2018年10月 8日 (月)

小田原の古民家で「北条幻庵の一節切」を聴く

マリコ・ポーロ


明日の命さえ定かではない日々の中で、「戦国武将たちは、持って行き場のない気持ちを笛にたくしたのでは…」

と、一節切(ひとよぎり)奏者の大村響堂 氏。


母屋の広縁に続く座敷で、心地好く吹き抜ける秋の風を感じながら目を閉じて聴く「一節切」の音色。奏でるは幻庵殿。周りに座すは北条一門かと妄想に浸る。


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~「一節切」を奏でる大村氏(ご許可をいただき掲載)。後ろの書は、飯山家所蔵の山岡鉄舟。~


秋の日の昼下がり、キャンパスおだわら の「古民家で学ぶ下堀と北條幻庵」という素敵な講座に参加して参りました。


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~築100年の飯山家。かつては華道の先生で、大正時代、小田原鴨宮に駅を誘致した住民運動のリーダーだった方。~


この日の「一節切」は、大村氏が天守閣に寄託している本物の北条幻庵作の一節切(「なんでも鑑定団」に出たアレ) のレプリカです。本物に忠実に作っても、四百年前の本物の音色とは、そりゃあ違うそうです。

いつか聞いてみたいねえ。四百年前の、その音色。しかし、笛は残れど譜面がまったく残っていないので、曲も譜面も後から研究(&想像)して作られたものだそうです。


ご存知のように幻庵は一節切の名手でしたが、北条一門は皆、一節切を奏でることが出来たであろうとのこと。

本城に一門が集う時、また、それぞれの城で夜一人、御曹司たちは「持ってゆき場のない気持ちを笛にたくして」奏でたのでしょうか。


「一節切」については以前たくさん書いておりますので、その一部ですが、こちらをあわせて読んでくださると嬉しいです。→戦国武将が愛好した尺八 「一節切」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html


最後は皆でお稽古用を使って尺八の音出し体験。大村氏は尺八や一節切を教えてらっしゃるそうで、「小田原で、 幻庵を偲んで皆で一節切を奏でる会を開くのが夢」とのこと。


horse 小田原鴨宮の下堀方形館

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~石井先生の画像~


前半は、小田原郷土史研究家の、お馴染みの石井啓文先生による下堀方形館と賀茂宮氏の話でした。下堀は、北条時代、北条幻庵やその内室の領地でした。

下堀に二重の掘に囲まれた方形館があるなんて知らなかったので とーっても興味深かったですし、また、葛山氏広についての新しい考察もちびっと伺えました。行って良かったです。

来年1月、キャンパスおだわら で、石井先生による幻庵についての3回連続講座があるそうですよ。


小田原、いつもありがとー。
う~~、現実に帰りたくない。浸り過ぎた~ sad


「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
「北条五代の娘たち① 今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

北条幻庵の子息の菩提寺「三島 祐泉寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-200a.html
戦国武将が愛好した尺八 「一節切」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年9月18日 (火)

玉縄主催セミナー 「まだナゾだらけ戦国時代の鎌倉」

マリコ・ポーロ

その前に、朗報です sign03 

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今、鎌倉国宝館にて「国宝 鶴岡八幡宮 古神宝」展が開かれていますね(パンフ)。我らが北条氏綱が八幡宮に奉納した相州綱広の太刀(重文)が出ることはないか伺ったところ…

出るそうですsign01
10月20日からの「開館90周年記念」に!

わーい\(^o^)/ 楽しみですね。3口とも出るのかしら?


さて本題でござる。

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鎌倉武家文化普及啓発事業として、玉縄城址まちづくり会議主催の歴史セミナー「戦国時代の鎌倉、その検証と発見」の三回目を拝聴しました。今回のテーマは、「まだナゾだらけ戦国時代の鎌倉」。


ほんとうにナゾだらけですよね~。

レジュメの表紙にも、玉縄城址まちづくり会議会長がこのようにお書きになっています。
「私たちは意外に鎌倉の歴史が分かっていない。それも頼朝三代以降の鎌倉から鎌倉の歴史が分からなくなるのではありませんか。なぜか?その一つは戦国時代の鎌倉の主人公だった後北条氏のことが伝えられてなかったからです。」


まさに~

鎌倉で神社仏閣の御由緒書や御縁起を読んでも、源氏三代 → 前の北条さん → 足利さんときて → 一気に徳川さんのこととなり、後の北条(小田原北条)に触れられていることはほとんど、いや、まず無いですものねえ。(それを言ったら鎌倉公方のこともあまり書かれていないか。)


肝心の鶴岡八幡宮の「御由緒」や「歴史」には、頼朝殿がお祀りしたことから → 一気に、江戸幕府が現在の社殿を造営したと書いていて、後北条の氏綱が再建したことなぞ、ひとっことも触れられていません。

どれだけハショルんや~。源氏以外は関係ないのか~っ。

と、知った風な口で嘆いておる私も、つい9年前に小田原北条に興味を持つまではまったく存じませんでした。鎌倉市にあんな大きな城跡があることも、それが小田原北条の城だということも、綱成という人も知らんかった~sweat01


では、セミナーでの記憶しているところだけ、以下に。

▲最初は古武道の演武

上泉伊勢守が、小田原北条の剣術指南だと紹介されていました。知りませんでした。ほんとですか?

上泉信綱は海道龍一朗氏の御本で読みました。小説の主人公としてとてもチャーミング武人で、いっときカブレheart01ましたが、史実ではよく分かっていない人なのだと思っていました。


▲まずは、我らが館長、諏訪間順氏
テーマ「小田原北条氏と小田原城」

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分かりやすかったです手(チョキ)。後の北条をよくご存知ない鎌倉の方達にも良かったのではと思いました。

冒頭、「皆さんは小田原北条をどう認識してらっしゃいますか?ちょっと、おバカっちょ?」

新陰流の演武で張りつめていた空気が和らぎました。これで、つかみはOKだべ。諏訪間さん、おバカっちょって…小田原弁で?coldsweats01

▲二番手は伊東潤氏
テーマ「伊勢宗瑞と小田原北条」

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伊東さんの考える宗瑞の長所短所などの分析。ご自身の著作の分析など。

レジュメには、
~(北条が最後を迎えた時) 天の宗瑞は、きっと、「これでいいのだ」と言っていた気がする。~
と。小説家さんですねえ。

▲シンポジウム
お馴染みの諸先生方、伊藤一美氏(歴史学者)、玉林美男氏(鎌倉市考古)、大竹正芳氏(城郭史学者)が参戦!

また、会場には宇都洋平(藤沢市郷土歴史課考古学者)氏や赤星直忠氏もいらっしゃっていました。


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(大竹氏)
ここでやっと玉縄城の話が出ました。主郭の周辺の話で、○○さんちの脇とか○○店の前とかとかに残る遺構や文献からの、地元通の話が細かく面白いです。


当ブログを読んでくださっている皆様はとうにご承知かと思いますが、宗瑞・氏時時代の防御拠点の中心だった二伝寺周辺の話に興味が湧きました。公園に残っている窪みが旧道だそうですね。

玉縄城というのは、典型的な戦国時代の山城であり、宗瑞・氏時時代、綱成時代、氏繁・氏勝時代、それぞれ違う姿をしていたと思われるとのこと。敵が当初と後半では変わっていますものね。


よく女学校が出来てしまい残念という声がありますが、女学校が出来て良かったのではないでしょうか。だって、学校がなければガンガン宅地開発されて、今頃は全ての遺構は個人のおうちの下に…ではなかったのかなあ。

(玉林氏)
戦国時代の鎌倉の話がやっと出ました。

鎌倉の主の長期鎌倉不在により、鎌倉府に集まっていた年貢や貢納物が、それぞれの武士の拠点(城)への集積へと変化していったというお話が面白かったです。そうか、そういう風に分析していくのかと勉強になりました。


それから、玉林氏は御用米曲輪を初めて見た時、 「あ、これは中国の庭園だ」と思われたそうです。敷石遺構は、 「グスクに似ている」と。

へえ~~confident
玄宗皇帝が楊貴妃のために造営した離宮の華清池みたいな感じですかね?そう言われると、すぐ、そうだ!と思ってしまうマリコ・ポーロ。


いや、つまり玉林氏がおっしゃるには、小田原北条はそれだけ海外と交流があり、また京都の出であることからも、先進的なものをどんどん取り入れていた…ということ。

オッホッホッkissmark

中でも、玉林氏が触れた 荏柄要害についての話にビッ!としました。もっと聞きたいと思っていたら、伊東潤さんが質問してくださり、大竹氏が説明してくださいました。

これはとても興味深いお話です。荏柄の要害を発見したのは玉林氏ですが調査したのは大竹氏だそうですね。荏柄天の裏山には、台形状の削平地や堀などが残っているそうな(立入不可)。

荏柄天あたりはよくウロチョロしますが、知りませんでした。ミーハーだから、聞くとすぐまた行ってみたくなる マリコ・ポーロ。

(伊東一美氏)
本日ホストでらしたので発表はありませんでしたが、レジュメに鶴岡八幡宮再建について面白い話がたくさん書かれていました。

他にも以前八王子城の歴史師匠からいただいた資料もありますので、追々ブログで紹介させていただきたいと思います。


というか、「戦国時代の鎌倉」がテーマだから、こういう話をもっと聞きたかったです。八幡宮や、鎌倉公方や、里見との海戦や青岳尼の話も出るかと思っていましたが、時間が足りないか。


また、今日の玉縄の講演&シンポジウムで、小田原北条の城の、両側に側溝がある道路遺構の話が出ました。私なぞは「スゴイ!」と感激しちゃいますが、鎌倉時代のそれこそ凄い遺構が家々の下に嫌になるほどあると知っている鎌倉人の聴衆の方々がどう思ったかと考えると…ちょっとゴニョってね。


レジュメには各講師の方々の他にも、鎌倉の阿部能久氏や、会場にいらしていた宇都洋平氏が寄稿。玉林氏の玉縄北条の新年表と大竹氏作図の「玉縄城の総構図」などもあり、読みでがありました。帰りの電車で熟読してしまった。

とても楽しかったです。ありがとうございました。


horse 第6回 玉縄城主墓前祭

日時:2018年10月20日(土) 9時半~
場所:龍寳寺本堂


horse 10月も毎年恒例のイベント行事が目白押しですが、ちょっと面白そうなものを3つ鱗。

▲ 「古民家で学ぶ下堀と北條幻庵」
日にち:10月3日(水)
場 所:小田原(鴨宮の古民家飯田家)

幻庵ゆかりの一節切の演奏と、下堀城ともいわれた幻庵の領地下堀についてのお話しを聞く催しです。

申し込み:キャンパスおだわら →https://www.campusodawara.jp/kouza/


▲ 講演 「武蔵大石氏と滝山城~関東の戦乱と大石氏の戦国領主化」
主 催:NPO法人滝山城跡群・自然と歴史を守る会

日にち:10月8日(月・祝)
場 所:八王子市加住市民センター(滝山城そば)

講 師:加藤哲氏

申し込み不要(先着順)→http://takiyamajo.com/html/events.php


▲ 「川越城の上で川越城の話をしよう!」
日にち: 10月28日(日)
場 所:川越市博物館

講 師:浅野晴樹先生です!

申し込み不要、先着順。
主催は河越館の会→http://kawagoeyakata.blogspot.com/2018/09/blog-post_39.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ


wine以前の玉縄関係のブログ記事の一部です。

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-0e25.html

「玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-170d.html
「玉縄城-2 現代の難攻不落の城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-77e4.html
「玉縄城-3 現代の難攻不落の城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-0e19.html

「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html
「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html

「「真剣」 新陰流を創った男 by 海道龍一朗」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/by-d541.html

「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-47de.html
「後編~」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-2d95.html

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2018年8月24日 (金)

「太田道灌の軍旗」 埼玉県立歴史と民族の博物館

マリコ・ポーロ


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~もんじろう君が展示の見方のアドバイスをくれる~


その前に。
北条綱成(つなしげ)のパパ伊勢(櫛間)九郎 が、宗瑞の息子、つまり氏綱の腹違いの弟だということはないだろうか…。

「伊勢」という名字をもらうということが不思議でした。また、「北条五代の娘たち」を書いていて、氏綱が本来なら有力他家に嫁がせるであろうところの娘を綱成に与えたことも、ずっと腑に落ちませんでした。

6月に出た『戦国北条家一族事典』黒田基樹著 を読みフト思い付いたことですが、もし綱成が氏綱の甥なら腑に落ちます。最初からの綱成の特別扱いも、浅倉が娘を伊勢九郎殿に嫁がせたことも納得です。なんの根拠もない妄想ですが…sweat01


さて、本題。

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~展示資料として「翻刻集」
もいただける。~


「道灌びいき」の会でご教授いただいている、太田道灌研究の尾崎孝先生のブログで、開催中の企画展「古文書大公開!みる・よむ・しらべる埼玉」にて
道灌の軍旗 が公開されていることを知りました。


道灌の軍旗とは、日輪と鏑矢のアレです。

軍旗の中央あたりの数か所に、血が付いていました。
テンテンテン…coldsweats02


この軍旗のことは、「太田家譜」にあるそうで、現在は太田資正子孫ゆかりの大阪「専宗寺」が持っているそうです。

写真は撮れませんが、尾崎先生のブログ「道灌紀行は限りなく」に写真や詳しいことが書かれています。→http://blog.doukan.jp/article/184203921.html


展示の文書類も盛りだくさんでした!

尊氏様・直義さん・師直殿、関東公方・古河公方、関東管領上杉、太田、長尾景仲、小田原北条(氏照や氏邦や氏房達もたっくさん!)。一日中いられます!


