2020年7月11日 (土)

北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスにはくれぐれもご用心くださいませ。


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~小田原の墓前にて毎年7月11日に営まれる「北条氏政・氏照墓前祭」(文末記事添付)。2020年は中止。~


旧暦7月11日、我らが北条氏照は兄氏政と共に秀吉の命により自決させられた。介錯は、ふたりの弟氏規であった。


と、思っていましたが…
氏規が介錯したのは氏政だけ。氏照を介錯したのは「伊勢大和守」だそうですね!

『北条氏康の子供たち』2015.12(宮帯出版社)に載っている、則竹雄一氏の「北条氏照」を再読していて今頃気が付きました。


ドびっくり~ (*_*)
10年も小田原北条の追っかけをしていながら知りませんでした。マリコ・ポーロ、なんという不覚!
皆さんはとうにご存知で💦

介錯は信頼する者に頼む(命ぜられる)とはいえ、アニキふたりを続けざまに斬るというのは、さぞやヘビーだっただろうと氏規を痛ましく感じていましたよ。違ったんですね…。ちょっとホッとしました。


それが書かれているのは、大久保忠憐の息子忠総が記した『石川忠総留書』。
…氏政ヲハ美濃守殿介錯、氏輝ヲハ伊勢大和守殿介錯、太閤ヨリ御検使ハ…
とあります。


うーむ。
伊勢大和守 ねえ…


って、誰ですか?

受領名しか分かりません。留書は『旧八王子市史』にあるそうなのですが、市史は「新」は持っていますが「旧」を持っておらず、『戦国北条家一族辞典』など手持ちの本で「諱」が載っていそうなものを見てみましたがありません。

図書館には行けないので、ネットでも検索してみましたが出てきません。ついには『新九郎、奔る!』も見ましたが(エヘッ)、出てきません。


誰だろう…?伊勢氏一族で家臣だと思うのだけれど…。

宗家筋だと、伊勢守とか備中守、備前守、肥前守あたりですが、「大和守」だから、京都伊勢氏の庶流でしょうか。


もしかしたら石川殿の書き間違えで、伊勢備中守(貞運)のことでしょうか。貞運は、黄瀬川での氏政と家康との対面にも同道しているし、伊勢宗家でもあるので重臣だったはずですが、重臣団も載っている『戦国北条家一族事典』にはありません。

備中守貞運は小田原攻めで戦死したと伝わっています。小田原攻め時に北条の重臣が戦死したとは???ですが、もし貞運だとしたら、氏照を介錯した後に他界したことになりますな。


でも、石川殿、その備中守と大和守とは間違えないですよね~。なんにせよ手持ちの本が貧しいため、図書館に行けるようにならないことにはどうにもならぬわ。

お、京都伊勢氏、再放送中の大河「太平記」に登場するかしら?


🐎 以下、この10年で氏照や氏政について書いたブログ記事の一部です。ご覧くださいましたら嬉しいです。

「小田原攻め、北条氏照の本陣「報身寺」」
「松平文庫の「小田原陣図」」

「北条氏照の存在が抹殺された?「星谷陣屋」」
「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」」
「北関東の侵略者、北条氏照の「祇園城」」

「北条「氏政」の御首級(みしるし)はどこに?」
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」

「北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作」

「北条氏照と太田資正(三楽斎)は義兄弟!」

「コロナ下の八王子城落城日(6/23)」
「前編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」
「後編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」

「北条氏照の「大善寺」と「能~土方歳三」」
「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
「小田原北条家と猿楽の宝生大夫」


🐎 小田原の墓前祭(2020年は催されません)。それぞれの記事の文末にも氏照を書いた記事をたくさん添付。

「天正18年の供養~氏政・氏照墓前祭(2019)と八王子「相即寺」」
「恒例 「北条氏政・氏照墓前祭」(2018)」
「北条氏政・氏照 「墓前祭」2017~今年も小田原開城に思いを馳せる」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年7月 5日 (日)

7月5日北条氏直は降った~「開城」とは当主が投降した日か?

マリコ・ポーロ

大雨の被害がこれ以上でませんように…。
地震も多いです。皆様、防災と、ウィルスにはくれぐれもご用心くださいませ。


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~今は暗渠となっている渋取川を唯一見られる井細田あたり~


天正18年7月5日、小田原北条五代当主 北条氏直は弟の氏房を伴い渋取口より降る


小田原開城のことはこの10年であまた書いており、そちらをご覧くださいましたらとても嬉しいです(文末添付)。

とはいえ、こたび新たに気が付いたこともあります。

それは、今年3月に出版された『北条氏直』シリーズ中世関東武士の研究第29巻(戎光祥出版)に載っている「北条氏直と高室院文書」(座間美都治氏)を読んでいてのことです。


これまで私は、7月5日 は氏直が投降した日なので、イコール=小田原開城の日であると思っていました。今までのブログにもそう書いていました。


また、氏直が投降した先ですが、
以前ブログに「氏直が降ったのはドラマのように官兵衛の陣ではなくて、滝川雄利の陣だよん」と書きました。

しかし、その後読んだ下山治久氏の『戦国北条氏五代の盛衰』(東京堂出版2014)には、
「氏直は、7月5日に羽柴雄利の陣所に行くと黒田孝高等に降伏した。」
とありました。


あれ?氏直が投降した先は滝川陣の滝川殿ではなく、同陣(たぶん)の官兵衛なのかもしれないのかなと思い、井伊直政の浅野への書状を読み直して(眺め直して)みました。どうやら滝川陣で、滝川と官兵衛が氏直と面会したようなことが書かれていました。

ドキュメンタリードラマを製作するわけではないので、氏直が滝川と対面したのか官兵衛と対面したのか、両人と対面したのかはどうでもいいっちゃあいいのですが、気になるのは座間氏のこの論文の内容です。


そこには…

・「六日早朝岳父徳川家康の今井の陣営に行き、降伏の意を表した。」
・「家康は婚姻関係にあるため、秀吉の嫌疑を避け、付近に布陣していた織田信雄の臣羽柴雄利の許に行かせた。」

そして、
・「翌七日開城し」


と、あるのです。

小田原開城は7日で、氏直が投降したのは5日ではなく6日…?
氏直は、最初に家康の元へ行った…?


井伊直政が浅野殿に出した6日付の書状には、氏直兄弟が「昨日」滝川の陣に走入ったとあります。また、新庄直友が同じく浅野殿に7日に出した書状にも、兄弟は「一昨日」投降したとあります。

どちらも時間までは書かれていませんが、氏直が投降した5日というのは5日の夜半だったかもしれず、6日早朝も同じようなものなのでこれも置いておくとして。


氏直は最初に家康と会ったのでしょうか?滝川の元へ最初に行って、そのあと滝川殿が家康の元へ連れていったのかと思っていました。

氏直の投降先は、直政の書状にも、新庄直友の書状にも、「羽柴下総陣」とあります。滝川雄利の陣のことです。最初に家康の元へ行ったけど、家康が秀吉を気にして滝川の元へ行かせたとは、それって、どこに書かれているのでしょう?知りたいです。


もしかしたら氏直は、夜陰、密かにお義父さんの家康殿の元へ行き(もしくは、投降の旨の書状を出し) → 投降について相談し → あらためて投降という形をとって滝川の陣へ降りた…

なーんてね。妄想。


(『北条氏直』に掲載されている論考は昔のもの 1980-90年代 が多いのです。最新の研究ではないのかな…。)


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~現代小田原城天守下に咲くヤマユリ(数年前に撮った)~


さてタイトルの「開城日」とは何をもってするか?です。


確かに、6日から徳川勢が城にドカドカと(←含むマリコ・ポーロの私情)入り始め、家康が入城し城を受け取ったのは7日です。

だから、5日(6日早朝?)は当主が降伏をした日で、受け取り人に正式に(?)引き渡された日、つまり7日 を本来は「小田原開城の日」と言うのだろうか?


