2020年11月14日 (土)

八王子城発掘調査始まっています!(2020.11)

マリコ・ポーロ


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~八王子に行けないのでこれで。~


場所:八王子城跡御主殿西側部
予定期間:11月9日(月)~11月30日(月)予定

見学は調査区外からなら可能だそうです。お邪魔にならぬようにと。


私は例によって満員電車とターミナルの乗り換え駅が怖いので参れません。毎日満員電車でお仕事の方には申し訳にゃい…。
(ノД`) シクシク…

何か出てきたら、YouTube で現地説明会をやってくださらないかなぁ~。すっごく嬉しいのだけれど。よろしくお願いします。
m(__)m


八王子市文化財課のお知らせHPはここをクリック


▲ 八王子城と氏照について今まで書いたブログ記事の超々々々一部なり
「八王子城の台風被害と露出した石垣のほんの一部分(2019・10)」
また、以下の文末には、今までの記事がけっこう添付されています
「八王子城、消えた橋と現われた石垣(2015.4)」
「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!(2013.11)」


🌼 アナザーブログに八王子城や小田原城などなどの花草木のことを書いております

戦国北条の御曹司~柏槙と犬槙(小田原城)
「越後鮫ヶ尾城~かたくり」
「足柄清川に沈んだ美僧~蓮」
「武将とアサギマダラ~藤袴」

「八王子城に咲く~采配蘭」
「八王子城に咲く②~鱗木・細葉鉄蕨・鬼女蘭」
「八王子城に咲く①~天南生」
などなどなど…


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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2020年11月 8日 (日)

虎朱印 の「虎」の由来は?

マリコ・ポーロ


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~黒田基樹著『戦国北条家の判子行政』2020.10.15 平凡社新書(布は歴友さんにいただいた鱗柄のスカーフ) ~


その前に、お詫びと訂正。

▲ 滝山城の講演会のお知らせブログに載せた、本丸の南側の虎口の「石」の写真のこと

ブログに「門の跡」かもしれないと書きましたが、どうも違うようです。そこは少し急なので、かつては自然石を置いた石段になっていたそうです。表面観察しか出来ないのでシカとは分からないが、今はその石はほとんど埋まってしまったので、その一部が出ているのかもしれないかもしれないとのことです。


また、本丸の下段から上段に上る神社の左側、中の丸の虎口、大手口と言われている天野坂、山の神への途中の坂などの急坂には、同じく石段があった様子だそうです。城の遺構はほとんど残っているので、廃城後は手を加えられていないのではないか?と。

もし、もし、当時の石段だとしたら、本丸の虎口の説明板 ↓ (ボケボケ写真でスミマセン)と同じような感じだったのですかね~

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先のブログ記事はコッソリ💦 修正しました。そこにも書きましたが、ご興味ある方は是非ぜひ滝山城へ行って見てみてくださりませ。あ!掘っちゃアカンよん。


では、本題。

黒田基樹著『戦国北条家の判子行政』2020.1015(平凡社新書) を読みました。

読んでいて思いました。
小田原北条が始めた日本の判子文化も、今消えつつあるのか…と。そして、判子文化をはじめ現代に続く様々なシステムの基礎を作った小田原北条は、やっぱり凄いとあらためて思いました。


なのに先日のNHK『ザ・プロファイラー』では、「関東の治安を乱す氏康」とか「坂東で北条氏康が略奪した土地を謙信が取り返してあげた」とかしか言われていなかったのは残念…。

今週のBS6『にっぽん!歴史鑑定』は、「小田原攻め 秀吉の野望vs北条一族の誇り」。あまり期待しないで楽しみにしています(?)。


話を戻し…

ずーーーっと考えていることがあります。

小田原北条家の虎の印判は、なぜ「虎」なのだろうか?「虎」はどこからきたのだろうか?

当時の人は、実際の虎は見たことがないですよね。


『北条記』に、有名な宗瑞の夢の話があります。

2本の杉の木をカジカジしていた鼠が、大きな「虎」になる。それで「虎」にしたのではないかという説がありますね。(黒田氏の判子の本にはさすがにその夢のことは書いていない)。


虎の印判が使われ始めたのは宗瑞死去の11年前の永正5年からのようですが、

🐯 もし夢から取ったとしたら、この夢の話は本当のことなのでしょうか?本当に宗瑞がその夢を見て印判に「虎」を使ったということなのでしょうか?

🐯 それとも、なぜかは分からねど「虎の印判」が先にあり、『北条記』を書く時に、夢に印判の「虎」をこじつけて登場させたのでしょうか?


宗瑞の干支については、夢に鼠が出てきたから「子年」とされているのですよね? だから、夢の話は本当の話なのでしょうか?

ちなみに、氏綱は未年だと思いましたので、「虎」とは関係ないですねえ。


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~マリコ・ポーロ家の「猫」朱印~


この本は、虎朱印の「虎」がどこからきたのかを知りたくて買いました。それは書いてありませんでしたが、納税、裁判、市場関与、公共工事、そして、「お国のために」の使われ方などなど、北条が好き好きと言いながら今まで気にしなかったことが書かれていて、とても勉強になりました。

一回読んだだけでは不肖マリコ・ポーロには全然把握できなかったので、もう一度読みます。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年10月25日 (日)

講演「中世の品川と妙国寺 ー 往来する商人・宗教者・戦国武将」

マリコ・ポーロ


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~「中世寺院と品川 ー 妙国寺の歴史と寺宝」展(2019.10) 品川歴史館~ 


家康前の江戸は未開の地だった…

それは昔いわれていたこと。今は、「ただの寒村を徳川幕府が大都市にした」と、徳川の力をアピールするために作られた話だというのが一般的になりつつあります。


とはいえまだまだ広い世間には知れ渡っていません。

江戸湊を本拠地とし江戸を開発していった江戸氏。家康の前に、江戸に名僧が称えた城を築いた上杉と太田。その江戸城を奪取した北条氏綱や、隠居後に在城した氏政。江戸を坂東の舟運の要として繁栄させた彼らの立場はどうなる?😢(シクシク) と思っていたところ…

先日のBS6歴史鑑定「家康より先に江戸を築いた武将・太田道灌」は、それを当然のごとくサララーッと伝えてくれましたね 😊(ニコニコ)!


番組を観ていて、昨年の秋、品川歴史館で催された企画展と、古川元也氏(日本女子大)による講演会「中世の品川と妙国寺ー往来する商人・宗教者・戦国武将 」のことをブログに書き残し忘れていたことを思い出しました。


前にも書きましたが、家康前の江戸のことはずっと興味がありました。

江戸は徳川以前も寒村ではなかったと漠然と唱えていてもアカンので、鈴木理生著『江戸はこうして造られた』を読み、「道灌びいき」の会の勉強会やいくつかの自治体(区)が主催するガイドツアーで歩いたりもしてみました。

また、「旧 八王子城を守る会」の残党(ワテも)の重鎮である氏照師匠が、「それなら、こんなんあるよ~」とコピーをくださった、旧会長の峰岸純夫先生の『中世荘園公領制と流通 』にある「戦国時代武蔵品川における町人と百姓」(岩田書院 2009)もとても興味深かったです(今更のアップでゴメンナチャイ)。


そして、特に参考になったのは、石村智・谷口榮・蒲生眞紗雄著『海の日本史 江戸湾』(洋泉社2018)の中の、谷口氏が書かれた第三章「中世の江戸湾内海」です。

谷口さんの本はそれだけでも内容が盛りだくさん。あらためて(いずれ)書きたいと思うので、こたびは講演会のことだけを。(峰岸先生の本は、まとまった史料がある品川郷を例に百姓や町人などの欠落や人返しなどのことを挙げ、同じ郷内での都市と農村の分離と矛盾がテーマなので別の話として。)

一年も前のことで恐縮ですが、チビットだけ以下に備忘記録。


▲ 天妙国寺(旧妙国寺)

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~天妙国寺。暗い?(数年前に撮影)~


中世の江戸といえば品川湊、品川湊といえば「妙国寺」ですよね~。妙国寺には、ご本尊を含めた彫刻作品類、経典、宗教絵画などの他に、鎌倉公方はじめとする戦国武将達の文書類『妙国寺文書』などなどなど、あまたの貴重な寺宝が残されています。

制札は、我らが北条氏綱のもあります。太田資正殿のも、上杉朝興のもあるでよ。


創建は弘安8年。前の北条の 北条時宗 の時代です。当時、寺が属したのは「日蓮教団」(この教団については、宗門史からの考察が必要だと古川先生は講演でおっしゃっていました)。

足利義政 の頃、品川湊の豪商だった鈴木道胤により七堂伽藍が建設された大寺院でした。江戸時代には徳川将軍家の宿泊所としてたびたび使われもしたそうです。


▲ 妙国寺文書

皆様は私なぞより遥かに歴史に詳しい方ばかりなのでご承知のことですが、文書、特に書状に書かれていることは全て本当のことではありません。前にも何度か書きましたが、わざとウソを書いたり、話を盛ったりします。聞き違いや書き違いもあるでしょう。

でも、日本では文書はとても大事にされますよね。


妙国寺では先年、伝来文書の修復をされたそうです。手鑑にまとまっていたものを一紙ごとにバラして、一通ずつ中性紙ボードに挟んで箱に収納したそうです。これは、文書の安定した保管には一番良い方法だそうです。

企画展などでの展示も、冊子のままだと開かれたページの文書しか見学できませんが、こうなるとたくさんの文書を観ることができますね。


▲ 往来する商人

湊といえば、有徳人。
品川湊の有徳人を代表するのが、鈴木道胤

大河「直虎」での中村与太郎や瀬戸芳久が浮かんじゃうけど、妙国寺に出したシゲッチ(足利成氏)の御判御教書からは、妙国寺や品川湊にとっての道胤の重要性が分かるそうです(ワテには分からにゃい💦)。


(道胤とは)
出身:紀伊熊野
当主:史料から分かるのは、道永・道胤・源三郎の三代


(品川湊)
しょっちゅう書いてて恐縮ですが、中世の江戸は坂東の舟運の要。品川は ハブ港 です。

そして、この講演会と谷口氏の本(上記)で初めて知ったのですが、品川は伊勢熊野と密接な往来があったそうで、関東に伊勢の御厨が多いのはそのためなのだそうです。

「鈴木道胤や近隣海晏寺の檀越榎本道琳氏が熊野と関係を持つとすれば、このような伊勢・品川ルートの存在が前提としてあったと考えてよい 」
と。


品川は戦国以前、大井氏の一族である品川氏が勢力を張っていました。峰岸先生の本(上記)に、「鎌倉・南北朝期に和泉や近江・紀伊 などに移住…」とあります。それで、熊野や伊勢との関係が生まれたのでしょうか?

お!皆様とうにご存知で…失礼。恥ずかち。


小田原北条の時代真っただ中となると、品川は我らが北条氏照の管轄となります。品川には、宇田川氏や鳥海氏が現われてきますよね~。宇田川氏は後に品川神社宮司や北品川宿名主に、鳥海氏は南品川の名主となっているそうです。


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~海面の跡が残る石垣。旧東海道の商店街の一本裏の道。ちょっと前まではここまで海だった…あ!これも、ご存知。失礼。~


▲ 往来する宗教者

当時の(も)、品川にはあまたの文化人が訪れています。

我らが(←こればっかり)道灌の心腹の友であった万里集九、お馴染みの宗祇や宗長、激しい生涯を送った日親、様々な日蓮教団の門流…などなどなど。


▲ 往来する戦国武将

なぜ品川にはたくさんの戦国時代の制礼が残っているのか?

