2012年5月25日 (金)

合戦劇に込められた思い「滝の城まつり」

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~武田信玄と小山田信茂~

前回のブログ記事でご紹介した所沢市の「第一回 戦国滝の城まつり」。合戦劇から伝わる、戦国時代を駆け抜けた人達を思うみなさんの気持ちに感動し、永禄12年の妄想からなかなか抜け出られないでいます。

前半のスペクタクルな立ち回りに比べ、比佐姫が茶を振る舞ってからの後半の場面は、歴史オタクでない方達や子供たちにはややこしかったかもしれません。でも、ややこしくたって、難しくたって、言葉が分からなくたって、外国語の歌や芝居もそうなように、伝わるものは伝わるのだと思いました。あの砂ぼこり舞うギュウギュウ詰め状態で、みんなで最後まで見ていたのが何よりその証ですよね。

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~東所沢駅より進軍してくる武将達を城で待ちます。立錐の余地もないほどの凄い人。~


実は、合戦劇の製作&出演者達(全て本職は他にある素人さん)には、ただ派手なカッチョイイ戦国パフォーマンスを見せるというものではない、そこには、ある込められた「重い」・・・paperちゃうちゃう、いや、そう、「重い、思い」があったそうです。

それを知ると、あの後半の小山田の気持ちの動きや信玄との確執も、「な~るへそ」になるかなと思います。


小山田信茂は、文武に秀でた歴戦のつわものです。元は独立した領主で武田と争いましたが、武田の傘下となり信玄・勝頼に仕えます。大河「風林火山」での記憶も新しいと思います。

信玄亡きあと、色々と思うところあったのか織田につこうとしましたが、魔王にその不忠を厭われ切腹となります。享年44才。今の私達が認識する「忠義」とは徳川に植えつけられた精神で、戦国時代の「忠」「不忠」はそれとは違うと考えますが、一般的には小山田信茂はあまりイメージ的には良い方ではありませんね。

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~小山田信茂の居城「岩殿城」の一部分(大月)~


製作者(小山田役)のお話を一部抜粋させていただくと、

▲・・・一番の謎は、やはり小山田の心変わり。これだと思います。滝の城のお祭りだから、滝の城を主軸にしなきゃいけない。でも、滝の城衆は全て架空の人物。いや、三田さん、比佐さんなどは名前も残っている実在の人物ですが、名前とわずかな特徴だけで、活きた人物に仕上げられなかった。・・・▲


その小山田の心変わりを、今回は地元(所沢・清瀬)や地元の人達のためのおまつりということで、「故郷への想い」として絡めたそうです。そこには、震災で避難したまま故郷へ帰りたくても帰れない方達の思いもダブらせたかったと言います。


小山田のセリフ、
「比佐殿の大石領と小山田領は隣国。幼い頃に面識がある」
は、歴史オタクの私達には一瞬ビビッときて、観戦後もそのことが話題になり、みんな家へ帰ってから地図を開いてあらためて調べちゃったそうですよ。

そうですわなあ。小山田といえば津久井側ばかり隣国と思ってしまっていましたが、大石領側も隣国でしたわなあ。よっく、そこに着眼しましたよねえconfident


前ブログの報告記事でも書いた、撤退を言い渡す小山田に対する武田軍の武者のセリフ、
「あの姫に惚れましたかっ・・・」

製作者の言うところの、
▲ 「誰にでもある淡い思い出」▲

これっすな。オジ様の観戦者達にウケとった理由は。郷愁を誘い浪漫的です。えっ?そんな思い出無い?かわいそ。

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そして、なお、シナリオは深かった wobbly
小山田の脳裏にあったのは志賀城(佐久)攻めのことだった、ということにしたそうです。

志賀城攻めでは、前線の戦いで勝利した後、男は皆殺しにし3千にも及ぶその首を並べ、籠城している城側の戦意を萎えさせ落城させたといいます。その後、降伏した雑兵や非戦闘員の女子供までも金山に送ったり、過酷労働に適さない者は奴隷として売り飛ばしました。

当時の戦とは武田に限らず、もちろん我らが後北条も上杉もどこもそういうことをしていますが、特に志賀城攻めについて言われてしまうということは、当時の人達にとっても「やり過ぎ」の感があったのでしょうねえ。信玄の戦歴の中でも ‘ブラック’ なものです。


たとえ信玄から叱責されることが分かっていても、自分の思い出である比佐殿や比佐殿が大事にしている滝の城をどうにか守りたい。それが、合戦劇後半の小山田の気持ちだったのですね。

製作者
▲・・・私のヘボい演技では、皆さんにそこまでの思いを伝えることができなかったのではないかと思いますが・・・ ▲

いえいえ、そんなことはないですよ。伝わりましたよ。イメージ良くなかった小山田も報われたことでしょう。


「誰もが守りたい故郷だったり思い出がある」
これが、昨年の三増や来月の津久井や、今年秋の三増にも製作・出演する彼ら武将達の共通のテーマでもあります。

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~普段はのどかな「滝の城」~


おお、そうだったのかあ、もう一度ああいう合戦劇を見たいとおしゃる方、また、そういうものを一度見てみたいと思う方は、来月、6月24日(日)「津久井城開城記念」に、ぜひ足を運ばれてみてくださりませ!


あにゃ?
志賀城攻めの後、小山田は、城主・笠原の未亡人を側室にしたのではなかったでしたっけか?側室にしたのは小山田の兄弟でしたっけ?まあ、当時はそんなもんでしょう。たぶん。

また、大河「風林火山」のDVDが見たくなった。


おしまい
▲▲▲


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画像は歴友とマリコ・ポーロが撮影したものです。

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2012年5月22日 (火)

報告! 「戦国 滝の城まつり」

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~風雲急を告げる「滝の城」~

昨年の「三増合戦まつり」の時も書きましたが、地元に、地元を誇れる史跡が残っているということは実に羨ましいことであります。


さて、5月20日(2012年)に開催された「第一回 戦国滝の城まつり」。先週のお休み無しの代休としてギリギリでお休みを強奪できたため、行って参りましたぞ!


合戦劇のルポにいく前に、ちょっとオタクな話。ええぃ、面倒くせぃ!という方は読み飛ばしてたも。

何度かの繰り返しになりますが、「滝の城」は我らが殿・北条氏照どのの支城です。城のあるあたりは柳瀬川を挟んだ東側の太田氏の岩槻領への最前線で、「滝の城」は北条軍の兵站基地であっただろうといわれています。

氏照も、かつて敵対し後に北条の傘下になった三田治部少輔をはじめとした侍衆を「清戸三番衆」として組織し、「境目で大切な番所ゆえしっかり守るように」との朱印状を出しています。


「滝の城」は、その名前がはっきり記載された古文書や記録は今のところないようです。また、「清戸番所」の場所も未だ確定はされていません。対岸の、中世の遺構が発掘されたあたりと一緒に「清戸番所」として機能していたのではないかとも言われていますね。

仲間の狭山衆の、「当時の人の土地の呼び方は曖昧だから、川の両側このへん一帯を清戸と呼んだかもかもかもしれない」を聞いたり、上の朱印状にも「滝の城」の文字がないことからも、もしかしたら、氏照達の感覚では、「滝の城」=「清戸番所」だったのかもしれないかもしれないとも妄想します。そして、城の方が「番所」としてはメインだったのではないかな?とも思います。だって、いざっ!という時に対岸からこちらの城へ詰めるには手間がかかり過ぎますよ。


「滝の城」は、城内はもとよりその外周りにも土塁や堀や曲輪などの素晴らしい遺構が残っています。昨今の発掘調査でも、北条が入る前の大石氏の遺構にも増して、いかにも北条らしい遺構がかなり検出されているんですよ(先の発掘調査見学会のブログ記事をご参照願います)。

また、江戸期にも使われていたとみられる穴(貯蔵庫?)なども出てきていて、なかなか興味は尽きない城です。

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~氏照の弟君・氏邦の、寄居鉢形から援軍の大筒(鉢形衆よりお借りいたした画像のため持ち出しはご容赦くだされませ)


ややこしい話はここまでにして、祭りだ祭りだ。まずは、武者行列がスタートする東所沢駅前へ。


しょえ~。ロータリーは、もっの凄い人・人・人!

(おおやけ)のHPなどには詳細が載らないため、「人が来てくれるかなぁ。でも、お祭りとは神社仏閣に奉納するもの。たとえ一人も来なくとも我らは演ずるのみ・・・」との武将達の心配は、逆に「みんな城に入りきれるか?遺構は大丈夫か?」の心配へと変わりました。


東所沢駅から城まで、市が全面的にバックアップしているわけではないので交通規制がならず、歩道や裏通りを行きます。約2.5kmの道のりを約一時間かけてのゆっくりゆっくりの進軍となりますが、沿道人波が切れるところがありませんでした。

我らも、これは大変なことになる、後で兵糧攻めに遭わないようにと途中のコンビニで食糧調達。ここも並びましたわ。ローソンさんもドびっくり~で、追加の救援物資を大至急発注したかな?


お城では地元の「天神太鼓」が鳴り響き、こちらも、もっの凄い人・人・人!

仲間の埼玉衆の、「戦の時に村人達が避難してきたっていうのは、こういう状態だったのでしょうかねえ」には、一同大爆笑。


模擬店も長蛇の列。その列の途中に八王子城衆を発見し、ズルして追加注文をする狭山衆の八王子城衆(ややこし)。「武州滝の城」という地酒を売っていたのですが、あとで買おうと思ってコロッ忘れてしまい、それだけが悔やまれますわcrying

土塁の上で、午後の観戦に備えしばし休息。

自分達も土塁の上にのっかているくせに、このたくさんの人達で土塁がくずされないかと懸念しているのもおかしな話ですが、重要な所はちゃんと立入禁止の結界ロープが張られてました。来年からは下の公園でやった方がいいかもかもね。下の公園だって当時は城域ですしね。


本郭の境内では、地元のザワガール(??)とかご当地ヒーローのザワマン(??)達のパフォーマンスや、剣舞、再びの天神太鼓などが繰り広げられていて、これはこれで大人気。

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~戦国時代の古式にのっとった、鉢形衆の居合演武~


地元民ではない我らは、合戦までの間、埼玉の山城ガイドをしている狭山衆や、ブログ山城&歴史まつり友の深谷衆に案内していただき、もう一人の八王子衆と共に城内や外周りを探索しました。

本郭は人であふれていましたが、外回りはそれほどでもなく(でも、通常よりはたくさんの人)、謎の腰曲輪や道なども教えてもらいました。

そんなこんなのうちに、いよいよ敵の小山田隊が攻めてくる時刻となりまいたので、合戦場となる本郭の境内へ移動しましょう。

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~大筒が何砲も打ち放たれ、太刀も壊れる程の白熱した白兵戦が繰り広げられる。総勢約30名!一番前で見ていたので、砂ぼこりかぶるかぶる。~

合戦劇は、永禄12年の武田信玄の武蔵侵攻を元にした創作劇です。内容は、先にもたっぷり書いたし、長くなるので割愛。

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~討取ったりーーっ!
討ち取った‘首’を掲げる(背後の木とかぶって力作の‘首’ジェニーちゃんがよく写ってない・・)~

この場面はウケてましたわ。こういう雰囲気の武者、いかにも当時いただろうなあ。

氏照の正室・比佐姫が、城の明け渡しを何度も促しにくる小山田に茶を振る舞ったその赤い 茶碗をわざと落として割る場面などもドラマ的で面白かったです。


自力での運営のためピンマイクが全員にはなく、一本のマイクを廻してのお芝居でしたが、驚いたのはそのマイクリレー。少しの迷いもなく、マイクを次の台詞の人、次の台詞の人へとパッパと渡していくのが見事!

みなさん、歴史まつり歴戦のツワモノゆえ、慣れてますねえ。

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~撤退を言い渡す小山田に、「あの姫に惚れましたかっ」。ここは、なぜかオジ様達の観客にウケとった。

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~「きさまがもう少し早よう参っていたら滝山も落ちたのじゃあっ!」
「お館様っ!申し訳ござりませぬっ!」
小山田を蹴り飛ばし去る信玄~


信玄亡きあと、色々思うところあったのか武田から織田に寝返ろうとした小山田の今後が彷彿とされて、歴史オタクにはツボなシーンでした。


フィナーレ!

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~城方~

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~武田方~


本当にお疲れさまでした~。とっても面白かったです~。

埼玉テレビやJ.COMも撮影に来ていましたね。わらわ、どちらも見られないけど。

この後、武者達は二の郭で観客のみなさん達と思い思いの撮影大会。やり足りない武者達は、まだ立ち回りしとったわ。そりゃ、簡単にはクールダウンできないわね。


「滝の城まつり」は、おまつり自体が第一回目です。そこで合戦劇をやろうと発案した武将殿。その意気にうたれ自前で馳せ参じ、前日から寝袋かついで城山に泊りがけでリハーサルし、協力した武将達。

保存会や神社さんや氏子さん達や地元の方達々々々のお骨折り。そして、狭い境内でギュウギュウ詰めでも、合戦劇をずっと見てくれてた子供からご年配者までの皆さん。

「いい おまつり」でしたね。また来年が楽しみですね。


さあ!脱力している暇はありませぬぞ。永禄12年から時は一気に天正18年へ。今日5月22日は岩槻が落ちた日でもあります。いよいよ「北条落城・開城強化月間」に突入です。

次は、「第422回津久井開城記念~津久井城攻防戦」。6月24日(日)にござります!


