき「鍵シッポ」なんにゃ~


猫又には、山に住む猫又と、飼われている老猫の猫又との二種類があるそうな。

猫又は鎌倉時代の説話集あたりから表れ、定家が『明月記』に、吉田兼好が『徒然草』に、江戸時代には新井白石も書いているそうです。


🐱 『徒然草』の猫また

奥山に、猫また といふものありて、人を食らふなる 
と人の言いけるに…

で始まります。


ある法師が連歌の帰りの夜、猫また に襲われます。

助けよや、猫また、よや、よや

うぎゃーーっ!
助けてくれーいっ!猫また だーっ!
おーい! おーい!


恐怖におののいた法師が叫ぶと、近所の家々から人々が、どーした、どーしたとワラワラ出て来ます。

が、なんのこたあない。
法師が飼っていたワンコ🐶 が、法師の帰りを喜んで飛びついてきただけ(カワユイ❤)とな。


という話のように、猫また の話はど
れも年老いた猫は妖怪となって人を惑わしたり、食らったりするもののようです。

まあねえ、猫が好きではない方にとっては、若い猫だろうが年とった猫だろうが猫を気味悪く思う方はいらっしゃると思いますが、いずれも猫の習性や、明暗で瞳が変わるところとか、ちょっと何を考えているか分からないようなところからくる迷信です。


🐱 シッポが二つに分かれる説

江戸時代の辞書のようなものには、

老猫は形が大きくなり、しっぽが二股になって災いを成す。これをねこまたともいう。

とか、

俗に老猫でしっぽが二股に分かれ、人をたぶらかす

とか書かれているそうな。


猫のシッポが二つに分かれる説(説か?)はどこから生まれたのでござんすかねえ?

(「玉藻前」の九尾のキツネの話 + 狐も猫も「化ける」というイメージ) x 様々な俗説 

猫のシッポが分かれる説に?


いずれにしても、様々なことが混ざり合って「猫は二十歳になると(何故ハタチかは不明)、シッポが二つに分かれる」ということになったのでしょう。

我が家の マル こと マルゴー・ポーロ は、今のところシッポは分かれていません。けっこう楽しみにしていたのじゃがのう。


Image8941
~保護した方がくださったマルの兄弟姉妹との集合写真。「大きくなったら見せてあげて」って…?~


「今日はマルゴー姫の誕生日(2010)」

「「虎の子」 多摩動物園サマーナイト(2010)」
「今年も「多摩動物園サマーナイト」、上野もあるでよ(2011)」


マリコ・ポーロ & マルゴー・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2020年7月25日 (土)

セミナー・講座~玉縄城址まちづくり会議&小田原北条の会(2020)

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、雨、地震、ウィルスへの用心は怠りのう。


108
~小田原の海を眺めたい…~


小田原北条の会玉縄城址まちづくり会議さん主催の講座・セミナーが再開です!

玉縄さんの連続セミナーは玉縄北条菩提寺「龍宝寺」さんの協力で、文化芸術振興費補助金、地域文化財総合活用推進事業(地域文化遺産)。小田原北条の会も玉縄さんも、毎回、精力的に魅力的なセミナーを催されますよね~。


マリコ・ポーロが端っこに席だけは置かせていただいている小田原北条の会の講座は、ガイドツアーや講演会ではお馴染みの旧文化財課鳥居和郎氏や大島慎一氏、そして学芸員の岡氏による、北条領国下での一向宗や早雲寺殿二十一箇条、氏綱の遺言などについてです。

もともと小会場のうえコロナ対策もあり、小田原北条の会は参加可能人数が少ないためここに詳細を書くのは控えます。

玉縄さんの連続セミナーはHPに見つけられないので(今日現在)以下に書き出します。詳細は、まちづくり会議さんへ(文末)。


私は東京都の真っただ中に居住する、思いっきり都民。陽性確認者が増大しているので当面の参加は控えますが、当ブログを読んでくださっている方は神奈川県の方が多いので、ここにお知らせする次第です。参加される方は、私が申すのもなんですが、感染対策バッチリよろしくぅ!

友人達も他県のためもう丸5ヶ月も家族以外と会ってなく、家の周りをウロウロしているだけ。北条成分枯渇どころか、人間&自然成分枯渇なり。参加できなくて、ひっじょーに残念。


Pict0021
~鎌倉光明寺の古代蓮を愛でたい~


玉縄さんの連続歴史セミナー

▲ 第1 回「戦国の城の歴史」
日時:8月1日(土)14:00-16:00
会場:鎌倉・玉縄歴史館(玉縄ふるさと館)

・講義「戦国の城の謎」
講師:香川元太郎 氏
(イラストレーター・絵本作家・日本城郭史学会委員)

・講義「玉縄城の七つの謎」
講師:鎌倉ではお馴染みの、大竹正芳氏(日本画家・日本城郭史学会委員)

受講募集人数:20人
予約受付開始:7月1日~7月30日
受講料:1500円 (歴史館入館料含む)


▲ 第2回
日時:10月10日(土) 13:30-16:00
会場:玉縄学習センター

内容:三人の歴史学者による講演「後北条氏一族の文化的活動検証」
・「北条氏当主を取り巻く女性たち」
浅倉直美氏
・「玉縄北条氏の文化的活動」
梯弘人(神奈川県立歴史博物館 中世史学芸員)
・「戦国時代の鎌倉・藤沢」
鎌倉ではお馴染みの、伊藤一美(歴史学者)

受講募集人数:25人
予約受付開始・ 9 月1 日~10 月6 日
受講料:1500 円



▲ 第3回
日時:11月21日(土)13:30-16:30
会場:玉縄学習センター第4 集会室

・基調講演:「戦国時代の武将像」
小和田哲男 先生

・シンポジュウム「戦国東西文化比較論」
パネラー小和田・伊東潤・玉林・大竹・伊藤 15:00-16:20

受講者募集:60人
予約受付開始:9 月1 日~当日
受講料:1500 円


▲ 第4回
日時:令和3年1月23日(土) 13:30-16:00
会場:玉縄学習センター

・「城郭史的な玉縄城の謎」
大竹正芳氏
・「証明された玉縄城の特異性」
玉林美男氏
・「鎌倉武家文化と戦国時代」
伊藤一美氏

受講募集人数:25人
予約受付開始:11 月21 日~1 月16 日
受講料:1500 円


申込先:玉縄城址まちづくり会議
E-mail artbank21@nifty.com
電話 0467-45-7411


🐎 以下、小田原北条の会&玉縄城のブログ記事の超一部です。それぞれの記事の文末にその他の関連ブログ記事が添付があります。ご覧くださいましたらいと嬉し。

「小田原北条と「八丈島」」
「北条五代の娘たち ⑧ 玉縄水軍の御しんぞう様」
「玉縄城下の探索会へ(2019.11)」

小田原北条の会の講座の一部です。
「「北条の 城郭(支城)ネットワーク は本当にあったのか?」鳥居和郎氏」
「「北条氏綱像」は後世に改変されたのか?鳥居和郎氏」
「「手づくねかわらけ は権威の象徴だったのか?」鳥居和郎氏」
「発掘ヶ所は 124!~戦国ワンダーランド小田原」土屋健作氏


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年7月21日 (火)

北条氏直~高野山から大阪出仕まで

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。
地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスへの用心は怠りのう。


053
~天正19年8月19日、氏直は大阪城にて秀吉と対面し知行を拝領する~


天正18年7月。小田原北条は、日本中の戦国武将に見届けられながら百年の歴史に幕を下ろす。当主氏直は家臣達への主従関係の解約書を書き、同月21日、高野山へ向けて旅立った。

「みな、それぞれ思う道を行ってくれ…」


旧暦7月21日、氏直たちが高野山に向けて旅立つ日が今年もきました。

発刊されたばかりの『北条氏直』(戎光祥出版)をちょうど読んでいることから、今年の7月21日のブログはそちらを参考に、高野山蟄居から秀吉に出仕するまでの氏直をあらためて辿ってみました。


主に参考にさせていただいたのは、先のブログ記事「7月5日 北条氏直は降った」と同じく、『北条氏直と高室院文書』(座間美都治)です。

同論集の「序」で黒田基樹氏が書いてらっしゃいますが、小田原合戦後の氏直のことを具体的に検討したものとしては、この1965年に書かれた座間氏の論考がほとんど唯一の成果となっているそうです。