近世文書もありましたが鎌倉と戦国だけにドップリと浸り、氏邦の朱印をペッタンして帰りました。

展示のカテゴリー分けもわかり易く、説明も面白く、超々々オススメ!9月2日まで。


「講演 「太田道灌と豊島一族」at 日比谷図書文化館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-ec38.html
「太田道灌vs豊島一族の「江古田原古戦場」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/vs-c7d7.html
「道灌伝説の「山吹の里」を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-f2fa.html
「「岩槻城」 道灌の会で実地見聞?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-2769.html
「豊島氏の「練馬城」を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-33ee.html
「非公開 「英勝院」の御廟内部~鎌倉」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-5d11.html


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2018年8月10日 (金)

今年は、ぼっち 八王子城 落城忌…かと思ったら(2018)

マリコ・ポーロ

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~炎天の御主殿に銘酒「氏照」bottleを捧げる(撒いているの)図~


サル8月4日は今年の旧暦6月23日。我が八王子城が落城した日です。


このところ北条当主の娘たちに捉われ過ぎ八王子城とはご無沙汰しておりますが、「旧守る会」の残党衆としてはこの日ははずせません。旧守る会があった頃は、皆、都合がつく限り毎年この日に集まり「落城忌」を営んだものでした。

それでも昨年までは数人の残党衆で城山川のほとりで 直会(なおらい)を行っていました。ガイドさん達の宗閑寺での法要も、お寺さんの都合でなくなったそうです。


今年は一人か、チト淋しいぞ…と思っていたら!北条友の武将さんが参陣。いと心強しrock

その上、途中、残党衆たち何人かと出会いました。皆、一人でバラバラと来ていましたが、やはり八王子城を思う気持ちは皆同じ。良かった~。氏照や八王子城戦で命を落とした人達の、少しは供養になったかな。


恒例だった、般若心経を唱えながら武将と共にお参り。そして、献杯(銘酒「氏照」)。

今までで一番暑かった「落城忌」を終えました。


「八王子城~落城忌その1 チョット怖い?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6bb4.html
「八王子城~落城忌 その2 幻庵の一節切はこんな音色?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-3914.html
「八王子城その1北条氏照 夢と覚悟の城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-c46c.html
「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cfde.html

「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html
「城跡の幻影~八王子城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-75cf.html

「【追悼】 椚國男先生」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-80b8.html
「【追悼】 北条氏照に会いに行かれた八王子衆」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-072c.html
「「八王子城とオオタカを守る会」が終わりました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-bc9f.html

「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8c21.html
「報告▲八王子城の発掘調査見学会」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cac0.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年7月31日 (火)

北条の謎の娘「高林院」と、文化年間の歴史研究者

マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち~番外編


第二の謎の女人「高林院」を調べるために、文化年間の地誌『許我志』を読みました。その地誌を編纂した方に グッと きたので、ご紹介したいと思いました。


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~古河。足利ヨッシーの鴻巣御所跡~


先日、北条師匠から矢文をいただきました。その中で気になったことがありました。

▲ 黒田基樹 『戦国北条家一族事典 2018.6』 に、芳春院殿(氏綱娘・古河公方足利晴氏室)=高林院 とある。
▲ その引用先は、『北条氏康の子供たち 2015.12』での長塚孝氏「浄光院殿-足利義氏の室」である。


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高林院は、千葉親胤に嫁いだ氏康の娘だとばかり思っていたので驚きました。

なぜなら、
「高林院は氏康の娘で、早くから出家しているため、早世した千葉親胤の室と思われる『関八州古戦録』
と書いてあるのを読んでいたからです。


『…子供たち』も読んではいたのですが、今は氏綱の娘を調べているので、氏康の娘についてはザッとしか読んでおりませんでしたsweat01

ブログ記事「北条五代の娘たち」で、芳春院はすでに書き終えてしまいましたが、娘たちの足跡を辿っているマリコ・ポーロとしては、これは放っておかれません。ちゃんと読み直しました。


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ありゃ~。ほんまやねん…。


芳春院=高林院は、文化5年の古河の地誌 『許我志(こがし)』にあるそうですな。

文化5年!超・昔っ!


そして、そこには氏康の法名・死去年、氏康の菩提寺、<芳春院・はるる夫妻>と次世代の<浄光院・ヨッシー夫妻>との混同、などのいくつか誤りと思われる箇所があるとも書かれています。


内容に疑問点がある『許我志(こがし)』なのに、芳春院=高林院 のところは信じていいのだろうか?また、それを『戦国北条家一族事典』で、「高林院は氏康の妹芳春院殿のことであることが明らかになり」 としてよいのだろうか?とも思ってしまうところですが……ごにょ。

これは自分でも調べてみよう(と言ったって、ワテなんかに分かるわけもないですが)と、図書館へ Go!dash 『許我志(こがし)』を見てみました。


先に書いた、浄心院が氏綱の娘だろうが三浦道寸の娘だろうが歴史の流れの中ではどっちだってなんの影響もないのと同じく、芳春院が高林院と同一人物だろうが別人だろうが、どーでもエエことではあります。

高林院という女人が大きなことを成していて、それは古河公方の正室の芳春院だった!…な~んてことなら別ですけど、それは、にゃい。


でもね。


book 『許我志』を編纂した 念斎 という方

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~『許我志』。一部分コピーしてきた。~


私が申すまでもなく、「許我」は「こが」のこと。つまり『許我志』とは、古河誌のことです。『許我志』は、古河市史の 『古河市史資料別巻』に載っていました。そこには『許我志』についても書かれていました。


編纂者は、善(原)公通三右衛門。号は念斎という幕府の御徒歩組の方で、儒学者としても著名な人だったようです。

念斎さんは古河藩士でもなく、御徒歩組ゆえ江戸住まいで古河の人でもなかったのですが、お祖父さんまでが古河藩士だったそうです。その縁で、江戸の古河藩邸によく出入りしていたそうです。学者ですし、元々歴史が好きで、藩主や藩士たちから古今の古河の話を非常に熱心に聞き取り、研究を重ね、『許我志』を完成させたとのことでした。


『許我志』はいくつか写されたようで、その写しの跋(あとがき)に、念斎はこう記しました。古河市史に載っている口語訳をそのまま写します。


この本は前に自分のつくったものを写したもので、ここで今見ると、はずかしい気もするが、また喜ばしくもある。

古河は土地としても古来有名であり、人物も名士が多く出ている。自分の記したのは一部分にすぎないが、それを人々に見せないでおけば、そのままで終わってしまう。このように同好の人が写して広く読まれるようになれば、他日誰かが補って立派なものにしてくれるであろう、それを期待する。


当時ブログがあったらねえ…って、ちゃうちゃう paper 格が違う。


父祖の地である古河がとっても好きだったんですねえ。真摯な方だなあと思いました。センセーショナルなことを書いて自分をアピールしようとか、単なる自己満足とかではないんですねえ。

歴史を伝え残さなければという念斎さんの想いに グッと きてしまいました。念斎さんの『許我志』のアラを確認しに図書館へ行ったような自分が恥ずかしくなりました。


他日誰かが補ってくれることを期待する…。

念斎さんのような前時代の歴史研究者の想いを以後のたくさんの歴史研究者の方達が引き継ぎ、また、今の研究者の方達の想いが未来の歴史研究者の方達に引き継がれていくのですね。

念斎さんの時代は、一から調べなければならないです。なんの規制もなく行きたい所に行けて、調べたいこともネットや図書館で簡単に調べられ、素人の身で あーだこーだとアラを突いていられる今の時代が、念斎さんはさぞや羨ましいことだろうと思いました。


で、肝心の、芳春院=高林院は?

分かりもはん!(←二人の浄心院日海と同じやん)


ま、同一人物でも別人でもいいじゃあないですか、と思いながらも、もし別人だったら、高林院の人生が消えてしまったことになる。それは可哀想。

しかし、古河公方のことをよく書いてらっしゃる佐藤博信先生の本にも、高林院という文字は出てきません。どうやって調べたらいいのかのう…。


「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

「古河公方の古河を歩く~前編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html
「古河公方の古河を歩く~後編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8375.html

「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fdbc.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html


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2018年7月24日 (火)

恒例 「北条氏政・氏照墓前祭」(2018)

マリコ・ポーロ


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~カトケン市長さんのご挨拶~


7月11日。
北条氏政・氏照の命日が今年もやってまいりました。

北條遺跡顕彰会による「北條氏政・氏照墓前祭」には、こたび久々に加藤市長もお出まし。観光課さんによる北條パンフの配布とグッズ販売も出て、今までになく盛況でした。


今回はお寺さんが変わりましたね。今までは、墓所を管理する永久寺さんでしたが、今年は「りんこう寺」さん??(お寺の名前を聞き洩らしてしまいました)。

読経のあと住職さんが尺八を奏してらっしゃいました。大伯父の幻庵殿も一節切の名人。兄弟の供養になったことでしょうねえ。

パフォ~note


我が八王子城からも、旧守る会の残党衆で今は他の歴史活動している重鎮達や、知人の氏照ファン5‐6人の方達のグループさん、また、残党衆のおひとりが関わってらっしゃるお城関係の某メディアもいらしていて、これまた照どのも喜んでくださったことと思います。

祭壇には、それぞれが持参して御供えした銘酒「氏照」と「八王子城」が並びます。映えていたのか、氏照ゆかりの銘酒は小田原タウンニュースにもバッチリ写っていました。

しかし、こうなると「氏政」とか「大途」とかの、兄上様のお酒も造らずばなるまいて。「火牛」がなくなったのが残念なり。


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~観光課の出店?その法被(ハッピ)が羨ましいです。もっと安い生地とプリントでいいので販売してくだされ。~


顕彰会さんによるこの墓前祭は昭和28年から続いており、それにも歴史があります。どうぞこちらの記事をご覧くださいませ。→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-312a.html


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~高野山奥の院の小田原北條家墓地にある、北條顕彰会さんが建てた墓碑~


顕彰会さん、いつも銘菓「虎朱印」をご用意くださり、大変ですよねえ。ありがとうございました。お参りした人達に配られた伊勢宗瑞こと北条早雲の団扇は、今年だけ特別です。

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合掌…


「北条氏政の首級(みしるし)はどこに・・?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-470a.html
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-df65.html

「それからの後北条一族」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-93b0.html

「北条一族の高野山 1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-f00e.html
「高野山、小田原坊」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/3-6cea.html

「北条家、狭山藩邸跡」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5c4c.html
「北条氏規の大阪の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-361c.html

「「江戸時代の北条家、東京の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-72d6.html
「北条家 下屋敷の「北条坂」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-6434.html

「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e356.html
「兄上様(北条氏政)からのお届けもの」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-d92a.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年7月 5日 (木)

今日は、428年目の小田原開城の日

マリコ・ポーロ

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~小田原の「負の遺産」石垣山より。この日の小田原は けぶっていた(2018年6月末)~


今年も7月5日がやってきました。小田原開城の日です。

何度も同じことを申して恐縮ですが、小田原開城の日にタイムトリップするには、石垣山から小田原城と相模の海を眺めるのが一番だと私は思うのです。だから、7月に入ると毎年石垣山に登ります。

俯瞰する城内や総構には幟も櫓もなく、海には九鬼の水軍も加藤の水軍も長宗我部も脇坂もいません。でも、行かれてみてください。見えるでしょう?428年前のそれらが。聞こえるでしょう?428年前の鐘や太鼓の音や兵馬の嘶きが。


我らが北条軍団軍団長、我が八王子城主 北条氏照 が陣を張った早川口もすぐ真下によく見えます。

氏照は早川口の土塁の上にシッカと足を踏ん張って立っています。ハタッと石垣山を睨み拳を振り上げて歌う声が風にのってくるはずです。


♪ く~れないーに そーまぁった
こ~の オーレーを
な~ぐさめーる やーつは
も~ いない ♪



いや…違う。


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失礼いたしました。

そんなこんなで、一年ぶりの石垣山です。428年前にタイムトリップしたのは、某北条研究者の方・八王子衆の重鎮で城郭研究の紳士・北条仲間の相模の武将、妄想族のマリコ・ポーロの計4人。

某北条研究者の方は、この日の午後に小田原での御講演を控えてらっしゃいました。天正地震と小田原攻めとの関係をお話しされたのですが、とても興味深かったです。


6月後半の八王子城での八王子衆加藤哲先生による御講演に続き、この日の石垣山の登城と某北条研究者の方の御講演で、ここのところ「北条五代の娘たち」に浸りきっていた気持ちが一気に天正18年へ持っていかれました。


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石垣山はとても整備の手が入っていて、石垣が良く見えるようになっていました。しかし、見えれば見えるで崩落の進み具合もバッチリ分かり心配なところです。

でもね、まあ、エエわ。
しょせんは、よそ(秀吉んち)の城だもんね~。すみもはん、小田原の関係者の方々 bleah


11日は、氏政兄上・氏照が天に召された日。現代の小田原では、「北條氏政・氏照墓前祭」が行われます。

では、こたびはこれにて。

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


「北条氏直、最後の当主の 『最後の朱印状』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html

「天正18年7月5日「小田原開城」 アーカイブ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-c464.html
「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-adb2.html
「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「天正18年、そして小田原は囲まれた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-918d.html

「北条氏政・氏照 「墓前祭」~今年も小田原開城に思いを馳せる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-312a.html

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「堀秀政の小田原の墓」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bf85.html
「「関白づくし」の石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-ab53.html

「天正18年の「石垣山一夜城」を歴友と歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「石垣山で歴友たちと天正18年を偲んだ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e888.html

「小田原攻め、北条氏照の本陣」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html
「小田原攻め、徳川方の陣場めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5964.html


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2018年6月23日 (土)

『新九郎、奔る!』 ゆうきまさみ 著

マリコ・ポーロ

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今日、6月23日、八王子城落城。

八王子城と城主北条氏照については、9年前に当ブログを始めた時から書き尽くして参りましたが、八王子城は「戦国の終わりを告げた城」 by 故椚國男 です。

八王子城は、小田原開城のとどめとなりました。(今の暦では、今年は8月4日になります。)


そんな日に、北条の始まり…いえ、始まる前から を描いたコミックのご紹介を。

「月刊!スピリッツ」小学館 に3月から連載されている漫画 『新九郎、奔る!』 。お!皆様すでにご存知でしたか!


文正元年(1466年)山城国。
我らが北条早雲こと伊勢千代丸(新九郎)クンは11才。年齢は新しい説をとっていますな。

賢く、物怖じしない正義感の強い少年に描かれています。お姉ちゃんの、後の北川殿も、勝気で好奇心旺盛な女の子。


そんな千代丸くんが、父上や叔父上や兄上や北川殿が暮らす京へ向かうことになります。

都は応仁の乱前夜。千代丸クンは、そこで細川・山名らと幼いながらも丁々発止…とまではまだいかないようですがsweat01、今月号(6/26発売)は、いよいよ応仁の乱勃発です!


作者の ゆうきまさみ氏は伊勢宗瑞を敬愛されてらっしゃるそうで、内容は本格的。セリフが多く、応仁の乱をよく知らない私にとっては、一度読んだだけでは把握できず、何度も読み返しています。

これは、まさかの 初の大河ドラマ原作がマンガ となるかもしれない!それは、原作がなく、支離滅裂な大河ドラマを制作するよりは遥かに良い。


ここに絵を載せるわけにはいかないのが残念ですが、成長した新九郎青年はりりしいイイ男。

単行本になるのを待とうと思っていたのですが、連載が始まる3月号に新九郎さんのクリアファイルのオマケが付いていたので購入。そうなると、続きがどんどん読みたくなり、そのあとは電子書籍で読んでいます。

(追記:8月に単行本が出るそうです!!)


八王子城戦で果てた人々に、合掌 bottle


「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cfde.html

「報告▲八王子城の発掘調査見学会」御主殿の地は焼けていた
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cac0.html


horse 以下、八王子城落城について書いた記事の極一部です。ご再読賜れれば嬉しいです。

「八王子城落城、氏照の残・念」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-4eae.html

「今夜半、八王子城総攻撃始まる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/420-9797.html

「今日、八王子城 落ちる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0e49.html

「八王子城、戦い済んで日は暮れて・・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-1bb4.html

昨年の番外編
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫さま」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-f195.html

もっと番外編 「城跡の幻影」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-75cf.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年6月 6日 (水)

安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?