「滝の城、焼かれた四脚門跡」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-c856.html
「滝の城の近くにある、北条氏照内室の墓」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/at-a586.html
「滝の城まつり、武将達からのメッセージ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-0980.html
「戦国時代にタイムトリップする新しい祭り2つ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-e531.html

▲▲▲


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2012年5月16日 (水)

「北条氏照が上洛してきたらヤバいぞ」by 三成

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~八王子城 (2011年秋、高尾駅のホームから)~


前回のブログ記事「安土城に妄想注意報がでた日」で、氏照の外交能力は実はどんなんだったのだろう?と書いたところ、ブログを相互リンクしている歴ブロ友・高村殿よりご意見&ご考察頂戴。

・・・氏政・氏照は情報を先取していたように私は考えています・・・だからこそ、石田三成の「氏照が先に上洛したら万事休すだ」という発言になる・・・(引用高村殿ご了承)


おお!そうでしたよ!その文書のこと忘れておりました。以前に八王子城の仲間が、ほれ、氏照が西でも認められていた証拠だよんと、宇都宮文書のこれを持ってきてくれて、オーホッホッホッ happy01 あたりまえだのクラッカーと喜んだことがあったのでしたわ beer


それは、天正17年3月の三成が宇都宮国綱に宛てたお手紙のことであります。

当時北条は下総から北関東の攻略を続けつつも、前年には氏規が上洛したり、おサルの元へ何人も使者を派遣しておったりもしていました。おサルは、その辺の詳しいことを上洛して報告するようにと宇都宮さんへ三成を通して申し渡します。

北条の上洛についても「氏政でなく、弟の氏照でもよい」と言うており、反北条勢と仲良しの三成は、宇都宮さん達北関東の諸将達に「だから早く来い。氏照が先に来ておサルに(とは三成は言わない)色々と言上したらヤバイぞ」と上洛を即したのであ~る。

そうそう大変よ、照どのが先に行っておサルに会ったら。そして兄上様はおサルに言われちゃうの。「氏政殿、弟御をワシにくれんかのう~」って。


わらわとしたことが、我が殿の能力を少しでも疑ごうたりして申し訳もござりませぬ。やっぱり魔王の洗脳がまだ解けてないですかね。


仕事がカキイレドキで休みがなかったのですが、レポートだのなんだの後処理はあるもののやっと今日から通常に戻りますわ。そのカキイレドキ中に考えたのであるが(考えるな!)、この時、氏照どのに行ってみてほしかったな。

もし行っていたらその後の展開は変わっていたのではないかな。

信長の頃の滝川一益が取次だった時代とは違い、家康が間にはいるようになったりしてからは直接おサル側とコンタクトもとれるようになったし、前年には弟くんの氏規も上洛したし、沼田のことについても秀吉もけっこう理にかなった裁定をしてくださっているし、氏政上洛についても妥協案を何回も出してくださっているし(何故か急に丁寧語になっちょる)、いかに強気で負けず嫌いで強引な照どのとはいえ、現地でその目で見てそこに集う諸将達と直接話をしたら違う考えを持ったかもしれない。

照どのなら兄上を説得できたと思うし、さすれば名胡桃も起きなかったかもしれない。名胡桃は兄上・政さんがやらせたともいわれていますしね(猪俣文書・年不詳)


まあでもねえ、戦をして負けたならいざ知らず、何代にも渡り自分達の力でゲットしていった領地を、遠く離れた西で直接手も下さず勝手に、「天下はおサルのものになったから、こっちはアヤツの物、あ、そっちはオヌシが自力で取ったんじゃないから少しコヤツの物にしてやって、残りはそのままオヌシの物でいいよん。それらのことで挨拶に来てちょーでゃあ」と言われてもねえ。プライドの高い大大名の前当主のご隠居様にとっては納得できないべ。

でもそれは北条だけではないのよね。徳川さん始め、伊達だって、上杉だって、日本中の大大名達も同じ悔しい割り切れない思いを抱えながらおサルの元に下っていったわけだわなあ。


なぁ~んてこと仕事中に考えとるなですが、ちゃんとお仕事しましたよ。このご時世にありがたいことに、おかげさまで予算達成(あまり期待されとらんから予算も低いが)。


そうそう、先週の大河「清盛」でも、都の平氏と坂東武者源氏との意識の差が出ていて面白かったですわ。特に、源氏の葛藤が見応えあるねえ。今週の保元の乱から平治の乱にかけては、それがもっと如実に描かれそうで興味津々。朝廷内のシーンも、まるで舞台劇をみているようで45分あっという間なり。


おしまい。

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2012年5月12日 (土)

おサルの惣無事令を考察する新刊書と武将募集

先週は魔王の城ですっかり洗脳され、なかなか永禄12年や天正18年に戻ってこれませんでした。あれからつらつら考えるに、安土城はもう「城」ではないですな。やっぱり、安土城は「迎賓館」で、「ハレ」の役割が終われば巨大な「魔王の廟」となる想定だったのですかね。そういえば、本城は大阪に造るつもりだったという話も聞いたことがありますわ。

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~安土駅前の「御菓子司 万吾樓」さんのお菓子。「安土もも山」というネーミング(ウケた)の桃山。美味しい。~


そんなこんなで、だんだん魔王の洗脳が解けてまいりましたので、新刊本と、天正18年の津久井城への武将お誘いのご紹介をいたしとうござりまする。


horse 「織豊政権と東国社会」by 竹井英文氏

先に当ブログでも、嵐山での目からミツウロコ講演会の様子をご報告させていただきましたが、その若き研究者竹井氏の初めての単著です。

内容は、
~織豊政権による全国統一過程に関する研究に多大な影響を与えた「惣無事令」論を、関係史料の根本的再検討により評価し直す。信州郡割・房相一和・沼田問題・庄内問題などを事例に挙げ、近年の研究成果「境目」地域論や国分論にも言及。東国独自の秩序形成のあり方にまで踏み込んで考察し、従来の戦国・織豊期東国史研究に新たな一石を投じる。(吉川弘文館さんの紹介分より)~


今まで天正14年といわれていた惣無事令の令書とされていた史料は、実は3年も遡る天正11年だった・・・とかとか、またまた興味深い考察が書かれているようですよ。

目次は、
第一章 戦国・織豊期東国の政治情勢と「惣無事」
第二章 「関東奥両国惣無事」政策の歴史的性格
第三章 戦国・織豊期東国の国分と地域社会―北条・徳川国分協定を中心に―
第四章 戦国・織豊期信濃国の政治情勢と「信州郡割」
第五章 「房相一和」と戦国・織豊期東国社会
第六章 戦国・織豊期上野国の政治情勢と「沼田問題」
補論  天正末期下野国の政治情勢と豊臣政権―年未詳七月晦日付け徳川家康書状をめぐって―
第七章 出羽国「庄内問題」再考
終章  織豊政権の東国統一過程―「惣無事令」論を越えて


ぎょえ~bearing 超専門的。わらわには無理無理!と思ったのですが、読みやすく書かれているとのこと。竹井さんは前回の講演会も、難しい内容なのにやはりとても分かりやすくお話されていたので、そうかもしれませんね。

わらわ、今週はカキイレドキでお休み無しのため図書館へ行けずまだ読んでおりまへん。早く読みたいです。大きな図書館でないと置いていないかな?


14年にしても11年にしても、関東・奥惣無事に関しての他の諸先生方の著作を読ませていただいていても、読めば読むほど、この頃から最後に向けて、後北条はどんどん仲間はずれ。情報収集もその分析も悪かったのでしょうねえ。取り残されていきますね。

氏規さんや氏直さんは分かっていたのだと思いますが、我らが殿・氏照どのや兄上・氏政さんがよほど頑固だったのでしょうかねえ。氏照どのは軍団長というだけではなく、後北条の外交も長年受け持っていた方。その辺のところの能力は実はどうだったのでしょうかねえ。表だって今には残っていませんが、一枚岩の印象がある北条兄弟も、実は分裂していたのでしょうねえ・・・ねえ、ねえ。

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先にご紹介させていただきましたが、竹井氏は八王子市史研究の第2号にも「小田原合戦後の八王子城」として、嵐山での講演の内容にそくした小論文を投稿してらっしゃいます。

こちらでは、「天正十八年の豊臣方禁制と非難所伝承」という徳永裕之氏の論文も興味深かかったです。

我らの八王子城にしても小田原城にしても、どこが後北条期でどこが初期江戸時代なのか調査を進めてくださり、早く分かるといいなあ。だって、妄想がし難いではありませぬか。まあ、現在、上に出ているものが江戸初期でもその下には後北条時代があるのですから、妄想するだけならそれでいいっちゃあいいんですがね・・・。


ちょっと話がズレますが、しばらく講演会や見学会、御論文著作については、「こんなんあるよん」のご紹介のみで感想記事を書くのはやめておこうかと思っています。参加も控えるつもりです。最近、講演会や見学会に行くと嫌がられることが多くなり、淋しいゆえ weep

また、本名を公開している方の講演や論文著作の感想を言えるのは、同じく本名を公開している者だけだとのご意見もありました。講演会や見学会に行けない方や、論文や著作をなかなか読む暇がない方にと思って書かせていただいていたのですが、ふ~む、なるほど、公開ブログとはそういうものなのかと考えたので。


horse 天正18年へ行ってくれる武将を募集してるそうです

さぁ~て、話を戻して、
♪まつりだ祭りだ(サブちゃん)。

募集しているのは津久井城でござる。

「第一回 戦国滝の城まつり」とあわせて度々ご紹介している、「第422回 津久井城開城記念」で一緒に天正18年の再現に参加してくれる、すでに武将の方や、これから武将になりたい方を募集していますよ。貸し武具も用意してくれているそうです(数に限りあり)。

当日は、攻防戦だけではなく、武将も見に来てくれた方達もみんなで津久井城と戦国時代の歴史を楽しめるようなアミューズも企画されています。徐々に発表されていくと思いますが、詳細はリンクのブログ「数寄の城塞」か、県立津久井城山公園のHPをご覧あれかし。


今宵と明日5月13日(日)は
第51回 寄居北條まつり

次週5月20日(日)は
第1回
戦国滝の城まつり

来月6月24日(日)
第422回 津久井城開城記念

楽しみですねえ。
我が八王子城だけ取り残されちょるが・・・crying


以下、よろしくば。
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画像はマリコ・ポーロが撮影したものです。


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2012年5月 3日 (木)

「安土城」に妄想注意報がでた日!

今日は、為さま こと 北条為昌さまのご命日。そして、小田原では「北條五代祭り」が開かれますね。

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~安土山。向かって左の峰が摠見寺、真ん中が天主。~

そんなこんななのに、戦国時代好きの聖地「魔王の城」へ行ってまいりました。

前にも書きましたが、信長は好きではありません。大昔、大河で高橋幸治さんの信長を見て「なんて素敵 lovely」と思い、信長のことをちょっとだけ調べたりしもしました。始めて行った山城も「安土城」でした。友人達は誰も付き合ってくれなかったので、始めての山城は一人で行きました。

それでも、どうしても興味が持てませんでしたわ。小説「下天は夢か」は小説としてはとても面白かったのですが、私が思い描いていた通~りの信長で、小説ながらやっぱり信長は好きじゃないと思いました。


そんなに嫌なら、何故 わ・ざ・わ・ざ 安土城に行くのかというと・・・
我らが殿・北条氏照どのの八王子城は、安土城を参考にして途中で築城プランを変更したと言われています。また、以前行った頃は発掘真っ盛り。城中ブルーシートだらけで大手のあたりは全容がよく分かりませんでした。

始めて行ってからウン十年が過ぎ、戦国時代や城に興味が出てきた今日この頃、あらためてそこに立って妄想してみたいと思ったのです。


相棒はもちろん、ブログを相互リンクしていて、大阪城、小田原城古郭、石垣山城と、一緒に妄想の旅をしている歴友 サユリン。サユリン は西の方なので、朝も早ようから安土の駅で待ち合わせでござる。

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~百百橋を渡った所、摠見寺入口。ここが当時の通常時の登城口になるのかな?「火天の城」でも出てきた普請奉行の木村某は、最後はここで討ち死にしたのよね?大昔来た時は確かここから登城したが、今は入れない。~


天正8年、北条氏政と氏照は、織田との同盟締結御礼のため、信長の元へそれぞれの使者を派遣します。政さんの使者は笠原殿、照どのの使者は間宮殿。

北条家は鷹・馬・白鳥・江川酒などなどなどなど・・・の進物も用意し、この上洛には莫大な bearing 費用がかかったそうですよ。信長も、使者一行に大枚のお小遣い?をあげたり、京都見物の接待や、虎皮や猩々皮や縮・緞子などなどなどのお土産を渡しています。

接待役は滝川一益殿で、安土城は信長自ら案内しています。
(以上、下山治久氏著「小田原合戦」、齋藤慎一氏著「戦国時代の終焉」などを参考)

これらは、信長公記に詳しく書かれていますが、その中に「氏政が、関東8ヶ国を信長の分国としてよいと申している」と使者が伝えたとあります。このことについて下山氏は、信長公記はつまり信長側の記録なので、氏政が、関東を信長の分国として・・・なんて言うわけないとおっしゃっていますね。


そうこうしているうちに、天正10年3月、武田家が滅ぼされてしまい、駿河・甲信・関東の歴史は新たな方向へ一気に動き始めます。

信長は滝川一益を関東管領として箕輪城へ入れ、北条氏邦は箕輪城から追い出されました。これが同盟かい。よくぞ北条をコケにしてくれましたのう。というか、北条側も甘かったですわな。当初から思惑バレバレでしたね。

と、ガッカリするもつかの間の3ヶ月後、魔王は本能寺で果て、滝川一益は神流川の戦いにより関東から追い払われたわけです。

めでたし、めでたし。

えっ?