Photo_20200721142901
~小田原幸田口の彼岸花~


(天正18年)
▲7月21日 氏直一行、高野山に向けて旅立つ
・御一家衆、側近など家臣は約30名、総勢約300名
・付き添いは、家康の重臣である榊原康政


▲ 8月12日 
高野山高室院「小田原坊」着


▲ 11月10日 
高野山麓の天野(和歌山県伊都郡三好村)へ移る
・これは冬の高野山の寒さをおもんぱかった秀吉の意向


白洲正子が、私の大好きな『かくれ里』にこの「天野」のことを書いています。

…「天野」の名にふさわしい天の一角に開けた広大な野原であった。もしかすると高天原も、こういう地形のところを いったのかも知れない…ずいぶん方々旅をしたが、こんなに閑でうっとりするような山村を私は知らない…できることならここに隠居したい。桃源郷とは正にこういう所をいうのだろう…


天野は標高450m。八王子城と同じぐらいですな。高野山のお寺があるあたりは標高約800m。随分と寒さはやわらぐでしょう。

良い所らしくてホッとしました。マリコ・ポーロがホッとしてもどうでも関係ないんですが。


秀吉は氏直たちに対し扶持を与え衣服や酒茶なども届け、一応は気を遣っています。

高室院も、北条家とは宗瑞以来の長い付き合いであり、歴代住職は相模の出身が多いそうです。金子の都合までもしたりと親身に世話をしてくれています。


また、氏直やその側近たちが蟄居中に高野山や大阪から出した、寒いから囲炉裏と炬燵が欲しいとか、カネオクレ とか、様々な御礼とかとかの文書は十数遍残ってるそうです(原本は無し、すべて写し)。

この間、家康殿が中心となって氏直たちの赦免について秀吉に様々働きかけてくださり(ありがとうございます)、


(天正19年)
▲ 2月7日 ついに秀吉のOKが出る


▲ 春 
大阪泉南(岸和田市)の「興応寺」に移る
・興応寺は今は無く、地図を見ても見つけられなかったので、数年前に市に問い合わせさせていただいたが、ついに分からなかった。


▲ 5月9日 
大阪の織田信勝の屋敷跡へ落ち着く


▲ 5月12日 
氏直はこの日付の書状から「見性斎」を称する


▲ 7月21日
高野山高室院へ「誰か」の供養を依頼する
・座間氏はこれを、7月11日が一周忌だった父氏政と伯父氏照の供養ではないかと書いてらっしゃる。名前を書くのを憚ってのものだろうか?と。


▲ 8月19日
秀吉に拝謁し知行を拝領、秀吉の旗本家臣となることになる

また、その時に翌年の朝鮮出兵も命ぜられる


▲ 8月24日
高野山高室院へ持仏の五躰尊の祈念を請う
・来春の唐入り後は生死の程も分からないゆえと。


▲ 8月27日
小田原から督姫一行が到着

ふたたび会いまみえることが出来て良かったね!
が、それも束の間…


▲ 10月下旬あたりから
疱瘡を患う


▲ 11月4日
逝去
享年30才


天正14年あたりから特に18・19年、氏規さんは大活躍ですね。氏規と家康の幼少の頃からの繋がりがあったからこそ、北条はその後続いたともいえます。

そして、

何度も書いており恐縮ですが、氏直の弟氏房含め高野山組は早世する人が多かったです。

惜しかったね。氏直さんは家康の婿殿ですもの、近々訪れる皆の未来は非常に明るかったのに…。


🐎 以下、7月21日と高野山あたりのことを書いた記事の一部です。よろしくば。

「それからの小田原北条一族 2010」
「今日7月21日(旧暦)、北条一族高野山へ 2011」
「今日7月21日、北条氏直は高野山へ旅立つ 2015」

「北条一族の高野山 3 「小田原坊」」

「江戸時代の北条家「狭山藩邸跡」」
「北条氏規の大阪の菩提寺」

「北条氏直の正室「督姫」の母の墓」

「北条家臣 桜井武兵衛さん、はしりめくる!」
「北条氏直、最後の当主の 「最後の朱印状」」

「江戸時代の北条家、東京の菩提寺」
「北条家 下屋敷の「北条坂」」

 

萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年7月17日 (金)

③~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスにはくれぐれもご用心くださいませ。


006
~八王子城に移る前の氏照の城「滝山城」は大蛇がのたうつように張り巡らされた堀が見事な名城である。~


さて、
家康の家臣石川忠総(大久保忠隣の息子)が残した『石川忠総留書』にある 北条氏照を介錯した「伊勢大和守」という人物が、なにを調べても見当たらないと ①・② で書きました。

興味を持ってくださった何人かの方からアドバイスを頂戴しました(ありがとうございます!)。


その中のお一人の北条師匠がおっしゃったことを読み返ししていて、ある一行からビビビッ💥 と妄想が浮かびました。

留書では「…(伊勢大和守は)氏規殿と同じく大和守殿と「殿」が付いている。…氏政・氏輝(照)・氏直はいうに及ばず、太閤まで呼び捨てで…」。←すみません、勝手に引用させていただきました。


② でも書いたように、石川殿が留書を書いたのはもう徳川の世になってからです。

となると、江戸時代のその頃の感覚で、石川殿はこれを書いたのではないだろうか。


・氏規については…
すでに他界しているので、生前のままの「美濃守」。権現様のお友達であり、当時の狭山藩主の祖であることから「殿」を付けて「美濃守殿」とした。


同じように考えると、
・伊勢大和守は…
北条時代の「大和守」ではなく、石川殿が留書を書いた当時の「大和守」かもしれないかもしれない。それは「殿」が付いているため、石川殿より立場が上の人物である。

なーんて。


手持ちに江戸時代の本は無く図書館も行けないので、ネットで見てみましたが、江戸時代の大和守でかつて北条とゆかりがあったような人は見当たりませんでした。

もしくは、やっぱり戦国時代の「伊勢大和守」で、違う名前で記録にたくさん出てきている人物だったりして…。


私の氏照を介錯してくださった方は誰?

もう私には調べようがにゃい。妄想は山盛り出来るけど。。。


検討違いの ビビビッ💥 かもしれませんが、自分の備忘のため書きました。
単なる妄想なので、信じちゃアカン。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2020年7月14日 (火)

②~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ


20200708091029601
~前回の氏直の文書を使った「籠城戦!」もですが、小田原うまいねえ(小田原城公式HPから無料ダウンロードできる)。スタッフの方達のみ缶バッヂをされているのも、いいにゃ~。~


前回、『北条氏康の子供たち』(宮帯出版)の 則竹雄一氏「北条氏照」にある 北条氏照を介錯した「伊勢大和守」について書きました。

それは、家康の家臣石川忠総(大久保忠隣の息子)が残した『石川忠総留書』にあるのですが、なにを調べても「伊勢大和守」という人物が見当たりません。

こりゃ、誰?と書いたところ、ご興味を持ってくださった方がいらっしゃり、矢文や投げ文にて教えてくださいました。皆様、かたじけのうござるぅ💧


まずは、『小田原衆所領役帳』にある、「太和(大和殿)」の子か孫がそうではないかとのことなのです。

『新編埼玉県史史料編』掲載の役帳の、太和殿の注意書きには「晴統」とあるそうです(『平塚市史資料編』にも同じ注意書きが添えられているようなので、注意書きはどこのどれも同じなのかな?)。

所領役帳は見たかったのですが図書館に行けずにいたので、とても助かりました。ありがとうございます!


晴統とは、大和晴統のことです。

晴統殿は、宗瑞の代からの、二代氏綱の京都御奉公衆のひとりで、冷泉為和の歌会などの記録にも名前が出ているのですね(『戦国北条氏五代の盛衰』下山治久著)。

ちなみに、ほかの奉公衆には伊勢家一族の伊勢貞辰や伊勢貞就、小笠原さんなどがいます。


しかし、大和氏の大和晴統と伊勢氏との繋がりは今のところ私には分かりません。

『室町幕臣の東下り』米原正義著に、「(大和氏は)伊勢備中守や兵庫頭と同じく伊勢平氏の流れをくむ」とあるように、遥か先祖で繋がるのか?はたまた、京都御奉公衆としていつも伊勢家の面々と行動を共にしていたので(たぶん)、『留書』を書いた石川殿が伊勢家の人だと思いこんでいたのか?