シリーズ 北条五代の息女たち
【二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室


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~安房「正文寺」は、勝浦城主だった正木頼忠が父時忠の隠居所跡をその菩提寺として中興した。~


その1ヶ月前の3月初旬。葛山へ嫁いだ北条氏綱の娘を追って「御神渡り」を拝んだ諏訪湖の湖面は凍っていた。

うって変わって、抜けるような蒼空の下の真っ青な海を車窓に、太田へ嫁いだ同じく氏綱の娘を安房に追う。


まずは、前回のブログ記事の安房編①を思い起こしてくださると助かりまする→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html


生まれた家とハズバンドは違えど、同じ法名、同じ人生、同じ没年月日として記録されている北条浄心院(氏綱娘)と三浦浄心院(道寸娘)。それは、どちらかの人生が無かったことになっているということでチョット可哀想。と、余計なお節介心にかられて足掛け3年。

どちらが「浄心院日海」なのか。江戸(東京)では手掛かりがつかめないため、どうにも我慢が出来ず、鎌倉から里見へ走った(さらわれた?)青岳尼 の如く海を渡りship…ウソウソ、外房線と内房線を乗り継ぎtrain、「浄心院日海」の御位牌を拝ませていただくべく安房南三原の「正文寺」をお訪ねしました。


広間に入るなり、正面にドドーン と大きな御位牌が!正文寺さんへは事前にお電話でお願いをさせていただいておりましたが、出しておいてくださったのですね。嬉しい~~です。

以前、早雲こと宗瑞の娘を追って伊豆修善寺の「金龍院」さんをお訪ねした時も、幻庵の御位牌を手前の机に出しておいてくださいました。お寺さんて、ありがたいです。


それが、こちらにござります。

Photo
~大きさが分かり易いように、お供えにとお持ちした近江の名酒「道灌」の四合瓶箱を横に置いてみた。北条・三浦、どちらの娘にしても、太田家に嫁いでいる(父と息子)ので、「道灌」を(もし北条浄心院なら、イヤかもしれないけど。)~


おぉぉ!
と、まずは手を合わせ、それからジックリと拝見。


3
~見えますか?写真は御住職のご許可をいただき掲載~


先にお電話で伺うまでは存知ませんでしたが、浄心院日海ひとりの御位牌ではなく、正木氏の御位牌をのちに一緒にしたものです。浄心院の法名は、累代の当主と一緒にあるのですよ。

江戸時代になって暫くしてから、紀州のお殿様 - たぶん頼宣(生母のお万は開基頼忠の娘で徳川家康の側室)- が、まとめられたそうです。


ピンクのが「浄心院日海」です。わお~!!

会えましたね~、浄心院さまぁ。お会いしたかったですぅ crying


恥ずかしながら正木氏のことはほとんど知らず、こたびは俄か仕込み。どれがどなた様やら分からず、御住職さんに一人一人教えていただきました。

もう一度、手を合わせます。


前回のブログでも触れた江戸白山の浄心院菩提寺の 浄心寺(今は廃寺)さんと同じく、御住職は二人の浄心院日海についてとてもご研究をされてらっしゃいました。

お話しを始める時、お互い見せ合った自作の系図が、向きも、北条家・三浦家・太田家の配置もまったくそっくりで、あらら~ happy01 って。


御住職とひとしきり、二人の浄心院についてお話しをしました。二人の浄心院について、トックリとお話し出来た方は初めてでしたので、とても楽しかったです。

そのあと、本堂で御本尊様をお参り。そして、勝浦城主の正木氏5人の立派なお位牌もお参りさせていただけました。


お寺の裏山には「お塚」と呼ばれる正木家累代のお墓や、三浦道寸のお墓(供養塔?)があるそうですが、なんせ虫がまったく、本当に、思いっきりダメなワテ。真冬とか、先陣を担ってくれる誰かが一緒だったら行けたのににゃ~。残念。

それと、もっと正木氏のことを勉強していったら、正木一族の様々な謎についても御住職とお話しできたかもしれない。重ね重ね、残念。


で、結局、浄心院日海はどっちだったのって?

think ………

分かりもはん。


北条・三浦、どちらかどころか、浄心院日海の御位牌が安房にある本当の理由さえ、オイには分かりもはん。

いえね paper 旦那、奥さん、おじょーさん、お坊ちゃま。もうひとつ何か決定打がないかどうか、この一ヶ月考えて探していましたが、ありまへん。タイムアップで、ブログを更新しました。

すべては、安房の青い海のみぞ知る

ってことで。

正文寺の御住職様、ありがとうございました。


fish 誕生寺


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~誕生寺の太田堂。ピンクの矢印は太田康資のお墓(供養塔?)~


帰路、海の幸で遅いお昼をいただきがてら、正文寺の本山(本山でいいのかしら?)である小湊「誕生寺」をお参りしました。

誕生寺は、北条浄心院の息子、太田康資の菩提寺です。康資は北条から離反し里見につき、永禄7年に国府台で戦死しました。


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~太田堂から望む安房の海~


江戸に菩提寺がある「浄心院日海」の御位牌がなぜ安房にあるのか…。


● その御位牌は三浦浄心院のもので、三浦が没落した時に、三浦浄心院を含む一部の一族が旧領のあった安房へ逃れてきたという話があります。三浦浄心院は、正木の養女となり(前回の記事の写真)、安房で亡くなり弔われたのでしょうか。

しかし、その話は今では時系列が合わないため違うとされているようです。また、もし安房で亡くなったとしたら、菩提寺が江戸にあるのも不思議です。


はたまた、その御位牌は北条浄心院のもので、里見へついた息子の康資が母の御位牌を江戸から持ってきたのでしょうか?

しかし、それなら何故、正木氏の位牌に一緒になっているのでしょうか。


皆様もそうだと思いますが、旅の終わりに、こうやって当時その人が見たのと同じ景色を眺め、その人が歩んだ人生を 勝手に bleah 想像しながら想いに浸るのは、それはいいものですよね~。

自分へのお土産に、誕生寺の門前の酒屋さんで 鴨川の 地酒を買いました。家に帰って飲みながら、タイムトリップの余韻に浸れますね!


こたびはこれまでに。


「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html
「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html


・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html

・三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年5月 6日 (日)

安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?

シリーズ 北条五代の息女たち
【二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室】                     マリコ・ポーロ


Photo

~安房「威武山 正文寺(しょうぶんじ)」~


なんとまあ!
そなたも、よくぞここまで わらわを追ってきたものじゃ…

と、浄心院日海様はおっしゃった。


日蓮上人の生家だったという「大本山誕生寺」の末寺「正文寺」は、誕生寺のある安房小湊から外房線で30分。安房鴨川からは内房線で20分位の南三原駅を降ります。


安房小湊といえば鯛の浦fish。少し前までの坂東の民なら誰でも歌えた♪ゆったり たっぷり の~んびり 旅ゆけば~♪ のホテルmoon3。安房鴨川といえば、シャチやセイウチのショーの鴨川シーワールド。千葉はもちろん東京や茨城(埼玉あたりもかな?)の人間なら、子供の頃に、いや、大人になってからもドライブがてら何度かは遊びに行ったことがあるはず。

そういえば、鴨川から少し行ったところに、フラミンゴのショーや、孔雀が次々と崖の上から突き落される…ちゃうちゃう、飛翔する行川アイランドというアミューズメント施設がありました。今は閉園しているそうですね。


威武山正文寺は、そんな外房らしい真っ青な海から車で8分程内陸に入った、真っ青な空の下に立派な仁王門を構えた大きなお寺でした。勝浦城主だった正木頼忠が父時忠の隠居所跡をその菩提寺として中興したお寺だそうです。時忠の法名が「正文」。威武院殿正文日出居士なのだそうです。


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~本堂、浄行菩薩堂、祖師堂などの堂宇のほかに、中世の石塔群や五輪塔などがあるやぐら、本堂には勝浦正木氏歴代の御位牌、裏山の「お塚」には旗本正木氏累代の墓や三浦道寸の墓(供養塔)などがある。~


「浄心院日海」という女人は、北条氏綱の娘か三浦道寸の娘か。もう2年以上、あーだこーだと考えておりますが、いっこうに光の筋が見えません。

そりゃあ浄心院が北条の娘だろうが三浦の娘だろうが、大きな歴史の流れにはまったく影響ないことですが、どうしても突き止めたい。浄心院様からも、「わらわを探してたもれ」と言われている…ような気がする。勝手に。

こうなったら、浄心院日海の御位牌があると聞く勝浦正木の菩提寺「正文寺」へ参るしかない!と、ヒノキ花粉の飛散マックスとなった4月の初め、安房へ向かいました。


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~何度も出している関係者のみのザックリ系図をもう一度(資高が正室の子というのはマリコ・ポーロの妄想。たいがいは、三浦浄心院と資康との間の子とされている。)~


▲ 登場人物は、ふたりの浄心院日海&それぞれのハズバンド&息子

三浦浄心院
父:三浦道寸
夫:太田資康(太田道灌の息子←諸説あり)伊勢宗瑞の三浦攻めの時に妻の実家である三浦へ加勢し、そこで果てたとされている



北条浄心院
父:北条二代当主・氏綱
夫:太田資高(↑の太田資康の息子)江戸にて没

・ヒントになりそうなその息子
母:北条浄心院
父:↑ の太田資高
安房へ行き里見に付き、安房にて没(菩提寺は誕生寺)


▲ 今までの妄想を時系列で整理する

文末に添付している過去のブログ記事に、グダグダと書いてはおりますが要約すると…


①「北条五代の娘たち」の足跡を順番に辿っていて、太田資高に嫁いだ氏綱の娘「浄心院日海」の番になる


②夫の資高の記録が少なく不思議に思う


③『太田家記』やらその他諸々手あたり次第乱読していたら(もちろん口語訳)、三浦道寸の娘も同じ法名「浄心院日海」だということを知り、ドびっくり~する。


④ それにしても父親の嫁息子の嫁が同じ法名ということがあるだろうか?と疑問を持つ。


⑤ 『三浦系図伝』『正木氏先祖書』などなどなど引き続き乱読していると、北条浄心院についても三浦浄心院についても同じようなことが書かれてあり(ご興味ある方は先のブログ記事引用しているのでご参照あれ)、いったいぜんたいどういうこっちゃ?と混乱。

チビット違うのは、『太田家記』には、北条浄心院が夫と別の菩提寺になった いきさつ などが詳しく書かれていること。

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~『旗本正木氏先祖書』。ピンクのマーカーのところに三浦浄心院が。~


⑥ そして、衝撃の事実(←ちとオーバーかも)を見つけて、たまげる。

なんと、三浦浄心院と北条浄心院の没年月日と没した場所(江戸)と菩提寺(江戸)が同じだったのだ!coldsweats02


が同じ法名で、同じ日に、同じ場所で亡くなるなんてことがあるだろうか?いや、ない!ということは、どちらかの人生が無いことになっている。波乱の戦国の日々を一生懸命生きたであろうに、それはあまりに可哀想だ。


⑧ 東京の白山にかつてあった浄心院の菩提寺「浄心寺」の事務所に問い合わせさせていただく。かつての御住職は浄心院日海が二人いたことなど一連の話をご存知でしたが、過去帳などに記載が残る浄心院日海の像はすでになく、御位牌は後世に作られたものであり、はっきりしたことは不明だとのこと。


三浦浄心院の夫である太田資康と道灌との間柄や、道灌誅殺後の太田家の家督争い(?)& 江戸太田と岩付太田の関係、内房正木氏成立の謎や、家康の側室であったお万一派&英勝院お勝一派による系図創作疑惑などなどへと興味が広がり、カオス妄想は収拾がつかなくなる。


⑩ 初期の目的に戻り、マリコ・ポーロ安房へ渡るship


果たして安房「正文寺」にある「浄心院日海」のお位牌は三浦浄心院のものなのか?北条浄心院のものなのか?

マリコ・ポーロがそこで見たものは!?なんちゃって。

次回へつづく…


「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「続 ~ 浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html

「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年4月 2日 (月)

祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?

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~榎本家長屋門(練馬南田中)。太田道灌が石神井城を攻めた時に従った「田中十家」のうちのひとつと伝わる。江戸時代は名主さんで、大正時代まで茅葺屋根だったそう。道灌びいきの会で見学。~


このところ、ず~~~っと考えています。以下、考えていることメモメモ。

今まで、

① 太田道灌が主君(扇谷)の指令で殺される

② 息子の資康は山内に付く
(三浦の娘を娶る=三浦浄心院

③ そのまた息子の資高は北条に内通し、江戸城は北条のものとなる
(北条の娘を娶る=北条浄心院

④ そのまた息子の康資は北条から離叛し、安房へ…

と、アッサリ・ザックリだけの認識で満足していました。


そして、
⑤ 太田家は道灌が死んだあと江戸太田と岩付太田に分かれた…

と、何も引っ掛かることもなく受け入れていました。


一昨年より北条五代の娘たちを追い始め、氏綱の娘で資高の室三浦道寸の娘で資康の室 が同じ法名「浄心院殿日海」で、同じ没年月日、没地も同じだということを発見しました。

いったいどちらが浄心院なのかを調べ始めたところ、それぞれの伴侶である資康(父)と資高(嫡男)について疑問が噴出。私のザックリ納得の知識は随分とハショられていて、その隙間隙間を隙間家具のように埋めたくになりました。隙間家具は隙間を有効に活用しますからね。←??


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~扇谷定正が家臣の曾我に宛てた書状(国立公文書館「道灌展」にて)。道灌を誅殺した理由が書かれていた。「道灌が山内に対して不義を企て、それに対して度々諫めたが、道灌が謀反を起こそうとしたため誅殺したとある…」と。~


さて、隙間のこと。

horse 例えば…
浄心院はどっちだ?がメインテーマ Now ゆえ、上の②と③の間の隙間について。

つまり、父親の資康が三浦に援軍として向かい亡くなった(たぶん)のち~北条に付くまでの資高少年は、どこでどうしていたのだろう?

父と一緒に三浦に参陣したのだろうか?江戸とか岩渕とか河越とかに潜んでいたのだろうか?


そもそも、
いったい資高少年の母親は誰なのだろう?三浦の娘、三浦浄心院なのか?

「三浦浄心院はパパ資康の側室であり、正室は元服の頃に娶せられた扇谷関係の娘で、資高少年は三浦とは関係がないから母方の元で暮らしていたのではないだろうか?」と、前にSNS(知人だけとやっている)に書きましたが、これも腑に落ちず。


ここで、パパ資康と資高少年に起きた出来事と年齢を追ってみました。

1476年 パパ資康生まれる(ジジ道灌44才 wobbly
 ↓
1485年 パパ資康元服(9才 coldsweats02
 ↓
1486年 ジジ道灌が扇谷定正の指令で殺される(パパ資康10才)
 ↓
1488年 パパ資康、山内顕定に参陣(パパ資康12才)
 ↓
? ? 年 パパ資康、三浦道寸の娘を娶る←三浦浄心院
 ↓
1498年 資高少年生まれる
 ↓
1505年頃 この数年前にジジ道灌の仇である扇谷定正が亡くなり、パパ資康は江戸に戻る
 ↓
1513年 パパ資康、三浦へ参陣(資高少年15才)
 ↓
パパ資康、帰らぬ人となる…たぶん

あってる?sweat01
(年齢は通説に基づいて計算しました。本当かどうかは調べていません。)


そもそも、
資康は、父道灌が殺されたあとのそんな状況で、江戸で家督相続なんてことが出来たのだろうか?それに、9才で元服!ないことではないでしょうが、チト早過ぎやしませんか?

それを言うなら、資康が生まれたのは道灌が44才の時。ないことではないでしょうし、現代なら普通ですが当時のこと。チト遅くないですかね?やっぱり、資康も養子?


そもそも、
道灌の正室はどこのお嬢さんだったのだろう?