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~西側虎口。私が立っている後方が百百橋口。向うに見える山のもうひとつ向うの側の山が観音寺城。~


圧倒されちゃいましたね、安土城。それは規模とか石の要塞のようだとかということではなく、これを造ったのが他の誰でもなく、あの信長だということにね。

信長が濃いでしょう。ひとつのいわゆる宗教施設のようですよね。洗脳されたようなショックですよ。八王子城をはじめ、他の城とは精神が全然違いますよね。そこに立って妄想するというより、立ちすくんじゃいましたね。

「ここが安土城かぁ~~カァ」

by お江さん(大河 江より)
なんてもんじゃないです。


私ね、思ってたんですよ。
小田原攻めの時に小田原に集った日本中の武将達は、小田原城の総構えや障子堀を見て「かっこいい~heart01、ワシの城にも造ってみたい~」って憧れただろうなあ、って。

でも、そうじゃなかったかもしれない・・・ weep。いや、総構えはおサルも家康も真似したわよね、ね、ね。


しっかし、私なぞでさえそうなんですから、安土を案内されたお使者の笠原殿や間宮殿の衝撃はいかばかりだったでしょうね。登城する足が震えたことでしょう。見学したその日の夜は眠れなかったことでしょう。しかも案内してくれるのは魔王ですよ。

小田原に戻ってからは、興奮してシャベリまくりだったことでしょう。絵図もたくさん書き、ブログでアップしたことでしょう。。。

027 
~延々と続く「大手道」。下から山頂まで全て石段。いったいぜんたいここは金比羅さんか羽黒山か。両側の石塁の上には多聞櫓などを持った大きな屋敷の、金箔瓦が付いた塀があったそう。側溝の幅も広い。~

「大手道」と俗に言いますが、実はここは、「大手道」ではなく天皇行幸のためだけの「御成り道」。それに、「大手道」は江戸時代の言い方ですし。私達が上るのは、当時だったら大名家の一門でも使うことが許されない道ですねえ。


通常使う「登城用の道」と、非通常の「御成り道」。氏照どのが安土城で参考にしたのは、八王子城で家臣達が使う「下の道」と、来賓用の「上の道」を明確に分け、追い手では、それまでの城の常識だった軍事面での「防御」より、政治面での「威容を誇る」ことの方に重きを置いたことですかね。

物の本を読んで頭では理解していても、実際に目の当たりにするとそれがよく分かりますわ。疲れる城・・・いえ、憑かれる城、ですのう。

でも、私は土の城が好きですよ。だって、「土で成る」と書いて「城」でしょ。それに、天下人の城と、庶子(氏照)の城とは比ぶべくもないですしね。


そういえば、この城って、「なんたら曲輪」と呼ばれるところがないのね。どこも「なんたら曲輪」というのは後付けの名称が多いでしょうが、それにしても不思議、安土城。

それに、昔行った時はどこからでも入れてフリーチャージ(無料)だったと思いましたが、今は大手道からしか登城できず、500円を「山主」の摠見寺さんにお支払いするのですね。山城で登城料(入山料)を払うのは初めてですが、維持費も大変なのでしょう。


ポイントポイントで長々と妄想話をしながらゆっくりゆっくり進んだり、佇んだり、カエルを「トウキチロー」と呼んで話しかけたり(← サユリン)。時間がかかるもんだから、後から来る人達にどんどん追い越されてしまうのだ。

2人とも信長があまり好きではないので悪口が出るのだが、そういう時はたぶん誰でも自然と小さな声になるんですな、これが。信長に聞こえたら怖いもんね。


山頂の天主跡からはるばる広がる近江盆地と琵琶湖を(遠くに)眺め、いったい信長という人は、人生で一瞬でも寛いだひと時をもったことがあったのだろうかと考える。

そんな時間は、これっぽちも欲しくはなかったのかな・・・。


安土城は、八王子城と同じく築城3年で終わりをむかえます。誰が火を放ったのでしょう。本能寺では信長の遺体は分からず、信長は逃れたのではないかともいわれていますね。火を放ったのは、本能寺を逃れた信長自身・・・なんてね。

038
~腹が減っては妄想はできない~

摠見寺の方からまわって下城。
伝・前田利家屋敷跡の石垣を見上げながら、ランチタイムでござる!米原駅でゲットした「近江牛大入り飯弁当」。ご飯はうっすらカレー味で美味しい!そして、武蔵の国から持参のシャンパン(いえ、スパークリング)!信長は赤がお好きだとのことなので、ロゼにしましたぞえ。

ブログ歴史仲間の玉縄衆に伺ったのですが、信長はお酒飲まなかったんですって!?ドラマや映画の印象からか、信長=赤ワインだったですよねえ。

お酒でも飲んで少しは寛ごうよ、魔王どの。

飲まぬなら
飲ませてみよう
ホトトギスwine


わらわ達、なんとまたまた日帰り。本当は観音寺城も行きたいのだが、徒歩だし、一ヶ所で過ごす時間が長いので今回はとても無理ね。安土の駅で、上方方面と坂東方面に分かれました。

こたびも楽しい旅でしたね。歴史や時代劇の話もたくさんできました。安土城考古博物館で「信長セット」のお茶をしながら、次はどこへ行こうかの話になりました。桶狭間、関ヶ原、朝倉一乗谷・・・あまたあるねえ。


帰りの新幹線で、サユリン にいただいた、正倉院の修復を見てきた時の資料から「蘭奢待(らんじゃたい」のエピソードの信長のところを読みふける。

やっぱり、やだな、信長って人。


以前のブログ記事「BS日本の城ミステリー 安土城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/bs--3249.html


おしまい。


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2012年4月28日 (土)

江戸東京博物館「北条氏綱の経典」

しょえ~bearing

大変なことが、さりげな~く(なのか?)変わっておるのを見つけてしまいました。先に何度か 目からミツウロコ だったことを紹介させていただいている、今年1月発刊の黒田基樹著「戦国北条氏五代」のことです。

最初に一気に流し読みした後は、興味のある箇所を興味が出るたびに再読しております。江戸博で開催中の「増上寺展」へ、北条氏綱公が亡き正室・養院(ようじゅいん)様の供養のために納めた経典を見にいくにあたり、氏綱公の妻子のあたりをパラパラとめくっていて、年表のページでハタッと手がとまってしまいました。


散々書いております、氏綱公の息子の玉縄城主・北条為昌のところです。

あにゃ?
正室・養院(ようしょういん)の記載が無く・・・なっている。

ちょっと待って。養院はどこへいっちゃったの?(養院と養院と違うので要注意)


為さまheart01は、後北条家が関東に地盤が根付き始めた時代の当主の息子。しかも、嫡男の氏康殿より広き領地を拝領し、次の時代を担う旗頭として父上から大きな期待を寄せられた人です(たぶん)。

その正室がどこのどなただったのか、つまり、パパ氏綱がどこの家と縁組みしたかったかということは、北条家がどこの誰とより強力な結束を求めたのか、または勢力下に組させたかったかということになり、当時の北条家の方針が分かる大事なことだと思うんですよねえ。


当ブログをずっとご覧になってくださっている方達にはまたまた繰り返しになり恐縮ですが、北条為昌の正室は、朝倉氏の娘・養院です。の、はずです。

養勝院を探して年表を追いました。


いらっしゃいましたよ!「つなしげぃ!」の北条綱成の母として。

いえね、綱成は為さま死去後、為さまの養子として家督(主に玉縄)を継いでいます。ゆえに、為さま正室の養勝院は義母になるので、それだけならそれは間違ってはいないのです。しかし、養勝院の没年記述が今までと違っており、その上なんと!夫が違うのですよ~wobbly


養勝院に関する私の最終認識は、2007年の同じく黒田氏の著書「北条早雲とその一族」です。

▲ 2007年版
没年 天文7年
夫   北条為昌

▲ 今回の2012年版
逆修 天文18年
夫   九郎(実福島氏)

あにゃにゃのにゃ???


「逆修 ぎゃくしゅう」とは、自分が生きているうちにあらかじめ(逆)、死後の冥福を祈願して仏事を行うことですね。

福島(くしま)九郎とは誰でしょう。こちらは、2007年版ですでにお書きになってらっしゃいます。当ブログでも紹介させていただきましたが、通説では綱成は福島正成の子ですが、福島に正成という人は存在しておらず、それは、のちに北条一族に組し「伊勢」と改名した「福島(伊勢)九郎」のことであろうと。


綱成の出自には私はあまり興味がないので調べておりませんし、これからも調べるつもりはありませんが、ここでビビッと頭に浮かんだのが、これも先に当ブログで紹介した鎌倉の大長寺にある「北条為昌夫人の像」と伝わっている像の「銘文」です。

この像とは「朝倉氏の娘・養院の像」のことです。

しつこくしつこくの繰り返しですが、大長寺では「北条氏綱公(養院)夫人像」となっています。これは、小田原の香林寺が養院を養院にしていたのと同じく珠と勝がテンコシャンコということで、神社仏閣や家伝によくあるゆえ措いておくとします。


話は銘文のことです。
つらつら思い起こすに、そういえばたしかその銘文にも、▲-①「逆修」とか、▲-②「九郎」とかあったような気がします。立木望隆氏の論文「北条氏綱夫人 養珠院と後室近衛殿について (1981)」をファイルから引っ張り出しました。以下に一部分を写すと、


▲-① 逆修のこと

~老境に至ったので(○以至衰老)、菩提心を発し(中比発菩提心)、逆修菩提のため(為逆修菩提)、木像を刻み奉納するなり~

わらわ古文書読めんのだが、読みとり方は合ってるかし?


上にも書きましたが、「逆修」とは生きているうちに・・・ですよね。木像の銘文の日付は天文18年9月18日です。ってことは、天文18年には、養勝院はまだご存命ということになるのかし?

いやいや、違いますね。日付の上に「干時」とありました。ということは、亡くなったのが天文18年かし?像はすでに造られていて、後に亡くなった日付を入れたのかし?かしかしかし?cake


御子は、知られているとおり
~北条左衛門大夫綱成、同刑部少輔綱房、同息女松田尾州之御内
成~
となっていますな。


▲-② 夫のこと

~彼施主 古郷豆州之住呂
名字 朝倉 息女
北条九郎之御前~

ほっらね。「九郎」ですよ。為さまは「彦九郎さま」。だから私は神社仏閣や家伝によくあるように、ただ「彦」が抜けちゃっただけで、為さまのことだと思ってスルーしておりました。


あらためて考えてみれば、私は、何から為さまの正室が養勝院と思ってたんでしたっけか?

そうですよ、黒田氏が昔書かれたものからですわ。そういえば、立木氏は「養勝院は朝倉の娘」とだけで、どこに嫁いだかは書いていませんね。 仮に朝倉氏の娘・養勝院が福島九郎の妻だとすると、それは福島がまだ今川家にいる時ということになりますか。

ちなみに、為さまの父上で養院様の夫である氏綱公はもちろん「新九郎」です。ややこしいのうdespair。だからみんなテンコシャンコになるのだよ。


う~む。朝倉の姫・養勝院は本当に福島九郎の妻なの?

そうなると、いったいぜんたい、為さまの奥方様はどちらのどなたなんですか?為さまの正室として伊豆衆二十家のひとつ朝倉氏は小粒でしょうかねえ。とうに伊豆は後北条のものとして確立しているようですしねえ。

いや、嫡男ではないですからそんなこともないのでしょうか。これも繰り返しですが、為さまはなぜか早世してしまってますから、よけい分かりません。朝倉氏の屋敷は、今、その名(朝倉右京進)を冠した「右京」という日本料理屋さんになっています。


その出自もよく分からない上に、ここにきてご正室も分からなくなってしまいましたよ。上には、年表が「さりげな~く変わっている」としましたが、私が知らないだけで、すでにどこかにこの件に関しての考察が出ていたのでしょうか?その可能性大ですな。

もう考えるの脳が気持ち悪くなっちゃった。これ以上は分からんて。

Photo
そんなこんなで、悶々としながら大川(隅田川)を渡河!江戸東京博物館へ。

徳川家は、その効力に期待して、様々な寺院から選んだ招来(宋や元や高麗など外国からやってきたもの)の大蔵経を、将軍家菩提寺である増上寺に納めたそうです。その中に、我らが北条氏綱公が亡き正室・養院さまの菩提を弔うために納めた「元版」の大蔵経もあったのですな。


巻頭に大永8年(大永戌子)の日付&氏綱公のサイン&印&花押。巻末には鎌倉極楽寺の蔵書の印がありました。

奥書は、
~斯一蔵真詮為
先婦養珠院宗栄
荘厳報土
大永戌子孟秋日
平氏綱~


この大蔵経は、前北条家か鎌倉執権家が極楽寺に納め、その後、後北条の氏綱公が、亡き正室の一周忌に、関係する寺社(修禅寺か?)に奉納したことが推測される、と説明板には書かれていました。

北条氏が亡き妻のために納めた経典が、徳川家に効力を発揮したかどうかは分かりませんが、氏綱公のサインの文字は、ちょっと肖像画のお顔に似ていました(?)。

ご覧になりに行かれる方は、「大蔵経」という展示のところを見てくだされ。「氏綱」という文字を目当てに大きな説明板で探しても見つかりまへん。展示一覧表にも、大永八年の大蔵経として載っています。


養珠院様と氏綱公の縁組を決めたのは、早雲ですよねえ。養珠院様も、どちらのどなただったのでしょうねえ。謎の女人といわれている、いえ、言っちょるのはマリコ・ポーロなんですが、こういうのを見ると謎でもなんでもなく、本当にいたんだなあと感慨深いです。