江戸城の「開城日」は、慶喜が城を出た日ではなく、慶喜が降りた数日後の東征軍(大総督府とも言う)が正式に城を受け取った日を言うようですね。会津若松城は…容保公が投降した日と開城日は同じだったかしら?

細かいことにこだわって、あいすまぬ。


氏直が降りてすぐに家康が城に入っていればややこしくなかったのに。何を1日半も、もったいつけていたのだろう?

自分が入城する前に、榊原殿たちに城内のお宝をゲットする時間を少し与えたとか?いや、当主とその弟が城を出たばかりで城内は混乱状態。それを少し鎮めさせるために1日半必要だったのか?


いやいや、家康殿は以後も北条氏直にとても心を砕いてくださいました。だから別にもったいつけていたのではなく、続けて氏政さまが投降してくるのを待っていたのかな…。

氏直は家康の娘婿です。命永らえていれば、徳川の元でもっと出世できたでしょうに。惜しまれます…。


🐱 以下、山盛りになっってしまった7月5日のブログ記事の一部です。恐縮ですが、URLがるものはそちらを、無いものはタイトルをクリックでお願い致しまする。

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「北条氏直の投降は、走ったのか?」

「天正18年7月5日「小田原開城」 アーカイブ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-c464.html

「北条氏直、最後の当主の 『最後の朱印状』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html

「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-adb2.html
「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「天正18年、そして小田原は囲まれた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-918d.html

「北条氏直の正室「督姫」の母の墓」
「今日は、428年目の小田原開城の日(2018)」

「北条一族の高野山 3 「小田原坊」」

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「堀秀政の小田原の墓」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bf85.html
「「関白づくし」の石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-ab53.html

「天正18年の「石垣山一夜城」を歴友と歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「石垣山で歴友たちと天正18年を偲んだ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e888.html

「小田原攻め、徳川方の陣場めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5964.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年6月30日 (火)

後編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~心源院の桜、空襲をうけたのに毎年花を咲かせる~


卜山和尚とは、我らが北条氏照の師であった方です。
昨日の「八王子城落城~氏照への傑僧「卜山禅師」の想い」の続きにござります。


▲ 北条氏照、死してのちの卜山(ぼくざん)和尚

天正18年7月11日、氏照、兄氏政と共に小田原で自刃。


それ以後、卜山和尚の行動に変化が起きたそうです。「外に出掛けても東西無方。到着した処が住まいとなった」と。
…坐って国の興亡を退け己の分を守る…よくよく看れば世の中のことは夢の中の習い事…雲は南へ、水は北に、思いのまま静かに遊んでいる(抜粋)…
と。

その年の秋、卜山は小津(八王子からあきる野へ向かう方面)の山中に移り、門を閉ざし、訪ねる者にも会わずしばらく暮らしましたが、翌年、新装なった宗関寺に迎えられます。それから卜山は、5つの寺を開山するのです。


そして、なんと…(←また💦)
卜山 94才の時、遊行の旅を始め、上野、下野、下総、鎌倉、修善寺などを訪れるのであります。

ドびっくり~。でも、示寂までは26年もあります。まだまだイケルイケル(←大和尚に対してなんという物言い、無礼者!)。


卜山ゆかりの 心源院や宗関寺は徳川からも大切にされたようです。家康からも寄進を受けますが、114才の時に秀忠に江戸城に招かれます。しかし病のため登城しませんでした…

と記録にはありますが、徳川に会いたくなかったんじゃないの?(マリコ・ポーロ妄想)


120才の10月。
卜山は病になります。あちらこちらから見舞いの人々が訪れ「市のようだった」そうです。

10月26日。
卜山は沐浴浄髪。衣服を整え、坐定。衆徒を集め涅槃に入る旨伝える。辞世の偈頌をしたためたのち、筆を投げ、抜け殻のようになって示寂。

最後も見事です。


▲ 氏照によせる、卜山和尚の想い

氏照の法名「透岳宗閑居士」は、卜山和尚にいただいたものです。

卜山が残した言葉には、「青」とか「青い空」とかがたびたび使われています。「青空」とは悟りとか真理の暗号だそうです。


ある時、氏照は卜山に「犬に仏性ありやなしや!」と問われます。

我らが照は、「幾重にも重なる関を透りぬけ、青空の裏にも留まらず」と答えたそうです。

卜山は、「うむ!でかしたっ!」ポンッと膝を叩いたかどうかは見ていなかったので知りませんけど、それで、この法名を授けたそうです。


悟りのカケラもないマリコ・ポーロには、さっぱり意味が分かりまへんが、卜山和尚は、ご自身が大事にしている言葉を氏照の法名にしたのですねえ。


卜山和尚のことはまだまだあってとても書ききれないのでこのへんにさせていただきますが、このブログは、宗関寺の『卜山大和尚の行実』と『遺誡』を元に「卜山講」の方達が出版した『八王子の名僧 卜山』を参考にさせていただいております。卜山和尚の教えにご興味ある方は是非そちらをご覧くだされませ。

最後に…


氏照の弟の鉢形の氏邦のことで、旧八王子城を守る会の御大が教えてくださったことがあります。

戦後、卜山が写した、敵方が書いた鉢形攻めところを読むと、氏邦を悪く書かれた箇所がカットされていたそうです。御大は、「卜山は、そこを写すに忍びなかったんだろうねえ…」とおしゃいます。

そのコピーを見ながら、しみじみと感じました。卜山和尚は、氏照のことだけではなく、北条やその時代を本当に思っていてくださったんですねえ。


🐎 卜山和尚と心源院を書いた記事の一部です。松姫様のことも。

「北条氏照と、八王子城の神や仏 その1」
「北条氏照と、八王子城の神や仏 その2」

「武田遺臣のマドンナ 「松姫さま」」
「麗しき、武田の「松姫さま御坐像」」
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年6月29日 (月)

前編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~『八王子の名僧 卜山』卜山講~。表紙は八王子雲龍寺さん先代御住職が建立された、「楢の里」にある卜山像。~


♪ ズビスパー
パパパヤ~

違う…それは 左卜全


とはいえこの歌は、学生運動や激増し始めた交通事故の被害者は老人や子供だという意味を込めたメッセージソングだったんですよね~。歌詞に「ゲバゲバ(ゲバは学生運動のこと)」とか「ジコジコ(事故)」とか入っていますでしょ。だから「たすけて~」なんですよね。

って、古くて皆の者は何のことだかトント分からないであろう💦


話を本題に。

卜山(ぼくざん)禅師 とは

名は「随翁舜悦」。号が「卜山」。

我らが北条氏照の師であります。そして、八王子に逃れてきた旧武田家臣達のマドンナ 松姫様を得度させた方でもあります(文末添付)。


八王子の楢原の農家に生まれ、出家したのは13才の時だそうです。塩山、京都五山、安来、博多、越前永平寺、三河、遠江などの名刹で修行をされ、35才の時に八王子に戻りました。

戻ってからは、八王子城の搦手に位置する 心源院 に住し、氏照の宗関寺はじめ、あまたのお寺を開山した大和尚です。

パパ氏康から小田原へ招かれ戒を授け、時の正親町天皇からは二度にわたって褒賞を拝受。「仏国普照禅師」の称号も賜っています。


記録によると、和尚は、老いてからは髪を剃らず、お髭は白く胸まで垂れ下がり、「眼光鋭く常に人を射竦めるようであった」そうです。

前にも書きましたが、戦国武将の子供たちには必ずお坊さんが師としてつきますよね。師は、仏道のみならず学問、そして人生も教えていきます。御曹司だからといって甘やかしたら、将来国を率いるその子達のためになりません。

源三クン(氏照)が卜山に師事したのは、大石に入った15-6才の頃。「眼光鋭く」「人を射竦めるよう」でないと、源三クンのような強気の少年(たぶん)は導いていけませぬわ。


しかし和尚はただ怖いだけなのではなく、雑り気の無い真心を持ち、語り口は穏やか。教えを継いで盛んにしたので「人々は、古仏の仲間として生まれてきたのだと称賛した」と記録に残っているそうです。


そして、なんと…

和尚は、身の丈7尺!
つまり2m超。
風魔小太郎も、ドびっくり~。


そのうえ、なんと…
120才 示寂!
実に法職にいらしたのは、107年間!