20200708091029571

そこで、「留書」を書いた石川殿についてチト見てみました。

石川殿は天正10年生まれ。
へっ??
小田原北条攻めの時、石川殿はなんと8才(満)ではないですか。

ということは、小田原北条については自分が小田原攻めに参加したり、直接かかわったわけではなく、パパやジジや親族や家臣などの大人たちから聞いた話なのだね。


さよか~

とすると、石川殿(または石川殿に伝えた人達)の記憶違いということも充分 ありえ~る、アリエ~ル。


「伊勢大和守」について他に何か書かれた本がないかと、都立中央図書館の蔵書ネットで検索しても「該当するものがありまへん」です。

これは、「伊勢大和守」から調べるのは難しそう。


伊勢大和守=大和晴統の子・孫・甥
と仮定して、大和氏の某が氏照を介錯した可能性があるかないかから調べるしかないですかね。


『所領役帳』は国会図書館のデジタルで見ましたが原本(の写し)なので、よ、よ、読めん💦。現代語訳のものが見たいです。

また、下山先生の『後北条氏家臣団人名辞典』も見たいです。データベースに索引だけありますが、見ると大和晴統殿ありますねえ。どうも、晴統殿は「大和守」のような、違うような…。でも、その息子だか孫だか甥だかのことはデータベースからは分かりません。


しかし、公共交通機関を仕事で使っている方々には申し訳ないですが、東京はまた感染者が増えていて図書館に行くのを躊躇っており、手持ちの本類は乏しく、現況ではこれ以上は調べられません。徒歩30分位で行ける我が自治体の図書館は、けっこう大きいのですが、これらの本は置いてないんです。

諸先生方が調べてくださって本になったものを、ワインでも飲みながら読みたい。
な~んて。


それにしても、北条氏照を介錯した人について、ほぼ全ての本が「氏政と同じく氏規」としていることにも、我らが氏照様を介錯した人物が分からないということにも、

ドびっくり~~
(*_*)
なり。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2020年7月11日 (土)

①北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスにはくれぐれもご用心くださいませ。


16
~小田原の墓前にて毎年7月11日に営まれる「北条氏政・氏照墓前祭」(文末記事添付)。2020年は中止。~


旧暦7月11日、我らが北条氏照は兄氏政と共に秀吉の命により自決させられた。介錯は、ふたりの弟氏規であった。


と、思っていましたが…
氏規が介錯したのは氏政だけ。氏照を介錯したのは「伊勢大和守」だそうですね!

『北条氏康の子供たち』2015.12(宮帯出版社)に載っている、則竹雄一氏の「北条氏照」を再読していて今頃気が付きました。


ドびっくり~ (*_*)
10年も小田原北条の追っかけをしていながら知りませんでした。マリコ・ポーロ、なんという不覚!
皆さんはとうにご存知で💦

介錯は信頼する者に頼む(命ぜられる)とはいえ、アニキふたりを続けざまに斬るというのは、さぞやヘビーだっただろうと氏規を痛ましく感じていましたよ。違ったんですね…。ちょっとホッとしました。


それが書かれているのは、大久保忠隣の息子忠総が記した『石川忠総留書』。
…氏政ヲハ美濃守殿介錯、氏輝ヲハ伊勢大和守殿介錯、太閤ヨリ御検使ハ…
とあります。


うーむ。
伊勢大和守 ねえ…


って、誰ですか?

受領名しか分かりません。留書は『旧八王子市史』にあるそうなのですが、市史は「新」は持っていますが「旧」を持っておらず、『室町幕臣の東下り』米原正義、『戦国北条家一族辞典』など手持ちの本で「諱」が載っていそうなものを見てみましたがありません。

図書館には行けないので、ネットでも検索してみましたが出てきません。ついには『新九郎、奔る!』も見ましたが(エヘッ)、出てきません。


誰だろう…?伊勢氏一族で家臣だと思うのだけれど…。

宗家の流れだと、伊勢守とか備中守、備前守、肥前守あたりですが、「大和守」だから、京都伊勢氏の庶流でしょうか。


もしかしたら石川殿の書き間違えで、伊勢備中守(貞運)のことでしょうか。貞運は、黄瀬川での氏政と家康との対面にも同道しているし、伊勢宗家でもあるので重臣だったはずですが、重臣団も載っている『戦国北条家一族事典』にはありません。

備中守貞運は小田原攻めで戦死したと伝わっています。小田原攻め時に北条の重臣が戦死したとは???ですが、もし貞運だとしたら、氏照を介錯した後に他界したことになりますな。


でも、石川殿、その備中守と大和守とは間違えないですよね~。なんにせよ手持ちの本が貧しいため、図書館に行けるようにならないことにはどうにもならぬわ。

お、京都伊勢氏、再放送中の大河「太平記」に登場するかしら?


🐎 以下、この10年で氏照や氏政について書いたブログ記事の一部です。ご覧くださいましたら嬉しいです。

「小田原攻め、北条氏照の本陣「報身寺」」
「松平文庫の「小田原陣図」」

「北条氏照の存在が抹殺された?「星谷陣屋」」
「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」」
「北関東の侵略者、北条氏照の「祇園城」」

「北条「氏政」の御首級(みしるし)はどこに?」
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」

「北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作」

「北条氏照と太田資正(三楽斎)は義兄弟!」

「コロナ下の八王子城落城日(6/23)」
「前編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」
「後編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」

「北条氏照の「大善寺」と「能~土方歳三」」
「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
「小田原北条家と猿楽の宝生大夫」


🐎 小田原の墓前祭(2020年は催されません)。それぞれの記事の文末にも氏照を書いた記事をたくさん添付。

「天正18年の供養~氏政・氏照墓前祭(2019)と八王子「相即寺」」
「恒例 「北条氏政・氏照墓前祭」(2018)」
「北条氏政・氏照 「墓前祭」2017~今年も小田原開城に思いを馳せる」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2020年7月 5日 (日)

7月5日北条氏直は降った~「開城」とは当主が投降した日か?

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。
地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスにはくれぐれもご用心くださいませ。


Photo_20200704102701
~今は暗渠となっている渋取川を唯一見られる井細田あたり~


天正18年7月5日、小田原北条五代当主 北条氏直は弟の氏房を伴い渋取口より降る


小田原開城のことはこの10年であまた書いており、そちらをご覧くださいましたらとても嬉しいです(文末添付)。

とはいえ、こたび新たに気が付いたこともあります。

それは、今年3月に出版された『北条氏直』シリーズ中世関東武士の研究第29巻(戎光祥出版)に載っている「北条氏直と高室院文書」(座間美都治氏)を読んでいてのことです。


これまで私は、7月5日 は氏直が投降した日なので、イコール=小田原開城の日であると思っていました。今までのブログにもそう書いていました。


また、氏直が投降した先ですが、
以前ブログに「氏直が降ったのはドラマのように官兵衛の陣ではなくて、滝川雄利の陣だよん」と書きました。

しかし、その後読んだ下山治久氏の『戦国北条氏五代の盛衰』(東京堂出版2014)には、
「氏直は、7月5日に羽柴雄利の陣所に行くと黒田孝高等に降伏した。」
とありました。


あれ?氏直が投降した先は滝川陣の滝川殿ではなく、同陣(たぶん)の官兵衛なのかもしれないのかなと思い、井伊直政の浅野への書状を読み直して(眺め直して)みました。どうやら滝川陣で、滝川と官兵衛が氏直と面会したようなことが書かれていました。

ドキュメンタリードラマを製作するわけではないので、氏直が滝川と対面したのか官兵衛と対面したのか、両人と対面したのかはどうでもいいっちゃあいいのですが、気になるのは座間氏のこの論文の内容です。


そこには…

・「六日早朝岳父徳川家康の今井の陣営に行き、降伏の意を表した。」
・「家康は婚姻関係にあるため、秀吉の嫌疑を避け、付近に布陣していた織田信雄の臣羽柴雄利の許に行かせた。」

そして、
・「翌七日開城し」


と、あるのです。

小田原開城は7日で、氏直が投降したのは5日ではなく6日…?
氏直は、最初に家康の元へ行った…?


井伊直政が浅野殿に出した6日付の書状には、氏直兄弟が「昨日」滝川の陣に走入ったとあります。また、新庄直友が同じく浅野殿に7日に出した書状にも、兄弟は「一昨日」投降したとあります。

どちらも時間までは書かれていませんが、氏直が投降した5日というのは5日の夜半だったかもしれず、6日早朝も同じようなものなのでこれも置いておくとして。


氏直は最初に家康と会ったのでしょうか?滝川の元へ最初に行って、そのあと滝川殿が家康の元へ連れていったのかと思っていました。

氏直の投降先は、直政の書状にも、新庄直友の書状にも、「羽柴下総陣」とあります。滝川雄利の陣のことです。最初に家康の元へ行ったけど、家康が秀吉を気にして滝川の元へ行かせたとは、それって、どこに書かれているのでしょう?知りたいです。


もしかしたら氏直は、夜陰、密かにお義父さんの家康殿の元へ行き(もしくは、投降の旨の書状を出し) → 投降について相談し → あらためて投降という形をとって滝川の陣へ降りた…

なーんてね。妄想。


(『北条氏直』に掲載されている論考は昔のもの 1980-90年代 が多いのです。最新の研究ではないのかな…。)


Photo_20200705080301
~現代小田原城天守下に咲くヤマユリ(数年前に撮った)~


さてタイトルの「開城日」とは何をもってするか?です。


確かに、6日から徳川勢が城にドカドカと(←含むマリコ・ポーロの私情)入り始め、家康が入城し城を受け取ったのは7日です。

だから、5日(6日早朝?)は当主が降伏をした日で、受け取り人に正式に(?)引き渡された日、つまり7日 を本来は「小田原開城の日」と言うのだろうか?


