2021年3月 3日 (水)

小説 『北条五人囃子 ~ 序章』 なんちゃって…

マリコ・ポーロ


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『北条五人囃子』


▲ 序章

天文二十年八月十五日、箱根早雲禅寺…

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あにうぇー、あにうぇー

本堂へ続く御廊下を走ってくるのは、礼装に身を包んだ武家の少年だ。そのうしろから侍女の手を振り払うように必死に兄の後を追うのは、まだ足どりもおぼつかない童である。


「おお、助五郎と新太郎か。新太郎は三田からの道中疲れはせなんだか?」
「ふたとも、大伯父上様と三郎殿への挨拶はして参ったか?」

同じく正装したふたりの少年が本堂に続く控の間から走り出で、矢継ぎ早に声を掛ける。


四人がわらわらと座敷へ入ると、もうひとり一番年長らしい少年が座っていた。
「今日は、ひいおじい様の御法要ぞ。もそっと静かにせねば母上にしかられるぞ。」
と、にこやかに諭した。

母上は怖い。叱られたらたまらないとばかりに少年たちはそそくさと、いつものように決まった席に順番に座る。


雛人形のように並んだ五人の少年は、一番年長から、新九郎(十四歳)、松千代丸(十三歳)、藤菊丸(十二歳)、助五郎(六歳)、新太郎(三歳)の兄弟だ。

小田原北条三代当主氏康の自慢の子息達であるが、新九郎はこの翌年に病で世を去り、3年後には景虎が誕生する。そして他の四人は四十年後、小田原北条五代百年のフィナーレを彩ることになる。

 

少年たちの、小声で、しかし騒がしいおしゃべりは続いていた。しかし、力強い足音と衣擦れの音が御廊下を近づいてくると、そのおしゃべりはぴたりと止んだ。さきほどまでの腕白風はどこへやら、ぴしっと背筋は伸び一気に大人びた顔付きになった。

三代当主氏康とその正室瑞渓院が座敷に入ると、少年たちは息を合わせたように一斉に平伏した。


「顔をあげよ。」
相模の獅子、北条氏康。三十七歳。戦場で鍛えられ少しゃがれてはいるが、張りのある若々しい声だ。

少年たちが同時に顔をあげると、日焼けした顔でにこやかにほほ笑む父の顔があった。
「父上、母上、ご機嫌うるわしゅう。」
小さな新太郎も回らぬ舌で兄たちに合わせ一生懸命唱和する。


「うむ。新九郎も今日は顔色が良く、みな元気そうでなによりじゃ。元気過ぎるとも聞いておるがのう…あはははは」
と笑う氏康に、少年たちも顔を見合わせながらクスクスと笑いあう。

「まあ、御法要のお席なのに殿は大きなお声でお笑いになって…。家臣達に聞こえてしまいますよ。」
瑞渓院は氏康を軽くねめつけ、目を新太郎に向けた。


「新太郎殿も遠いところ大儀であったのう。三山の祖父上や祖母上もご息災かえ?」
「はい!おじいさまも、おばあさまも、義母うえさまに、よろしゅうおつたえ…えっと…」

挨拶の言葉を何度も稽古してきたのに忘れてしまい真っ赤になる様が微笑ましく、氏康には厳しい顔をした瑞渓院もさすがに頬が緩む。


寺僧がやってきて、支度が整い親族や重臣達がみな揃ったことを伝える。

「さて、皆。来年、助五郎は今川殿の元へ参ることとなる。兄弟五人揃って早雲公の法要に参ずるのも、この先しばらくはないであろうて。今日は兄弟喧嘩や悪さはなしじゃぞ。」

父氏康のその言葉に、兄弟たちは急にしんみりとなった。


▲ 二章

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~古河公方屋敷、鴻巣御所~


この時、氏康は足利晴氏との和解のため、梁田晴助と調停の真っ最中であった。晴氏は第四代の古河公方である。正室は氏康の妹、芳春院。嫡子に梅千代丸という次の公方義氏が生まれている。

年が暮れる頃、梅千代丸はに母芳春院と共に古河城から下総葛西城に移り、氏康は山内上杉攻撃のための備えを始める。


続く…
いや、続かにゃい!仲の良い兄弟の姿を書きたかっただけであったのだ。

(完)


「一枚岩じゃなかった、北条氏康の子供たち」
「今日(3/21)は、北条氏康の早世した長男の命日です」

「兄上(北条氏政)からのお届けもの」

「城跡の幻影~八王子城」
「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2021年2月26日 (金)

4月発売!『北条氏照』戎光祥出版

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。本当に。


昨日は中国の時代劇にハマっている話を書きましたが、それどころではなくなりました。

「シリーズ・中世関東武士の研究」は、小田原北条の五代当主に続き、いよいよ我らが北条氏照が出版されるそうです!


北条百年間の一族はあまたいますが、そのトップバッターが 氏照 なのですね!

ま~あ、どう考えても、五代当主たちの親族では氏照が No.1ですよね~~~。いっそ、大河は「北条五代」ではなく、「北条氏照」ではいかがなり?


次に出るのは誰でしょう?
氏邦・氏規と兄弟が続くか…いや、地黄八幡!綱成かにゃ。


(この研究シリーズは、今まで読んだところでは、これまでの論考をまとめた本で、最新研究の最前線が全てではありません。でも、先行研究はとても参考&勉強になりました。八王子の氏照研究の先生方の論文も載っていますね!


詳細こちらです

「★予約★シリーズ・中世関東武士の研究 第31巻 北条氏照」 


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2021年2月25日 (木)

病みつき!中国の時代劇

マリコ・ポーロ


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~中国時代劇ではお茶やお酒を飲むシーンがとても多い。お酒はこういう酒器で飲んでいる。(記憶が定かではないがこれは紹興酒かなにかに付いていたもの)。~


BS11や12で放映する中国の時代劇が好きです。土日以外の毎日(大晦日も元旦もやっていた!)なので、録画をして遅い夜にまったり観ています。

特に好きなのは、もう終わってしまいましたが、「Secret of Three Kingdom(三国機密)と「武則天」。


三国機密」は三国志の時代の話。漢王朝の復活にすべてを賭し、あんなことやこんなことがあり、曹操や司馬懿も出てきて…ウニャウニャの物語(これからレンタルでご覧になる方もいらっしゃるかもしれないので、ウニャウニャ で)。

武則天」は言わずもがな 則天武后 の一代記。こちらは3代にわたる跡目争いが物語の主軸です。今は 則天武后 とは言わず 武則天 なのですね。

その後もあれこれ見続けていますが、時代性といい、役者さんの演技と美しさといい、これらにかなうドラマには今のところ出会えていません(私感です)。


次の「花散る宮廷の女たち」もそこそこ面白かったです。邦題がなんとも💦💦じゃが、時代は清朝の 康熙帝 の時代です。

日本の大奥ドラマのように女人達の愛憎ドラマと思いきや、中国の時代劇はそういうものが多いのですが、つまりはこちらも「皇帝の跡目争い」のドラマでした。


次に観ていたのは「花不棄(カフキ)」。ややファンタジーがかっており、時代設定が架空の中国のファンタジードラマは苦手なのですが観てみました。い~いところで次回に続くとなるので気になり、結局は最後まで観ちゃった。

ああそれなのに、それなのに。最終回は、えーーーっ! ウニャウニャ でした…。


中国時代劇は、まーあ、飛ぶ飛ぶ。宇宙飛行士の無重力か?というぐらい飛ぶ。しょっちゅう毒を飲まされては、「解毒剤を飲んだから大丈夫ぴょ~ん」となる。グサッととどめを刺されても、薬湯を飲んで数日後には、時には即座に復活!

そのうえ放映回数はだいたい40回~60回と長く毎日観るのも大変。しかし役者さんも衣裳もセットも美しく、やっぱり観たくてその次に観たのが「白華の姫」。


キャッチコピーは「ラブ史劇」。しかし、つまるところは、因縁の復習と皇帝の跡目争いでした。跡目争いドラマは大好きとはいえ最初は今度こそ無理!と思いました。

ところが、Twitterでどなたかが「観ていればそのうち、慣れる、慣れる」と。おっしゃる通り、次が気になり観ていたら慣れました。アハハ 😃


天台山にロケした風景も壮大で、終わりに近づくにつれまた面白くなり、今日は最終回でした。

最後は公私共に、今まで散らばっていた全ての事や人物を回収。日本の大河ドラマでもよくありますが、あの人どうなっちゃったの~?みたいなこともありませんでした。物語の主軸だった「山河誌」についても最後…

おっと、これからDVDで観る方もいらっしゃるかもしれないのでそれは言わんが、「山河誌」も報われたことでしょう。


中国時代劇は好きですが、日本語の吹き替えがなされたものは苦手です。中国の言葉の、たゆたうようなあの心地良さが無くなってしまうので。

今まで観た中国ドラマ、というかBSで放送する中国ドラマはほとんどが日本語吹き替えはありません。それが良いところのひとつです。


次のドラマはどうでしょう。エモーショナルラブ史劇ですって。エモーショナルラブ史劇……って、どんなの?ラブドラマも、寄る年波で全然面白くにゃくにゃっちゃったけど。

えーん (ノД`)・゜・


(加筆
初回を観ましたが、エモーショナルラブ史劇は無理でした。ファンタジー色が強すぎてディズニーかと…ゴニョ。そうしたところ見つけましたよ次を。「如懿伝~紫禁城に散る宿命の王妃」。清の乾隆帝の時代だそうです。5回を過ぎていますが、中国ドラマは長編なのでまだまだ大丈夫。)


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2021年2月16日 (火)

復活!江川酒~小田原北条御用達

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。本当に。


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~こちらは今までの江川酒(今回復活された江川酒ではない)韮山の万大醸造さん~


はじめに…

江川酒復活についての2月12日の静岡朝日テレビさんのニュースをご覧になった皆様へ。

江川酒は、戦国時代から伊豆韮山の江川家で造られていたお酒です。戦国時代後半、韮山は小田原北条の領域にありました。江川酒の命名も、記録によると北条早雲こと伊勢宗瑞です。

以下と文末添付のブログ記事に少し詳しく書いておりますが、当ブログを読んでくださる皆様はとうにご承知のことで、ごめんなすって。


しかしニュースでは、家康がたしなんだとか家康が称賛したとかばかり。北条のことには一言も触れられていませんでした。韮山がある静岡の放送局のニュースなのに…淋しかったです💧💧💧

「江戸」のように江川酒のゆかりからも北条の名が消えて、家康だけの名が残ってしまったら…


どうする、新九郎!

どれどれ、と観てみたい方はこちらを→ 「江川酒のテレビニュース」


さて、クールダウン。

「江川酒」は、伊豆韮山で醸造された小田原北条御用達のお酒です。各地の戦国大名たちへのギフトとして使われました。江川酒は家康の時代へも受け継がれ、秀吉などは醍醐のお花見にも取り寄せたそうな。

江川酒は製法が伝わっておらず復元が出来ないと言われていました。今、製品化されている江川酒は、当時の他のお酒の造り方を参考にしているものだそうです(とても美味しいですよ)。


それがなんと!


昨年、当時の江川酒の製法が書かれた史料が発見されたそうです!江川文庫史料群に「江川家御手製の酒の法」という江川酒の製法書があったのですって!