永正4年生まれの、寛永3年没。徳川家光の時代までご覧になったのですね。
見事です!


▲ 臨戦態勢の八王子城と卜山和尚

氏照開基の宗関寺を開いた7年後、卜山は再び心源院に戻り、氏照の求めにより住職となっています。67才の頃です。その16年後、遠江の名刹「石雲院」に輪番の住持として赴任しています。そこでも法話は大盛況だったそうですが、なんとその時83才!

ま、でも他界するまではあと37年もあるわけですから、まだ全然バリバリ現役。


それが天正17年のこと。八王子城が落城し、小田原北条が滅びるのは翌年夏のことになります。

記録によると、卜山は天正18年の1月初め、遠江石雲院を去り牛頭山、つまり宗関寺に戻っています。すでに本城はじめ、八王子城や北条支城群は臨戦態勢。徳川家康を先鋒とする西日本エリアの豊臣軍は、山中城や韮山城に向かって出立する頃です。卜山がいた遠江なぞは当然その真っただ中だったでしょう。


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~現代の宗関寺土塁の上から~


和尚は遠江を去るに際して、
…(石雲院を)退去の理由がなにか有るわけではない…ただ退去はしなければならないのだ。竹林が川の流れを妨げないように、白雲は山が高くても妨げられずに飛んでゆく
と自らの心境をおっしゃったと記録にはあります。

これはお坊さんとしての言葉であって、本当の気持ちは、前年11月に秀吉から宣戦布告された北条や八王子や氏照のことが心配で戻ることにしたのではないかな~と思ったりもします。


卜山は、八王子に戻る道中に小田原に寄って氏照に会ったでしょうか。

氏照は1月17日に猪俣へ「小田原城の大普請に大わらわで、秀吉体制を固めるために指揮をとっている」と手紙を出していますから、体調が悪いとはいえまだ病に伏してはいなかったはずです。

会えていたらいいな~と思います。


▲ 八王子城落城と卜山和尚

宗関寺の記録には、八王子戦の真っ最中の中山勘解由と卜山の話が伝わっていますが、このあたりは私には良くわかりません。

ただ、寺は「城と一緒に兵火を被って焼失した」とあります。卜山和尚はいったんどこかへ避難していたのでしょう。


▲ 氏照が死してのちの卜山和尚と、氏照への想い、そして氏邦のこと

明日に続く…


🍸 これほどの
大和尚なのに、卜山和尚についての記録はほとんど無いそうです。以上は、宗関寺の『卜山大和尚の行実』と『遺誡』を元に「卜山講」の方達が出版した『八王子の名僧 卜山』を参考にさせていただきました。

卜山和尚の教えにご興味ある方は是非そちらをご覧くだされませ。


🐎 卜山和尚と心源院を書いた記事の一部です。松姫様のことも。

「北条氏照と、八王子城の神や仏 その1」
「北条氏照と、八王子城の神や仏 その2」

「武田遺臣のマドンナ 「松姫さま」」
「麗しき、武田の「松姫さま御坐像」」
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫」


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2020年6月25日 (木)

今日6月25日、津久井城開城す

マリコ・ポーロ

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~城から眼下に望むのは現在の津久井ダム、かつての相模川である。~


内藤氏の「津久井城」はかつては甲斐への最前線の城として、小田原北条終焉まで重要な支城のひとつだった。

天正18年4月、津久井衆は中郡白根に駐屯していた豊臣勢と一戦に及ぶも、6月25日、徳川勢の本多、平岩、鳥居らに攻められ開城する。


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~居館跡で行われた「開城祭」でのワンシーン~


津久井はそれまで北条と武田の両方の支配をうけていました。武田滅亡後は北条下にいましたが、それ以前より北条の方ではかなりの貫高を得ていたようです。

しかし北条のコントロールはなかなか効かなかったようで、本城から山角殿が見張り?お目付け役?として派遣されています。


最後に城を守った綱秀(小田原にいたとの説もあり)は戦後消息不明だそうですが、息子の直行は本城小田原に詰めています。北条氏直に従って高野山へ随行し、許された後は前田へ仕えることとなります。

加賀前田…鉢形の北条氏邦と一緒だね。


そうそう、津久井城で狼煙をあげて八王子城から見えるかどうか、以前(今もかな?)やってみたことがあります。私は行かれませんでしたが、八王子城の松木曲輪からシッカリ見えた写真をいただきました。

ご許可を得ていないのでここにアップできないのが残念です。


津久井内藤家については不明なこともまだあり、マリコ・ポーロにはとても調べきれまへん。現代の津久井城では「津久井城開城記念の日」はじめ様々なイベントが盛んです。また、城跡からはたくさんの遺構が出てきています。

こちらをご覧くださいませ。→ 津久井城ホームページ


🐎 北条&武田師匠である武将さん達が出陣する合戦劇を観戦した時の従軍レポートです。しばらく行ってないな~。懐かしいです。

「報告!津久井城開城記念~攻防戦(2012)」
「第2回 津久井城開城祭~合戦劇、従軍レポートでござる(2013)」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年6月23日 (火)

コロナ下の八王子城落城日(6/23)

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~八王子城から出土した琉璃釉椀。この兎さんは、現代の八王子城のマスコット。~


先日、戎光祥ヒストリカルセミナーで黒田基樹氏の講演がありました。マリコ・ポーロは自粛解除がまだ怖いので参加しなかったのですが、もれ聞いた中に氏照のことで興味深いことがありました。

また聞きなので正確ではありませんが、「氏照文書の筆跡が氏政文書と同じ」というお話しがあったようです。いつの頃の、どのあたりの文書かは定かではないですが、『伊達文書』にあるそうです。


それは氏照が病気療養中のことで、兄上氏政が代わりに氏照の名前で発給。だから氏政の祐筆が書いたのでは…と思ったのですが、そういう単純なことではないようです。

北条師匠に伺ったところ、本城からの指示書として本城祐筆が書いて氏照にまわり→氏照が花押を入れ→発給される、みたいな?北条家はそういうシステムだったのですかね。いや、北条家に限らず組織が大きな大名家はみなそうだったのかな。


うぅぅ。聞きたかったです…。


さて、八王子城のこと。

八王子城落城の日のことを毎年書いてきて、これが11回目になります。毎回同じようなことを書いていますが、法事というものはそういうもので甘~い目でご覧くだされ。

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~サイハイ蘭~


八王子城の激戦地だった曲輪跡に、ちょうど落城した月に咲く花がある。花の名は「采配蘭(サイハイラン)」。

「采配蘭」はそれほど珍しい花ではない。山林に自生し、花は6月頃に咲く。丈は30~40cm。 小さく細長い薄紫色の花は、茎の半分から上に房のようにたくさん付き、その名の通り戦の時に大将が振る采配に似ている。


天正18年3月1日。
秀吉が京を出立。北条征伐は始まった。

北条支城群は次々と降伏、無血開城。これではいけない、見せしめの城が必要だと考えた秀吉は、氏政の片腕である氏照の八王子城を落城させるべく徹底抗戦を命じる。


6月23日。
敵味方あまたの犠牲を出し、戦国史に名を残す凄まじい戦いは終わった。

八王子城は、徳川に禁足地とされ長い眠りにつく。


それから四百年あまり後、発掘調査により「関東一の山城」と称されるにふさわしい見事な石垣の大手や庭園が姿を現すことになる。


毎年6月、私たちは供養のために八王子城を訪れる。

不思議な形の花「采配蘭」が群れ咲いている光景は、ここが現世でないような感覚にさせられる。まるで、この城で果てた城将達が、今でも無念の采配を振り続けているようだ。


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~八王子城の大先達、故小松敏盛氏が郷土博物館に寄贈された遺物~