扇谷一門の娘だとか長尾家の娘だったとか様々言われていますが、資康が嫡男だったとして、44才の時の子ですよ(←しつこい。昔の話ですよ、昔の)。とすると、資康が正室の子のわけはないと思うので(いや、絶対とは言えないが)、実子だとしても若い別腹系の女人ではないでしょうかねえ。

あっflair
もしかして形ばかりの正室はいても、女性にあまり興味がないとか…。だとしたら、我が北条氏照どののようですな(娘ひとりいるが真偽は不明)。

素敵~(腐)


な~んてことはナイナイpaper

だって、目黒の誕生八幡神社は、道灌が妻の懐妊にあたり文明の頃(1469~1486年)に筑前の宇美八幡を勧進した神社だと伝わっているそうです。御縁起が史実なら、この時にパパ資康が誕生したのだと思われます。


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~慈雲山観蔵院(練馬南田中)。道灌が石神井城を攻め落とし三宝寺を現在地に移転した時にこちらへ移り、末寺とされたと伝わる。奉納箱に、桔梗紋。~


話を戻し、再び隙間のこと。

horse 例えば…
ふたつの太田家

資康の家督相続があったのかどうかも含め、⑤の道灌死後に太田が江戸と岩付とに分かれることになる経緯には、何があったのだろう?

北条が氏康の代に江戸太田と岩付太田と両方と縁組をしているということは、どちらも北条にとっては重要な相手だったということだったのだと思うのだけど…。

これは、私にはとても調べられそうもなかでごわすが、徹底的に調べている方達がいらっしゃいもす。ご承認の上、文末に添付しもした。


book 今、二人の浄心院殿日海のまとめをブログに書くべく、図書館でアチコチの市史や町史や系図や家記を調べたり、関連寺社へ問い合わせをさせていただいたりしています。

そうしたところ、勝浦正木氏 まで出てきて、勝浦正木は、私のheart01北条氏照どのが取り次ぎをしていたこともあり脳内がますます混乱するばかりなり。


しかし、歴史ファンならご存知のように、系図というものは後の江戸時代に創作されたものが多いゆえ、それだけで判断することは出来ないですよね。系図や新出の史料の裏付けを取るには何年もかかります。もちろん私は取れないですが、プロの研究者の先生方が取ってくださるはずです。

なにとぞなにとぞ、よろしくお願いしもす。


素人のわらわが出来ることといったら…やっぱり、カノ地ship へ行くことかな~。行きたいにゃ~。


beer はみ唐さんの「岩付城と岩付太田氏に関する定説を再考するの記事」https://ameblo.jp/hamikara/themeentrylist-10105261121-1.html

以前、岩付を築城したのは誰かということを地形から考察されているということでご紹介した方のブログです。謎の太田永厳についてもたくさん掲げられています。特に、私の現在の隙間を埋めてくれる家具…ならぬ記事、「太田資高は進駐軍だったのではないか」という仮説は、目からミツウロコ▲▲▲。


wine 会計ねこ子さんのブログです。
https://ameblo.jp/zennchou/entry-12363860043.html

同じく、永厳の謎など岩付太田について精力的に調べて、ほぼ毎日書いてらっしゃいます。私は、「巨人東京とおしゃれ神奈川の人間」←by ねこ子さん(笑) なので、どうしても江戸太田だけを考えてしまいます。ねこ子さんのブログにより、岩付太田への注目が深まりました。


bottle 以下は、ワテの妄想ブログです。
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

cat 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2018年3月30日 (金)

江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?

マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の息女たち
二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室~江戸編】


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~文京区白山には、浄心院様の菩提寺だった「浄心寺」の名が坂の名として残っている。~


先のブログ記事「北条五代の娘たち~浄心院はどっちなのか?」→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html で混沌としていた、浄心院殿日海は「北条の娘か三浦の娘か」について、その後もう少し調査(妄想)をしてみましたところ…


衝撃の事実を発見!!

なんと、2人の浄心院殿日海の 没年月日が同じ (天文19年9月14日)だったのです。

北条浄心院 の没年月日は、『太田家記』より
三浦浄心院の没年月日は、『三浦系図伝』より

ドびっくり~coldsweats02


天文19年…か。北条氏康が山内上杉の平井城を攻め、翌20年に落とした頃ですな。

それにしても、自分の正室と父親の側室が同じ日に亡くなって、法名も同じなんてことがあるかね?氏政の母と正室は同じ日に亡くなっていますが、それは小田原籠城中のこと。こちらはそれとは違いますしねえ。


wine 二人の浄心院とその夫君たちの後半生

核心に触れる前に、まずは時系列を整理してみました。辿るのがメンドクチャイ方はずーっと下方の、「太田家記」の項へどうぞ。


(登場人物)
北条浄心院=北条氏綱娘、太田資高の室
三浦浄心院=三浦道寸娘、資高パパ(養父とも?)資康の側室(たぶん側室)


▲永正10年/1513年
三浦道寸の娘である三浦浄心院の夫・太田資康、三崎にて討死。
(資康の死亡については時期・状況共に様々説があるが、いずれにしても永正10年よりは以前。)


~妄想①~
三浦浄心院が嫁いだ頃、夫の資康は江戸にいたはず。資康が三崎の道寸の元へ向かった時、一緒に行ったのか?→道寸の娘だから行ったと思われる。

また、
資康の子である資高は、その時15才位。江戸へ置いていかれたのか?どこでどうしていたのだろう?


氏綱に内応したのは、「祖父道灌殺害の件で扇谷に恨みを持っていたから…」とも言われているけれど、だったら何故に父親と一緒に三浦へ行けなかったのか?実は、やはり本当の父子ではなかったからなのか?

山内・扇谷がらみの何かしらの事情なのか?三浦についたということは、山内についたということですもんね。

あ!coldsweats02
まだ言わない……テンテンテン

▲永正13年/1516年
三浦道寸、自害。次男・時綱は安房に逃れる(館山市資料より)。三浦浄心院も共に安房へ渡る(三浦系図伝より)。


~妄想②~

ちょっと待てよ。

三浦浄心院の兄弟である義意が三崎で討死したのは20才頃。例えば三浦浄心院が義意の姉だとして、25-6歳。となると資高とは10歳位しか違わない。いくら昔とはいえ、資高は三浦浄心院が産んだ子ではないですな。

妹だとしたら、10代か。もっとあり得まへん。

ということで、先のブログ記事に載せた系図をもう一度。

Img20180317_150642

▲大永4年/1524年
資高が北条氏綱と組み江戸城は北条の物となる。資高は江戸城香月亭へ入る。

▲年不明
氏綱の娘である北条浄心院、資高へ嫁ぐ

▲享禄4年/1531年
北条浄心院、康資を産む

▲天文16年/1547年
資高、江戸にて死去

▲同19年/1550年9月14日
三浦浄心院北条浄心院、両名共、江戸にて死去(太田家記/三浦系図伝)


次に、『三浦系図伝』と『太田家記』を見てみましょう。

どちらも、概要ではなく、どう書かれているか見てみたくて仕方がなかったのですが、なかなか図書館へ行けないでいたところ、歴友師匠殿が関連箇所を抜粋して教えてくださいました。かたじけない。ありがとうございます!


wine 三浦系図伝

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~三浦氏の「新井城」。三崎の要害についても諸説あり。~


道寸の娘について、以下のようにあるそうです(歴友さんのをコピペさせていただく)。

「(義同)女子
嫁太田道灌一男資康、生新六郎「康資」後号武庵、天文十九年九月十四日死于江戸、法名浄心院日海、子康資建寺置像、号浄心寺今猶在小石川」


ふむ。
江戸にて死去か。小石川の「浄心寺」が菩提寺とありますな。浄心寺は、太田道灌開基「法恩寺」の末寺です。

浄心寺はかつて平河口にあり→本郷に移り→最後は白山でした。現代の感覚でいうと、小石川は、そのどこからも少し離れていますね。大きな区分の中ではまあ同じエリアとも言えますが。


また、何故に太田道灌ゆかりのお寺で弔われたのでしょうか?

太田さんちに嫁いだから?でも、三崎に行って、安房に渡った(らしい)三浦の娘を、江戸の真ん中で誰が祀るのだろうか?


そんなことより!
そうです。資高の母でないどころか、この系譜からは資高さんが抜けているではありませんか。資康の子が、孫である康資ということになっていますね。ですよね?読み方合ってます?

ちと、アヤシイ~の~。


wine 太田家記

Photo_3
~現在は日暮里にある資高開基の「本行寺」。当時は江戸城平河口にあった。浄心寺と同じく、法恩寺の末寺である。~


以下、同じく歴友さんからいただいたもののコピペ。

一、資高公奥様ハ北条氏綱の息女ニテ、天文十九年九月十四日江戸城にて御死去、万好斎公と同して法恩寺へ御葬送可有之処、平川口に別之寺を立、彼寺へ御葬送有之、是ハ常々御夫婦不和之由申伝候、夫故新六郎康資公へ御存生之内より被仰置候付、別の寺へ御葬被成候也、彼寺浄心寺と申候、此寺今ハ本郷丸山ニ有之候、

浄心寺書物ニ有之、
「浄心院日海比丘尼 天文十九年庚戌九月十四日施主 太田新六郎康資
本願徳成坊日成敬白」
如此之書付有之、日海様木像之御影有之候


ふむ。

こちらには、浄心院日海は北条氏綱の娘で、資高の奥様であり、(三浦の娘と同じ)江戸で亡くなり、(三浦の娘と同じ)子の康資が浄心寺という菩提寺を建立して葬送とありますな。お寺の場所は、平川口→本郷丸山。まあ辻褄は合うか。


資高さんの道名と菩提寺もこれで分かりました。

道名は万好斎。菩提寺は「法恩寺」。繰り返しますが、法恩寺は太田道灌の開基です、浄心寺は法恩寺の末寺です。


そして、面白い…と申しては失礼ですが、先立った夫の資高と同じ平河「法恩寺」に葬られるところ、息子の康資が、母浄心院の遺言により別の寺を建てたとな。それが、「浄心寺」だと。

なぜ別の寺へという遺言なのかというと、「常々御夫婦不和…」 だとさcoldsweats01


wine 混同

以上のことから妄想するに、やはり浄心院日海は北条の娘で資高の正室である線が強いのではないかと、私は思いたい。だって、そもそも三浦さんちの系図に資高さんがいないんだもの。

となると問題は、安房の正文寺にあると聞く浄心院の位牌ですよね。


三浦系図伝によると、浄心院は江戸で亡くなっています。三崎の戦いの際に安房へ逃れたはずの三浦浄心院は、何故に江戸で亡くなったのだろうか?江戸で亡くなったのに、何故位牌が安房と江戸の両方にあるのだろうか?


~妄想①~
安房の位牌は三浦浄心院 のものではなく、北条浄心院 のものではないでしょうか。

北条浄心院の息子の康資が安房でも位牌を持ったのではないでしょうか。パパとママは不仲だったから、マザコンの康資(←ウソbleah)が、ママのだけ作ったとか。

それが三浦系図と混同され、いつの間にか三浦浄心院のものだとなってしまっている…とか?


~妄想②~
それとも、安房の位牌はやはり三浦浄心院のもので、お名前が不明だったので、いつの間にか浄心院殿日海と混同されてしまっているとか。


なーんて。

皆さんはどう思われますか?


2_2
~嘉永時代の地図。緑のの中に「浄心寺」がある。ピンクの☆のあたりに現代の白山駅がある。~


先日、どこでもいいから、なんでもいいから、浄心院が生きた証の場所に立ってみたくて、トップの写真の「浄心寺坂」を歩いてみたのです。

(坂の名の由来となった浄心院様の「浄心寺」は日蓮宗。現在はお寺はありません。近くに同名の浄土宗のお寺があるのでお間違えのなきよう。)


大きな歴史の流れの中では、浄心院が三浦の娘だろうが北条の娘だろうが、どうでもいいっちゃあいいことです。どうでもいいことではあるのですが、でも、それぞれにそれぞれの人生を歩んだはずの二人の女人が、その人生を混同されたりしていたらお気の毒だと思うのです。


それはこのお二人に限ったことではなく、先の崎姫と山木大方にしても、氏綱室の養珠院と朝倉娘の養勝院にしても、北条ゆかりの女人達だけではなく他のあまたな女人たちも同じこと。ほとんどが、かつての敵の元へ嫁ぎ、実家から与えられたミッションを果たすべく大変な思いをしたことでしょう。

彼女たちにとっては余計なお世話だろうと思いつつ、今日も足跡を辿りながら妄想しておる次第でござります。


こちらが最初に書いた混沌のブログ記事です↓
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2018年3月13日 (火)

「福嶋氏と今川氏親・寿桂尼」 戦国史研究会

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~2018・3・10 駒沢大学駒澤キャンパスにて~

講師は、『今川氏研究の最前線』や大河ドラマの時代考証など今川氏研究で知られる大石泰史氏。


昨年の島田市博物館 「寿桂尼展」で、「花蔵の乱で寿桂尼は恵探側だった」という説明文を読み ドびっくり~して以来 チョコチョコ とブログに書いていおりますが、乱での寿桂尼の立場についてもっと知りたいと思っていました。

そんな時になんというタイミング!
戦国史研究会さんの今月の例会は、福嶋氏と氏親・寿桂尼についての講演だとの矢文をいただきました。しかも講師は大石氏です。

土日はほとんど仕事なのに、偶然たまたま、行けと言わんばかりに仕事はお休み scissors。拝聴してまいりました~。


福嶋氏については、玉縄北条の綱成の出身だという以外はほとんど知らなかったので、とても面白かったです。以下、ビビッときた三つの鱗を自分の備忘録として…。

(もしご興味ありましたら、先にこちらをご覧いただけると助かります。→「花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-9c3d.html


▲-1 福嶋氏は今川家の中でかなり重要な存在だった

それこそ島田市博物館のある島田の領主でもあった。島田は、駿東の国境である大井川畔に位置する物流の拠点。しかし、福嶋氏が入るまでは、この駿河西部には主だった在地領主(国衆と言わなければいけないの?)がいなかった。

福嶋助昌や、助昌開基の静居寺、歴代の福嶋一門の諱などから福嶋が今川で非常に重きを成していたことが分かった。


wine ふ~ん。
だから、福嶋の女が氏親の側室にもなったのですね。


▲-2 花蔵の乱後も今川に残った福嶋氏がいた

福嶋氏は、VS 武田信虎の飯田河原(大永)・上条河原(永正)と、花蔵の乱(天文)で没落したが、以後も、それ以前と変わらずに今川に仕え、三河・尾張方面の最前線に配置され、外交交渉を担った福嶋もいた。


wine へえ~~。
綱成が北条に来たので、福嶋一門は今川では壊滅したのだと思っていましたよ。すみもはん。となると、綱成たちは、いつ、どれだけの人数で、どのような状況で北条へ来たのでしょう?

福嶋氏と小笠原氏は一類であり、福嶋氏にしても、越前守・豊後守・和泉守→稲葉守など色々な福嶋さんが出てきて、綱成さんちはどの系統なのか、はたまたどれでもないのか、よく分かりませんでしたsweat01


伊勢宗瑞と福嶋が一緒に東へ行った…という話もあるそうで、万が一そうなら、福嶋は北条にとっても古参の氏族になります。しかし、万が一そうでも、一緒に来た福嶋に、のちの綱成の父親なり祖父がいたのかどうかは分かりません。

それとも私が知らないだけで、「綱成は福嶋〇〇の出で、いついつ、こうこうこういう経緯で北条へやってきたのだ!」と、最近、いきなり新説が発表され、それに決まったりしているのでしょうか?