北条ファンにはちと残念ですが江戸時代に書かれたもののようです。製法は戦国時代から受け継がれていると思うのですが、お酒の醸造方は進化していますから、北条時代とまったく同じかどうかはマリコ・ポーロには分かりません。


320年ぶりの復活を試みているのは「江川英龍公を広める会( 伊豆学研究所)」。醸造所は今までと同じく万大醸造さんです。


(2020.2.25 加筆
結論から申すと、復活した第一段の江川酒は会員さん以外は手に入りません。会の主旨は全国に江川英龍の業績を広めることであり、江川酒の復元はその手段のひとつと考えてらっしゃるそうです。そのうえ、新聞やニュースでは千本とか伝えていますが、今回は500本も出来るかどうか…と。そのため会員優先となってしまうそうです。
残念ですが、いつか飲めるといいですねえ(*'▽'))


ということで、氏照ゆかりのお酒揃い踏み~(祇園城は残念かな小山氏オシ/別に撮ったものを合体)

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~氏照(京晴/八王子)、八王子城(小澤酒造場/八王子)、北条(井上酒造/足柄)、祇園城(酒造中野屋/小山)、そして火牛は…小田原入生田の相田酒造で造られていたのだが今は無い~


おっと失礼。氏邦さんもいました~。腹違いの兄弟だから上の写真に入れなかったのではないですよん。単に忘れただけ。

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~(藤崎惣兵衛商店/寄居町)~


🍶 「北条」ゆかりの他のお酒

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~北条幻庵が別当をつとめた箱根神社の神水で醸した「芦之神龍」箱根湯本ホテルオリジナル、お蕎麦の暁庵でも呑めるでござる~

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~鳥取砂丘の「北条ワイン醸造所」小田原北条とはぜんぜん関係がないけど…~


江川酒復活の詳細は伊豆学研究所さんのHPに→「再発見!伊豆学講座」

 復活のニュース(静岡新聞)はこちら


🍶 以下は伊豆を書いたマリコ・ポーロブログの一部です
「小田原北条家の御用達 「江川酒」を飲んだ」
「北条氏政が謙信や信長にプレゼントした、韮山の江川酒」

「今日は北条氏規の命日~菩提寺から知る伊豆への想い」
「北条氏規、今日(24日) 龍城を明け渡す」

「北条五代の娘たち①今川から戻った長松院様」
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」

「小田原北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-6735.html

「小田原北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

「 ‘元祖 義’  伊勢新九郎の韮山へ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b243.html

「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-a414.html
「前北条と後北条の、伊豆 修禅寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-475a.html

「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0862.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2021年2月 8日 (月)

今日は北条氏規の命日~菩提寺から知る伊豆への想い

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。本当に。


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~北条氏規が城主だった三崎城 (2010年撮影)~


慶長5年2月8日。
河内狭山藩藩祖 北条氏規 が世を去った。


幼い頃より今川で人質として暮らし、北条に戻ってからは常に最前線を守り、外交を担い、お家存続のために秀吉との折衝に力を尽くしたものの、兄を介錯し小田原北条家の死に水を取ることになった。

その後、小田原北条最後の当主だった氏直らと高野山へ蟄居。赦免後は敵であった秀吉の相伴衆となり、文禄の役では子息氏盛と共に名護屋へ出軍。河内狭山藩を起こし、大阪にてその濃密だった 56年の人生を終えた。


氏規の人生を辿ると、こちらの方が胃が痛くなります。


戦も人生も経験豊富。人脈も広く、風雅の道にも長け、幼少~青年時代の長い期間を他家で過ごしたことから他の兄弟・イトコ達とは少し違い、自家を客観視出来た人。

もし小田原北条が存続していたら、氏規は 第二の北条幻庵 となっていたかもしれません。また、北条当主一族で、江戸時代に小田原北条の名を繋げた、ただひとりの人でもありました。


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~氏規の孫、二代狭山藩藩主氏信の元墓 / 狭山北条家の江戸の菩提寺「祥雲寺」に宝篋印塔のみ残る (2010年撮影)~


🐎 氏邦の兄だった北条氏規

当ブログを読んでくださる方々には言わずもがなですが、北条氏規は、小田原北条三代氏康の子息であり、四代氏政の弟でありました。


かつて氏康の子息は上から順に、氏政・氏照・氏邦・氏規・景虎で、氏規は四男とされていました(早世した長男&養子とした亡き弟の子は別とする)。

が、しかし、近年の発見により氏邦と氏規の出生順が逆転しました。つまり、上から順に、氏政・氏照・氏規・氏邦・景虎で、氏規は三男に昇格(?)したのです。

こちらで少し書きました →「一枚岩じゃなかった、北条氏康の子供たち」


🐎 氏照を脅かす氏規の活躍

今川氏真へ妹の早川殿が嫁いできたことにより、氏規は早川殿と交代し北条へ戻ります。20才ぐらいの頃とされています。

以後、早世した伯父北条為昌の遺領を受け継ぎ、三崎城主として、上野館林城城代として、伊豆韮山の在番として、対武田、対佐野、のちには西への防衛…と、北条躍進のために不可欠な人材へとなってゆきます。


また氏規は、父氏康や兄氏政と同じく京の将軍家(氏規の時は義輝)の直臣でもあり、それは義昭の代にも引き継がれていたようです。大河「麒麟がくる」でもあったように、義昭が鞆の浦にいた時期、義昭は北条・上杉・武田の和睦のあっせんを氏規に頼んでいます。

氏規は中央から、北条家中で力があると思われていたのですな。


黒田氏の『北条氏康の妻 瑞渓院』平凡社(2017.12) には、氏規が今川から戻ったことで、兄で北条 NO.2 だった我らが北条氏照が焦ってアピールしたようなことが書かれていました。

さもありなん。面白~い。


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~三崎城(2010年撮影)~


🐎 氏規の妻

上にも書きましたが、ご存知のように氏規は幼少期から今川家で暮らしました。家康とは人質仲間で屋敷はお隣同士。二人の親交は末期の北条と秀吉との関係に大きな役割を果たします。


ご存じのように人質とはいえ現代とは感覚が違い、別に監禁・軟禁などはされておらず大事にされました。屋敷をあてがわれ、遊びにも誘われます。

子供の場合だと教育も受け、元服もしました。後に、当主の片腕もしくは実家に戻しても取次などとして自家のための有効な人材となるからです。


その上、氏規の場合、今川はママ瑞渓院の実家。実の祖母、寿桂尼殿もいます。助五郎くん こと 氏規は、義元殿に勉学が進んだことを褒めてもらったり、おばあちゃんと温泉にも行ったりもしています。

家康と同じく今川で元服し、妻も娶りました。


は?妻?
えーーっ!

そうなんですよ。氏規は北条一族では唯一、一族内でお嫁さんをもらっていますよね。玉縄北条綱成のお嬢さんですが、彼女は後妻さんなんです。


氏規の先妻は定かではないですが、家康の築山殿と同じく今川の御一家衆の関口家の姫ではないかというのが有力な説です。

氏規が北条へ戻る時、先の妻はどうしたのでしょう。10代(年上ということもある)だったでしょうが、今川に残ったのでしょうかねえ。



そして、最後は菩提寺「専念寺」の妄想…。


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~狭山陣屋跡の説明板(陣屋の他の写真は文末添付のブログ記事にもあります)~


🐎  伊豆から移した菩提寺「専念寺」

以前少し書いた専念寺のブログ記事を文末にリンクしております。大和の歴友が代参してくださった折の写真もありますので、ご覧いただけましたらいと嬉し。


専念寺は、現在の大阪市中央区の上本町西にあります。

氏規が大阪にいた頃、狭山の陣屋はまだ出来ていませんでした。氏規は、専念寺と同じく城下、現在の中央区の久宝寺町にあった屋敷で暮らしていました。狭山の陣屋は、子息の氏盛の代に完成します。

ゆえに、氏規、氏盛のお墓は専念寺にあり、孫の代から江戸の祥雲寺になったということなのでしょうかね。


さて、こたび氏規さんのことをあらためて考えていて、専念寺の歴史を初めて知り感慨深いものがありました。

専念寺の開山は、文禄3年。開山は寂蓮社頂誉上人。開基はもちろん氏規さんです。ご自身の屋敷内に建立しました。


そして、なんと!
専念寺は、伊豆が始まりだそうなのです。

前の北条の義時が、父時政の墓所として建てたお寺だとな(大阪新四十八願所阿弥陀巡礼HPより)。時政のお墓は願成就院だけだとばかり思っていましたが、ほかにもあったのか?それとも、荼毘に付した寺と菩提寺は別だったのか?

伊豆の専念寺を調べてみましたがまったく分かりません(西伊豆にある同名のお寺は現在は真宗、昔は真言宗で摂州にあったとのことなので違うと思います)。


それにしても、自家の菩提寺を伊豆国から…。小田原北条始まりの地であり、氏規が、その最後を看取った韮山城のある伊豆国。そこから迎えたお寺なんですねえ。頂誉上人は韮山で敬愛していた師だったのでしょうか。

伊豆への想いは断ち切れない…… マリコ・ポーロ の勝手な妄想です。


🐎 以下、北条氏規を書いたブログ記事の一部です。ご覧くださいましたらいとうれし。

▲ 狭山北条家のこと

「北条氏規の大阪の菩提寺」

「江戸時代の北条家「狭山藩邸跡」」
「江戸時代の北条家 下屋敷「北条坂」」
「江戸時代の北条家、東京の菩提寺」

▲ 小田原北条滅亡
「北条一族の高野山~3「小田原坊」」
「北条氏規、今日(24日) 龍城を明け渡す」

「家康と北条氏政、黄瀬川の河原で酒宴する」

▲ 駿府
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
「駿府 「臨済寺」の特別公開」

「北条五代の娘たち① 今川から戻った長松院様」
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」

「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」」

🐎 北条氏照を介錯したのは氏規ではなかった?のブログ記事です。
「北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その①」
「その②」
「その③」
「その④」


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2021年1月28日 (木)

『玉隠と岩付城築城者の謎 自耕斎詩軸并序を読み解く』 を、読み解く! 

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。本当に。


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~柴田昌彦(中世太田領研究会)著『玉隠と岩付城築城者の謎 自耕斎詩軸并序を読み解く』まつやま書房(2021.1.10)~


『玉隠と岩付城築城者の謎』を読み解く!なーんてタイトルには書きましたが、マリコ・ポーロにはそりゃ無理無理✋

それにしても「自耕斎詩軸并序を読み解く」とは、なんと気宇壮大!禅僧の格調高い詩文のタイトルのイメージも相まって、サブタイトルだけで宇宙が広がるような。

全部読んでから感想を書こうと思ったのですが、私なんぞが感想なんておこがましい。また、マリコ・ポーロの誤読や勘違いで妙なことを書いても各方面に申し訳ないので、本のご紹介だけにとどめます。


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~かつて岩槻区役所の正面玄関に岩槻のスターとして建っていた道灌像。岩槻市とさいたま市の合併時、写真のように、旧岩槻区役所跡地の駐車場に一人淋しく残さた(20017年撮影)。岩付城築城者問題で、道灌像をその後どうするか課題だったそうだが、現在は跡地に建った岩槻人形館の脇にいらっしゃるらしい。~


岩付といえば、北条ファンは、五代当主氏直の弟である北条氏房や、最後まで北条のライバルだった太田三楽斎殿が思い浮かびます。

これは、氏房が岩付に入る120年以上前の話です。まず、「はじめに」と「あとがき」を読みました。


前にも書きましたが、岩付築城について信憑性があると思われる当時書かれた唯一の史料が『自耕斎詩軸并序(じこうさいしじくならびにじょ)』です。『自耕斎…』は、私が末席に名を置いている「道灌びいき」の会でもよく話に出ますが、禅僧独特のちょっとオーバーな美文で書かれ、登場する名前も誰だか良く分かりません。

それが、岩付築城者について諸説ある理由でもあります。


「はじめに」を読んで初めて知ったのですが、この『自耕斎…』の一言一句の精読はまだ行われていないのですってね。

『玉隠と岩付城築城者の謎』は、『自耕斎…』を分析することにより、岩付城 太田氏築城説 の再検討がなされたものです。


また、著者は、『自耕斎…』は芸術作品であるため、学術的に否定された学説を復活させるには学術的なアプローチに則した反論が必須であるとも書いています。


「はじめに」と「序章」だけでも面白く、たくさん線を引いてしまいました。

寝る前にチョットだけ~~のつもりだったのに、気が付けば午前2時!若い頃は本を読んでいて2時3時、夜が明けちゃうなんて当たり前でしたが、齢重ねてから本を読んでいて2時なんて何年ぶりだろう…。


では本日より、学術的なアプローチに則した反論をじっくり拝読しながら、著者がおっしゃるように、室町時代から戦国翠明期の権力者らが愛し、当時最高の知性が紡いだ『自耕斎詩軸并序』のワールドを堪能したいと思います。

楽しみなり!


🐎 以下、岩付のブログ記事の一部です。マリコ・ポーロの浅学で書いているのでそのへんのところ甘~い目でご覧くださると有り難いです。

「『太田資正と戦国武州大乱』中世太田領研究会」

「「岩槻城」 道灌の会で実地見聞?」
「岩付城を築いたのは、太田か成田か?」

「今20日未明、岩付城へ総攻撃はじまる」
「続編・城は今日落ちた」

「北条氏照と太田資正(三楽斎)は義兄弟!」
「「太田道灌の軍旗」 埼玉県立歴史と民族の博物館」


▲ 太田資高に嫁いだ氏綱の娘「浄心院」の謎を追ったブログ記事です。

「北条五代の娘たち②太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
「太田道灌の子息「資康」と、孫?「資高」の不思議」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2021年1月23日 (土)

氏照の「棟札」が重要文化財に指定!

 マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。本当に。


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~氏照が度々陣を敷いたのではないか?と伝わる座間の県立谷戸山公園にある板碑や五輪塔。何の説明書もなく、ネットでも見つけられず未だどういうものか分からず。~


我らが北条氏照ファンには有名な、座間の鈴鹿神社の藤菊丸クンの棟札が市の重要文化財の指定をうけたそうですね!