毎年、旧暦6月23日には城へ行き冥福を祈っておりました。しかし、東京都は感染者がまだ多いです。感染拡大防止のため、今年は家で八王子城に想いを馳せたいと思います。

合掌…


🐎 愚痴

2月中旬にコロナ禍のため集いが無期延期になって以来、4ヶ月も家族以外と会話というものをしておらず、北条支城群は都外(葛西と江戸以外)のため登城も出来ず。海はおろか、空も山もトント見ておらず(都市部の人は皆そう?)、なんだかドヨ~ンとしている今日この頃。

来月再開が予定されているいくつかの講座も都外。参加しようと考えていたところで、東京都は再び感染確認者が増えてきました。講座は屋内。東京から参加したら他県の方達に悪いかな~と思うので暫くは遠慮しようかと、再びドヨ~ン。


マリコ・ポーロ、その状態はちとヤバイぞよ!
少し北条成分を注入せよ
仍如件

 from 北条氏照&氏照の花押
 (実は from 北条氏政)


🐎 自粛中に始めた、もうひとつの花ブログに八王子城の花草木のことを書きました。
「八王子城に咲く①~天南生」
「八王子城に咲く②~鱗木・細葉鉄蕨・鬼女蘭 」

🐎 この10年で書き綴りまくった氏照についてのブログ記事の一部です。よろしくば。
恐縮ですが、URLがるものはそちらを、無いものはタイトルをクリックお願い致します。

・発掘調査
「八王子城、現われた2つの石垣群」

「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8c21.html
「報告▲八王子城の発掘調査見学会」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cac0.html

・落城まで
「今日、鉢形は落ちた」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-6379.html

「八王子城落城、氏照の残・念」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-4eae.html

「今夜半、八王子城総攻撃始まる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/420-9797.html

「今日、八王子城 落ちる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0e49.html

「八王子城、戦い済んで日は暮れて・・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-1bb4.html


・色々
「北条家ホームドクター田村先生の、日野「安養寺」」
「天正18年の供養~氏政・氏照墓前祭と八王子「相即寺」」

「八王子城~落城忌その1 チョット怖い?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6bb4.html
「八王子城~落城忌 その2 幻庵の一節切はこんな音色?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-3914.html
「八王子城その1北条氏照 夢と覚悟の城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-c46c.html

「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cfde.html

「東国の武将達に回覧された、氏照の謙信宛て脅迫状?」

「北条氏照の悩める存在‘上杉謙信’と景虎さん」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-9b26.html
「北条氏照が上洛してきたらヤバイぞ by 三成」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-53e1.html

「約400年ぶりに八王子城へ戻った横地監物」
「滝山城の講演会 「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候」」
「北条氏照と太田資正(三楽斎)は義兄弟!」

・番外編
「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html
「城跡の幻影~八王子城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-75cf.html

・追悼
「椚國男先生」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-80b8.html
「北条氏照に会いに行かれた八王子衆」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-072c.html
「「八王子城とオオタカを守る会」が終わりました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-bc9f.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年6月16日 (火)

⑨大河「太平記~宿命の子」と、金沢氏の称名寺

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~金沢文庫「称名寺」~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…。


その前に、2つ✌

▲ 峰岸純夫先生の新刊

『中世鎌倉盛衰草紙 -東国首都鎌倉の成立と展開-』歴史探訪社
7月31日発売予定だそうです。

峰岸先生は我らが北条氏照の「旧八王子城を守る会」の会長でしたが、ご専門はこちらなので楽しみです!


▲ 北條九代
先のブログ記事 「④ 大河「太平記~帝ご謀反」と、北条家はなぜ将軍にならなかったのか?」に、宝戒寺入口の碑にある「北條九代 頼経」の意味が分からないことを書きました。

細川重男氏の『鎌倉幕府の滅亡』を再読していて、「北條九代」の意味だけは分かりました。

皆さんはとっくのとうにご存知だったと思いますが、北條九代=北條得宗家 を言うそうですね!時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時 の9人で九代ですか。こんなことも知らなくて恥ずかちぃ💦

少しだけスッキリしましたが、頼経さんはいにゃいので、丸々スッキリとはしない…。


さて、大河「太平記」。
録画した⑥話~⑩話まで一日一話、毎日観ました。どっぷり太平記の一週間になってしまいました。

ドラマはまだ⑩話なのに内容は盛りだくさん。楠正成や大塔宮の登場、尊氏と登子さんの結婚、パパ貞氏の死去、尊氏様の家督相続、金沢殿の執権就任と辞職、赤橋殿の執権就任、そして、ジジ家時の置文…などなどなど。

大塔宮は、昔は「だいとうのみや」と言いましたよね~。今の「おおとうのみや」には未だに慣れず、つい「だいとうのみや」と言ってしまいます。


太平記の時代はまったく詳しくないので気になることばかりなのですが、こたび特に気になったのは金沢(かねさわ)貞顕のことです。大河「太平記」は何度が観ていますが、今まで金沢殿を気にしたことはありませんでした。

「太平記」は昨今の大河ドラマとは違って登場する人が厖大な数で、何度観てもそのたびに興味の対象が変わります。面白いドラマですね。


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▲ 尊氏の家督相続

ドラマでは、パパ貞氏が存命中に尊氏の家督相続がありました。

しかし実際は、パパは死ぬまで家督を尊氏に譲らなかったようですね(『足利尊氏』森茂暁)。


先のブログにも書きましたが、尊氏には 21才で亡くなった、8才年上の腹違いの兄上がいます。兄上の母親は、北条一族金沢氏の娘で、今回気になった金沢貞顕の妹です。

そんな華々しいバックを持つ兄上がいたのでは、尊氏は弟くんの直義たちと十羽一からげ(十羽もいなかったと思うが)、その他の子供達として幼少~少年期を過ごしたことでしょう。


パパ貞氏は、病(物狂諸労)ゆえか、先代北条貞時死去ゆえかは分かりませんが、すでに出家・隠居していました。ところが、兄上が亡くなった後も、尊氏は家督とはなりませんでした。病だったパパがカムバックするのです。

55才でパパが亡くなり、尊氏さまはやっと当主となりました。


珍しいですね。何がこうさせたのでしょう?
何故ですか?


▲ 称名寺と金沢文庫

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~称名寺と現在の金沢文庫を繋ぐ隧道。中世の頃は西側と東側と二本あったそうで、こちらは西側。マリコ・ポーロ的には称名寺の一番の魅力スポット。~


称名寺は、金沢北条氏の本拠地、六浦荘金沢郷(横浜市金沢区/金沢文庫駅)にある、金沢北条氏の菩提寺です。

北条義時の孫実時の屋敷にあった持仏堂が元で、そのまた孫、つまり今回の気になる貞顕の時に七堂伽藍を構えた大寺院となります。


金沢文庫がいつ出来たのかは定かではないようですが、実時の時代には書物蔵のようなものはあったようです。

気になる貞顕の代にかなりの蔵書が集まり、これも前に書いたことの繰り返しで恐縮ですが、それらは、後に我らが小田原北条や秀吉や家康がゲットしていくことになります(アリャリャ💦)。


称名寺の隆盛や文庫の充実だけから見ると、気になる金沢貞顕殿は素晴らしい人ですね。学識もお金もあり、連署であり、六波羅探題も努めているので、実行力もあるように思えます。

得宗北条高時は心身ともに病弱でした。貞顕が高時を心配して、周囲の人達に出した手紙などが残っています。高時が出家した時も、自らも出家したい旨を申し出ますが、逆に、次の執権になってちょ…と言われてしまうのです。


貞顕は10日で執権職を辞します。貞顕殿、良かったですね(え?)。

優しい方のようですが、なんとなく優し過ぎる方のようにも思え、ドラマで児玉清さんがとっても上手く演じてらっしゃるように思いました。


ドラマでは、高時から金沢貞顕への執権交代は割とすんなりと「押し付けられて」決定していましたが、実際はそうではなく、金沢オシの長崎一派と、高時の弟オシの高時ママ&ママの実家一族安達たちとの間でお決まりの跡目争いが起きています。

また、高時が暗殺しようとしたのは長崎円喜ではなく、その息子の高資ですよね。


世にいう、嘉暦の騒動です…
と書きながらも、よく「世にいう〇〇である」と言うのを聞いたり読んだりしますが、世にいう、世にいうって、知らないよん!ってえことが多いのはマリコ・ポーロだけ?