たくさんの制礼が発給されたからなのでしょうが、それは、
「勢力が入り乱れる品川。いつどこで後に必要となるかわからない。だから一応取っておく。」
から。


これは、そういう場所の特徴的な文書の残り方なのだそうですね。

面白いのは、妙国寺に残る制札は、品川を掌握した側から出されたものだけではなく、紛争当事者双方からのものがある点だそうです。


峰岸先生の本に書かれていました。
「…(中世の品川には)地域の社会的分業の所産として、都市が形成されていた…」


以上、つたない備忘録ですが、もっとちゃんと知りたいという方は品川歴史館の図録をお取り寄せくだされ。
品川歴史館出版物


「家康以前の江戸は本当に「寒村」だったのか?」

「小田原北条と八丈島」


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2020年10月23日 (金)

滝山城 講演会「上方の儀に付き、際限なき御用に取乱れ候」2020.11

マリコ・ポーロ


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~滝山城、ピンクの↓ の石。門?石段?いつのもの?発掘調査をしていないので不明だそうですが、皆さんはどう思われますか?ぜひ滝山城へ行って調べてくだされ。掘っちゃダメダメよん。 (2019.5 撮影)~


ピシッ!矢文来る!
いと、ありがたし!


滝山城跡群・自然と歴史を守る会さんが催す連続講演会も15回目となるのですね。

昨年の講演は、「滝山城主北条氏照の人と合戦」の1回目「 信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候」でした。滝山城で武田信玄を迎え撃とうとする頃の氏照の話でした。

講師は、氏照研究では第一人者であり、八王子市文化財保護審議会副会長、戦国史研究会 評議員でもある加藤哲氏。お話上手で大盛況でしたね。そういえば、最後に加藤先生、「つづく…」とおっしゃっていましたわ


こたびの2回目は、「上方の儀に付き、際限なき御用に取乱れ候」。これは、天正18年正月17日、沼田城城代の猪俣邦憲に氏照が宛てた書状の中にある一文ですよね。

…上方之儀付而、無際限御用ニ取乱…

小田原城の大普請に追われ、対秀吉の体制固めに指揮をとっているため連絡がとれないが、沼田城は肝要な城だからしっかり守ってほしい…


私が記憶している限りでは、氏照が直接発給した文書はこれが最後のものになります。

長年体調が悪いのにお兄ちゃんにコキ使われて、文句も言わず。ここが限界だったのかなあ……(注・私はお兄ちゃんも好きですよ)。


滝山城さんは様々な活動を続けてらっしゃいます。北条や氏照についても常に勉強をされ、皆さんで知識をより深めてらっしゃるのも羨ましいです。

マリコ・ポーロが所属していた「旧 八王子城を守る会」もそうだったんですよ。なんせ会長が峰岸純夫先生、顧問が故椚国男先生でしたからねえ(私がいた頃は)。勉強会をしたり、それぞれが行った講演会や発見した史資料のコピーをまわしあったり。

ここ8ヶ月、逼塞してドヨ~ンとしておりましたが、私も滝山城さんを見習わなければと思いました。


今回の講演会は定員を半分以下に絞っているそうですので、拝聴できる人はとても少ないでしょう。

かく申すマリコ・ポーロも、あいかわらず満員の公共交通機関での長時間の移動は控えておりますので参れません。

ひっじょーに残念なり。
小田原でも北条幻庵の屋敷跡あたりが発掘調査をしているようなのに…。なんでマリコ・ポーロは八王子や小田原に住んでなかったいのだろう…
(ノД`) シクシク


講演日:11月29(日)
申込締切:11月16日(月)

詳細はこちらを ↓ 試作品の滝山城御城印(販売予定未)の画像も見られます。
「滝山城跡群・自然と歴史を守る会HP」


🐎 昨年の講演会の様子はこちらを ↓
「滝山城の講演会 「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候」2019.11」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年10月12日 (月)

花札 の「萩と猪」

マリコ・ポーロ


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~鎌倉「浄光明寺」数年前の雨上がり~


当ブログにもちょこちょこ添付しておりますが、北条領域どこにも行けない逼塞中、今まで撮った花の写真でならどうにかなるかと始めたもうひとつの「花ブログ」。

花ブログとは名ばかりで、花自体のことにはほとんど触れず(知らないし💦)、その花を見てフト浮かんだことをとりとめもなく書いております。


先日、 のことを書いたところ、歴史師匠が花札の「萩と猪」の画像をくださいました。眺めていて面白いな~と思いました。

カルタ というものは、「天正カルタ」というものがあるので戦国時代頃には日本で作られていたのでしょうか?花札 が生まれたのは江戸時代からですかね?


我が家には古~い花札がありました。亡き祖父母含め誰も使ったことがないので何故うちにあったのかは不明ですが、随分前に処分してしまいました。今思い起こすと、札も厚く綺麗な刷りだったので、もったいなかったな~と少し残念。


🌼 花札の絵柄

花札は、一組48枚。
12ヶ月 x 4枚ずつ に折々の花と鳥などが描かれています。「萩&猪」は7月です。


当ブログを読んでくださる遊び人の旦那方(?)はとうに御存知のことかもしれないですが、一応12ヶ月の絵柄を書いてみます。

(1月)松、鶴
(2月)梅、ウグイス
(3月)桜、幕
(4月)藤、ホトトギス
(5月)菖蒲(アヤメ)、八橋
(6月)牡丹、蝶

(7月)萩、猪
(8月)ススキ、月(雁)
(9月)菊、盃
(10月)紅葉、鹿
(11月)栁、小野道風(ツバメ)
(12月)桐、鳳凰


なんとも雅趣に富み、季節感あふれるものですよねえ。


一番好きな絵柄は、「栁と小野道風」でした(菊と盃かと思った?)。

花札はよく知らないのですが、我が家にあったものは、番傘をさした小野道風が栁の下の蛙を眺めている絵でした。雨、なのですね。


小野道風の時代に番傘があったのか?ですが、江戸時代は小野道風ではなく、歌舞伎に出てくる元赤穂藩の浪人でナントカいう悪人だったそうです。

なぜ小野道風に変わったのだろう?


こちらの絵柄の方が謎は深いようですが、まずはタイトルの 萩と猪 のことを。


🐗 萩と猪の組み合わせの意味は?

梅に鶯とか、紅葉に鹿とかとかとか、だいたい繋がりの雰囲気は分かるのですが、あれ~?萩と猪 ってなんだろう?チャチャッと検索してみました。


萩は「臥猪の床(ふすいのとこ)」というそうですね。知らなんだ~。

「臥猪」とは文字通り、臥せた(休息している)猪。「臥猪の床」とは、猪の寝床のこと。


枝垂れている萩の枝は、更に倒せばフカフカした寝床になったのでしょうか。一眠りして起き上がった猪の体には、萩の花びらがたくさん付いていたでしょうねえ。

なんと風流な。


日本画にもあまた描かれているそうですが、これを花札の図柄にも使ったのは誰なのですかね?最初の版元さん?


🌼 花ブログ(萩のつゆ)
「萩よりほかの花も見るべく」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年10月 4日 (日)

その④~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ


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~氏政・氏照が切腹した侍医田村安栖の屋敷があったあたり~


我らが北条氏照を介錯してくださったのは 伊勢大和守 だと書かれている『石川忠総留書』。

伊勢大和守 とは初耳で、誰なのかが気になって気になってどうしようもなく、自主的逼塞を解除。図書館へ行き 『石川忠総留書』 を見てきました。


結論を申せば…

先のブログに書いた、『北条氏康の娘たち』での則竹雄一氏の引用以外は何も得られませんでした。
(ノД`)


図書館で見たのは3種類。

八王子市史

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~超分厚い本で、肝心な箇所が継ぎ目のため上手くコピーが取れず申し訳ない。~


『小田原落居之覚』
…氏政ヲハ美濃守殿介錯、氏輝ヲハ伊勢大和守殿介錯、太閤ヨリ御検使ハ…

先のブログにも書きましたが、則竹氏の本はこれが引用されています。


そうは書かれてはいますが、実際に見たかったのです。

文書史料によくあるじゃあないですか。文章の脇に()で俗名とか別名とか官途名とか受領名とか後から添書きされているものが(なんというのでしたっけ?)。そういうのがあると思ったのです。そこから、謎の 伊勢大和守 の手掛かりがつかめるのではないかと思ったのです。

が、写真の通り書かれてはいませんでした…。


② 新編埼玉県史

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~またまた見づらくて申し訳ない~


図書館で『石川忠総留書』で蔵書検索したところ、国会図書館や公文書館のデジタルと埼玉県史だけににあるのを見つけました。

国会図書館や公文書館は原本なので、マリコ・ポーロにはとても読めまへん。埼玉県史を見ました。ところが、『小田原落居之覚』ではないものでした。


…七月小田原(相模)明渡、氏政(北條)・氏照(北條)切腹、氏直(北條)使入高野山(紀伊)、尾州内府(織田信雄)左遷…

こちらは()の添書がありますねえ。尾州内府(織田信雄)←こういうのが、伊勢大和守 にも書かれていてほしかった~。。


③ 続群書類従

石川殿の留書ではないですが、一応こちらでも伊勢氏の系図を見てみました。

何度も見ました。石川殿が留書を書いたのは江戸時代なので、もしかしたら大和守という受領名はその頃のものかもしれない(江戸時代なのでそれはないとは思いますが)と、そこまで見ましたが 伊勢大和守 という人はいませんでした。


うーむ。

またまた前に書いた繰り返しですが、石川忠総は小田原攻めの時は子供でした。留書はもっと後に書かれたものです。

伊勢大和守 が氏照の介錯をしたということは、やっぱり石川殿の聞き間違え、書き間違え。または、石川殿に伝えた人の記憶違い、言い間違えではないですかねえ。

だって、八王子市史にしても、「旧」には載っておれど、「新」には載っていないのですよ。編纂に携わった方が、これは信憑性に欠けるからと掲載をやめたのかもしれません。


 ✑ そもそも!
「氏政と氏照の二人を介錯したのは氏規だ」とは何に書かれていたのか?

それは『北条記』と『異本小田原記』ぐらいにしか見つけられません。
…兄弟自害し給て後、に(か)いしゃくは、舎弟美濃守氏規、御首を討落、即自害に及所を、井伊兵部走り寄りて…(北条記)


手持ちの『新八王子市史 資料編』と『北条氏照文書集』をあらためて見てみました。二人の自害のことは関白殿下はじめ色々な人が書いていますが、介錯人については触れられていないですねえ。誰かの書状などに書かれていないのかなぁ…。


と、氏照ファンにとっては重大と思われるのに、珍しくお一人しか反応がないにもかかわらずシツコク書いていて恐縮でござる。

違うなら違うと分かるまで、まだまだ探しますよ~。


「その①~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その②~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その③~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年9月28日 (月)

新田義貞は里見からの養子だった~⑨大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ


この4月から大河「太平記」の時代ことをチョコチョコ書いておりますが、本来は戦国時代の小田原北条、特に北条氏照の 追っかけブログとして 11年 続けてまいったものにござります。

2月半ばよりいまだ逼塞中。まだまだどこにも GoTo せず、北条見聞が出来なくて他のことを書くことが多くなっておりますが、もし小田原北条や氏照にチビットでもご興味あらば、それらの記事をご覧いただければ嬉しいです(文末添付)。


それにしても…

北条氏照の介錯人が氏規でなかったことと、氏照の下原の槍について書きましたが、興味を持ってくださったのが知り合いお一人だけ。いつもは何かしらの新情報やお教えをコメントでいただけるのですが…意気消沈。。。
(ノД`)


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~『歴史研究』第684号(2020年9月号)~


気を取り直して!