そして本題(ワテにとって)の花蔵の乱です。

Photo_2
~寿桂尼の印判「嫁ぐ」(駿府の菩提寺龍雲寺にて)~


▲-3  花蔵の乱での寿桂尼の謎

越前守という福嶋さんが登場。福嶋越前守は、氏親の棺を担ぐメンバーにも任ぜられたほどの重要な存在だった。


福嶋は寿桂尼の取次でもあり、氏親亡きあとの寿桂尼は氏親ラインを引き継いでいる。また、福嶋氏は京都との独自の外交ラインも持っていたのではないだろうか?氏親は対幕府対応にもそれを使ったのではないだろうか?

ゆえに氏親は、福嶋と「姻戚となることで、より一体的になることを望み、家中もそれを容認」。だから福嶋の女が氏親の側室になることも、寿桂尼も認めていたのではないか?


wine なるへそ~。
そういう中に生まれた子供が、花蔵殿(玄広恵探)なのでござりますな。

お話しはいよいよ核心の、ずっと気になっている、武田の高白斎が書いた、

「五月廿四日夜、氏照(輝)ノ老母、福嶋越前守宿所ヘ行、花蔵ト同心シテ翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福嶋党久能へ引籠、…」

です。はたして寿桂尼は、息子の義元ではなく、福嶋と共に恵探を当主に擁立しようとしていたのでしょうか?


大石氏は、
以上などなどのことから、

(寿桂尼が)義元と対峙するのは当然の推移

なのではないかとおっしゃっていました。島田市博物館で私が ドびっくり~! した内容と同じです。


う~む think
これを読んでくださっている皆さまはご存知だと思いますが、ある有名研究者の方が、今主流のこの説に反論していますよね。

それは…

そもそも文書の読み方が違う。「同心シテ」は寿桂尼にかかるのではなくて福嶋越前守にかかる。「福嶋が花蔵殿(恵探)に味方して駿府で合戦し、敗北して久能城に後退した、という文章として理解できる」。だから寿桂尼は福嶋越前守と同心していない…

というものです。


では、寿桂尼は何をしに福嶋越前のところへ行ったのかしら?文にやたら句読点「、」が付いているのも読み解きにくいのでしょうかねえ?

諸説ありということで。。。


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~「太田道灌と江戸」展、 国立公文書館~

すでに先週で終わってしまいましたが、戦国史研究会さんの例会の日の午前中は、道灌を見て参りました。道灌と寿桂尼で脳内ゴチャゴチャの五目ご飯~。


昨今、太田道灌の嫡流について諸説あるようで、最近いきなり浮上してきた「太田永厳」という人のことが何か出ているかもしれないと思って行ったのですが、ありませんでした。


ここに写真を載せるのは控えますが、配布されていた「日本一単純な享徳の乱関係図」が、日本一分かり易くて素晴らしかったです。マンガチックに利根川の左右に主要人物が描かれています。里見とワンコdog が一緒にいたり、宗瑞を隅っこにほんのチビットちっちゃく登場させていたり、京都には義政と万里集九がいます。

それぞれの年齢(文明8年頃)も記されていました。道灌と足利系を除くと、みんな30代前後。ノリノリの世代ですね。


それにしても、パソコンで 「くしま」 とうっても「福嶋」が出てこず、単語登録すればいいものをしないで「ふくしま」と何度も何度もうっていると、「くしまがね…」と話す時につい、「ふくしまがね…」と言ってしまうようになるのが困るのね。


「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-29ad.html

「花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-9c3d.html

「諸説あり?『北条氏康の妻 瑞渓院』 黒田基樹著」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-56ab.html

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


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2018年2月20日 (火)

北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち⑥
【二代北条氏綱の息女~葛山氏元室】


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~諏訪の神が渡る「御神渡り」。ずーっと向こうまでうねりながら続いている。(岡谷市立湊小学校あたりより 2/14)


二代北条氏綱の娘が嫁いだ葛山一族の終焉について妄想を広げるべく、note 8時ちょうどの~ あずさ5号で~ 向かったのは信濃諏訪。諏訪御前の諏訪湖です。2号じゃなかったのがチト残念。


時まさに、五年ぶりの「御神渡り」。

御神渡りのことは皆さまよくご存知のことと思いますのでここには書きませんが、本当に興奮しました。言葉も出ませんでした。写真ではとても伝わらないですが、お天気が良かったこともありキラキラと神々しくて、なんと申したらいいのか…ピュリファイ(浄化)されたような気がしました。


湖畔で御神渡りを拝んだあとは、背後の山にある小坂観音院から御神渡りを俯瞰しました。

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~境内のすぐ下が諏訪湖(つまり画面向こうの白いところは、全面氷結した諏訪湖)~


時まさに、BSで「風林火山」の再放送中。観音院には誰もいなくて妄想の極致。

由布姫さまーーっ!湖衣姫さまーっ!

注) 諏訪御前が観音院にいたというのは井上靖氏の「風林火山」での創作です。それでもいい!このあたりにいらしたと思いたい。


土地の古老がおっしゃるには、今、諏訪湖はおよそ4m 沈んでしまっていて、かつて(どれ程のかつてかは分からなかった)は後ろの山くらいまでが湖面だったそうな。

4m とまでではないにしても、戦国時代は諏訪大社の上社や下社も観音院も、もっと湖に近かったのですねえ。そういえば高島城は浮城と呼ばれていましたよね。


fuji 駿東の葛山一族の終焉で、なぜ諏訪へ?

当シリーズ「北条五代の娘たち」①の北条早雲こと伊勢宗瑞の娘たち番外編「北条幻庵の妻は葛山か?」でもチラと書きましたが、葛山一族の血をひく最後の当主である葛山氏元は諏訪にて命を終えたのです。

一族ということでなければ、武田信玄殿の息子信貞が「葛山家最後の当主」となります。)


最初にこのことを知ったのは、「『仏眼禅師語録』に氏元が自殺したとある」を読んだ時です。

今川・北条と共にあった葛山は、武田信玄の駿河侵攻時に駿東という立地がゆえに武田に付きます。その後諏訪の在番となりますが、北条への一味を疑われ処断されました。それで自殺、か…。


その語録を見てみたい、どうせ読めないけど。語録はどこにあるのかしら?検索しても出てきません。聞き回っていたところ歴友武将さんから「裾野市史にありやしたぜ!それも、諏訪湖に投身だとさ!」との矢文が。

諏訪湖に 「投身」 ですって!?こりゃまた、ドびっくり~ wobbly


道灌びいきの会の史家葛城明彦さんが面白いことをおっしゃっていたことがあります。「身を投じる」という行為は女人に多い。池に身を投げる、川に身を投げる、高い所から身を投げる…そういう伝説も皆女人である。男はあまりしない、と。

なるへそ、平家一門は海や滝に身を投げましたが、彼らは貴族のようなもの。確かにそうかもしれない。となると、バリバリ戦国男子の氏元が諏訪湖に身を投げたとは珍しく、ドラマチックでもあります。さ っそく図書館へ。


と、その前に…


fuji 初期北条家と葛山家の濃ゆ~い関係

駿東地域に勢力を張る国人(今は国衆と言わなければいけないの?)葛山氏は、北条早雲こと伊勢宗瑞一家と縁組を重ねるほどに、今川家の御一家衆として重きをなしていきました。

主要メンバーの縁組としては、

① 宗瑞の側室=葛山一門の女。

② ↑この、宗瑞&葛山女の息子(ほぼそう but 諸説あり)である氏広=葛山に入り葛山当主となる。となると氏広の室も葛山一門の女と思われる。

③ 同じく宗瑞の息子である幻庵の室=葛山一門の女、たぶん(マリコ・ポーロ妄想/文末リンクをご覧くださりませ)


そして、

⑤ 宗瑞の息子である二代北条氏綱の娘=氏広の次の当主である氏元に嫁ぎます。

娘の名前は ちよ 。昔の女人で、名前が分かっている人は珍しいです。ちよさんの娘も名前が分かっています「ちやち」さんと「おふち」ちゃんです。


Photo
~関係者のみのザックリ系図(〇数字はこの系図内での当主の順)。①の氏広は、宗瑞の息子氏時の息子だという説もある。氏綱母は小笠原家の姫。幻庵母は狩野の娘。それにしても、葛山は養子ばかりですな。~


ちよさんの娘の おふちちゃんは、上に書いた、氏広・氏元の次の代の葛山当主である、信玄殿の息子信貞に嫁いでいます。

信貞は、勝頼さまが信長に滅ぼされた時に甲斐善光寺で自刃したそうです。系図上での葛山氏の終わりですね。


fuji 諸説、ちよさん&葛山氏元の最後

ところが…

裾野や諏訪や茅野の市史、静岡や山梨の県史などなど色々と読んだのですが、「投身」とあったのは裾野市史にある『仏眼禅師語録』の「後付けの見出し」だけでした。語録自体には、諏訪湖で波に没溺(落ちて溺れる)とありましたが、自ら身を投げたとまでは書かれていません。


以下、様々。
様々がメンドクサイ方は、すっ飛ばして最後の妄想(?)あたりだけでもご覧くださりますれば嬉しいです。


book 裾野市史より

▲ 仏眼禅師語録

(後付の見出し)
「鉄山宗純、葛山氏元の諏訪湖に投身 するを悼み、漢詩を詠む」

鉄山宗純が仏眼禅師です。

(その漢詩)
…蒙、府命、
潜蹤於諏方大湖上、(中国の誰だかの例えが入り) …俄然被没溺説波


(意訳)
信玄殿の命により、
諏訪大湖上に
潜蹤(跡をくらます)(中国の誰だかの例えが入り) …あっという間に説波に没溺(落ちて溺れる)

嗚呼天乎命乎 crying


(裾野市史の系図)
遂ニ於諏訪為信玄被誅畢 遂に信玄に処罰され諏訪にておわってしまった

でした。「湖」も「投身」も「溺死」もないですねえ。


(語録の割愛した部分は、失脚し湖に身を投げた楚の屈原という武将の話でした。それはつまり、禅師は氏元を屈原のようだと詠いたかったということですよね。
「後付けの見出し」は合っていたのでした。だからといって、氏元が湖に身を投げた証拠にはなりませんが。難し~。)


Img20180218_222018_2
~是非とも行きたい「葛山城」パンフレットと裾野市史のコピーの一部。~


book 諏訪市史
「処刑」のみ。


book 『今川家譜』

諏訪ニテ一族皆討レケリ

「諏訪にて」で、「諏訪湖にて」ではありません。
それにしても、うぅぅ。一族みんな討たれたのですか!ってことは、ちよさんや子供達も?



book 『甲乱記』
信州諏訪ノ郡、高嶋之湖水之波ニ、一門悉く沈果

こちらは「諏訪湖」ですが、今川記と同じく、一門ことごとく沈んで果てるんですね。


book 『松平記』

諏訪にて一門五人、張付にせられける

えっ!五人?
人数が出てきましたね。5人…氏元+ちよさん+娘のちやちさん+3人の息子たち(松千代・竹千代・久千代)=計6人ですな。「一門」なので家族とは限りませんが、ちやちさんは女の子だからご赦免かしら。

そして磔。昨年の大河の政次の磔シーンを思い出してしまいました。


book 静岡県史・山梨県史
「諏訪にて処罰」


と、様々なので、諏訪市さんにも問い合わせました。

pen 諏訪では、葛山は従来の研究調査の対象外ということで、葛山氏の供養塔などももしかしたら存在するのかもしれないが確認できず、「信濃史料」などにも記載がないとの、とても丁寧なお返事をくださいました。

葛山は諏訪では研究調査対象ではにゃい。そりゃそうですよね~。


どこの自治体さんも、お返事いただくまで時間はかかりますが、お忙しいでしょうに一素人歴史ファンの問い合わせにもたくさん調べてくださって本当に有りがとうございます



Img20180214_203258
~上諏訪側の湖畔より初島と八重垣姫像(手前さざ波ではなく凍っている)~


先代の氏広も、この氏元も、葛山城よりは駿府で過ごした方が多かったと思います。女人の ちよさん などはましてそうだったでしょう。

氏元が今川を離れ武田に従い諏訪に行かされた時、北条の女である ちよさん は、他の北条の娘たちと同じように夫と行動を共にしたはずです。


武田に従属した約4年半の後、上に掲げた文書から伺えるが如く、ちよさん も諏訪にて誅されたのでしょうか。

北条の娘たちで夫君とともに国を追われたり自刃したりした人はいますが、処罰された人はいません。万が一、ちよさんが張付にされたり、そこまでてはなくても処刑されたりしていたとしたら…あまりにも哀れです。出家させられたか、すでに病などで亡くなっていたことを祈ります。


もしかしたら氏元たちの遺体は諏訪湖に放り込まれたのではとも考えました。されど、地元の方達の諏訪湖に寄せる思いを伺いながら、この冒しがたい湖を眺めると、処罰された罪人(この場合は葛山)の遺体を遺棄したとは、やはり考えられないと実感しました。


約五百年に渡り駿東に根を張った名族葛山氏の血を引く当主の終焉の地が諏訪だったことには驚きましたが、感慨深いものがあります。

果たして、ちよさんと氏元とその子供達は、私が歩いた諏訪の土の下で眠っているのでしょうか。それとも旧臣の誰かがこっそり連れ帰り、富士の裾野の駿東のどこかに密やかに埋葬してくれたのでしょうか。


氷に覆われた神の湖は、静かに暮れてゆきました。

こたびは、これまでに。



cherryblossom 葛山氏元とちよさんを調べるにあたり、武将歴友の一人であり、葛山城のおまつりなどにも関わってらっしゃる三郎兵衛さんに教えていただくことが多く大変お世話になっております。ありがとうございもす。)


wine 今までの北条五代の娘たちの記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

・三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2018年2月11日 (日)

金沢文庫「運慶」展と、2月以降の気になる企画展・講演会(2018)

Img20180206_180443
~冬枯れの称名寺。静謐…。~


horse 金沢文庫「運慶」鎌倉幕府と霊験伝説
会期: 1/13(土)~3/11(日)

平日なのに、いつも森閑とした金沢文庫もたくさんの人でした。さすが、運慶。


文庫の運慶展の開催主旨のことはよく知らないで参ったのですが、先日の東博との関連開催でありながらも、東博とは違い、東国の運慶とその工房ゆかりの仏像の展示と鎌倉幕府との関係を中心としたのだそうです。とても興味深い仏様が勢揃いで、皆さん説明をじっくり読んでらっしゃいました。

皆さんはご存知と思いますが、仏像の胎内などに「運慶」とサインがあっても、運慶自身が彫ったのではなく 、運慶工房が彫ったものが多いそうですね。胎内サインがあれば自作かと思っていました。知らなんだ。


壮観だったのは、ズラリと居並んだ曹源寺(横須賀)の十二神将。そして私のツボは、昨年「かんなみ仏の里美術館」で拝んだ実慶の勢至菩薩と、保寧寺(埼玉北東部)の宗慶の三尊像が並んで展示されている一角と、来館されていた修禅寺のお坊さん(お坊さんフェチゆえcoldsweats01)です。


お昼は文庫&称名寺に来ると恒例、参道の「ふみくら茶屋」。私たちは峰岸先生はじめ総勢20名弱だったので食事が出てくるまでにかなり時間があり、それが幸いして、別室にて西岡学芸部長さんから、禅律のことや『吾妻鏡』やモッチー(持氏)、称名寺の猿楽などのお話を伺うことができました。

「ふみくら茶屋」のご主人は称名寺の寺侍浅葉家のご子孫だそうで、職業は変われどもう何百年もこの地で暮らしてらっしゃるのですねえ。なんだか、近江葛川明王院の鬼家を思い出してしまいました。


金沢文庫や称名寺を訪ねたり鎌倉を歩いたりすると、小田原北条ではなく前の北条に凝ればよかった…な~んて思ってしまう。一瞬。


Img20180212_200837
~称名寺境内の金堂・釈迦堂・鐘楼の背後、金沢三山と呼ばれる頂から金沢八景の海を眺めるの図(同行の同好の志が撮った写真です)。

https://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/bunko/tenji.html


horse 2月以降の気になる企画展・講演会

矢文・投げ文、そして付け文…は、ないpaper をいただきました。2月からは、チョイト渋い講演会や企画展が続きますな。

国立公文書館の太田道灌と、群馬県立博物館が特に楽しみです!