話がそれてしまいましたが、その「世にいう」嘉暦の騒動については、マリコ・ポーロなぞよりずっと詳しい方達がたくさん書いてらっしゃるので、それらをご覧いただくとして。ドラマの中で尊氏さまが登子さんに言った、「北条はもう終わりと思う…」はこのへんの騒動のことから言わせた台詞なのでしょうかねえ。

こんな中で、登子さんのお兄さんは執権になったのですね。


称名寺はいいお寺ですよね~。背後は山なのに開けた感覚で、白水阿弥陀堂に似ていると思いました。ご近所の方は、自粛中でも散歩にこういうところを歩けるから羨ましい。


これを書きながら「じゅん散歩」をチラチラ観ていたら、金沢文庫でした!ドびっくり~。じゅんちゃんはフェイスシールド。説明する先生はリモート出演。そんな世の中か…。


🍸 金沢文庫の記事

「瀬戸神社展と金沢文庫」
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

🍸 大河「太平記」の記事

「①大河「太平記 父と子」と、北条高時のこと」
「②大河「太平記 芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」
「④ 大河「太平記~帝ご謀反」と、北条家はなぜ将軍にならなかったのか?」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


🌼 もうひとつの 花ぶろぐ「萩よりほかの花も見るべく」に尊氏様の菩提寺のシャガや鮫ヶ尾城のカタクリのことなぞ書きました。ついでにご覧いただければいと嬉し。

「足利尊氏の菩提寺に咲く~射干」
「越後鮫ヶ尾城~かたくり」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年6月11日 (木)

北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻

マリコ・ポーロ


シリーズ 北条五代の娘たち
【三代北条氏康の息女~今川氏真室】

 

宗瑞の娘、二代氏綱の娘、と順番に足跡を辿ってきましたが、3年前の大河「直虎」の時、今川に興味が飛んでしまったので、氏康の娘で氏真に嫁いだ早川殿のことを割り込みして書いてしまいました。

氏綱の娘が終わり次は氏康の娘になりますので、順番を直しました。ゆえに、以下は3年前に書いたものにてござりまする。娘たちの記事は、すでに⑧までアップしております。


Photo
~今川氏真・早川殿夫妻の終いの棲家跡を、向いのスーパーから俯瞰した。現在の東京都品川区の大井町駅あたり。今はなんの遺構も碑もない。~


先年からヨロヨロと追い続けている「北条五代の娘たち」。早雲こと伊勢宗瑞の娘達に始まり、ただ今、二代氏綱の娘達の途中ではありますが、ちょっと順番を割り込んで、大河で旬の今川氏真室 早川殿 のことを思ってみました。


早川(早河)殿
パパ: 北条三代当主氏康
ママ: 瑞渓院(父・今川氏親/母・寿桂尼/兄弟・今川氏輝、彦五郎、義元)

兄弟: 氏政、氏照、氏邦、氏規、上杉景虎
姉妹: 七曲殿(綱繁室)、千葉親胤室、長林院(岩付太田室)、浄光院殿(足利公方室)、桂林院殿(武田勝頼室)

などなどの他に、イトコやなにやらで父氏康の養子女となった義理の兄弟姉妹まで入れると、ウジャウジャウジャウジャ。早川殿は、それらの長姉と考えられています。


北条の女人たちは、嫁ぎ先が滅びたり同盟が崩れたりしてもすぐに実家に戻らない方が多いですね。帰れと言われてもガンとして戻らなかったり、遠国へ渡ったり、夫君と共に命を絶ったりする女人が幾人か浮かびます。前にも書いたかもしれませんが、それは何故だろうと考えることがあります。

相手への情愛が深い情熱型の女人が多かったのか。はたまた、細かくて窮屈な北条(そうなのか?)に比べると、嫁ぎ先は居心地の良いところだったのか。それとも、北条には戻り難い雰囲気があったのか…いや、幻庵大伯父が引き取り後は後見となって面倒をみてくれるので、それはなかったと思いたいですよね。


北条家には、その幻庵殿が娘を吉良氏朝(頼康の次代)へ嫁がせる時に渡した、他家への嫁入りの心得書 『北条幻庵覚書』というものがあります。

やはり、その教えが、北条一門の女人達には根付いているのではないかと思うのです。


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~『北条幻庵覚書』 永禄3年12月16日


放映中の大河ドラマ「直虎」に出てくる、今川氏真の正室 早川(早河)殿 も、そんな女人たちの一人です。

氏真や早川殿のことは以前にたくさん書きましたので、そちらもあわせてご覧くださると助かりまする(文末に添付)。


上にも書きましたが、早川殿は、我らが氏政や氏照たちウジャウジャ兄弟姉妹の、一番上のお姉さんだとされています。つまり、早川殿が子供だった頃はまだ北条の初期です。

伊勢宗瑞の質実な暮らし方を色濃く受け継いだ小田原や、領地争奪の戦の日々に明け暮れる東国から京の香りに溢れた駿府へ入った 16-7歳 の少女にとって、嫁ぎ先はどれだけ華やかに見えたことでしょう…たぶん。


猛々しい戦国武者や超ワンパクな弟達(そうか?)を見慣れている身にとって、氏真や義元や今川の側近たちはどれだけエレガントに見えたことでしょう…たぶん。

なーんて、北条の曽祖父の実家の伊勢家は京の将軍家の取次ぎの家。母上は今川の出。それほど粗野で野暮ではなかったはずですが、それでも、今川はきらびやかで アカデミックに思えたことだろうと想像します。


寿桂尼は御祖母様。大叔母の長松院(宗瑞娘)も重臣三浦家にいますし、弟クンの氏規もすでに駿府にいたでしょうから、心細いこともありませんしね…たぶん。

(とんだ見当はずれだったらゴメンナチャイ、早川殿


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~氏真や早川殿が一時過ごした小田原の早川。早川は、小田原市街から川(早川)を渡ったところ。石垣山城の麓の漁港である。~


今に伝わる氏真の評判については、その後駿府の主となった徳川家が「前の領主はこんな情けない人間だったんだど~。それに比べて今はとてもいいでしょ~」と思わせるために作り上げたものだという説もあります。しかし、当時の信玄殿はじめ周辺の武将たちの人物評を聞くと(?読むと)、やはり、戦国時代の武将には向かなかった方だったような気が私はします。


氏真が武田によって駿府を追われてからの流転や、北条氏政の息子(氏直)に「今川」の名跡を譲った(後に返してもらった)ことなどは皆さまご存知の如くですが、夫妻一行が難民となって小田原へ来た時、なぜ城内エリアではなく、川の向こうに彼らを置いたのかがずっと気になっています。

① ただ単に、夫妻の屋敷を城内エリアに建築するまでの仮住まいだっただけ。(完成する前に出ていった。)

② 人数が多くて、城内エリアに高級難民キャンプとするに適した場所がなかった。

③ 早川は幻庵の管轄地。北条の出戻り組は幻庵が後見担当だったから、自然の流れで小田原に一番近い早川村になった。

④氏政さまが、城内エリアに置くことを嫌がった。もちろん、個人的好き嫌いではなく政策的理由で。


氏真夫妻が小田原を出ていったのは、北条が再び武田と結んだことにより、ここにいては今川の再興は有り得ないと考えたからと言われています。それもあるとは思いますが、「あとの人生、このひなびた漁村(当時のことよ)で一生を終えるのか…。」と、どよ~ん ↓ としてしまったのかもしれないですねえ。


ほな、こたびはこれまでに。


「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

 

「駿府 「臨済寺」の特別公開」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
「今川時代の駿府~吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html


今までの北条五代の娘たちの記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「浄心院は三浦道寸の娘か北条氏綱の娘か? 」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html

「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html
「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html


萩真尼ことマリコ・ポーロ


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2020年6月 4日 (木)

北条氏直の正室「督姫」の母の墓

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~覆屋の中、蓮葉院殿の御塔婆があがっている~


その前に、いただいた矢文のこと。
6月23日の八王子城落城にちなみ、八王子FMで2回連続「北條氏照伝」が放送されるそうです!
日時:6月5日(金)17:00~1710
インターネットでも聞けます!