大河「太平記」第25回は「足利尊氏」。
後醍醐天皇からお名前の一字「尊」を賜り、北条高時からいただいた「高」から →「尊」となりました。


前に書いたかどうか忘れてしまいましたが(よる年波で…)、大河「太平記」では難しい言葉がい~い具合で使われていますね。

今回では…
梟雄の輩、御手(ぎょしゅ)にかけ申さん!」

すごい (*_*)


また、後醍醐天皇が、みごとな舞を披露した北畠顕家くんに ふわりと御衣を投げ、
かずけとらせる

聞き取れはすれど意味が分からず調べちゃいました。

「被けとらせる」。「被く」とは、御衣を頂戴することなんですね。知らなかっただ。このあと、いただいた御衣を左の肩にかけるのだそうです。美しき顕家殿の、その雅なシーンまで欲しかった~。


昨今の大河ドラマ(に限らず時代劇)は、「分かり易く」を大事にしているそうで、ストーリーもですが台詞も分かり易くしているようですね。

昔の視聴者だって、ほとんどは難しい言葉のちゃんとした意味は分からなかったでしょう。我が家の両親(含むワテ)などもたぶん全然分からない言葉が多かったと思います。でも、大河ドラマは面白がって観ていました。分かり易い=面白い、ではないのですよね~。


さて、本題。

新田義貞 は里見の生まれで、新田へ養子にいったのですか!

知りませんでした(恥)。どうりで新田義貞の系図を見ると、父とされる朝氏(義兼とか氏光とかいう系図もあり)と点線 ……で結ばれているので、変だな~と思ったことはありました。


時々投稿させていただいている『歴史研究』の今月の特集は「安房里見一族の謎」です。

『歴史研究』は昭和33年から続く老舗の歴史研究会が発行している月刊誌です。加来耕三氏初め専門の先生方も書かれていますが、主には歴史ファンの投稿雑誌です。今回は、専門の研究者の方達や里見の末裔(堂本前知事も)の方達の寄稿がほとんどでした。


里見は新田だから義貞のことも何人かの方が書いてらして、また、再放送中の大河「太平記」がちょうど義貞の鎌倉攻めということもあり特に興味深く拝読しました。

義貞が里見から新田へ養子にきたということは、『新田義貞の出自-里見氏との関係の中で-』(里見繁美氏、大東文化大学教授)に書かれていました。


冒頭、
新田義貞は、いつ、どこで生まれたのかが明確になっていない。何故かといえば、それ以前の新田氏の存在感がきわめて希薄だからである。

へえ~~。そうだったんだ~。それも知らなかった💦。


新田義貞の父親は、里見郷を拠点としていた里見氏ではなく、新田荘高林郷(太田市高林)の方を拠点にしていた里見義忠 なのですってね。

高林郷から至近距離にある台源氏館(または反町館)に暮らして跡継ぎのいなかった新田氏七代・朝氏のもとに養子として入った であろうと。


鎌倉攻めに参加したのは、実の兄上達はじめ、大半が里見の関係だったそうな。

後の越前までも一緒で、義貞の嫡男・義顕の自害に、その時の里見一族の惣領と嫡男も殉じているそうな。関係が非常に 密 ですねえ。


このことを歴友武将さんに話したら、「では、弟の脇屋義助は?彼も養子だったのだろうか?」と。

おう!それは浮かばなかったです。兄弟共に養子だったのか?義貞が養子に入った後に生まれたのか?ただ、義助も「氏」が付かず里見の「義」が使われているので、里見の子の可能性があるのか?昔はあっちこっちへ養子を出したり貰ったり、家が没落したり復活したりで…どうなのかにゃ?


『歴史研究』に、里見繁美氏の考察はもっと詳しく書かれています。バックナンバー、買えます。
「歴史研究会」HP


🍸 大河「太平記」の記事

「大河「太平記」の再放送が始まりますね!」

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」

「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」
「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて

「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」

🐎 小田原北条の氏照のことなどの一部

カテゴリー「八王子城と北条氏照」
カテゴリー「北条一族、最後の3ヶ月」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年9月23日 (水)

新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて

サル9月3日、当ブログは12年目に突入。総記事数は公開したものだけで 728件 となりました。

皆様の「面白かったよ~」の一言に励まされてここまで続けてこれました。本当にありがとうございます。心より感謝申しあげます。これからもよろしくお願い申し上げます。

え?つまり、ということは、マリコ・ポーロ、あの頃からもう10才以上年をとっちゃったということか!でも、当初から読んでくださっている皆様もですよん。ふふふ。


さて、本題。

 Photo_20200921154501
~鎌倉「九品寺」。新田義貞が、鎌倉攻めの時に本陣を置いた場所に北条慰霊のために建立した。坂の向こうは海(材木座)。高い所にあるので見晴しが良かったのか。鎌倉唯一の義貞開基の寺で、山号の額は義貞の文字(の写し/本物は保存)~


というところで、さて本題。

新田義貞には詳しくあらねど、義貞を考えると「かわいそう…しかありません。

この後のことになりますが、後醍醐天皇(上皇)をも手離しちゃうでしょう。御上のクチグルマに乗ってしまって。というか、そのクルマに乗るしか他に道は無かったのかな…。


大河「太平記」24回目は「新政」。
後醍醐天皇の公家一統の政(まつりごと)が始まりました。皇子の大塔宮は尊氏様のことが大っ嫌いで、なかなか信貴山から下りてこないのですな。

鎌倉幕府を滅ぼすために当初からあんなにパパ上帝のために頑張ってきたのに。事が成ったら「また坊さんに戻れ」というパパ上もどうなのかと思ってしまいます。宮は「武家よりも君のうらめしくわたらせ給う」と、父上後醍醐のことを尊氏よりも恨めしいとおっしゃったとか。『梅松論』にあるそうなので本当かどうかは分かりませぬが。


そして、義貞。
国元からやってきた正室に、短絡的に「あなた!ファイトッ!」とづけられて上洛を決意します。

あーあ、いかんぜよ~。ニッタムサク で鎌倉を出たら(そんな無策じゃなかったかもしれないけど💦)。武家の聖地鎌倉を足利方に取られちゃうじゃん…と、思ってしまいました。


新田義貞の女人としては勾当内侍が浮かびますが、内侍は京での側室です。そういえば、義貞の正室は誰だったのだろう?

調べてみました。


正室は嫡男の義顕のママで、実家は北条得宗家の被官だった安東氏なのですね。ドラマでは、足利家は北条におもねて北条一族の娘を娶ったように周りから言われていましたが、それは足利だけではないじゃあないですかねえ。なーんだ。

北条高時の重臣であった、義貞室の安東の叔父上は義貞の鎌倉攻めの時に自害しています。また、尊氏の正室の兄上である執権赤橋殿の討死も自害同然。鎌倉幕府はすでに腐りきっていたと言われていましたが、東勝寺での一門の最後といい、やっぱり坂東武士。最後は潔かったのですねえ。


先の話になりますが、義貞室は義貞亡き後、新田荘の義貞の館跡ではないか?と伝わる「明王院安養寺」で夫の菩提を弔って暮らしたと伝わっています。

こちらの不動明王は、義貞の鎌倉攻めの時に山伏に化身して一族に触れ回ってくれたのですって!?


🍸 大河「太平記」の記事

「大河「太平記」の再放送が始まりますね!」

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」

「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」
「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて

「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」
「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


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2020年9月15日 (火)

現存していた北条氏照の「下原鍛冶の槍」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~北条氏照の文書集より(見づらくて恐縮)~


9月とはいえ夜はまだまだ暑いのう…と濡れ縁(そんなの無いけど💦)に出て月を眺めていたところ、ヒュッ!頬をかすめて矢文が!

うぬっ!なに奴!
柱に刺さった矢文を抜き、文をハシッと開くと…

驚くことが書かれていました!


って、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、なんと、氏照が下原鍛冶に発注した「槍」が某刀剣商から売りに出されているとのことなのです。

文書集を見たところ、三田の福島が所持していた槍の銘文で、北条氏照が下原の照重に発注した槍(の穂先)だろうとありました。刀槍に不案内なマリコ・ポーロでさえ、ドびっくり~!
(*_*)

そして、矢文をありがと~!


刀剣商のホームページを開くと、認定書や鑑定書を含めた槍の写真と詳細が出てきました。銘文の部分もアップで載っていました。

刃長は、73.3cm(二尺四寸二分(73.3cm)、茎(なかご)は生ぶ目釘孔一の、平三角造り大身槍。刃文は焼深い湾れ直刃で、匂い口明るく沸つく…などなど。


下原(したはら)鍛冶については分かっていないことも多いようですし、詳しくない私なぞが書くのもなんですが、むか~し八王子郷土資料館でゲットした下原刀の冊子と、むか~し「旧・八王子城を守る会」の刀槍に詳しい方からいただいたペーパーからチビットだけ。


下原鍛冶が制作した刀槍は「武州下原刀」と呼ばれ(通称)、刀匠は山本氏。工房群があった八王子の恩方には「下原刀匠山本但馬国重鍛刀の地」の碑が建っています。小田原北条ファンや大石ファン、特に氏照ファンでは有名な戦国時代では武州一の刀工集団です。

「拵」は好きですが「刃」が苦手で(実際使われたらしき刃はもっとアカン)刀槍にはあまり興味がないのですが、それでも北条氏照の追っかけなので下原鍛冶のことはよく耳にしていました。


古くをいえば小田原相州鍛冶の流れのようで → 当初は相州藤沢に住し → 山内上杉の重臣だった大石に呼ばれ八王子に工房を構えて代々続いたらしいです(諸説あり)。

その後いくつかに分かれて、小田原北条が滅びた後は家康にも取り立てられ大久保長安の管轄となり、江戸時代初期には「下原十家」として繁栄したとのこと。


北条時代、下原鍛冶は氏康の代から庇護を受けたようです。それは初代下原鍛冶の「康重」や二代「照重」の名前からも分かります。(始祖の「周重」は、大石綱周からの偏諱かな?)

こたびの 槍 は、「照重」の作なのだね。


011
~氏照が貰ったレースガラス器(残っているのは黒い部分のカケラだけ)~


さて、この槍。ここまで書いてきてなんですが、

私が知った時はすでに売れてしまっていました…


考えてみれば、「氏照のもの」というものはまったくありません。レースガラスの壺だって、氏照は貰ったのであり、本当に自身の趣味だったかどうかは分かりませんよね。

この槍は文書とバッチリ合って、氏照からなぜ福島氏に渡ったのかは分からないけれど、まさに氏照のもの!です。ひっじょーに、残念ですよねえ。その前に知っていたら、マリコ・ポーロが買って小田原か八王子に寄贈したのに…。

まあ、それ以前にそもそも買えないでしょうが…テンテンテン。


小田原北条が滅びた後、照重は甲斐へ移り作刀したそうで、一族の他の流れが八王子に残り幕末まで続いたようです。


と、うまくまとめられたかどうか超不安。ネットに論文でも載っていたら興味のある方にご紹介したいと探ったところ、ありました。武州下原刀研究の第一人者である、故後藤安孝氏 が、とても詳しくお書きになったものです。

福生市『武州下原刀』

また、福生市は武州下原刀を約40振所蔵してらっしゃり、時々特別展も開かれるようですね。


せめてこの槍を買った方が小田原北条領域のどこかの博物館か資料館に貸し出してくださり、北条ファンが見る機会ができることを願うものです。

以上、「小田原北条ぶんぶん(聞聞)録」でした。

🐎 北条氏照についてここ最近書いたブログ記事です。

「①~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「②~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「③~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」

「前編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」
「後編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」

🐎 過去10年でたっぷりこってり書いている氏照のことは、カテゴリー「八王子城と北条氏照」からご覧くださいますと嬉しいです。


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2020年9月12日 (土)

北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて

 マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~池谷初恵著『鎌倉幕府草創の地 伊豆韮山の中世遺跡群』2010(新泉社)


韮山は我ら小田原北条ファンの「聖地」である。

しかし、韮山は小田原北条にとってだけではなく、鎌倉幕府を開いた頼朝の源氏にとっても、その後の執権政治を行った前の北条にとっても「聖地」だった。


現代の私達からしたら、伊豆韮山は伊豆半島の付け根で、歴史と仏の里であり、ある日突然畑の真ん中から温泉が湧き出た風光明媚な観光地のイメージだ。そんな韮山が中世、なぜ前北条の拠点となったのだろうか?