▲ 津久井城 考古学調査第6回
相模原市立博物館

講 師:佐々木健策氏
日にち:2月25日(日)

http://sagamiharacitymuseum.jp/blog/event/%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%8E%9F%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E8%AC%9B%E5%BA%A7-%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%80%80%E6%B4%A5/


▲ 「太田道灌と江戸」
会 期:1月13日(土)~3月10日(土)
場 所:国立公文書館

ギャラリートーク:次は2月21日(水)14:00~
http://www.archives.go.jp/exhibition/


▲ 鎌倉歴史文化交流館 発掘調査速報展

Img20171115_222819
~坂東の戦国ファンはビビッheart04とくる扇谷にあり、ロケーションも素晴らしい!~

Img20171115_222806_4
~交流館の、前回の第1回目になる企画展は「甦る永福寺展」。大変興味深かった。~


第2回目の企画展は「鎌倉の構造と境界、若宮大路周辺遺跡群・大倉幕府周辺遺跡群」。

会期:2018年1月4日(木)~3月17日(土)

「今回の速報展では、「鎌倉の構造と境界」をテーマに、平成28年度に実施した発掘調査のなかから、若宮大路周辺遺跡群(小町一丁目343番2地点、および大町一丁目1084番1・1085番1地点)と、大倉幕府周辺遺跡群(二階堂12番8地点)について、出土した遺物と関連資料により紹介いたします。」
だそうです。

学芸員による列品解説(ギャラリートーク): 毎週土曜日11:00から
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/rekibun/sokuhou2018-1.html


▲ 講演会「第1回 高麗郡中世歴史講演会」

東国を舞台に活躍した中世武士団 はたして高麗郡にも…」
と。

講師:櫻井 彦氏(宮内庁書陵部)
日 時: 3月24日(土)1:30~4:20
場 所:
日高市生涯学習センター

要申し込み
http://komagun.jp/2017/1218/7098


▲「信長と上野国」
会 期:3月17日~5月13日
場 所:群馬県立歴史博物館

「神流川古戦場や名勝楽山園など、織田氏とのかかわりが深い群馬。天下統一の礎を築いた織田信長と群馬・東国のダイナミックな歴史に迫ります。」
だそうです。


(様々な関連行事の中で特に気になるもの)
・4月22日(日)リレー講座「滝川一益が入った城―厩橋城・箕輪城の発掘調査から―」
・4月29日(日)リレー講座「史料と地形・史跡・伝承からみた神流川合戦」
・5月6日(日)シンポジウム「中世の北関東と京都―織田信長と北関東―」

要予約
詳細→http://grekisi.pref.gunma.jp/95exhibition.html


▲ 日本城郭史学会大会「海城・水城」 
日 時:4月28日(土)大会 13:00~17:30

会 場:板橋区立志村グリーンカレッジホール

内容:
- 発 表① 総論「海城・水城の諸形態」
西ヶ谷 恭弘 代表
- 発 表② 北条・里見水軍の戦と江戸湾の築城
真鍋 淳哉 氏(青山学院大学講師)
- 発 表③ 村上水軍の活躍と築城
大上 幹広 氏(今治市村上水軍博物館学芸員)
- 表④ 九州の水軍とその活動・築城(仮)
鹿毛 敏夫 氏(名古屋学院大学教授)

要申し込み
https://castle-history.jp/news/event201804/


▲ 玉縄城址まちづくり会議

こちらもHPにはまだのようですが、5月~7月に鎌倉や藤沢の戦国時代についての講演会・シンポジウムがあるそうです。こちらも楽しみでございもす!


「瀬戸神社展と金沢文庫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post.html
「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0862.html
「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-a414.html

「神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-dae8.html
「激戦!金窪城から神流川へ~天正壬午の乱」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/18-f136.html

「玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-170d.html
「その2」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-77e4.html
「その3」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-0e19.html
「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-0e25.html
「小田原城内にあった為さま(北条為昌)の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-e4c6.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2018年2月 3日 (土)

一気に埋められた(埋めた?)戦国時代の小田原~日向屋敷跡

Img20180203_105758
~向こう(北側)に見えるのが駅。手前(南側)がUMECOや天守閣。青い矢印 は、大溝(堀?暗渠跡?)。ピンクの が、謎の長方形の空間(下記)。土地は、手前側が高い緩やかな傾斜になっている。~


おととしの初夏の頃から足掛け3年、掘り続けられていました。駅から天守閣への行き帰り、フェンスが長々と続いている光景がもう目に馴染んでしまっていましたが、見学会は今回の戦国時代で最後とのこと。

積雪の影響が心配でしたが、雪の影響はすっかり跡形もなくなっていました。見学会前日はたいそう大変なことだったと存じます。ありがとうございます!
m(__)m


ここは、徳川初期に ミセス大久保(日向殿)が蟄居した屋敷があったと伝わるため、「日向屋敷跡」と呼ばれているエリアです。八幡山丘陵の南西側の張り出し部にあたります。また、南側にはすでに発掘調査が終わった元蔵跡があります。

江戸時代の発掘調査(見学会もあった)が終わり、現在は戦国時代の遺構を調査中です。発掘調査は一番新しい時代が優先で、その下は掘っちゃいけないのだと思っていましたが、今は地山まで掘ってもいいようですね。知りませんでした。それとも、いい場合とアカン場合とは、何か決まり事があるのかしら?


Img20180203_161445_2
~断面からは、江戸時代の遺構の下に、同じ土で同時期に埋められた(埋めた?)痕跡が見られた。~


冒頭の写真の手前側(南側)から、次々と土が投げ込まれた様子が確認できます。つまりUMECO(交流センター)があるあたりの高台の土を削って、短期間で一気に埋められた(埋めた?)のだろうとのこと。

「大規模な土地改変」が行われた痕跡だそうです。


horse 確認された戦国時代の遺構

大溝(堀?暗渠跡?)、建物遺構、素掘り井戸、畝状遺構などなど。

昨年出てきていた、北側の畝状遺構や南側のダレッとしたsweat01 障子堀(佐々木健策さんおっさるところの「カッキリした氏政の障子堀」ではなさそう)などは、すでに埋め戻されていました。


井戸は、このエリアだけでも、なんと 50 本!(江戸時代含む)。全てが同時に機能していたわけではないそうですが、ドびっくり~。水が非常に出てくるエリアだそうです。


horse お宝

瀬戸美濃の大鉢やカワラケも出てきていますが、目玉は、井戸の景徳鎮の白磁の菊皿9枚。綺麗に伏せて重ねた状態で、5枚と4枚に分かれ、完全体で置かれていたそうです。現物と検出時の写真が展示してありましたが写真を撮り忘れました。


見学後に歴友師匠方と、例によって「北條水軍」さんでお昼を食べながら菊皿の話になりました。

何故9枚?
「井戸仕舞いをした跡ではないか?」「9枚重なっていたけど、地震とかなにかで、4枚と5枚に分かれたのではないか?」

私は、「初めは10枚あったけど、1枚は、お菊さんが割ってしまったんですよぉ~。にゃーんて」。

1枚だけ歪んで楕円形だったのは、どうしちゃったのだろうか…?


horse 謎の長方形の空間

Img20180203_161407_2

ピンクで囲んだ部分です。周囲は溝。縁には縁石。立ち木が2か所並んでいます。

両サイドには玉砂利。玉砂利は、中央部には、初めから無かったのか、両脇に寄せられたのか、水で流れたのか分かりませんが、ありません。玉砂利は、元は左下のぐらい盛り上がっていたと考えられるそうです。

建物は、どうやら無かったようです。


立ち木の種類はこれから検査だそうですが、おそらく杉とかの針葉樹のようです。全て、同じ高さで途中で切断されていました。何故かはまだ分からないそうですが、たぶん、ある高さまで土で埋め、そこから飛び出たところを切ったのだろうとのことです。

立ち木の状態で残ったのは、他の部分の遺構も同じことで、一気に埋められたため当時のままの状態が土の下に保たれたのだそうです。

いったい、なんだったのでしょうねえ。生活空間でないことだけは確かですよね。


Img20180203_161455
~広さはこの位。 は周囲の溝。~


戦国時代の遺構は、廃城後に埋められたのか、それとも北条の最後の時に自ら埋めたのか意見が分かれるところです。

「短期間に一気に埋まった」と伺い、御用米曲輪を埋めたのと同じ時かと一瞬考えました。しかし、その埋土層を実際に見て、秀吉の大阪城を埋めた家康殿を思い浮かべましたよ。


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2018年1月28日 (日)

「滝の城」見学会配布資料と、小田原城見学会あります(2/3)

135
~滝の城~


来る 2月3日(土)には、北条の2つの城で発掘調査見学会があります…というか、あるはずでした。


horse 滝の城

我らが北条氏照ゆかりの、所沢にある「滝の城」の見学会は、先日の降雪のため中止になりましたね。久々に登城しようと考えていたので残念なり。

見学会で配布予定だった資料が、さっそくHPにアップされています。

http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/event/main/bunka/genchisetumeikai2017.html


horse 小田原城

我らが本城で、またまた戦国期の遺構の発掘調査見学会です。

皆さんご存知の、駅の横のあそこです。おととしの5月から掘っていましたよね。長~い期間掘っていましたね~。今回の見学会が最後だそうです。


今までにも戦国期の砂利敷遺構、柱穴列、畝状遺構などが出てきていますが、今は、半円状の大きな溝や、周囲を溝と立木で区画して内部に砂利を敷いた建物遺構、井戸などが見つかっているそうです。

三の丸の外にも、戦国時代の屋敷が広がっていて、そこから景徳鎮なども出てきているのですね。面白そうです。

http://izu-sagami.jp/odawara/?p=1732


昨年10月からのスーパー連続講演会&シンポジウムが終わり、早川口の見学会やお城EXPOが途中で入り、やれやれ gawk これで一段落。やっと 「北条五代の娘たち」 の続きに専念できる…とホッとしていましたら(←ウソだ。つまんないって言ってたくせに)。

どーしましょーねー。


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2018年1月19日 (金)

シンポジウム「小田原北条氏の絆」 2018.1

マリコ・ポーロ

Img20180113_110132
~3ヶ月に渡るスーパー連続講演会がまとめられた冊子(クリアファイルはこの日参加した人達だけ)~


小田原城天守閣企画展「小田原北条氏の絆」にからめて昨年の11月から連続して催されてきた講演会は、最終回の今月がクライマックスとなりました。


最終回はカトケン(加藤憲一)市長さんのご挨拶で幕を開けました。

続いて、天守閣館長である「小田原愛に溢れた、まさに現代の小田原城主ともいえる」(←司会の方の弁。会場内にウケた happy01) 諏訪間さん。


来年は小田原城開城500年(←諸説あり) & 北条早雲こと伊勢宗瑞没後500年 を迎えるそうで、諏訪間さんがおっしゃるには、北条氏綱 を顕彰することで様々な企画を進めてゆきたいとのこと。

北条ファンにとってご贔屓の一族衆・一門衆はそれぞれあれど、北条氏綱を一番リスペクトするのは誰も同じだと思います。北条の治世を盤石とした氏綱公がクローズアップされるのは、とても嬉しいことです。


ちなみに講演は…
(11月)
齋藤 慎一氏 「北条氏照と八王子城」
佐々木健策氏 「北条氏政と小田原城」

(12月)
浅野晴樹氏 「北条氏邦と鉢形城」
池谷初恵氏 「北条氏規と韮山城」


(今月1月)
小和田哲男氏 「小田原北条氏の領国支配とその絆」
小野 正敏氏 「戦国大名と京都ー小田原北条氏の権威の演出」
竹井 英文氏 「城郭関係史から小田原北条氏を考える」
諏訪間順氏 「小田原北条氏のイメージと小田原城」

最後は、講演をされた全ての演者の方たち8人によるシンポジウムで幕を閉じました。


今回のブログ記事は(も)、長いです。前半が講演のこと。シンポジウムのことは後半です。


Photo_2
~小野先生の講演~


先生方の講演はどなたも面白かったのですが、特に楽しみにしていたのが小野正敏先生の講演でした。

小野先生の講演を拝聴するのは、4-5年前の、葛西での「戦国時代の城館」と、川越での「中世東国史の軌跡と未来」の2回だけです。北条に特化しての小野先生のお話しは珍しく、北条オタクの私にとっては新鮮かつ客観的なお話しが伺えそうでワクワク happy01


案の定!とーーっても興味深い内容でした。我が八王子城の例もたくさん出ましたよ~。

以下、ビビッときたところを、ザックリで先生には恐縮ですが要約して書かせていただきました(言い回しやお使いになった語彙などは正確ではありません)。先生のお話しは、私なぞではとても書ききれないゆえ、きちんと知りたい方はトップの写真の素敵な冊子を是非お求めくだされ。


先生は、「今東国において北条氏を研究することは大変意味がある。」とおっしゃいます。

horse まずは、ドップリ北条研究ではない小野先生がそれゆえに客観的にクールに(?)まとめられた、北条が東国に根を張るために行った3つの作戦について。


① 氏綱による家格ランクアップ作戦
北条への改姓、近衛家から迎える後妻。また、左京太夫や御相伴衆などの官位取得は戦国時代には何の実態もないものだが、今川・武田のように御職を持たない北条にとっては必要なものだった。


② 東国の武家棟梁としてのイメージ継承作戦
特に鎌倉幕府が庇護した有力寺社仏閣の修造や保護。
(前回のブログ記事で書いた六所神社もそうでしたね!)