原稿は氏照研究の第一人者である加藤哲先生です!←これがいいですよね~
八王子エフエム「八王子とんとん昔語り」

同じ都内ですが、今年は行けないね…


さて、本題。

督姫の母。
それは家康殿の側室「西郡局 にしごおりのつぼね」のこと。
つまり、北条氏直のお姑さんにあたる方です。


先の『麒麟がくる』に、鵜殿一族当主で西郡城主であった鵜殿長照が出ているとの情報をもらいました。土曜日の再放送を観てみようと思います。

なぜかと申すと‥


先日、五反田で高齢親の持病系用事を済ませた後、近くの星薬科大学の裏手に「長應寺」というお寺があることをフト思い出しました。

督姫の母 西郡局 は鵜殿一族のお嬢さんでした。局のお墓/供養塔が「長應寺」にあると、前に区の方から伺ったことがあったのです。枯渇している北条成分をほんの一滴でもいいので(本当に一滴だ)注入したく、お参りに寄りました。


▲ 鵜殿氏

西郡局の父鵜殿長忠は当主長照の弟で、局は鵜殿家当主の姪ということにされています(諸説あり)。

たぶんドラマでも描かれていると思いますが、鵜殿家は今川の家臣です。氏真の代になってから、当主長照とその他の一族とは別の道を選んだようです。当時よくあるお家存続のためかどうかは私には分かりませんが、長照は今川に残り、西郡局の父長忠たちは松平(家康)についたということですかね。


と、知ったようなことを書いてはおれど、マリコ・ポーロ 鵜殿氏という名前は聞いたことがありますが、個々の人物についてはまったく無知です。長照殿は、永禄5年に松平に攻められて討死されているようですね。

鵜殿氏の名前だけは聞いたことがあるというのは、その時に捕虜となった長照殿の子息たちが、例の、築山殿との人質交換となったからです。その後、子息たちも松平についたようなので、局と家康殿との縁もこのあたりから生まれたのでしょうか。


だからドラマで長照殿が出演されたのですかね。ということは、今後、ドラマに西郡局が出演する可能性もあるかもしれません。いつになるか分かりませんが…

前回のBS3 大河ドラマアンコール「葵三代」では、西郡局もチラッと出演していましたよね!家康殿だったか秀忠殿だったかの御前に数人の家康殿の側室たちが並び控えているシーンでした。

岩本多代さんという、当時たくさんのドラマに出てらした方が演じられていました。お顔を見たらたぶん誰でも知っている方です。静かで上品な控えめな感じの女優さんです、私の西郡局のイメージはこの方になってしまっています。


徳川さんにはあまり興味がなく(好きな方ゴメンナチャイ)、今川は好きですが鵜殿さんまでは興味の幅は広げられないので、鵜殿氏についてはこのへんまでにしてたもれ💦。


▲ 西郡局の肖像画

鵜殿氏菩提寺「長應寺」というお寺は時代の変換で三河から江戸、そして江戸でも火災などにより何度か移転してるようです。再建には西郡局が尽力しています。

これについては本筋とは離れ、その上長くなるので割愛しますが、興味がある方はお寺関係のネットで検索してくだされ。たくさん出てきます。「長應寺」は、今は北海道幌延町と東京の品川区とに2寺あるようです。


その中で、なんとなんと、局の肖像画を発見しました!それは、幌延町のFBにありました!

幌延町の「長應寺」の法要で毎年公開されるそうです。そこには、葵の御紋の長櫃や、お着物もアップされていました。これらは、鵜殿氏の誰かが家康殿から賜ったものでしょうか。それとも、西郡局が賜ったものでしょうか。


局の肖像画が当時書かれたものかどうかは私には分かりませんが、公家のお姫様のようです。もちろん、美人にて候!

そこには
「東照宮御内所 鵜殿長忠公姫君 蓮葉院殿日浄 慶長11年丙午歳五月十四日寂」
とありました。


▲ 西郡局のその後

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~品川区の長應寺~


局が亡くなったのは慶長11年。お嬢さんの督姫様の没年が慶長20年ですから、娘よりは先に天に召されたのですね。良かったです。

葬儀の施主は、娘の督姫が氏直亡きあと再婚した池田輝政がつとめたとのこと。局はほぼ伏見城で暮らしたとありますし、京都の本禅寺に葬られたそうなので、亡くなったのも伏見城のようです。喪主を娘の夫がされたということは、子息はいなかったのかな。


鵜殿家は大久保家とも縁戚関係があり、我らが本城小田原にも所領がありました。

鵜殿氏まで興味の幅を広げられないし(クドイ💦)、なにより、西郡局へのエレガントな妄想からはずれてしまうのでそれを書くのはやめておきますが、ご興味ある方は小田原「妙了寺」のHPなどをどうぞ。


小田原には家康殿の側室ゆかりのお寺が多いのにもチトびっくりです。


▲ 品川区の「長應寺」にて

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~門の上には変わったものが。イグアナ?なわけない。~


立派なお寺で、墓地の一角には鵜殿家の巨大な墓石が建ち並んでいました。


伺う前にお寺さんに、檀家ではないが勝手に墓所に入っても良いかどうか確認したところ、「どうぞどうぞ、入ってすぐのところに局の墓石がありますよ」とおっしゃってくださいました。

ところが分からにゃい。


いつも、どこに行っても見つけるということが出来ないマリコ・ポーロ。墓所をウロウロしていたところ、お仕事中の造園の方達が気にしてくれて(怪しかった💦)、「宝篋印塔なら一番奥に江戸時代の立派なのがたくさんあるよ」と。

「それは鵜殿一族の墓石群で、お局様のもそこにあるのかしら…?ひとつひとつジーッ見て探すのチト怖いけど、もう一回見てきます!」


タッタカタと走り出したところ…

「そこの(と覆屋を指し)、小さい宝篋印塔みたいなのは?奥のよりは古そうだけど…」
と、親方。

見ると、他の墓石の後ろにあったので気が付かなかったお墓が、こじんまりと、いかにも女人のお墓っぽく建っていました。


これかな~、それっぽいな~、どうかな~。急に思い立って来たので法名も分からない…。
「ちゃんと調べてまた来ます。ありがとーござる」。

「いったい誰のお墓なの?」と親方。

「家康の側室のひとりで、小田原の北条の当主の正室のお母さんなんです。では、お去らばえ~。」


門を出たところで、遠くから、
「奥さーーん、奥さーーん」と親方の声。

最初はお寺の奥様でも読んでらっしゃるのかと聞き流しておったら、親方が手を振ってらっしゃる。ワテ?どう見ても「おじょうさん」ではないし、「おばさん」とも呼べないでしょうから、ワテね。


お弟子さんが興味を持ってくれてスマホでネットを見てくれたそう。やっぱり覆屋の中の小さなお墓がそうでした。そこに出ていた法名と、墓石や御塔婆の法名が同じ。

いや~、やっと分かりました。広い境内と墓所を皆で走り回っちゃいましたよ。密にはならなかったですが、初めから検索すればいかった。お騒がせしました。ありがとうございます!