養珠院様のことはたくさん書いておりますので、ご興味お持ちいただいた方は、以下↓あたりか、カテゴリー「後北条のヒロイン達」をご覧いただければ嬉しゅうございます。
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-47de.html


おしまい▲▲▲


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2012年4月24日 (火)

遺作集 「春日山城とその支城群」 大塚直吉

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~大塚直吉遺作集(大塚直吉遺作集出版委員会発行、題字 氷見完治)~

上に乗せている絵はその中の一部、鮫ヶ尾城・不動山城・直峰城・根知城。遺作集の絵図は、当然ながらこの写真とは比べ物にならない程美しい。


色々と不安な今日この頃の日本。減災のためもありいざという時に備え、このところ所帯道具?を少なくすべく整理しています。服、器やグラス、台所用品、何年も出番がない小さな家具類や家電、趣味の物などなどを、区や民間のリサイクルショップに持っていったり粗大ゴミに出したり。それでもなかなか減らないものですな。

そんなこんなで(←最近よく使うこのフレーズ)、本の整理をしていたらこの画集が出てきました。何年も前に上越で買い求めた物です。床に座りこんだまま久々に見入ってしまい作業は頓挫 coldsweats01


春日山城の支城は約200あるそうですが、その中の52ヶ所が描かれています。作者の故大塚直吉氏は黄綬褒章を受けた新潟県の広告美術の重鎮でらしたそうですが、山城研究家としても名を知られた方だったようですね。

本職のかたわら、後世に伝えるために生涯をかけて春日山城とその支城群を描き続けることに情熱をそそがれたと、上越コンベンション協会会長・田中弘邦氏の言葉にありました。


山城といえば、縄張り図や等高線だらけの図がほとんどです。おっそろしく理数や図形や方向に弱い私は、何度も行った城でないとそれら二次元で書かれたものを脳内で3Gにできません(自慢するでない)・・・。旅の途中で、図録かなと思ってなにげなく手に取ったこの画集をパラパラと開いて、とたん魅せられてしまいました。

そこには上杉謙信ゆかりの上越地方の数々の山城が、まるで美しいジオラマを見るように描かれていたのです。


それは、ただ縄張りが分かり易い鳥瞰図というのではなく、空や雲や夕焼けや越後の海や雪をかぶった山並が描かれていることにより、一幅の絵画としても完成されていました。なによりもそれらの城がおかれた山自体の険しさが、等高線を読めない私にも一目で伝わってくるものでした。しかも、わらわが申すのも僭越ですが、絵が上手!

それもそのはずで、大塚氏はひとつの城に何度も何度も入り、何度も何度も危険な目に遭いながらも、実測をし、デッサンをしたと、城にたびたび一緒に入られた出版委員の氷見完治氏や文化財調査委員会の植木宏氏(各城を解説)がお書きになっています。


もちろん絵図なので、「う~む、この堀切はこうなのか。虎口がここにこうあるということは・・・」と見るような学問的な復元図ではありません。ましてや、「ほれ、やっぱり当時は城に木はなかったじゃないか」「いや、たくさん生えているじゃないか」などと言うのは論外です。

絵図ですからね。多少の誇張や割愛されたり想像で加えられたりした所もあるようです。でも、 全体の構図は正確 に描かれているとのこと。


「この道をこうやってこうやって歩いたのか~」とか「ここから、この景色を眺めたのか~」とか「ここに立ってあんなことやこんなことを考えたのね~」などと妄想heart01するにはうってつけのドラマチックな絵図面なんですよ。

まあ、城郭のつわもの方は縄張り図でそれが出来るのですが、わらわ出来ないものでcoldsweats01


久しぶりにこの絵図を見ていて思いました。ひとつのテーマを追い続けるということは大変なことでしょうが、素晴らしいことだなあと。見ているうちに、あちこち興味が移るマリコ・ポーロはまた上越の城々に行きたくなってしまいましたよ。

絵図は、春日山城史跡広場の「ものがたり館」で数点見られるそうです。もちろん、本城春日山城の絵図も。本物は、なお一層きれいでしょうねえ。


「小田原城とその支城群」という、こういう絵図面集が出来たらいいですねえ~~~lovely


以下、越後の旅の一部なり。随分前に書いたので、ちょっと変・・・

「北条氏照の悩める存在‘上杉謙信’と景虎さん」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-9b26.html
「悩める存在 上杉謙信、旅のおまけ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-3735.html
「旅のおまけ、米沢付き」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-ee39.html


おしまい▲▲▲

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2012年4月19日 (木)

「滝の城まつり」武将達からのメッセージ

さて、前回のブログ記事でご紹介した「第一回滝の城まつり」の合戦劇に出陣される武将の方々をご紹介させていただきましょう。武将達の、本まつりや戦国時代に対する熱いメッセージをお聞きくだされい!

注)他にも保存会やその他関連各所の方々も出陣されますが、こちらはマリコ・ポーロ個人でさせていただいていることゆえ、ご紹介はわらわの戦国歴史仲間(&その知人)の武将達に限られてしまうことをご了承くだされませ。


まずは、アウェイの武田軍から

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horse 武田信玄
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(主な戦歴)
三増合戦まつり(武田信玄公役)、南総里見まつり(犬田小文吾役)、長浜戦国英雄コンテスト 優勝(浅井長政役)、ほか多数
(メッセージ)
三増合戦まつりでの信玄公役から二回目の信玄公役を拝命いたしまして光栄です。どの場面で出てくるかはお楽しみということで・・・。自分なりの信玄公役を精一杯演じたいと思います。


horse 重臣A
(主な戦歴)
石和川中島合戦戦国絵巻(小山田信茂役)、三増合戦祭り(浅利信種役)、合戦絵巻三方ヶ原合戦(馬場信春隊 床几持ち)、ほか多数
(メッセージ)
武田狂。武田らしく、攻め側らしくを存分に出していきたいと思います!常に小姓の如く小山田のそばにいます。
(呼び名)
卯月ヤマラ殿


horse 重臣B
(主な戦歴)
忍城時代祭り(壬生帯刀役)、三増合戦祭り(山県昌景役)、ほか多数
(メッセージ)
今回は脇役で殺陣が多々有るので頑張ります!
(呼び名)
武藤喜平衛殿


horse 重臣C
(主な戦歴)
石和川中島合戦絵巻(武田典厩信繁役・一条信竜役・小幡山城守役)、忍城時代祭り、鑁阿寺鎧年越し、ほか多数
毎年石和川中島合戦絵巻には用宗衆として約60人を率いて参戦。
(メッセージ)
戦国時代って本当にきつい時代ですよ。生き残る事に精いっぱいの時代だという事を理解してお祭りを楽しんでください。
(呼び名)
用宗左近将監殿(もちむねさこんのしょうげん)殿


horse 兵士
(主な戦歴)
忍城時代まつり(長束正家役)、ほか
(メッセージ)
まだまだ戦経験のない新参者ではございますが、皆様に楽しんでいただけるよう尽力いたす所存にございます。是非応援のほどをよろしくお願いいたします!!皆様で滝の城まつりを盛り上げていきましょう☆
(呼び名)
優馬殿


horse 兵士
(主な戦歴)
三増合戦まつり(武田軍足軽)、関ヶ原合戦絵巻(島左近隊の侍)、三方が原合戦絵巻(馬場信春隊足軽)、ほか多数
(メッセージ)
戦国時代は日本人が一番熱かった時代の一つだと思います。その熱と浪漫を感じたい!伝えたい!
(呼び名)
鯱殿


horse 小山田信茂(&シナリオ作成・演出・監督)
Odawara
(主な戦歴)
忍城時代まつり(真田幸村役)、三増合戦まつり(北條綱成役)、歴史時代絵巻ながの(山本勘助役)、ほか多数

(メッセージ)
今回は小山田信茂役ということで、飄々としながらちょっと癖のある武将にしたいと考えています。合戦劇責任者としては「主役となるご当地人物」「誰も悪くない戦国」を念頭にシナリオを作っています。また、予想外の結末を準備しました。どうぞライブで戦国の雰囲気を味わってください。

(マリコ・ポーロ補足)
当ブログでも熱く語らせていただいた昨年の「三増合戦まつり寸劇」のシナリオ・演出・監督の義虎殿です。このたび 「津久井衆甲冑隊」 を発足。前回のブログ記事でも紹介した「第422回 津久井開城記念」の合戦劇も手掛けます。


次は、ホームの滝の城側、チーム鱗?です。
Houjo_b1
horse 城代
(主な戦歴)
寄居北條まつり、忍城時代まつり、ほか多数
メッセージ)
昨年から甲冑イベントに参加し始めた若輩中年ですが、 第一回目の記念すべきお祭りで城代役を務めさせていただくことになりました(汗)。滝の城は我が敬愛する北條氏照公の持ち城。全力を傾注して演じさせていただきます!
(呼び名)
ご城代



horse 家老
(主な戦歴)
寄居北條まつり、三増合戦まつり、ほか多数
(メッセージ)
歴史上の人物や出来事を少しでも身近な物と感じていただけるよう、先人に敬意を持って精一杯頑張らせていただきます。
(呼び名)
南雲殿


horse 家老B
(主な戦歴)
関ヶ原410年祭(石田隊副将舞兵庫役)、謙信公祭(上杉軍村上義清役)、三増合戦祭(北条軍北条氏邦役)、ほか多数
(メッセージ)
歴史上に名を馳せた武人を演じるに当たり、敬意と出来る限りの感情移入を もって臨みたいと思います。
(呼び名)
ご家老


horse 家臣
(主な戦歴)
寄居北條祭り、忍城時代まつり、箕輪城時代まつり、ほか多数
(メッセージ)
殺陣担当。一番最初に首をとられる役です。迫力の立ち回りをご鑑賞ください。
(呼び名)
田中桶之介殿


horse 家臣
(主な戦歴)
石和川中島合戦戦国絵巻、三増合戦まつり(北条軍野戦指揮官)、寄居北條まつり、ほか多数
(メッセージ)
戦国時代は良くも悪くも人が一番人らしく生きた時代です。 滝の城まつりでは殺陣や野戦指揮官をやりますが、戦国武者としての生き様と死に様の両方を私の演技を通して、観て、感じて頂けたらと思います。
(呼び名)
新田狼之助將村殿


horse 家臣
(主な戦歴)
忍城時代まつり、大多喜城お城まつり、ほか多数
(メッセージ)
甲冑を着ることで古の武将たちを偲び、日本文化の素晴らしさを想います。
(呼び名)
不動庵碧洲齋(ふどうあん へきしゅうさい)殿


horse 家臣
(主な戦歴)
謙信公祭(上杉景虎役)、里見まつり(犬塚信乃役)、三増合戦まつり(北條氏照役)、ほか多数
(メッセージ)
北條が好きで好きでたまりませーん!そんな熱い気持ちで頑張りますっ。
(呼び名)
縞尾荒虎(あらと)殿


horse 家臣
主な戦歴)
寄居北條まつり、忍城時代まつり、ほか多数

(メッセージ)
自己申告します!実は真田幸綱公と村上義清公支持です(^_^)v
北条軍の「獅子身中の虫」として深く静かに潜行中です(あ、ばらしちゃった♪) 。「歴史群像」に写真付きで載ってしまったからには、気合い入れて頑張ります!
(呼び名)
うたみ殿



maple そして、氏照ご正室の比佐様にござりまする
(主な姫歴?)
忍城時代まつり(月の方役)
(メッセージ)
戦国の面白さに気が付いてからまだ日が浅く無知ではありますが、皆さんにいろいろと教わり助けてもらいながらも、とても楽しませていただいております。今回は比佐姫役という大役をいただき、未熟ではありますが一生懸命やらせていただきますのでよろしくお願いします。
(仮名)
(かえで)さま


horse トリは、合戦劇進行役殿&本まつり実行委員のおひとり
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(主な戦歴)
寄居北條まつり(鉢形の三鱗会所属)、小田原北條五代まつり、箕輪城まつり、ほか多数
(メッセージ)
開催に向けスタッフ一丸となって頑張っています。ぜひ、戦国滝の城まつりへお越し下さいませ。
(呼び名)
山縣軍兵衛殿


wine マリコ・ポーロの補足

・皆さん、すこぶるカッコイイ雄姿画像があるのですが、個人情報などを鑑みてブログではお三方のみの公開にさせていただきました(ご了承済)。

・以前に当ブログでもお話しましたが、寸劇の武将達は本職は他にお持ちです。媒体でよく見る自治体所属の演武などのパフォーマンスをする武将隊ではなく、趣味の同好の士(志?)です。

・趣味なだけに凝っちょります。戦国時代に対する思いも熱く知識も豊富で、武将達だけではなく歴史の中で生きた我らの先人達にも敬意を表す歴史好きです。


・皆さんメジャーな歴史祭りだけではなく、地元や周辺の小さなお祭りにもボランティアで出陣されています。人数が足りなくて援軍要請がかかると、都合がつく武将は仲間を馳走し馳せ参じるんですよ。私なんかのこんなブログでさえ、「こういう記事を作りたい」と申したら、すぐさま快く協力してくだり恐悦至極なり。

こういう人達が、協力したい!出てみたい!と思ってくれるお祭りや&イベントが、結局は「長く続く」行事になるんだろうなあと思います。手弁当持ち出しで、たとえ足軽・雑兵の役でも協力してくれるこういう人達を、開催側や報酬をもらって常連参加している団体などが威張ったり、ないがしろにしたりしたらアカンと思うんです。