当時の伊豆の国府は三島にあった。韮山には国府三島と半島を繋いだ下田街道が通る。また、狩野川という駿河湾にすぐ繋がる狩野川も流れていた。つまり、韮山は陸運と水運の交通の要所だったのである。


(小田原北条にとっての「聖地韮山」のことはたっぷりこってり今までブログに書いてきたので割愛しますが、文末に少し添付いたしました。ご覧くださいましたら、いと嬉し。)


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~前の北条氏館跡&堀越公方屋敷跡~


さて、大河「太平記」第22回は「鎌倉炎上」。ついに鎌倉幕府の終焉を向かえましたね。レンタルビデオで何度も観て、東勝寺跡にも何度詣でたことか…。なんだか月並みな言い方で恥ずかしいですが、本当にこの大河は名作中の名作ですよね~。

小田原北条が大河になる時もこのぐらいのクオリティでお願いしたいです。いつになるか分からぬが、それはコロナ終息より遠い道のり…。


何度も観ているのに今回初めて思ったことがあります。高時の母、覚海尼はその後どうなったのだろう?

伊豆韮山で晩年を過ごしたこと以外ぜんぜん知らないので、以前に小田原北条や堀越公方のことを読みたくて買った冒頭写真の本『鎌倉幕府草創の地 伊豆韮山の中世遺跡群』に何か書かれていたことを思い出し開いてみました。


▲ 実家:安達氏
▲ 実名:不明
▲ 法名:覚海円成
▲ 享年:不明(60代位 カ?)


▲ ポジション:側室

側室だったんだ!(*_*)
沢たまきさんの貫禄💦から正室だとばかり思いこんでいました。

貞時の正室は、北条得宗家の人なんですってね。安達が貞時に対して謀反を起こし、許された後に安達家庶流の娘であった覚海尼が嫁がされたんですってね。

戦乱の時代にはよくあることですが、覚海尼は、一族の仇に嫁いだのですね。


息子の高時さんが24才で病のために執権を退いたあとの後継者問題では長崎殿と組んで騒動を起こし、これで、先の称名寺のブログ記事に書いたその時の金沢貞顕殿が執権を降りることになったのです。

ドラマでは、しょっちゅう、いきなり、高時さんの部屋へ現われます。「山内禅尼」と呼ばれていたので山ノ内にお住まいだったのでしょうが、それは、貞時亡き後の出家後のことかと思っていました。側室だったからハナから山ノ内にいらしたのですかね?


▲ 鎌倉炎上の後

それが、伊豆韮山です。

堀越公方の屋敷があったところは、以前は前北条家の屋敷がありました。そこに、覚海円成尼と一門ゆかりの女人のために「円成寺」が建立されたのだそうです。


円成寺を安堵するよう尊氏さまに命じたのは、なんと…

後醍醐天皇!


御上~~、あなたって人は…


そして、尊氏様の弟の直義さんも円成寺に寄進をしているのです。
へえ~~。鎌倉北条を滅ぼした、みんなの複雑な心境が分かるような気がしますよね~。


覚海尼は、残された一門の女人達を引き連れて寺へ移ります。


030


覚海尼は夢窓疎石を師と仰いでいたそうで、師と交わした和歌が残っています(『正覚国師集』)。


相州高時禅門の母儀、伊豆の北条にすみける時、よみてたてまつられける

あらましに
まつらん山ぢ たえね ただ
そむかずとても
夢の世の中

此歌は、世をそむく我があらましの行末にいかなる山のかねてまつらん、とよみ給ひたりしを思ひ出でられたるにや


御返し

夢の世と
思ふうき世をなほすてて
山にもあらぬ
山にかくれよ


「あらまし」とは、いわゆる物事のあらまし の あらまし ですよね。

険しい山道ですらすでに途絶えてしまった。自らあえて世にそむかずとも、今やこの世のことは夢の中のよう…と覚海尼。

それなら、夢のようだと思う浮き世をなおも捨てて、山にもあらぬ山の中へとお隠れくだされ…と師。

マリコ・ポーロ意訳。違っていたらゴメンナチャイ覚海尼様、夢窓疎石様。


ご興味ある方は、『鎌倉幕府草創の地』を是非!各時代の発掘調査のことがたくさん載っています。


🍸 大河「太平記」の記事

「大河「太平記」の再放送が始まりますね!」

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」
「尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」

「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて
「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


🍸 小田原北条にとっての聖地韮山についてたくさん書いたブログ記事の一部です

「小田原北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム」
「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏~願成就院」

「北条氏政が謙信や信長にプレゼントした、韮山の江川酒」
「後北条の女領主、伊豆の山木大方」


「北条幻庵の伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」~シリーズ北条五代の娘たち「伊勢宗瑞の娘たち」」
「‘元祖 義’ 伊勢新九郎の韮山へ」

「前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」
「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」


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2020年9月 9日 (水)

八王子城が「日本遺産」に!

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。

008_20200909164501
~このあたりの杉の木が撤去され、大手道から御主殿の威容がよく見えるようになったそうです~


北条氏照ファンの皆様!昨日の朝日新聞の夕刊「まちの記憶」をご覧になりましたか!?「霊山を守った山城の悲劇」として我らが北条氏照が載っています!

かつて、北条氏照が全国紙でこんなに大きく取り上げられたことがあっただろうか…

いや、ない!
望外の喜びじゃ~


今年6月、八王子はストーリーを「霊気満山 高尾山 ~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」として、日本遺産に認定されました。東京では最初だそうです。

日本遺産は「ストーリー」が選択基準で、そのテーマに地域の特色や歴史文化財を織り込むものだそうです。ちょっと難しい。


認定された八王子のストーリーは、戦国時代に八王子に城を構えた「北条氏照」から始まる…とされています。

まあ、ストーリーは高尾山の知名度によるところが大きく、新聞でも氏照の高尾山への政策をからめて紹介されていますが、それにしても1頁全部ですよ。嬉しいですねえ。


ここに新聞記事の写真は載せられないので、図書館が使えるようでしたら是非ご覧くださいまし。

以上、「小田原北条ぶんぶん(聞聞)録」でした。


八王子市のHPにもストーリーが載っています。

八王子市HP「日本遺産認定ストーリー」


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2020年9月 2日 (水)

「小田原北条ぶんぶん録」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Img_20200901_160841
~こちらは学研さんの『天正壬午の乱』で恐縮。戎光祥さんももちろん出されています。なぜ2社でなのかは分かりません。~


当ブログも今月12年目に入ります。

が、しかし…
見聞したき場所はあまたあれど見聞には行けず、北条追っかけの「」ネタのストックがほぼ無くなりました。


なぜ見聞に行けないかというと、都心はいまだ陽性確認者が多く、都知事も「東京の人は他府県への移動はまだ控えて~」とおっさっていることもあり、また、もし自分が無症状の陽性者だった場合も怖いので、いまだ逼塞中だからです。


我が家には高齢の親や超高齢(20才)の猫又(?)🐱 がおり、万が一私が感染したら家族に感染することは必至。親しい親戚や友人は江戸にはおらず、その上みんな車を持ってにゃいので援軍も呼べない。近所の人なんてどんな人がいるかも知りません。

それでも、人間は世の中がどうにか面倒を見てくれるでしょう。お子さんなら一緒に入院も出来ますし(有名人だけ?)。でも、猫はたぶんそのままで餓死 or 持病の薬が飲めずに…テンテンテン。


と、長々と自分のことを書き連ねて失礼しましたが、何を申したいかというと…

本や論文の感想文ばっかり書いていも読んでくださる方達も楽しくないでしょうから、「小田原北条見聞録」も終止符を打つ時か…とドヨ~ンとしていました。


そんなところ、歴友さん方より、北条ゆかりに限らず今までに訪ねた史跡を再度調べたりして書いてもよいのでは?とか「見」はなかなか出来なくても「聞」だけだってよいのでは?などなどの励ましのお言葉をいただき思い直しました(すぐ立ち直る💦)。

そだね~。マリコ・ポーロは現地に立ってこそのブログなのじゃが、ブログを書くこと自体は趣味なのだから自分の書きたいことを書けばエエ。ほな、「小田原北条ぶんぶん(聞聞)録」としてもうしばらく続けてみまひょか。


ということで、早速の「ぶんぶん」。

▲ 戎光祥ヒストリカルセミナー
平山優氏オンライン講演会「天正壬午の乱」

すっごく興味ありますね!

実際の講演会はすでに終わっていますが、参加出来ない人のために家で拝聴できるようにしてくれました(有料)。「一般販売」は9月9日からのようです。支払いをすると、動画のURLアドレスがメールされてくるそうです。それも、レジュメ付で。ありがたい!


本の方の『天正壬午の乱』は拝読しましたが、読むのと実際に聞くのとはまた違いますよね~。講演会に参加した方達からは、とても面白かったという話を聞きました。今夜ゆっくり拝聴します。楽しみ~。

動画配信だと何回も聞き直せるところも助かります。こういう方式で、講演会や発掘調査現地説明会などを他でもやってくださると嬉しいのですが。


私は会員でもなんでもないのですがSNSですでに申し込めたため今夜から観られるそうです。「一般」とはなんだか分からなくて恐縮ですが、ご興味ある方は、戎光祥さんのHPをちょこちょこチェックしていてくだされ。

戎光祥ヒストリカルセミナー



▲ BSプレミアム「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城」は「小田原城」だそうですよ

日時:9月4日(金)22:00~

以上、取り急ぎの「ぶんぶん」。


🐎 神流川の地を、名胡桃衆と一緒に見聞した時のブログ記事です

「神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱」
「激戦!金窪城から神流川へ~天正壬午の乱」

「「関東戦国の大乱~亨徳の乱展」 & 天正壬午の乱」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年8月27日 (木)

八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


Image11951_2 
~多摩川に日が沈む。「田園調布八幡神社」創建は鎌倉時代中期?鳥居の先が多摩川(9年ぐらい前にお詣りした時に撮った)。~


南無八幡だいぼさーつ!

丹波 篠村八幡宮。太刀を掲げ、高らかに北条討伐を宣言する尊氏様。


大河「太平記」も気が付けばすでに 20話。

再放送が始まった時、よし!毎週の放映に合わせてなにかしら書こう!と決めたものの、何週分かまとめて録画を観ることがあったり、なにより、この時代には(も)詳しくないため調べることが多く、マリコ・ポーロにはチト無理のよう💦


さて…

尊氏様が唱える「南無八幡大菩薩」で、思い出しました。

とある、由緒の古い八幡様(田園調布ではにゃい)の説明板を読んでいて、目からミツウロコだったことがあります。


時を遡ること長元の頃(平安時代中頃)。

その八幡神社は、上総下総で起った平忠常の乱を治めるために源頼信がその地に宿営した時に八幡大神を奉斎し、戦勝祈願をしたのが始まりとありました。それは源氏と八幡神の、「坂東への第一歩」であったようです。

源頼信って誰?とスマホで検索したら、河内源氏の祖だそうな。


源氏は坂東の武士の象徴、みたいなイメージがあります。その氏神であり坂東にあまたある八幡様は、つまりは西から勧請された神社だったのですね。源氏は元々は天皇家から出ているから、考えてみればそりゃそうなのですが…。

その土地を侵略する場合、自家や一族が信仰する神社をどんどん置いてゆくと言われます。江戸人の代表のような我らが太田道灌も、その手法を使って豊嶋氏を追いつめていきました。


八幡神もそうなのかどうかは私には分かりません。ただ、前々回のブログ「峰岸純夫著『中世鎌倉盛衰草紙』を読みました」に、

関東中央部からは戦国大名権力を生み出せなかった。北条・上杉・武田などの関東の外に成長した戦国大名たちの草刈り場… とある

と書きました。もしかしたら坂東の外から入ってきた侵略者たちによって、坂東土着の神は追いやられてしまったのでしょうか。


もしそうなら、それよりもっと昔の坂東の神様ってなんなのだろう?図書館に行けないのでネットで探してみると、神について書かれたものは厖大で様々でとても知り得ません。

稲荷神も秦氏で京都ですし、天神様も、諏訪神社も、恵比寿様も坂東発祥ではないでしょう。そもそも、古事記の神様もほとんどが 西 発祥。源氏ではなく平氏を考えても桓武天皇で、西から始まった一族。千葉氏の妙見?いや、千葉氏も平氏か。

坂東のもっと古い氏族の氏神を探せば分かるかな…。鹿島神社?香取神社? 平将門?いや、アニミズム!?