一息クールダウン。
局の墓前に手を合わせながら、「ブログに書かせてくださいませ。素敵な女人に書きますね」と申しました。その約束はあんまり果たせまず、申し訳なく存じます。

お花を持ってくれば良かったな…。


西郡局のお墓や供養塔は日本の各地にいくつかあります。アチコチにお墓や供養塔があるということは、残された人達に故人がそれだけ大切に思われていたということです。

東照大権現の子を成した方という重みもあるでしょうが、いつもでもどこでも偲びたいと思わせる方だったのですね、西郡局って。


しっかし、
マリコ・ポーロに注入されたのは北条成分ではなく、鵜殿成分でしたわね。


それにしても…
2月1日の仲間内の新年会が新型ウィルスにより中止になって(みな高齢者のため💧)、以来、4ケ月にわたり籠城生活が続いておりました。公共交通機関で仕事に行かなくてすむだけでも、ありがたいのですが。

我が家のまわりは超住宅密集地で高いの建物も多く、山や海はおろか空もろくに見えず風も通りません。墓地とはいえ久々に広い敷地で空を仰ぎ見ることができました。

西郡の方さまに感謝です。


🐱 マリコ・ポーロの アナザーブログ「~萩よりほかの花も見るべく」
「戦国時代の城跡にて~天南星」
今回は八王子城の花のことを書きましたので、暇でどうしようもない時にでもご覧いただけたら嬉し~

🐎 「家康の側室達ゆかりの、小田原北条の寺々」

🐎 氏直を書いた以前のブログ記事のごく一部です、よろしくば~
・「北条家臣 桜井武兵衛さん、はしりめくる!」

・こちらにかなりの記事をまとめましたので是非ご覧くださると嬉しいです
「天正18年7月5日「小田原開城」 アーカイブ」

「北条一族の高野山 3 ~小田原坊」

・こんなふうなシーンをドラマでやってほしいな~と書いた妄想脚本のワンシーン
「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年5月28日 (木)

(追悼)森田善明氏『北条氏滅亡と秀吉の策謀』著者

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~森田善明 著『北条氏滅亡と秀吉の策謀 小田原合戦・敗北の真相とは?』(2013.9)洋泉社歴史新書y~


どこにも遠征せず、家族以外誰とも直接話をしない毎日が続いております。されど、このような時に通勤して仕事に行かないですむだけでもありがたいと思わなければなりませんね。

とはいえ、いよいよ北条成分が足りなくなってきましたので、人様から賜った新しい論文や、以前の本を再読したりしております。

今は、冒頭の写真の、森田善明氏の『北条氏滅亡と秀吉の策謀』です。


発売された時にもブログに書かせていただきましたが、秀吉の戦線布告書ばかり取り上げられる中で、氏直の弁明書に光を当ててくれた本でした。

北条ファンの間ではとても話題になり、八王子城や小田原で講演会なども開かれましたね。


森田氏はその後もご研究を続けられていて、次の本は完成間近だったそうです…。今頃は天国で秀吉殿や氏政殿たちに会い、天正18年のことを語り合いながら楽しく飲んでらっしゃることと思います。

合掌…

(もう1年半ほど前のことになります。ご家族のご承諾をいただき書きました。)


▲『北条氏滅亡と秀吉の策謀』のこと ↓
「小田原北条の無実を証明する本」


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2020年5月21日 (木)

「430年ぶりの籠城戦」と小田原市長さん

 マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~Twitter @hojosoun500 より、小田原城総合管理事務所~


小田原の市長さんが代わりましたね。544票差とか。小田原北条にはまってから市長はず~っとカトケン(加藤憲一)さんでした。3期12年務められたのですね。

歴史関係だけでも様々なイベントにお顔を出してくださっていたので、他府県の北条ファンにもお馴染みでした。

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~北條氏政氏照の墓前祭にて~


新市長さんは、守屋輝彦氏。北条ファンとしては、新市長さんも北条を盛り立ててくださる方だといいな~と思います。

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


🐱 マリコ・ポーロの アナザーブログ~萩よりほかの花も見るべく
「戦国時代の城跡にて~天南星」
今回は八王子城の花のことを書きましたのでよろしくば。


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2020年5月17日 (日)

5/19「今川シンポジウム 2020」が YouTube にて!

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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たぶん中止、それに、こんなご時勢にならなくてもどうせ行けなかったし…と思っていたシンポジウムが無観客で開催され、それがなんと YouTube で配信されるとは!

ありがとうございます! 今川義元公生誕五百年祭推進委員会さん、静岡商工会議所さん!嬉しいです。


🐎 シンポジウムの内容は以下

日にち:5/19(火)
時 間:14:30~16:50 

(第一部 記念講演)
「今川研究の最前線 ー 今川氏が遺したもの ー」
講師: 大石泰史 氏

(第二部 座談会)
推進委員会委員長、小和田哲男 氏
臨済寺 住職、阿部宗徹 氏
彫刻家、堤直美 氏(義元像制作)
推進委員会副委員長、酒井公夫 氏


詳細と YouTube のURL(クリックすれば動画が現われる)はこちら

「今川シンポジウム2020」


今、あちらこちらの自治体や歴史の会でオンライン講演会や集いが行われていますね。もし有料でも本当に有り難いです。

ただ…
このシンポジウムのように拝聴するだけならいいのですが、オンラインで参加となると顔を映したくない(映せるようなシロモノでない)のでヤダにゃ~と申したら、「お面かぶれば?」と。

お面!グッドアイデア!と思ったのですが、どんなお面にするか凝りまくってしまいそう。

というか、それ以前にオンラインをどうやっていいのか分からない。やり方を観ながら苦心惨憺しましたが、結局諦めましたわ。ハハハのハ…
(ノД`)


▲ New ブログ のお知らせでござる

自粛が長くなるゆえ、萩の露 の名にて花のブログを始めました。身近な花を愛でフト思い付いたことを綴っております。ブログ名は、西行の和歌から拝借しました。よろしくば、まずはPC版でご覧くださいましたら嬉しいです。

「萩よりほかの 花も見るべく」


注)こちらはコメント公開です。どうやってコメント未公開にするのかよう分からへんかったのだ。


🐎 これまでの今川についてのブログ記事の一部(特に研究系)です。よろしくば。

「花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?」
「「福嶋氏と今川氏親・寿桂尼」 戦国史研究会」

「「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)」

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


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2020年5月13日 (水)

④ 大河「太平記~帝ご謀反」と、北条家はなぜ将軍にならなかったのか?

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~『執権』2019.10 細川重男著(講談社学術文庫)カバーデザイン 蟹江征治氏~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…


第④話&⑤話を続けて観ました。謀反とは下の者が上の者にたいして起こすことを言いますが、上の者(帝)が下の者(執権家)に対して起こしたことは何という?

タイトルの「帝 ご謀反」とは、それをとらまえてワザと付けたのかな?


京の都から我が家に帰る時の尊氏様。頭から京で起きた様々なことが離れず、どうしたらいい?右馬介…と見事な乗馬姿(馬の背に寝転ぶ)で悶々としています。分かりますよね~、これ。

どこかへ旅行に行って帰る時の気持ち。あぁ、この高速に乗ったら、あぁ、この電車に乗ったら、あとは現実へまっしぐら。最寄りの駅に着く間際に流れる新幹線のアナウンス。

「We will soon arraive at 東京、品川、新横浜、上野、大宮、etc.」(←だっけ?)
が、
「We will soon arraive at 現実

に聞こえるもの。ドラマでのあの時の尊氏クンの気持ちとは比べものにならないでしょうが…


太平記の時代はただ今勉強中で、まだまだまだまだドラマや小説からの知識を超えるには時間がかかりそうですが、道誉殿は以前より鎌倉に居住していたのですね。

森茂暁氏の『足利尊氏』2017.3(角川選書)で、
足利尊氏はこうしたいわば後醍醐シンパたちといっしょに都市鎌倉に居住していたのであるから、折にふれての後醍醐関係の情報は彼らの間で共有・蓄積されたに違いない。…
と読んだ時、あれ?と思ったのです。


ドラマでは、尊氏が京の都で初めて道誉に会ったように設定されていましたが、本来は、尊氏と道誉は鎌倉にてかなり付き合いがあったということなのですかねえ。道誉が鎌倉の御相伴衆だということも忘れてしまっていました。


さて、本題でござる。

ドラマの④・⑤ を観ていて、以前より気になっていたことを思い出しました。これほどの権力を持ちながら、そも、前北条家はなにゆえ将軍にならなかったのだろうか?