第一回目の滝の城合戦劇。昨年の「三増合戦まつり」の寸劇のメンバーが多いので期待度アップですが、今回は一段とスケールアップするので、凝り過ぎてあにゃにゃ?になるかもしれません。また、皆さんプロではなく本職の合間にすることですからそんなに練習もできません。

広く暖か~いお心で、「見る」というよりも 「一緒に楽しむ」 という感じで、ぜひ遊びに行かれてくだされませ。

皆のプレッシャーになるゆえ、一応こう申しておきまする。なんですか、わらわの方がドキドキしてきたぞえ。


「第一回 戦国滝の城まつり」は、5月20日(日)でござりまする。
▲▲▲


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2012年4月17日 (火)

戦国時代にタイムトリップする、新しい祭り2つ

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先週は鎌倉鶴岡八幡宮で行われた、大好きな「神事 流鏑馬」を見て参りました。画像は、的を射終わったところです。奉射&競射の時は速すぎて速すぎて撮れましぇん。

流鏑馬は厳かで、華やかで、エレガントで、りりしくて、かっこいいですねえ。やっぱり武将は鎌倉武士だねえ~lovely


えっ?
ちゃうちゃう paper 戦国武将ですよ。


さて、戦国時代、しかも後北条時代にタイムトリップする新しい祭り2つscissors のご紹介です。

horse 第一回 戦国滝の城まつり

1819937145_216s1_2
~チラシ~

と き: 平成24年5月20日(日)
     10時~
ところ: 滝の城(所沢市)

先に当ブログでも発掘調査見学会に参加した時のことを書かせていただきましたが、「滝の城」は最後は我らが殿・北条氏照どのの支城でした。今回のまつりは、市や保存会や地元内外の歴史好き・北条好きボランティアさん達により、かなりな 愛と力 が入って準備が進められています。

当日は武者行列や模擬店、剣舞など様々な催しのほか、こちらも先のブログで熱くご紹介の「三増合戦まつり寸劇」を企画・出演した、わらわの戦国友武将さん達がまたもや企画・出演する創作合戦劇があります。


舞台は永禄12年。
三国同盟を破棄した信玄の、駿河・武蔵をめぐる対北条との攻防戦が描かれます。三増前夜ですな。

いったん甲斐に退いた信玄は再び武蔵へ進軍。御嶽、鉢形を落とし、いよいよ我らが殿・北条氏照の滝山へ。滝山での合流を目指し小仏峠から侵攻するのは小山田信茂率いる別動隊。

支城「滝の城」でも武田軍の来襲への備えに怠りはありません。そこに突如襲いかかる小山田隊。迎えるは氏照の正室 比佐と城兵達!

チャッチャラ~
チャラランララ ランララ~ン

「風鈴火山」のテーマ♪


史実では、この時、小山田隊が果たして「滝の城」へ行ったかどうかは分かりませんが、「滝の城」は氏照軍の兵站基地。小山田本人は出張ってないにしても襲われた可能性はあるかもかもかもしれません。

また、これもブログで前に紹介しましたが、現地にはお比佐様がここで暮らしていたとの伝承があり、近くにはそれと伝えられる立派なお墓もあります。


まあ、史実はおいておいて。
「三増合戦まつり」の寸劇はかなり史実を重視した重厚な作りでしたが、今回は、史実を踏まえての創作ドラマ。エキストラさんも含めると、総勢50名 にもなる大アミューズメントになるようです。

城内のあの境内の広さで大丈夫か?ですが、第一回目のおまつりを彩る楽しい出し物になりそうですね。次のブログ記事ではキャストのご紹介をさせていただきまするぞ。


「滝の城」への行き方は、
所沢駅東口より、志木駅南口行きバスにて20分位(だったかな?)
「城」下車徒歩10分


horse 「第422回津久井開城記念」

422回!!!

というのは、戦国北条家が滅び津久井城も開城してから422年ということだそうな。

第422回ではありますが、イベントとしては第1回目であります。

と き: 平成24年6月24日(日)
ところ: 津久井城(県立津久井湖城山公園)


内容はまだ公式発表になっていませんが、本多忠勝(徳川)と城兵との攻防戦を再現する合戦劇も行う予定だそうです。またまた萌え(燃え)られますねえ。

合戦劇には、「三増」や「滝の城」のメンバーだけではなく、更に、自前甲冑武者や貸し甲冑も用意しての皆さんの参加を歓迎し、見るだけではなく、

みんなで参加する歴史イベント happy01

にしたいとのことです。


先のブログでも紹介した 「殿がお呼びである」 もそうですが、津久井城のコンセプトは「みんなで楽しむ歴史」なんですね。

昨年の収穫感謝祭でも、サプライズで 「どこかに武者」 というイベントがありました。ボランティアの自前甲冑武者達が収穫祭に来た人達と一緒に、バームクーヘンを焼いたり、鋸引きをしたり、お皿をまわしたり?、ちょっと城山に登ったりしてアミューズを提供してとても喜ばれていました。

「422年記念」の参加募集は今月末あたりに、ブログを相互リンクしている義虎さんのサイト「数寄の城塞」にのると思います。もちろん、マリコ・ポーロでもご紹介させていただきまする。

津久井城へは、橋本駅から神奈中バスで20分位(かな?)。滝の城も津久井も電車では少々ややこしいですが、イベント当日は車だと駐車スペースを確保するのが難儀ですし、お酒も飲めないですから公共交通機関をご利用いただくことをオススメいたします。

後北条ファンの方もそうでない方も、5月20日と6月24日はぜひ予定しておいてくだされませ。


以下、よろしくば。

「私は、自前甲冑隊の応援団」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-7ed4.html
「滝の城、焼かれた四脚門跡」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-c856.html
「三増合戦まつり~前編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-9e0e.html
「三増合戦まつり寸劇~後編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-fe61.html

などなど。


おしまい▲▲▲

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2012年4月14日 (土)

小田原衆と歩く、総構えの北と西

ブログを相互リンクしている小田原歴友OZZさんとそのお仲間&マリコ・ポーロと歴友仲間で、先日の「新堀土塁」見学会の後、総構えの一部分を歩いてきました。

武将達にかまけてちょっと間があいてしまい、寄る年並みで記憶が曖昧!その時撮った写真を見ても‘藪’ばかりでどこがどこやら分からない!

自慢するな!ではありますが、自信がないので、この記事はサラリと読み流し御自身で確かめに行かれてみてくださると助かります。でも、途中を読み飛ばされてもいいけれど最後のところだけは読んでくださいね。新たな総構えガイドツアーのお知らせがあります!


ちなみに、当然、OZZさんの案内は御自身がHPで書かれているよりも尚一層詳しく興味深いものでありました。

まずは、先のブログでご紹介した北条氏房の陣跡と伝わっている「岩槻台跡」から、谷津の「御鐘ノ台張出」へ向かいます。

126
~左側、張り出した感じがよく分かる~

ここからは、天正18年小田原攻めの時の徳川方の陣が見晴らせます。下からちょっと上がってきただけのイメージですが、随分と高台です。まわりは新しいお洒落な個人宅が並び、脳内妄想とはすごいギャップ。集中して妄想しないとね。

128
~久野口~

外郭の虎口のひとつかもしれないと言われているそう。そして、左側の竹藪の中へ突入します(といっても大したことないですが)。

竹藪の小道を歩いて「城下張出」へ。

遺構の上で、眼下に町を眺めながらお弁当を食べました。皆で、歴史まつりの在り方の話や、狼煙をあげたらどこからどこまで見えるかなどの話に花が咲く。やりたいねえ、北条支城網を繋いだ「天正18年落城・開城フェア」。


horse 花岳城(華嶺城?)

そして忘れてしまった。城下張出のあたりから一旦総構えの外にでたのかな?いや、城下張出の前だったかな?あらためて地図を見ると、城下張出の前だったような・・・。

何を言いたいかというとですね、 「城源寺」 というお寺をご存知ですか?私も初めて連れて行っていただいたのですが、この城源寺には 「花岳城跡」 という碑が立っています。そこには、ここが初期の小田原城で、「城源寺」はその「花岳城」を号した旨が書かれていました。正式名は「花岳山月光院城源寺」というのですか。


小田原城の築城時期はハッキリ分かっていませんが、鎌倉時代頃からだろうといわれています。昨今、小田原城は同心円状に広がってきたわけではないとか、大森氏は下の低地部分も使っていたとかの新しい説が出てきておりますが、一応は、現在の八幡山古郭(城源寺よりもっと西)がその場所だとしています。

新しい説や考察を読み聞きして「そうなのか~」とは思っても、古小田原城の拠点は八幡山の方だと脳に焼きついてしまっているので、「花岳城」の碑を見た時、虚を突かれたつかれた感じでした。

ボワ~ンとしてしまい妄想もまとまりませんでした。もしかしたら、足利尊氏が「野営」した「小田原上山」というのはここらあたりだったのか?などと妄想もまとまらず朦朧としてしまいました。


縦堀もありますし、非常に心に残ったので、ここはもう少し事前に調べてリベンジです!

そんなんばっかりね。為さま、養珠院さま、香沼姫さま・・・etc. etc.。もう少し小田原が近ければねえ。小田原の方からこっちへ来てくれないかしら。


花岳城・城下張出をあとに、そこからは何度歩いたか、何度このブログで書いたか分からないくらいお馴染みの総構え満喫コース、荻窪口(推定)、山ノ神台、稲荷森湾入堀、小峯御鐘ノ台大堀切を歩く、しゃべる、妄想する。

総構えは絵図面で見ると二次元なので平坦なような錯覚をしてしまいますが、実はアップダウンが激しい。べしゃりまくりながら歩くと息が切れるぜ。

133
~小峰の御鐘ノ台大堀切は、堀もドでかいが、東堀と中堀の間の上も広い広い!堀底を歩くだけだと分からない~

お馴染みと思って油断していたら、お馴染みじゃない「西堀」へ。っていいのか?まあ、途中までは行けるでしょう。ほとんど整備されていないですし、私有地が多いので突入してはアカンが、藪の中にサスガの遺構が残っている模様。


さて、総構えのもっともっと奥(西)へ、水の尾まで行きましょうよ。
この辺は、以前に当ブログの「小田原城総構いちばん奥と北原白秋」で書きましたが、その時に一度行ったきりです。

そうなんです。このあたりは北原白秋のお散歩コースだったそうです。白秋の叙情歌からは程遠い猛々しい話をしながら「からたちの花の小径」をゆく我ら5人ですが、白秋は総構えの遺構をどう思ったのでしょう。何か歌を残してくれていればよかったのに・・・。

♪深いふか~い
堀だよ~♪

ってね。

135

上の写真ですが、総構えの絵図面をお持ちの方は開いてみてくだされ。もっとも西側の半島のように突き出たところに、鍵のような部分がありますよね。それがここです。分かるかなあ、土塁が鍵型になっているの。

134
~南側の堀もまたよく残っていますねえ。驚きますわ、本当に。~


降りる時は最後尾にいた私。さあ戻ろうとなり、つまり今度は先頭になる。さっささっさ、おサルのかご屋だホイさっさと歩くと、
「オイオイどこへ行くんだ???」

振り返ると、ひとり違う道へ。たった今来た道(しかも非常にシンプルな道順)を戻れない・・・。どれだけ方向音痴だマリコ・ポーロ。

このあと板橋まで下り 「ぶら板橋」 をしたのですが、これはまた追々。


しっかし、いっつも感じますが小田原はよく残っていますねえ。四百年前ですよ。徳川政権時代があり、ご維新があり、関東大震災があり、太平洋戦争があり、日本列島改造があり。しかも山の中ではなくて町ですよ。

小田原は莫大な歴史資源・観光資源を持っていますね。これは、一世代では手に負えない ですな。


horse というところで、以下、新たな総構えガイドツアー情報です。

(日時)
5月3日
8時集合、8時半スタート、4時頃解散

(ルート)
小田原駅西口→八幡山古郭→小田原高校内遺構→御前曲輪遺構→お鐘の台大掘切→伝水の尾口→城南中学校遺構→富士山細川家陣場→板橋見付→早川口二重遺構→荒久台場址→お花畠→筋違橋町→箱根口門跡→清閑亭土塁・空堀

(参加費)
500円(保険・テキスト)
(申込み)
郵便またはFaxで先着順、4月28日締切

詳細はリンクのOZZさんのHPか、小田原の城と緑を考える会か清閑亭のHPをご覧くだされ。


小田高内と富士山砦が見どころですねえ。普通は入れません。が、しかし、8時に小田原・・・わらわには無理じゃて。

よろしくば、以下。
「小田原城総構いちばん奥と北原白秋」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-6867.html


おしまい▲▲▲

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2012年4月12日 (木)

殿がお呼びである!

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どこで呼んどるか?

津久井城 でごさる。


様々な歴史体感イベントを催している津久井湖城山公園。このところ益々パワーアップしてきて羨ましいかぎりです。

6月のビッグイベントのことは来週あたりちゃんと書きますが、その前に火急のお知らせをせねばなりませぬ。

だって、
殿がお呼びなんですもの。


この春最初の城山歴史解説ガイドウォークは、あさって 4月14日(土)に催されます。このポスターにも、津久井は「自然公園」なだけではなく、貴重な歴史を抱えた城山だったことを、楽しく知ってもらいたいという意気込みが表れていますね。

ガイドウォークの時間は、10:30~14:30。

予約は、前日まで(つまり金曜日中)に矢文で殿に‥‥ちゃうちゃう paper 津久井湖城山公園へお電話で(042-780-2420) だそうです。


次は、小田原衆と本城(小田原城)の総構えを水の尾の方まで歩いた見聞録なり。

↓県立津久井湖城山公園HP
http://www.kanagawa-park.or.jp/tsukuikoshiroyama/
(トップの画像は相互リンクしている歴史仲間の義虎さんにお借りしました)


おしまい▲▲▲


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2012年4月10日 (火)

鉢形&嵐山&江戸の、企画展で後北条

自分が興味があるものだけ。あしからず・・・

horse 「鉢形城主 氏邦とその兄弟―出土品から見た後北条氏ゆかりの城」

鉢形歴史館にて
5月13日(日)、つまり「寄居北條まつり」の日まで

我らが殿・北条氏照軍団長heart01を頭に北条軍団を率いた兄弟衆の城々ゆかりの品々が出展されているようですね!