我が家のエリアの氏神様も八幡様です。坂東の地の氏神様なのに坂東発祥の神様じゃなかったことに今更気が付いてしまいましたが、これからも尊崇してまいりますよぉ。

南無八幡大菩薩!
疫病退散!


注)神様のことは難し過ぎるため、これ以上は深く突き詰めて考えることはしないと思いますので専門的なコメントにはお返事しかねる…いえ、ワテには出来ないと思います。←すごいエクスキューズ💦


🍸 大河「太平記」の記事

「大河「太平記」の再放送が始まりますね!」

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2020年8月14日 (金)

江戸時代、隕石は本当に八王子に落ちた!「暴れん坊将軍」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連、クリーニング店などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~彗星とはなんの関係もないが、明日8月15日は新九郎さん こと 伊勢宗瑞の命日です。~


さて、
ドびっくり~\(◎o◎)/ したこと。

今朝の「暴れん坊将軍」(再放送)のことを小耳にはさみ、また、Twitter(ツイッター)でも盛んに書かれていたので、なんだろう?どれ!と興味が出て観てみました。

「暴れん坊将軍」は皆さんけっこうご覧になってらしたかと思います。マリコ・ポーロ 時代劇は大好きなのですが、「暴れん坊…」をチャント観たのは初めてでした。


今日は、ペルセウス流星群が最も近づいている今にピッタリの内容(か?)。「江戸壊滅の危機!すい星激突の恐怖」。あ!と思い出す方はきっと多いのでしょう。「暴れん坊将軍」では名作・怪作・神作と称される回だったそうですね。

上様が江戸に ほうき星=彗星(水星ではない)が接近していることに気付き、その機に乗じて謀反を起こそうとする若年寄とその一味を「しぇーばい(成敗)!」するというストーリーでした。


彗星が地球に迫って来る映像は昔の特撮ドラマやウルトラマンのようで、へえ~、おっかし~😃、それに、彗星って落ちるものか?(落ちるの?)それって隕石じゃないの?そして、松永弾正も真っ青の大爆発にはドびっくり~。

あーだこーだと一人でツッコミを入れたりしながら、ま、これはドラマであると視聴。


ドラマでは、落下地点は八王子の大和田村(今の北野駅あたり)と、上様が西国から呼び寄せた天文学者が分析。上様は め組 や配下の者に命じ付近の村々から民を非難させます。

八王子ですと!大和田村ってどこかしら?観終わってから検索してみたところ…


ドびっくり~ \(◎o◎)/!←しつこい…💦


これは史実なのですね!

八王子市のHPにありました。落ちたのは彗星ではなく隕石ですが、ご存知でした?天文ファンでは有名な話なのですかね。


それは、文化14年12月29日(江戸時代の暦(旧暦)では文化14年11月22日)午後2時頃のこと。

惜しい!上様は家斉殿。


当時の日記や書物などに記載されていて、目撃者もあまた。飛行経路は甲州街道に沿っていたそうです。ドラマのように大和田村一ケ所に ドッカンーン💣 と落ちたのではなく、八王子・多摩・日野の広範囲に渡ってアチコチに落ちたようです。

記録に残っている落下地点は13ヶ所。でも具体的に伝わっている場所は、現在ないそう。


八王子や滝山の城跡も、登城した時に下ばっかり見て戦国時代の遺物を探していますが、もしかしたら隕石を探す目で見ればあったりして!!柚木にも落ちたらしいし。

なーんて。見つけたら八王子市に届けましょ~。


若年寄の掘田殿が天文方に調査を命じたが、結局、「空中より石が落ちるという理由はなく、高い山の硫黄の蒸気で土石が飛び出すもので、西洋書にもこの類のことは時々あるので、今回の落石も、追々出所がわかるでしょう」

ってなことになったそうです。ドラマに近いですな。


以後、隕石落下のことは忘れられていたが、なんと昭和になってから京の土御門家から隕石の破片と書付が発見されたのですって!

国立科学博物館が調査し、国際隕石学会に登録されているそうです。日本の隕石落下の記録では5番目に古く、今、隕石の破片は国立科学博物館が所蔵。非公開だそうですが💧。


あなどれない…暴れん坊将軍。

こちら ↓ に詳しく書かれています。その隕石や文書も絶賛募集中ですよ。
八王子市HP「八王子隕石落下200年」



萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年8月11日 (火)

峰岸純夫著『中世鎌倉盛衰草紙』を読みました

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連、クリーニング店などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~アクリル板が反射し見づらくて恐縮。3代北条泰時邸の遺構が保存され上から見られるようになっている。若宮大路の執権小町亭跡に建つ、中世鎌倉ファン(含むワテ)が立ち寄る鎌倉武士グッズ「侍気分」さん店前の床。M's Ark Kamakuraビル 内。また、大路向いの Tully's は北条時房(義時弟/初代連署)の屋敷跡で、発掘された遺物を見ながらの一服。~


さて、前回は峰岸先生の新刊の、印象的な挿絵についてご紹介しました。


読み始めました。

第一部は頼朝から宗瑞までが、鎌倉の素っ晴らしく美しい写真(原田寛氏)や水彩画(矢野元晴氏)と共に時系列に進み、とても読み易く、行きた~い、歩きた~いと欲求不満にさせられます。

第二部は、も少しピンポイント&安達氏のこと。


目からミツウロコだったのが、
関東中央部からは戦国大名権力を生み出せなかった。北条・上杉・武田などの関東の外に成長した戦国大名たちの草刈り場…


たしかに~。小田原北条は元は関西の人だし、あらたに関東を支配したのも三河の人だもの。恥ずかしながら、今までそこには気が付きませんでした。

太田道灌はアカンかったし。

道灌状から、旧来の体制の枠内に止まった彼の限界を見ることができる
と先生は書いてらっしゃいました。


「氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」」
「北条氏綱が鶴岡八幡宮へ奉納した「太刀」」

「①大河「太平記~父と子」と、北条高時のこと」
「②大河「太平記~芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」
「④ 大河「太平記~帝ご謀反」と、北条家はなぜ将軍にならなかったのか?」
「⑨大河「太平記~宿命の子」と、金沢氏の称名寺」

「非公開 「英勝院」の御廟内部~鎌倉」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年8月 9日 (日)

印象的な挿絵の『中世鎌倉盛衰草紙』峰岸純夫著

マリコ・ポーロ

8月6日 広島、8月9日 長崎。陽性確認者が激増している状況下ではありますが、忘れてはならない歴史


Photo_20200809114601
~雨の八幡宮、早朝(2019.7)~


チト先に…
八王子城
御主殿の奥の一段高くなっている方、9月から大きな調査が入るそうです。
毎日公共交通機関でお仕事に行っている方達には申し訳ないですが、我が家からは平日土日・時間問わず満員電車に片道1時間以上は乗らねばならず、見にいけません…。近くの方や車の方、どんなだったか教えてくだされ。

もう丸半年、家族以外の誰とも会っていない…。外で発する言葉は「袋いらないです」「Suicaで」「一括で」のみ←近所での買物。


さて、

氏直たちが高野へ旅立ち、家康殿も江戸へ入り小田原北条開城落城強化月間も一段落。そんなところで、我らが「旧・八王子城を守る会」の会長でもあった峰岸先生の新刊が出ました!

中世鎌倉盛衰草紙 東国首都鎌倉の成立と展開

歴史探訪社。ムック本です。峰岸先生の本では珍しいです。


写真(原田寛氏)も素ん晴らしく美しいですが、さし絵の水彩画の素敵なことったら!

表紙は「毘」の旗を掲げ鶴岡八幡宮の参道をゆく謙信くん。裏表紙は、弓を掲げ由比ヶ浜(材木座?)を駆ける太田道灌殿。そのバックには江の島が。

同じく砂浜を駆ける尊氏さま(暴れん坊将軍ではない)、竹林をゆくシゲッチ(足利成氏)、切通を超える我らが伊勢新九郎さん、後醍醐天皇、大塔宮護良親王さん、直義殿(昔頼朝像といわれていたアレみたいな)、佐殿(木造のアレみたいな)…。


画家は矢野元晴氏。「じゅん散歩」で見たことがあります。水彩画の教室をされていて、鎌倉マダムに大人気の若い方です。

武将絵も描かれるとは知りませんでしたので、原画が欲しいです。検索してみましたが、どこで手に入れられるのか、それより価格はいったいどのぐらいなのか、まったく分かりません。

本から切り抜いて額に飾っちゃおうか!そうしたら読めまへんな。まだ拝読していまへんので。


🐎 アナザーブログ
鎌倉の蓮、酒田の紅花などなどアップしています。八王子城や小田原ももちろん。よろしくば。
「萩よりほかの花も見るべく」


🐎 マリコ・ポーロ ブログ

「氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」」
「北条氏綱が鶴岡八幡宮へ奉納した「太刀」」

「①大河「太平記~父と子」と、北条高時のこと」
「②大河「太平記~芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」
「④ 大河「太平記~帝ご謀反」と、北条家はなぜ将軍にならなかったのか?」
「⑨大河「太平記~宿命の子」と、金沢氏の称名寺」

「非公開 「英勝院」の御廟内部~鎌倉」


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2020年8月 1日 (土)

家康は8月1日以前に江戸へ入っていたのか?

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどなどなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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今日8月1日(朔日)徳川家康は、それまで北条領だった江戸に入封する


家康は秀吉から一方的に江戸への移封を言い渡された…とされているのだと思っていました。

しかし、今はそうは言われてないようですね。それは二人の合意のもとに決まったことだとされているようです。


そこで以前からの疑問が持ち上がってきました。

家康は秀吉より後に江戸に入ったことになっています。小田原開城からの家康と秀吉の動きを簡単に書いてみます。


(7月)
5日 北条氏直が投降


6日 秀吉&徳川の家臣達が城受け取りに入城(秀吉家臣=脇坂安治、片桐且元、家康家臣=榊原康政、井伊直政、本多忠勝)


10日 氏政・氏照が城を出、入れ替わりに、まず家康が入城


13日 秀吉が入城、家康殿がお出迎え

同日 家康の江戸移封が皆の者に告知される


ですよねえ。
普通は先に下の者が入り、その後上の人をお迎えしますよねえ。しかし…


15日 秀吉が江戸着

24日 秀吉は奥州に向けて出発


29日 家康は小田原を発つ

8月1日 家康の江戸入封


まだ不安定な江戸に上様が先に入るかな?家康は小田原でまだやることがあり、秀吉は奥州攻めを急いでいたということかもしれませんが、そういうことってあるのかな~とずっと思っていました。

まあエエ。北条が出たあとの江戸は、家康殿や秀吉殿で好きにしちくれと思いながらも、気になっていました。


幕末以外の徳川さんには興味がないので、手持ちの本は『江戸はこうして造られた』鈴木理生(ちくま学芸文庫)のみ。自主自粛生活で図書館へも行けないため、ネットで何か論文が読めないかと探ってみました。

見つけました!
チト古いですが、『徳川氏の関東入国に関する一考察』村上直氏(法政大学史学会 1995)です。


Dsc_0244


色々と面白いことが書かれていました。

家康好きの方でしたらすでにご存知のことかと思いますが、家康は、八朔以前に江戸に入国していたのではないか?というのです。そこには、水江漣子氏や中村孝也氏などの研究による上記とは違う秀吉と家康の動向が検討されていました。


🐎 その中のひとつ『徳川家康公伝』

(7月)
15日 家康は秀吉に先立って小田原を発して江戸入り


19日 秀吉が江戸着、家康殿がお出迎え


20日 秀吉は奥州へ、家康殿がお見送り


8月朔日 家康は縁起の良いこの日を選び、正式な形であらためて江戸城へ入城


🐎 また『文政寺社書上』には

秀吉は法恩寺を宿舎としたとあるそうです。

七月廿一日昼御膳御上り被成候、御城在御眼前秀吉公対家康公被し仰候

と、21日に法恩寺にて家康と対面しているとあるそうです。


以前にも書きましたが、法恩寺は、太田道灌が江戸城を築くに際し、江戸城鎮護のために建てたお寺です。早雲寺といい、法恩寺といい、秀吉ったら、もう!

