2019年6月 9日 (日)

落城・開城イベント~八王子城と津久井城(2019)

マリコ・ポーロ


落城した城跡の落城日には、敵味方問わず犠牲になった人達を悼みたい。

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~旧八王子城を守る会では、落城忌の集いでお赤飯を食べた~


何度か書いている繰り返しで恐縮ですが、現代の八王子城周辺に住む人達は落城日にお赤飯を食べたそうです。これは、八王子城戦で城山川が血にそまり、しばらくの間川の水で焚いた飯が赤く染まったという伝承からくる、供養のひとつでした。しかし最近は新しい家が増え伝承をご存知なく、お赤飯を食べる家も少なくなったそうです。



今年もまた小田原北条落城・開城強化月間がやってきております。一年あっという間ですねえ…。小田原北条落城・開城月間についてはこの10年毎年たっぷり同じようなことを書いておりますので、ご興味あらばそれらをご覧くださるととても嬉しいです。

話はそれますが、今までの落城・開城月間の厖大な数のブログ記事をどうにかしたいです。毎年同じことを書くのもなんですし…。


さて、本題。

今年の落城・開城の催しを2つご紹介させていただきます。



▲ 我が氏照どのの八王子城

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~八王子の住人さんに送っていただいたポスター~


「八王子城跡まつり」
日にち:6月23日(日)

まさに落城した日(旧暦)です。

様々な催しがありますね。個人的には、落城した日には、八王子市さんには供養的な法要などをやってほしいな~と思うものです。落城した日に、敵味方共に多大な犠牲者を出したその城跡で鉄砲をぶっ放す…。鉄砲を討つというのは、何か弔意的なものもあるのでしょうか?詳しくないので分かりませんが、それにしても私の感覚ではチョット辛いものがあります。


実のところ、自治体が宗教的行事を行うのは難しいものだということもあります。今回は市が主催ですからアミューズばかりになっているのでしょう。

ガイドさん方はその前にお墓参りをすると思いますし、まあ、こんなメンドクチャイことを言うのは、百言居士マリコ・ポーロだけです。


▲ 津久井城

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~津久井湖城山公園のHPに出ています。http://tsukuiko-ibento.blogspot.com/2019/05/429.html~

「津久井城開城記念の日」
日にち:同じく6月23日(日)


津久井が開城したのは6月25日です(旧暦)。イベントなので日曜日に合わせたのでしょうが、八王子と重なってしまいましたねえ。

こちらはありますね!お墓参り。知り合いの武将さん達も参陣します。本城小田原も鉢形も玉縄も、また、落城・開城ではないですが三増合戦まつりなども、一般ファンが参加できる供養の法要的なものがありますよね。それらは必ずしもお寺でだけではなく、旧八王子城を守る会の落城忌でも、宴(単なる飲み食い)の前には城内で般若心経を唱えます。


記念講演もありますね!ちゃんとした資史料や発掘調査に基づいた講演会です。妄想講演会ではないですね。

地域の歴史って、こうやって伝えていってほしいな~と思います。私はね。地域の歴史は、日本の歴史にも繋がっていきますもんね~。


▲以下、この10年でこってり書いた厖大な数の八王子城落城についてのブログ記事の超々々々一部です。

「小田原城開城へ、最後の6ヶ月」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-f53a.html
「今年は、ぼっち 八王子城 落城忌…かと思ったら(2018)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-3231.html
「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cfde.html
「北条氏邦と大福御前慰霊祭(2012)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/2012-9f22.html

「津久井城開城祭~合戦劇従軍レポート(2013)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/423-7fbc.html
「報告!「津久井城開城記念~攻防戦(2012)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-bc8f.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2019年6月 5日 (水)

北条氏綱が、三浦道寸ではなく息子義意を祀ったのは何故だろうか?

マリコ・ポーロ


その祟りを恐れ、その霊を鎮めるために、非業の死をとげた者を神として祀ることがあると言われます。

古くは早良親王、淳仁天皇、菅原道真、平将門、崇徳上皇…。新しくは、為さま(北条為昌の本光寺)…は違いますか。もちろん、素晴らしい功績を残した人がお祀りされ、尊崇を集めることも多いです。


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~居神神社本殿~



小田原には、三浦道寸殿の子息である義意殿を祀る「居神神社」という神社があります。旧東海道に面し、板橋見附、総構早川口に鎮座。本城小田原の西の出入口という重要な場所に位置し、旧板橋村の鎮守でもありました。

 

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グリーン でマークしたところ(小田原市観光ガイドマップより)~


創建は永正年間とのみで今まで不明でしたが、近年、小田原の郷土史家石井啓史氏により、永正17年 であることが明らかになりました。

「(神奈川県タウンニュース)居神神社に「勝って甲」碑 創建は永正17年と判明」https://www.townnews.co.jp/0607/2018/01/13/415108.html
「(伊豆さがみ情報ネット)居神神社に「勝って甲」碑建立/郷土史愛好家・石井啓文さん 創建年など解明」
http://izu-sagami.jp/?p=2397


北条ファンには、太田(三楽斎)、佐竹、真田など敵方の、特に最後まで北条と戦い抜いた武将が大好きで詳しい人が多いです。三浦道寸殿もとても人気がありますよね。

かく申す私も、このところ、「二人の浄心院日海」のことで三浦半島のことをあらためて考えております。先日は、戎光祥ヒストリカルセミナー「北条を倒すのはオレだ!!~海と川をめぐる戦国大名の戦い~」にて、真鍋淳哉氏「海をめぐる北条・関東上杉・三浦・里見の戦い~」の講演を興味深く拝聴してまいりました(もっと熟考把握したらアップするかもしれません。今はチト難ちぃ💦)。


さて、

居神神社は、我ら北条ファンにとっては道寸殿の子息である義意くんの首級の言い伝えで知られています。これは、皆さんもご承知のように後世に作られた物語本の話です。義意くんが大男で剛力の強者であったことも、然り。21才で人生を終えてしまったので、その活躍もよく分かりません。


敵の将をどこか別の場所ではなく城下に祀るというのも不思議ですが、祟りを恐れたり霊を鎮めるためなら、義意くんではなく父親の道寸殿を祀るはずなのに、なぜ義意くんだったのだろうかと、ず~っと思っていました。

若くして戦場に果てたので哀れに思ったのでしょうか。それとも、大将の道寸殿を供養するには憚りがあったのでしょうか。


居神神社の創建や社名の由来について知ったことを書こうとも思ったのですが、にわか知識で書いても、義意くんの首級のように作り話が広まったら申し訳ないので(読んでくださっている方はそんなにいない弱小ブログゆえそんなに広まらないが)、ここはひとつ、興味ある方は文末に添付した石井さんの研究記事をご覧くだされ。


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~北条ファンにはお馴染み。氏綱公置文「勝って甲の緒を締めよ」碑~


義意くんの逸話は境内の説明板にもありましたが、三浦の方々からの要請で昨今撤去されたそうです。そうだよね~。よっく、分かりますよ。私も、氏政さんの「汁かけ飯」の作り話が書かれたものを世界中から撤収したいもの。

代わりと言ってはなんですが、神社に義意くんを祀った北条氏綱公の碑が出来ていました。氏子さん達の寄附にて建ったそうです。立派な字は、宮司さんの奥方様によるものです。


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~本殿はけっこう高台になる~


晴れた~ 午後には 遠く
三浦岬も見えるぅ~

ユーミン 海を見ていた午後で


少し曇った涼しい日だったので写真には上手く写っていないですが、石段を登った本殿から相模の海を眺めると、向こうに三浦半島が見えます。

氏綱公はこの地にあった山角屋敷を移してまでして、ここに義意くんを祀りました。もしかしたら、義意くんが育ち一族と共に果てた地、三浦の地をいつも見えるように…と思ったのかな。

なーんちゃって。

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


🐎 石井氏のブログ記事です
「敵将三浦義意を祀った居神神社と北條氏綱」
http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-11e1.html
「居神明神社と三浦氏関係の新史料」
http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-ea89a0.html
「検証・居神神社名の由来」
http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-f868a5.html

など。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

 

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2019年5月30日 (木)

三浦道寸の娘は宅間上杉に嫁いだのか?

マリコ・ポーロ

シリーズ北条五代の息女たち
【二代:北条氏綱の娘たち、太田資高室~浄心院は北条氏綱の娘か?三浦道寸の娘か?】


先のブログに書いた、フリーズしてしまったブログ記事が1ヶ月後の今、突然現れ動き出しましたのでアップします。理由は分かりません。また、今まで書いた記事が、妙に改行されてしまっていたりしてカッコ悪くなってしまっています。でも、600以上の記事数を全部チェックして修正は出来ず、残念です。

さて、今回の内容は…まあ、こんなもんです。期待させてゴメンナチャイ
(^^;


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~宅間上杉屋敷跡…ではないか?と言われる横浜上永谷の丘に、凛然と立つ一本桜。眼下( ↓)に永谷天満宮が見える。~


今までのあらまし

当ブログで足かけ4年にわたり続けているシリーズ「北条五代の娘たち」。関東公方、今川、吉良、葛山など当時の有力武家に嫁いでいるにもかかわらず、特に初代宗瑞と二代氏綱のほとんどの娘達についてはよく分かっていません。そのため調べることや訪ねる所も多くなり、いまだ氏綱の娘たちのを足跡を辿っている途中です。

中でも謎中の謎なのが、太田家に嫁いだ二代氏綱の娘、浄心院日海 です。なぜなら、資史料を読んだり縁の地を巡っているうちに、同じ法名の、同じ没年月日の、同じ菩提寺の、もう一人の「浄心院日海」に出会ってしまったからです。


その女人は、三浦道寸殿の娘でした。

あらたにご興味を持ってくださった方は、浄心院を追って江戸や安房を歩き回った今までのブログ記事をご覧くださるととっても嬉しいです(文末リンク)。


🍷 二人の浄心院

(北条浄心院)
父:北条氏綱
夫:太田資高、太田道灌の孫で江戸城にいた

(三浦浄心院)
父:三浦道寸
夫:太田資康、太田道灌の息子で三浦へ援軍した

私は北条から入ったので、北条の娘=浄心院日海 だとずっと思ってきましたが、三浦氏や太田氏を研究されている方達は、三浦の娘=浄心院日海 と思っている方が多いようです。この違いは面白いですねえ。


図書館へ通い、三浦浄心院のことも色々調べました。しかし、残されている三浦浄心院の記録は、北条側から入った私からすると、実家と夫が違うこと以外は、まるで北条浄心院をコピペしたかの如くでした。どうにも分からんのでござりまする。

私なぞより、本物の浄心院さまの方が戸惑っているでしょうし、もうお一人の浄心院日海だとされた女人の方は、自分の人生が違えて後世に伝わっていることに淋しい思いをしてらっしゃるかもしれません。


🐎 新資料(マリコ・ポーロ的に)

浄心院が氏綱の娘であることについての資史料はこれ以上見つけられなさそうなので、道寸の娘の足跡を辿ってみる方が早いかもしれないと思いました。と、そんなところへ小田原の北条師匠から衝撃の矢文(←オーバー💦)が届いたのです!

「新横須賀市史補遺編(平成23年)」に、道寸の娘が「宅間上杉顕重に嫁いだと推定される…」とあるのをみつけてくださったのです。かたじけのうござりまする!真偽のほどは分からないが、系図が載っており、その解説に書かれているとのことでした。


詳しく知りたかったので他にも書かれたものがないか図書館ホームページで検索しまくったところ、市史の他には、「関東上杉氏一族 (2013)」という、またもや黒田氏のものと、湯山学氏「中世史論集~関東上杉氏の研究 (2009)」しか見つけられませんでした。

▲ 黒田氏「関東上杉氏一族」 p364~ 367 あたり
▲ 湯山氏「関東上杉氏の研究」P271~281 あたり& P298~303(六郷殿について) あたり

まずは市史を読んでみましたが、市史は、黒田氏がこの本 ↑ に書かれている説を採ったものでした。横須賀市もか…。


それらによると…

三浦道寸のお嬢さんが宅間上杉に嫁いだということは、「清音寺本」系図にあるようです。「清音寺本」とは、江戸時代に水戸藩によって編纂された系図集「浅羽本」に掲載された上杉系図の、常陸清音寺に伝来されたと思われるものだそうです。そしてその清音寺本は今は伝来されていないとのこと。

その頃の道寸殿は山内方ですので可能性はありますな(あくまでも可能性のひとつですが)。宅間については、尊氏さまの母上の実家で、後半は北条につき、為さま衆(北条為昌の本光院殿衆)に組み込まれたことぐらいしか知りません。この機会に色々と読んでみたかったのですが、書かれているものは少ないのです。


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~永谷天満宮から宅間屋敷跡(とも言われている)の丘を眺めるの図。~


🐎 「清音寺本」のくだんの部分

ここで、湯山氏と黒田氏の本&市史に載っている「清音寺本」の、肝心なその部分を抜粋してみます。色と数字は、分かり易くするために(自分が)マリコ・ポーロがつけました。←かえって分かり難いぞー!という声も聞こえるが…。


「清音寺本云……其後 楊江院ノ代ニ。宅間ノ家ヲ江戸ノ道灌取立。楊江院ノ左衛門 息早世。其子寧蔵主ト云人還俗シテ六郎殿ト号。宅間ヲ継。六郎無子。而六郎弟ニ喝食アリ。是を束髪シテ号新五郎。三浦ノ婿ニナル家ヲ継ギ。六郎・新五郎。宗雲入国ノ時牢人シテ江戸ニテ死。新五郎ノ 中兄 極楽寺ノ宝塔院ト云律宗ニナル。後ニ岡田取成ニテ。宗雲ニ云ナシ。束髪宅間ノ家ヲ継。其子今宅間也。家名十郎殿。天文十八年比ハ廿七八歳ノ人也。其子太郎ト云々、」


この清音寺本によると、宅間は、太田道灌によって取り立てられ → 何代か続き → 新九郎さんの相模攻略時に江戸へ逃れ → 岡田さんの取り成しで北条の元において家を存続させたのですね。

そして、ありますねえ。⑤の新五郎さんが、三浦の婿になっていると。


🐎 「新五郎」って誰?

この時代の常で、「①楊江院」とか「②左衛門」とか「③名前の記載がない」とか「④寧蔵主・六郎」とか「⑤新五郎」とか「⑥極楽寺宝塔院」とか「⑦十郎」などで書かれており、ヤヤコシーですねえ。


新五郎の妻 について黒田氏は、道灌が取り立てた時代や宗瑞が入国した時代などから、新五郎さんの妻道寸殿の娘 と思われるとしています。また、湯山氏の方は、私が読んだ限りでは、「相模三浦の一族との交渉もうかがえる」としか書かれていないようで、新五郎さんには触れていませんでした。

 

湯山・黒田の両氏は、それらを他の上杉系図や年代などから割り出してくれています。

ところが…
違うんですよぉ。湯山氏と黒田氏の解釈が…。


上杉系図はあまたあれど、ワテが参考にしたのは「続群書類従」です(で、いいのかな?)。(中には、憲能のひいおじいさんの兄弟の方へ続いている系図もありました。)



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🐎 誰が誰?

以下に、お二人の違いを挙げてみました。ややこしいのでメンドクチャイ方は次の、🐎早い話が…まで、すっ飛ばしてくだされ。


湯山氏の系図は「続群書類従」掲載の系図類とほぼ同じで、* はマリコ・ポーロの補足

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~「続群書類従」~


Photo_5  
~黒田氏の本&横須賀市史~


① 揚江院
湯山氏の本(=記載なし/ ②左衛門の父を憲能とする)
黒田氏の本(=憲能/ ②左衛門の父)

② 左衛門
(=憲清/ ①憲能の子)
(=   〃/      〃         )

③ 早世した子息
(=定兼三郎)
(=    〃    )


④ 寧蔵主・六郎
(=六郎・朝重/ ②左衛門の弟)
(=六郎掃部助・定朝/ ②左衛門の孫)
も、定朝を②左衛門の孫としているが、定朝を六郎とはしていない。


*「能香
両氏とも「清音寺本」の系図には当てはめていないが、①憲能の子に 能香 という重要人物がいる。

(能香/ ②左衛門・④六郎・⑥宝塔院とは兄弟の、「六郷五郎(上杉五郎)」と呼ばれた人物としている。)
(能香/ ②左衛門 とは兄弟だが、④六郎・⑥宝塔院とは兄弟ではなく、甥の子供としている。)


また、能香の妻については、
(六浦の武田氏/ 橘樹郡の農家の記録より)
三浦道寸の養父であった三浦高救の女兄弟) 

なんだか、このへんアヤシー。。。


⑤ 新五郎
(記載なし)
(顕重/ ②左衛門の孫であり、定朝(黒④六郎)と ⑥宝塔院 の弟としている) 
*湯は、顕重を ⑦十郎  としている(⑦を参照)。


⑥ 極楽寺宝塔院
(宝塔院恵胤/ ②左衛門の弟)
(乗忠(国)/ ②左衛門の孫)
*湯は、乗忠(国)を ②左衛門 の曾々孫としている。

十郎
(顕重/ ②左衛門の曾孫)
(乗方/ ⑥ 宝塔院の孫)


以上ですが、ここでもう一度、「清音寺本」のくだんの部分を見てみましょ。


「清音寺本云……其後 楊江院ノ代ニ。宅間ノ家ヲ江戸ノ道灌取立。楊江院ノ左衛門 息早世。其子寧蔵主ト云人還俗シテ六郎殿ト号。宅間ヲ継。六郎無子。而六郎弟ニ喝食アリ。是を束髪シテ号新五郎。三浦ノ婿ニナル家ヲ継ギ。六郎・新五郎。宗雲入国ノ時牢人シテ江戸ニテ死。新五郎ノ 中兄 極楽寺ノ宝塔院ト云律宗ニナル。後ニ岡田取成ニテ。宗雲ニ云ナシ。束髪宅間ノ家ヲ継。其子今宅間也。家名十郎殿。天文十八年比ハ廿七八歳ノ人也。其子太郎ト云々、」