氏照どのの八王子城。氏邦さんの鉢形城。氏規さんの韮山城。氏忠さんの唐沢山城。氏光さんの深沢城。兄弟衆とはいえ、今、忠さんと光さんは、パパ氏康の弟・氏堯の子で養子に入ったとされています。また、照どのと邦さんも、政さんや規さんとは母(瑞渓院)が違うかもかもと言われてもいます。

いずれにしても、四代当主・氏政のもと固い結束で北条の勢力を強大にしていった兄弟でした(きょうだいだけに・・・なんちて)。まあね、その一枚岩もね、最後の方は少しづつ崩れていきましたがね。


何が出展されているのかな?今まで何度も見たことがあるものかしら?見たことがないものが出ているかな?近かったら、何度見たって楽しいのですが、鉢形は我が家から遠いんですよねえ。さて、どうしようか。

あれ?一番上のお兄ちゃんや景虎さん縁のものはないのかな?


horse 城郭講座「後北条氏時代の城郭」

埼玉県立嵐山史跡の博物館にて
6月30日(土)13:30~15:30

先日当ブログでご紹介した「小田原合戦史観を問い直す」もそうでしたが、興味深い歴史講座を次々と行う博物館です。この講座は「城郭講座」の第4回目で、群馬、千葉、静岡と続いてきて今回は神奈川県の城郭です。

演題:神奈川県における後北条氏時代の城郭
講師:佐々木健策氏(小田原市教育委員会)
定員:100人(定員を超えた場合は抽選)
申込方法:6月1日より申込み開始、6月12日(火)必着
       往復ハガキでとのこと


今、常設では「戦国時代の城郭・中世の祈り」展を、7月からのスポット展示は河越城八幡曲輪ですね。他の展示や講座も盛り沢山なのでHPをご覧になるとよろしいかと存じまする。

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~江戸博前の桜。建物は国技館。満開でした。~

horse 北条氏綱公の経典

今、江戸東京博物館では 「芝 増上寺~秀忠とお江の寺」 が開催されています。本当は、昨年、大河にあわせて行われるはずだったものが震災のため今になったとありました。

この企画展で、今月14日から、 氏綱公が亡きご正室・養珠院さまのために修禅寺に納めた経典 が展示されるそうです(温泉は修spa お寺は修寺)。


なぜ秀忠とお江の寺に、我らが氏綱公の修禅寺の経典があったのか・・・

増上寺は徳川将軍家の菩提寺。その格式を示すために、いつの為政者も皆やることのひとつですが、あちこちから経典を集めたんですとな。


東京以外の方達だと地理関係はよく分からないかとも存じますが、創建当時(太田道灌の時代?)、増上寺は貝塚(現在の麹町)あたりにあったようです。領主が変わり、江戸城も変わり、街道や城下町の形態も変わり現在の芝に移転したとあります。

歴史の長い大きな寺院だと、よく、「いついつの創建で、歴代の為政者の尊崇を受け・・・うんぬん」とありますが、どうも増上寺は、小田原合戦で北条が降り家康が江戸に入って芝に移ってから一躍大寺院となったようです。私は、関東管領上杉や後北条時代にも当時の政権と密着した大寺院だと思っていました。


とはいえ、よくは分からないようでもあります。関東の源氏系統の神社仏閣って、御由緒や御縁起を読むと、「源氏の誰それがどうのこうのして、その後、徳川があんなことやこんなことをしました・・・」で、間がすっぽり抜けている場合が多いですよね。

後北条は平氏系ですし、先の政権のことは抹殺してしまうのは徳川だけではなくどの支配者もそうですから仕方がないとはいえ、例えば鎌倉の鶴岡八幡宮にしても、先に当ブログで書いた伊豆山神社にしてもしかりです。

八幡宮なんて、荒れた鎌倉を再建したのは北条氏綱公なんですよ。抹殺もしましたが、逆に、新たに大きなものにすることも次の政権の威光を示すためにも必要なことなんですね。


氏綱公の経典の展示はまだでしたが、後北条時代の増上寺の何かしらも出展されていると思って先日見に行ったのですが、ということでチト違いましたわcoldsweats01

でも、増上寺の寺宝はあまり公開されることがないので、歴史好きとしてはそれはそれなりに楽しかったです。


面白かったのは、「三緑山(増上寺)史」の、江戸時代中期に描かれた麹町にある頃の増上寺の絵図。

なんと門前に「豊太閤禁制」の立て札が描かれているんですよ!実際に天正18年におサルが増上寺門前に出した禁制も展示されていました。二百年後に、ちゃんと御丁寧にその禁制をちっちゃく描いているんですよ。不思議ねえ。

いやpaper、これはきっと何かの暗号に違いないですな。徳川埋蔵金にかかわる何かしらのメッセージかっ(←得意の妄想)。


それから、
台徳院(秀忠)の霊廟にあった銅製の燈籠(現物)や、崇源院(お江)の霊牌所の写真なども、東照宮と同じく、凄い!質素倹約を旨とした家康殿の徳川家も、ああいうのがお好みだったんですね。不思議ねえ。


それから、
和宮さんが夫君・14代将軍家茂にいただいた、あの西陣織もありました。家茂二度目の上洛の時、「土産はなにがいいですか?」と聞かれ、「西陣織を」とお願いした和宮さん。家茂は上洛中に亡くなり和宮さんの元へはその西陣織だけが届いたという、あの西陣織です。

西陣織はとても綺麗でしたよ。大切にしていたんですねえ weep

和宮さんも増上寺に埋葬されてらっしゃいますが、発掘調査の時のガラス版写真のお話も有名ですよねえ。


と、少々、後北条とは関係のない話になってしまいましたが、14日以降にもう一度参りますよ。氏綱公の養珠院さまの経典を拝見しに。

養珠院さまについては、先にしつこく書いておりますので、よろしければカテゴリー「後北条のヒロイン達」をご覧くだされませ。

こちらもよろしくば、北条兄弟衆のある一面。「兄上(氏政)からのお届けもの」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-d92a.html


おしまい。。。

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2012年4月 3日 (火)

八王子市史研究、氏照後の八王子城

お知らせなり。

八王子城は落城後に即廃城になったのではなく、しばらくは、徳川(大久保)の城として一部改修され機能していたとの最近の説のことを、ここのところチラチラと書いておりますが、そのことについての竹井英文氏の論文が、 「八王子市史研究」の第2号 に載ったそうです。

先日の講演会も八王子衆や北条好きや研究者の間で話題になっています。私も講演会でお話を拝聴しましたが、論文の方もぜひ読んでみたいと思います。わらわが一番知りたいのは、大久保が八王子城のどのへんをどのくらい改修したかってことです。これによって、my 妄想が違ってくる。

同書には、もうひとつ小田原合戦の時の八王子地域のことで面白い(興味深い)論文も載るとのこと。研究はどんどん進化する。


以下、竹井氏のくだんの講演会のマリコ・ポーロの報告なり。
「小田原合戦史観を問い直す」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-a770.html


おしまい。

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2012年3月31日 (土)

小田原城三の丸外郭「新堀」ガイドツアー

「通説」と自分が思っていたことはどこからきたのだろうと最近考えている。

例えば黒田基樹著「戦国北条五代」では、いくつかまだ考察の段階のようなところもあるが、この本に書かれていることが本当なら、新九郎さん(早雲)の興国寺城のことも、小田原城奪取の背景も、私が思っていた「通説」とは全然違ってきてしまう。


また例えば、このところ凝っている為さま(北条為昌)のこともしかり。
「病弱だったから早世した」と思いこんでいた。でも、「病弱」とはどこからの情報だったかしら?だって、少年の頃から数々の戦をこなしてきているのに、どこが「病弱」?

「兄上・氏康殿の片腕」?
為さまは、父・氏綱公から嫡男である兄上より広く、主要エリアを領地として与えられている。だから、「片腕」と思っていた。でも、それはもしかしたら「片腕」ではなく、「張り合って勢力を争っていた」のかもしれない。母親が違っていたらそれは尚更である。


私が「通説」だと思っていたことは、たぶん、最初に現地に行った時の説明書や案内板とか、最初に読んだ研究本とかの刷り込みからきているのだろうと思う。そこに、小説やドラマの創作の世界から受けたイメージが重なり、思い込んだまま今に至っていたような気がする。

思い込んでいると、それについての新しい情報の取得が、つい おざなりになるものだ。

昨今、新しい発見や研究が進み「通説」がどんどん変わっている。「通説」とは「定説」ではない。そのことに気付き目をとめると、えーっ?wobbly しょえーっ!bearing いややー!crying とか騒ぎながら振り回されるのも、単なる趣味の歴史好きにとっては実はとても楽しいことなんである。


自治体のHPやパンフレットや、また現地の案内板なども、「通説」が変わったらどんどん替えていってくれたら嬉しいと思う。経費はかかるが、いつまでも昔の「通説」を掲示されていては、これから初めてそこを訪れる人が、私の様に時代遅れの情報を信じてしまうということになる。まあ、新しくても古い説が書かれていては困ったちゃんちゃん。


さて、
このところ我れらが殿の本城小田原城では、整備された遺構がどんどん公開されております。設置される案内板も、最新の調査結果や一次史料に基づく誠実なもので安心します。

118
~新堀(アジアンセンター跡地)~

その中のひとつ。
先にもご紹介いたしましたが、サル3月24日、小田原城三の丸外郭「新堀土塁」の暫定整備が終わり一般開放されました。それに併せての市主催のガイドツアーに行ってまいりました。

「新堀土塁」は、海から見て左斜め上、現在の本丸部の左側あたりになります(アバウトな言い方だ。だから方向音痴なんだよという声が聞こえてきそう・・・)。


当日は100人を越える参加者で大盛況。3隊に分かれ文化財課のインディジョーンズさん達に引き連れられ、まずは清閑亭の土塁を見学。先だって土塁の下を市が取得し、藪が取り払われて遺構が見やすくなっていましたよ(清閑亭は以前何度かご紹介したので割愛)。


現代の地図とかつての地図が重なったスグレ物の地図を片手に、
「これをご覧になって、北条の戦国時代を想像しながら行きましょう」と、隊長。
素敵っ!そういうの大好きです。行きましょ、行きましょ!

116
~清閑亭から新堀へ向かう途中。道はかなりの登り坂。ここ、よく分かるねえ。画像左の八幡山から本城部分(現在の天守閣あたり)へ続く尾根の感じ。途中は今「JR堀切」になっていますが、当時はず~っと尾根が続いていたらしい。向うは海ね。~


清閑亭からガードレールに沿って左下にず~っと続く遺構(天神山尾根筋)を覗き覗きしながら「新堀」へ。このあたりの堀は、一番広いところで、幅16m・高さ10m。堀障子で、障子の間隔は13mとのこと。

ず~っと左下を見ながら歩いていてフッと顔を上げたら、あ、くらくら、ヨロケタ。

120
~「新堀」にはそこかしこに土塁の名残が~


小田原城の総構えで、当時の名前がわかっているのは「新堀」だけなんですってね。天正15年の記録に残っているそうです。

122 
~あれに見ゆるは石垣山。その手前右にあるは細川の富士山砦。うぬっ、サルめ!~


新堀土塁は、視界230度位(←ビミョー)に非常に景色が開けた場所で、相模の海ビュー、石垣山ビュー、細川や宇喜多などの陣場ビュー。

まさに、天正18年絶景ビュー
石垣山から眺める天正18年とはまた一味違います。


「新堀」をひとしきり見学した後は、小峯の大堀切→御前曲輪→八幡山掘切→鍛冶曲輪→小田原高校内の遺構(外から説明)→谷津口門→江戸時代の武家地などなどを見学しながら早雲公の銅像がある方の駅まで戻りました。

小峯から駅までは何度歩いたか分からない恒例のルートですが、文化財課の方の説明を聞きながら歩くのは初めてでした。ここまで案内してくださるとは思っていなかったのでとても嬉しかったです。ありがとうございました。


隊長の、「氏政時代の障子堀は、角がキチッキチッとしていて氏政の性格が表れているような気がする・・・うんぬん」とのお話は面白うございました。

また、ロータリーから旧愛宕社があった所を見上げながら、その愛宕社は足利尊氏と何か関係があるらしいとか、その尾根はおしゃれ横町に続いていた尾根とは違う・・・うんぬんのくだりが、ちょっと気になり、もっとお話が伺いたかったところでもありました(今回は関係ないからね)。


「新堀土塁」は芝が敷かれています。これからの季節、ここで小田原駅で買った鯵寿司fishと相模のお酒bottleを広げて、仲間と小田原攻め話の花を咲かせたり、一人で妄想にふけってみたりしたいと思います。

そんな時に、復元建造物ひとり反対派のわらわとしても、ここには模擬櫓が(1ヶだけでいい)あるとより浸れるんだけどなあ。だって、小田原攻めの時の仕寄り図には総構えの何ヶ所かに櫓らしきものが書かれているじゃない。ガイダンス施設より、櫓1つ造る方が遥かに啓蒙できそう。