鈴鹿神社、陣跡と伝わる上の写真の公園や星谷寺を訪ねた時のブログ記事は文末に添付しましたので、あわせてご覧いただければ幸いなり。


さて、北条藤菊丸 が史料に現われるのは、古河公方義氏の就任式に父氏康について出席した時の記録が最初です(弘治元年)。2番目に登場するのが、翌年(弘治二年)のこの棟札です。

棟札は、かつて、北条氏照ファンにはお馴染みの氏照研究第一人者である八王子の加藤哲先生によって初めて紹介されたものです。


鈴鹿神社(鈴鹿明神社)は座間の鎮守でした。社殿再興の時の棟札に、座間を含む由井領を大石から受け継いだであろう北条藤菊丸クンの名前があったのです。

以前は、藤菊丸=氏照 とはまだ確定されていませんでした。しかし、『所領役帳』や星谷寺・鈴木氏(鍛冶)に宛てた氏照の書状などによると、社殿再興時に座間あたりにいた北条関係者は氏照しかいないそうです。ゆえに、今は、藤菊丸=氏照 で間違えないだろうとされています。


先日、文化財指定をうけたとの新聞記事を見た時、「え?今頃の文化財指定?」と一瞬思ってしまいました。文字全体になぞられた跡があったことなどから今まで重文指定とはなっていなかったそうですね。

その後研究が進み、こたび、指定とあいなったとな。


なぞられた痕跡。棟札には「大旦那北条藤菊丸」の文字…。
へえ~~ (´ー`)

いつ、誰が、なぜ、文字をなぞったのかな。棟札そのものより、そっちが気になるマリコ・ポーロ。写真などが無い昔、氏照ファンが写しのようなものを持っていたくて、なぞっちゃったのかしらね。


・以前、座間あたりを歩いた時のブログ記事はこちら
「北条氏照の存在が抹殺された?「星谷陣屋」」
カナロコの棟札重文指定の記事 はこちら


▲ 氏照ときたところで、ご紹介したい、小田原北条&鎌倉炎上&南北朝&土方歳三 友(長い💦)の小説

メインテーマは氏照と下原鍛冶。八王子城を何十回も歩き、また、杖道・居合などを嗜む方ならではの、城内や鍛冶の様子が詳しく書かれています。

前にも他の諸説をご紹介したことがありますが、ノベラボの投稿で歴史時代小説部門1位になったこともある方の小説です。

掲載継続中ですが、こちら ↓
「紅蓮の石 八王子城秘話」

土方さん・近藤さんファンなら、こちらオススメ ↓
「黒の敵娼(あいかた)」


こちらはマリコ・ポーロの下原の槍のブログ 記事→「現存していた北条氏照の「下原鍛冶の槍」」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2021年1月18日 (月)

『国衆』 概念用語として ~黒田基樹氏講演(2020)

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。本当に。


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~戎光祥ヒストリカルセミナーのオンライン配信はレジュメもパソコンやスマホで閲覧&プリントできる~


研究は科学

概念規定には定義付けが必要


「化学」ではなく「科学」で良いのですよね?
なーんて質問を質疑応答でしたら、「頭悪いんじゃないか?もっと勉強しろ!」と叱られそう💦 だって、こたびの講演はより一層辛口だったので。。。


昨年11月の戎光祥ヒストリカルセミナーは黒田基樹氏「戦国関東の大名と国衆」でした。外出を控えていたのでオンラインで視聴しました。聞き洩らしたところなど何度も観られるので助かりました。

さて。


前にも書いたことがありましたが、「国衆」という用語にはずっと違和感を感じていました。最近の大河ドラマで当たり前のように使われているのも、いいのかな~と思っていました。

それが、今回の講演でクリアになりました。


「国衆」とは 史料用語 ではなく、概念用語 として用いているのですってね!これは、黒田基樹氏が20数年前に造った言葉なのだそうな。

知らなかった~。「もっと本や論文をよく読め!」ですね。すみません。


本当に、講演でおっしゃる通りで、「幕府」だって「戦国大名」だって「守護大名」だって史料用語ではないのに、大河ドラマで使われていても何の違和感も感じないくせに、なぜ「国衆」がそんなに引っ掛かっていたのか…。

お!でも、「暴れん坊将軍」では、「公儀」と言っていますよね?さすが暴れん坊。と、くだらないことに話をそらさないで「国衆」に話を戻し…


それまで「国衆」という言葉はあまり聞いたことがありませんでした(20数年前からとは ドびっくり~)。

急にある頃から頻繁に耳にするようになり、と同時に、「昔の史料にも国衆という言葉は出てくるけど、黒田さんの言う国衆はそれとは違う」という話を何回か小耳にはさみました。それだけで自ら調べることもせず、なんとな~く「国衆」は使いたくなくブログにも「国人」とか「在地領主」とかとか書いていました。


こういうのが、もっと勉強しろ!勉強すれば、明確な定義付けがなされていない何十年も前に造られた古い概念用語は使えなくなるはずだ!ということか…。

いや、マリコ・ポーロはそこまでもいっていない💦。だいたいからして素人なんだから、同じ土俵に立って考えるのはオコガマシイ。どすこいっ!


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~北条と千葉の関係の在り方は世田谷吉良・足利公方との関係と似ていることからも、千葉氏当主の格が高かったということが分かるそうだ。~


「戦国領主」「戦国期権力」「戦国期領主」、また、「国人」「国人領主」「在地領主」などの明確な概念規定がされていない用語や旧来の用語の使用が続いているのは…う~ん、私ごときには書きづらいのでこれは書かにゃいです。

しかし、一連のお話しを伺っていてマリコ・ポーロは勝手に思ったのですが、これらはそもそも中高の歴史教育に問題があるのではないか?なーんて。


さはそうらえども、黒田氏がおっしゃるには、概念用語の「国衆」という言葉は史料用語を元にしているので史料用語との区別がつきにくいと。

そうなんですよ!だから上にも書いたように、黒田さんの使い方は史料にある意味と違う…とおっしゃる方が多いのですかね。


そこで聞いたのが、「小名」。
勉強不足ゆえ初めて聞く言葉です。当時から近世初期にかけて使われていた言葉だそうですね。「国衆」を、あえて新たな概念用語で表現し直すとしたら、「戦国小名」か?と。

以上にからめ室町と戦国では所領形成が違うことを、相模三浦・上野岩松・信濃高梨などの例をとっての解説がありました。しかし、それを説明できる史料は少ないそうです。


注-1)
これらは関東・東北(ここでは鎌倉府秩序の中にあるものを言う)と、西や南の諸国とでは少し違うとのこと。

なるほど、以前の同僚に鹿児島出身で歴史を専攻した歴史好きがいました。「関東にも公方がいた??…そういえば習ったような気がするけど、なんだっけ?」でしたわ。関東では関東公方の存在が非常に重要視されるのに、違いがあるのは面白いですねえ。


注ー2)
例えば「国人」ですが、文書などで「国人」と使われている場合は、文書の中のそのままの意味で取ればよい。概念用語としての「国人」は成立しない。
(@_@)


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~謙信と関東「大名層」との関係や、佐竹と関東「大名層」・従属国衆との関係についての具体的な検討は、ほとんどすすめられていないとのこと。(写真は 2008.2 の春日山城)~


また、国衆批判の議論を「実証的なもの」にするには、大名による領主への賦課役と村落への賦課役の弁別、領域権力による「国役」と領主による所領賦課役との弁別の、認識、が大切だと。

むずかちぃ~(~_~;)。ワテには調べられにゃい…。小田原北条家はこの区別が良く分かるそうですよ!残っている資史料も多いですものねえ。


この後、上の写真のところにチョロッと書いた「関東八屋形」「大名(たいめい)層」からのぉ~~、関東で古河公方が存在する中での戦国大名と国衆(概念用語としての)との従属関係とかとかまだまだ続くのです。

「たいめい」という呼び方も初めて耳にしました。黒田氏は講演中、終始「たいめい」とおっしゃっていました。


戦国大名とそれぞれの国衆(概念用語としての)との従属関係について、それを「従属」とみるか「同盟」とみるか、もはや「家臣」なのかという話もいくつか出ました。

ブログで私は「傘下に入る」とか「旗下につく」とかとか、その時の雰囲気で適当に見繕って(?)書いていましたが、これらにも規定があるってことですよね。全然気にしなかったです💦


盛りだくさんで書ききれず(全部マリコ・ポーロの解釈で書くのもよくないし)、また、ハショッテ書いておりますので誤解を生むことがあると申し訳ない。ぜひ、黒田氏の最新刊『戦国期関東動乱と大名・国衆 』を読まれるか(高いけど)、動画配信(2500円)をご覧くだされ。

黒田氏作図の新しい関連地図もいくつか見ることができますし、動画では質疑応答も視聴できます。質疑応答での北条の徴税や、氏政の戦の仕方など興味深いです。


戎光祥出版さんは前回お知らせしたように「在宅研究応援キャンペーン」で、今、20%OFF で本を購入できますし、動画もまだ購入できるようです。動画を購入すると動画とレジュメを開くURLがメールされてきます。

在宅研究応援キャンペーン(2/7まで)はこちらです → 在宅研究応援キャンペーン注文
動画購入はこちらです → 戎光祥ヒストリカルセミナーvol.23 黒田基樹先生「戦国関東の大名と国衆」

ワテはけっして戎光祥の関係者ではござりませぬが、とても面白かったのでオススメするものです。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2021年1月17日 (日)

どうする道灌&小田原北条ファン

マリコ・ポーロ

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~家康の駿府城、発掘復元された二の丸掘(2011.1 に撮った)~


幼少の頃から描くとのこと。「どうする竹千代」とか「どうする元康」ではないのか…。それに、なんだか似てる。「どうする家康」って「新九郎、奔る」に、トーンが…テンテンテン。


次の次の次の大河ドラマが発表になりましたね。意気消沈を通り越してもう何も言う気がしません😨…と申しながら言わずにはおれないのですが👅


家康が主役の大河は過去にもありました。
滝田栄さんの「徳川家康」、津川さんの「葵徳川三代」←これは魅力的な家康だった。だからもう飽き飽きしたと思っちゃいますが、それはウン十年も生きているから思うこと。「葵三代」は昨年度の「アンコール大河ドラマ」で見たばかりなので記憶に新しいですが、なんと本放映は20年以上も前。だから若い方達は知らないのね。

家康がメインキャストの大河もあまたありましたが、一生は描いていないです。


が、しかし、それにしても…。

次の次が「前の北条」。その次が、太田道灌や小田原北条の後に江戸に入った「家康」。なんとも恣意的なものを感じてしまいます。発表もどんどん早くなりましたよね。以前は夏でした。それが春になり、今回は1月。これも何かありそななさそな。


氏規は出るのかなぁ。出ませんよね。氏規と家康が人質時代からの幼馴染だなんて知ってる人は北条ファンだけでしょうから。

それに、氏規と家康の親交は、最後の頃の北条に大きな影響がありましたが、歴史の大きな流れや家康英傑物語の展開には全然関係ないですものね。


大河ドラマになると、文書などの隠れていたお宝がポロポロと現われてきます。それが、羨ましい~。


歴友さんがおっしゃっていましたが、またまた江戸はただの寒村だったことにされ、そこに家康が入府し「どうする家康」になるのじゃないかと。いかにもぉ。江戸には太田も上杉も小田原北条もまったくいなかったことにされそうな予感。

どうする太田道灌・小田原北条ファン。


毎回8時35分ぐらいから家康が窮地となり、「どうする家康」。で、次回に続く…にするのですかね。

そして、「どうする〇〇」が 2023年の流行語大賞になるのであーる。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2021年1月14日 (木)

北条氏康の「関取場」(鎌倉)

マリコ・ポーロ

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その前に…戎光祥出版さんが「在宅研究応援特別キャンペーン」として、書籍を 20%OFF で販売されています。プロの研究者の方や学生さんではなくてもOKのようですよん。詳細は、戎光祥さんの こちらのページ を。


さて、本題。

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~鎌倉「関取場跡」の碑 (2019年撮影) ~


氏康は、荏柄天神社修復のために通行税を取りました。

荏柄天神さんの創建は平安時代の終わり。佐殿が大蔵へ幕府を開くにあたり鬼門の守護神とし、鎌倉公方は毎年2月に二泊3日(?)の 参籠 をし、秀吉や家康も寄進をしたそうな。


お!そうそう。
今川範忠がシゲッチ(足利成氏)を攻めて鎌倉へ攻め込んだ時、社殿は壊され御神体は駿河国へ持ち去られたのですって。その後無事に戻ったそうで、良かったネ。

荏柄天神の社殿は、鶴岡八幡宮を修営する際の残材で毎度造られるのだそうですよ。


碑は、金沢街道から荏柄天神へ入る路地の角に建っています。この路地が 二階堂大路 だとされていますが、いんや、それは違うという説もあります。

マリコ・ポーロにはまったく分かりまへん💦が、路地を行くと鎌倉宮、永福寺、瑞泉寺など当時の二階堂の主要な寺々へつながるので、そうなのかもしれないにゃ~とも思います。金沢街道の現代の「岐れ道」はもう少し手前(八幡宮寄り)にありますが、もしかしたら、当時はここが「岐れ道」だったのですかね?