🐎 早い話が…

つまり、湯山氏(&続群書類従)と黒田氏(&横須賀市史)は、①憲能(揚江院か?)がいて、その子の②左衛門が憲清。その子が三郎(早世)までは同じ。そこからが違ってくるんです。

うにゃにゃ 😞
こんな書き方じゃ、何がなんだか分かりませんよね~。何が言いたいかと言うと…


▲ ⑤新五郎さんという人は、やはり、湯山氏・浅羽本はじめ上杉系図には出てこなくて、今は伝来していないという「清音寺本」にだけ出てくる。

▲ というか、そもそも ⑤新五郎さんの 兄弟だという ④六郎さんの比定が双方で違う。湯山氏の本では ②左衛門の「兄弟」になっており、黒田氏の本では ②左衛門の 「孫」になっている。

▲ 従って、④六郎 と兄弟だという ⑤新五郎は、黒田氏の本では 「顕重と思われる」とあるが、浅羽本はじめ他の上杉系図では、顕重は ②左衛門の 「曽孫」である。


う~ん。やっぱり何を言っているのか、話は早くなく、ワケが分からないですよねえ。すまんことですたい。


三浦の女人の兄(弟?)である道寸の息子義意の生年は、明応5年(1496年)とされていますから、女人もその頃の生まれとし、新五郎さんちが没落した宗瑞の相模侵攻を 永正の 1509~1516 あたりとして…(こんなことばっかりやってる💦)

あにゃ~、なんとなく、三浦の女人の年齢が合わなさ過ぎるような気がしないこともにゃいねえ。

ま、エエわ。


🐎 疑問

▲ この「清音寺」の宅間氏系図はどうやって出来上がったのでしょう。

▲ 道寸娘=宅間の妻 が本当なら、なんで江戸時代の三浦さんたら、道寸の娘を太田さんちに嫁いだことにしちまったのかいにゃ?系図というものはどこまで本当なのか…ゴニョゴニョ ですが、清本寺本だけ他の系図と違うのも妙ですかね。こりゃまた分からんのう。


🐎 別の説~真鍋淳哉氏

先日、戎光祥ヒストリカルセミナーの真鍋氏の講演の時に『三浦道寸』を購入。読んでみました。

道寸の女(娘)は今のところ一人とされていますが、真鍋氏『三浦道寸』には、娘は二人いて、それぞれ太田さんちと宅間さんちに嫁いでいるとしています。そして、宅間さんちのことは「黒田氏の説より」とあります。真鍋氏もか…。


🐎 別の説~戸塚市郷土史

今のところ、三浦道寸のお嬢さんが宅間上杉に嫁いだということは、江戸時代の水戸家が変遷したこの「浅羽本の清音寺本にある」という書き物だけです。また、これらのどこにも道寸の娘の法名のことには触れられていませんので、

道寸の娘 ≠ 浄心院日海

とすることは出来ません。しかし、清音寺本だけからすると、道寸の娘の夫である新五郎さんは江戸で亡くなっているようですから、妻もそれまで生きていれば江戸で亡くなっている可能性はありますね。


いっときは、北条浄心院=三浦浄心院、同一人物(三浦が滅ぼされた時、道寸の娘は氏綱の養女になり太田資高に嫁いだ)も考えましたが、やはりどうも年代に無理がありそう。分からんのう~~~。分からんが、こういうのを調べていくのは楽しいです。


しかし…
フリーズしてから一ヶ月。その時は夢中で書いたのですが、一ヶ月も経ってあらためて読んでみると、自分でも何書いてるんだか良く分からなくなってしもうた。

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。


以下は、まだまだ途中のシリーズ「北条五代の娘たち」のうちの、浄心院日海について書いたものです。

「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/201/post-3f58.html
「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html
「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html
「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2019年5月24日 (金)

北条氏照の「大善寺」と「土方能」

マリコ・ポーロ


ご無沙汰してしまっています。ブログ屋さんのリニューアル以来、どうもブログ記事の投稿がうまくゆかず、筆が進まずにいました。これだけの大ブログ屋さんですからニューアルはそりゃあ大変なこととお察ししますし、どのブログ屋さんもいつかはやらねばならぬことなのでしょうから仕方がないですな。

今までのブログ記事も、開いてみると妙に行間が開いていたりしてカッコ悪く&読みづらくなっているものがありますが、そこんとこご容赦を。


▲ 峰岸純夫先生の講演 at 大善寺

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~観池山往生院「大善寺」堂内~


さて、
「旧八王子城を守る会」の盟主である、我らが!峰岸純夫先生の講演が、先日八王子の「大善寺」にて行われました。「大善寺」は我らが!北条氏照開基のお寺ですが、マリコ・ポーロとしたことが行ったことがありませんでした。この機会にと初めて参った次第。

開山は、八王子の名僧、我らが!讃誉牛秀上人(牛秀上人については文末添付のブログ「新選組と北条氏照の日野」をご覧くだされ)。天正13年に滝山城下に開かれましたが、八王子落城後は数回移転し現在は富士見台霊園として八王子大谷にあります。八王子駅からはバスで 7-8分+徒歩(行きは登り坂でけっこうあり、帰りは下り坂でそこそこある)。


徳川さんの頃もかなりの庇護を受け、広大な寺領と多くの伽藍を有し、末寺は23ヶ寺もあったそうです。また、明治の御世にも勅願所として寺勢を誇ったお寺とのこと。

だから、お寺のアチコチには天下御免の葵の御紋。我らが(←しつこい)三つ鱗▲▲▲をチビットだけでもいいからどこかに付けてくれぃ!


気になったのは、上の写真のお姫様。「機織姫」だそうです。

な~る。境内に織物の神様を祀る「機守神社」があり、さすが絹織物の町八王子!と感心したのですが、それでなのですね。姫様の隣の、葵の御紋のお厨子に神社の御本尊(つまり神像?)が納められているそうです。


そして、八王子の絹織物は松姫様からだとばかり思っていたら、八王子の絹織物は桐生からきているとのこと。へえ~~。

八王子の絹織物ではネクタイが有名ですが、八王子では、我らが三つ鱗柄のネクタイも販売されているのですよん。


「大善寺」は「お十夜」と呼ばれる十夜法要でも知られています。関東三大十夜だそうです。大善寺の十夜法要は、天正18年の八王子城戦での犠牲者(特に檀家の犠牲者)を弔うために始まったものです。

徳川さんの時代も続けられていたのは凄いと思いますが、いったん休止し、近年再開しました。模擬店や催しがあるそうですが、こちらもまだ行ったことがありません。


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~ホワイトボードの上に見えているのが先生、ボードの横が御本尊…あ、ちゃうちゃう!横が先生。上が御本尊の阿弥陀如来様。~


昨今、お寺さんも仏教行事以外の様々なイベントを行っていますね。我が家のお墓があるお寺でも、真夏の夜に本堂で「芳一」の琵琶演奏会(怖すぎるぅ)や落語や武術の会を開いたりしています。

大善寺さんも「お寺の学校」として月に一度講演などを開催しているそうです。この日の先生のテーマは「相模北条氏の武蔵新出と北条氏照の八王子入部」。本堂は満席。真剣にメモを取ってらっしゃる方もいて、ご著作の本も売れていました~\(^o^)/。


が、しかし!
どなたからも(道灌びいきの会でも)、何度聞いても、享徳の乱・長享の乱・永正の乱などを、聞いている時はフムフムと分かっても、それを人様に理路整然と説明できにゃい。不甲斐ないぞ、マリコ・ポーロ。


▲ 新作能「土方歳三」

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~土方歳三 新作能「BLUE Blood」~


さて、もうひとつ八王子周辺の話。

我らが土方歳三は、北条氏照の生まれ変わりであるからして、当然大々々々好き。(誰もが認める根拠?は文末に添付したブログ記事を是非!ご覧くだされ。)


今年の「ひの新選組まつり」は、ちょうど土方さんの命日である 5月11/12 日になりました。そうです!我らが北条氏照の命日も 11日でござりますな。

お能には、歴友さんが誘ってくださいまいた。


「BLUE Blood」は、重要無形文化総合指定保持者である観世流の能楽師山中迓晶氏が、土方さんの没後150年にあたる今年のために書き下ろした新作能です。土方さん役ももちろんご本人。若くイケメンです(面をかぶっちゃうけど…)。

客席には「誠」のハッピを羽織った和装の若い人も、お着物の地元の年配のご婦人や紳士もたくさん。お祭りの雰囲気が溢れていました。


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~駅も誠だらけ。駅員さんも誠の法被です。~

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~タクシーも土方さん!~


お能の会場で配られたのは筋書が書かれたパンフレットではなく、なんと、台本!
ドびっくり~(*_*)。

これは貴重ですねえ。


♪ 風吹く方に咲く花のぉ~
風吹く方に咲く花のぉ~
土に散り積み埋むらん

少年登場。
「これは土方歳三の身内に仕え申す。市村鉄之助と申すものなり。」


おお!鉄之助くんですか!いきなり盛り上がるぅ!

鉄之助くんがお琴ちゃんに語る、五稜郭での仕儀。差し出すのは片身の品。


そして土方さん登場!

「よしや身は。蝦夷が島根に朽ちぬとも。魂は東の君や守らん。」

テンションMAX!


語るは池田屋から伏見、流山(涙~)、沖田総司との別れ、仙台、蝦夷…

じ~~~ん💧


♪ 月見るごとに思うかな~
月見るごとに思うかな~
明日は屍の上に照る。
月の光に隠されて。
星の煌めき失せにけり~。
星は流れて失せにけり~。


堪能~。

そして我らも、失せにけり~。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html
「北条家ホームドクター田村先生の日野「安養寺」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6642.html
「北条氏照と土方歳三の国府台城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-b174.html
「新選組と北条氏照の日野」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-2625.html
「麗しき、武田の「松姫さま御坐像」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-97b5.html
「『未完の多摩共和国~新選組と民権の郷』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-be7c.html
「土方歳三の「宮古湾海戦」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-282c.html


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2019年4月30日 (火)

上皇后美智子さまの「オーラ」

マリコ・ポーロ


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~令和元年初日の皇居。お堀に一羽のスワンが悠々と。~


歴史好きとしては、まさか「上皇」というものが存在する時代に自分がいられるとは思ってもみませんでした。チト嬉しい。歴史好きとしては「平成院」とお呼びしたいところですが、時代が違いますな。

ゆったりとお過ごしになられることを心よりお祈り申し上げます。


平成の両陛下とは、ありがたいことに2度遭遇したことがあります。

最初は夏の軽井沢駅。

軽井沢に滞在されていた両陛下が、東京に戻られるために駅においでになった時です。軽井沢本通は大変な人出。なかなか無い機会なので一目ご尊顔を拝そうとロータリーでお待ちしておりました。

向こうから歓声が上がり、お車がゆっくりと徐々に近づいてきました。私達はロータリーのちょうどカーブの絶好のポジションだったので、お車はより一層スピードを落とし、皇后さまが目の前に!


にこやかに手を振られて、なんとまあ美しいこと…。私も小売業人生が長~いので、美しい女優さんはたくさん見てきましたが、けた違い。というか、格違い。とうか、別物(←一緒にするなですが)。

そして、皇后さまのお顔の周りを薄いピンク色の輪がホワ~ンと包んでいるのが、見えたのです。絵画の聖人像などに描かれるあの輪のようにです。


本当に見えたんですよ。後で、その時一緒にいた友人が「美智子さま、ピンクのブラウス着てたよね」と言いましたが、違うんですよ。お召しになっていたのはご静養先でよく着てらっしゃる白いブラウスだったんです。友人にはピンクに見えたんですねえ。

あれが、「オーラ」だったんですね。よく、人気芸能人やスポーツ選手などに会った人が、「オーラがある」とかいう人がいますが、本当のオーラはそんなもんじゃないんだと思いましたよ。


両陛下はエレベーターではなく、外から見えるエスカレーターを昇られ、御体をかがめて最後の最後見えなくなるまでロータリーの人達に手を振ってくださいました。

残るのは、清き余韻…


私達の後ろにいた大学生らしきグループも、隣にいたマダム達も、もちろん私達も興奮冷めやらず、知らない人同士なのに言葉を交わしました。若い女の子達は泣いていましたよ。マダム達も私達も、何故かグッときてしまって話す声が詰まってしまっていました。

不思議なのは、皆が「目が合った」と言うんですね。私も友人も、目が合ったと思いましたし。これはどういうことだろうと考えたのですが、陛下も皇后さまも、たぶん、群衆という集合体に向かって手を振っているのではないのですね。なるべく一人一人に手を振ろうと、なるべく一人一人を見ようとしてらっしゃるのだと思いました。だから、皆、自分と目が合ったと感じるんでしょうねえ。


それまで近代の天皇家にはほとんど興味がなかったのですが、一気にファンになってしまいました。新幹線とホテルがセットになったフリープランで軽井沢に行く超庶民ですが、こちらまで上品になったような気がして、お隣にいたマダム達と「では、ごきげんよう」なんてふざけてお別れしました。

一生に一度、いい経験をさせていただいたと思いきや!同じ友人と下田に行った時にまた遭遇した…いや、させていただいたのです。


下田から帰る列車が蓮台寺駅を出た時(入る時だったかな?)に、下り列車待ちでいったん止まりました。単線になるので止まることは良くあるのですが、その時は下り列車も並んで止まりました。フト下り列車を見ると!!!

窓に天皇陛下がいらしたのです!!!


車内騒然!

下田駅を出る時には、両陛下が今日いらっしゃるということで人がたくさん集まってはいました。しかし私達は列車の時間があったので、いや~ニアミスぅ、と残念に思っていたのですが、なんと、ここでお会いできるとは!!!


平日だったので車内には十数人しか乗っておらず、みんな集まって手を振りまくるまくる。陛下の後ろからは皇后さまがお顔を出してくださり、車内大歓声!

やはり大学生の男の子達が写メを撮り、上手く撮れたのか恐れ多くも、陛下に向かって指でオッケー👌。陛下は尚一層ニコニコお笑いになって皇后さまに何かおっしゃると、皇后さまも尚一層窓に近づきニコニコニコニコ。大学生は、「いや~、マジ幸せ~~。待ち受けにしよ~」って。

私も撮らせていただけばいかった~。待ち受けにしたかった~。皇室にまったく興味がなかった友人なのに、「2度あることは3度あるっていうから、私達ふたりの時にはもう一度お会いできるわよ」と、すっかりシンパに。今のところ3度目はまだないですがね。


実は、以前に長年働いていた会社の関係で、店では店長だったのでその頃は皇族の方達にはよく接客させていただき、お届けに上がるなどということもあったのですが、平成の両陛下をお見上げ申しあげたことはありませんでした。この2回は、本当に得難い経験でした。

2度あることは3度あるの3度目は、上皇様(上皇様だってキャ~💛)・上皇后様となられたこれから後にやってくるのかな。3度目、あるといいにゃ~。

令和の御世も平和でありますように。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2019年4月26日 (金)

北条一族の某人物について書いたブログ記事がフリーズしてしもうた…

マリコ・ポーロ

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( ノД`)
小田原北条の某人物の某事について、3人の研究者の方達の本や「続群書類従」を読み比べ、関連各所を訪ね歩き、博士号クラスの論文と見まごうばかりの(←大ウソ)、超々長文の渾身のブログ記事を書いたのに、編集画面がフリーズしてどうにもならなくなってしまいました。

泣くに泣けにゃい。意気消沈。もう書き直すパワーもにゃい。


最初はPCで作成、保存。

PCやスマホで何度も何度も、何日も何日も推敲を重ね。

ある時、スマホでまた推敲し、「保存」をクリック。

いつものように、「記事が保存されました」となった。

その後、また推敲を続けようと再度スマホで開いたところ!!

文章が全て消えてしまっていた…。
そして、クルクルがクルクルクルクルクルクル 🌀。

注)クルクルとは、PCやスマホを立ち上げたり何かを実行したりする時に 丸◎ がクルクルするあの状態


PCの方で開いたところ、文章は残っていて画面には出るのだが、
「長時間実行中のスクリプトが原因で応答しません」と出る。

どこをどうクリックしてもまったく反応せず、x で画面を消すこともできず、フリーズ状態。

つまり、スマホがクルクル 🌀 状態のままなので、PCの方もフリーズしているということか???


PCもスマホも、電源を切って立ち上げ直してもダメ。
何度やっても、何日やっても同じ状態。


ココログさんに相談したところ、
「ブラウザでトラブルが起きている可能性も考えられるので、ブラウザのキャッシュ削除を試していただければ」とのこと。

PCでキャッシュを削除してみたが、状況変わらず。
スマホの方も、当該記事のところだけまだクルクルクルクル 🌀。記事の文章は現われず。


再度ココログさんに相談したところ、
今回、ココログは全面リニューアル。問題は徐々に解決しているので、それが終わればブログ記事も表れるかもしれない…と。

そんなもんか?


いつもは、万が一のことを考え、「保存」をクリックする時は必ず文章をコピーしていたのに…。返す返すも悔やまれます。

というか、それより、もう一週間も クルクルクルクル 🌀 で、大丈夫なのだろうか?他の記事に影響しないのだろうか?