もちろん、「これはイメージです」の案内板は添えてね。


最後にもうひとつ、ご厚意の案内板を紹介。
141_2
新堀とは城内を挟んで反対側の、家康が陣を張る側。こちらは我らが北条の、岩槻城主・氏房の陣があったと 伝わっている ところです。おウチの方がご厚意で庭先に掲げさせてくださっているそうです。

氏房くんは、小田原攻めの最後、氏直さんが滝川の陣に降りる時共に行った弟くんですね。

この案内板がなければお洒落な住宅地で、そんな歴史の伝承があるなんてことの雰囲気さえ無いところです。相互リンクしているOZZさんに教えていただきました。OZZさんには、このあたりや用水を案内していただいています。それは、また追々。

おしまい。


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2012年3月27日 (火)

大河「清盛」、璋子(たまこ)のこと

うぬぼれ、
自己愛(ナルシシズム)
神秘

「水仙」 の花言葉です。大河「清盛」を見ていてギリシャ神話を思い出しました。


大そう美しい青年がいました。青年は、自他ともに認めるその美貌からあまたの女人達をとりこにしていましたが、自らは決して人を愛さない傲慢な冷めたい心をもった人間でした。

復讐の女神メネシスは、「そんなに人を愛せないなら己を愛したらいい」と、青年に呪いをかけました。ある日、青年は池に映った自分の姿に恋をし、物も食べず寝ることもせず見つめ続け痩せ細り、ついに池の端で白い水仙になってしまいました。

青年の名前は「ナルキッソス」。「ナルシスト(自己陶酔の人、自惚れ屋)」という言葉はここから生まれたんですね。人を愛することを知らない人間、待賢門院璋子を水仙に例えたのは、なるほどなと思います。


京都の花園駅のすぐ近くに「法金剛院」というお寺があります。建立は文徳天皇だそうですが、はるかに下って、待賢門院璋子さんにより再興されました。お墓もこちらにあります。ドラマで皆が「近寄ってはなりませんっ!」と鳥羽法皇をお留め申していたのは、疱瘡だったからなんですね。


前にも書いた繰り返しになりますが、大昔、家族中の女性陣で吉川英治氏の「新平家物語」に凝りまくりました。史跡めぐり好き母や歴史好き叔母達や旅好き親友達と、吉野から京都から壇ノ浦から奥州と、小説ゆかりの地を訪ねてほっつき歩いた時期、この法金剛院にも行ったことがあります。ここにおわす十一面観音は在りし日の璋子さんの姿を写したものであると聞いたからです。

今、冷静に考えるとちょっと時代が合わないのですが、それは、お厨子に入った50cm位の坐像で、「ああ、そうだったんだろうなあ」と思える非常に美しい仏様でした。どのお寺もそうですが、法金剛院も当時の隆盛を伺い知るのは難しい狭い寺域になってしまっていましたが、お庭も本堂も整然とした綺麗な京都らしいお寺でした。

私はまだ開花の時に行ったことはありませんが、法金剛院には「待賢門院桜」と呼ばれているしだれ桜もありましたよ。


尋ぬとも
風の伝(つて)にも
聞かじかし
花と散りにし
君が行へ(ゆくえ)を

門院の死を知った 西行 が詠んだ歌です。

門院亡きあとも、西行は堀河局をはじめとする門院の侍女達といつまでも何年たっても門院を偲ぶ歌を詠み交わしています。

そうこう書いているうち、西行モードにパッションは高まってきたのですが、私には白洲正子さんなど西行シンパ諸氏達の受け売りしか書けないのでやめておきまする。ご興味ある方はそちらをお読みくだされませ。

しかし、さてはて、いったい待賢門院 璋子とはどれだけ魅力的なheart01女人だったのでしょうねえ。


ドラマの最後のエピソードで、「待賢門院を写した十一面観音」を絶対やると思っていたのですがなかったので、ちょこっと書いてみました。それとも、今は「待賢門院を写した」ということにはなってないのかな?

よろしくば、下記。

大河清盛感想 「西行、小夜の中山ちょっとだけ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-c243.html


おしまい。


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2012年3月19日 (月)

滝山城&小田原総構のガイドツアー&小田原城木造化シンポ情報

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~小田原城木造化を考えるシンポジウムのポスター。これでは見えにくいですよね。以下をごらんくだされませ。(画像の使用には各所の許可をいただいて載せております。無断でのご使用はなにとぞご遠慮願います。)


後北条関係のお知らせ版となっている今日この頃の「後北条見聞録」。先のブログ記事の色々情報の、そのまた続きなり。


horse 甲冑武者が案内する「滝山城」

こたび、画期的な(←滝山城のHPより)「遺構説明板」が滝山城跡内の15か所に設置されたことにちなみ、甲冑武者が滝山城を案内(あない)してくれるガイドツアーがあるそうです。滝山城は「滝山の桜」が有名です。桜の開花、間に合うかな。

(日 時)
2012年3月25日(日)
10時~14時30分
9時30分受付開始、小雨決行、雨天中止。

(集合場所)
道の駅八王子滝山の第2駐車場

(募集人数)
50名、当日先着順
(参加会費)
200円←保険代など

滝山城、色々とやってらしていいですねえ。保存会の方が甲冑を着るのかな?それとも、お抱え武者がいるのでしょうか?いずれにしても楽しそうですね。詳細は、「よみがえる滝山城」のHPをご覧あれかし。


horse 小田原城天守閣の木造化シンポジウムと、総構えツアー

先にも書きましたが、今、小田原城天守閣の改修等の検討がなされています。天守閣は築51年。老朽化が進み、平成27年度までに耐震改修する方向だそうです。

それなら、いっそ、木造の天守閣を再建しようrock という市民グループ、「小田原城木造普請の会」が発足しています。


▲ 小田原城天守閣の木造化を考えるシンポジウム

(講師)
田代道彌(小田原の城と緑を考える会会長)
後藤治(工学院大学建築学部教授)
小川三夫(鵤工舎舎主)
ほか多数有識者

(日時)
4月7日(土 )
14:00~17:00

(場所)
小田原市立三の丸小学校体育館
(費用)
無料
(定員)
150人
応募順定員になり次第締め切り


▲ 小田原城・総構(そうがまえ)見学ツアー

(講師)
小笠原清(小田原城郭研究会会長)
田代道彌(小田原の城と緑を考える会会長)

(日時)
4月8日(日)
9:00~16:00

(集合場所)
小田原市民会館1階ロビー
雨天の場合中止になります

(費用)
2000円
昼食のお弁当代含む
収益は「小田原城天守閣木造化」への基金になるそうです

(定員)
60人
応募順定員になり次第締め切り


(申し込み)
シンポジウム、ツアー共、申込はインターネット及びFAXにて受付。

ブログ更新が遅くなってしまったので、まだ人数大丈夫かな・・・。coldsweats02


詳細は
「小田原城木造化を考えるシンポジウム」HP http://ping.blogmura.com/xmlrpc/nlkxmbld9tec
または、相互リンクしているOZZさんのHP「小田原城街歩きガイド」
http://www.scn-net.ne.jp/~yanya/をご覧くだされ。


horse 以下は滝山城のマリコ・ポーロ妄想ブログにございます。よろしければ。
「高月城と滝山城・山の神曲輪」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-4877.html
「滝山城、五千本の桜」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-1ace.html


楽しい催しのお知らせはまだ続くのだよ。盛りだくさん!


horse 大河「清盛」
三浦氏や波多野氏など、戦国時代にも続いてゆく相模の武将達が出てきていて私は興味深かったです。


おしまい。

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2012年3月15日 (木)

「北條五代祭り」北条氏康役を募集!!

やりました!小田原市!
今年の 「小田原北條五代祭り」 での 北条氏康殿 役を、なんと happy02 一般公募するそうですscissors


今まで関連自治体の長とか観光協会の長の方がなされてましたよねえ。昭和の時代まつりのようで私は不満だったのですが、遂に一般から募集です。楽しみでござる~lovely

次は五代全員や兄弟衆も一般公募になるといいと思いませんか?新選組関連まつりの土方歳三や隊士コンテストのように、最終選考はコンテスト形式にすればもっと話題になりますし、公正感もあるし、コンテストの日も小田原市への集客が見込めますね。

まあ、それは今回の氏康一般公募の様子を見てから順々にお願いしたいと存じまする。


氏康殿は大将の鎧を着て出陣式で出陣の掛け声をし(よかったbleah今年は会長さんじゃないってことね・・・ごにょごにょ、すみませぬ)、騎乗して horse 北条軍団氏康隊を率いて、約2.4㎞のコースをパレードするそうです。今年の「五代祭り」の shine ですな。相当に場慣れしていて、自己アピールを堂々と出来る方にお願いしたいです。

馬に乗らない方でも事前に乗馬の練習があるそうなので大丈夫。


と、ここまで書いていて一抹の、いや大きな不安が・・・。小田原で一番大きなイベントの、観光客のパッショを左右し、後北条の周知度をより広められるようなこんなに大事な役を、 抽選 で決めてよいものなのかし?怪しいオジサンでもどんな人でもその人に決まっちゃうのかし?

しかも、乗馬の練習
これって必要?ただパレードするだけじゃないのかな?パレードするだけなら、各地の時代まつりでも、調教の方が付いていてくれるからその場でちょっと練習して本番!がほとんど。氏康殿、馬上で何かパフォーマンスするのかしら?それとも、某上越の某謙信公のように、大通りを疾走するのかし?


まあ、馬に乗るということで、それなりの人が応募してくれということかもしれませんね。でも、どうも私と観光協会さんの考えてる歴史まつりでのこういう役の在り方が違うようですな。やっぱり、これだけ話題になる一般公募なら、最終選考は公開コンテストがいいと思うんですよ。より話題になるし、コンテストの日は人が来ますよぉ。ね!

氏康殿募集の概要は下記。たくさんの武将の皆さんが応募すれば、それなりの氏康公が当選する可能性が大きくなるので、武将の皆さん是非ご応募を!我らも、氏康公にそぐう方が選ばれることを、天の氏康公に祈りましょうぞ。


氏康役募集の締め切りは、3月30日(消印有効)です!詳細は、小田原市観光協会さんのHPを。

(北條五代祭りの日)
平成24年5月3日(祝)

(参加時間)
10時~16時
着替え、昼食、陣式、出陣、帰陣式

(募集人数)
三代氏康公役1名(騎乗)
補欠2名

(参加費)
5,000円(三代氏康公役1人)
税込・保険・衣装代等

(応募方法)
「参加申込書」(←HPからダウンロードできます)に必要事項を記入のうえ郵送または持参。
写真添付

「中学生以下の方はご遠慮頂きます」
「応募者多数の場合は、抽選とさせていただきます」


(by マリコ・ポーロ)
甲冑来て申込書を持参したら面白いわね。それから、抽選って???


最近は「お知らせ板」と化している当ブログですが、後北条落城月間にむけてそれはまだまだ続くのだよ。

おしまい▲▲▲


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2012年3月13日 (火)

西行 「小夜の中山」 ちょっとだけ

Dsc_0500


大河「清盛」。ドラマ前半のヒロイン?佐藤義清が遂に出家ですね。これからは西行として登場するわけですな。

自己顕示欲が強く、ある意味イケ好かない、そして熱い男に描かれていましたね。


古典や歴史のロマンチスト系妄想族のご多分に洩れず、私も一時西行に惹かれその足跡をたどって吉野や京都を歩いたことがあります。

西行は、出家後も自由に内裏に出入りし、諸国を巡っています。そのためか間者だという説も聞きますね。頼長に、出家した待賢門院(璋子)のための法華経だかなんだかの書写をさせたりしてもいます(このシーンやるかな?)。


西行といえば桜。桜といえば西行。西行の詠む歌の「花」は待賢門院(璋子)のことであるともいわれていますよね。

吉野山
梢の花を
見し日より
心は身にも
そはずなりにき

なんて、そう考えればまさに今回の義清殿でしたよ。


我らが北条の湘南の大磯にも西行ゆかりの旧跡があります。

心なき
身にもあはれは
知られけり
鴫立沢(しぎたつさわ)の
秋の夕暮れ

の歌の歌枕「鴫立沢」にちなんだものだそうです。昔、たまに、大磯ロングビーチ(大磯プリンス)のプールに行く時に横を通りましたが、小さな川が流れていて、「鴫立庵」という風流な建物の俳句サロンのようなものがありました。今もあるのかな?

「鴫立沢」は歌枕なので、西行が実際にここに来たわけではないし、全国に「鴫が立つ沢」はたくさんあるとは思いますが、大磯という文化人達の別荘地だったところと西行の「鴫立沢」はなんだかよく合っていると思っていました。


西行を演じた役者さんで一番のお気に入りは、大河「炎立つ」の若い頃の柳生博さんなんですが、若い頃の柳生さんといい、今回の西行といい、よく見る伝土佐広周(室町中期)の西行像と比べると・・・うぎゃっ!