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~街道を挟んだ、碑の反対側に関取橋がある~

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~「関取橋」でなく「関所橋」~


荏柄天神に残る「掟書」には、通行料のことが書かれているそうです。

徒歩は=5文
麻紙布の荷物=10文
乾物馬=5文
人の背負物=3文
運送屋の馬=10文/1頭


そして、里人と僧侶は=タダ。
そりゃあそうやね。


「氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」」

「今日(3/21)は、北条氏康の早世した長男の命日です」
「追記~北条氏康の長男と北条家和歌短冊集」

「小田原城のライフスタイルと饗応の膳」
「北条氏康の正室「瑞渓院」の二つの菩提寺」

「小田原にある上杉龍若丸の墓」

 萩真尼 こと マリコ・ポーロ


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2021年1月10日 (日)

新田義興と夫人の、品川区にあった塚~⑬大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

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~義興の「胴」が埋葬されているという新田神社の御塚(大田区/東急多摩川線武蔵新田駅)~


特に新田義貞のファンにはあらねど、判官びいきゆえー道誉殿ではないー前回は義貞殿のことだけで長くなってしまいました。ゆえに2回に分けました。

前回はこちらです→ 「新田義貞のこと少しだけ~⑫大河「太平記」を観ていて」


さて、
新田義貞の子息義興の首塚と夫人の塚だと伝わるものが、それぞれ品川区の荏原にもあります。

新田義貞の足跡を巡り興味を持ち、義興と夫人の塚のことを知りました。訪ねたのは数年前のことですがブログに書くタイミングがありませんでした。ちょうど大河「太平記」の再放送で新田義貞の最期がオンエアされ、塚のことを思い出したので書くことにしました。


まず義興の首塚ですが、それは東急大井町線の荏原町駅近くにある庚申塔さんのあたりにあったようです。

タイトルが「品川区にある」ではなく「品川区にあった」と過去形になっているのは、今はもうなんの痕跡がないからです。もしかしたら痕跡のカケラぐらいは残っているのかもしれませんが、マリコ・ポーロ には見つけられませんでした。


🐎 新田義興の生涯をザックリと

皆様ご承知のことと思いますので、メンドクチャイ方はすっ飛ばしてくだされ。


義興は、義貞の次男です。
母は上野一宮の社家の出で出自が低いことから、義貞に疎まれ新田荘にいたらしいですね。

ちょっとここで脱線。
社家の出でも出自が低いのですか?頼朝の母上も社家ではなかったでしたっけ?熱田大神宮は格上なのですかね?

足利尊氏も息子の直冬を母の出自が低いということで遠ざけていましたよね。当時は母親の出自が低いとそんなに嫌だったのでしょうか?それなら、そもそもお相手にしなければいいのにねえ…(←それができたら苦労はないって?)


話を戻し、義興クンのこと。


北畠顕家が奥羽からの上洛の際、その軍に加わる。

義貞、兄・義顕の死後は越後に潜伏(たぶん)。

官能の情乱…ちゃう、観応の擾乱(兄・尊氏 vs 弟・直義)では直義方で北条時行らと挙兵。上杉憲顕と結び一時鎌倉を占拠したが、尊氏の反撃により鎌倉を追われる。

尊氏没後、弟・義宗と共に再び決起。しかし、鎌倉公方足利基氏方によって多摩川矢口渡(大田区)にて誅殺される。

怨霊となり(←これ必要?💦)、新田神社(大田区東急多摩川線武蔵新田)に祀られる。


享年28才。
胴塚が矢口渡近くの新田神社(冒頭の写真)に、首塚は入間の愛宕神社にあると伝わる。


🐎 品川区の、首塚があったというのはどこか?

図書館で検索し見つけた『荏原中延史』によると…

~義興は尊氏の死後、鎌倉奪還を目指したものの敗退。多摩川矢口渡にて討ち捕られた義興の首は家臣により、義興夫人の縁故であり、夫人が暮らしていた、駅の反対側にある荏原氏の館跡と伝わる「法蓮寺」へ逃れてきたが、ここへも敵方が迫ってきたため、夫人と家臣達は法蓮寺向いの「入道山」へ密かに首を埋めた。そして、山中に穴を掘り隠れ住んだ…~

と、書かれています。


もちろん現代の荏原町駅含め東急大井町線沿線では、あたりを見廻してみたとて山はおろか丘も高台さえも見えません。「入道山」とはどのあたりでしょう?

『近世の品川・民族偏』(品川区教育委員会)には…
~(入道山は)駅の脇を通っている旧鎌倉街道、中通りを馬込の方に向かい、立会川を渡って二つに岐れる三角点に庚申塔が建っている…(略)…ここは元は塚になっていた
とあります。


なんですと!元は塚になっていた ですと?!


前回書いたように、荏原氏館跡と伝わる法蓮寺とその隣の旗岡八幡神社の前の「仲(中)通り」は、かつての鎌倉街道中道です。

そのまままっすぐ下れば(当時は上る?)池上本門寺。そして、多摩川 矢口渡 に出ることができます

本に書かれている通りに歩いてみました。


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~鎌倉街道中つ道。左が法蓮寺。その先隣が旗岡八幡神社。私が立っている背後が荏原町駅の踏切。~


上 ↑ の写真を撮った後、くるりと振り返り写真とは反対方向(後ろ)の馬込方面へ歩きます。

通りは賑やかな商店街のド真ん中ですが、法蓮寺から荏原町駅の踏切を渡り、立会川(暗渠の公園)を渡ると、確かに少し上り坂になっていました。


法蓮寺から歩くこと5分。三叉路に着。

お!ホンマや。庚申塔が残っていますね。

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~右へ行くと鵜木(光明寺道)、左は本門寺へ行く池上道。天明3年の石造道標の説明板がある。~


上記の『荏原中延史』の著者は、昔、このあたりを掘り返す時を見たそうです。なんと、そこは十畳ほどの広さで、「床の間のような所もあり、押入と思われる箇所もあり」と書いています。

それってホンマに新田関係が穴を掘っての隠れ住まい跡かいな??江戸時代の住宅の跡じゃないの?と眉に唾をつけながら読んだとしても、今はあまりに商店街商店街していて、鎌倉・室町時代はおろか昭和の初めを想像するにも難しくてよ。


🐎 義興夫人の塚

それは、品川区の記録にありました。


場所は、より一層、商店街商店街した超有名商店街 武蔵小山パルム商店街。そこに義興夫人(正室か側室かは不明)のものと伝わる塚がかつてあったのですって!

区の記録によると、その塚は、パルム商店街の、武蔵小山駅とは反対側の入口、つまり中原街道(旧中原往還)の平塚橋の近くの「權司稲荷」のところにあったそうです(平塚橋の「塚」とは違います)。


残されている記載と実際の場所がどうも合わず、しばらくウロウロしていて、ハタ!と気が付きました。記録が発刊されたのは昭和40年代。26号線や武蔵小山の商店街は出来てはいたものの、記録はそれより以前の町の風景を基準として書かれているのではないか?

当たり前のそんなことに今更気づき、スマホで東京の古地図(明治)を開き、中原街道と交差する品川用水(すでに暗渠)やそこに架かる平塚橋や、目黒碑文谷道の風景へ脳内を転換。

すると、記録と地図はみごとに合致。地図のそこには、墓(塚?)の記号がありました。

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それが確かに記録の塚かどうかは分かりませんが、ピンクの〇の所です。武蔵小山パルム商店街の入口あたりの一帯です。(緑の線はパルム商店街と26号線。)


平塚橋のあたりは新羅三郎義光の伝承にあるように、このあたりに低い(平)塚があったことから「平塚」の地名となったとされています。上にも書きましたが、夫人の塚は、この平塚の塚とは違うものです。

また、周囲をグルグルして聞き込みもしましたが、權司稲荷は見つけられませんでした。地図の見方が違うのかな~?


区の昭和の記録には、塚は200坪ほどあったと書かれています。義興の家臣たちは逃走の途中、ちょうどここに新羅三郎が死した兵士たちを祀った大きな塚があったので、自害した夫人を葬ったのでしょうか。

どちらも土地の伝承にすぎませんが、夫人の遺体をどこまでも運んでいけるわけもなく、義興家臣の誰かが、荏原氏の誰かからその塚の伝承を聞いて、そこに埋葬することにしたのかもしれません。妄想に過ぎません…。


🐎 妄想逃走ルート

言い伝えによると、義興と最後の行動を共にした家臣は13人とされています。

家に帰って、武蔵小山のパルム商店街でお土産に買った名物の あんパン を食しながら、地図を広げ家臣達の逃走ルートを妄想してみました。


多摩川の矢口渡(大田区)で果てた主人・義興の首級を担った家臣達は鎌倉街道(仲通り)を北へひた走る

夫人(正室?側室?不明)が暮らしていた、又は、避難していた鎌倉街道(仲通り)沿いの法蓮寺の館へたどり着く

追っ手が迫ってきたため館をあとにする

鎌倉街道を少し戻り、立会川を渡った入道山の麓に主人義興の首級を埋める

中原往還に出(そんな主要道を行くか?とも思うが)、北へ向かう

途中、平塚(平塚橋)のあたりで夫人の足はもつれ、これ以上は足手まといになるばかり、もはやこれまでと自害

家臣達は夫人の亡骸を葬り、さらに逃走する


家臣達はどこへ向かおうとしていたのか? 入間 だろうか?


なーんて、全部妄想ですが、ここでなんと!

🐎 もうひとつあった夫人の塚

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~千代が池(目黒)歌川広重。滝の上段が松平藩抱屋敷。~


なんだかハマッてしまって、次々と古い伝承物を読んでみました。

と、義興夫人の伝承が品川区荏原から目黒区にかかるあたりにもあることを見つけました。両区のHPによると、『新編武蔵風土記稿』に書かれているそうです。


そこには女人の名まで書かれていました。

名は「千代」。
千代殿は義興討死の報を聞き池に身を投げたと伝わっているそうです。以後、池は「千代ヶ池」、そのあたりは「千代ヶ崎」と呼ばれるようになったそうな。鎌倉時代で一介の女人の俗名が伝わっているとは、これいかに。


池があったのは現代の目黒駅すぐ近く。山手線の外側で、ホテルプリンセスガーデン の脇の坂を下ったあたりのようです。

時代はグググッと下った江戸時代、一帯は島原藩松平家の抱屋敷でした。松平家の抱屋敷は広大で、現代の目黒駅の両側&山手線内側の目黒駅から恵比寿駅に至っていたそうです。敷地は約2万1千坪!いくら親藩とはいえ、抱屋敷で広いですね。


抱屋敷は絶景の地としても有名で「江戸名所図会」や広重にも描かれ、千代ヶ池には関東第一といわれた三段の滝が落ち込み、千代ヶ池の周りは江戸の庶民にも開放されていたようです。抱屋敷の池については、ご存知の方も多いかもしれません。


それにしても、なぜ荏原から目黒にかかるこのエリアに新田義興くん縁の女人の話が点在しているのでしょう。

彼女たちは同じ人でしょうか?はたまた 別人でしょうか? それとも単なる言い伝えに過ぎないのでしょうかねえ…。


🍸 大河「太平記」関連の記事の一部です。

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」
「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」

「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて
「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞は里見からの養子だった~⑨大河「太平記」を観ていて」

「尊氏と執権赤橋の寺「浄光明寺」~⑩大河「太平記」を観ていて」
「福島の人は北畠顕家が好き?~⑪大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞のこと少しだけ~⑫大河「太平記」を観ていて」

講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて(2014)


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2021年1月 6日 (水)

新田義貞のこと少しだけ~⑫大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。本当に。

 

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~2021年は良い年になりますように。今年もよろしくお願い申し上げます。~


いかなる仕儀か、年末年始のブログが「南北朝見聞録」になってしまいました。このブログは小田原北条の見聞録なのに…?

先日、戎光祥さんが Twitter で行った「南北朝武将総選挙」の1位は、北畠顕家殿だったそうです。マリコ・ポーロ も顕家殿と尊氏様で悩みましたが、尊氏様に1票。


大河「太平記」。終盤に近づくにつれ、正成殿、顕家殿、義貞殿、後醍醐天皇(上皇)と果ててゆきトーンがだんだん暗くなってきました。

「太平記」もそうですが、「草燃える」「北条時宗」「花の乱」などなど、鎌倉・室町時代を描いたドラマは何故暗いのか。大河ドラマは人の一生を描くもの。後半は主要メンバーが次々と鬼籍に入り暗くなるのは仕方がないですが、それにしても鎌倉・室町は暗い!


身内で殺し合うからかな。でもそれなら戦国時代(戦国時代も室町時代といえばいえるが)もそうなのに、戦国時代のドラマはそんなに暗いと感じません。

むしろ、カッコエエ~みたいな爽快感を覚えたり、オレもやるぜーっ!(←何を?)とテンションが上がったりもします。鎌倉・室町時代は、舞台が京や鎌倉。狭いところで事が成されるから閉塞感があるのでしょうかねえ?以上、私感なり..