ぐったり…。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2019年4月 6日 (土)

4月~の小田原北条関係の企画展・講演会(2019)

by マリコ・ポーロ


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時々ふいに思い立って更新する、気になる北条関係の企画展・講演会情報です。あらたに情報が入ったら随時追加いたしまする。

北条関係は、マリコ・ポーロ ほぼ行けにゃい。皆さん楽しんできてくだされい。
(ノД`)・゜・


まずは最近ハマっております、興味深いセミナー連発の戎光祥さん。

▲ 戎光祥ヒストリカルセミナー
「北条を倒すのはオレだ!!~海と川をめぐる戦国大名の戦い~」

日時:4月20日(土)14:00~(17:30 閉場)
講師と講演:
①真鍋淳哉氏(『戦国江戸湾の海賊』、『三浦道寸』の著者)
~海をめぐる北条・関東上杉・三浦・里見の戦い~(仮)

 

②中根正人氏(『戦国時代の大名と国衆』内に論文収録)
~関東水陸交通の要衝・関宿城と国衆~(仮)

場 所:TKP新宿カンファレンスセンター

参加費:2,500円(税込)※資料代込
定 員:80名(先着順)
申 込:メールで先着順、4月19日(金)17時まで(定員に達し次第締め切り)

https://www.ebisukosyo.co.jp/page8.html


▲ 早雲公五百年忌記念シンポジウム「小田原北条氏とその城郭」

日 時:5月2日(木・祝)14時00分~17時30分
会 場:小田原市民会館大ホール

講 師:
春風亭昇太師匠、中井均氏、黒田基樹氏、萩原さちこ氏、諏訪間順氏

入場料:全席指定席
前売り券 2,000円(4月30日まで)
当日券  2,500円

前売券購入の方法と場所が色々あるようなので要チェックです。

http://hojosoun.com/2019/04/04/%ef%bc%9c%ef%bc%95%e6%9c%88%ef%bc%92%e6%97%a5%e5%8b%9f%e9%9b%86%e4%b8%ad%ef%bc%81%ef%bc%9e%e6%97%a9%e9%9b%b2%e5%85%ac%e4%ba%94%e7%99%be%e5%b9%b4%e5%bf%8c%e8%a8%98%e5%bf%b5%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%83%9d/


▲ 企画展「戦国足立の三国志―宮城氏・舎人氏・武蔵千葉氏―」
足立区立郷土博物館

5月6日(祝)まで

北条氏照友から矢文をいただきました。かたじけない!北条関係の文書が多数出ているそうですよ!

(4/27 加筆
行って参りました。文書はほとんどが印判状…の写真。遠山さんのが多かったです。でも、宮城氏と舎人氏についてはまったく知らなかったのでチビット勉強にはなりました。お近くの方はどーぞ。。。重ね重ね、講演に行きたかったです。)

(講演)
①4月21日(日) 14時開始
「岩付太田氏とその家臣たち」
講師:新井浩文 氏(埼玉県立歴史と民俗の博物館学芸員)

②4月28日(日) 14時開始
「戦国時代の全体像と足立」
講師:久保田昌希 氏(駒沢大学教授・前副学長)

会場:足立区立郷土博物館 講堂
申込不要(定員先着80名)
参加費:無料

https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/2019sengoku.html


▲ 講座「河越合戦と北条氏康」
日時:5月11日(土) 14:00~16:00
場所:小田原生涯学習けやき

講 師:板嶋恒明氏(歴史ライター)
申込先:北条五代百年その時会事務局へ電話
費 用:500円

https://www.campusodawara.jp/global-image/units/upfiles/2692-1-20190301144928.pdf


以下は小田原北条とは直接関係がないですが、皆様お馴染みの諸先生方の講演も盛りだくさん。「道灌びいき」の会に参加している身としては ひっじょーに!楽しみなり!😃

▲ 「 新田氏展」
群馬県立歴史博物館
4月27日(土)~6月16日(日)

超魅力的な連続講演会、鼎談、講演、見学会、ギャラリートークなどなど多数過ぎて書ききれないので、HPご参照の程。申込が必要なものがあります。

http://grekisi.pref.gunma.jp/kikaku.html


▲「“道灌以後”の戦国争乱 横浜・上原家文書にみる中世」
横浜市歴史博物館
6月15日 (土) ~2019年7月31日 (水)

(講演)
①6月29日(土)
「太田資正と関東の動乱」
新井浩文氏

②7月6日(土)
「葛西城の攻防と東京湾の戦国」
長塚孝氏

③7月13日(土)
「太田道灌の子孫たち」
黒田基樹氏

申込要
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/koudou/see/kikakuten/2019/doukan/


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2019年3月21日 (木)

宗瑞が使ったかもしれない「小野神社の銅鐘」

マリコ・ポーロ

 

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~小野路「小野神社」~


🎵 鐘にぃ 恨みは 数ぅ数ぅ ござ~る~

と、鐘に身を隠した安珍を追い山路をひた走る清姫の如く、小野路「小野神社」の釣鐘をめざし現代の鎌倉街道をひた走る(バスで)マリコ・ポーロ。

いや、鐘に恨みはさらさら✋あらねど、小野路の小野神社に応永年間奉納の、刀傷がある古い銅鍾があるそうな。鐘は600年の間に回りまわって、今は重要文化財として逗子の海宝院にあるそうな。


以下、超ややこしい警報&超長文警告。


⛵ 小野路

街道や宿には皆さんの方がお詳しいと存ずるのでチョビットだけ。

小野路は町田市の北方に位置する。鎌倉と武蔵国の府中を繋ぐ古代からの交通の要所にある町で、江戸時代には宿が置かれていた。


戦国期は我らが北条氏照の八王子領であり、幕末には、名主だった小島家により天然理心流の道場が設けられ、近藤さんや我らが土方さんが出稽古に通ったりしていた。

土方さんの日野から小野路までは、現代の車なら30分位(混んでなければ)、徒歩(かち)なら2時間半ほどになる。京に上る前の土方さんは、欝々とした日々の中で何かデッカイことを成したいと(←想像💦)この道を通ったのだろうか。小島家は資料館にもなっていて、家に伝わる新選組ゆかりの資史料を展示している。(開館日が決まっています。)


⛵ 小野神社(旧小野大明神)

小田急線鶴川駅からバスに乗ること約10分。小野神社はちょうど街道が交差する三叉路の宿の入口に鎮座ましましていた。石段を登ると…

あった!
鐘は、本殿の回廊の右端に吊り下げられていた。

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おのれ、安珍!!

って、ちゃうちゃう✋


神社の入口にあった説明書には次のようにあった。
(鐘のところだけ抜粋)

…応永十年(1403)には、小野路村の僧正珍が寄進を募り、交通の安全を祈願して宮鐘を奉納した、朝夕に別当寺の清浄院(現在廃寺)の僧が宮鐘を撞いて旅人に時を知らせたという。戦国時代の文明年間に、両上杉の合戦で、この宮鐘は山内上杉の兵によって、陣鐘として持ち去られた。現在は、神奈川県逗子市沼間の海宝院に保管されている。宮鐘は昭和五十九年に…


本殿は高台なので3方の街道を見下ろすことができる。当時の鐘がどこに吊り下げられていたのかは分からないが、朝夕にこの鐘は宿に鳴り渡り、街道をゆく人達を見守って(見張って?)いたのだろう。


略奪は当時の戦では当たり前。文明年間の戦とはどの戦だろう?  刀傷はその時に付けられたのだろうか。

鐘の下へまわってみる。鐘の由緒が書かれたものが掲げられていた。


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神社の由緒書とほぼ同じだが、こちらには、

文明年間の両上杉の戦いの時に、
山内上杉の兵が陣鐘として使用し鎌倉に凱旋しのち若干年を経て海宝院に…

「鎌倉に凱旋し」という文言が増えていた。ふーむ。鐘はいったん鎌倉にも持っていかれたのか。その後、長谷川氏が手に入れるまでは百年はあると思うが、「若干年」とあるね。


説明書にあるように、鐘は今、逗子の海宝院の本堂内に保管されている。小野神社に今置かれている鐘は複製である。海宝院の本物は普段は見られないそうなので、複製でもよいから見てみたく、小野路へひた走って来たのだ、バスで。

鐘のことを知ったのは、逗子「海宝院」の伝承を読んだからである。


⛵  旧三浦郡の「海宝院」寺伝

往古武蔵国八王寺小野大明神の鐘にして 徳川幕府のころ 当郡高山城 則 北条氏の築かれし城へ軍用の為取り寄せ置き 其の後 当郡奉行職長長谷川氏へ軍功に仍て軍器と共に右鐘拝領相成 当院建立の際納められし鐘也
(逗子市HPより)


海宝院の説明書きや逗子市のHPによると、「当院建立」は、長谷川さんが代官として三浦郡に派遣された徳川入府の頃らしい。細かく言うと、最初の建立は横須賀村で、逗子に移ったのは慶長期だそうな。後から調べた『相模風土記』には、海宝院は天正19年に御朱印を賜ったとある。

鐘の移転について少し考えてみる。考えてみるのがメンドクチャイ方は文末近くまですっ飛ばし、しばし「小野路里山交流館」でまったり~☕してくだされ。


話はチト逸れるが…
なぜ、たかが鐘のことをこれだけ調べるのかと申すと、いつも書いていることだが、アクセス数も少ないこんな弱小ブログでも、ありがたくも読んでくださる方達がいる。マリコ・ポーロの書いたものなのでよもや全面信じたりはされないとは思うが、もしかしたら記憶のどこかに残ってしまうこともあるかもしれない。素人歴史ファンのブログとはいえ発信する以上は責任がないとは言えない。

過去のブログ記事も、何か気が付いたら追記なり訂正なりを出来る限りしてはいるが、どうしても追いきれない。だから、何かを見たり読んだりしても鵜呑みにせず、なるべく調べて調べて書きたいと思っているからである。

ちょっと、おこがましい?


神社の御縁起や御由緒には微妙なものがあるのは皆様ご承知のことだが、寺社は歴史の研究者ではないし、寺伝なども、歴史が今のように微に入り細に入りまくって研究され進化する前に書かれたものも多いので、それは仕方のないことだと思う。

海宝院の伝承についても、いつ作成されたものかは分からないが、鐘の最後の持ち主の長谷川さんが御自身開基の海宝院に寄進した時に鐘のことを何と言って書かせたかもかなり影響していることだろう。しかし、今のところそれしかないので、主にそこから鐘の移転歴を整理してみたのが以下。

あ、新九郎さんの出番はもうしばしお待ちあれ。←引っ張る引っ張る


話を戻し…

⛵ 鐘の移転歴

① 応永10年、八王子領の小野路「小野大明神(現小野神社)」の僧正珍が奉納
(鐘に刻まれた銘文/小野神社/海宝院などの説明書/町田市史・逗子市HPなどより)


② 文明年間の両上杉の戦時に山ノ内の兵が持ち去り、鎌倉に凱旋する
(小野神社の由緒より) 


③ 徳川幕府の頃、「当郡」の高山城(すなわち北条の築いた城)に取り寄せ置く
(海宝院寺伝より/「三崎志」←後述))


④ 「当郡」奉行の長谷川長綱が拝領
(海宝院寺伝より)


⑥-1 長谷川長綱が三浦郡の海宝院建立時に寄進
(海宝院寺伝/逗子市HPより)

⑥-2 文禄の頃、長谷川長綱が、菊名にあった三浦道寸の鐘を海宝院に移す
(「三崎志」←後述))


ざっと、こんなところで合っちょる?


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~逗子「海宝院」の四脚門。当時のままだそうで、朱塗(この写真で分かる?)に茅葺の屋根が素晴らしい。一見の価値あり。大船や逗子湘南藤沢あたりには茅葺の門をもつお寺がいくつかある。~


移転歴からは様々な疑問が出てくる。主な疑問の、三つ鱗ならぬ四つ鱗。

▲-1 まず、伝承の時系列が妙。

▲-2 当郡へ誰が、なんの軍用のために取り寄せたのか?

▲-3 山ノ内が略奪してから、当郡へ取り寄せられ長谷川長綱が拝領するまで、鐘はどこにあったのか?

▲-4 「当郡高山城 則(すなわち)北条の築かれし城」はどこなのか?←これが、新九郎さんに関係があるかもしれないこと。


そこで、もっと考えてみたい。

うぎゃ~😠もうどーでもエエ!という方は、文末近くの「小野路里山交流館」まで素っ飛ばしてくんなまし。


▲-1 時系列が妙?

鐘を取り寄せ置いたのが徳川幕府の頃で、③。長谷川さんが鐘を拝領し海宝院建立の際に寄進したのが文禄・慶長の頃で、⑤&⑥。

あにゃ~?海宝院建立の年代は確定できないが、慶長期だというのはお寺の説明書からもそこはかとなく読み取れるから、これは、③の「徳川幕府のころ」は、「徳川入府のころ」なのではないのかにゃ…。


▲-2 当郡へ誰が、なんの軍用のために取り寄せたのか?

まず、海宝院寺伝の「当郡」とは三浦郡のことである。この伝承は、三浦郡にあるお寺「海宝院」の伝承だから、当郡=三浦郡 と読み取れる。実際そのあとに続く文章に、同じく「当郡奉行職長谷川氏へ」とある。長谷川さんは当時三浦郡の代官であったから「当郡奉行=三浦郡の奉行」ということになる。

念のため、専門の諸先生方や、三浦市さんと逗子市さんにも確認したところ同様の解釈だった。

前半の「当郡」と後半の「当郡」が違う郡ということはないか?と伺ったところ、同じ文章内で「当郡」の意味が違うということはまずナイとのことだった。


誰が取り寄せたのかについては主語がないので絶対とは言えないが、もし長谷川さんだったとし、上にも書いたように、これを「徳川幕府のころ」ではなく「徳川入府のころ」とすると、時はまだまだ超々々不安定。長谷川さんの陣屋は浦賀だったそうだから、海防 のためということも考えられる?

う~ん。分からん!


▲-3 山ノ内が略奪してから当郡に取り寄せられ長谷川長綱が拝領するまで(小野神社の鐘の由来には「若干年」とあったが…)鐘はどこにあったのか?

その間約百年あるが、移転歴の③&⑥-2の引用として挙げた「三崎志」には、こう書かれている。

「陣ヶ台菊名にあり。道寸陣鐘此処にありしと。文禄中長谷川七左ェ門沼間海宝院に移せしなり」


「三崎志」は江戸時代(たぶん宝暦年間)に書かれた地誌であり、その正確性については私は分からないが、これによると…

新井城(三崎要害)の「外の引橋」があるあたり「菊名」に三浦道寸の陣鐘があったのを 文禄の頃に長谷川さんが海宝院に移した、ということになる。


ふ~む。

当郡(三浦郡)へ取り寄せ置いた…
というのは海宝院の寺伝にしかみられず、他の資料はみな、「山ノ内の誰かが略奪→文禄のころ長谷川さんの手に入る」と間の百年をハショッテいる。


ということは、山ノ内の誰かが鎌倉のあと三浦へ持ってゆき、菊名へ陣鐘として設置したのだろうか。そして、鐘はそのままそこへ(またはどこか他の所へ)、戦国時代の百年間置かれたままになっていたのだろうか。お寺の伝承からは、それしか読み取れない。

長谷川さんはそれをいただけるように申請して拝領とし、または、勝手にいただいちゃったのを「拝領」とし自身の寺へ納めたのだろうか?

分からんのう。


▲-4 徳川のころ、鐘を取り寄せ置いた「当郡高山城」とはどこなのか?

いよいよ新九郎さんこと伊勢宗瑞の出番…かもしれない。

なんだとー!ここまで引っ張ってきて、「かもしれない…」だとー!💢


コホッ。さてっと。


☆ 寺伝は記事のトップの方に挙げたので、再度ここに書くのでご参照くだされ。

往古武蔵国八王寺小野大明神の鐘にして
徳川幕府のころ
当郡
高山城
則 北条氏の築かれし城へ
軍用の為取り寄せ置き
其の後
当郡奉行職長長谷川氏へ
軍功に仍て軍器と共に右鐘拝領相成
当院建立の際納められし鐘也



☆ 繰り返すが、これは当時の三浦郡「海宝院」の寺伝であるので「当郡高山城」=「三浦郡高山城」とすると…

三浦郡に北条が築いた「高山」という砦だか陣だかがあって 約百年後(徳川入府のころ)、そこに鐘を取り寄せ置いたと読み取れる。(これも諸先生方に確認済み)。

これは、もしかして新九郎さん こと 伊勢宗瑞が新井城攻めの時に築いた陣ではないか?三浦に「高山」というところがないかどうか、三浦半島の地図を開いたところ、「引橋」や「陣場」あたりに「高山」というところがあることはある。もし、ここが寺伝の「高山」だとしたら、それは、宗瑞の新井城(三崎要害)攻めの時の陣場のことを指しているのかもしれない。


かもしれない というのは、以下より。

☆ 「逗子市文化財調査報告書 第二集』逗子市教育委員会」(昭和46年)こう書かれている。

~これら(小野神社・海宝院寺伝・三崎志・新編相模風土記など)を総合すると、北条早雲が三浦道寸の新井城を攻略の際、陣鐘として使用していたものが戦後その陣営地におかれていたものを、三浦郡代官長谷川七左ェ門が海宝院建立のとき寄付したものということになる。 ~


報告書には、早雲が使用して以来そこに置かれていたままになっていたのを、長谷川さんが海宝院に寄付したとあるが、そもそも、小野神社の由緒にも、海宝院の寺伝にも宗瑞のことは書かれていない。

『三崎志』には、菊名に道寸の陣鐘があったとあるが、

『相模風土記』に、菊名は早雲の陣営したところとあるので、

この鐘は道寸のものではなく宗瑞が使ったものだったとなり、

報告書の「早雲が新井城攻略の際使用した」

になったのだろうか?50年近く前の報告書なのでもう分かりましぇん。


そして、最後にもうひとつ。

うぎゃぎゃ~、ほんまこつ、もう、よかバッテン。マリコ・ポーロひとりで悩んでいろいっ!👊 って?というか、もうここまで読んでくださっている方はおらんと思うばってんとってんが、一人ぐらいはいらっしゃるかもしれぬゆえ。


あと少しなので、冒頭の小野神社のすぐ麓の「小野路里山交流館」でチビット一服☕してくだされ。


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~江戸時代の旅籠角屋を改装した「小野路里山交流館」。街道や小島邸を眺めながらコーヒーやうどんがいただける。お土産に里山コロッケや地の農産物なども購入できる。~