いや勝った方はそういうもの、致し方なし。


この『文政寺社書上』の末尾には、これは誤りだと記されているそうなのですが、村上氏らは、そんなこともないのではなか?と。

他の数点の史料によると、秀吉が江戸を発ったのは 7月24日だと記されているそうです。


村上氏は、
…これによって家康が19日に江戸に着いたという確証はないが、恐らく20日には江戸に到着し、翌21日には法恩寺において秀吉と面談し、24日に奥州へ出発する秀吉を見送り…
と書いています。


家康や秀吉が江戸へ入った日もですが、秀吉が奥州へ発った日も、私の浅い知識とは違っています(そりゃ浅識だからじゃ)。それは、

…この点、のちに家康の関東入国を八月一日とするため、それに合わせるために行動内容がきわめて暖昧になっているともみることができるのである。…


驚いたことに、『家忠日記』には家康の江戸入りの日が書かれていないんですってね。そんな大事なことが書かれていないなんて。いや、家忠殿は、江戸は単なる通過点だと思ったのかもしれへん。

なんだか、納得~。


🐎 オマケ

この論考には、家康が入る前の江戸は寒村だったという解釈はあまり適切ではなく、道灌時代は文化的にも華やかで、以後、江戸城下には江戸湊を中心とした中世都市が広がっていたと思われると、ちゃんと書いてありますよん。

入国した家康の居城に相応したものであったことを知ることができるって。


ということで合っていますかね。
マリコ・ポーロの読み間違え、受け取り間違えがあるかもしれないので、ご興味ある方は村上氏のこの論考をご覧くださいませ。


でも、そもそも家康殿って江戸があまり好きではなかったようですよね。将軍職を秀忠に譲ったあと、サッサと江戸から出てっちゃいます。

それは、そのまま江戸城(家康の隠居所)にいたら秀忠のためにならないと考えてとも言われていますが、そうじゃなくて、家康殿は嫌いだったんですよ、坂東が。


「家康以前の江戸は本当に「寒村」だったのか?2015」
「太田道灌と小田原北条の江戸城 2010」

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2020年7月30日 (木)

猫は二十歳になるとシッポが二つに分かれる説

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、雨、地震、ウィルスへの用心は怠りのう。


Dsc_0591
~ハタチの朝にゃ~


猫は二十歳になるとシッポの先が二つにわかれ「猫又」になる

と、むか~し「ゲゲゲの鬼太郎」で聞いたような覚えがあるので調べてみた。


🐱 その前に、チビット…

新暦 平成12年7月12日。
生まれたての4匹の猫たちは、江戸時代の北条家菩提寺である広尾「祥雲寺」の門前に捨てられていた。

奇しくもそれは、氏政・氏照が自決した翌日であった(年は違うけど…)。同年9月、その中の1匹は奇しくも北条追っかけのマリコ・ポーロの元にやってくることになる。


たびたびたび、このブログに登場している我が家の猫 マル こと マルゴー・ポーロ が二十歳になりました。高齢猫にありがちな甲状腺機能亢進症の持病で薬は常用しておれど腎臓は問題なく、お陰様で、まあそれなりに元気に誕生日を迎えることができました。

マル、これからもよろしくにゃ。


さて、猫又さんのこと。

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~ハタチの朝、ふたつに分かれているか見てみた。生まれつき「鍵シッポ」なんにゃ~


猫又には、山に住む猫又と、飼われている老猫の猫又との二種類があるそうな。

猫又は鎌倉時代の説話集あたりから表れ、定家が『明月記』に、吉田兼好が『徒然草』に、江戸時代には新井白石も書いているそうです。


🐱 『徒然草』の猫また

奥山に、猫また といふものありて、人を食らふなる 
と人の言いけるに…

で始まります。


ある法師が連歌の帰りの夜、猫また に襲われます。

助けよや、猫また、よや、よや

うぎゃーーっ!
助けてくれーいっ!猫また だーっ!
おーい! おーい!


恐怖におののいた法師が叫ぶと、近所の家々から人々が、どーした、どーしたとワラワラ出て来ます。

が、なんのこたあない。
法師が飼っていたワンコ🐶 が、法師の帰りを喜んで飛びついてきただけ(カワユイ❤)とな。


という話のように、猫また の話はど
れも年老いた猫は妖怪となって人を惑わしたり、食らったりするもののようです。

まあねえ、猫が好きではない方にとっては、若い猫だろうが年とった猫だろうが猫を気味悪く思う方はいらっしゃると思いますが、いずれも猫の習性や、明暗で瞳が変わるところとか、ちょっと何を考えているか分からないようなところからくる迷信です。


🐱 シッポが二つに分かれる説

江戸時代の辞書のようなものには、

老猫は形が大きくなり、しっぽが二股になって災いを成す。これをねこまたともいう。

とか、

俗に老猫でしっぽが二股に分かれ、人をたぶらかす

とか書かれているそうな。


猫のシッポが二つに分かれる説(説か?)はどこから生まれたのでござんすかねえ?

(「玉藻前」の九尾のキツネの話 + 狐も猫も「化ける」というイメージ) x 様々な俗説 

猫のシッポが分かれる説に?


いずれにしても、様々なことが混ざり合って「猫は二十歳になると(何故ハタチかは不明)、シッポが二つに分かれる」ということになったのでしょう。

我が家の マル こと マルゴー・ポーロ は、今のところシッポは分かれていません。けっこう楽しみにしていたのじゃがのう。


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~保護した方がくださったマルの兄弟姉妹との集合写真。「大きくなったら見せてあげて」って…?~


「今日はマルゴー姫の誕生日(2010)」

「「虎の子」 多摩動物園サマーナイト(2010)」
「今年も「多摩動物園サマーナイト」、上野もあるでよ(2011)」


マリコ・ポーロ & マルゴー・ポーロ

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2020年7月25日 (土)

セミナー・講座~玉縄城址まちづくり会議&小田原北条の会(2020)

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、雨、地震、ウィルスへの用心は怠りのう。


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~小田原の海を眺めたい…~


小田原北条の会玉縄城址まちづくり会議さん主催の講座・セミナーが再開です!

玉縄さんの連続セミナーは玉縄北条菩提寺「龍宝寺」さんの協力で、文化芸術振興費補助金、地域文化財総合活用推進事業(地域文化遺産)。小田原北条の会も玉縄さんも、毎回、精力的に魅力的なセミナーを催されますよね~。


マリコ・ポーロが端っこに席だけは置かせていただいている小田原北条の会の講座は、ガイドツアーや講演会ではお馴染みの旧文化財課鳥居和郎氏や大島慎一氏、そして学芸員の岡氏による、北条領国下での一向宗や早雲寺殿二十一箇条、氏綱の遺言などについてです。

もともと小会場のうえコロナ対策もあり、小田原北条の会は参加可能人数が少ないためここに詳細を書くのは控えます。

玉縄さんの連続セミナーはHPに見つけられないので(今日現在)以下に書き出します。詳細は、まちづくり会議さんへ(文末)。


私は東京都の真っただ中に居住する、思いっきり都民。陽性確認者が増大しているので当面の参加は控えますが、当ブログを読んでくださっている方は神奈川県の方が多いので、ここにお知らせする次第です。参加される方は、私が申すのもなんですが、感染対策バッチリよろしくぅ!

友人達も他県のためもう丸5ヶ月も家族以外と会ってなく、家の周りをウロウロしているだけ。北条成分枯渇どころか、人間&自然成分枯渇なり。参加できなくて、ひっじょーに残念。


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~鎌倉光明寺の古代蓮を愛でたい~


玉縄さんの連続歴史セミナー

▲ 第1 回「戦国の城の歴史」
日時:8月1日(土)14:00-16:00
会場:鎌倉・玉縄歴史館(玉縄ふるさと館)

・講義「戦国の城の謎」
講師:香川元太郎 氏
(イラストレーター・絵本作家・日本城郭史学会委員)

・講義「玉縄城の七つの謎」
講師:鎌倉ではお馴染みの、大竹正芳氏(日本画家・日本城郭史学会委員)

受講募集人数:20人
予約受付開始:7月1日~7月30日
受講料:1500円 (歴史館入館料含む)


▲ 第2回
日時:10月10日(土) 13:30-16:00
会場:玉縄学習センター

内容:三人の歴史学者による講演「後北条氏一族の文化的活動検証」
・「北条氏当主を取り巻く女性たち」
浅倉直美氏
・「玉縄北条氏の文化的活動」
梯弘人(神奈川県立歴史博物館 中世史学芸員)
・「戦国時代の鎌倉・藤沢」
鎌倉ではお馴染みの、伊藤一美(歴史学者)

受講募集人数:25人
予約受付開始・ 9 月1 日~10 月6 日
受講料:1500 円



▲ 第3回
日時:11月21日(土)13:30-16:30
会場:玉縄学習センター第4 集会室

・基調講演:「戦国時代の武将像」
小和田哲男 先生

・シンポジュウム「戦国東西文化比較論」
パネラー小和田・伊東潤・玉林・大竹・伊藤 15:00-16:20

受講者募集:60人
予約受付開始:9 月1 日~当日
受講料:1500 円


▲ 第4回
日時:令和3年1月23日(土) 13:30-16:00
会場:玉縄学習センター

・「城郭史的な玉縄城の謎」
大竹正芳氏
・「証明された玉縄城の特異性」
玉林美男氏
・「鎌倉武家文化と戦国時代」
伊藤一美氏

受講募集人数:25人
予約受付開始:11 月21 日~1 月16 日
受講料:1500 円


申込先:玉縄城址まちづくり会議
E-mail artbank21@nifty.com
電話 0467-45-7411


🐎 以下、小田原北条の会&玉縄城のブログ記事の超一部です。それぞれの記事の文末にその他の関連ブログ記事が添付があります。ご覧くださいましたらいと嬉し。

「小田原北条と「八丈島」」
「北条五代の娘たち ⑧ 玉縄水軍の御しんぞう様」
「玉縄城下の探索会へ(2019.11)」

小田原北条の会の講座の一部です。
「「北条の 城郭(支城)ネットワーク は本当にあったのか?」鳥居和郎氏」
「「北条氏綱像」は後世に改変されたのか?鳥居和郎氏」
「「手づくねかわらけ は権威の象徴だったのか?」鳥居和郎氏」
「発掘ヶ所は 124!~戦国ワンダーランド小田原」土屋健作氏


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年7月21日 (火)

北条氏直~高野山から大阪出仕まで

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。
地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスへの用心は怠りのう。


053
~天正19年8月19日、氏直は大阪城にて秀吉と対面し知行を拝領する~


天正18年7月。小田原北条は、日本中の戦国武将に見届けられながら百年の歴史に幕を下ろす。当主氏直は家臣達への主従関係の解約書を書き、同月21日、高野山へ向けて旅立った。

「みな、それぞれ思う道を行ってくれ…」


旧暦7月21日、氏直たちが高野山に向けて旅立つ日が今年もきました。

発刊されたばかりの『北条氏直』(戎光祥出版)をちょうど読んでいることから、今年の7月21日のブログはそちらを参考に、高野山蟄居から秀吉に出仕するまでの氏直をあらためて辿ってみました。


主に参考にさせていただいたのは、先のブログ記事「7月5日 北条氏直は降った」と同じく、『北条氏直と高室院文書』(座間美都治)です。

同論集の「序」で黒田基樹氏が書いてらっしゃいますが、小田原合戦後の氏直のことを具体的に検討したものとしては、この1965年に書かれた座間氏の論考がほとんど唯一の成果となっているそうです。