江戸城の「開城日」は、慶喜が城を出た日ではなく、慶喜が降りた数日後の東征軍(大総督府とも言う)が正式に城を受け取った日を言うようですね。会津若松城は…容保公が投降した日と開城日は同じだったかしら?

細かいことにこだわって、あいすまぬ。


氏直が降りてすぐに家康が城に入っていればややこしくなかったのに。何を1日半も、もったいつけていたのだろう?

自分が入城する前に、榊原殿たちに城内のお宝をゲットする時間を少し与えたとか?いや、当主とその弟が城を出たばかりで城内は混乱状態。それを少し鎮めさせるために1日半必要だったのか?


いやいや、家康殿は以後も北条氏直にとても心を砕いてくださいました。だから別にもったいつけていたのではなく、続けて氏政さまが投降してくるのを待っていたのかな…。

氏直は家康の娘婿です。命永らえていれば、徳川の元でもっと出世できたでしょうに。惜しまれます…。


🐱 以下、山盛りになっってしまった7月5日のブログ記事の一部です。恐縮ですが、URLがるものはそちらを、無いものはタイトルをクリックでお願い致しまする。

Photo_20200705150601 

「北条氏直の投降は、走ったのか?」

「天正18年7月5日「小田原開城」 アーカイブ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-c464.html

「北条氏直、最後の当主の 『最後の朱印状』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html

「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-adb2.html
「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「天正18年、そして小田原は囲まれた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-918d.html

「北条氏直の正室「督姫」の母の墓」
「今日は、428年目の小田原開城の日(2018)」

「北条一族の高野山 3 「小田原坊」」

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「堀秀政の小田原の墓」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bf85.html
「「関白づくし」の石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-ab53.html

「天正18年の「石垣山一夜城」を歴友と歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「石垣山で歴友たちと天正18年を偲んだ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e888.html

「小田原攻め、徳川方の陣場めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5964.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年6月30日 (火)

後編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


029_20200625072901
~心源院の桜、空襲をうけたのに毎年花を咲かせる~


卜山和尚とは、我らが北条氏照の師であった方です。
昨日の「八王子城落城~氏照への傑僧「卜山禅師」の想い」の続きにござります。


▲ 北条氏照、死してのちの卜山(ぼくざん)和尚

天正18年7月11日、氏照、兄氏政と共に小田原で自刃。


それ以後、卜山和尚の行動に変化が起きたそうです。「外に出掛けても東西無方。到着した処が住まいとなった」と。
…坐って国の興亡を退け己の分を守る…よくよく看れば世の中のことは夢の中の習い事…雲は南へ、水は北に、思いのまま静かに遊んでいる(抜粋)…
と。

その年の秋、卜山は小津(八王子からあきる野へ向かう方面)の山中に移り、門を閉ざし、訪ねる者にも会わずしばらく暮らしましたが、翌年、新装なった宗関寺に迎えられます。それから卜山は、5つの寺を開山するのです。


そして、なんと…(←また💦)
卜山 94才の時、遊行の旅を始め、上野、下野、下総、鎌倉、修善寺などを訪れるのであります。

ドびっくり~。でも、示寂までは26年もあります。まだまだイケルイケル(←大和尚に対してなんという物言い、無礼者!)。


卜山ゆかりの 心源院や宗関寺は徳川からも大切にされたようです。家康からも寄進を受けますが、114才の時に秀忠に江戸城に招かれます。しかし病のため登城しませんでした…

と記録にはありますが、徳川に会いたくなかったんじゃないの?(マリコ・ポーロ妄想)


120才の10月。
卜山は病になります。あちらこちらから見舞いの人々が訪れ「市のようだった」そうです。

10月26日。
卜山は沐浴浄髪。衣服を整え、坐定。衆徒を集め涅槃に入る旨伝える。辞世の偈頌をしたためたのち、筆を投げ、抜け殻のようになって示寂。

最後も見事です。


▲ 氏照によせる、卜山和尚の想い

氏照の法名「透岳宗閑居士」は、卜山和尚にいただいたものです。

卜山が残した言葉には、「青」とか「青い空」とかがたびたび使われています。「青空」とは悟りとか真理の暗号だそうです。


ある時、氏照は卜山に「犬に仏性ありやなしや!」と問われます。

我らが照は、「幾重にも重なる関を透りぬけ、青空の裏にも留まらず」と答えたそうです。

卜山は、「うむ!でかしたっ!」ポンッと膝を叩いたかどうかは見ていなかったので知りませんけど、それで、この法名を授けたそうです。


悟りのカケラもないマリコ・ポーロには、さっぱり意味が分かりまへんが、卜山和尚は、ご自身が大事にしている言葉を氏照の法名にしたのですねえ。


卜山和尚のことはまだまだあってとても書ききれないのでこのへんにさせていただきますが、このブログは、宗関寺の『卜山大和尚の行実』と『遺誡』を元に「卜山講」の方達が出版した『八王子の名僧 卜山』を参考にさせていただいております。卜山和尚の教えにご興味ある方は是非そちらをご覧くだされませ。

最後に…


氏照の弟の鉢形の氏邦のことで、旧八王子城を守る会の御大が教えてくださったことがあります。

戦後、卜山が写した、敵方が書いた鉢形攻めところを読むと、氏邦を悪く書かれた箇所がカットされていたそうです。御大は、「卜山は、そこを写すに忍びなかったんだろうねえ…」とおしゃいます。

そのコピーを見ながら、しみじみと感じました。卜山和尚は、氏照のことだけではなく、北条やその時代を本当に思っていてくださったんですねえ。


🐎 卜山和尚と心源院を書いた記事の一部です。松姫様のことも。

「北条氏照と、八王子城の神や仏 その1」
「北条氏照と、八王子城の神や仏 その2」

「武田遺臣のマドンナ 「松姫さま」」
「麗しき、武田の「松姫さま御坐像」」
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年6月29日 (月)

前編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Img_20200622_130446
~『八王子の名僧 卜山』卜山講~。表紙は八王子雲龍寺さん先代御住職が建立された、「楢の里」にある卜山像。~


♪ ズビスパー
パパパヤ~

違う…それは 左卜全


とはいえこの歌は、学生運動や激増し始めた交通事故の被害者は老人や子供だという意味を込めたメッセージソングだったんですよね~。歌詞に「ゲバゲバ(ゲバは学生運動のこと)」とか「ジコジコ(事故)」とか入っていますでしょ。だから「たすけて~」なんですよね。

って、古くて皆の者は何のことだかトント分からないであろう💦


話を本題に。

卜山(ぼくざん)禅師 とは

名は「随翁舜悦」。号が「卜山」。

我らが北条氏照の師であります。そして、八王子に逃れてきた旧武田家臣達のマドンナ 松姫様を得度させた方でもあります(文末添付)。


八王子の楢原の農家に生まれ、出家したのは13才の時だそうです。塩山、京都五山、安来、博多、越前永平寺、三河、遠江などの名刹で修行をされ、35才の時に八王子に戻りました。

戻ってからは、八王子城の搦手に位置する 心源院 に住し、氏照の宗関寺はじめ、あまたのお寺を開山した大和尚です。

パパ氏康から小田原へ招かれ戒を授け、時の正親町天皇からは二度にわたって褒賞を拝受。「仏国普照禅師」の称号も賜っています。


記録によると、和尚は、老いてからは髪を剃らず、お髭は白く胸まで垂れ下がり、「眼光鋭く常に人を射竦めるようであった」そうです。

前にも書きましたが、戦国武将の子供たちには必ずお坊さんが師としてつきますよね。師は、仏道のみならず学問、そして人生も教えていきます。御曹司だからといって甘やかしたら、将来国を率いるその子達のためになりません。

源三クン(氏照)が卜山に師事したのは、大石に入った15-6才の頃。「眼光鋭く」「人を射竦めるよう」でないと、源三クンのような強気の少年(たぶん)は導いていけませぬわ。


しかし和尚はただ怖いだけなのではなく、雑り気の無い真心を持ち、語り口は穏やか。教えを継いで盛んにしたので「人々は、古仏の仲間として生まれてきたのだと称賛した」と記録に残っているそうです。


そして、なんと…

和尚は、身の丈7尺!
つまり2m超。
風魔小太郎も、ドびっくり~。


そのうえ、なんと…
120才 示寂!
実に法職にいらしたのは、107年間!