海宝院の、寺伝と鐘の由来書の差異

海宝院には、寺伝のほかに、鐘の由緒書がある。以下、由緒書の全文を4つに分け、↓ を付ける。


① 「鐘高一〇〇・六糎 鐘身七八・〇糎 口径五二・〇糎鐘の銘文によると、応永十年(1403)足利四代将軍義持の頃造られた、武蔵国八王子、小野大明神の宮鐘であることがわかる、文明年間(1469-1486)、扇ヶ谷、山ノ内両上杉氏の戦いの折、山ノ内上杉の兵によって持ち去られ」

② 「やがて永正十三年(1516)、北条早雲が三浦新井城に義同義意の父子を攻めたとき、これを陣鐘として使用したと伝えられている。」

③「徳川家康は、この鐘を八王子横山の高山城に軍用のため取り寄せた。」

④ 「のち長谷川七左衛門長綱が拝領し、海宝院創建のとき寺へ寄進したものだといわれている。 昭和五十年十二月 長谷山海宝院」


同じお寺のものなのに、由来書②&③の内容は、「往古…」の寺伝にはまったく書かれていない。寺伝の方が由来書よりは古いとは思うので、②は、逗子市さんの報告書を元にしたのかとも想像できるが、③は、どこにも書かれていにゃい。

当時のお寺さんは、どこから「家康」や「八王子」を引っ張ってきたのだろう。


もしかしたら、八王子の謎の「高山城」と「拝領」から推定して「徳川家康はこの鐘を八王子横山の高山城に…」としているのかとも思われるのだが、八王子の「高山城」は、八王子衆はご存知だと思うが、かつて発掘調査も行われたものの当時の文書などにはまったく現われず、その時代も機能も正確な場所も良く分かっていない。

また、八王子城は落城直後は上杉が在番しており、その後は大久保殿が代官として派遣されている。家康は落城の一年後に八王子を検分に訪れているが、大久保さんがいるのに三浦代官の長谷川さんがこの地に関係できるとは思えないのだが…。

北条研究の先生や学芸員さん方にこの件を尋ねたが、同様とはいわないが、そんなようなのことだった(もちろん、お寺の寺伝はあくまでもお寺に伝わる話なので…ゴニョ 、と皆さん異口同音の前提の上で)。


それとも、私がまだ見つけられない、家康や八王子が表れている史料が他にも何かあってこの由来書が書かれたのだろうか。

うーん、分からん。何か新しいことが分かったらまた書くことにしよう。まあねえ、戦乱が激しい時代、同じような運命を辿った鐘や仏像はたくさんあっただろうし、溶かされて鉄砲玉にされなくて良かったね。


そして、調べるにつれどんどん興味が深くなっていったこと、もしかしたら新九郎さん こと 伊勢宗瑞が陣場としたかもしれない「高山」を見つけたい。諸先生方にアドバイスいただいたことを参考に、三浦郡(現三浦市)を近々チョイトとうろついて、追ってブログに書きたいと思う。最も私がうろついてみたところで何も分からないとは思うけど💦。


☀ 最後に…
色々教えてくださった北条研究の某先生、鎌倉研究の某先生、逗子市さん、三浦市さん、歴史師匠の先輩方、お忙しいのに素人歴史ファンの問い合わせを調べてくださり、また、お返事もくださり本当にありがとうございます。お寺さんのことなので少しオブラートに包んだところもありますが参考になりました。心より感謝申し上げます。


「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html
「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html

ほにゃ。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2019年2月27日 (水)

ただ今、小田原北条妄想中

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妄想と仮説が、あざなえる縄の如し状態に入っております。

某過去帳とか、道灌時代関係の某街道とか、某鐘&某陣場とか、そして、ブログでシリーズとしている「北条五代の娘たち」の二人の浄心院殿さまで、調べることや訪ねる場所が多く、ご無沙汰してしまっております。

仕事に行ってる暇もないし…いやいや、仕事は行かねばならぬが、通勤時間も休憩時間もそれらに捉われておりやす。落語も聞きに行けない…


浄心院さまと鐘のこと以外はブログには書けないので、もうしばらくブログの更新は出来ないかもしれませぬ。

みなさま、防災と花粉とインフルエンザと はしか にはくれぐれもご用心くださいませ。
ほにゃ。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2019年1月14日 (月)

北条五代の娘たち ⑦ 錯綜する堀越(今川)六郎室

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち
【二代北条氏綱の息女~堀越(今川)六郎室/山木大方】

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を使った山木大方の印判「軍勝」~


今年は亥の年。正確には、十二支が亥(いのしし)、干支は己亥(つちのとい)となるそうですね。

さて、イノシシと言われ北条ファンとしてまず思い浮かべるのは、中伊豆の イノシシ鍋…ではなく 中伊豆の女領主、山木大方の印判ですよね!


山木大方とは

法名:高源院殿

父上: 北条二代当主、我らが氏綱公
母上: 北条幻庵もあこがれた伊豆の佳人、養珠院様
兄上(弟との説あり): 天下の名将、北条氏康

夫君: 今川の堀越六郎
お嬢さん: 香沼姫
ご子息: 吉良氏朝
(吉良の家督を継ぐ→文末添付ブログ記事をご参照くだされ。)


山木大方には一時かなりハマリ何度も韮山に詣で、娘の香沼姫のことと共にブログにもたくさん書かせていただきました。その後に何か新しい情報を入手したら、それを元に当シリーズ「北条五代の娘たち」で書こうと思っていました。

しかし、昨年には『戦国北条家一族事典』なども出版されましたが、山木大方については特に最新説はないようです。まあねえ…。夫君が亡くなったあと、どこかの戦国大名家にでも再婚していたりしたら別ですが、それはなかったとすると、大方について研究する人も少ないのでしょう。


ゆえに、こたびはパッション濃ゆい今までのブログ記事のアーカイブでいこうと思いましたが、とは申すものの、それでは終われないのがマリコ・ポーロ。山木大方について加筆したいことが 3つ鱗 ござりまする。以下、よろしゅう。


▲ 崎姫(さきひめ)とは誰か?

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~小田原駅近くにある山木大方の菩提寺「高長寺(旧高源院)」。電車の中からお寺の屋根が見える。本堂前でまったり寝ていた猫がムクッと置き上がって近づいてきた。「御大方 おんたいほう 様?」と呼びかけたら、「Yes, I am にゃ~」 。~


そう、この猫が﨑姫です…
ってわきゃない。それが、タイトルの「錯綜」です。


今までのブログ記事の繰り返しになりますが、山木大方は、かつて、吉良頼康に再婚した女人だとされていました。その後史料研究が進み、今では山木大方と頼康室は姉妹であり別人だということが分かりました。

吉良を次に継いだのが六郎さんとの間の大方の息子だったことから、山木大方が連れ子で再婚したと誤解されていたのだろうとのことでした。


また、山木大方には呼び名が複数ありました。山木大方(御大方)、高源院、そして 崎姫 です。山木大方と高源院はいいのですが、問題は「崎姫」です。


私が存じている限りでは…

かつては、再婚説により 山木大方=崎姫 とされていた(例えば黒田基樹著『戦国北条家五代 2012』、その他)

ところが、2014年横浜市歴史博物館「蒔田の吉良氏」で、山木大方≠崎姫 で、吉良頼康室=崎姫 ではないだろうか?となっていて、ドびっくり~

ところが、黒田基樹著『戦国北条家一族事典 2018.6』では、 山木大方=崎姫、吉良頼康室=お名前も法名も不明 とされており、どひゃ~もうわけが分からん!


もちろん、それぞれには根拠となる史料があるわけで、その元の史料が錯綜しているということになるのでしょう。

前にも書きましたが、吉良頼康室 と 山木大方高源院は、当時から江戸時代を通して、ごちゃ混ぜ&混然一体&錯綜されながら、寺社やゆかりの土地で語り継がれてきたようです。


他の研究者の方達がどう書いてらっしゃるか調べようかとも思ったのですが、何を読んでも結局は黒田氏の引用で、徒労に終わりそうゆえやめましただ。

なので、ここでは「﨑姫」という呼び方は使わず「山木大方」で通したいと思います。そうしないと、説が変わったことに気が付くたびに以前のブログ記事を書き直したり注釈を入れたりと、それはそれは大変なんですよぉ。まあね、一素人のブログですからどうだっていいっちゃあいいのですが、自分が気持ち悪いだけで。


▲ 山木大方の、人となりへの妄想が変わった

以前のブログではたびたび書いておりましたが、その頃は今よりもっと知識が浅かったので、山木大方のことを活動的なカッコイイ女人だと思っておりました。なぜなら、夫君の死後は「軍勝」なんて勇ましい印判を使い、伊豆に所領を持ち、小田原と伊豆を行ったり来たりしてらしたので、男勝りな方だとイメージしていたからです。

でも、それから様々な戦国時代の女性を知るようになると、大方へのイメージもだんだん変わってきました。今川の寿桂尼も北条の女性でも印判を使っている人は多いですし、女性で所領を持っているなんて アタリマエダのクラッカーですもんね。


もしかしたら、山木大方は勇ましく活動的というタイプではなかったのかもしれない。夫君の死後は実家へ戻り、子息を吉良へ出したあとは、亡き夫の菩提を弔って静かに暮らした…のかもしれない、なんて。

小田原と中伊豆山木を行き来したと思っていたのも、どうやら「行き来」ではなく、小田原にいたのはいっときで、ほとんど山木にいらしたようですし、その領地も母養珠院の所領を継承したものですしね。


また、夫君の供養のための菩提寺への寄進を、兄(弟?)の氏康殿へ「うち嘆いて」頼んでいますしねえ。

全然、逆ですな。妄想です。分かりまへん。


▲ 六郎さんの菩提寺「正覚院」

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~修禅寺の奥の院「正覚院」。創建は古く、弘法大師が修行したと伝わっている。写真の石段を登ると岩の洞があり、弘法大師像と「降魔壇」という修行石がある。~


上に書いた、大方が氏康に再興のための寄進を懇願したという六郎さんの菩提寺「正覚院」についての疑問です。修禅寺奥の院の「正覚院」は、修禅寺のことを調べていてたまたま見つけました。

その頃は、正覚院は六郎さんの菩提寺ということが頭にありましたし、中伊豆は山木大方が出戻ってから晩年まで暮らした土地です。なんの疑問もなく単純に、「お!ここが六郎さんの菩提寺正覚院か~」と思い、お参りにも行きました。


ところが、上記の『戦国北条家一族事典』には「正覚院は早雲寺にあった」と書いてあるのです。

皆さんご承知のように、早雲寺というお寺は、当主とその正室、直系の息子などの菩提寺です。他家の六郎さん程度(←失礼だ)の菩提寺を早雲寺に建てられるのでしょうか。六郎さんの菩提寺を早雲寺に建てたら、他にも我も我もと早雲寺に建てたがる人達が出てきてしまうのではないでしょうか。

それとも、大方が氏康に懇願してたから、六郎さんだけは例外として許されたのでしょうか?


また、大方が入寺をお願いした「めいざんまいる」の明山隣察は修禅寺の僧です。

私なりに早雲寺を調べても「正覚院」のことは見つからず、とはいえ、修禅寺正覚院にも六郎さんの記録は見つけられません。

未亡人山木大方が暮らした所領は修善寺(修善寺は土地名、修禅寺はお寺名)エリア。明山は修禅寺の僧、同じ名前の「正覚院」は修禅寺の奥の院。早雲寺ではなく、こちらではないのでしょうかねえ。2ヶ所お墓がある場合もありますが…。


だって、そうそう簡単に遠出は出来ない当時の女人。大切に想っていた夫君のお墓を、格式はあれど離れた箱根よりは、いつでもお参りできる近くにおきたくないですか?現代の女性陣の方々。

しかも修禅寺ですよ。宗瑞の葬儀もした。申し分ありません。


違いますかねえ…。違っていたらゴメンナチャイ。

どなた様か、当時の文書に「早雲寺の正覚院」 または 「修善寺の正覚院と堀越六郎」のことが載っているのをご存知でしたら、教えてくださるとありがたいです。もちろん現代語訳付きで。テヘヘ


ほにゃ、今宵はこれまでにいたしとうございます。

北条五代の娘たちを書きはじめてから、調べることや訪ねる場所が多くブログの更新が間遠になっております。でも楽しく頑張って書いているので、今年もご贔屓の程よろしゅうおん願い上げたてまつりまする~。

チョーン!(←きのねの音)


以下、山木大方&娘の香沼姫のアーカイブと、シリーズ「北条五代の娘たち」の記事にてござ候。


アーカイブ~山木大方のこと(今回と同じ写真が多くて恐縮です)

「小田原北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html
「前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-475a.html
「後北条の姫も妬んだ常盤姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-64d0.html


アーカイブ~お嬢さん(つまり氏綱様の孫)の香沼姫のこと

「小田原北条の謎の女人 「香沼姫」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-4e66.html
「小田原城「御前曲輪」で妄想す~香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-7998.html
「北条の香沼姫と「香沼姫どん」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-58ba.html
「レジェンド・オブ・香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-bb1a.html


以下は、まだまだ途中の、シリーズ「北条五代の娘たち」です。

▲初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」

http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

▲二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html
「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html

「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html

▲三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html
「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html
「今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-88b5.html

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2018年12月25日 (火)

小田原北条▲講演会三昧(2018.12/2019.1)

マリコ・ポーロ


小田原陣図の秀次陣の件でコメントくださった方、ご返信させていただいたのですがアドレスが違うということで送信できませんでした。コメントありがとうございます。)


さて、
今に始まったことではありませんが、特にこのところ小田原北条に関する講演会が目白押し。それぞれが魅力的なので時間とパワーと財力(特に交通費)が許す限りは参加しておりますが、ひとつの講演会に行って、それをまとめきれないうちにまた次の講演会。なかなか随時アップできないでおります。以下にチビットづつのまとめの備忘。


また、まだまだ続く、これからの気になる講演会は文末に。


「武蔵大石氏と滝山城~関東の戦乱と大石氏の戦国領主化~」
講師:加藤哲(八王子市文化財保護審議会副会長)

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当ブログでも度々お名前を出させていただいておりますが、今、八王子の北条・氏照研究者としては第一人者の加藤哲氏。氏は市史の編纂にも携わってらっしゃいます。

その加藤先生が大石氏について講演をされました。毎度レジュメは冊子のように充実。


講演は鎌倉府の成立から始まります。そうか~、大石を知るにはそこからいかねばならぬのか~。

そして話は、永享の乱→享徳の乱→景春の乱、鎌倉幕府体制の崩壊、戦国領主としての大石氏の発展、大石氏の系統、そして長井氏の滅亡→小宮領の編入→由井領の形成、由井城のこと…等々々、もうビッチリ盛りだくさん。とっても面白くて、メモも取らず聞き入ってしまいました。


しかし、大石さんと享徳の乱前後と由井城は拙者ニガゆえ(全部やん)、また、大石や由井城については諸説あり、間違い勘違いがあると申し訳ないゆえここに御講演の内容を詳しく書くのはやめときまする。

ちょっと驚いたのは、元々の大石の本拠地は 所沢~柳瀬川流域 だということ。八王子だとばかり思っていました。え?そんなの皆さんご承知?だからワテよく知らないってばさってばさ。峰岸先生の講演でも何度も伺っているのに申し訳ないことでございます。


しかし、それで ピン  ときました。

以前、柏の城と浄牧院と滝の城に伝わる、我が北条氏照にまつわる女のことを、第2の女だ第3の女だとブログに書きました。およそ女人に興味がなさそうな我が氏照に女の影が何人もあるのが腑に落ちませんでした。それも、その女達の影は柳瀬川流域に広がっている。

彼女たちって別人ではなく、全て正室であった大石の娘比佐さんのことなのでしょう。お墓が複数あるというささやかな疑問は残りますが、当時は2つ3つお墓や供養塔があるのは不思議ではありません。


「戦国の商業と北条氏照」
講師:徳永裕之(早稲田大学教育総合研究所外部研究員)

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徳永氏も、同じく八王子市史編纂委員です。

つい先日、小田原で小野先生の戦国時代の北条の城下町についての講演を拝聴したばからでしたので、興味の真っただ中での徳永氏の講演となりました。


氏照の城下町形成と商業政策という、史料が少ない中でも、浄福寺、滝山、栗橋、そして八王子…と、城下町整備を連続してとらえることで興味深い話をたくさん伺えました。栗橋ときましたよ。栗橋のことは失念しておりましたが、もしかしたら、たぶん、氏照は八王子より栗橋方面にいた方が長かったかもしれませんものね。

城下町といっても戦国時代でいうところの城下町は、江戸時代の城下町とは違う機能の城下町だということも良く分かりました。2時間たっぷりでした。


また、城下町だけではなく、関戸宿・当麻宿などの、宿の、「問屋」「問丸」や、氏照入部以前の八王子の商業形態についても、文書を元に解説がありました。たくさんの研究者の方の講演を拝聴しておりますが、こたびは初めて聞く話が多かったです。


「北条氏康の子供たち」
講師:浅倉直美氏

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本拠地小田原の天守閣の映像をはじめとして、よく最後の華々しく滅びてゆくところが強調されるが、それは最後のたった数年のことで、その領国は武田・上杉の比ではない。ここのところを小田原の人はしっかりと覚えておいてほしい。

by 浅倉先生(僭越ながら要約)


一昨年発売された、『北条氏康の子供たち』の、早川殿・氏規・氏邦・新九郎(早世した氏康長男)についての内容に即した内容でした。

本では浅倉氏ではない研究者の方が書かれた項目もあったので、浅倉先生はどうお考えなのか、超最新の研究はどうなのか等々再確認したいこともあったので、とても興味深かったです。


ほかに以下…

▲ 馬の博物館に出ていた例の謎の北条少年像(文末に添付)についての、浅倉氏の素敵な仮説

肖像画の時代は、様々な検証から戦国期(ほぼ永禄期)で合っている。当時の誰かが描かせたと思われる。それは、瑞渓院ではないか。

氏康の肖像は、氏康死去後すぐに描かれたもの。その時は、ちょうど長男新九郎の17回忌にあたる。瑞渓院が、夫の肖像を元に早世した息子の肖像も描かせたのではないだろうか…。

肖像はたいがい年をとってから描かせるもので、若い人の肖像は少ない。あっても、もっと勇ましいもので、こういう悲しげな表情のものは無い、と。


新九郎くん(氏親?)については、本当に史料がないですよね。お墓も早雲寺でしたが、秀吉に焼かれてしまったから現存していません。残念です。

時々考えることがあります。

はたして生きて当主になっていたら、今の(今のか?)最強バディ氏政・氏照ペアはどうなっていただろうか…。代わって、新九郎(氏親?)・氏政ペアになっていたのだろうか…。それとも、新九郎・政・照の超強力トリオを形成したのだろうか…。だったら、当主の新九郎くんは秀吉の元へ出仕しただろうか。


考えてもせん無いことでありますが…。


▲ 寿桂尼の印判「帰」について。

今川に嫁ぐ時に父親が持たせたもので、「とつぐ」と読む…と言われているが、違うと思うとのこと。


やっぱりそうですか。「とつぐ」は妙だな~と、皆さん思っていましたよね~。来年は「今川義元生誕500年」で様々なイベントや刊行物が出るので、「帰」についてはそこで近々書かかれるそうです。 楽しみ!早く読みたいです。


これからの気になる講演会・企画展たくさん!

