① 上杉憲実~贖罪の行脚をした関東管領
マリコ・ポーロ
『北条五代の娘たち』を出版いたしました。小田原平井書店さんで取り扱っていただいています(770円)。郵送可能。支城群8館&葛山氏の裾野市2館の図書館でも開架してくださっています。詳しくはこちらに→「拙本『北条五代の娘たち』の販売」
~実さまを書くにあたり参考にした本(何度読んでも脳内クリアに整理できない…)~
まだ9歳だった。
応永25(1418)年、孔雀丸は、残雪深い越後から春の気配ただよう鎌倉へやって来る。しかしその頃の鎌倉は、いや坂東は、春を楽しむような状況ではなかった。
前々年、先の関東管領上杉禅秀は反旗を挙げる。鎌倉公方持氏は、鎌倉から時の管領上杉憲基の領国伊豆・駿河へ、憲基はいったん越後へと逃れた。そして憲基は伊豆へと移る。
その後、公方・管領軍は持ち返す。翌25年正月、禅秀は自害すれど、それに先立ち管領憲基は病により鎌倉にて死去する。憲基は27歳だった。
同年、孔雀丸は元服し山内家を継承。翌26年、正式に関東管領となる。上杉憲実の誕生である。
上杉憲実といえば、関東管領で、足利学校を再興し、永享の乱で鎌倉公方持氏を自害させた人物ということぐらいしか知らなかった。新九郎さん こと 伊勢宗瑞のことを調べていて、乱後に憲実が突然行方知れずになり、西国行脚のような数年を送っていたことを知り、管領が行方不明!? 行脚っ!?と驚いた。
~↑ 孔雀丸はレストランを覗いていた😜(多摩動物公園にて)~
鎌倉公方持氏と関東管領憲実が初めて会ったのは、持氏22歳、孔雀丸は10歳の時だった。
管領となる孔雀丸からしたら、補佐する相手はひとまわりも年上の大人で、鎌倉府にキラキラしく暮らす公方。翻って持氏からしてみれば、自分を補佐することになる管領は、地方から来たばかりの子供。
なんだこのガキッチョ (-_-)
……とまでは思わなかったかもしれないが、ただでさえ放埓な(たぶん)持氏が孔雀丸を相手にしなかったのは想像できる。この初対面の印象が、その後の二人の関係や、孔雀丸あたらめ憲実の持氏に対する思いに影響しているのかもしれない……などと思ったりする。
将軍就任への野心を燃やし幕府への対抗行動を続ける鎌倉公方持氏と、自分の政策を推し進めるに邪魔な持氏を排除したい将軍義教。
そもそも二人は同じ足利尊氏を祖とするもかなり血筋が離れている。将軍義教にとっては祖父、鎌倉公方持氏にとっては曾祖父が兄弟だ。
将軍と鎌倉府長官(鎌倉公方)との関係は、足利幕府設立当初は兄弟(尊氏&直義 / 義詮&基氏)だった。次ぎに従兄弟同士となり、血の繋がりはだんだんと薄れてゆく。兄弟でも父子でも争う時代、次第に敵対していくのもむべなるかな。
憲実は幕府と鎌倉府との間を保つべく、暴走しようとする持氏を抑え、将軍義教や幕府への取り成しに力を尽くす。しかし持氏は憲実を幕府よりと見、また、様々な噂も飛び交い、憲実と持氏の溝は深まるばかり。
憲実は、ここで持氏に抗議すべく関東管領を辞任してしまう。
持氏らに請われ(なぜですか?)憲実は管領に復職すれど、持氏の息子の元服のことなどでまたもや対立。なんと憲実は自害を図る😲。
それでも憲実は持氏の処分を即す幕府に持氏助命を嘆願。
なにゆえ、そこまで…。
足利学校に「五教」を寄進したのは、そんな頃だ。
されど関東管領として幕府の再三の要請に応じざるを得ず、永享11(1439)年2月、出家し鎌倉永安寺で蟄居していた鎌倉公方持氏に兵を差し向け自害へと追い込むこととなった。
持氏の嫡男義久(10歳)は報国寺で自刃。安王丸・春王丸・永寿王丸(のちの成氏)ら他の子供達は鎌倉から逃れた。これが後に、結城合戦へと繋がる。
~持氏が出家した称名寺(金沢文庫)~
同年6月、憲実は持氏の墓所を訪れ、墓前にて2度目の自害を図った😲。
「心ならずも主君を滅ぼしてしまったことを悔い臣(憲実)はこの度讒者の申すに従い勘当を蒙り敵となりました、けれども心中に不義はございません、天からご覧ください」と涙ながらに腰刀を脇腹に突き立てたが、家臣達に阻止され一命はとりとめた…
と『永享記』にあるそうだ。
主君を死に至らせてしまったこと、自分が主を滅ぼしてしまうような人間だと周囲や後世の人に思われてしまうことの不本意さ。悔やんでも悔やみきれなかったのだろう。
この年の暮、憲実は家督を弟に譲り、出家して山内上杉の守護所のひとつである伊豆の国清寺へ引き籠る。
法名は「雲洞院高岩長棟」。30歳の時である。
憲実は隠遁した伊豆に持氏供養の寺「蔵春院」を建てている。
なぜ憲実はここまで持氏に対して忠の心を持ち続けたのか…。たぶん持氏から信頼されたことなど一瞬たりともなかったと思うのに…。
それについて田辺久子氏は『上杉憲実』(1999 吉川弘文館)で、「憲実の基本的立脚点は儒教であったとみられる」と書いてらっしゃる。
しかし、憲実の出番はまだまだ終わらない。
結城氏が亡き持氏の遺児安王丸・春王丸を擁し決起したのだ。歴史上いうところの「結城合戦」である。
~結城合戦で憲実が陣とした「祇園城」~
幕府の強い要請により、憲実は管領への復職はせねど鎌倉へ戻り乱をおさめ、佐竹攻めなどにも出陣し関東の情勢が落ち着くことに努めている。
そんな折、京都では大事件が起きてしまう。
鎌倉公方持氏排除を強行に推し進めた将軍義教が家臣に暗殺されてしまったのだ。
どうする、憲実!(いや、違う…)
憲実は幕府やその周囲からはかなり頼りにされていたようで、所領争いの斡旋や次期鎌倉公方任命についての相談などをうけ、いくつかの戦にも出ている。幕府は憲実に管領職へ戻すため、綸旨を賜ることまで考えたほどだったらしい。
それでも憲実は管領への復職を固辞。隠退の思いやまず、息子達も政界にかかわらぬよう出家させた。それも束の間、家督を譲っていた弟が死去してしまう。
自身と息子達が鎌倉を去り、持氏の菩提を弔いながらの静かな日々が始まるはずだったのに。
憲実の苦悩はまだ続く……。
🍷 今、足利学校で企画展「上杉憲実と足利学校」が開催中ですね。5/29 まで。
🍷以前のブログ記事です
「瀬戸神社展と金沢文庫」
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」
萩真尼 こと マリコ・ポーロ
画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。