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~稲村ヶ崎~


前にも書きましたが、新田義貞を想うと、ただ「可哀想…」しかありません。

北条(前の)を倒し上野の棟梁となることぐらいが夢だった(たぶん💦)実直な坂東武者が、ひとつの全国区的な功をあげてしまったがために過大評価され、果ては見捨てられた…。後醍醐天皇は何度か義貞を都に呼び戻したのに義貞が応じなかったようではありますが、それでもそんな印象を持ってしまいます。


義貞の首は都大路を引き回され、さらし首となったそうです。

当時はそういうものだと理解してはいても、死してのちも可哀想…😢。


我らが旧八王子城を守る会の会長だった峰岸先生は、『新田義貞』(2005 吉川弘文館)で書いてらっしゃいます。

「『太平記』の作者にしてみれば、義貞の最期はその地位と活躍にふさわしい華々しいものとして描きたかったであろう。しかし…(略)…あっけない戦死を遂げてしまった。それ故、英雄物語としてのしめくくりが出来ないため、義貞の死に続いて延々と妻と勾当内侍の物語を描いて、その悲劇性を盛り上げようとしたのである。」
と。


義貞が表舞台にあったのはたったの6年。歌にも出てくるし物語や芝居で取り上げられることが多いので、なんだかもっと長い間活躍していたような気がしますが、享年38(37・39説あり)。若かったのだね。

国を出てから一度も帰ることはなく、皇子と三種神器を預けられ北陸で天皇を守って戦っていると思いきや、実は時代の中心から外れていて、遥か越前で果てる。ううぅ😢 可哀想…。


ちなみに戎光祥さんの総選挙で、新田義貞は高師直と同率5位でした。師直と同率では、義貞殿不服やろて。


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~隣の法蓮寺も含めた荏原氏館跡に建つという旗岡八幡神社。前を通るのは鎌倉街道。右側すぐにある荏原町駅の踏切を渡ると立会川(現在は暗渠)。~


新田義貞の子息義興の首塚だと伝わるものが、品川区の荏原にもあります。

首塚を訪ねたのは数年前のことですがブログに書くタイミングがありませんでした。ちょうど大河「太平記」の再放送で新田義貞の最期がオンエアされていたので子息の首塚のことを思い出しました。


その塚は、東急大井町線の荏原町駅近くにある庚申塔さんのあたりにあったようです。

というところで、次回の「新田義興と夫人の、品川区にあった塚」へ続く…


🍸 大河「太平記」関連の記事の一部です。

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」
「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」

「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて
「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞は里見からの養子だった~⑨大河「太平記」を観ていて」

「尊氏と執権赤橋の寺「浄光明寺」~⑩大河「太平記」を観ていて」
「福島の人は北畠顕家が好き?~⑪大河「太平記」を観ていて」

講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて(2014)


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年12月30日 (水)

福島の人は北畠顕家が好き?~⑪大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

本年もご覧くださいましてありがとうございました。心より感謝申し上げます。
来年は良い年になりますよう、切に祈ります。


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~鎌倉時代後期創建と伝わる「桑折寺」山門は、桑折西山城から移築された室町時代のものだそうだ。~


21才…。
建武4年8月11日、北畠顕家は再び霊山城を出発。延元2年5月22日、和泉国石津(現在の堺)で相果てる。


何度か書いていますが、ひとつの土地のヒーローの認識は、その土地に暮らす人達と全国区とでは違うことがあります。小田原人の二宮尊徳(金次郎)、米沢人の上杉鷹山、萩人の吉田松蔭、大阪人の真田幸村…。

東北人は、そりゃあ伊達政宗に決まってると思いきや、どうやら北畠顕家のようですね。東北といっても広いので県や地域によっても違うでしょうが、私の片方の親の実家でもあり今でも近しい親戚達がいる福島の伊達や信夫、つまり旧信達あたりは、伊達家発祥の地であるにもかかわらず、ヒーローは北畠顕家のようなのです。


なぜ北畠顕家?

江戸時代に松平さんが霊山神社を祀り地元で尊崇されてきたからなのか、それとも戦前教育の影響なのか…。


北畠顕家は後醍醐天皇(上皇)の命により福島と京との長~い移動距離を行ったり来たりさせられ、連戦に次ぐ連戦。最後は大阪にて討死。ドラマを観ていても、出てくるたびに、悲しい…。

伊達桑折が実家だった亡親は特に歴史が好きというわけではありませんでしたが、大河「炎立つ」「伊達政宗」そして「太平記」を日曜と土曜の週2回必ず観ていました。「炎立つ」と「伊達政宗」は納得ですが、「太平記」はちょっと不思議でした。聞くと「北畠顕家だよ。やっぱり東北は北畠顕家なんだよ」と申していましたわ。


冒頭の写真「桑折寺(こうりんじ)」は桑折氏の菩提寺で、私事で恐縮ですが親の実家の菩提寺でもあります。お寺は顕家殿とのゆかりはないようだけど、顕家殿が伊達に赴いた時にはすでにあったのだな~と、再放送を観ていて思い出しました。


顕家は和泉で負けはしましたが、どうしてこんなに強かったのか…?

また、南朝方は「一致団結して帝を守り尊氏様に相対していた」と昔は思っていたのですが、全然違うようですね。


私の北畠顕家像は親の受け売りだけですが、かぞえ 21才 で果てた美少年→美青年の貴公子というイメージでした。

嗚呼それなのに、それなのに。なんと妻子がおったとな!ちょっとイメージがガラガラと(勝手に腐っていたマリコ・ポーロ💦)。


亀田俊和著『南朝の真実』を前に読みましたが、この後も、パパ親房卿の葛藤は南朝の総帥となりながらも続いていくのですね。


🍸 大河「太平記」の記事

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」
「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」

「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて
「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞は里見からの養子だった~⑨大河「太平記」を観ていて」
「尊氏と執権赤橋の寺「浄光明寺」~⑩大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年12月22日 (火)

宗瑞は京で失脚したため駿河へ下った!?~森幸夫氏

マリコ・ポーロ

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~「小鹿営業所」 新九郎さんファンはバスの行先表示も撮る~


先日のブログ記事「道灌・小田原北条を大河ドラマに!署名を募っているそうです」でチラッと書いた小田原の本『戦国大名北条氏の歴史 小田原開府五百年のあゆみ』を読み進んでおりますが…

ドびっくり~(←また💦)なことが書かれていました。


皆様ご存知でしたか?
新九郎さん(宗瑞)が駿河へ下向したのは、京で政治的失脚をしたため だというのです。


それは、森幸夫氏の「第1章 ー大森氏と伊勢宗瑞の時代ー」に書かれています。以下はほぼ本文よりの抜き書きですが、まだ読んでらっしゃらない方は是非本をご覧くださいませ。

余談ですが、小田原城が八幡山古郭から同心円状に発展してきたのではないということを私が初めて知ったのは、森氏の論文でしたわ。


ほにゃ、話を戻して。

🐎 宗瑞の失脚の原因は、新九郎さんが 将軍足利義尚と六角氏の申次をつとめていた ことにある

新九郎さんが六角さんとの申次だったということは、六角さんから将軍への高級瓜のプレゼントを新九郎さんが取り次いだりしている記録などから分かるそうです。


長享元年。
新九郎さんが駿河で小鹿一派を討ち氏親さんを当主にすえた頃、京では義尚が六角討伐のため近江に在陣している。


ところが、六角討伐には奉行衆だけでも300名以上が従軍しているのに、新九郎さんは駿河にいるので当然のことながら六角討伐には参陣していない。


そんな事態の時に義尚側近の新九郎さんが駿府への下向を上様に願い出られるわけはない。ということは、六角氏との関係で新九郎さんはすでに申次を解任されていたのではないか。これは、事実上の失脚である。


だから新九郎さんは姉上北川殿のかねてからの依頼もあり駿河へ向かったのだ。


これが、新九郎さんの戦国大名への第一歩となるのであ~る。

解任してくれて、おおきに、義尚殿!
(えっ、そう?)


🐎 駿河へ下向し氏親を当主にする

・そもそも新九郎さんは、小鹿を討つという明確な理由があって駿河に行ったのではない。駿河で姉上親子を支援する中で首尾よく小鹿を滅ぼしたのである。

・「もし盛時が、甥氏親を今川氏家督にするため駿河に下ったとするならば、足利義政から氏親への安堵がなされた文明11年から八年も後の長享元年、しかも将軍義尚の近江在陣中に、なぜ、それを実行したかが説明がしにくい」。(言い回しが難し~ のでそのまま書き写させていただきました。)


「義政からの安堵」というのは、龍王丸(氏親)のパパ義忠が戦死した後、当時の将軍義政が龍王丸が義忠の遺領を相続することを認めたアノ御内書です。

ほとんど忘れていたので、小和田先生の『駿河今川氏十代』(吉川弘文館)のこのへんのページを再読してみました。


小和田先生はこの御内書は、家中が混乱し北川殿と龍王丸も小川へ隠れ住んでいる状況の中で、龍王丸が義忠の正式な跡継ぎであることの証明が欲しく、新九郎さんが幕府に働きかけたとしていました。

安堵状が出た後、新九郎さんは京へ帰ったとされています。


🐎 将軍義尚の死去

義尚の病死(近江陣中)にともない新九郎さんは再び上洛し、次将軍義植の申次となります。新九郎さんの本籍はまだまだ京都ですが、駿河と行ったり来たり。そして、義植の六角征伐には参陣していないそうです。


016
~北条ファンは道路のタイルも撮る~


🐎 伊豆への侵攻は京の幕府との連動ではない

これについては池上裕子氏も 2017年に書いてらっしゃったようなのですが、マリコ・ポーロの手元には無く確認できていません。


新九郎さんの伊豆への侵攻は、細川が将軍を義植→義澄とした「明応の政変」を契機とはしたが、新九郎さんの主体的軍事行動である。なぜなら…

・新九郎さんの伊豆侵攻を支援した(とされている)葛山氏が、新将軍の義澄の代初めの欠礼を幕府にとがめられているから。

伊豆侵攻がもし幕府の指示なら、幕府から欠礼をとがめられることはないはず。


・幕府が、奉公衆クラスの新九郎さんに公方である茶々丸の討伐を指令することが想定しにくい。

・新九郎さんと義澄との関係も薄い。

あ、このくだり、前にどこかで読んだか聞いたかしたような気がする~。その時、一瞬アレッ?と思ったのですが、そのまま忘れていました。


ゆえに、新九郎さんの伊豆侵攻は幕府の働きかけを介在させる必要はないそうです。ただ、同本では、小和田先生はじめ他の著者は、宗瑞の伊豆侵攻は幕府との連携であると書いてらっしゃいます。


(翌日加筆。
また、もし新九郎さんの主体的軍事行動としたら、その理由はなんなのでしょう?伊豆をゲットしたかったから?茶々丸は現将軍の仇。討伐したとて幕府からとがめられることはないだろうって?

黒田基樹『戦国大名・伊勢宗瑞』には、荏原荘からの収入だけでは伊勢家は成り立たなくなっていたから…と池上裕子氏が書いているとありました。そして、宗瑞の伊豆奪取には上杉もかかわる複雑な背景が書かれていました。マリコ・ポーロ の知識ではブログにまとめられないので、興味ある方は本の方を読まれてみてくだされ。)


それにしても、以前は、宗瑞は独自で伊豆を奪取とされていて → それが少し前に、義尚の承諾を得て幕府の指示で伊豆へ侵攻したとなり → またまた宗瑞が独自で行ったことなのではないか?に戻った(または以前からその説は続いていた?)のですか。

逼塞していても本を読むだけで ドびっくり~😠! が次から次へと発生するものです。

どしたらエエの?


▲ 宗瑞時代の駿府・今川氏のブログ記事の一部
「駿府 「臨済寺」の特別公開」
「今川時代の駿府 「吐月峰 柴屋寺」」
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」

「宗瑞を圧迫した立役者、赤沢朝経~家永遵嗣氏 講演(2019.12)」
「小田原北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム(2015.1)」

「早雲寺 「北条早雲画像」の曝涼 2010」
「北条氏綱像」は後世に改変されたのか?」

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」

「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏「願成就院」」
「早雲が最初に賜った城は、三国同盟の城?」

▲ 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女たちのこと
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」

▲ 以下は2009年の知識で書いたものなので、そのへんのところ甘~い目でご覧いただけたら嬉し。当ブログは北条氏照ブログとも言われますが、思い起こせば、新九郎さんから始めたのでした。

「ディスカバー 伊勢新九郎の相模へ」
「伊勢新九郎 湘南ボーイへの道」
「‘元祖 義’ 伊勢新九郎の韮山へ」
「伊勢新九郎さん in 駿河の巻」
「伊勢新九郎さん 伊豆で温泉にはいるの巻」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年12月19日 (土)

道灌・小田原北条を大河ドラマに!署名を募っているそうです

マリコ・ポーロ

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「のん!」
「むっしゅう!」

『新九郎、奔る!』の第6章。太田道灌はエルキュール・ポワロでしたね。名僧が、その舞姿の美しさを称えた様はどこへ? が、しかし、名僧が書くことはオーバーですから、話半分に受け取っておきましょ。

「つるハ〇〇むし」にも、つい噴き出しちゃいました。私の子供時代の仲間では「つるハ〇〇むし」でした~。


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~『戦国大名北条氏の歴史 小田原開府五百年のあゆみ』吉川弘文館~


断捨離で本をリサイクルに持っていくそばから新しい本を買っているマリコ・ポーロ。つまみ読み(?)した後は 積ん読 が増えるばかり…いやいや、読んでいますよぉ。徐々に……ゴニョ。

それらの 積ん読 はそのままに、先に読んでいるのが昨年発行され今年増刷となった『戦国大名北条氏の歴史』です。執筆は小田原衆(新旧お馴染みの学芸員さん達)総出!そして小和田先生、森幸夫氏…などなど読み応えたっぷり。