と、西行法師を本気で書き出したらきりがなくブログひとつ作れそうなのでやめておきます。それに、私の西行観はほとんど白洲正子さんと、木原敏江さんのコミックからの受け売りにござりて、西行法師に興味を持たれた方は、当たり前ですがそちらをご覧になった方が遥かに発展的にござりまする。


西行話の最後に、わらわの一番好きな西行法師の歌を聞いてくりゃれ。

年たけて
また超ゆべしと
思いきや
命なりけり
小夜の中山

西行法師69歳。当時の感覚では、老境です。

深い歌ですよねえ。ただ「若い頃に越えた山を今また越えるとは思わなんだ」という、「越える」のは「物理的な山」ではないのは皆さんにはお分かりと存じます。


「小夜の中山」とは、今は日坂峠といい掛川と金谷との境にあります。私は行ったことはありませんが、両側を狭い谷にはさまれた当時は難所で有名だったところだそうです。

「小夜の中山」は西行の頃はすでに歌枕の地だったそうで、越えるに越えられない恋の道にたとえられたようです。西行が「また越ゆべし」となったのは、恋の道か、他の人間関係の悩みか、歌の道の葛藤か、乱れた世の中への不安か分かりませんが、命なりけり・・・絶唱ですよねえ。ぐわっときますわなあ。


はるか後に、芭蕉が小夜の中山で西行法師のこの歌を踏まえて詠んでいます。

命なり
わづかの笠の
下涼み


ふう~
小田原城天守閣の木造再建を考えるシンポジウムとガイドツアーのお知らせの前座としての「清盛」感想だったのじゃが、小夜の中山を越えることを書いているうちに、わらわも年たけて、最初にこの歌を知った高校生のころよりも感ずるところあり、江戸時代の天守閣のパッションにならなくなっちゃっいました。

後日すぐにまた。

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2012年3月 8日 (木)

「震災からよみがえった東北の文化財展」

Dsc_0498_2 

3月11日(日)まで、都立中央図書館にて(地下鉄の広尾駅目の前の有栖川公園内)。無料です。無料なのにチラシなどがいただけるの。申し訳ないです。


地震や津波の被害から文化財を守るための「文化財レスキュー」などの活動により難を逃れた、東北の文化財の一部が公開されています。

また、博物館施設の被災の様子や、復旧作業に携わった学芸員さんや地元・地元外の研究者達や市民や子供達などなどの活動もパネルで展示されています。それと同時に、海に生きる三陸の人々の暮らしも紹介されていました。


東北で被災した文化財は国指定だけで 735件。自治体指定や指定を受けていないものはどれだけあるのか分かりません。博物館などの施設の被害は 200館以上だそうです。「文化財レスキュー」の参加者は 3,500人(延べ人数で)。

展示は二部屋にわたっており、全部は書ききれないので少しだけ。


「オオジャコ貝」

陸前高田市立博物館にパラオの元大統領から寄贈されたものだそうです。
大きい!happy02
殻の長さは約1m。重さは298kgだそうです。誕生したビーナスが乗れそうですよ。あ、あれはホタテ貝か。

でも、オオジャコ貝は片殻しかありませんでした。もう片方は海に戻ってしまったままだそうです。


「ただひとつ残った高田人形」

高田人形とは、土を焼かずに乾燥させた珍しい土人形だそうです。「ただひとつ残った」のは15cm位の小さなお人形でした。この人形は壊れていたためにポリ袋に入れられていて、それで水の被害を免れたそうです。
完全体だった人形は粉々になり、壊れていた人形だけが残ったんですね。


「ガレキと資料を分けるもの」
ガレキと資料を分けることは困難かと思われたそうです。しかし、資料には 防水タグ が付いていたためそれが出来たそうです。


「アイドル資料、遂に発見!」
発見された、陸前高田市立博物館のアイドルでマスコットキャラクターだった「人面付き石棒」の「せき棒」も展示されていました。
ちっちゃ~。よく見つけられましたねえ!happy01


「執念の発見と保存科学」

全ての指定物件を探し出したそうです!

そのひとつ「蕨手刀」は、奈良時代~平安初期の柄頭が早蕨の鉄製の刀です。30cm程のものでした。ガレキの中から見つけられ、綺麗にされて保存処理も施され、あらためてのお披露目です。鉄なので錆々ですが、美しい刀でした。


「昆虫標本、動植物標本のレスキュー」
こりゃ細かい作業だ~bearing


吉田家文書の話
学芸員さん達だけではなく様々な人達が文化財を救うために携わっているんですねえ。例えば、岩手県最初の文化財レスキューは「吉田家文書」ですが、その救済にまず立ち上がったのは古文書愛好家達だったそうですよ!


福島県の展示ケース

会場で展示されている文化財は全てアクリルケースに入っていますが、福島県のアクリルケースには展示品はなく一枚の紙が入っているだけでした。そこにはこう書いてありました。

「放射線下の文化財を見捨てないでください」

壁のパネルには、
~福島では他の県と違って、施設は「アクアマリン福島」以外は津波の被害をうけていない。最大の課題は、警戒区域や立入が規制されている地域に残された歴史資料の保全対策である。(一部抜粋)~
とありました。


最後に、会場入口にあった、遠野市立博物館の学芸員・前川さおり氏の言葉を書き写します。


「がれきの中のメッセージ」

震災後、はじめて陸前高田市立博物館を目の当たりにした時は、愕然としました。正面には瓦礫が押し込まれ、中に入ることができません。
建物の後ろに1ヶ所ドアが開くところがあって、中に入ると床にはカモシカの骨格の標本や土器片が散らばっていました。
誰かが寄せ集めたあとがあって、ノートの切れ端にメモ書きが残されていました。そのメモには、

「博物館資料を持ち去らないでください。高田の自然・歴史・文化を復元する大切な宝です」

と記されていました。それを見た時、亡くなった博物館職員の声のように感じました。この一言に突き動かされて文化財レスキューがはじまったのです。


ギャラリートーク

3月10(土)と11(日)には遠野市立博物館学芸員さんによる展示解説があります。時間は、11:00、13:00、15:00。

会場には募金箱もありました。


文化庁HP
文化財レスキューに関連する、「東北地方太平洋沖地震被災文化財の救援と修復に協力を」
http://www.bunka.go.jp/bunkazai/tohokujishin_kanren/chokan_message.html


以上


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2012年3月 6日 (火)

里見の城シンポ、小田原城外郭ツアー、鎌倉まつりなど情報

大河「清盛」を見ていて、「そうか」と思いました。

平氏も、保元の乱の後は一族内で大きな争いは無かったですね。後北条一族だけではなかったです。

平家の最後は、兄弟、叔父、甥、足手まといであるはずの女子供年配者なども引き連れ、西へ西へと落ちて行き壇ノ浦で一族もろともに滅んでいこうとしています。兄弟親戚同士で勢力争いをし殺しあった源氏や足利家とは随分違いますな。

北条政子さんの前北条家はどうでしたっけ?よく知りませんが、まずは政子さんの兄弟の義時叔父上が甥の実朝を・・・ごにょごにょ。


さて、本題へ。
今年の春の、気になる歴史行事や講演会などなどです。


horse  小田原城 「三の丸外郭の散策ツアー」

先に散々当ブログでもご紹介した、「御用米曲輪」を含む「本丸・二の丸」の次に整備が予定されている 「新堀」 が、本格的な史跡整備を前に3月24日(土)から一般開放されるそうです。それに併せてのツアーです。

(加筆~3月31日、ガイドツアー参加の記事をアップしております。)


「新堀」は、北条期の三の丸外郭&総構えゾーンにあたります。近代では「閑院宮邸」があったところで、よくお聞きになるかもしれませんが「アジアンセンター跡地」とも言われているところです。

平成20年に小田原市が史跡用地として取得し、今後は土塁の復元や遺構の保護などの史跡としての整備を行い、ガイダンス施設を建てようと計画しています。

ガイダンス施設は、私はここじゃない方がいいと思っていますが、私達が待ち望んでいた「戦国北条ワンダーランドheart01」のひとつになるのだね happy01


それだけじゃなくて、ここからは相模湾や石垣山一夜城や富士山砦が一望!「東曲輪」は行けないわらわ(理由はここでは言えん。前にチラッと書いた。皆さんは大丈夫よん)の、妄想拠点になるといいなあ。

芝を敷くそうですが、お弁当 riceball + beer とか広げてもいいのかしら?


復元建造物ひとり反対派のわらわですが、ここには模擬櫓を1ヶぐらいなら建ててくれてもいいですよ。もちろん「イメージです」の案内板を添えてね。

おうっ!それから、復元土塁は是非とも版築でお願いいたしまする!

Dsc_0495
~小田原市「新堀土塁整備基本計画(概要版)」の一部~


散策ツアーの詳細は、

(日時)
3月24日(土)
午前10時~12時頃
(コース)
清閑亭土塁→新堀土塁→小峯御鐘ノ台大堀切→城山公園(慰霊塔付近)
(集合場所)
清閑亭入口(解散は小田原 西口)
(参加費)
無料なり
(申込方法)
3月19日(月)までに文化財課に、電話でね mobilephonetelephone

詳細は「広報おだわら」HPテキスト版などをご覧くだされ。


horse 第54回 鎌倉まつり

鎌倉まつりは4月8日(日)~15日(日)まで開催されます。会期中はさまざまな行事がありますが、マリコ・ポーロ的には特に以下。

4月8日(日)
パレード
歴友の武将達が、後北条・玉縄衆として鎌倉まつりのパレードに 初見参

先にもご紹介しましたが、今年、玉縄城は築城500年を迎えます。秋の「築城500年祭」にむけて保存会「玉縄まちつくり会議」も頑張ってらっしゃるようですね。それらの情報話は追々として。


パレードは以前見たことがありますが、武者行列ではなく、地元の子供達とか学校とか、ダンスやお囃子とかのサークルなど種々雑多な団体が参加し、武者隊のメインはやはり源氏や前北条です。

後北条の玉縄衆は、500年祭を前にしてのプレデビューということになるのでしょうかね。


源氏→前北条→足利前半のあと廃れた鎌倉。里見が焼き払った八幡宮と鎌倉の町を、すでに力を失った公方や両管領家(扇谷、山内)に代わって再建した大旦那は、足利公方からの御内書により足利家のご一家衆として関東管領に任ぜられた、我らが後北条の氏綱公です。


そんな八幡宮で、謙信くんに、本城を攻められたあと関東管領就任式を行わせた氏康殿の考えが今ひとつ分かりませんが、裏協定でもあったのかし?

玉縄衆には、八幡宮は源氏や前北条だけのものではないことを、そこはかとな~く、チョビッと、アピールしてくださることを期待しちゃいます。


4月15日(日)
大好物神事 流鏑馬」


そして、里見といえば・・・

horse 里見氏城跡(稲村城跡・岡本城跡)国史跡指定記念
~講演とシンポジウム 「関東戦国史にみる里見氏」 と祝賀のつどい&現地見学会~

(主 催)
里見氏稲村城跡を保存する会

(日 時)
講演・シンポジウム等:4月14日(土)
現地見学会:4月15日(日)

(場 所)
たてやま夕日海岸ホテル


(稲村城・岡本城の紹介と解説)
by 遠山成一(千葉城郭研究会)

(講 演)
峰岸純夫(東京都立大学名誉教授)
佐藤 博信(千葉大名誉教授)
滝川 恒昭(千葉城郭研究会)

(シンポジウム)
峰岸 純夫(東京都立大学名誉教授)
佐藤 博信(千葉大名誉教授)
黒田 基樹(駿河台大学准教授)
滝川 恒昭(千葉城郭研究会)
コーディネーナー 岡田晃司(館山市立博物館主任学芸員)

(催し)
人形操演「南総里見八犬伝」
by 劇団「貝の火」
など

そういえば、昔、NHKでやってましたね。「新平家物語」とか「三国志」とか、もっと昔をいえば、「ちろりん村」「ひょこりひょうたん島」とかもね(歳がバレる。すでに、そこはかとな~くバレちょる?)。

NHK人形劇はクォリティが高かったです。あのクォリティなら、わらわ、「北条五代」はまず最初は人形劇でもいいと思っているんですよ。製作費はかかりそうですけどね。


(参加費)
講演とシンポジウムと催しは、無料。
その後、「祝賀のつどい」があるようですが関係者向けでしょう、たぶん。会費7千円ですし。


(現地見学会)
もし、14日(土)に会場のホテルに宿泊すると、翌日、稲村城や岡本城などへの無料バスツアーがあるそうです!


詳細は、NPO法人安房文化遺産フォーラムさんなどにお問い合わせくだされ。

後援は、今のところ、
館山市・館山市教育委員会・南房総市・南房総市教育委員会・館山商工会議所・千葉城郭研究会・房総里見会・全国里見一族交流会・里見氏大河ドラマ実行委員会・NPO法人安房文化遺産フォーラム・NPO法人ミューズ安房などなどです。


horse 「飛鳥時代の斑鳩と小田原」展

(日 時)
2月25日(土)~3月25日(日)

(場 所)
小田原郷土文化館


( なぜ、小田原で奈良?)
実は、法隆寺のある奈良斑鳩町と小田原市は、文化交流協定を結んでいるのです。なんでも、千数百年前の奈良時代、法隆寺の食封のひとつが小田原にあったことからなんだそうです。

文化面での自治体同士の協定は初めてとのこと。まだ行っていませんが、展示はなかなか充実しているそうですよ。


そして、
5月&6月は、そろそろ 「後北条落城月間」 に入るため盛沢山。それは追ってまた。


以下、里見のことを書いた昔のブログ記事です。文章も知識も思いも稚拙で少しズルして書き直そうかと思ったのですが、その時のパッションがなくなるのでやめときました(言い訳三昧)。よろしくば。

「南総里見ファンタジーツアー 1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-c2c4.html
「南総里見 2 稲村城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-e1c8.html
「南総里見 3 久留里城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-96fd.html
「南総里見 4 現代の館山城も辛い」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-adbe.html
「南総里見 5 戦国人たちは消えてゆく」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-c2ec.html
「里見へ走った公方の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82f7.html


とりあえず、おしまい。


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画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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