永正4年生まれの、寛永3年没。徳川家光の時代までご覧になったのですね。
見事です!


▲ 臨戦態勢の八王子城と卜山和尚

氏照開基の宗関寺を開いた7年後、卜山は再び心源院に戻り、氏照の求めにより住職となっています。67才の頃です。その16年後、遠江の名刹「石雲院」に輪番の住持として赴任しています。そこでも法話は大盛況だったそうですが、なんとその時83才!

ま、でも他界するまではあと37年もあるわけですから、まだ全然バリバリ現役。


それが天正17年のこと。八王子城が落城し、小田原北条が滅びるのは翌年夏のことになります。

記録によると、卜山は天正18年の1月初め、遠江石雲院を去り牛頭山、つまり宗関寺に戻っています。すでに本城はじめ、八王子城や北条支城群は臨戦態勢。徳川家康を先鋒とする西日本エリアの豊臣軍は、山中城や韮山城に向かって出立する頃です。卜山がいた遠江なぞは当然その真っただ中だったでしょう。


012_20200624113301
~現代の宗関寺土塁の上から~


和尚は遠江を去るに際して、
…(石雲院を)退去の理由がなにか有るわけではない…ただ退去はしなければならないのだ。竹林が川の流れを妨げないように、白雲は山が高くても妨げられずに飛んでゆく
と自らの心境をおっしゃったと記録にはあります。

これはお坊さんとしての言葉であって、本当の気持ちは、前年11月に秀吉から宣戦布告された北条や八王子や氏照のことが心配で戻ることにしたのではないかな~と思ったりもします。


卜山は、八王子に戻る道中に小田原に寄って氏照に会ったでしょうか。

氏照は1月17日に猪俣へ「小田原城の大普請に大わらわで、秀吉体制を固めるために指揮をとっている」と手紙を出していますから、体調が悪いとはいえまだ病に伏してはいなかったはずです。

会えていたらいいな~と思います。


▲ 八王子城落城と卜山和尚

宗関寺の記録には、八王子戦の真っ最中の中山勘解由と卜山の話が伝わっていますが、このあたりは私には良くわかりません。

ただ、寺は「城と一緒に兵火を被って焼失した」とあります。卜山和尚はいったんどこかへ避難していたのでしょう。


▲ 氏照が死してのちの卜山和尚と、氏照への想い、そして氏邦のこと

明日に続く…


🍸 これほどの
大和尚なのに、卜山和尚についての記録はほとんど無いそうです。以上は、宗関寺の『卜山大和尚の行実』と『遺誡』を元に「卜山講」の方達が出版した『八王子の名僧 卜山』を参考にさせていただきました。

卜山和尚の教えにご興味ある方は是非そちらをご覧くだされませ。


🐎 卜山和尚と心源院を書いた記事の一部です。松姫様のことも。

「北条氏照と、八王子城の神や仏 その1」
「北条氏照と、八王子城の神や仏 その2」

「武田遺臣のマドンナ 「松姫さま」」
「麗しき、武田の「松姫さま御坐像」」
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年6月25日 (木)

今日6月25日、津久井城開城す

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


084
~城から眼下に望むのは現在の津久井ダム、かつての相模川である。~


内藤氏の「津久井城」はかつては甲斐への最前線の城として、小田原北条終焉まで重要な支城のひとつだった。

天正18年4月、津久井衆は中郡白根に駐屯していた豊臣勢と一戦に及ぶも、6月25日、徳川勢の本多、平岩、鳥居らに攻められ開城する。


Dsc_2330
~居館跡で行われた「開城祭」でのワンシーン~


津久井はそれまで北条と武田の両方の支配をうけていました。武田滅亡後は北条下にいましたが、それ以前より北条の方ではかなりの貫高を得ていたようです。

しかし北条のコントロールはなかなか効かなかったようで、本城から山角殿が見張り?お目付け役?として派遣されています。


最後に城を守った綱秀(小田原にいたとの説もあり)は戦後消息不明だそうですが、息子の直行は本城小田原に詰めています。北条氏直に従って高野山へ随行し、許された後は前田へ仕えることとなります。

加賀前田…鉢形の北条氏邦と一緒だね。


そうそう、津久井城で狼煙をあげて八王子城から見えるかどうか、以前(今もかな?)やってみたことがあります。私は行かれませんでしたが、八王子城の松木曲輪からシッカリ見えた写真をいただきました。

ご許可を得ていないのでここにアップできないのが残念です。


津久井内藤家については不明なこともまだあり、マリコ・ポーロにはとても調べきれまへん。現代の津久井城では「津久井城開城記念の日」はじめ様々なイベントが盛んです。また、城跡からはたくさんの遺構が出てきています。

こちらをご覧くださいませ。→ 津久井城ホームページ


🐎 北条&武田師匠である武将さん達が出陣する合戦劇を観戦した時の従軍レポートです。しばらく行ってないな~。懐かしいです。

「報告!津久井城開城記念~攻防戦(2012)」
「第2回 津久井城開城祭~合戦劇、従軍レポートでござる(2013)」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年6月23日 (火)

コロナ禍の下での八王子城落城日(6/23)

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Img_20191211_150535
~八王子城から出土した琉璃釉椀。この兎さんは、現代の八王子城のマスコット。~


先日、戎光祥ヒストリカルセミナーで黒田基樹氏の講演がありました。マリコ・ポーロは自粛解除がまだ怖いので参加しなかったのですが、もれ聞いた中に氏照のことで興味深いことがありました。

また聞きなので正確ではありませんが、「氏照文書の筆跡が氏政文書と同じ」というお話しがあったようです。いつの頃の、どのあたりの文書かは定かではないですが、『伊達文書』にあるそうです。


それは氏照が病気療養中のことで、兄上氏政が代わりに氏照の名前で発給。だから氏政の祐筆が書いたのでは…と思ったのですが、そういう単純なことではないようです。

北条師匠に伺ったところ、本城からの指示書として本城祐筆が書いて氏照にまわり→氏照が花押を入れ→発給される、みたいな?北条家はそういうシステムだったのですかね。いや、北条家に限らず組織が大きな大名家はみなそうだったのかな。


うぅぅ。聞きたかったです…。


さて、八王子城のこと。

八王子城落城の日のことを毎年書いてきて、これが11回目になります。毎回同じようなことを書いていますが、法事というものはそういうもので甘~い目でご覧くだされ。

Photo_20200621153301
~サイハイ蘭~


八王子城の激戦地だった曲輪跡に、ちょうど落城した月に咲く花がある。花の名は「采配蘭(サイハイラン)」。

「采配蘭」はそれほど珍しい花ではない。山林に自生し、花は6月頃に咲く。丈は30~40cm。 小さく細長い薄紫色の花は、茎の半分から上に房のようにたくさん付き、その名の通り戦の時に大将が振る采配に似ている。


天正18年3月1日。
秀吉が京を出立。北条征伐は始まった。

北条支城群は次々と降伏、無血開城。これではいけない、見せしめの城が必要だと考えた秀吉は、氏政の片腕である氏照の八王子城を落城させるべく徹底抗戦を命じる。


6月23日。
敵味方あまたの犠牲を出し、戦国史に名を残す凄まじい戦いは終わった。

八王子城は、徳川に禁足地とされ長い眠りにつく。


それから四百年あまり後、発掘調査により「関東一の山城」と称されるにふさわしい見事な石垣の大手や庭園が姿を現すことになる。


毎年6月、私たちは供養のために八王子城を訪れる。

不思議な形の花「采配蘭」が群れ咲いている光景は、ここが現世でないような感覚にさせられる。まるで、この城で果てた城将達が、今でも無念の采配を振り続けているようだ。


Dsc_0098
~八王子城の大先達、故小松敏盛氏が郷土博物館に寄贈された遺物~


毎年、旧暦6月23日には城へ行き冥福を祈っておりました。しかし、東京都は感染者がまだ多いです。感染拡大防止のため、今年は家で八王子城に想いを馳せたいと思います。

合掌…


🐎 愚痴

2月中旬にコロナ禍のため集いが無期延期になって以来、4ヶ月も家族以外と会話というものをしておらず、北条支城群は都外(葛西と江戸以外)のため登城も出来ず。海はおろか、空も山もトント見ておらず(都市部の人は皆そう?)、なんだかドヨ~ンとしている今日この頃。

来月再開が予定されているいくつかの講座も都外。参加しようと考えていたところで、東京都は再び感染確認者が増えてきました。講座は屋内。東京から参加したら他県の方達に悪いかな~と思うので暫くは遠慮しようかと、再びドヨ~ン。


マリコ・ポーロ、その状態はちとヤバイぞよ!
少し北条成分を注入せよ
仍如件

 from 北条氏照&氏照の花押
 (実は from 北条氏政)