小田原北条ファンの皆様はすでにお読みになってらっしゃると思いますが、私も、つまみ読み ではなく始めから順番に拝読しております。


そうそう、読んでいてフト気が付いたのですが…
大きな声では言わなかったけれど(中ぐらいの声では言ってた💦)、「小田原開府五百年」の「開府」って、開幕したのでもないし守護大名でもなかったのに「開府」ってなんだろう?と、実は思っていたんです。

南禅寺の東嶺智旺が小田原を訪ねた時の、あの記録に、小田原のことを「府中小田原」と書いているのですね。当時の小田原は「府中」として知られていたのですね。

ってことでいいのかにゃ?歴史の基礎学問をしていないので、戦国時代の「府中」の意味をいまひとつ理解していない マリコ・ポーロ ですが。


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~稲付城跡の静勝寺にて~


さて、太田道灌と小田原北条関係では、大河ドラマへの嘆願署名をそれぞれ募っています。太田道灌の署名は前にもブログにあげましたが、再度。以下、タッチしてご署名よろしくお願いいたします。私がお願いするのもなんだけど。

太田道灌 署名フォーム

小田原北条 署名フォーム


坂東の戦国時代は全国区ではない人名・地名が多いから難しいという声もあります。これも何度か書いた繰り返しになりますが、東北や坂東以外では、当時は歴史好きの間でも知名度が低かった「炎立つ」や「伊達政宗」は大河に出来ましたよね。その後、藤原三代や政宗の旧蹟を巡る観光客もグッと増えました。

要は、脚本(←すっごい大事!)・演出・役者さん…ですよねえ。どうか、マリコ・ポーロ の目の黒いうちにどちらかの大河ドラマを観せてくだされや。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年12月 9日 (水)

気になる滝山城・小田原・玉縄城・戎光祥などのイベント(2020.12~)

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、本当にありがとうございます。

 

マリコ・ポーロがいつまでも逼塞してる間に、皆さまは様々な苦心をなさって活動を始めてらっしゃるのですね。

まずは、我らが北条氏照の城「滝山城」から。


▲ 滝山城築城500年記念事業

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~いただいた御城印、ありがとうござうるぅ(*'▽')/ ~


大石氏が築城したとされる滝山城は来年、築城500年を迎えます。皆さまご存じのように、城は、そのあとに入った我らが北条氏照により大きくリフォームされ名城と謳われるようになりました。

今年から来年にかけてたくさんの記念イベントが、八王子市をあげて行われるようです。


下記リンクの「滝山城築城500年」HP に詳しく載っていますが、ちょっとビビビッときたのが、おまんじゅうラッピングバス。

え、そこ?って?
だって羨ましいんだもん。


おまんじゅう は、八王子名物「つるや製菓」さん。あの「都まんじゅう」に三ツ鱗の焼き印が押されています。販売は12月20日までだそうです。食べたい!ラッピングバス は、西東京バスさん。写真を撮りたい!

たくさんの行事はこちらに(おまんじゅう&ラッピングバスの写真も載っています) → 「滝山城築城500年」


また、先にお知らせした加藤哲先生によるプレイベント講演「上方の儀に付き、際限なき御用に取乱れ候~滝山城主北条氏照の人と合戦(2)~」は終了しましたが、感染対策で密にならないように2部に分けて行い盛況だった模様です。

滝山城の氏照友師匠がレジュメを送ってくださったので、熟読してからブログに書きたいと思います。


▲ 本城 小田原

「小田原市制80周年記念 小田原城天守閣60周年記念事業 一夜城×小田原城 令和に蘇る小田原合戦 ~ 一夜城イルミネーション大茶会と小田原城北条市~」


漢字がいっぱいで目がウロウロしちゃいますが、つまり…
一夜城と、小田原城と、「お城EXPO」など、正の遺産・負の遺産、現代イベントを全部からめて、アチコチで様々な(また様々💦)ことをやっちゃう!ということです。

マリコ・ポーロがビビッときたのは「大茶会」。一夜城に茶室を再現しての茶会です。行きたい…
(ノД`)シクシク


期間:2020年12月18日~2021年1月3日

詳細はこちらを → 「jiji.com さんのHP」


▲ 玉縄城「連続歴史セミナー 第4回」
玉縄城址まちづくり会議主催

先にブログに書きましたが、再度。

第1回・2回・3回とも、とても魅力的な興味津々セミナーでした。特に2回目の浅倉先生の「北条氏当主をとりまく女性たち」と、梯さんの「玉縄北条氏の文化的活動」は是非拝聴したかった…。なにもかも残念。


さて第4回。
日時:2021年1月23日(土)
講師:玉縄ではお馴染みの、大竹氏・玉林氏・伊藤氏

詳細はこちらを→ 「観光かながわNOW~鎌倉・玉縄城址を活かす歴史ミュウジアム事業


▲ 戎光祥ヒストリカルセミナー

次々と魅力的なセミナーが続きますね。それがまた、コロナ禍によりネットで配信され、レジュメも見られます(プリンターがあれば印刷もOK)。

ワインを飲みながら、一人ツッコミで視聴できるものですから、ついつい購入してしまう…。


北条ファンのマリコ・ポーロは、数回前の平山優氏の「天正壬午の乱」の視聴が終わり、今は先日12月2日に開かれた黒田基樹氏「戦国大名と国衆」を視聴中。

「国衆」とはそういうことだったのですか!って感じ。こちらも追々ブログに書くかもしれません。把握できたらですが…💦


次は更に大変ですよ!
・家永遵嗣氏
「今川義忠の討ち死にと摂津之親・伊勢盛時(伊勢宗瑞)」
・大石泰史氏
「今川氏親の名乗りと今川・北条同盟」

2本立て!

2,500円ですが、いつでも何度も視聴できてレジュメもあるので、本を買うようなものですな。


申し込み締切間近です。
会場で参加の方はこちらに詳細が → 「戎光祥ヒストリカルセミナー」
ネットで観る方はこちら → 「事前予約動画申し込み」


▲ 企画展「戦国時代の鎌倉-もとの都に成してこそみめ-」
鎌倉市歴史文化交流館

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枯るる樹に また花の木を 植ゑそへてもとの都に なしてこそみめ


小田原北条ファンは皆ご存知。宗瑞の和歌をサブタイトルにしてくれたのですね!

鎌倉の歴史は、源氏→徳川へと、間の小田原北条をスッ飛ばして発信されることが多かったのですが、最近は小田原北条に光があたるようになりました。


我が家と鎌倉は、横須賀線に乗るまで(&降りてから)も土日も平日も朝昼晩も満員電車なので私は相変わらず参りません。残念なり。BS「ぶらぶら博物館」で放映されないかにゃ~。

図録だけでも取り寄せよっと。

こちらを → 鎌倉市歴史文化交流館


取り急ぎ以上です。

マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年12月 3日 (木)

一昨日の「八王子城発掘調査」のお詫びと訂正

発掘調査した場所は「一段高くなっている地区」ではなく →「会所と、一段高くなっている地区 との間」だそうです。

書き直しましたので、再読くださると嬉しいです。大変失礼しました。
m(__)m


浴室だった?~八王子城の発掘調査状況(2020.11)

マリコ・ポーロ

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2020年12月 1日 (火)

浴室だった?~八王子城の発掘調査状況(2020.11)

マリコ・ポーロ

医療介護に携わる方々はじめエッセンシャルワーカーの皆様、本当にありがとうございます。


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~現場は御主殿の奥(氏照友からお借りした写真)~


(加筆 2020.12.3
発掘調査したところは、一段高くなっている地区 ではなく、会所と、一段高くなっている地区 との間のようです。そこだけチビット書き直しまた。)


見学に行けない マリコ・ポーロ をかわいそうに思ってくださった 八王子城&北条氏照友の方達 から、レポートや写真をたくさんいただいております。皆さん、ビビッ!ポイントや写真が違って興味深く拝見いたしました。ありがとうございます。心より感謝いたします。

近くだったら、私も現場監督のように毎日通うのに…。え?近くでなくて良かったって?だれ?!


教えていただいた情報を以下にまとめてみました。

行っていないのに書くとは…。コロナ禍により冗談じゃなく本当に「見聞録」ならぬ「ぶんぶん(聞聞)録」になっちゃう。ブログタイトルを 『聞き書き後北条』 に変えようかな。


さて、
今回の調査区域は、下図の の〇 の箇所だそうです。会所の西側です。

前にその下の 青の矢印 のあたりを大々的に調査すると聞いていたのですが、場所も規模も少し変更になったようですね。

Dsc_0775_20201202084001


教育委員会や郷土資料館の報告書によると、ここは平成4年に一度調査されていますよね。3mx4m の礎石建物跡が明らかになっていましたが、建物の用途までは分かっていませんでした。

また、平成21年にも、ここから西側へ続く地域と段差の部分も調査しています。その時は遺構は出ませんでした。


こたび分かったのは、建物の中には 火を燃やした「炉」 とみられる痕があるということだそうです。

Dsc_0033 
ピンク ↓ が炉状遺構(八王子衆からお借りした写真)~


建物のサイズから、風呂か台所ではないか?と。以前、池が出てきた時は、上図のピンクの方形のところが湯屋かもしれないということでブログにも書いたかもしれませんが、そうではなかったようですね。

また、この建物に向かって上図の下から上へと敷石が出てきているそうです。


Dsc_0035
~遺物も少し(同じく氏照友より)~


この礎石建物は、「すぐ横の土壌が高温にさらされていることから、建物は火災に遭って燃え落ちたものと見られる、とのこと」だそうです…。

もっと西奥には、もしかしたら氏照のプライベート空間が広がっている可能性もあるらしいです。それらも同じく落城時に火に包まれてしまったのでしょうかねえ…。


うぅぅ(ノД`) 行きたかったです。行って、発掘現場独特のあの土の匂いを嗅ぎたかった…。


▲ チト余談

発掘調査報告書をあらためて読んでいて、気になっていたことを思い出したので…。
前に書いたかもしれませんが、報告書によると、御主殿で「大甕」が出てきているのは池の向こう側(山側)の所です。黄色の ← のところからは、溶接などに関係したような物とか鉄クギなどなどが出てきています。臨戦状態で築かれた八王子城。武器や武具の製造・修理などの空間だったのかもしれないとのことです。


🍸 八王子城と氏照について今まで書いたブログ記事の超々々々一部なり
「八王子城の台風被害と露出した石垣のほんの一部分(2019・10)」
また、以下の文末には、今までの記事がけっこう添付されています
「八王子城、消えた橋と現われた石垣(2015.4)」
「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!(2013.11)」


🌼 アナザーブログに八王子城や小田原城などなどの花草木のことを書いております

戦国北条の御曹司~柏槙と犬槙(小田原城)
「越後鮫ヶ尾城~かたくり」
「足柄清川に沈んだ美僧~蓮」
「武将とアサギマダラ~藤袴」

「八王子城に咲く~采配蘭」
「八王子城に咲く②~鱗木・細葉鉄蕨・鬼女蘭」
「八王子城に咲く①~天南生」
などなどなど…


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年11月28日 (土)

尊氏と執権赤橋の寺「浄光明寺」~⑩大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ


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~浄光明寺は萩の名所~


だからあの時、鎌倉を捨てなきゃよかったのに、義貞どのぉ…

と、ドラマを観ながらひとりごちていたら 大河「太平記」(再放送)も早35回。今、尊氏様は30才そこそこで、放送は残すところ 15回になってしまったのですね。


ドラマでも尊氏様が新田義貞を討ちに「南無はちまんだいぼさーっつ!」と出陣しますが、実際、足利は「軍勢催促状」を数十通出しています。

催促状は尊氏ではなく直義の発給になっているんですってね。峰岸先生はこれを、「尊氏の心身不良もあるが、政権への反逆とされるのを避けるため、義貞との私闘を印象づけようとした」と書いてらっしゃいます。


大塔宮のことにしても、こたび都へ戻らなかったことにしても、尊氏は弟直義によってどんどん後戻りできないところへ押し上げられていきますね。

でも尊氏の直義への想いは強く、この一年後に、あの有名な願文、この世は夢のごとくに候…現世の幸福は直義に譲ります。直義をお守りください…が清水寺に奉納されるのです。


それはそうと、
足利殿のことが だ~い好きな判官殿(佐々木道誉)は、今井宗久の先祖だそうですな。

来年…いや、再来年の大河が北条ではなく北条だったショックがあとを引き、現在の大河「麒麟がくる」は時々しか観ていませんが、道誉と宗久のことは番組HPの陣内さんのキャストメッセージにありました。だから宗久も陣内さんが演じてらっしゃるのですね。

先日観てみたら、宗久殿がお茶を点てていました。さすがバサラな趣味人の判官殿。見事なお点前にござりました。


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~扇ガ谷にいた上品な猫。「登子どの!」と呼んだらこっちを見た。~


尊氏が蟄居したといわれる 浄光明寺 の裏山の下にはかつて 多宝寺 という大きな寺がありました。江戸時代にはすでに廃寺となっていたようですが、寺の僧たちを葬ったやぐら群が残り板碑や焼物や五輪塔なども出土しているそうです。

浄光明寺境内の裏山から山道をしばらく行くと 覚賢塔 とよばれる名僧覚賢の巨大な五輪塔があります。ゆうに3mはあり、凄い存在感(毎年4月の鎌倉まつりの時だけの公開だったと思う)。この五輪塔も多宝寺にあったもののようです。


なんと!私には分かりませんでしたが「戒壇」の跡もあるそうですよ。どこ?