③ 関東公方乗っ取り作戦
娘の芳春院を嫁がせ、生まれた男子(義氏)を無理やり(←by マリコ・ポーロ)次の公方にし、そこへ氏康の娘を嫁がせ、北条を関東管領に補任させたりした。

(おお!こちらも当ブログでは「北条五代の娘たち」や葛西城のあたりの「後北条一族の陰謀」などで、しつこく、こってり追いかけておりまするぞ。)


horse 次に、小田原城と八王子城の発掘された権威空間について

▲ 近年次々と北条氏の建物群や庭園が発掘されているが、こうした遺構群がひとつの城だけではなく、いくつもの城で、まとまったかたちで発掘されるのは例がなく、その上、同じ北条氏の城の中で比較できるという点では重要な成果である。


▲ 小田原城の御用米曲輪は、まだ一部しか発掘されていないが(主殿あたりがまだ)、八王子城からは、主殿・会所・池庭・広庭など全てが出てきたといえる。

▲ 御用米曲輪の切石敷きだけを初めて見た時は、その異質さになんだか分からなかったが、全体像を把握した時に、そういうことかと分かった。これは、権威を示す空間として他にも例が見られる空間。

▲ 小田原城の建物と庭園は、広い砂利敷の中に規模の大きな池庭があり、主要な建物と庭を大きく離した広がりのある空間は、将軍家や細川邸などと同じく一昔前の庭の造りであり、つまり、権威を演出するもの。


▲ 八王子城は、エリアの広さ(狭さ)も関係もするが、池と建物がセットになったコンパクトな機能の造り。つまり、戦国時代的な空間。

ただし…

この時代の最先端でモダンなプランの造りや配置なのに、池の護岸の縁取る石の並びは非常に「稚拙」で、「こりゃ、どういう意味だろう???」と。


Img20180113_135341_3
~コレ。 パワホの映像をアップにしました。分かり難い写真で申し訳ないです。八王子城ガイドの会のHPには、もっとハッキリ写っています。~


大内館などの池の写真を示され、普通は池の縁取りは、大小様々な石で景色を作っていくそう。大名庭園と館の専門家である小野先生の考察に、あらためて八王子城の写真を見てみると、まさに、ホンマやという感じ。あの時は、池が出てきたことだけに興奮してしまっていたものねえ。

池の護岸は北条時代は未完で、その後、水が流れてきてしょうがないので大久保さんの人足が取り急ぎ組んだのかもしれない(by マリコ・ポーロ妄想)。


先生はこの話をする時、「八王子の人、来ていないですよね~!」と冗談めかして何度も確認されるのが可笑しかったです。

いますよ~、先生。たっぷり来てますよ~。


小野先生は、現代のことでも、関東を「東国」とおっしゃるのが面白いです。また、お話しを聞いていると、あらためて、つくづく、北条って特殊なんだな~とも思います。


horse 威信財とカワラケ、北条の首都作りのこと

と、このへんで、ワテの筆力の限界。まだシンポジウムのこともあり長くなるので、繰り返しになりますが、あとは冒頭の冊子をお求めくだされ。とても詳しく書いてくださっています。


Img20180113_153214
~シンポジウムは、血湧き肉躍る超ゴージャスメンバー。さすが本城。~


シンポジウムはとっても濃い内容でした。壇上だけではなく会場内にいらしている各城(北条支城以外でも)の研究者方も調査の現況について次々とコメントが求められていました。

企画展と連続講演会のテーマのとおり、北条五代が深めた支城間の「絆」は現代も繋がっている、そんな気がしました。

講演と同じく、気になったところだけ(覚えているところだけsweat01)以下。


▲ 宗瑞の小田原奪取の年が、明応9年に落ち着いた(という新説)について

小和田先生、
「ちょうどこの話がでたので…これは皆さんに申し上げたいのですが…、ひとつの新説が皆で検証され認められるには最低でも10年 はかかる。そういう意味からも「9年」も顕彰が必要。新説が出たからといって、すぐに皆でそうしてしまわないことが大事」
だとおっしゃいました。


佐々木さんは、
考えたことをすぐに発信するとアッチコッチから色々な批判がくる。それで研究が進むという利点もあるけれど、その考えはどんどん変更されていくから常に気を付けて見ていかなければならないと。


齋藤氏、
大森氏を追いやったというが、そもそも大森氏の拠点はどこだったのか?

それは、宗瑞vs大森氏 ではなく、宗瑞vs扇谷 ということで考えるということですか?分からにゃい…coldsweats01


(小和田先生のお言葉ですが、当ブログなぞは蟻の爪にも引っ掛からない弱小ブログなので影響力はまったく無いとは思いますが、新説を読むとすぐに、「こう書いてあった!ドびっくり~!」としてしまうので、少し反省。センセーショナルな書き方はしないようにしようと思いました。)


▲ 氏邦の生年がハッキリしたこと(薬師像の銘札で裏付けられた)と、それによる氏規との出生順のチェンジについて

これは前回の講演会での浅野先生のお話しで初めて知ったことです。


「通説・定説は書き替えられるのが、歴史」 by 小和田先生。

また、考古学系の先生方が、氏邦の生年が何年だろうが実はどーでもエエみたいにおっしゃったのには、会場大笑い。確かに~。


▲ 八王子城、天正18年廃城でいいのか?

齋藤氏
「当事者なので言いにくいのですが…文献データと考古学データの付け合わせは大変難しいが、真実はひとつだと思います。」


▲ 北条の城の特徴

諏訪間さん
北条の城の特徴は、「関東ローム層で守られた城」

齋藤氏
「北条系の城だ」「武田系の城だ」は、ない。と、ここで、会場にいらした加藤理文氏も登場。


小和田先生
もちろん違うところもあるが、ある程度の共通した特徴はあるので、〇〇系とは城の縄張りをあえて分かり易く話すために言い始めたもの。


「織豊系の城郭とは、天守があって石垣があるもの。技術をともなうものだが、後々、技術を伴わない 真似っこ城が出てくる」←あれ?これはどなたがおっしゃったのでしたっけ?


▲ 小野先生

・北条は本来の研究対象ではないが、御用米曲輪を見て小田原北条がなんたるかが初めて分かった。

・全国レベルでトップクラスの城だ。

・八王子城の主殿などの建物プランが、同じ時期に出来た聚楽第とそっくり。最先端の技術を取り入れ、それがすぐ出来る。技術集団が全国を動いている?
(技術集団は契約関係だったと思うと、齋藤氏。これは、講演でのお話にもありました。)

・本城と支城群がこんなにまとまって系統だって掘れているところは他に無い。


▲ ▲ ▲

ふう~。他にもたくさん楽しい話はあったのですが、全に筆力&記憶力&脳内整理力&体力の限界。今日のお休み一日を全て費やしてしまった。ここまで読んでくださった方も、ありがとうございます。

連続講演会には3ヶ月皆勤賞(早退ありsweat01)。途中で早川口の見学会もあったりして、数年前の御用米曲輪の連続見学会を思い出すような、北条成分をたっぷり注入できた3ヶ月でした。ありがとうございました。


karaoke まだまだありますぞ。北条系(?)の大きな講演会。

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伊豆の国市文化財講演会 「韮山城をめぐる攻防」

講師: 中井均氏、齋藤慎一氏
場所: アクシスかつらぎ大ホール(長岡)
日時: 1月20日13:00~
申込不要

問合せ先: 伊豆の国市教育委員会文化財課

オイはもうとても行けもはん。残念でごわんど~。


「お城EXPO」の北条関係講演会 と 小田原城天守閣「絆展」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-1e38.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2018年1月 9日 (火)

北条氏綱が造営した本殿と石垣 「六所神社」

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~ケヤキの巨木が立つ表参道。突き当りが相模国総社「六所神社」本殿。~


JR東海道線二宮駅からバスで10分程。湘南、国道一号線の大磯プリンスあたりを車で走っていると、国道沿いに大きな赤い鳥居が立つのをご覧になったことがある方も多いと思います。


創建は700年代。この地に移り住んだ出雲氏族が櫛稲田姫命を祀り「柳田大神」としたのが始まりとのこと。

「六所」とは、相模の一宮(寒川神社)、二宮(川勾神社)、三宮(比々多神社)、四宮(前鳥神社)、(平塚八幡宮)、そして、この(柳田大神)をいうそうな。本殿にはそれぞれの神様の扉があり、こちらでお詣りをすると相模の六所を詣でたことになるのだとか。


頼朝が、富士川の合戦にむかう時に戦勝祈願をしたり、政子さんの安産祈願をしたりなど、たいへん尊崇した神社でもあったようです。


我らが小田原北条の崇敬も篤く、氏綱が造営した本殿を氏政が修復し、現在の本殿はその時のものだと伝わっています。

父である早雲こと宗瑞の死去後の数年、軍事よりも領国固めに専念した氏綱は、相模や伊豆の大きな寺社仏閣の再興にも力をいれています。神社のご由緒や大磯町のHPには再建年代がはっきりと書かれていませんが(ご由緒には1500年代前半とあります)、大永3年の事業でしょう。棟札が残っているそうなので、そこには書かれているのかな。


鶴岡八幡宮、寒川神社、伊豆山神社はじめ、江戸や神奈川の寺社仏閣のご縁起やご由緒書は、「源頼朝→徳川家康」 と、その間の小田原北条をすっ飛ばして書かれているものが多いのですが(武田信玄殿まで書かれているのに北条が出てこない神社もある)、六所神社さんはちゃんと記してくださっていて、北条オタクとしては嬉しい限りでござりまする。


本殿は一段高いところに建っていますが、礎を支えてぐるりを囲む石垣も小田原北条が寄進したものだそうです。


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~後世に修復した箇所もある~

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石垣には、地元大磯の鷹取山の石が使われているそうです。


北条氏綱が造営した本殿と石垣のことは、瑞渓院の資料から色々辿っていて知りました(瑞渓院関連は府中の方の六所神社)。一度お詣りしたいと思っていたので、年末年始のカキイレドキも一段落した今日、今年の「北条妄想初め」として、こちらへ詣った次第。

今年も、よろしくお願い申し上げます。


「頼朝の伊豆山権現(熱海)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-984d.html

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


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2017年12月24日 (日)

諸説あり?『北条氏康の妻 瑞渓院』 黒田基樹著

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~瑞渓院とも北条ともぜんぜん関係がない、伊達政宗のアロマランプ。鎌倉の「侍気分」さんで一目惚れ。実際はもっと橙色の光で、馬上一人の政宗が素敵。~


出版されたばかりの、『北条氏康の妻 瑞渓院』黒田基樹著 を読み始めました。

まず読んだのは、島田市博物館の「寿桂尼と今川氏展」で、寿桂尼が花蔵殿(恵探)側だったと初めて知って驚いてブログに書いてしまった、「花蔵の乱」のあたりです。くだんの、寿桂尼が花蔵殿(恵探)と「同心シテ」についてですが、大元から覆ることが書かれていました。

(その時のブログ記事です→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-29ad.html


本には、花蔵殿と 同心シタ のは、寿桂尼ではなく福島であろうと書かれていました。文章をよく読めば、そういうことだと理解できる…とのこと。

しょえ~ coldsweats02


有光先生方(企画展はこちらを採用)、小和田先生、そして最新の黒田氏なとなど、私が読んだ本はみんな違いますわ。悲しいかな、原文の古文書が読めない私には分かりましぇん。読める方、主語は寿桂尼ですか?福島ですか?どうなのでしょうか?

年古りて、今川さんまで興味の幅を広げている暇はないのですが、取り急ぎ、諸説あることをブログに加筆せねばと書きました。なーんて、弱小ブログゆえ、たいして誰も読んでないけどね…coldsweats01


また、北条についても、氏邦と氏規の兄弟順(出生順)が入れ替わることが決定的となりました。これは、朝倉直美氏のご研究により、先日の小田原での浅野晴樹先生の講演の、氏邦の生年が秩父郡小鹿野両神の薬師堂にある十二神将の柄名によって証明されたとのことから、すでに分かっていたことでもあります。

(生年は、氏規が天文14年。氏邦が天文17年とな。)しかし、市史などには残るから、なかなか広まらないとは思いますが…。


しかし、こちとら素人ながら他にも調べたくなるようなことが多く、楽しみが増えた本です。

いや、調べるってね、信じていないわけではないですよ。でも、セカンドオピニオン、サードオピニオンが欲しいじゃない?諸説あり、ですしね。


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~「お城EXPO」のティールームの兜のケーキ。濃厚で美味しかった。~


そして今日、「お城EXPO」の講演で伺ったのですが、来月(1月)には、北条氏政についての本が出るそうです。

「氏政という人は、防衛・戦・領国経営など様々な分野でプロパーな人」。江戸初期には「稀代の名将」と書かれているし、当時でも一流の武将である兄弟たちにも大局的な見方で指示やアドバイスを与えている…そういうことを書いてらっしゃるそうです。


氏政ファンとしては、これも買わなきゃ~crying

ってところで、「プロパーな人」ってどういう意味ですか?


「北条氏康正室「瑞渓院」の二つの菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-653a.html

「花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-9c3d.html
「福嶋氏と氏親・寿桂尼」~戦国史研究会」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/post-8921.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2017年12月16日 (土)

「お城EXPO」の北条関係講演会 と 小田原城天守閣「絆展」

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今年もいよいよ押し迫ってまいりました…と、ついこのあいだ書いたばかりの気がします。どころか、そろそろ人生も押し迫ってくる年齢になってしまいますcrying。本当に あっ!という間ですね、人生は。

ま、いいけどさ think


horse お城EXPO

さて、第2回目となる「お城EXPO」の方も差し迫ってきましたね。今年も3日間にわたり様々な講演会が催されます。

昨年と違い、今年は歌舞伎の一幕見の如く、一講演ずつでチケットを買うことが出来ます(厳選プログラム指定券)。ただし、2つ以上の講演を聞くなら通し券(ワンデイ入場券)がお得。


北条ファンとしては、外せないのがこちら ですよね~。

日にち: 12月24日(日)
時  間: 15:30~16:30
演  目: 「北条氏の領国と城」
登壇者: 諏訪間順氏、黒田基樹氏

この日は、平山優氏による「武田氏の領国拡大と城郭」の講演もあるので、通し券がいいかもしれませんね。


私はクリスマスの超カキイレドキのためたぶん行けないと思いますが、皆さま是非行かれてみてくだされ。と、私が申すのもなんですが、旧八王子城守る会の方達が何人か城郭研究会にいらっしゃるので、チト宣伝させていただきました。

HP→http://www.shiroexpo.jp/#program


horse 小田原北条氏の絆 ~小田原城とその支城~

12月24日(日)まで!


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~我が八王子城からも盛りだくさんの展示品。お隣は葛西城の青花器台。~


11月と12月の企画展関連の連続講演会を拝聴しましたが、企画展の方は先日のギャラリートークの時間にやっと見学できました。

講演会はもちろん面白かったのですが、企画展は興奮!北条の直営支城の遺物が本城に集結sign01 でした。


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~鉢形、葛西、箕輪、津久井…などなど~


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~(左)以前ブログにコッテリ書いた檜原の甲冑の残欠も。(右)秩父重国所用五枚胴具足~


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~これも以前ブログに大騒ぎで書いた、幸田口の戦国期の堀から検出された漆塗の重藤弓。パネルの写真が、出てきた時の。展示は、保存処理がなされた本物。~

などなどなど。あと一週間しかないですが、間に合いましたかねえ?