▲ 企画展「越山―上杉謙信侵攻と関東の城―」
嵐山史跡の博物館にて、2月17日(日)まで。

小和田先生の講演の締切もまだですよん。

HP→http://www.ranzan-shiseki.spec.ed.jp/?page_id=355


▲ シンポジウム
『武田信玄襲来!!-三国同盟崩壊と韮山城をめぐる攻防-』

謙信君の越山ときたら、信玄殿の侵攻ですな。見よ!この「ゴジラ」みたいなスペクタクルなタイトルを!


日時:2019年2月9日(土) 13:00~16:30
会場:韮山文化センター(韮山時代劇場) 

(講演)
・「群雄激突!永禄12年の世界」竹井英文
・「信玄襲来に備えた北条氏の城-東駿河・北伊豆を中心に」望月保宏(静岡古城研究会)

(シンポジウム)
司会: 齋藤慎一
パネラー:竹井英文 望月保宏 萩原さちこ(城郭ライター)

申し込み不要先着順、参加費無料(資料集300円程度)

伊豆の国市のHPで見当たらなかったので、シンポジウムのパネラー萩原さちこさんのHPをリンクさせていただきます。今年の夏に江戸川図書館での城講座に参加したのですが、とても話が分かり易く面白かったですよ。

シンポジウムのページ
https://46meg.com/blog/2018/12/13/%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%83%9d%e3%82%b8%e3%82%a6%e3%83%a0%e3%80%8c%e6%ad%a6%e7%94%b0%e4%bf%a1%e7%8e%84%e8%a5%b2%e6%9d%a5%ef%bc%81%ef%bc%81%ef%bc%8d%e4%b8%89%e5%9b%bd%e5%90%8c%e7%9b%9f%e5%b4%a9%e5%a3%8a/


▲ キャンパス小田原「郷土史から見た日本の歴史Ⅵ」
~早雲庵宗瑞のすべて~

講師:おだわらではお馴染みの石井啓文
日程: 1/24、2/21、3/21

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キャンパス小田原のHP(PDF)
https://www.campusodawara.jp/global-data/20181214095929775.pdf

3回連続ですが、1回参加もできます。


北条とは関係ないですがこちらも気になる

▲ 新春お城びより
講演「江戸と江戸城の移りかわり」


3回目となる東京国際フォーラム開館記念事業「J-CULTURE FEST」は、お正月に様々なイベントが催されています。「新春お城びより」では、道灌びいきの会でお世話になっている太田氏の講演もあります。

ちょうど2日と3日に放映される公共放送のお正月ドラマは「家康江戸を建てる」。面白そうで楽しみではありますが、家康以前の江戸はなんもなくて酷い有様だった…みたいなことになるでしょう。太田さん、そんなことはないと是非お話しくだされませ。


日時:2019年1月6日(日) 14:00~16:00
講師:太田資暁(太田道灌第18代子孫)、堀口茉純(お江戸歴史作家)

要申し込みです。HP→https://j-cf.jp/2019/oshiro/


▲ シンポジウム「中世都市鎌倉と武蔵」
主催…河越館の会・中世を歩く会

日時:2019年1月26日(土)
会場:埼玉県川越市やまぶき会館ホール

(内容)
・「鎌倉の武家屋敷と河越館」
高橋慎一朗(東京大学)
・「鎌倉時代の武蔵武士と交流-河越氏を中心として」
落合義明(大東文化大学)

・「鎌倉時代の中世瓦から探る地域の繋がり -武蔵国を中心とするモノの流通・ヒトの交流の一様相-」
石川安司(ときがわ町教育委員会)
・「東西の王権とかわらけ」
田中信(川越市立博物館)
・「社会史研究をめぐって」
酒井紀美(元茨城大学・川越市文化財保護審議会委員)

・パネルディスカッション 
コーディネーター:
宮瀧交二(大東文化大学)
浅野晴樹(國學院大學)

入場無料、資料代は1000円。
河越館の会HP→http://kawagoeyakata.blogspot.com/2018/11/blog-post_9.html


オマケの「お城EXPO」

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小田原のブースで人生初のガチャ。大当たり~~カランカランカラン。大ウケ。大当たりは天守閣の入場券付きでした。小田原に行った時にはこのバッジをつけて歩きます。え、マジで?


萩真尼ことマリコ・ポーロ


「「柏の城」 北条氏照、第3の内室の最後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/ewi.html

『北条氏康の子供たち』のこと→「一枚岩じゃなかった、北条氏康の子供たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-9391.html
謎の北条少年像のこと→「「馬をめでる武将たち展」 馬の博物館(2017年)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-3b49.html

「シンポジウム「戦国都市小田原の風景」 2018.11」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/201811-ac41.html

「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-29ad.html
「花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-9c3d.html

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2018年12月 2日 (日)

寄席 というのはよろしいもんでござんすな

マリコ・ポーロ

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~新宿末廣亭~


自他ともに認める 超ミーハー のため、今放映中の『昭和元禄落語心中』にハマっておりやす。

原作のマンガを読みたい読みたいと思っていましたが、読めないでいるうちに去年アニメ版が始まってしまいました。原作はいまだ読めずじまいですが、ハマッタのはそこからです。


アニメ版は内容もさることながら声優さん達の落語が楽しくて、見ているうちに、寄席へ行ってみたい行ってみたいと思うようになりました。思いましたが、思いながらも行けないでいるうちに、とうとう実写版が始まってしまいました!

これを実写?俳優さんが演るのですよね、落語も。そりゃあ無理ってもんでしょう。と思いましたが、見始めてみれば我が身はドップリ落語心中ワールドに。


落語は元々興味があり、テレビやラジオやYouTube で見たり聞いたり。ホールで催される独演会とか二人会などは行ったことがあったのですが寄席は行ったことがありませんでした。

ぐずぐずしていたら、ミーハーゆえにあっという間に熱は冷め、生涯寄席に行くチャンスはなくなってしまう。


てなことで、どうせ行くなら「落語心中」ワールドに最も近そうな雰囲気の、桟敷席がある新宿末廣亭にしようということになりました。


勝手が分からないので、行く前に少しだけネットでチェック。

・へぇ~、切符は事前には買えず、その日その時に買うのですか。

・ほぉ~、席はどこでも(桟敷も)同じ料金で、一日中いられるんですね。

・しょえ~。飲食は自由だが、お酒はアカン。がっがり。チョイト呑みながら 落語を聞くってのもオツだと思ったんでやんすがねえ、旦那方&おかみさん方。

・舞台で噺をしている最中に出入りはしないでほしい。←これは寄席でなくても当たり前。アタリマエダのクラッカー。

・ふ~ん、落語協会と落語芸術協会とで、寄席でかかる席は順繰りになっているのか。


そして、これが一番大事なマナーらしい。それは…

笑うこと!

なるへそね~と最低限の情報を入手し、いざ参るとするか!


ツウではないので後半だけにしようと、お昼を食べてから到着。小さな窓口で切符を買い中に入ります。そこからどうしたらいいのだろう、ドキドキ。

なーんて心配ご無用! ハッピを着たお姉さんがすぐに来てくれ、入口から空いている席へと案内してくださいます。


「椅子席は満席なので、桟敷になりますがよろしいですか?」

よろしいもなにも、なんてラッキー!桟敷席ですよ!


わーい
さ・じ・き!素敵!

と喜んでいられるのは最初だけ。桟敷は畳ですから、だんだん足が痛くなるのなんのって。でもね、初めてだから、足の痛さよりは雰囲気が勝り我慢できやした。旦那方はいいですよ、胡坐かけますからねえ。いくらオバでも女の人は胡坐はいけませんや。


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~桟敷へは、裏側へ廻り、この引戸を開けて上がる。場内は撮影禁止なので、ここだけ。~


「こちらへ(上の写真)どうぞ」 by お姉さん

「素敵~」 by マリコ・ポーロ

「お履物を脱いでここへ入れて、お好きなところへお座りください」 by お姉さん

「素敵~」 by マリコ・ポーロ


引戸を開けてくださったお姉さん。畳敷に白い座布団がたくさん置いてあり、舞台はすぐそこ。
「素敵~」 by マリコ・ポーロ

ミーハー丸出しのマリコ・ポーロに、お姉さん(苦笑)


いや、だってね、本当に素敵なんですよ。行かれたことがない方、ぜひ末廣亭さんのHPで場内を見てみてくださいましよ。タイムトリップしたみたいですよ。


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~パンフレット~


当ブログを読んでくださる旦那方・おかみさん方はご存知と思いますが、寄席は落語だけをするところではありません。落語が一番多いですが、漫才、講談、ギター漫談、奇術、神楽、紙切り、などなどの演芸がおこなわれます。

「奇術」なんて言葉は今使われませんよねえ。実際、翌日、仕事場の30代の子に「奇術って分かる?」と聞いたら、「キジュツ?何ですかそれ?」と言われましたもん。今は「マジック」と言いますか?いや、もはや「パフォーマンス」かな。


この日の演目にはありませんでしたが、江戸時代の時代劇なんて観ると、水芸なんてえのもありますよね。

「粋曲」として、粋でチョイト怖そうな?キリッとした姉さんが、都都逸とか端唄とか小唄を演奏してくれました。


落語もたくさん聞きました。よく知らないのですが、寄席では古典はやらないのですか?今度は古典を聞いてみたいな~。

舞台も舞台裏も近いので、噺を終えて舞台を下がった落語家さんが次の番の落語家さんへ、「お先に勉強させていただきました」って言うのが聞こえないかと耳をすませましたが、聞こえるわきゃないですよね~


というところで、うぅ、足痛~い。もう限界の玄界灘。今度は、椅子席にしますわ。

はい、お後がよろしいようで。
m(__)m


落語「名月若松城」のこと「中秋の名月は満月ではない」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-e946.html

「新歌舞伎座「こけらおとし」に行ってめぇりやした」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-6d5c.html
「坂東三津五郎さん」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/bs-e50f.html
「団十郎と、宮尾登美子の「きのね」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/11-6da8.html

「あぶらとり紙は金箔屋がつくる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-2dd5.html

「塗師屋のおやじ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-4533.html
「金を蒔く蒔絵、金を沈める沈金」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-6611.html
「漆の上塗りは水をかぶって裸で!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-0474.html
「木地師 山中の虎」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-f10e.html
「続・木地師「山中の虎」と「近江小椋谷」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-273f.html
「漆の木♪人生ぃ~20ねん~♪」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/20-5efc.html


萩真尼ことマリコ・ポーロ

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2018年11月20日 (火)

シンポジウム「戦国都市小田原の風景」 2018.11

マリコ・ポーロ


その前に…

恒例となったクリスマス行事?「お城EXPO」が 12/22~24 に開催されます。北条関係では以下のプログラムがあります。

・23日15:00~16:00 
 佐々木健策・諏訪間順 両氏によるセミナー
 「小田原北条の城を語る」
・24日13:00~14:30 
 諏訪間順、平山優 両氏による厳選プログラム
 「戦国大名の生き残り戦略ー小田原北条氏と武田氏の城から考えるー」

今までで一番面白そう。行けないですが…


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~12月24日まで~


▲鎌倉での玉縄北条の講演会 ▲氏綱の八幡宮再建(氏綱奉納の太刀&氏康建立の大鳥居跡)に続けて、▲玉縄北条綱成に嫁いだ氏綱の娘大頂院のことを書き、「鎌倉トリロジー三つ鱗」にしようと目論んでおりました。しかし、先日の小田原での講演会がとても面白かったので、忘れないうちに自分の備忘も兼ねてそちらの方を先に。


「北条早雲公顕彰五百年事業」たけなわ?の今日この頃。サル11月10日、小田原城天守閣特別展「小田原開府五百年~北条氏綱から続くあゆみ~」の関連行事として催されたシンポジウム「戦国都市小田原の風景」を拝聴しました。


午前中は、特別展を観に天守閣へ

企画展にしてもドラマにしても、早雲こと宗瑞や氏康、または天正18年の氏政さんをメインに据えることが多いですが、さすが本城小田原。こたびの五百年事業では我ら北条ファンがもっともリスペクトする二代北条氏綱公をメインにしてくれています。嬉しいねえ。

(注) 目玉の氏綱公の鞍は3階に展示されています。回廊になっているところではありもはん。


午後は本題のシンポジウムへ

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~アサクラってる表紙。小田原市内の遺跡分布図も折り込みでたくさん付いて論文集のような内容。~


シンポジウム前半の特別講演は、小野正敏先生。その後は、小田原の発掘現場ではお馴染みの土屋氏(小田原市)・太田氏&小山氏(玉川文化財研究所)により、度々見学会も行われた発掘調査の興味深い事例報告3件が続きました。

ここ数年小田原の町をウロチョロしていると、あちらこちらで発掘調査をしている光景に出くわしますよね。これらの城下町の発掘調査は、小田原が当初から山の下にも政治の中心があったことの証明にもなってきています。


さて、小野先生の講演のテーマは、「小田原と東国の戦国城下町」。今年1月の同じく小田原での講演「戦国大名と京都-小田原北条氏にみる権威の演出」と同様、KK(客観的辛口)で、とても面白かったです。

下記、知らなかったこと(私が)やビビッときたことを備忘。


お話は、
・領国の首都としての小田原
・他国から小田原はどう見られていたのか
・小田原を首都というなら他はどうなのか
・小田原は首都といえるか
・守護大名と違う小田原北条の町づくり

などなどの視点から進みました。


「開府」について

上にも書きましたが、今年から来年にかけて小田原は「小田原開府五百年~北条氏綱から続くあゆみ~」と銘打ち様々な顕彰やイベントを行っています。

思っていたんですよね~実は。小田原は幕府を開いていたわけでもないし、府中でもなのに、「開府」といえるのかな…?って。それが、払拭されました。

書いてあったのですね!「府中」と。東嶺智旺の書状に。「到 府中 小田原…」。他国からも中央からも、府中と認められていたのですわ。すっかり忘れていました(覚えてないとも言える )。大変、失礼いたしました。


毛利家文庫の「小田原陣仕寄陣取図」

絵のほかに、細かく漢字や仮名文字で色々と書き込んでありますよね。すでに皆さんは解読してらっしゃると存じますが、私には意味が分からない箇所がたくさんあります。それがいくつか判明しました。


・「町中此内下京ほとあるべく候」=京都の下京ほど家々がある

下京って、京都の下京のことだったのですか。←今更(恥)


・「此内家かすしらす候」=家の数がどれほどたくさん~

カスシラス?籠城食として家々が、カスのシラスを干していたのかと思ってた…ってこともないですが、なんじゃこりゃ?でしたわ。


・「小田原市場」=小田原宿

西国では「宿」のことを「市場」と呼ぶのだそうですね。小田原城下町マルシェ が開かれているのかと思っていました。陣図は西国の毛利が作成したものです。なるへそ~ね。


「総構」は小田原が初めてではない

(信長の焼き討ち後の)元亀4年の信長の書状に、「総構は下京にならうべきこと」とあるんですって?すでに「総構」と呼ばれていたんですね(1983高橋氏)。

ご存知と思いますが、北条は自ら「総構」と呼んだことはありません。スケールの大きさは違えど、京都では早くからあったから、西国人は小田原を見た時に総構と呼んだのですね。スケースの大きさは違えどね。


グリッド(方形地割り)の町

佐々木健策氏のご研究に、小田原はグリッド状の町並が形成されていたとあります。それは今回報告された城下町の発掘事例からも可能性が益々高まりました。


武田館の城下町形成などを例として、下剋上の小田原は、京や名門の守護大名が造るグリッド状の町に憧れた、と小野先生。

そうかもしれない…と思いながらも、政権が安定したら造る町並みは方形にするのが一般的ではないかしらねえとも思いました。でもまあ、北条家もそのようにしたかったのかもしれないかもしれなかったのでしょうな。


もちろん、その後の小田原北条は何代も続き関東の名門となります。黒田基樹氏がおっしゃるように、他の守護大名のほとんどは一代で終わりましたが。

と、ちょっと言いたいマリコ・ポーロ。


鉢形城下と滝山城下

つまり、城下町を先の領主から受け継ぐ場合と、新たに造る場合の差について。


信仰する薬師如来を、城下の8ヶ所(9ヶ所)の境界に置いた氏邦。それは鉢形のランドマークともなる。一方、氏照は街道に沿った3口をそれとしただけ(信玄侵攻時、3口を守れとの文書から)。新たに城を造ると「この程度」しか出来ないと。

滝山城下の場合は平地が広がっておらず、川と山に挟まれたところに街道があるので立地の問題があるとは思います。というか、滝山も先時代から受け継いだ城下町ではなかったでしったっけか?