北鎌倉側の巨福呂坂切通しあたりからも行けるような噂を小耳に挟んだので、こちら側からも一度歩いてみたいと思ってはいるのですが山道に慣れてないと危ないかな…。←曖昧な情報なので行かれる場合は調べてくだされ。


多宝寺の開基は北条執権家極楽寺流の業時という方で、浄光明寺を開基した長時とは兄弟だそうです。一帯は、極楽寺流の領分だったんですね。

足利尊氏室の登子さんの実家の赤橋家は極楽寺流。浄光明寺は赤橋家の菩提寺であり、残っている絵図には、新田義貞の鎌倉攻めの時に討死した登子さんの兄上である執権守時殿の屋敷が描かれているそうです。

尊氏様は、妻の実家の寺へ引き籠ったわけですな。


浄光明寺へは小町通りから入るのが近いのでしょうが、小町通りの異常な人混みを避けて今小路側の英勝寺の踏切を渡っていくルートをおすすめします。途中の雰囲気やいくつかの石碑も、観光客の私なぞには鎌倉っぽく感じられて好きです。


🍸 大河「太平記」の記事

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」

「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」
「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて

「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞は里見からの養子だった~⑨大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年11月14日 (土)

八王子城発掘調査始まっています!(2020.11)

マリコ・ポーロ


Dsc_1199 
~八王子に行けないのでこれで。~


場所:八王子城跡御主殿西側部
予定期間:11月9日(月)~11月30日(月)予定

見学は調査区外からなら可能だそうです。お邪魔にならぬようにと。


私は例によって満員電車とターミナルの乗り換え駅が怖いので参れません。毎日満員電車でお仕事の方には申し訳にゃい…。
(ノД`) シクシク…

何か出てきたら、YouTube で現地説明会をやってくださらないかなぁ~。すっごく嬉しいのだけれど。よろしくお願いします。
m(__)m


八王子市文化財課のお知らせHPはここをクリック


▲ 八王子城と氏照について今まで書いたブログ記事の超々々々一部なり
「八王子城の台風被害と露出した石垣のほんの一部分(2019・10)」
また、以下の文末には、今までの記事がけっこう添付されています
「八王子城、消えた橋と現われた石垣(2015.4)」
「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!(2013.11)」


🌼 アナザーブログに八王子城や小田原城などなどの花草木のことを書いております

戦国北条の御曹司~柏槙と犬槙(小田原城)
「越後鮫ヶ尾城~かたくり」
「足柄清川に沈んだ美僧~蓮」
「武将とアサギマダラ~藤袴」

「八王子城に咲く~采配蘭」
「八王子城に咲く②~鱗木・細葉鉄蕨・鬼女蘭」
「八王子城に咲く①~天南生」
などなどなど…


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年11月10日 (火)

北条五代の娘たち⑨今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻

マリコ・ポーロ


シリーズ 北条五代の娘たち
【三代北条氏康の息女~今川氏真室】


Photo
~今川氏真・早川殿夫妻の終いの棲家跡を、向いのスーパーから俯瞰した。現在の東京都品川区の大井町駅あたり。今はなんの遺構も碑もない。~


2016年からヨロヨロと追い続けている「北条五代の娘たち」。早雲こと伊勢宗瑞の娘達に始まり、二代氏綱の娘達が終わり、これより三代氏康の娘達に入ります。

まずは、北条家との縁組最多の今川に嫁いだ早川殿 の足跡を辿ることから始めまする

(注・この記事は大河「直虎」の 2017年に、順番を割り込んで書いたものの順番を直したリメイクです。)


さて、

早川(早河)殿とは

パパ: 北条三代当主氏康
ママ: 瑞渓院(父・今川氏親/母・寿桂尼/兄弟・今川氏輝、彦五郎、義元)

兄弟: 氏政、氏照、氏規、氏邦、上杉景虎
姉妹: 七曲殿(綱繁室)、千葉親胤室、長林院(岩付太田室)、浄光院殿(足利公方室)、桂林院殿(武田勝頼室)

などなどの他に、イトコやなにやらで父氏康の養子女となった義理の兄弟姉妹まで入れると、ウジャウジャウジャウジャ。早川殿は、それらの長姉と考えられています。


北条の女人たちは、嫁ぎ先が滅びたり同盟が崩れたりしてもすぐに実家に戻らない方が多いですね。帰れと言われてもガンとして戻らなかったり、遠国へ渡ったり、夫君と共に命を絶ったりする女人が幾人か浮かびます。前にも書いたかもしれませんが、それは何故だろうと考えることがあります。

相手への情愛が深い情熱型の女人が多かったのか。はたまた、細かくて窮屈な北条(そうなのか?)に比べると、嫁ぎ先は居心地の良いところだったのか。それとも、北条には戻り難い雰囲気があったのか…いや、幻庵大伯父が引き取り後は後見となって面倒をみてくれるので、それはなかったと思いたいですよね。


北条家には、その幻庵殿が娘を吉良氏朝(頼康の次代)へ嫁がせる時に渡した、他家への嫁入りの心得書 『北条幻庵覚書』というものがあります。

やはり、その教えが、北条一門の女人達には根付いているのではないかと私は思うのです。


Img20170811_205725
~『北条幻庵覚書』 永禄3年12月16日


今川氏真の正室 早川(早河)殿 も、そんな女人たちの一人です。

氏真や早川殿のことは以前にたくさん書きましたので、そちらもあわせてご覧くださると助かりまする(文末に添付)。


上にも書きましたが、早川殿は、我らが氏政や氏照たちウジャウジャ兄弟姉妹の、一番上のお姉さんだとされています。つまり、早川殿が子供だった頃はまだ北条の初期です。

伊勢宗瑞の質実な暮らし方を色濃く受け継いだ小田原や、領地争奪の戦の日々に明け暮れる東国から京の香りに溢れた駿府へ入った 16-7歳 の少女にとって、嫁ぎ先はどれだけ華やかに見えたことでしょう…たぶん。


戦国初期の無骨な坂東武将達や、超ワンパクな弟達(そうか?)を見慣れている身にとって、氏真や義元や今川の側近たちはどれだけエレガントに見えたことでしょう…たぶん。

なーんて、北条の曽祖父の実家の伊勢家は京の将軍家の取次ぎの家。母上は今川の出。それほど粗野で野暮ではなかったはずですが、それでも、今川はきらびやかで アカデミックに思えたことだろうと想像します。


寿桂尼は御祖母様。大叔母の長松院(宗瑞娘)も重臣三浦家にいますし、弟クンの氏規もすでに駿府にいたでしょうから、心細いこともありませんしね…たぶん。

(とんだ見当はずれだったらゴメンナチャイ、早川殿


Img20170625_204724_2
~氏真や早川殿が一時過ごした小田原の早川。早川は、小田原市街から川(早川)を渡ったところ。石垣山城の麓の漁港である。~


今に伝わる氏真の評判については、その後駿府の主となった徳川家が「前の領主はこんな情けない人間だったんだど~。それに比べて今はとてもいいでしょ~」と思わせるために作り上げたものだという説もあります。

しかし、当時の信玄殿はじめ周辺の武将たちの人物評を聞くと(?読むと)、やはり、戦国時代の武将には向かなかった方だったような気が私はします。


氏真が武田によって駿府を追われてからの流転や、北条氏政の息子(氏直)に「今川」の名跡を譲った(後に返してもらった)ことなどは皆さまご存知の如くですが、夫妻一行が難民となって小田原へ来た時、なぜ城内エリアではなく、川の向こうに彼らを置いたのかがずっと気になっています。

① ただ単に、夫妻の屋敷を城内エリアに建築するまでの仮住まいだっただけ。(完成する前に小田原を出ていった。)

② 人数が多くて、城内エリアに高級難民キャンプとするに適した場所がなかった。

③ 早川は幻庵の管轄地。北条の出戻り組は幻庵が後見担当だったから、自然の流れで小田原に一番近い早川村になった。

④ 氏政さまが、城内エリアに置くことを嫌がった。もちろん、個人的好き嫌いではなく政策的理由で。


氏真夫妻が小田原を出ていったのは、北条が再び武田と結んだことにより、ここにいては今川の再興は有り得ないと考えたからと言われています。

それもあるとは思いますが、「あとの人生、このひなびた漁村(当時のことよ)で一生を終えるのか…。」と、どよ~ん ↓ としてしまったのかもしれないですねえ。


ほな、こたびはこれまでに。


「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

「駿府 「臨済寺」の特別公開」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
「今川時代の駿府~吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html


今までの北条五代の娘たちの記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「浄心院は三浦道寸の娘か北条氏綱の娘か? 」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html

「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html
「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html


萩真尼ことマリコ・ポーロ


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2020年11月 8日 (日)

虎朱印 の「虎」の由来は?

マリコ・ポーロ


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~黒田基樹著『戦国北条家の判子行政』2020.10.15 平凡社新書(布は歴友さんにいただいた鱗柄のスカーフ) ~


その前に、お詫びと訂正。

▲ 滝山城の講演会のお知らせブログに載せた、本丸の南側の虎口の「石」の写真のこと

ブログに「門の跡」かもしれないと書きましたが、どうも違うようです。そこは少し急なので、かつては自然石を置いた石段になっていたそうです。表面観察しか出来ないのでシカとは分からないが、今はその石はほとんど埋まってしまったので、その一部が出ているのかもしれないかもしれないとのことです。


また、本丸の下段から上段に上る神社の左側、中の丸の虎口、大手口と言われている天野坂、山の神への途中の坂などの急坂には、同じく石段があった様子だそうです。城の遺構はほとんど残っているので、廃城後は手を加えられていないのではないか?と。

もし、もし、当時の石段だとしたら、本丸の虎口の説明板 ↓ (ボケボケ写真でスミマセン)と同じような感じだったのですかね~

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先のブログ記事はコッソリ💦 修正しました。そこにも書きましたが、ご興味ある方は是非ぜひ滝山城へ行って見てみてくださりませ。あ!掘っちゃアカンよん。


では、本題。

黒田基樹著『戦国北条家の判子行政』2020.1015(平凡社新書) を読みました。

読んでいて思いました。
小田原北条が始めた日本の判子文化も、今消えつつあるのか…と。そして、判子文化をはじめ現代に続く様々なシステムの基礎を作った小田原北条は、やっぱり凄いとあらためて思いました。


なのに先日のNHK『ザ・プロファイラー』では、「関東の治安を乱す氏康」とか「坂東で北条氏康が略奪した土地を謙信が取り返してあげた」とかしか言われていなかったのは残念…。

今週のBS6『にっぽん!歴史鑑定』は、「小田原攻め 秀吉の野望vs北条一族の誇り」。あまり期待しないで楽しみにしています(?)。


話を戻し…

ずーーーっと考えていることがあります。

小田原北条家の虎の印判は、なぜ「虎」なのだろうか?「虎」はどこからきたのだろうか?

当時の人は、実際の虎は見たことがないですよね。


『北条記』に、有名な宗瑞の夢の話があります。

2本の杉の木をカジカジしていた鼠が、大きな「虎」になる。それで「虎」にしたのではないかという説がありますね。(黒田氏の判子の本にはさすがにその夢のことは書いていない)。


虎の印判が使われ始めたのは宗瑞死去の11年前の永正5年からのようですが、

🐯 もし夢から取ったとしたら、この夢の話は本当のことなのでしょうか?本当に宗瑞がその夢を見て印判に「虎」を使ったということなのでしょうか?

🐯 それとも、なぜかは分からねど「虎の印判」が先にあり、『北条記』を書く時に、夢に印判の「虎」をこじつけて登場させたのでしょうか?


宗瑞の干支については、夢に鼠が出てきたから「子年」とされているのですよね? だから、夢の話は本当の話なのでしょうか?

ちなみに、氏綱は未年だと思いましたので、「虎」とは関係ないですねえ。


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~マリコ・ポーロ家の「猫」朱印~


この本は、虎朱印の「虎」がどこからきたのかを知りたくて買いました。それは書いてありませんでしたが、納税、裁判、市場関与、公共工事、そして、「お国のために」の使われ方などなど、北条が好き好きと言いながら今まで気にしなかったことが書かれていて、とても勉強になりました。

一回読んだだけでは不肖マリコ・ポーロには全然把握できなかったので、もう一度読みます。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年10月25日 (日)

講演「中世の品川と妙国寺 ー 往来する商人・宗教者・戦国武将」

マリコ・ポーロ


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~「中世寺院と品川 ー 妙国寺の歴史と寺宝」展(2019.10) 品川歴史館~ 


家康前の江戸は未開の地だった…

それは昔いわれていたこと。今は、「ただの寒村を徳川幕府が大都市にした」と、徳川の力をアピールするために作られた話だというのが一般的になりつつあります。


とはいえまだまだ広い世間には知れ渡っていません。

江戸湊を本拠地とし江戸を開発していった江戸氏。家康の前に、江戸に名僧が称えた城を築いた上杉と太田。その江戸城を奪取した北条氏綱や、隠居後に在城した氏政。江戸を坂東の舟運の要として繁栄させた彼らの立場はどうなる?😢(シクシク) と思っていたところ…

先日のBS6歴史鑑定「家康より先に江戸を築いた武将・太田道灌」は、それを当然のごとくサララーッと伝えてくれましたね 😊(ニコニコ)!