それにしも、2回の講演会と早川口の発掘調査見学会で、この押し迫った11月&12月に3回も小田原へ行ってしまいましたよ。いいのか?自分 (^^; 。

そして、連続講演会の締めは、シンポジウムですね!申込は 12月20日(消印有効)までですよん。

日  時: 1月13日(土)9時45分~17時00分
資料代:500円
講 師 :小和田哲男、小野正敏、竹井英文、諏訪間順

HP→http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/odawaracastle/event/modern-odawara-castle-ikusa-copy-copy.html


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2017年12月 6日 (水)

小田原総構「早川口」の発掘調査を見学しました

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~トレンチは堀底(通路)部分に8カ所。ほとんどが堀(通路)を横方向に掘られていました。こんなにアチコチ掘れるなら、いっそ全面掘っちまえぃ!と思いました。そうもいかないのかにゃ。テヘヘ bleah。~


早川口の発掘調査は初めてだそうです。

江戸時代は水田だったし、明治には政治家(の側近)の流水庭園だったので、どこまで分かるのか?担当者の方たち大変だろうな、いや、専門家は一目見ればいつの時代かがすぐに分かるのかな…などと思いながら、見学に行ってきました。


目的: 地下遺構の状況を確認するため

結果: 調査は継続中。12月いっぱいで埋め戻す。
・現況地形と戦国時代の地形が大きく異なることが明らかになった。
・山側の総構と違い、低地部ならではの石の多用など、小田原城の低地部総構の土塁形成方法を解明するための手がかりを得られた。


検討が必要なこと:
・部分的な調査であるため、更なる土塁の構造についての調査。
・確認された砂利敷き面が虎口内の通路なのか?

などなど、ご説明と資料から書きました。合ってますかね。


Img20171206_000219
~ピンクの矢印 → が早川口の二重戸張です。(小田原市教育委員会、現代図に複合させた城下町・宿場町おだわらの町名・地名図より)~


以下、戦国時代に関係することで気になったことだけ自分の備忘録として書きますが、こんな書き方ではわからないですかね~。


Img20171202_143235_2
▲ 虎口に近い部分。外側の土塁上から写真を撮りました。

・ ピンク矢印 土塁
土塁の内側部分とはいえ、元は土塁ももっと高かっただろうに、それにしては随分と傾斜が緩いと感じました。

グリーンで囲んだ部分
平石の列。 石の下は不明だそうです。

で囲んだ部分
硬化した砂利敷の列。「虎口の通路かもしれない」と。う~ん、もう少し広い幅で見てみちゃいと思いました。

・ 土塁の際あたりに近現代の穴があり、レンガが出ていました。う~ん、難しそう。


Img20171202_143324
▲ 残された堀(通路)の、真ん中あたりです。外側の土塁の上から撮りました。

1枚目の写真もそうですが、私が撮った写真では高低差が上手く出せません。配布資料の写真がこちらです。

Img20171202_215550
資料の写真。向こうが土塁です。


・ ピンクの矢印 土塁

・ 上部の石ゴロゴロ
「石塁状に石を積んだ後、石と土によって土塁として整形されているようだが、石と土塁の関係はまだ不明」 「土や新しい石を取り除くと、石と石の隙間が広く、水が流れやすくなっている」と。

蓮上院も低地部ですが、土塁に石は使われていたのでしょうか?また、海沿いの台場の土塁も、石と土を使っていたのですよね?海沿いの大蓮寺あたりの住宅街の細道を歩いていると、少し名残(とも言えないぐらいの、名残らしきもの)が見えるところもあります。


Img20171202_232638
資料の写真より。

▲ 現代の早川口の入口から入ってすぐのあたりです。


・ ピンクの
「鉢形と同じような、土留めで使われている積み方」と。

狭い幅部分だったので、もうチョビット深いところが見たかったのと、江戸時代の水田層&近現代以降の砂片付け穴が一緒に出ていたのとで、私にはよく分かりませんでした。


水田だけならまだしも、そのあとの庭園がね~。でも庭園だったから早川口がかろうじて残ったというところもありますしねえ。

でも、早川口の土の下が見られる機会なんて無いと思っていたので、行って良かったです。この土塁の上に我らが北条氏照が腕組みして立ち、シッカと向こうを見据えていたかもしれない(病気になってなければ)…と思うと、ゾクゾクしました。


「小田原攻め、北条氏照の本陣」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html
「小田原城総構の「二重戸張」の衝撃」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-d7fd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年11月29日 (水)

火急!見学会「早川口二重戸張」があります▲小田原

スーパー連続講演会の途中で、小田原がまたまた大変です!今度は総構、早川口二重戸張(ふたえとばり)の発掘調査見学会です。

日時: 2017年12月2日(土)
9:30~12:00
見学自由、小雨決行
karaoke 10時、11時に文化財課の説明あり
HP→http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/property/shisekinoseibi/ki-20170544.html


以前、小田原の二重戸張(ふたえとばり)については驚いたことがありました(ブログ記事↓下記に添付)。それがどうなのか、今回の見学会で少し分かるかな。

2
~早川口~


pen 余談

今更私などが言わずもがなですが、小田原の総構や古郭周辺の名称は、便宜上後世に付けられたものが多いです。「二重戸張」もそうですし、血湧き肉躍り数年に渡って当ブログに書きまくった「御用米曲輪」や、妄想の果ての「御前曲輪」、そのあとチビット萌えた「百姓曲輪」などもそうです。


2_2
~山の神堀切~


先日、某北条支城で催された某講演会で、「百姓曲輪」は「山ノ神台」にあるとのお話しを聞きました。

「山ノ神台」の名前も、かつて(江戸時代か?)山神祠があったため後世に名付けられたものです。まったく詳しくありませんが、山神祠は、林業・石工・漁業など山や自然相手の職業に携わる方達が祀ったものでもあるようです。また、これも行ったことがなくて恐縮ですが、足柄城にも「山の神曲輪」がありますよね。


小田原の「山ノ神台」は百姓曲輪の近くではありますが、「百姓曲輪」は、どちらかといえば荻窪口に続いています。

腑に落ちなかったので、小田原の専門家の方に伺ったところ、やはり、「百姓曲輪」は荻窪口の虎口を構成する一部で、「山ノ神台」とは違うとのことでした。とはいえ、「荻窪口」の全体像もまだよく分かっていないようです。


「小田原城総構の「二重戸張」の衝撃」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-d7fd.html

「小田原城「御前曲輪」で妄想す~香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-7998.html

「調査中の御前曲輪南堀(毒榎平北堀)を見てきました▲小田原」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-a209.html

「障子堀が出てきた「百姓曲輪」を偵察させていただいた」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-1a58.html
「2 ▲小田原「百姓曲輪」の虎口」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-c3eb.html
「3 ▲総構の「荻窪口」と「百姓曲輪」の関係」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-0e40.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年11月20日 (月)

花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?

マリコ・ポーロ

加筆しました。あわせて是非ご覧くださいませ。
「諸説あり?『北条氏康の妻 瑞渓院』 黒田基樹著」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-56ab.html


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~駿府、寿桂尼の隠居所であり菩提寺でもある「龍雲寺」~


少し前のブログ記事に、島田市博物館の「寿桂尼と今川氏展」のことを書きました。その時、花蔵の乱で寿桂尼は義元ではなく玄広恵探を擁立しようとしていたという展示を見て、皆さんはすでにご存知のことだったかもしれませんが、私は驚いてしまいました。


その根拠として、

① 企画展の説明には、高白斎記に「(寿桂尼は)花蔵ト同心シテ」とあることだとありました。高白斎とは、信玄殿の駒井高白斎のことですね。


チラッと調べたところ、

② ‐寿桂尼は福嶋のところへ何かしらの「住書(注書)」を持って行った(←このことがどこに書かれていたのかは、この時点では調べきれなかった)。
   ‐ 寿桂尼は夫君の氏親の代から、恵探の母(氏親様の側室)の実家の福嶋と昵懇だった。その関係は、寿桂尼が隠居しても続いている。

いうことは分かりました。


北条以外にあまり興味の巾を広げないようにしているため、寿桂尼が恵探側だったということは初耳で本当にビックリ coldsweats02。広げないようにしているのに、もう少し詳しいことが知りたくて…買ってしまいました~。

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~有光友學 著。吉川弘文館。葛山を調べるのにチョコチョコ図書館で読んでいたが、図書館通いでは間に合わなくなってしまった(キーホルダーは今川さん)。~


ご本の発刊は2013年ですが、参考にさせていただいたのは、中におさめられている 1992年の講演のお話です。


①の「同心シテ」の解釈は諸先生方によって様々です。事件のザックリした流れと合わせて以下。


(天文5年)
3月17日、当主氏輝とその弟彦五郎が同日に急死。

4月27日、福嶋、恵探を擁立し挙兵。

5月24日、高白斎の日記には以下のように書かれているそうです。ここで、寿桂尼が福嶋のところへ行き「同心シテ」が出てきます。

「五月廿四日夜、氏照(輝)ノ老母、福嶋越前守宿所ヘ行、花蔵ト同心シテ、翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福嶋党久能へ引籠、…」

そして、6月14日、花蔵殿(恵探)は藤枝の普門寺で自害することになります。

(天文6年)
2月10日、義元と武田信虎の娘が結婚

2月26日、北条氏綱が「駿州出陣」

という事態になってゆきます。


② の「住書(注書)」とは、書物(カキモノ)、書類のことです。かなり分かりました。


「住書(柱書)」のことが書かれていたのは、義元が岡部左京進に出した自筆の感状だそうです。

何に対しての感状かというと、花蔵に取られた「住書」を取り返したことに対してだそうです。
住書花蔵ヘ被取之処、親綱(岡部)取返付畢


そして岡部殿は、賜った感状にメモを書き足しています。

乱の前に、大上様(寿桂尼)が住書(注書)を持って花蔵殿へ行った。(岡部殿は)花蔵城(葉梨城)を落とし、住書を取り返した、と。

大上様御注書お取、花蔵被為参候処…うんぬん」


へえ~~ wobbly。乱の前ですか~。感状が出たということは、よほど大事な書き付けだったのですね。その住書にはいったい何が書かれていたのでしょう。


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~企画展でかかっていた今川の赤鳥~


有光先生の本には、寿桂尼の発給文書のことも書かれていました。

同じく息子である先代の氏輝の時は、氏輝が一人前になるまでは寿桂尼が代わって発給していることが多かったのですが、義元の代になるとそれが全くないそうです。義元はまだ 18‐19才で、印判も僧侶時代の黒印「承芳」を使っている頃だったにもかかわらずです。

つまり、乱以降、寿桂尼はかなり遠ざけられたのではないかというのです。


しょえ~~ bearing

なんだか、色々と複雑そう。


歴史小説や雑誌を読んだり、ネットなどで検索すると、今でもほとんど「寿桂尼は実の息子の義元を当主にしたかったので、雪斎と組んで福嶋と恵探を滅ぼした」と書かれていますよねえ。時代劇だって、義元の傍には必ず雪斎と寿桂尼がいるじゃあないですか。

前のブログにも書きましたが、島田市博物館にいかなければ私は諸説あることを知らず、これからも「息子を当主にしようとした寿桂尼」を話していたと思います。花蔵に限らず、こういうことって他にもたくさんあるのだろうな~。


これで完全に決まり!という時点ではまだないとは思いますが、これからはドラマや映画の絵面も少し変わってくるのでしょうかねえ。


「福嶋氏と氏親・寿桂尼~戦国史研究会」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/post-8921.html

「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-29ad.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

cat 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2017年11月11日 (土)

「馬をめでる武将たち展」 馬の博物館(2017年)

開催期間: 12/3(日) まで
博物館への行き方: 京浜東北線の根岸駅からバスですぐ。♪山手のドルフィンは~ の近く。


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断捨離中ゆえ図録は我慢。展示目録はなかったので、気になるところだけメモを取りました。


horse 伝北条氏康像

写真で見ると、困惑しているような顔に見えるかもしれませんが、実際にナマで見るとそんなことはなく、とっても若く、ポッテリした唇が印象的な顔です。

展示の説明には…

▲ 氏康像と同じ頃に描かれたもの。
▲ 直垂は、氏康像は鶴亀だが、この像はそれに松が加えられている。また、小袖も華やか。
▲ 元服はしているが非常に若い。

もしかしたら氏康が直垂を下げ渡したとすると、それは、息子だろう。

とすると、それは、氏邦・氏規・景虎と比定できるのではないか。

と、ありました。


疑問1)
直垂は、絵で見る限りは氏康像と色も違うし(変色しているかもしれないが)、鶴の向きも違うので、別誂えか、絵の上でだけこの柄にしたかもしれないとも私は思いました。

疑問2)
では、なぜ、氏親・氏政・氏照ではなく、邦・規・景と比定しているのかしら?親・政・照だと、ちょっと年代が上になってしまうからかな?

疑問3)
それから、「個人蔵」。
どこから出てきたのかも、像主を判断する材料となりますよね。どこなのだろう…。


と話したら、北条歴友さんがから矢文をいただきました。ありがとうございます。

「個人蔵」は青梅の方で、この肖像画は作年青梅市郷土博物館で催された企画展「戦国時代の青梅~三田氏の滅亡と北条氏~」に出ていたそうです。

青梅ですか…。よもや、源三(氏照)どのではないですよね?青梅をゲットした頃はもう少し大人ですものね?


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horse 北条時長像

時長って誰?鎌倉執権ですか?

幻庵殿の長子で、今、「北条三郎」と呼ばれている方がいますよね。その方のことらしいです。「時長」というのですか。初めて知りました。へえ~~。

こちらは、北条三郎殿の菩提寺である小田原(風祭)の「宝泉寺」蔵です。宝泉寺とは、北条三郎殿の法名です。


horse

・黒漆塗六十二間筋兜(天文4年)
伊達家ゆかりのものらしい
・鉄錆地四十八間筋兜の鉢のみ
上杉朝宗の頃のものらしい
・吹返しに二つ引両紋の六十二間小星兜(永禄12年)
・ 秀吉の馬廻衆のものだという兜

もう一頭あったが忘れてしまったsweat01


horse 伊達政宗がボーイフレンドの只野作十郎くんに出したお手紙

病気の作十郎を心配。
今日は馬を見る予定だったが変更して鷹狩りをした。夜語りの相手がいないので家康がくれた手紙を読んでいるのだよ…などと、とりとめもないことを書き連ねたお手紙。


腐っているのでbleah こういうお手紙が気になってしまう。

手燭の元でひとり、前に貰った家康の手紙なんかを読んでいる所在なげな老齢(52才)の政宗の姿がチョットいいな~と思ってしまって。


なんならワテがお話相手になりましょうか?ペラペラ ベチャクチャ。
「え~い、やかましいオナゴじゃ!そういう意味ではない!」

え?どーゆー意味?

バサッ(←お手討ちの音)


horse その他、初公開の上杉朝宗や、秀吉や官兵衛などの書状。今川氏真が京都にいた頃の肖像や朱印状などなど。

200円でこれだけ楽しめるのじゃ!


23日の講演会も面白そうです。特に、長塚氏による「朝倉右京進ー鞍を作る戦国武士の周辺」が興味津々。朝倉右京が講演の内容になるなんて珍しいです。

行けないですが…。


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~懐かしのドルフィン~

海を見ながら歴史話に盛り上がる午後。note ワイングラスの なぁかぁを~ 貨物船がとぉおぉる~。あ、ソーダ水か。ソーダ水の発泡の中では景色は見えない…と当時話したっけ。


horse これも行きたいが、そんなにどこもかしこも行けにゃい

特別展「戦国時代の千葉氏ー古文書が語る争乱ー」
千葉市立郷土博物館
HP→
https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyodo/tenji.html#tokubetu


過去の馬の博物館での企画展のブログ記事です。

「ススメ!小田原北条氏展」 馬の博物館(2011年)             
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/at-e4d3.html
「戦国の城と馬」 馬の博物館(2010年) 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-cfc6.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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