余談ですが、氏邦の薬師如来信仰については、今年1月の小田原でのシンポジウム「小田原北条氏の絆」で関東管領?浅野晴樹先生が朝倉直美氏の研究を紹介しお話しされていました。

氏邦の生年が十二神将の申神像(薬師)のことから判明し、氏邦が氏規より年下だという林宏一氏のあの報告のことです。浅倉氏は、『北条氏康の子供たち』でもお書きになっていましたね。


他国と比べての小田原のインフラ整備の速さ(例えば小田原用水)

他国と比べても小田原北条のシステマティックな町づくりは、とても早い!それだけ早く大都市化していったと言えると、お褒めの言葉をいただきました~。

よしっ ←?


そして、私のある疑問も解決、かいけつゾロ!

それは、今川氏真一行の早川の難民キャンプのこと

以前ブログで氏真とその室(氏康娘)の早川殿のことに触れた時、「早川は北条の重鎮中の重鎮の幻庵の所領。幻庵は、出戻った女人や避難してきた武家の後見をしていたから、氏真一行を早川に置いたのだろう…」みたいに書きました。

一応書いてはみたものの、城内に置いてもいいのにな~と、もひとつ腑に落ちないでいました。


「城下」とは家臣が住むところなんですってね。目上や対等の者の屋敷は城下には置かないものだそうですね。あ、皆様ご存知で…。だから、今川の御当主一行を城下に住まわせるわけにいかなかったのですねえ。

これは佐々木健策氏の書かれたものにあるそうですが、知りませんでしたよぉ。なーるへそ~。目からミツウロコ。







あれ?では小笠原さんは?小笠原さんはもう客分ではなく家臣ってことで、城下住まいでいいのかにゃ?

というところで、マリコ・ポーロ時間がなくなり後半のシンポジウムを前にしてあえなく撤退。シンポジウムは30分強位の時間だったと思うのですが、どんな話が出たのかな~。残念。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

天守閣特別展「小田原開府五百年~北条氏綱から続くあゆみ~」HP→https://odawaracastle.com/news/kaifu500.html

「シンポジウム「小田原北条氏の絆」 2018.1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-4e55.html
「小田原攻め、松平文庫の「小田原陣図」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-2808.html


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2018年11月 7日 (水)

氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」

マリコ・ポーロ


その熱気はどれ程のものだっただろう。

鳴り響く木槌や大鋸を挽く音、町中に飛び交う威勢のいい掛け声、牛馬のいななき。海から次々と運ばれてくる資材。七口を通り続々とやってくる人々…。

枯るる樹に
また花の木を 
植ゑそえて
もとの都に
なしてこそみめ

by 北条早雲こと伊勢宗瑞


「枯るる樹」は衰弱した武家政権=鎌倉といわれている。

父宗瑞の決意を受け継ぎ、鶴岡八幡宮の再建を悲願とした二代氏綱。氏綱晩年の約10年は八幡宮再建に費やされる。そして氏綱の悲願は三代氏康に受け継がれた。


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~氏康が完成させた大鳥居の跡碑(拡大して読める?ガードレールで正面から撮れぬ。)大鳥居建設の年については、マリコ・ポーロ的に少々疑問あり。~


こうして先代の意志を次代が着実に受け継いでいくというところも、北条五代の魅力のひとつ。


さて、
鶴岡八幡宮再興の大旦那である北条氏綱の命により、真里谷の協力の元、八幡宮の大鳥居となるべく2本の巨木が上総峯上から海を渡ってきました。しかし、その造営費用である相模・伊豆から徴収された棟別銭は、担当した僧侶が着服し 大鳥居造営は頓挫。ドびっくり~。

その後、氏康が父の悲願を受け継ぎようやく大鳥居は完成。その大鳥居の跡が残っているとは知りませんでした。


大鳥居がどのあたりにあるのか分からなかったのですが、当時はそこまで段葛が続いていたようなことも聞いていたので、「下馬」のあたりかと思い、海に向かってトコトコ歩きました。

ありました、ありました!
下馬からちょいと先、徳川さんが造った今の一の鳥居より少し八幡宮寄りにありました!当時はこのあたりまで海だったのですね。


碑と跡(丸く平たい石が重なったようなの)は、八幡宮から海に向かって右側。反対側の跡は、点字ブロッグの下に丸く示されていました。

ここに建っていたのですねえ


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~八幡宮を背に右側。~


大鳥居のための巨大な古木は、太さ約6m。長さは約 20m。

上総峯上から → 川を下り佐貫浦へ → 海を渡り → 三崎に着き → 小坪へ回航 → 由比ヶ浜へ数千人で運びましたそうな。峯上から海まで川を下らせるのも大変な作業ですが、幸か不幸かなんと洪水が起き(不幸だ)、下流まで押し流してくれたそうな。


小坪から由比ヶ浜への曳き上げは八幡宮造営のメインイベントとなり、人々の興奮は絶頂に達したことでしょう。


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~八幡宮を背に左側~


八幡宮の再建は、小田原北条氏が関東の武家の頂点であることを万人、特に関東の敵方に認めさせるための巨大プロジェクトでした。

皆様ご存知のことですが、八幡宮の神主や小別当を遣わし、坂東から伊豆あたりの武家から勧進という名目で寄付を徴収しています。これは、北条につくかどうかのリトマス試験紙でもあったのですよねえ。


対武家だけではありません。我らが氏綱公はしたたかです。鎌倉の住民感情をよく把握しています。今でも鎌倉の方達って地元意識が高く難しいでしょ(ゴメンナチャイ。ゴニョゴニョのニョ。鎌倉大好きよ チュッ)。

氏綱は、寺社はもちろんのこと、町衆巻き込み作戦も展開。伊東一美氏も書いてらっしゃいます。鎌倉は、武家の都市鎌倉ではなく、「寺社と町衆の都市鎌倉」だと。

あ!だから「武家の鎌倉」を訴求した世界遺産認定はダメだったのか。いや、ちゃうちゃう ゴニョゴニョのニョ。


氏綱は現場にしょっちゅう現われ、アチコチに顔を出します。アピールですね。時には、自ら西 門の柱を塗ったりもします(嗚呼、その塗ったところが今でも残っていればね~)。時には、由比ヶ浜で京都奉公の人達を連れて海人の方達と網引きをしたりもします。

本当に精力的ですねえ。なんだか秀吉を思い出しちゃった。あれ?


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~在りし日の大銀杏~


仮殿の上棟式の頃になると、氏綱の鎌倉での地位は絶大となります。

町衆たちも勧進をし、仮殿の礎石が少ないとなった日にゃあ、時宗たちが夜通しで石を集めて敷いてしまったとか。ドびっくり~。


やっぱりにゃ…と思ったのは、氏綱が後室の近衛家を通して呼び寄せた奈良興福寺の番匠たちと鎌倉・伊豆番匠たちとの間で様々なトラブルが起こり、蓄電者まで出たということです。

人の世の常。そりゃあるでしょうが、中央からも人を出させたことに、ドびっくり~。坂東の人々に、北条(伊勢)の八幡宮再興には都も協力していると思わせるだけでも十分な効果がありますよね~。


天文9年。鶴岡八幡宮正遷宮の儀式が華やかに行われます。翌年、大事業を成し遂げ次世代にその後を任せた氏綱は此の世を去ります。


氏綱が亡くなった後も建設はまだまだ続いているのですが、ここまで八幡宮造営について詳細に書き残していた鶴岡の社僧快元の記録『快元僧都記』もそのあたりで途絶えているそうです。

造営の大旦那である氏綱のことを書くのですから少しは話を盛っていることもあると思いますが、それを引いても快元の氏綱へ寄せるリスペクトには深いものがあったのですね。


大鳥居跡に立ち、目を閉じる。
過ぎゆくは海からの風。
再建時のあの喧騒が聞こえてくるようだ。



(以上は、大鳥居跡で当時にタイムトリップし見聞したことを元に書きました。

うそ。『快元僧都記(もちろん口語訳)』、八王子衆の先輩歴友にいただいた山室恭子氏『群雄創世記 1995.3』、先日のブログ記事の玉縄セミナーでの伊東一美氏が書かれたものを参考に書きました。)


萩真尼 こと マリコ・ポーロ


「北条氏綱が鶴岡八幡宮へ奉納した太刀」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-6e31.html
氏綱の鞍 「ススメ!小田原北条氏展」 馬の博物館」
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「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
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「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
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「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
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「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
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「里見へ走った公方の姫」
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2018年10月29日 (月)

北条氏綱が鶴岡八幡宮へ奉納した「太刀」

マリコ・ポーロ

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~鎌倉文学館「鎌倉時代を読む」やってます~


氏綱の太刀

先に当ブログでもお知らせしましたが、ただ今、鎌倉国宝館の開館90周年記念特別展 「鎌倉国宝館1937‐1945」-戦時下の博物館と守り抜かれた名宝-展に、我らが 北条氏綱が鶴岡八幡宮に奉納した太刀  が出ています!


八幡宮の宝物館が所蔵している太刀ですが、宝物館にはなかなか展示されません。今回初めて観ることが出来ました。

奉納太刀は3口。展示は前期が2口、後期が1口 です。拵も現存。


それぞれに「奉納八幡宮御宝殿 北条左京大夫平氏綱 天文七戊戌年八月二日 所願成就 皆命満足」&「相州住綱廣作」「綱家作」「康國作」と記されています。

八幡宮のHPを読めば分かることではあったのですが、ちゃんと読んでいなかったので今まで勘違いしておりました。太刀は、天文9年の八幡宮正殿完成時に奉納されたものだと思っていました。天文7年8月といえば、葛西をゲットし、10月にはいよいよ国府台 という頃です。戦勝祈願だったのですね。


太刀の長さは私の両手を広げた位。鞘は、同じく展示されていた吉宗奉納の鎌倉時代(とはなっていましたが、鞘はもっともっと後の江戸時代あたりに作り直されたみたいな?←不明) の梨地・菊紋の鞘に比べると、グッとシンプル。以前、輪島塗屋にいたので、つい鞘を主体に観てしまう。拵も当時のまま「守り抜かれ」ていて嬉しいです。

波紋は、同行した居合道をたしなむ刀剣ファンの太平記友(←長い)が申すには、「吉宗奉納のと比べて派手」とのこと。


刀や太刀・鑓というものは、どうも武器というイメージが強く、特に実際に使われた気配を漂わせる刀や太刀は苦手なんです。角度によって鈍い照明に光ったりすると寒くなっちゃうの。でも、奉納するために造られた刀なら大丈夫。マジマジマジマジと鑑賞させていただきました。

12月2日(日)まで。国宝館HP→https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/28tennjikai.html


鎌倉文学館「鎌倉時代を読む 古典から現代作品まで」

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~庭でお弁当が広げられる文学館。おやつのハロウィンドーナツとのツーショット。トンビを警戒しながらの緊迫感ある?ランチタイム!~


太平記友の誘いで、国宝館の前に扇谷の文学館へ寄りました。

鎌倉時代の著作関係がただ並んでいるのではなく、頼朝時代~執権時代~前北条の最後までの、およそ150年が時系列で解説され、それぞれの時代の前に、その時代を書いた新旧の著作が展示されていました。


とっても面白く、鎌倉炎上にドップリ浸れましたよ。オススメいたす。

12月9日(日)まで。文学館HP→http://kamakurabungaku.com/exhibition/index.html


歴史文化交流館では「出土漆器の美」を開催中ですね。「中世における漆器の生成享受の様態と、中世の人々の嗜好性について探っていきます。」だそうだす。観たいにゃ~。

12月15日(土)まで。文化交流館HP→https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/rekibun/shikki.html


鎌倉は、いつもアチコチ発掘調査中。ブラブラ歩いているだけで2ヶ所で遭遇しました。建て替えるおウチも大変ですねえ。

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小田原城天守閣特別展 「小田原開府五百年~北条氏綱から続くあゆみ~」

我らが北条氏綱の「鞍」が出ています。12月24日(クリスマスイブ)まで。HP→https://odawaracastle.com/news/kaifu500.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ


氏綱の鞍 「ススメ!小田原北条氏展」 馬の博物館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/at-e4d3.html

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-df71.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html
「里見へ走った公方の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82f7.html


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2018年10月 8日 (月)

小田原の古民家で「北条幻庵の一節切」を聴く

マリコ・ポーロ


明日の命さえ定かではない日々の中で、「戦国武将たちは、持って行き場のない気持ちを笛にたくしたのでは…」

と、一節切(ひとよぎり)奏者の大村響堂 氏。


母屋の広縁に続く座敷で、心地好く吹き抜ける秋の風を感じながら目を閉じて聴く「一節切」の音色。奏でるは幻庵殿。周りに座すは北条一門かと妄想に浸る。


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~「一節切」を奏でる大村氏(ご許可をいただき掲載)。後ろの書は、飯山家所蔵の山岡鉄舟。~


秋の日の昼下がり、キャンパスおだわら の「古民家で学ぶ下堀と北條幻庵」という素敵な講座に参加して参りました。


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~築100年の飯山家。かつては華道の先生で、大正時代、小田原鴨宮に駅を誘致した住民運動のリーダーだった方。~


この日の「一節切」は、大村氏が天守閣に寄託している本物の北条幻庵作の一節切(「なんでも鑑定団」に出たアレ) のレプリカです。本物に忠実に作っても、四百年前の本物の音色とは、そりゃあ違うそうです。

いつか聞いてみたいねえ。四百年前の、その音色。しかし、笛は残れど譜面がまったく残っていないので、曲も譜面も後から研究(&想像)して作られたものだそうです。


ご存知のように幻庵は一節切の名手でしたが、北条一門は皆、一節切を奏でることが出来たであろうとのこと。

本城に一門が集う時、また、それぞれの城で夜一人、御曹司たちは「持ってゆき場のない気持ちを笛にたくして」奏でたのでしょうか。


「一節切」については以前たくさん書いておりますので、その一部ですが、こちらをあわせて読んでくださると嬉しいです。→戦国武将が愛好した尺八 「一節切」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html


最後は皆でお稽古用を使って尺八の音出し体験。大村氏は尺八や一節切を教えてらっしゃるそうで、「小田原で、 幻庵を偲んで皆で一節切を奏でる会を開くのが夢」とのこと。


小田原鴨宮の下堀方形館

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~石井先生の画像~


前半は、小田原郷土史研究家の、お馴染みの石井啓文先生による下堀方形館と賀茂宮氏の話でした。下堀は、北条時代、北条幻庵やその内室の領地でした。

下堀に二重の掘に囲まれた方形館があるなんて知らなかったので とーっても興味深かったですし、また、葛山氏広についての新しい考察もちびっと伺えました。行って良かったです。

来年1月、キャンパスおだわら で、石井先生による幻庵についての3回連続講座があるそうですよ。


小田原、いつもありがとー。
う~~、現実に帰りたくない。浸り過ぎた~


「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
「北条五代の娘たち① 今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

北条幻庵の子息の菩提寺「三島 祐泉寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-200a.html
戦国武将が愛好した尺八 「一節切」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2018年9月18日 (火)

玉縄主催セミナー 「まだナゾだらけ戦国時代の鎌倉」

マリコ・ポーロ


その前に、朗報です  

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今、鎌倉国宝館にて「国宝 鶴岡八幡宮 古神宝」展が開かれていますね(パンフ)。我らが北条氏綱が八幡宮に奉納した相州綱広の太刀(重文)が出ることはないか伺ったところ、本企画では出ませんが…


次の企画展に、出るそうです
10月20日からの「開館90周年記念」に!

わーい\(^o^)/ 楽しみですね。3口とも出るのかしら?


(加筆:
観てきました!→「北条氏綱が鶴岡八幡宮へ奉納した太刀」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-6e31.html


さてさて本題でござる。

 

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鎌倉武家文化普及啓発事業として、玉縄城址まちづくり会議主催の歴史セミナー「戦国時代の鎌倉、その検証と発見」の三回目を拝聴しました。今回のテーマは、「まだナゾだらけ戦国時代の鎌倉」。


ほんとうにナゾだらけですよね~。

レジュメの表紙にも、玉縄城址まちづくり会議会長がこのようにお書きになっています。
「私たちは意外に鎌倉の歴史が分かっていない。それも頼朝三代以降の鎌倉から鎌倉の歴史が分からなくなるのではありませんか。なぜか?その一つは戦国時代の鎌倉の主人公だった後北条氏のことが伝えられてなかったからです。」


まさに~

 

鎌倉で神社仏閣の御由緒書や御縁起を読んでも、源氏三代 → 前の北条さん → 足利さんときて → 一気に徳川さんのこととなり、後の北条(小田原北条)に触れられていることはほとんど、いや、まず無いですものねえ。(それを言ったら鎌倉公方のこともあまり書かれていないか。)


肝心の鶴岡八幡宮の「御由緒」や「歴史」には、頼朝殿がお祀りしたことから → 一気に、江戸幕府が現在の社殿を造営したと書いていて、後北条の氏綱が再建したことなぞ、ひとっことも触れられていません。

 

どれだけハショルんや~!源氏以外は関係ないのか~っ!

 

と、知った風な口で嘆いておる私も、小田原北条に興味を持つまではまったく存じませんでした。鎌倉市にあんな大きな城跡があることも、それが小田原北条の城だということも、綱成という人も知らんかった…


では、セミナーでの記憶しているところだけ、以下に。

 

▲最初は古武道の演武

上泉伊勢守が、小田原北条の剣術指南だと紹介されていました。知りませんでした。ほんとですか?


上泉信綱は海道龍一朗氏の御本で読みました。小説の主人公としてとてもチャーミング武人で、いっときカブレましたが、史実ではよく分かっていない人なのだと思っていました。

▲まずは、我らが館長、諏訪間順氏
テーマ「小田原北条氏と小田原城」

 

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分かりやすかったです手(チョキ)。後の北条をよくご存知ない鎌倉の方達にも良かったのではと思いました。

 

冒頭、「皆さんは小田原北条をどう認識してらっしゃいますか?ちょっと、おバカっちょ?」

 

新陰流の演武で張りつめていた空気が和らぎました。これで、つかみはOKだべ。諏訪間さん、おバカっちょって…小田原弁で?