番組を観ていて、昨年の秋、品川歴史館で催された企画展と、古川元也氏(日本女子大)による講演会「中世の品川と妙国寺ー往来する商人・宗教者・戦国武将 」のことをブログに書き残し忘れていたことを思い出しました。


前にも書きましたが、家康前の江戸のことはずっと興味がありました。

江戸は徳川以前も寒村ではなかったと漠然と唱えていてもアカンので、鈴木理生著『江戸はこうして造られた』を読み、「道灌びいき」の会の勉強会やいくつかの自治体(区)が主催するガイドツアーで歩いたりもしてみました。

また、「旧 八王子城を守る会」の残党(ワテも)の重鎮である氏照師匠が、「それなら、こんなんあるよ~」とコピーをくださった、旧会長の峰岸純夫先生の『中世荘園公領制と流通 』にある「戦国時代武蔵品川における町人と百姓」(岩田書院 2009)もとても興味深かったです(今更のアップでゴメンナチャイ)。


そして、特に参考になったのは、石村智・谷口榮・蒲生眞紗雄著『海の日本史 江戸湾』(洋泉社2018)の中の、谷口氏が書かれた第三章「中世の江戸湾内海」です。

谷口さんの本はそれだけでも内容が盛りだくさん。あらためて(いずれ)書きたいと思うので、こたびは講演会のことだけを。(峰岸先生の本は、まとまった史料がある品川郷を例に百姓や町人などの欠落や人返しなどのことを挙げ、同じ郷内での都市と農村の分離と矛盾がテーマなので別の話として。)

一年も前のことで恐縮ですが、チビットだけ以下に備忘記録。


▲ 天妙国寺(旧妙国寺)

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~天妙国寺。暗い?(数年前に撮影)~


中世の江戸といえば品川湊、品川湊といえば「妙国寺」ですよね~。妙国寺には、ご本尊を含めた彫刻作品類、経典、宗教絵画などの他に、鎌倉公方はじめとする戦国武将達の文書類『妙国寺文書』などなどなど、あまたの貴重な寺宝が残されています。

制札は、我らが北条氏綱のもあります。太田資正殿のも、上杉朝興のもあるでよ。


創建は弘安8年。前の北条の 北条時宗 の時代です。当時、寺が属したのは「日蓮教団」(この教団については、宗門史からの考察が必要だと古川先生は講演でおっしゃっていました)。

足利義政 の頃、品川湊の豪商だった鈴木道胤により七堂伽藍が建設された大寺院でした。江戸時代には徳川将軍家の宿泊所としてたびたび使われもしたそうです。


▲ 妙国寺文書

皆様は私なぞより遥かに歴史に詳しい方ばかりなのでご承知のことですが、文書、特に書状に書かれていることは全て本当のことではありません。前にも何度か書きましたが、わざとウソを書いたり、話を盛ったりします。聞き違いや書き違いもあるでしょう。

でも、日本では文書はとても大事にされますよね。


妙国寺では先年、伝来文書の修復をされたそうです。手鑑にまとまっていたものを一紙ごとにバラして、一通ずつ中性紙ボードに挟んで箱に収納したそうです。これは、文書の安定した保管には一番良い方法だそうです。

企画展などでの展示も、冊子のままだと開かれたページの文書しか見学できませんが、こうなるとたくさんの文書を観ることができますね。


▲ 往来する商人

湊といえば、有徳人。
品川湊の有徳人を代表するのが、鈴木道胤

大河「直虎」での中村与太郎や瀬戸芳久が浮かんじゃうけど、妙国寺に出したシゲッチ(足利成氏)の御判御教書からは、妙国寺や品川湊にとっての道胤の重要性が分かるそうです(ワテには分からにゃい💦)。


(道胤とは)
出身:紀伊熊野
当主:史料から分かるのは、道永・道胤・源三郎の三代


(品川湊)
しょっちゅう書いてて恐縮ですが、中世の江戸は坂東の舟運の要。品川は ハブ港 です。

そして、この講演会と谷口氏の本(上記)で初めて知ったのですが、品川は伊勢熊野と密接な往来があったそうで、関東に伊勢の御厨が多いのはそのためなのだそうです。

「鈴木道胤や近隣海晏寺の檀越榎本道琳氏が熊野と関係を持つとすれば、このような伊勢・品川ルートの存在が前提としてあったと考えてよい 」
と。


品川は戦国以前、大井氏の一族である品川氏が勢力を張っていました。峰岸先生の本(上記)に、「鎌倉・南北朝期に和泉や近江・紀伊 などに移住…」とあります。それで、熊野や伊勢との関係が生まれたのでしょうか?

お!皆様とうにご存知で…失礼。恥ずかち。


小田原北条の時代真っただ中となると、品川は我らが北条氏照の管轄となります。品川には、宇田川氏や鳥海氏が現われてきますよね~。宇田川氏は後に品川神社宮司や北品川宿名主に、鳥海氏は南品川の名主となっているそうです。


Photo_20201022142501
~海面の跡が残る石垣。旧東海道の商店街の一本裏の道。ちょっと前まではここまで海だった…あ!これも、ご存知。失礼。~


▲ 往来する宗教者

当時の(も)、品川にはあまたの文化人が訪れています。

我らが(←こればっかり)道灌の心腹の友であった万里集九、お馴染みの宗祇や宗長、激しい生涯を送った日親、様々な日蓮教団の門流…などなどなど。


▲ 往来する戦国武将

なぜ品川にはたくさんの戦国時代の制礼が残っているのか?

たくさんの制礼が発給されたからなのでしょうが、それは、
「勢力が入り乱れる品川。いつどこで後に必要となるかわからない。だから一応取っておく。」
から。


これは、そういう場所の特徴的な文書の残り方なのだそうですね。

面白いのは、妙国寺に残る制札は、品川を掌握した側から出されたものだけではなく、紛争当事者双方からのものがある点だそうです。


峰岸先生の本に書かれていました。
「…(中世の品川には)地域の社会的分業の所産として、都市が形成されていた…」


以上、つたない備忘録ですが、もっとちゃんと知りたいという方は品川歴史館の図録をお取り寄せくだされ。
品川歴史館出版物


「家康以前の江戸は本当に「寒村」だったのか?」

「小田原北条と八丈島」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年10月23日 (金)

滝山城 講演会「上方の儀に付き、際限なき御用に取乱れ候」2020.11

マリコ・ポーロ


Img_20190504_160818
~滝山城、ピンクの↓ の石。門?石段?いつのもの?発掘調査をしていないので不明だそうですが、皆さんはどう思われますか?ぜひ滝山城へ行って調べてくだされ。掘っちゃダメダメよん。 (2019.5 撮影)~


ピシッ!矢文来る!
いと、ありがたし!


滝山城跡群・自然と歴史を守る会さんが催す連続講演会も15回目となるのですね。

昨年の講演は、「滝山城主北条氏照の人と合戦」の1回目「 信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候」でした。滝山城で武田信玄を迎え撃とうとする頃の氏照の話でした。

講師は、氏照研究では第一人者であり、八王子市文化財保護審議会副会長、戦国史研究会 評議員でもある加藤哲氏。お話上手で大盛況でしたね。そういえば、最後に加藤先生、「つづく…」とおっしゃっていましたわ


こたびの2回目は、「上方の儀に付き、際限なき御用に取乱れ候」。これは、天正18年正月17日、沼田城城代の猪俣邦憲に氏照が宛てた書状の中にある一文ですよね。

…上方之儀付而、無際限御用ニ取乱…

小田原城の大普請に追われ、対秀吉の体制固めに指揮をとっているため連絡がとれないが、沼田城は肝要な城だからしっかり守ってほしい…


私が記憶している限りでは、氏照が直接発給した文書はこれが最後のものになります。

長年体調が悪いのにお兄ちゃんにコキ使われて、文句も言わず。ここが限界だったのかなあ……(注・私はお兄ちゃんも好きですよ)。


滝山城さんは様々な活動を続けてらっしゃいます。北条や氏照についても常に勉強をされ、皆さんで知識をより深めてらっしゃるのも羨ましいです。

マリコ・ポーロが所属していた「旧 八王子城を守る会」もそうだったんですよ。なんせ会長が峰岸純夫先生、顧問が故椚国男先生でしたからねえ(私がいた頃は)。勉強会をしたり、それぞれが行った講演会や発見した史資料のコピーをまわしあったり。

ここ8ヶ月、逼塞してドヨ~ンとしておりましたが、私も滝山城さんを見習わなければと思いました。


今回の講演会は定員を半分以下に絞っているそうですので、拝聴できる人はとても少ないでしょう。

かく申すマリコ・ポーロも、あいかわらず満員の公共交通機関での長時間の移動は控えておりますので参れません。

ひっじょーに残念なり。
小田原でも北条幻庵の屋敷跡あたりが発掘調査をしているようなのに…。なんでマリコ・ポーロは八王子や小田原に住んでなかったいのだろう…
(ノД`) シクシク


講演日:11月29(日)
申込締切:11月16日(月)

詳細はこちらを ↓ 試作品の滝山城御城印(販売予定未)の画像も見られます。
「滝山城跡群・自然と歴史を守る会HP」


🐎 昨年の講演会の様子はこちらを ↓
「滝山城の講演会 「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候」2019.11」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年10月12日 (月)

花札 の「萩と猪」

マリコ・ポーロ


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~香林寺参道(小田原)~


当ブログにもちょこちょこ添付しておりますが、北条領域どこにも行けない逼塞中、今まで撮った花の写真でならどうにかなるかと始めたもうひとつの「花ブログ」。

花ブログとは名ばかりで、花自体のことにはほとんど触れず(知らないし💦)、その花を見てフト浮かんだことをとりとめもなく書いております。


先日、 のことを書いたところ、歴史師匠が花札の「萩と猪」の画像をくださいました。眺めていて面白いな~と思いました。

カルタ というものは、「天正カルタ」というものがあるので戦国時代頃には日本で作られていたのでしょうか?花札 が生まれたのは江戸時代からですかね?


我が家には古~い花札がありました。亡き祖父母含め誰も使ったことがないので何故うちにあったのかは不明ですが、随分前に処分してしまいました。今思い起こすと、札も厚く綺麗な刷りだったので、もったいなかったな~と少し残念。


🌼 花札の絵柄

花札は、一組48枚。
12ヶ月 x 4枚ずつ に折々の花と鳥などが描かれています。「萩&猪」は7月です。


当ブログを読んでくださる遊び人の旦那方(?)はとうに御存知のことかもしれないですが、一応12ヶ月の絵柄を書いてみます。

(1月)松、鶴
(2月)梅、ウグイス
(3月)桜、幕
(4月)藤、ホトトギス
(5月)菖蒲(アヤメ)、八橋
(6月)牡丹、蝶

(7月)萩、猪
(8月)ススキ、月(雁)
(9月)菊、盃
(10月)紅葉、鹿
(11月)栁、小野道風(ツバメ)
(12月)桐、鳳凰


なんとも雅趣に富み、季節感あふれるものですよねえ。


一番好きな絵柄は、「栁と小野道風」でした(菊と盃かと思った?)。

花札はよく知らないのですが、我が家にあったものは、番傘をさした小野道風が栁の下の蛙を眺めている絵でした。雨、なのですね。


小野道風の時代に番傘があったのか?ですが、江戸時代は小野道風ではなく、歌舞伎に出てくる元赤穂藩の浪人でナントカいう悪人だったそうです。

なぜ小野道風に変わったのだろう?


こちらの絵柄の方が謎は深いようですが、まずはタイトルの 萩と猪 のことを。


🐗 萩と猪の組み合わせの意味は?

梅に鶯とか、紅葉に鹿とかとかとか、だいたい繋がりの雰囲気は分かるのですが、あれ~?萩と猪 ってなんだろう?チャチャッと検索してみました。


萩は「臥猪の床(ふすいのとこ)」というそうですね。知らなんだ~。

「臥猪」とは文字通り、臥せた(休息している)猪。「臥猪の床」とは、猪の寝床のこと。


枝垂れている萩の枝は、更に倒せばフカフカした寝床になったのでしょうか。一眠りして起き上がった猪の体には、萩の花びらがたくさん付いていたでしょうねえ。

なんと風流な。


日本画にもあまた描かれているそうですが、これを花札の図柄にも使ったのは誰なのですかね?最初の版元さん?


🌼 花ブログ(萩のつゆ)
「萩よりほかの花も見るべく」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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