🐎 自粛中に始めた、もうひとつの花ブログに八王子城の花草木のことを書きました。
「八王子城に咲く①~天南生」
「八王子城に咲く②~鱗木・細葉鉄蕨・鬼女蘭 」

🐎 この10年で書き綴りまくった氏照についてのブログ記事の一部です。よろしくば。
恐縮ですが、URLがるものはそちらを、無いものはタイトルをクリックお願い致します。

・発掘調査
「八王子城、現われた2つの石垣群」

「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8c21.html
「報告▲八王子城の発掘調査見学会」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cac0.html

・落城まで
「今日、鉢形は落ちた」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-6379.html

「八王子城落城、氏照の残・念」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-4eae.html

「今夜半、八王子城総攻撃始まる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/420-9797.html

「今日、八王子城 落ちる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0e49.html

「八王子城、戦い済んで日は暮れて・・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-1bb4.html


・色々
「北条家ホームドクター田村先生の、日野「安養寺」」
「天正18年の供養~氏政・氏照墓前祭と八王子「相即寺」」

「八王子城~落城忌その1 チョット怖い?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6bb4.html
「八王子城~落城忌 その2 幻庵の一節切はこんな音色?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-3914.html
「八王子城その1北条氏照 夢と覚悟の城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-c46c.html

「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cfde.html

「東国の武将達に回覧された、氏照の謙信宛て脅迫状?」

「北条氏照の悩める存在‘上杉謙信’と景虎さん」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-9b26.html
「北条氏照が上洛してきたらヤバイぞ by 三成」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-53e1.html

「約400年ぶりに八王子城へ戻った横地監物」
「滝山城の講演会 「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候」」
「北条氏照と太田資正(三楽斎)は義兄弟!」

・番外編
「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html
「城跡の幻影~八王子城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-75cf.html

・追悼
「椚國男先生」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-80b8.html
「北条氏照に会いに行かれた八王子衆」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-072c.html
「「八王子城とオオタカを守る会」が終わりました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-bc9f.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年6月16日 (火)

金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Dsc_2115_2_20200616105401
~金沢文庫「称名寺」~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…。


その前に、2つ✌

▲ 峰岸純夫先生の新刊

『中世鎌倉盛衰草紙 -東国首都鎌倉の成立と展開-』歴史探訪社
7月31日発売予定だそうです。

峰岸先生は我らが北条氏照の「旧八王子城を守る会」の会長でしたが、ご専門はこちらなので楽しみです!


▲ 北條九代
先のブログ記事 「④ 大河「太平記~帝ご謀反」と、北条家はなぜ将軍にならなかったのか?」に、宝戒寺入口の碑にある「北條九代 頼経」の意味が分からないことを書きました。

細川重男氏の『鎌倉幕府の滅亡』を再読していて、「北條九代」の意味だけは分かりました。

皆さんはとっくのとうにご存知だったと思いますが、北條九代=北條得宗家 を言うそうですね!時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時 の9人で九代ですか。こんなことも知らなくて恥ずかちぃ💦

少しだけスッキリしましたが、頼経さんはいにゃいので、丸々スッキリとはしない…。


さて、大河「太平記」。
録画した⑥話~⑩話まで一日一話、毎日観ました。どっぷり太平記の一週間になってしまいました。

ドラマはまだ⑩話なのに内容は盛りだくさん。楠正成や大塔宮の登場、尊氏と登子さんの結婚、パパ貞氏の死去、尊氏様の家督相続、金沢殿の執権就任と辞職、赤橋殿の執権就任、そして、ジジ家時の置文…などなどなど。

大塔宮は、昔は「だいとうのみや」と言いましたよね~。今の「おおとうのみや」には未だに慣れず、つい「だいとうのみや」と言ってしまいます。


太平記の時代はまったく詳しくないので気になることばかりなのですが、こたび特に気になったのは金沢(かねさわ)貞顕のことです。大河「太平記」は何度が観ていますが、今まで金沢殿を気にしたことはありませんでした。

「太平記」は昨今の大河ドラマとは違って登場する人が厖大な数で、何度観てもそのたびに興味の対象が変わります。面白いドラマですね。


Img20140114_210115_20200616105201 


▲ 尊氏の家督相続

ドラマでは、パパ貞氏が存命中に尊氏の家督相続がありました。

しかし実際は、パパは死ぬまで家督を尊氏に譲らなかったようですね(『足利尊氏』森茂暁)。


先のブログにも書きましたが、尊氏には 21才で亡くなった、8才年上の腹違いの兄上がいます。兄上の母親は、北条一族金沢氏の娘で、今回気になった金沢貞顕の妹です。

そんな華々しいバックを持つ兄上がいたのでは、尊氏は弟くんの直義たちと十羽一からげ(十羽もいなかったと思うが)、その他の子供達として幼少~少年期を過ごしたことでしょう。


パパ貞氏は、病(物狂諸労)ゆえか、先代北条貞時死去ゆえかは分かりませんが、すでに出家・隠居していました。ところが、兄上が亡くなった後も、尊氏は家督とはなりませんでした。病だったパパがカムバックするのです。

55才でパパが亡くなり、尊氏さまはやっと当主となりました。


珍しいですね。何がこうさせたのでしょう?
何故ですか?


▲ 称名寺と金沢文庫

Dsc_2109_2
~称名寺と現在の金沢文庫を繋ぐ隧道。中世の頃は西側と東側と二本あったそうで、こちらは西側。マリコ・ポーロ的には称名寺の一番の魅力スポット。~


称名寺は、金沢北条氏の本拠地、六浦荘金沢郷(横浜市金沢区/金沢文庫駅)にある、金沢北条氏の菩提寺です。

北条義時の孫実時の屋敷にあった持仏堂が元で、そのまた孫、つまり今回の気になる貞顕の時に七堂伽藍を構えた大寺院となります。


金沢文庫がいつ出来たのかは定かではないようですが、実時の時代には書物蔵のようなものはあったようです。

気になる貞顕の代にかなりの蔵書が集まり、これも前に書いたことの繰り返しで恐縮ですが、それらは、後に我らが小田原北条や秀吉や家康がゲットしていくことになります(アリャリャ💦)。


称名寺の隆盛や文庫の充実だけから見ると、気になる金沢貞顕殿は素晴らしい人ですね。学識もお金もあり、連署であり、六波羅探題も努めているので、実行力もあるように思えます。

得宗北条高時は心身ともに病弱でした。貞顕が高時を心配して、周囲の人達に出した手紙などが残っています。高時が出家した時も、自らも出家したい旨を申し出ますが、逆に、次の執権になってちょ…と言われてしまうのです。


貞顕は10日で執権職を辞します。貞顕殿、良かったですね(え?)。

優しい方のようですが、なんとなく優し過ぎる方のようにも思え、ドラマで児玉清さんがとっても上手く演じてらっしゃるように思いました。


ドラマでは、高時から金沢貞顕への執権交代は割とすんなりと「押し付けられて」決定していましたが、実際はそうではなく、金沢オシの長崎一派と、高時の弟オシの高時ママ&ママの実家一族安達たちとの間でお決まりの跡目争いが起きています。

また、高時が暗殺しようとしたのは長崎円喜ではなく、その息子の高資ですよね。


世にいう、嘉暦の騒動です…
と書きながらも、よく「世にいう〇〇である」と言うのを聞いたり読んだりしますが、世にいう、世にいうって、知らないよん!ってえことが多いのはマリコ・ポーロだけ?