 

 

▲二番手は伊東潤氏
テーマ「伊勢宗瑞と小田原北条」

 

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伊東さんの考える宗瑞の長所短所などの分析。ご自身の著作の分析など。

 

レジュメには、
~(北条が最後を迎えた時) 天の宗瑞は、きっと、「これでいいのだ」と言っていた気がする。~
と。小説家さんですねえ。

 

 

▲シンポジウム
お馴染みの諸先生方、伊藤一美氏(歴史学者)、玉林美男氏(鎌倉市考古)、大竹正芳氏(城郭史学者)が参戦!

 

また、会場には宇都洋平(藤沢市郷土歴史課考古学者)氏や赤星直忠氏もいらっしゃっていました。


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(大竹氏)
ここでやっと玉縄城の話が出ました。主郭の周辺の話で、○○さんちの脇とか○○店の前とかとかに残る遺構や文献からの、地元通の話が細かく面白いです。


当ブログを読んでくださっている皆様はとうにご承知かと思いますが、宗瑞・氏時時代の防御拠点の中心だった二伝寺周辺の話に興味が湧きました。公園に残っている窪みが旧道だそうですね。

 

玉縄城というのは、典型的な戦国時代の山城であり、宗瑞・氏時時代、綱成時代、氏繁・氏勝時代、それぞれ違う姿をしていたと思われるとのこと。敵が当初と後半では変わっていますものね。


よく女学校が出来てしまい残念という声がありますが、女学校が出来て良かったのではないでしょうか。だって、学校がなければガンガン宅地開発されて、今頃は全ての遺構は個人のおうちの下に…ではなかったのかなあ。

 

 

(玉林氏)
戦国時代の鎌倉の話がやっと出ました。

 

鎌倉の主の長期鎌倉不在により、鎌倉府に集まっていた年貢や貢納物が、それぞれの武士の拠点(城)への集積へと変化していったというお話が面白かったです。そうか、そういう風に分析していくのかと勉強になりました。


それから、玉林氏は御用米曲輪を初めて見た時、 「あ、これは中国の庭園だ」と思われたそうです。敷石遺構は、 「グスクに似ている」と。

 

へえ~~
玄宗皇帝が楊貴妃のために造営した離宮の華清池みたいな感じですかね?そう言われると、すぐ、そうだ!と思ってしまうマリコ・ポーロ。


いや、つまり玉林氏がおっしゃるには、小田原北条はそれだけ海外と交流があり、また京都の出であることからも、先進的なものをどんどん取り入れていた…ということ。

 

オッホッホッ

 

 

中でも、玉林氏が触れた 荏柄要害についての話にビッ!としました。もっと聞きたいと思っていたら、伊東潤さんが質問してくださり、大竹氏が説明してくださいました。

 

これはとても興味深いお話です。荏柄の要害を発見したのは玉林氏ですが調査したのは大竹氏だそうですね。荏柄天の裏山には、台形状の削平地や堀などが残っているそうな(立入不可)。

 

荏柄天あたりはよくウロチョロしますが、知りませんでした。ミーハーだから、聞くとすぐまた行ってみたくなる マリコ・ポーロ。

 

 

(伊東一美氏)
本日ホストでらしたので発表はありませんでしたが、レジュメに鶴岡八幡宮再建について面白い話がたくさん書かれていました。

 

他にも以前八王子城の歴史師匠からいただいた資料もありますので、追々ブログで紹介させていただきたいと思います。


というか、「戦国時代の鎌倉」がテーマだから、こういう話をもっと聞きたかったです。八幡宮や、鎌倉公方や、里見との海戦や青岳尼の話も出るかと思っていましたが、時間が足りないか。


また、今日の玉縄の講演&シンポジウムで、小田原北条の城の、両側に側溝がある道路遺構の話が出ました。私なぞは「スゴイ!」と感激しちゃいますが、鎌倉時代のそれこそ凄い遺構が家々の下に嫌になるほどあると知っている鎌倉人の聴衆の方々がどう思ったかと考えると…ちょっとゴニョってね。


レジュメには各講師の方々の他にも、鎌倉の阿部能久氏や、会場にいらしていた宇都洋平氏が寄稿。玉林氏の玉縄北条の新年表と大竹氏作図の「玉縄城の総構図」などもあり、読みでがありました。帰りの電車で熟読してしまった。

 

とても楽しかったです。ありがとうございました。


 第6回 玉縄城主墓前祭

 

日時:2018年10月20日(土) 9時半~
場所:龍寳寺本堂


10月も毎年恒例のイベント行事が目白押しですが、ちょっと面白そうなものを3つ鱗。

 

▲ 「古民家で学ぶ下堀と北條幻庵」
日にち:10月3日(水)
場 所:小田原(鴨宮の古民家飯田家)

 

幻庵ゆかりの一節切の演奏と、下堀城ともいわれた幻庵の領地下堀についてのお話しを聞く催しです。

 

申し込み:キャンパスおだわら →https://www.campusodawara.jp/kouza/


▲ 講演 「武蔵大石氏と滝山城~関東の戦乱と大石氏の戦国領主化」
主 催:NPO法人滝山城跡群・自然と歴史を守る会

 

日にち:10月8日(月・祝)
場 所:八王子市加住市民センター(滝山城そば)

 

講 師:加藤哲氏

 

申し込み不要(先着順)→http://takiyamajo.com/html/events.php


▲ 「川越城の上で川越城の話をしよう!」
日にち: 10月28日(日)
場 所:川越市博物館

 

講 師:浅野晴樹先生です!

 

申し込み不要、先着順。
主催は河越館の会→http://kawagoeyakata.blogspot.com/2018/09/blog-post_39.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ


以前の玉縄関係のブログ記事の一部です。

 

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-0e25.html

 

「玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-170d.html
「玉縄城-2 現代の難攻不落の城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-77e4.html
「玉縄城-3 現代の難攻不落の城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-0e19.html

 

「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html
「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html

 

「「真剣」 新陰流を創った男 by 海道龍一朗」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/by-d541.html

 

「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-47de.html
「後編~」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-2d95.html

 

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2018年8月24日 (金)

「太田道灌の軍旗」 埼玉県立歴史と民族の博物館

マリコ・ポーロ


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~もんじろう君が展示の見方のアドバイスをくれる~


その前に。
北条綱成(つなしげ)のパパ伊勢(櫛間)九郎 が、宗瑞の息子、つまり氏綱の腹違いの弟だということはないだろうか…。

「伊勢」という名字をもらうということが不思議でした。また、「北条五代の娘たち」を書いていて、氏綱が本来なら有力他家に嫁がせるであろうところの娘を綱成に与えたことも、ずっと腑に落ちませんでした。

6月に出た『戦国北条家一族事典』黒田基樹著 を読みフト思い付いたことですが、もし綱成が氏綱の甥なら腑に落ちます。最初からの綱成の特別扱いも、浅倉が娘を伊勢九郎殿に嫁がせたことも納得です。なんの根拠もない妄想ですが…


さて、本題。

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~展示資料として「翻刻集」
もいただける。~


「道灌びいき」の会でご教授いただいている、太田道灌研究の尾崎孝先生のブログで、開催中の企画展「古文書大公開!みる・よむ・しらべる埼玉」にて
道灌の軍旗 が公開されていることを知りました。


道灌の軍旗とは、日輪と鏑矢のアレです。

軍旗の中央あたりの数か所に、血が付いていました。
テンテンテン…


この軍旗のことは、「太田家譜」にあるそうで、現在は太田資正子孫ゆかりの大阪「専宗寺」が持っているそうです。

写真は撮れませんが、尾崎先生のブログ「道灌紀行は限りなく」に写真や詳しいことが書かれています。→http://blog.doukan.jp/article/184203921.html


展示の文書類も盛りだくさんでした!

尊氏様・直義さん・師直殿、関東公方・古河公方、関東管領上杉、太田、長尾景仲、小田原北条(氏照や氏邦や氏房達もたっくさん!)。一日中いられます!


近世文書もありましたが鎌倉と戦国だけにドップリと浸り、氏邦の朱印をペッタンして帰りました。

展示のカテゴリー分けもわかり易く、説明も面白く、超々々オススメ!9月2日まで。


「講演 「太田道灌と豊島一族」at 日比谷図書文化館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-ec38.html
「太田道灌vs豊島一族の「江古田原古戦場」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/vs-c7d7.html
「道灌伝説の「山吹の里」を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-f2fa.html
「「岩槻城」 道灌の会で実地見聞?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-2769.html
「豊島氏の「練馬城」を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-33ee.html
「非公開 「英勝院」の御廟内部~鎌倉」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-5d11.html


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2018年8月10日 (金)

今年は、ぼっち 八王子城 落城忌…かと思ったら(2018)

マリコ・ポーロ

 

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~炎天の御主殿に銘酒「氏照」を捧げる(撒いているの)図~


サル8月4日は今年の旧暦6月23日。我が八王子城が落城した日です。

このところ北条当主の娘たちに捉われ過ぎ八王子城とはご無沙汰しておりますが、「旧守る会」の残党衆としてはこの日ははずせません。旧守る会があった頃は、皆、都合がつく限り毎年この日に集まり「落城忌」を営んだものでした。


それでも昨年までは数人の残党衆で城山川のほとりで 直会(なおらい)を行っていました。ガイドさん達の宗閑寺での法要も、お寺さんの都合でなくなったそうです。

今年は一人か、チト淋しいぞ…と思っていたら!北条友の武将さんが参陣。いと心強し


その上、途中、残党衆たち何人かと出会いました。皆、一人でバラバラと来ていましたが、やはり八王子城を思う気持ちは皆同じ。良かった~。氏照や八王子城戦で命を落とした人達の、少しは供養になったかな。

恒例だった、般若心経を唱えながら武将と共にお参り。そして、献杯(銘酒「氏照」)。


今までで一番暑かった「落城忌」を終えました。


「八王子城~落城忌その1 チョット怖い?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6bb4.html
「八王子城~落城忌 その2 幻庵の一節切はこんな音色?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-3914.html
「八王子城その1北条氏照 夢と覚悟の城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-c46c.html
「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cfde.html

 

「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html
「城跡の幻影~八王子城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-75cf.html

 

「【追悼】 椚國男先生」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-80b8.html
「【追悼】 北条氏照に会いに行かれた八王子衆」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-072c.html
「「八王子城とオオタカを守る会」が終わりました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-bc9f.html

 

「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8c21.html
「報告▲八王子城の発掘調査見学会」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cac0.html


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2018年7月31日 (火)

北条の謎の娘「高林院」と、文化年間の歴史研究者

マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち~番外編


第二の謎の女人「高林院」を調べるために、文化年間の地誌『許我志』を読みました。その地誌を編纂した方に グッと きたので、ご紹介したいと思いました。


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~古河。足利ヨッシーの鴻巣御所跡~


先日、北条師匠から矢文をいただきました。その中で気になったことがありました。

▲ 黒田基樹 『戦国北条家一族事典 2018.6』 に、芳春院殿(氏綱娘・古河公方足利晴氏室)=高林院 とある。
▲ その引用先は、『北条氏康の子供たち 2015.12』での長塚孝氏「浄光院殿-足利義氏の室」である。


しょえ~
高林院は、千葉親胤に嫁いだ氏康の娘だとばかり思っていたので驚きました。

なぜなら、
「高林院は氏康の娘で、早くから出家しているため、早世した千葉親胤の室と思われる『関八州古戦録』
と書いてあるのを読んでいたからです。


『…子供たち』も読んではいたのですが、今は氏綱の娘を調べているので、氏康の娘についてはザッとしか読んでおりませんでした

ブログ記事「北条五代の娘たち」で、芳春院はすでに書き終えてしまいましたが、娘たちの足跡を辿っているマリコ・ポーロとしては、これは放っておかれません。ちゃんと読み直しました。


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ありゃ~。ほんまやねん…。


芳春院=高林院は、文化5年の古河の地誌 『許我志(こがし)』にあるそうですな。

文化5年!超・昔っ!


そして、そこには氏康の法名・死去年、氏康の菩提寺、<芳春院・はるる夫妻>と次世代の<浄光院・ヨッシー夫妻>との混同、などのいくつか誤りと思われる箇所があるとも書かれています。


内容に疑問点がある『許我志(こがし)』なのに、芳春院=高林院 のところは信じていいのだろうか?また、それを『戦国北条家一族事典』で、「高林院は氏康の妹芳春院殿のことであることが明らかになり」 としてよいのだろうか?とも思ってしまうところですが……ごにょ。

これは自分でも調べてみよう(と言ったって、ワテなんかに分かるわけもないですが)と、図書館へ Go! 『許我志(こがし)』を見てみました。


先に書いた、浄心院が氏綱の娘だろうが三浦道寸の娘だろうが歴史の流れの中ではどっちだってなんの影響もないのと同じく、芳春院が高林院と同一人物だろうが別人だろうが、どーでもエエことではあります。

高林院という女人が大きなことを成していて、それは古河公方の正室の芳春院だった!…な~んてことなら別ですけど、それは、にゃい。


でもね。


『許我志』を編纂した 念斎 という方

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~『許我志』。一部分コピーしてきた。~


私が申すまでもなく、「許我」は「こが」のこと。つまり『許我志』とは、古河誌のことです。『許我志』は、古河市史の 『古河市史資料別巻』に載っていました。そこには『許我志』についても書かれていました。


編纂者は、善(原)公通三右衛門。号は念斎という幕府の御徒歩組の方で、儒学者としても著名な人だったようです。

念斎さんは古河藩士でもなく、御徒歩組ゆえ江戸住まいで古河の人でもなかったのですが、お祖父さんまでが古河藩士だったそうです。その縁で、江戸の古河藩邸によく出入りしていたそうです。学者ですし、元々歴史が好きで、藩主や藩士たちから古今の古河の話を非常に熱心に聞き取り、研究を重ね、『許我志』を完成させたとのことでした。


『許我志』はいくつか写されたようで、その写しの跋(あとがき)に、念斎はこう記しました。古河市史に載っている口語訳をそのまま写します。


この本は前に自分のつくったものを写したもので、ここで今見ると、はずかしい気もするが、また喜ばしくもある。

古河は土地としても古来有名であり、人物も名士が多く出ている。自分の記したのは一部分にすぎないが、それを人々に見せないでおけば、そのままで終わってしまう。このように同好の人が写して広く読まれるようになれば、他日誰かが補って立派なものにしてくれるであろう、それを期待する。


当時ブログがあったらねえ…って、ちゃうちゃう 格が違う。


父祖の地である古河がとっても好きだったんですねえ。真摯な方だなあと思いました。センセーショナルなことを書いて自分をアピールしようとか、単なる自己満足とかではないんですねえ。

歴史を伝え残さなければという念斎さんの想いに グッと きてしまいました。念斎さんの『許我志』のアラを確認しに図書館へ行ったような自分が恥ずかしくなりました。


他日誰かが補ってくれることを期待する…。

念斎さんのような前時代の歴史研究者の想いを以後のたくさんの歴史研究者の方達が引き継ぎ、また、今の研究者の方達の想いが未来の歴史研究者の方達に引き継がれていくのですね。

念斎さんの時代は、一から調べなければならないです。なんの規制もなく行きたい所に行けて、調べたいこともネットや図書館で簡単に調べられ、素人の身で あーだこーだとアラを突いていられる今の時代が、念斎さんはさぞや羨ましいことだろうと思いました。


で、肝心の、芳春院=高林院は?