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~小田原幸田口の彼岸花~


(天正18年)
▲7月21日 氏直一行、高野山に向けて旅立つ
・御一家衆、側近など家臣は約30名、総勢約300名
・付き添いは、家康の重臣である榊原康政


▲ 8月12日 
高野山高室院「小田原坊」着


▲ 11月10日 
高野山麓の天野(和歌山県伊都郡三好村)へ移る
・これは冬の高野山の寒さをおもんぱかった秀吉の意向


白洲正子が、私の大好きな『かくれ里』にこの「天野」のことを書いています。

…「天野」の名にふさわしい天の一角に開けた広大な野原であった。もしかすると高天原も、こういう地形のところを いったのかも知れない…ずいぶん方々旅をしたが、こんなに閑でうっとりするような山村を私は知らない…できることならここに隠居したい。桃源郷とは正にこういう所をいうのだろう…


天野は標高450m。八王子城と同じぐらいですな。高野山のお寺があるあたりは標高約800m。随分と寒さはやわらぐでしょう。

良い所らしくてホッとしました。マリコ・ポーロがホッとしてもどうでも関係ないんですが。


秀吉は氏直たちに対し扶持を与え衣服や酒茶なども届け、一応は気を遣っています。

高室院も、北条家とは宗瑞以来の長い付き合いであり、歴代住職は相模の出身が多いそうです。金子の都合までもしたりと親身に世話をしてくれています。


また、氏直やその側近たちが蟄居中に高野山や大阪から出した、寒いから囲炉裏と炬燵が欲しいとか、カネオクレ とか、様々な御礼とかとかの文書は十数遍残ってるそうです(原本は無し、すべて写し)。

この間、家康殿が中心となって氏直たちの赦免について秀吉に様々働きかけてくださり(ありがとうございます)、


(天正19年)
▲ 2月7日 ついに秀吉のOKが出る


▲ 春 
大阪泉南(岸和田市)の「興応寺」に移る
・興応寺は今は無く、地図を見ても見つけられなかったので、数年前に市に問い合わせさせていただいたが、ついに分からなかった。


▲ 5月9日 
大阪の織田信勝の屋敷跡へ落ち着く


▲ 5月12日 
氏直はこの日付の書状から「見性斎」を称する


▲ 7月21日
高野山高室院へ「誰か」の供養を依頼する
・座間氏はこれを、7月11日が一周忌だった父氏政と伯父氏照の供養ではないかと書いてらっしゃる。名前を書くのを憚ってのものだろうか?と。


▲ 8月19日
秀吉に拝謁し知行を拝領、秀吉の旗本家臣となることになる

また、その時に翌年の朝鮮出兵も命ぜられる


▲ 8月24日
高野山高室院へ持仏の五躰尊の祈念を請う
・来春の唐入り後は生死の程も分からないゆえと。


▲ 8月27日
小田原から督姫一行が到着

ふたたび会いまみえることが出来て良かったね!
が、それも束の間…


▲ 10月下旬あたりから
疱瘡を患う


▲ 11月4日
逝去
享年30才


天正14年あたりから特に18・19年、氏規さんは大活躍ですね。氏規と家康の幼少の頃からの繋がりがあったからこそ、北条はその後続いたともいえます。

そして、

何度も書いており恐縮ですが、氏直の弟氏房含め高野山組は早世する人が多かったです。

惜しかったね。氏直さんは家康の婿殿ですもの、近々訪れる皆の未来は非常に明るかったのに…。


🐎 以下、7月21日と高野山あたりのことを書いた記事の一部です。よろしくば。

「それからの小田原北条一族 2010」
「今日7月21日(旧暦)、北条一族高野山へ 2011」
「今日7月21日、北条氏直は高野山へ旅立つ 2015」

「北条一族の高野山 3 「小田原坊」」

「江戸時代の北条家「狭山藩邸跡」」
「北条氏規の大阪の菩提寺」

「北条氏直の正室「督姫」の母の墓」

「北条家臣 桜井武兵衛さん、はしりめくる!」
「北条氏直、最後の当主の 「最後の朱印状」」

「江戸時代の北条家、東京の菩提寺」
「北条家 下屋敷の「北条坂」」

 

萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年7月17日 (金)

その③~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスにはくれぐれもご用心くださいませ。


006
~八王子城に移る前の氏照の城「滝山城」は大蛇がのたうつように張り巡らされた堀が見事な名城である。~


さて、
家康の家臣石川忠総(大久保忠隣の息子)が残した『石川忠総留書』にある 北条氏照を介錯した「伊勢大和守」という人物が、なにを調べても見当たらないと ①・② で書きました。

興味を持ってくださった何人かの方からアドバイスを頂戴しました(ありがとうございます!)。


その中のお一人の北条師匠がおっしゃったことを読み返ししていて、ある一行からビビビッ💥 と妄想が浮かびました。

留書では「…(伊勢大和守は)氏規殿と同じく大和守殿と「殿」が付いている。…氏政・氏輝(照)・氏直はいうに及ばず、太閤まで呼び捨てで…」。←すみません、勝手に引用させていただきました。


② でも書いたように、石川殿が留書を書いたのはもう徳川の世になってからです。

となると、江戸時代のその頃の感覚で、石川殿はこれを書いたのではないだろうか。


・氏規については…
すでに他界しているので、生前のままの「美濃守」。権現様のお友達であり、当時の狭山藩主の祖であることから「殿」を付けて「美濃守殿」とした。


同じように考えると、
・伊勢大和守は…
北条時代の「大和守」ではなく、石川殿が留書を書いた当時の「大和守」かもしれないかもしれない。それは「殿」が付いているため、石川殿より立場が上の人物である。

なーんて。


手持ちに江戸時代の本は無く図書館も行けないので、ネットで見てみましたが、江戸時代の大和守でかつて北条とゆかりがあったような人は見当たりませんでした。

もしくは、やっぱり戦国時代の「伊勢大和守」で、違う名前で記録にたくさん出てきている人物だったりして…。


私の氏照を介錯してくださった方は誰?

もうワテには調べようがにゃい。妄想は山盛り出来るけど。。。


検討違いの ビビビッ💥 かもしれませんが、自分の備忘のため書きました。
単なる妄想なので、信じちゃアカン。


「①北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「②~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年7月14日 (火)

その②~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ


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~前回の氏直の文書を使った「籠城戦!」もですが、小田原うまいねえ(小田原城公式HPから無料ダウンロードできる)。スタッフの方達のみ缶バッヂをされているのも、いいにゃ~。~


前回、『北条氏康の子供たち』(宮帯出版)の 則竹雄一氏「北条氏照」にある 北条氏照を介錯した「伊勢大和守」について書きました。

それは、家康の家臣石川忠総(大久保忠隣の息子)が残した『石川忠総留書』にあるのですが、なにを調べても「伊勢大和守」という人物が見当たりません。

こりゃ、誰?と書いたところ、ご興味を持ってくださった方がいらっしゃり、矢文や投げ文にて教えてくださいました。皆様、かたじけのうござるぅ💧


まずは、『小田原衆所領役帳』にある、「太和(大和殿)」の子か孫がそうではないかとのことなのです。

『新編埼玉県史史料編』掲載の役帳の、太和殿の注意書きには「晴統」とあるそうです(『平塚市史資料編』にも同じ注意書きが添えられているようなので、注意書きはどこのどれも同じなのかな?)。

所領役帳は見たかったのですが図書館に行けずにいたので、とても助かりました。ありがとうございます!


晴統とは、大和晴統のことです。

晴統殿は、宗瑞の代からの、二代氏綱の京都御奉公衆のひとりで、冷泉為和の歌会などの記録にも名前が出ているのですね(『戦国北条氏五代の盛衰』下山治久著)。

ちなみに、ほかの奉公衆には伊勢家一族の伊勢貞辰や伊勢貞就、小笠原さんなどがいます。


しかし、大和氏の大和晴統と伊勢氏との繋がりは今のところ私には分かりません。

『室町幕臣の東下り』米原正義著に、「(大和氏は)伊勢備中守や兵庫頭と同じく伊勢平氏の流れをくむ」とあるように、遥か先祖で繋がるのか?はたまた、京都御奉公衆としていつも伊勢家の面々と行動を共にしていたので(たぶん)、『留書』を書いた石川殿が伊勢家の人だと思いこんでいたのか?


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そこで、「留書」を書いた石川殿についてチト見てみました。

石川殿は天正10年生まれ。
へっ??
小田原北条攻めの時、石川殿はなんと8才(満)ではないですか。

ということは、小田原北条については自分が小田原攻めに参加したり、直接かかわったわけではなく、パパやジジや親族や家臣などの大人たちから聞いた話なのだね。


さよか~

とすると、石川殿(または石川殿に伝えた人達)の記憶違いということも充分 ありえ~る、アリエ~ル。


「伊勢大和守」について他に何か書かれた本がないかと、都立中央図書館の蔵書ネットで検索しても「該当するものがありまへん」です。

これは、「伊勢大和守」から調べるのは難しそう。


伊勢大和守=大和晴統の子・孫・甥
と仮定して、大和氏の某が氏照を介錯した可能性があるかないかから調べるしかないですかね。


『所領役帳』は国会図書館のデジタルで見ましたが原本(の写し)なので、よ、よ、読めん💦。現代語訳のものが見たいです。

また、下山先生の『後北条氏家臣団人名辞典』も見たいです。データベースに索引だけありますが、見ると大和晴統殿ありますねえ。どうも、晴統殿は「大和守」のような、違うような…。でも、その息子だか孫だか甥だかのことはデータベースからは分かりません。


しかし、公共交通機関を仕事で使っている方々には申し訳ないですが、東京はまた感染者が増えていて図書館に行くのを躊躇っており、手持ちの本類は乏しく、現況ではこれ以上は調べられません。徒歩30分位で行ける我が自治体の図書館は、けっこう大きいのですが、これらの本は置いてないんです。

諸先生方が調べてくださって本になったものを、ワインでも飲みながら読みたい。
な~んて。


それにしても、北条氏照を介錯した人について、ほぼ全ての本が「氏政と同じく氏規」としていることにも、我らが氏照様を介錯した人物が分からないということにも、

ドびっくり~~
(*_*)
なり。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年7月11日 (土)

その①~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスにはくれぐれもご用心くださいませ。


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~小田原の墓前にて毎年7月11日に営まれる「北条氏政・氏照墓前祭」(文末記事添付)。2020年は中止。~


旧暦7月11日、我らが北条氏照は兄氏政と共に秀吉の命により自決させられた。介錯は、ふたりの弟氏規であった。


と、思っていましたが…
氏規が介錯したのは氏政だけ。氏照を介錯したのは「伊勢大和守」だそうですね!

『北条氏康の子供たち』2015.12(宮帯出版社)に載っている、則竹雄一氏の「北条氏照」を再読していて今頃気が付きました。


ドびっくり~ (*_*)
10年も小田原北条の追っかけをしていながら知りませんでした。マリコ・ポーロ、なんという不覚!
皆さんはとうにご存知で💦

介錯は信頼する者に頼む(命ぜられる)とはいえ、アニキふたりを続けざまに斬るというのは、さぞやヘビーだっただろうと氏規を痛ましく感じていましたよ。違ったんですね…。ちょっとホッとしました。


それが書かれているのは、大久保忠隣の息子忠総が記した『石川忠総留書』。
…氏政ヲハ美濃守殿介錯、氏輝ヲハ伊勢大和守殿介錯、太閤ヨリ御検使ハ…
とあります。


うーむ。
伊勢大和守 ねえ…


って、誰ですか?