話がそれてしまいましたが、その「世にいう」嘉暦の騒動については、マリコ・ポーロなぞよりずっと詳しい方達がたくさん書いてらっしゃるので、それらをご覧いただくとして。ドラマの中で尊氏さまが登子さんに言った、「北条はもう終わりと思う…」はこのへんの騒動のことから言わせた台詞なのでしょうかねえ。

こんな中で、登子さんのお兄さんは執権になったのですね。


称名寺はいいお寺ですよね~。背後は山なのに開けた感覚で、白水阿弥陀堂に似ていると思いました。ご近所の方は、自粛中でも散歩にこういうところを歩けるから羨ましい。


これを書きながら「じゅん散歩」をチラチラ観ていたら、金沢文庫でした!ドびっくり~。じゅんちゃんはフェイスシールド。説明する先生はリモート出演。そんな世の中か…。


🍸 金沢文庫の記事

「瀬戸神社展と金沢文庫」
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

🍸 大河「太平記」の記事

「①大河「太平記 父と子」と、北条高時のこと」
「②大河「太平記 芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」
「④ 大河「太平記~帝ご謀反」と、北条家はなぜ将軍にならなかったのか?」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


🌼 もうひとつの 花ぶろぐ「萩よりほかの花も見るべく」に尊氏様の菩提寺のシャガや鮫ヶ尾城のカタクリのことなぞ書きました。ついでにご覧いただければいと嬉し。

「足利尊氏の菩提寺に咲く~射干」
「越後鮫ヶ尾城~かたくり」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年6月11日 (木)

北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻

マリコ・ポーロ


シリーズ 北条五代の娘たち
【三代北条氏康の息女~今川氏真室】

 

宗瑞の娘、二代氏綱の娘、と順番に足跡を辿ってきましたが、3年前の大河「直虎」の時、今川に興味が飛んでしまったので、氏康の娘で氏真に嫁いだ早川殿のことを割り込みして書いてしまいました。

氏綱の娘が終わり次は氏康の娘になりますので、順番を直しました。ゆえに、以下は3年前に書いたものにてござりまする。娘たちの記事は、すでに⑧までアップしております。


Photo
~今川氏真・早川殿夫妻の終いの棲家跡を、向いのスーパーから俯瞰した。現在の東京都品川区の大井町駅あたり。今はなんの遺構も碑もない。~


先年からヨロヨロと追い続けている「北条五代の娘たち」。早雲こと伊勢宗瑞の娘達に始まり、ただ今、二代氏綱の娘達の途中ではありますが、ちょっと順番を割り込んで、大河で旬の今川氏真室 早川殿 のことを思ってみました。


早川(早河)殿
パパ: 北条三代当主氏康
ママ: 瑞渓院(父・今川氏親/母・寿桂尼/兄弟・今川氏輝、彦五郎、義元)

兄弟: 氏政、氏照、氏邦、氏規、上杉景虎
姉妹: 七曲殿(綱繁室)、千葉親胤室、長林院(岩付太田室)、浄光院殿(足利公方室)、桂林院殿(武田勝頼室)

などなどの他に、イトコやなにやらで父氏康の養子女となった義理の兄弟姉妹まで入れると、ウジャウジャウジャウジャ。早川殿は、それらの長姉と考えられています。


北条の女人たちは、嫁ぎ先が滅びたり同盟が崩れたりしてもすぐに実家に戻らない方が多いですね。帰れと言われてもガンとして戻らなかったり、遠国へ渡ったり、夫君と共に命を絶ったりする女人が幾人か浮かびます。前にも書いたかもしれませんが、それは何故だろうと考えることがあります。

相手への情愛が深い情熱型の女人が多かったのか。はたまた、細かくて窮屈な北条(そうなのか?)に比べると、嫁ぎ先は居心地の良いところだったのか。それとも、北条には戻り難い雰囲気があったのか…いや、幻庵大伯父が引き取り後は後見となって面倒をみてくれるので、それはなかったと思いたいですよね。


北条家には、その幻庵殿が娘を吉良氏朝(頼康の次代)へ嫁がせる時に渡した、他家への嫁入りの心得書 『北条幻庵覚書』というものがあります。

やはり、その教えが、北条一門の女人達には根付いているのではないかと思うのです。


Img20170811_205725
~『北条幻庵覚書』 永禄3年12月16日


放映中の大河ドラマ「直虎」に出てくる、今川氏真の正室 早川(早河)殿 も、そんな女人たちの一人です。

氏真や早川殿のことは以前にたくさん書きましたので、そちらもあわせてご覧くださると助かりまする(文末に添付)。


上にも書きましたが、早川殿は、我らが氏政や氏照たちウジャウジャ兄弟姉妹の、一番上のお姉さんだとされています。つまり、早川殿が子供だった頃はまだ北条の初期です。

伊勢宗瑞の質実な暮らし方を色濃く受け継いだ小田原や、領地争奪の戦の日々に明け暮れる東国から京の香りに溢れた駿府へ入った 16-7歳 の少女にとって、嫁ぎ先はどれだけ華やかに見えたことでしょう…たぶん。


猛々しい戦国武者や超ワンパクな弟達(そうか?)を見慣れている身にとって、氏真や義元や今川の側近たちはどれだけエレガントに見えたことでしょう…たぶん。

なーんて、北条の曽祖父の実家の伊勢家は京の将軍家の取次ぎの家。母上は今川の出。それほど粗野で野暮ではなかったはずですが、それでも、今川はきらびやかで アカデミックに思えたことだろうと想像します。


寿桂尼は御祖母様。大叔母の長松院(宗瑞娘)も重臣三浦家にいますし、弟クンの氏規もすでに駿府にいたでしょうから、心細いこともありませんしね…たぶん。

(とんだ見当はずれだったらゴメンナチャイ、早川殿


Img20170625_204724_2
~氏真や早川殿が一時過ごした小田原の早川。早川は、小田原市街から川(早川)を渡ったところ。石垣山城の麓の漁港である。~


今に伝わる氏真の評判については、その後駿府の主となった徳川家が「前の領主はこんな情けない人間だったんだど~。それに比べて今はとてもいいでしょ~」と思わせるために作り上げたものだという説もあります。しかし、当時の信玄殿はじめ周辺の武将たちの人物評を聞くと(?読むと)、やはり、戦国時代の武将には向かなかった方だったような気が私はします。


氏真が武田によって駿府を追われてからの流転や、北条氏政の息子(氏直)に「今川」の名跡を譲った(後に返してもらった)ことなどは皆さまご存知の如くですが、夫妻一行が難民となって小田原へ来た時、なぜ城内エリアではなく、川の向こうに彼らを置いたのかがずっと気になっています。

① ただ単に、夫妻の屋敷を城内エリアに建築するまでの仮住まいだっただけ。(完成する前に出ていった。)

② 人数が多くて、城内エリアに高級難民キャンプとするに適した場所がなかった。

③ 早川は幻庵の管轄地。北条の出戻り組は幻庵が後見担当だったから、自然の流れで小田原に一番近い早川村になった。

④氏政さまが、城内エリアに置くことを嫌がった。もちろん、個人的好き嫌いではなく政策的理由で。


氏真夫妻が小田原を出ていったのは、北条が再び武田と結んだことにより、ここにいては今川の再興は有り得ないと考えたからと言われています。それもあるとは思いますが、「あとの人生、このひなびた漁村(当時のことよ)で一生を終えるのか…。」と、どよ~ん ↓ としてしまったのかもしれないですねえ。


ほな、こたびはこれまでに。


「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

 

「駿府 「臨済寺」の特別公開」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
「今川時代の駿府~吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html


今までの北条五代の娘たちの記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「浄心院は三浦道寸の娘か北条氏綱の娘か? 」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html

「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html
「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html


萩真尼ことマリコ・ポーロ


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2020年6月 4日 (木)

北条氏直の正室「督姫」の母の墓

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Img_20200524_105643 
~覆屋の中、蓮葉院殿の御塔婆があがっている~


その前に、いただいた矢文のこと。
6月23日の八王子城落城にちなみ、八王子FMで2回連続「北條氏照伝」が放送されるそうです!
日時:6月5日(金)17:00~1710
インターネットでも聞けます!

原稿は氏照研究の第一人者である加藤哲先生です!←これがいいですよね~
八王子エフエム「八王子とんとん昔語り」

同じ都内ですが、今年は行けないね…


さて、本題。

督姫の母。
それは家康殿の側室「西郡局 にしごおりのつぼね」のこと。
つまり、北条氏直のお姑さんにあたる方です。


先の『麒麟がくる』に、鵜殿一族当主で西郡城主であった鵜殿長照が出ているとの情報をもらいました。土曜日の再放送を観てみようと思います。

なぜかと申すと‥


先日、五反田で高齢親の持病系用事を済ませた後、近くの星薬科大学の裏手に「長應寺」というお寺があることをフト思い出しました。

督姫の母 西郡局 は鵜殿一族のお嬢さんでした。局のお墓/供養塔が「長應寺」にあると、前に区の方から伺ったことがあったのです。枯渇している北条成分をほんの一滴でもいいので(本当に一滴だ)注入したく、お参りに寄りました。


▲ 鵜殿氏

西郡局の父鵜殿長忠は当主長照の弟で、局は鵜殿家当主の姪ということにされています(諸説あり)。

たぶんドラマでも描かれていると思いますが、鵜殿家は今川の家臣です。氏真の代になってから、当主長照とその他の一族とは別の道を選んだようです。当時よくあるお家存続のためかどうかは私には分かりませんが、長照は今川に残り、西郡局の父長忠たちは松平(家康)についたということですかね。


と、知ったようなことを書いてはおれど、マリコ・ポーロ 鵜殿氏という名前は聞いたことがありますが、個々の人物についてはまったく無知です。長照殿は、永禄5年に松平に攻められて討死されているようですね。