分かりもはん!(←二人の浄心院日海と同じやん)


ま、同一人物でも別人でもいいじゃあないですか、と思いながらも、もし別人だったら、高林院の人生が消えてしまったことになる。それは可哀想。

しかし、古河公方のことをよく書いてらっしゃる佐藤博信先生の本にも、高林院という文字は出てきません。どうやって調べたらいいのかのう…。


「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

「古河公方の古河を歩く~前編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html
「古河公方の古河を歩く~後編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8375.html

「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fdbc.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html


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2018年7月24日 (火)

恒例 「北条氏政・氏照墓前祭」(2018)

マリコ・ポーロ


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~カトケン市長さんのご挨拶~


7月11日。
北条氏政・氏照の命日が今年もやってまいりました。

北條遺跡顕彰会による「北條氏政・氏照墓前祭」には、こたび久々に加藤市長もお出まし。観光課さんによる北條パンフの配布とグッズ販売も出て、今までになく盛況でした。


今回はお寺さんが変わりましたね。今までは、墓所を管理する永久寺さんでしたが、今年は「りんこう寺」さん??(お寺の名前を聞き洩らしてしまいました)。

読経のあと住職さんが尺八を奏してらっしゃいました。大伯父の幻庵殿も一節切の名人。兄弟の供養になったことでしょうねえ。

パフォ~


我が八王子城からも、旧守る会の残党衆で今は他の歴史活動している重鎮達や、知人の氏照ファン5‐6人の方達のグループさん、また、残党衆のおひとりが関わってらっしゃるお城関係の某メディアもいらしていて、これまた照どのも喜んでくださったことと思います。

祭壇には、それぞれが持参して御供えした銘酒「氏照」と「八王子城」が並びます。映えていたのか、氏照ゆかりの銘酒は小田原タウンニュースにもバッチリ写っていました。

しかし、こうなると「氏政」とか「大途」とかの、兄上様のお酒も造らずばなるまいて。「火牛」がなくなったのが残念なり。


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~観光課の出店?その法被(ハッピ)が羨ましいです。もっと安い生地とプリントでいいので販売してくだされ。~


顕彰会さんによるこの墓前祭は昭和28年から続いており、それにも歴史があります。どうぞこちらの記事をご覧くださいませ。→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-312a.html


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~高野山奥の院の小田原北條家墓地にある、北條顕彰会さんが建てた墓碑~


顕彰会さん、いつも銘菓「虎朱印」をご用意くださり、大変ですよねえ。ありがとうございました。お参りした人達に配られた伊勢宗瑞こと北条早雲の団扇は、今年だけ特別です。

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合掌…


「北条氏政の首級(みしるし)はどこに・・?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-470a.html
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-df65.html

「それからの後北条一族」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-93b0.html

「北条一族の高野山 1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-f00e.html
「高野山、小田原坊」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/3-6cea.html

「北条家、狭山藩邸跡」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5c4c.html
「北条氏規の大阪の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-361c.html

「「江戸時代の北条家、東京の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-72d6.html
「北条家 下屋敷の「北条坂」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-6434.html

「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e356.html
「兄上様(北条氏政)からのお届けもの」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-d92a.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2018年7月 5日 (木)

今日は、428年目の小田原開城の日

マリコ・ポーロ

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~小田原の「負の遺産」石垣山より。この日の小田原は けぶっていた(2018年6月末)~


今年も7月5日がやってきました。小田原開城の日です。

何度も同じことを申して恐縮ですが、小田原開城の日にタイムトリップするには、石垣山から小田原城と相模の海を眺めるのが一番だと私は思うのです。だから、7月に入ると毎年石垣山に登ります。

俯瞰する城内や総構には幟も櫓もなく、海には九鬼の水軍も加藤の水軍も長宗我部も脇坂もいません。でも、行かれてみてください。見えるでしょう?428年前のそれらが。聞こえるでしょう?428年前の鐘や太鼓の音や兵馬の嘶きが。


我らが北条軍団軍団長、我が八王子城主 北条氏照 が陣を張った早川口もすぐ真下によく見えます。

氏照は早川口の土塁の上にシッカと足を踏ん張って立っています。ハタッと石垣山を睨み拳を振り上げて歌う声が風にのってくるはずです。


♪ く~れないーに そーまぁった
こ~の オーレーを
な~ぐさめーる やーつは
も~ いない ♪



いや…違う。


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失礼いたしました。

そんなこんなで、一年ぶりの石垣山です。428年前にタイムトリップしたのは、某北条研究者の方・八王子衆の重鎮で城郭研究の紳士・北条仲間の相模の武将、妄想族のマリコ・ポーロの計4人。

某北条研究者の方は、この日の午後に小田原での御講演を控えてらっしゃいました。天正地震と小田原攻めとの関係をお話しされたのですが、とても興味深かったです。


6月後半の八王子城での八王子衆加藤哲先生による御講演に続き、この日の石垣山の登城と某北条研究者の方の御講演で、ここのところ「北条五代の娘たち」に浸りきっていた気持ちが一気に天正18年へ持っていかれました。


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石垣山はとても整備の手が入っていて、石垣が良く見えるようになっていました。しかし、見えれば見えるで崩落の進み具合もバッチリ分かり心配なところです。

でもね、まあ、エエわ。
しょせんは、よそ(秀吉んち)の城だもんね~。すみもはん、小田原の関係者の方々


11日は、氏政兄上・氏照が天に召された日。現代の小田原では、「北條氏政・氏照墓前祭」が行われます。

では、こたびはこれにて。

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


「北条氏直、最後の当主の 『最後の朱印状』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html

「天正18年7月5日「小田原開城」 アーカイブ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-c464.html
「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-adb2.html
「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「天正18年、そして小田原は囲まれた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-918d.html

「北条氏政・氏照 「墓前祭」~今年も小田原開城に思いを馳せる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-312a.html

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「堀秀政の小田原の墓」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bf85.html
「「関白づくし」の石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-ab53.html

「天正18年の「石垣山一夜城」を歴友と歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「石垣山で歴友たちと天正18年を偲んだ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e888.html

「小田原攻め、北条氏照の本陣」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html
「小田原攻め、徳川方の陣場めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5964.html


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2018年6月23日 (土)

『新九郎、奔る!』 ゆうきまさみ 著

マリコ・ポーロ

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今日、6月23日、八王子城落城。

八王子城と城主北条氏照については、9年前に当ブログを始めた時から書き尽くして参りましたが、八王子城は「戦国の終わりを告げた城」 by 故椚國男 です。

八王子城は、小田原開城のとどめとなりました。(今の暦では、今年は8月4日になります。)


そんな日に、北条の始まり…いえ、始まる前から を描いたコミックのご紹介を。

「月刊!スピリッツ」小学館 に3月から連載されている漫画 『新九郎、奔る!』 。お!皆様すでにご存知でしたか!


文正元年(1466年)山城国。
我らが北条早雲こと伊勢千代丸(新九郎)クンは11才。年齢は新しい説をとっていますな。

賢く、物怖じしない正義感の強い少年に描かれています。お姉ちゃんの、後の北川殿も、勝気で好奇心旺盛な女の子。


そんな千代丸くんが、父上や叔父上や兄上や北川殿が暮らす京へ向かうことになります。

都は応仁の乱前夜。千代丸クンは、そこで細川・山名らと幼いながらも丁々発止…とまではまだいかないようですが、今月号(6/26発売)は、いよいよ応仁の乱勃発です!


作者の ゆうきまさみ氏は伊勢宗瑞を敬愛されてらっしゃるそうで、内容は本格的。セリフが多く、応仁の乱をよく知らない私にとっては、一度読んだだけでは把握できず、何度も読み返しています。

これは、まさかの 初の大河ドラマ原作がマンガ となるかもしれない!それは、原作がなく、支離滅裂な大河ドラマを制作するよりは遥かに良い。


ここに絵を載せるわけにはいかないのが残念ですが、成長した新九郎青年はりりしいイイ男。

単行本になるのを待とうと思っていたのですが、連載が始まる3月号に新九郎さんのクリアファイルのオマケが付いていたので購入。そうなると、続きがどんどん読みたくなり、そのあとは電子書籍で読んでいます。

(追記:8月に単行本が出るそうです!!)


八王子城戦で果てた人々に、合掌


「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cfde.html

「報告▲八王子城の発掘調査見学会」御主殿の地は焼けていた
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cac0.html


以下、八王子城落城について書いた記事の極一部です。ご再読賜れれば嬉しいです。

「八王子城落城、氏照の残・念」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-4eae.html

「今夜半、八王子城総攻撃始まる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/420-9797.html

「今日、八王子城 落ちる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0e49.html

「八王子城、戦い済んで日は暮れて・・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-1bb4.html

昨年の番外編
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫さま」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-f195.html

もっと番外編 「城跡の幻影」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-75cf.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年6月 6日 (水)

安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の息女たち
【二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室


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~安房「正文寺」は、勝浦城主だった正木頼忠が父時忠の隠居所跡をその菩提寺として中興した。~


その1ヶ月前の3月初旬。葛山へ嫁いだ北条氏綱の娘を追って「御神渡り」を拝んだ諏訪湖の湖面は凍っていた。

うって変わって、抜けるような蒼空の下の真っ青な海を車窓に、太田へ嫁いだ同じく氏綱の娘を安房に追う。


まずは、前回のブログ記事の安房編①を思い起こしてくださると助かりまする→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html


生まれた家とハズバンドは違えど、同じ法名、同じ人生、同じ没年月日として記録されている北条浄心院(氏綱娘)と三浦浄心院(道寸娘)。それは、どちらかの人生が無かったことになっているということでチョット可哀想。と、余計なお節介心にかられて足掛け3年。

どちらが「浄心院日海」なのか。江戸(東京)では手掛かりがつかめないため、どうにも我慢が出来ず、鎌倉から里見へ走った(さらわれた?)青岳尼 の如く海を渡り…ウソウソ、外房線と内房線を乗り継ぎ、「浄心院日海」の御位牌を拝ませていただくべく安房南三原の「正文寺」をお訪ねしました。


広間に入るなり、正面にドドーン と大きな御位牌が!正文寺さんへは事前にお電話でお願いをさせていただいておりましたが、出しておいてくださったのですね。嬉しい~~です。

以前、早雲こと宗瑞の娘を追って伊豆修善寺の「金龍院」さんをお訪ねした時も、幻庵の御位牌を手前の机に出しておいてくださいました。お寺さんて、ありがたいです。


それが、こちらにござります。

Photo
~大きさが分かり易いように、お供えにとお持ちした近江の名酒「道灌」の四合瓶箱を横に置いてみた。北条・三浦、どちらの娘にしても、太田家に嫁いでいる(父と息子)ので、「道灌」を(もし北条浄心院なら、イヤかもしれないけど。)~


おぉぉ!
と、まずは手を合わせ、それからジックリと拝見。


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~見えますか?写真は御住職のご許可をいただき掲載~


先にお電話で伺うまでは存知ませんでしたが、浄心院日海ひとりの御位牌ではなく、正木氏の御位牌をのちに一緒にしたものです。浄心院の法名は、累代の当主と一緒にあるのですよ。

江戸時代になって暫くしてから、紀州のお殿様 - たぶん頼宣(生母のお万は開基頼忠の娘で徳川家康の側室)- が、まとめられたそうです。


ピンクのが「浄心院日海」です。わお~!!

会えましたね~、浄心院さまぁ。お会いしたかったですぅ


恥ずかしながら正木氏のことはほとんど知らず、こたびは俄か仕込み。どれがどなた様やら分からず、御住職さんに一人一人教えていただきました。

もう一度、手を合わせます。


前回のブログでも触れた江戸白山の浄心院菩提寺の 浄心寺(今は廃寺)さんと同じく、御住職は二人の浄心院日海についてとてもご研究をされてらっしゃいました。

お話しを始める時、お互い見せ合った自作の系図が、向きも、北条家・三浦家・太田家の配置もまったくそっくりで、あらら~ って。


御住職とひとしきり、二人の浄心院についてお話しをしました。二人の浄心院について、トックリとお話し出来た方は初めてでしたので、とても楽しかったです。

そのあと、本堂で御本尊様をお参り。そして、勝浦城主の正木氏5人の立派なお位牌もお参りさせていただけました。


お寺の裏山には「お塚」と呼ばれる正木家累代のお墓や、三浦道寸のお墓(供養塔?)があるそうですが、なんせ虫がまったく、本当に、思いっきりダメなワテ。真冬とか、先陣を担ってくれる誰かが一緒だったら行けたのににゃ~。残念。

それと、もっと正木氏のことを勉強していったら、正木一族の様々な謎についても御住職とお話しできたかもしれない。重ね重ね、残念。


で、結局、浄心院日海はどっちだったのって?

………

分かりもはん。


北条・三浦、どちらかどころか、浄心院日海の御位牌が安房にある本当の理由さえ、オイには分かりもはん。

いえね 旦那、奥さん、おじょーさん、お坊ちゃま。もうひとつ何か決定打がないかどうか、この一ヶ月考えて探していましたが、ありまへん。タイムアップで、ブログを更新しました。

すべては、安房の青い海のみぞ知る

ってことで。

正文寺の御住職様、ありがとうございました。


誕生寺


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~誕生寺の太田堂。ピンクの矢印は太田康資のお墓(供養塔?)~


帰路、海の幸で遅いお昼をいただきがてら、正文寺の本山(本山でいいのかしら?)である小湊「誕生寺」をお参りしました。

誕生寺は、北条浄心院の息子、太田康資の菩提寺です。康資は北条から離反し里見につき、永禄7年に国府台で戦死しました。


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~太田堂から望む安房の海~


江戸に菩提寺がある「浄心院日海」の御位牌がなぜ安房にあるのか…。


● その御位牌は三浦浄心院のもので、三浦が没落した時に、三浦浄心院を含む一部の一族が旧領のあった安房へ逃れてきたという話があります。三浦浄心院は、正木の養女となり(前回の記事の写真)、安房で亡くなり弔われたのでしょうか。

しかし、その話は今では時系列が合わないため違うとされているようです。また、もし安房で亡くなったとしたら、菩提寺が江戸にあるのも不思議です。


はたまた、その御位牌は北条浄心院のもので、里見へついた息子の康資が母の御位牌を江戸から持ってきたのでしょうか?

しかし、それなら何故、正木氏の位牌に一緒になっているのでしょうか。


皆様もそうだと思いますが、旅の終わりに、こうやって当時その人が見たのと同じ景色を眺め、その人が歩んだ人生を 勝手に 想像しながら想いに浸るのは、それはいいものですよね~。

自分へのお土産に、誕生寺の門前の酒屋さんで 鴨川の 地酒を買いました。家に帰って飲みながら、タイムトリップの余韻に浸れますね!


こたびはこれまでに。


「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html
「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html


・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html

・三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年5月 6日 (日)

安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の息女たち
【二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室】                    


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~安房「威武山 正文寺(しょうぶんじ)」~


なんとまあ!
そなたも、よくぞここまで わらわを追ってきたものじゃ…

と、浄心院日海様はおっしゃった。


日蓮上人の生家だったという「大本山誕生寺」の末寺「正文寺」は、誕生寺のある安房小湊から外房線で30分。安房鴨川からは内房線で20分位の南三原駅を降ります。


安房小湊といえば鯛の浦。少し前までの坂東の民なら誰でも歌えた♪ゆったり たっぷり の~んびり 旅ゆけば~♪ のホテル。安房鴨川といえば、シャチやセイウチのショーの鴨川シーワールド。千葉はもちろん東京や茨城(埼玉あたりもかな?)の人間なら、子供の頃に、いや、大人になってからもドライブがてら何度かは遊びに行ったことがあるはず。

そういえば、鴨川から少し行ったところに、フラミンゴのショーや、孔雀が次々と崖の上から突き落される…ちゃうちゃう、飛翔する行川アイランドというアミューズメント施設がありました。今は閉園しているそうですね。


威武山正文寺は、そんな外房らしい真っ青な海から車で8分程内陸に入った、真っ青な空の下に立派な仁王門を構えた大きなお寺でした。勝浦城主だった正木頼忠が父時忠の隠居所跡をその菩提寺として中興したお寺だそうです。時忠の法名が「正文」。威武院殿正文日出居士なのだそうです。


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~本堂、浄行菩薩堂、祖師堂などの堂宇のほかに、中世の石塔群や五輪塔などがあるやぐら、本堂には勝浦正木氏歴代の御位牌、裏山の「お塚」には旗本正木氏累代の墓や三浦道寸の墓(供養塔)などがある。~


「浄心院日海」という女人は、北条氏綱の娘か三浦道寸の娘か。もう2年以上、あーだこーだと考えておりますが、いっこうに光の筋が見えません。

そりゃあ浄心院が北条の娘だろうが三浦の娘だろうが、大きな歴史の流れにはまったく影響ないことですが、どうしても突き止めたい。浄心院様からも、「わらわを探してたもれ」と言われている…ような気がする。勝手に。

こうなったら、浄心院日海の御位牌があると聞く勝浦正木の菩提寺「正文寺」へ参るしかない!と、ヒノキ花粉の飛散マックスとなった4月の初め、安房へ向かいました。


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~何度も出している関係者のみのザックリ系図をもう一度(資高が正室の子というのはマリコ・ポーロの妄想。たいがいは、三浦浄心院と資康との間の子とされている。)~


▲ 登場人物は、ふたりの浄心院日海&それぞれのハズバンド&息子

三浦浄心院
父:三浦道寸
夫:太田資康(太田道灌の息子←諸説あり)伊勢宗瑞の三浦攻めの時に妻の実家である三浦へ加勢し、そこで果てたとされている



北条浄心院
父:北条二代当主・氏綱
夫:太田資高(↑の太田資康の息子)江戸にて没

・ヒントになりそうなその息子
母:北条浄心院
父:↑ の太田資高
安房へ行き里見に付き、安房にて没(菩提寺は誕生寺)


▲ 今までの妄想を時系列で整理する

文末に添付している過去のブログ記事に、グダグダと書いてはおりますが要約すると…


①「北条五代の娘たち」の足跡を順番に辿っていて、太田資高に嫁いだ氏綱の娘「浄心院日海」の番になる


②夫の資高の記録が少なく不思議に思う


③『太田家記』やらその他諸々手あたり次第乱読していたら(もちろん口語訳)、三浦道寸の娘も同じ法名「浄心院日海」だということを知り、ドびっくり~する。


④ それにしても父親の嫁息子の嫁が同じ法名ということがあるだろうか?と疑問を持つ。


⑤ 『三浦系図伝』『正木氏先祖書』などなどなど引き続き乱読していると、北条浄心院についても三浦浄心院についても同じようなことが書かれてあり(ご興味ある方は先のブログ記事引用しているのでご参照あれ)、いったいぜんたいどういうこっちゃ?と混乱。

チビット違うのは、『太田家記』には、北条浄心院が夫と別の菩提寺になった いきさつ などが詳しく書かれていること。

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~『旗本正木氏先祖書』。ピンクのマーカーのところに三浦浄心院が。~


⑥ そして、衝撃の事実(←ちとオーバーかも)を見つけて、たまげる。

なんと、三浦浄心院と北条浄心院の没年月日と没した場所(江戸)と菩提寺(江戸)が同じだったのだ!


が同じ法名で、同じ日に、同じ場所で亡くなるなんてことがあるだろうか?いや、ない!ということは、どちらかの人生が無いことになっている。波乱の戦国の日々を一生懸命生きたであろうに、それはあまりに可哀想だ。


⑧ 東京の白山にかつてあった浄心院の菩提寺「浄心寺」の事務所に問い合わせさせていただく。かつての御住職は浄心院日海が二人いたことなど一連の話をご存知でしたが、過去帳などに記載が残る浄心院日海の像はすでになく、御位牌は後世に作られたものであり、はっきりしたことは不明だとのこと。


三浦浄心院の夫である太田資康と道灌との間柄や、道灌誅殺後の太田家の家督争い(?)& 江戸太田と岩付太田の関係、内房正木氏成立の謎や、家康の側室であったお万一派&英勝院お勝一派による系図創作疑惑などなどへと興味が広がり、カオス妄想は収拾がつかなくなる。


⑩ 初期の目的に戻り、マリコ・ポーロ安房へ渡る


果たして安房「正文寺」にある「浄心院日海」のお位牌は三浦浄心院のものなのか?北条浄心院のものなのか?

マリコ・ポーロがそこで見たものは!?なんちゃって。

次回へつづく…


「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「続 ~ 浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html

「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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«祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?