受領名しか分かりません。留書は『旧八王子市史』にあるそうなのですが、市史は「新」は持っていますが「旧」を持っておらず、『室町幕臣の東下り』米原正義、『戦国北条家一族辞典』など手持ちの本で「諱」が載っていそうなものを見てみましたがありません。

図書館には行けないので、ネットでも検索してみましたが出てきません。ついには『新九郎、奔る!』も見ましたが(エヘッ)、出てきません。


誰だろう…?伊勢氏一族で家臣だと思うのだけれど…。

宗家の流れだと、伊勢守とか備中守、備前守、肥前守あたりですが、「大和守」だから、京都伊勢氏の庶流でしょうか。


もしかしたら石川殿の書き間違えで、伊勢備中守(貞運)のことでしょうか。貞運は、黄瀬川での氏政と家康との対面にも同道しているし、伊勢宗家でもあるので重臣だったはずですが、重臣団も載っている『戦国北条家一族事典』にはありません。

備中守貞運は小田原攻めで戦死したと伝わっています。小田原攻め時に北条の重臣が戦死したとは???ですが、もし貞運だとしたら、氏照を介錯した後に他界したことになりますな。


でも、石川殿、その備中守と大和守とは間違えないですよね~。なんにせよ手持ちの本が貧しいため、図書館に行けるようにならないことにはどうにもならぬわ。

お、京都伊勢氏、再放送中の大河「太平記」に登場するかしら?


🐎 以下、この10年で氏照や氏政について書いたブログ記事の一部です。ご覧くださいましたら嬉しいです。

「小田原攻め、北条氏照の本陣「報身寺」」
「松平文庫の「小田原陣図」」

「北条氏照の存在が抹殺された?「星谷陣屋」」
「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」」
「北関東の侵略者、北条氏照の「祇園城」」

「北条「氏政」の御首級(みしるし)はどこに?」
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」

「北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作」

「北条氏照と太田資正(三楽斎)は義兄弟!」

「コロナ下の八王子城落城日(6/23)」
「前編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」
「後編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」

「北条氏照の「大善寺」と「能~土方歳三」」
「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
「小田原北条家と猿楽の宝生大夫」


🐎 小田原の墓前祭(2020年は催されません)。それぞれの記事の文末にも氏照を書いた記事をたくさん添付。

「天正18年の供養~氏政・氏照墓前祭(2019)と八王子「相即寺」」
「恒例 「北条氏政・氏照墓前祭」(2018)」
「北条氏政・氏照 「墓前祭」2017~今年も小田原開城に思いを馳せる」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2020年7月 5日 (日)

7月5日北条氏直は降った~「開城」とは当主が投降した日か?

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。
地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスにはくれぐれもご用心くださいませ。


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~今は暗渠となっている渋取川を唯一見られる井細田あたり~


天正18年7月5日、小田原北条五代当主 北条氏直は弟の氏房を伴い渋取口より降る


小田原開城のことはこの10年であまた書いており、そちらをご覧くださいましたらとても嬉しいです(文末添付)。

とはいえ、こたび新たに気が付いたこともあります。

それは、今年3月に出版された『北条氏直』シリーズ中世関東武士の研究第29巻(戎光祥出版)に載っている「北条氏直と高室院文書」(座間美都治氏)を読んでいてのことです。


これまで私は、7月5日 は氏直が投降した日なので、イコール=小田原開城の日であると思っていました。今までのブログにもそう書いていました。


また、氏直が投降した先ですが、
以前ブログに「氏直が降ったのはドラマのように官兵衛の陣ではなくて、滝川雄利の陣だよん」と書きました。

しかし、その後読んだ下山治久氏の『戦国北条氏五代の盛衰』(東京堂出版2014)には、
「氏直は、7月5日に羽柴雄利の陣所に行くと黒田孝高等に降伏した。」
とありました。


あれ?氏直が投降した先は滝川陣の滝川殿ではなく、同陣(たぶん)の官兵衛なのかもしれないのかなと思い、井伊直政の浅野への書状を読み直して(眺め直して)みました。どうやら滝川陣で、滝川と官兵衛が氏直と面会したようなことが書かれていました。

ドキュメンタリードラマを製作するわけではないので、氏直が滝川と対面したのか官兵衛と対面したのか、両人と対面したのかはどうでもいいっちゃあいいのですが、気になるのは座間氏のこの論文の内容です。


そこには…

・「六日早朝岳父徳川家康の今井の陣営に行き、降伏の意を表した。」
・「家康は婚姻関係にあるため、秀吉の嫌疑を避け、付近に布陣していた織田信雄の臣羽柴雄利の許に行かせた。」

そして、
・「翌七日開城し」


と、あるのです。

小田原開城は7日で、氏直が投降したのは5日ではなく6日…?
氏直は、最初に家康の元へ行った…?


井伊直政が浅野殿に出した6日付の書状には、氏直兄弟が「昨日」滝川の陣に走入ったとあります。また、新庄直友が同じく浅野殿に7日に出した書状にも、兄弟は「一昨日」投降したとあります。

どちらも時間までは書かれていませんが、氏直が投降した5日というのは5日の夜半だったかもしれず、6日早朝も同じようなものなのでこれも置いておくとして。


氏直は最初に家康と会ったのでしょうか?滝川の元へ最初に行って、そのあと滝川殿が家康の元へ連れていったのかと思っていました。

氏直の投降先は、直政の書状にも、新庄直友の書状にも、「羽柴下総陣」とあります。滝川雄利の陣のことです。最初に家康の元へ行ったけど、家康が秀吉を気にして滝川の元へ行かせたとは、それって、どこに書かれているのでしょう?知りたいです。


もしかしたら氏直は、夜陰、密かにお義父さんの家康殿の元へ行き(もしくは、投降の旨の書状を出し) → 投降について相談し → あらためて投降という形をとって滝川の陣へ降りた…

なーんてね。妄想。


(『北条氏直』に掲載されている論考は昔のもの 1980-90年代 が多いのです。最新の研究ではないのかな…。)


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~現代小田原城天守下に咲くヤマユリ(数年前に撮った)~


さてタイトルの「開城日」とは何をもってするか?です。


確かに、6日から徳川勢が城にドカドカと(←含むマリコ・ポーロの私情)入り始め、家康が入城し城を受け取ったのは7日です。

だから、5日(6日早朝?)は当主が降伏をした日で、受け取り人に正式に(?)引き渡された日、つまり7日 を本来は「小田原開城の日」と言うのだろうか?


江戸城の「開城日」は、慶喜が城を出た日ではなく、慶喜が降りた数日後の東征軍(大総督府とも言う)が正式に城を受け取った日を言うようですね。会津若松城は…容保公が投降した日と開城日は同じだったかしら?

細かいことにこだわって、あいすまぬ。


氏直が降りてすぐに家康が城に入っていればややこしくなかったのに。何を1日半も、もったいつけていたのだろう?

自分が入城する前に、榊原殿たちに城内のお宝をゲットする時間を少し与えたとか?いや、当主とその弟が城を出たばかりで城内は混乱状態。それを少し鎮めさせるために1日半必要だったのか?


いやいや、家康殿は以後も北条氏直にとても心を砕いてくださいました。だから別にもったいつけていたのではなく、続けて氏政さまが投降してくるのを待っていたのかな…。

氏直は家康の娘婿です。命永らえていれば、徳川の元でもっと出世できたでしょうに。惜しまれます…。


🐱 以下、山盛りになっってしまった7月5日のブログ記事の一部です。恐縮ですが、URLがるものはそちらを、無いものはタイトルをクリックでお願い致しまする。

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「北条氏直の投降は、走ったのか?」

「天正18年7月5日「小田原開城」 アーカイブ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-c464.html

「北条氏直、最後の当主の 『最後の朱印状』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html

「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-adb2.html
「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「天正18年、そして小田原は囲まれた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-918d.html

「北条氏直の正室「督姫」の母の墓」
「今日は、428年目の小田原開城の日(2018)」

「北条一族の高野山 3 「小田原坊」」

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「堀秀政の小田原の墓」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bf85.html
「「関白づくし」の石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-ab53.html

「天正18年の「石垣山一夜城」を歴友と歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「石垣山で歴友たちと天正18年を偲んだ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e888.html

「小田原攻め、徳川方の陣場めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5964.html


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2020年6月30日 (火)

後編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~心源院の桜、空襲をうけたのに毎年花を咲かせる~


卜山和尚とは、我らが北条氏照の師であった方です。
昨日の「八王子城落城~氏照への傑僧「卜山禅師」の想い」の続きにござります。


▲ 北条氏照、死してのちの卜山(ぼくざん)和尚

天正18年7月11日、氏照、兄氏政と共に小田原で自刃。


それ以後、卜山和尚の行動に変化が起きたそうです。「外に出掛けても東西無方。到着した処が住まいとなった」と。
…坐って国の興亡を退け己の分を守る…よくよく看れば世の中のことは夢の中の習い事…雲は南へ、水は北に、思いのまま静かに遊んでいる(抜粋)…
と。

その年の秋、卜山は小津(八王子からあきる野へ向かう方面)の山中に移り、門を閉ざし、訪ねる者にも会わずしばらく暮らしましたが、翌年、新装なった宗関寺に迎えられます。それから卜山は、5つの寺を開山するのです。


そして、なんと…(←また💦)
卜山 94才の時、遊行の旅を始め、上野、下野、下総、鎌倉、修善寺などを訪れるのであります。

ドびっくり~。でも、示寂までは26年もあります。まだまだイケルイケル(←大和尚に対してなんという物言い、無礼者!)。


卜山ゆかりの 心源院や宗関寺は徳川からも大切にされたようです。家康からも寄進を受けますが、114才の時に秀忠に江戸城に招かれます。しかし病のため登城しませんでした…

と記録にはありますが、徳川に会いたくなかったんじゃないの?(マリコ・ポーロ妄想)


120才の10月。
卜山は病になります。あちらこちらから見舞いの人々が訪れ「市のようだった」そうです。

10月26日。
卜山は沐浴浄髪。衣服を整え、坐定。衆徒を集め涅槃に入る旨伝える。辞世の偈頌をしたためたのち、筆を投げ、抜け殻のようになって示寂。

最後も見事です。


▲ 氏照によせる、卜山和尚の想い

氏照の法名「透岳宗閑居士」は、卜山和尚にいただいたものです。

卜山が残した言葉には、「青」とか「青い空」とかがたびたび使われています。「青空」とは悟りとか真理の暗号だそうです。


ある時、氏照は卜山に「犬に仏性ありやなしや!」と問われます。

我らが照は、「幾重にも重なる関を透りぬけ、青空の裏にも留まらず」と答えたそうです。

卜山は、「うむ!でかしたっ!」ポンッと膝を叩いたかどうかは見ていなかったので知りませんけど、それで、この法名を授けたそうです。


悟りのカケラもないマリコ・ポーロには、さっぱり意味が分かりまへんが、卜山和尚は、ご自身が大事にしている言葉を氏照の法名にしたのですねえ。


卜山和尚のことはまだまだあってとても書ききれないのでこのへんにさせていただきますが、このブログは、宗関寺の『卜山大和尚の行実』と『遺誡』を元に「卜山講」の方達が出版した『八王子の名僧 卜山』を参考にさせていただいております。卜山和尚の教えにご興味ある方は是非そちらをご覧くだされませ。

最後に…


氏照の弟の鉢形の氏邦のことで、旧八王子城を守る会の御大が教えてくださったことがあります。

戦後、卜山が写した、敵方が書いた鉢形攻めところを読むと、氏邦を悪く書かれた箇所がカットされていたそうです。御大は、「卜山は、そこを写すに忍びなかったんだろうねえ…」とおしゃいます。

そのコピーを見ながら、しみじみと感じました。卜山和尚は、氏照のことだけではなく、北条やその時代を本当に思っていてくださったんですねえ。


🐎 卜山和尚と心源院を書いた記事の一部です。松姫様のことも。

「北条氏照と、八王子城の神や仏 その1」
「北条氏照と、八王子城の神や仏 その2」

「武田遺臣のマドンナ 「松姫さま」」
「麗しき、武田の「松姫さま御坐像」」
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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