鵜殿氏の名前だけは聞いたことがあるというのは、その時に捕虜となった長照殿の子息たちが、例の、築山殿との人質交換となったからです。その後、子息たちも松平についたようなので、局と家康殿との縁もこのあたりから生まれたのでしょうか。


だからドラマで長照殿が出演されたのですかね。ということは、今後、ドラマに西郡局が出演する可能性もあるかもしれません。いつになるか分かりませんが…

前回のBS3 大河ドラマアンコール「葵三代」では、西郡局もチラッと出演していましたよね!家康殿だったか秀忠殿だったかの御前に数人の家康殿の側室たちが並び控えているシーンでした。

岩本多代さんという、当時たくさんのドラマに出てらした方が演じられていました。お顔を見たらたぶん誰でも知っている方です。静かで上品な控えめな感じの女優さんです、私の西郡局のイメージはこの方になってしまっています。


徳川さんにはあまり興味がなく(好きな方ゴメンナチャイ)、今川は好きですが鵜殿さんまでは興味の幅は広げられないので、鵜殿氏についてはこのへんまでにしてたもれ💦。


▲ 西郡局の肖像画

鵜殿氏菩提寺「長應寺」というお寺は時代の変換で三河から江戸、そして江戸でも火災などにより何度か移転してるようです。再建には西郡局が尽力しています。

これについては本筋とは離れ、その上長くなるので割愛しますが、興味がある方はお寺関係のネットで検索してくだされ。たくさん出てきます。「長應寺」は、今は北海道幌延町と東京の品川区とに2寺あるようです。


その中で、なんとなんと、局の肖像画を発見しました!それは、幌延町のFBにありました!

幌延町の「長應寺」の法要で毎年公開されるそうです。そこには、葵の御紋の長櫃や、お着物もアップされていました。これらは、鵜殿氏の誰かが家康殿から賜ったものでしょうか。それとも、西郡局が賜ったものでしょうか。


局の肖像画が当時書かれたものかどうかは私には分かりませんが、公家のお姫様のようです。もちろん、美人にて候!

そこには
「東照宮御内所 鵜殿長忠公姫君 蓮葉院殿日浄 慶長11年丙午歳五月十四日寂」
とありました。


▲ 西郡局のその後

Img_20200524_105543
~品川区の長應寺~


局が亡くなったのは慶長11年。お嬢さんの督姫様の没年が慶長20年ですから、娘よりは先に天に召されたのですね。良かったです。

葬儀の施主は、娘の督姫が氏直亡きあと再婚した池田輝政がつとめたとのこと。局はほぼ伏見城で暮らしたとありますし、京都の本禅寺に葬られたそうなので、亡くなったのも伏見城のようです。喪主を娘の夫がされたということは、子息はいなかったのかな。


鵜殿家は大久保家とも縁戚関係があり、我らが本城小田原にも所領がありました。

鵜殿氏まで興味の幅を広げられないし(クドイ💦)、なにより、西郡局へのエレガントな妄想からはずれてしまうのでそれを書くのはやめておきますが、ご興味ある方は小田原「妙了寺」のHPなどをどうぞ。


小田原には家康殿の側室ゆかりのお寺が多いのにもチトびっくりです。


▲ 品川区の「長應寺」にて

Img_20200524_105507
~門の上には変わったものが。イグアナ?なわけない。~


立派なお寺で、墓地の一角には鵜殿家の巨大な墓石が建ち並んでいました。


伺う前にお寺さんに、檀家ではないが勝手に墓所に入っても良いかどうか確認したところ、「どうぞどうぞ、入ってすぐのところに局の墓石がありますよ」とおっしゃってくださいました。

ところが分からにゃい。


いつも、どこに行っても見つけるということが出来ないマリコ・ポーロ。墓所をウロウロしていたところ、お仕事中の造園の方達が気にしてくれて(怪しかった💦)、「宝篋印塔なら一番奥に江戸時代の立派なのがたくさんあるよ」と。

「それは鵜殿一族の墓石群で、お局様のもそこにあるのかしら…?ひとつひとつジーッ見て探すのチト怖いけど、もう一回見てきます!」


タッタカタと走り出したところ…

「そこの(と覆屋を指し)、小さい宝篋印塔みたいなのは?奥のよりは古そうだけど…」
と、親方。

見ると、他の墓石の後ろにあったので気が付かなかったお墓が、こじんまりと、いかにも女人のお墓っぽく建っていました。


これかな~、それっぽいな~、どうかな~。急に思い立って来たので法名も分からない…。
「ちゃんと調べてまた来ます。ありがとーござる」。

「いったい誰のお墓なの?」と親方。

「家康の側室のひとりで、小田原の北条の当主の正室のお母さんなんです。では、お去らばえ~。」


門を出たところで、遠くから、
「奥さーーん、奥さーーん」と親方の声。

最初はお寺の奥様でも読んでらっしゃるのかと聞き流しておったら、親方が手を振ってらっしゃる。ワテ?どう見ても「おじょうさん」ではないし、「おばさん」とも呼べないでしょうから、ワテね。


お弟子さんが興味を持ってくれてスマホでネットを見てくれたそう。やっぱり覆屋の中の小さなお墓がそうでした。そこに出ていた法名と、墓石や御塔婆の法名が同じ。

いや~、やっと分かりました。広い境内と墓所を皆で走り回っちゃいましたよ。密にはならなかったですが、初めから検索すればいかった。お騒がせしました。ありがとうございます!


一息クールダウン。
局の墓前に手を合わせながら、「ブログに書かせてくださいませ。素敵な女人に書きますね」と申しました。その約束はあんまり果たせまず、申し訳なく存じます。

お花を持ってくれば良かったな…。


西郡局のお墓や供養塔は日本の各地にいくつかあります。アチコチにお墓や供養塔があるということは、残された人達に故人がそれだけ大切に思われていたということです。

東照大権現の子を成した方という重みもあるでしょうが、いつもでもどこでも偲びたいと思わせる方だったのですね、西郡局って。


しっかし、
マリコ・ポーロに注入されたのは北条成分ではなく、鵜殿成分でしたわね。


それにしても…
2月1日の仲間内の新年会が新型ウィルスにより中止になって(みな高齢者のため💧)、以来、4ケ月にわたり籠城生活が続いておりました。公共交通機関で仕事に行かなくてすむだけでも、ありがたいのですが。

我が家のまわりは超住宅密集地で高いの建物も多く、山や海はおろか空もろくに見えず風も通りません。墓地とはいえ久々に広い敷地で空を仰ぎ見ることができました。

西郡の方さまに感謝です。


🐱 マリコ・ポーロの アナザーブログ「~萩よりほかの花も見るべく」
「戦国時代の城跡にて~天南星」
今回は八王子城の花のことを書きましたので、暇でどうしようもない時にでもご覧いただけたら嬉し~

🐎 「家康の側室達ゆかりの、小田原北条の寺々」

🐎 氏直を書いた以前のブログ記事のごく一部です、よろしくば~
・「北条家臣 桜井武兵衛さん、はしりめくる!」

・こちらにかなりの記事をまとめましたので是非ご覧くださると嬉しいです
「天正18年7月5日「小田原開城」 アーカイブ」

「北条一族の高野山 3 ~小田原坊」

・こんなふうなシーンをドラマでやってほしいな~と書いた妄想脚本のワンシーン
「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

| | コメント (0)

2020年5月28日 (木)

(追悼)森田善明氏『北条氏滅亡と秀吉の策謀』著者

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Img_20200528_134553
~森田善明 著『北条氏滅亡と秀吉の策謀 小田原合戦・敗北の真相とは?』(2013.9)洋泉社歴史新書y~


どこにも遠征せず、家族以外誰とも直接話をしない毎日が続いております。されど、このような時に通勤して仕事に行かないですむだけでもありがたいと思わなければなりませんね。

とはいえ、いよいよ北条成分が足りなくなってきましたので、人様から賜った新しい論文や、以前の本を再読したりしております。

今は、冒頭の写真の、森田善明氏の『北条氏滅亡と秀吉の策謀』です。


発売された時にもブログに書かせていただきましたが、秀吉の戦線布告書ばかり取り上げられる中で、氏直の弁明書に光を当ててくれた本でした。

北条ファンの間ではとても話題になり、八王子城や小田原で講演会なども開かれましたね。


森田氏はその後もご研究を続けられていて、次の本は完成間近だったそうです…。今頃は天国で秀吉殿や氏政殿たちに会い、天正18年のことを語り合いながら楽しく飲んでらっしゃることと思います。

合掌…

(もう1年半ほど前のことになります。ご家族のご承諾をいただき書きました。)


▲『北条氏滅亡と秀吉の策謀』のこと ↓
「小田原北条の無実を証明する本」


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

 

| | コメント (0)

«「430年ぶりの籠城戦」と小田原市長さん