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~北条得宗・執権の屋敷跡だった宝戒寺参道の碑。「北條九代屋敷 頼経公」とある~


まずは、↑ の謎の碑のこと。

この「頼経」とは誰ですか?
前にも書きましたが、ここが屋敷だったのは今のところ得宗・執権・連署の7人(7人は連続していない)と伝えられています。また、北条の9代目は、大河「太平記」の足利のパパ貞氏殿が「貞」の偏諱をもらった 貞時殿です。

それに、もし鎌倉北条家の人だったら源氏の「頼」を使いますかねえ?


「頼経」と聞いて思い浮かぶのは、源氏三代が果てたあと執権義時が京の公家から迎えた四代将軍「藤原(九条)頼経」、昔のドラマや小説などで「三寅」と呼ばれた幼児です。この子は、頼朝の妹の曽孫でした。

鎌倉の混乱をおさえるために頼朝の血筋を将軍として据えたとも以前はいわれることもありました。でも、当初は親王さんを迎えたくお願いしていたようなので、そうではないかな?

この幼児は8歳で元服し征夷大将軍となりますが、30才にならぬ前に時の執権により追い出され京に帰ります。


頼経以降の鎌倉将軍て、最後の守邦親王さん以外は皆追放されていますよね。守邦さんだってなんだか無視されていたような感じですし、「鎌倉炎上」時はどうしていたかも知りません(私だけ?)。いったい鎌倉幕府って、なんなんでしょうねえ?

な~んて、執権より将軍の方に気持ちが流れてしまいそう。


碑のことですが、ほな、「頼経」とは誰のことでしょう?北条得宗や執権に「頼経」という別名を持つ人がいたのでしょうか?調べても見つけられません。

碑は「北條九代屋敷」と「頼経公」とに少し間が開いていますね。ここは北條九代(誰?)の屋敷跡でもあり将軍頼経の屋敷跡でもある、と並列表記したのでしょうか?

ワテには分からん…。


6/6 加筆
細川重男氏の『鎌倉幕府の滅亡』を再読していて、「北條九代」の意味だけは分かりました。皆さんはご存知だったと思いますが、

北條九代=北條得宗家

を言うそうですね!時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時 の9人で九代ですか。

少しスッキリしましたが…頼経さんはいにゃい。


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~佐殿の前に突如現われたる名馬「池月」。まさに「池に映る月影」のようだった。伝承である(大田区洗足池)~


そこで話は戻り、前北条家はなぜ征夷大将軍にならなかったのかについてです。が、しかし、そんな難しいことが マリコ・ポーロ に分かるはずもないゆえ、細川重男氏『執権』を読んでみたのです。


それは「源氏ではないから」だと、以前はなんの疑問も持ちませんでした。そして、「ならなかった」のではなく「なれなかった」、つまり、「前北条家は将軍になりたかったけれど、源氏ではないのでなれなかった」と思っていました。

しかしある時、フト、あにゃ?源氏でなくても、親王さんやお公家さんも将軍になっているよね?ということに気が付きました。
今更ながらで…(^^;

坂東の戦国時代を調べるだけでも目いっぱい。イカン、イカン、これ以上興味の幅を広げては…とそれ以上は追及していなかったのですが、再来年(順調にいけば)の大河が義時殿と聞いて、がっくり気落ちしながらもチト気になったのです。


本では鎌倉北条のことを、「何の正当性もない極悪の政権・悪の一族がこれほどの長期間支配を存続することが可能なのであろうか…」と細川先生らしい書きようでしたが(どひゃ~💦)、「だとすれば、北条氏にも、その支配の正当性を支える論理が存在したのではないか…」と続きました。

じゃあ、それって何なのだろう?その論理で、あの長~~い年月、権力を維持していたのだろうか?


本は、二人の執権(得宗)、そして、私感ながら一人の将軍を中心に、「北条氏はなぜ将軍にならなかったのか」の答えに向かって進みます。

その二人とは、小四郎こと北条義時&時宗。一人の将軍とは、源氏賜姓をうけた7代惟康親王。北条時宗の時代の将軍です。


「この本は北条氏という「一族の物語」ではなく、「一族の物語」の底を流れる「基調低音」を書くことが目的」だそうです。

うーん、難ちい…。
浅い知識と働きの悪い脳の マリコ・ポーロ には、悲しいかな底を流れる基調低音はくみ取ることが出来ませんでした。

しかし、とても面白かったです。あっという間に読んでしまいました~ ♪(←じっくり読まないから基調低音が聞こえないんだ!)


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~能登国では佐殿の愛馬「池月」は能登町宇向田牧山の産とする。能登町鳥屋酒造さんの銘酒「池月」。器は福島相馬焼。自粛中、マリコ・ポーロは飲んでばかりいるんだろうって?チビットしか飲んでおりませぬ。免疫力が落ちるゆえ。~


話を戻し、それでは…

▲ 鎌倉将軍として必要だったものは

「清和源氏であることは、まったく意味をなさない。」(やっぱりそうだったのね。)

「必要だったのは、清和源氏であることではなく、頼朝の後継者であることではなかったろうか。」

「神格化した頼朝の後継者であることが、武家政権の首長たる将軍にとって必要な資格であったのではないか」


つまりは、鎌倉将軍には神格化されたものが必要で、頼朝の血筋の者なら後継者になりうるけれど、頼朝の血も引かないそのへんの武家(前北条)では将軍としての資格がないということですか?


それを「具現化した者こそ」、上に書いた、時宗の時代に源氏賜姓された七代将軍惟康なのだそうです。


しかし、頼朝の血を引かない前北条側からしたら…

▲ 北条氏がそのような将軍にならなかったのは

「…神聖化した将軍の下で得宗が将軍権力を代行するという政治体制(「得宗専制政治」)は、鎌倉幕府の歴史と伝統に基づく正当性、すなわち権威を持っていたのであり、……将軍を時宗が推戴し続けた理由も、この論理にあったのである。」


北条氏得宗は鎌倉将軍の「御後見」なのであり、自ら将軍になる必要もなく、また、なりたくもなかったのである。


ふう~、難しいことを書くことに挑戦してしまった~。
まとまりのない感想文をここまで読んでくださってありがとうござりまする。

マリコ・ポーロ が書いたことでは細川氏のおっしゃる「基調低音」が伝わらないと存じます。『執権』をお読みになってくださいませ。


毎週何かしら思い付いたことを書くぞ!と張り切ったのですが初めて調べることが多く、一週間「太平記漬け」になってしまう。時々、にしようと思います。
(^^;
次は「楠木登場」ですね!


✒ 参考にさせていただいている本など(順不同)

・我らが「旧・八王子城を守る会」会長だった峰岸純夫先生『足利尊氏と直義』
・下野新聞社編集局『下野国が生んだ足利氏』
・森茂暁氏『足利尊氏』
・日本史史料研究会/平野明夫氏編『室町幕府全将軍・管領列伝』
・田中奈保氏講演とレジュメ「鎌倉公方御所の所在について」
・細川重男氏『鎌倉幕府の滅亡』『執権』
・亀田俊和氏『南朝の真実』
・永井晋氏『北条高時と金沢貞顕』


▲今までの関連ブログ記事の一部です。暇で暇でどうしようもない時にでもご覧いただければいと嬉し。

「①大河「太平記 父と子」と、北条高時のこと」
「②大河「太平記 芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

「氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」」

「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」
「前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年5月11日 (月)

今日は土方歳三の命日

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~土方さんと近藤さんの別れの地、流山 / 江戸川菜の花ロード~


10年続けてきた小田原北条の見聞録ですが、不用不急の見聞は自粛。散歩圏内には北条ゆかりの場所がないため、以前拝聴してまとめられなかった講演会や北条以外のことばかり書いております…


今日は土方さんが函館で果てた日です。今年のこの日は、前に参加した流山での「近藤勇忌」と、会津に向かう時に宿舎とした五兵衛新田の金子邸(跡)に行った時のことを書きたいと思っていました。

が、しかし、今の情勢にどよ~んとしたり、太平記時代の本ばかり読んでいたら、コロッと忘れ今日に至る。でも土方さんの命日なので何かしたい。


ということで、今まで書いた土方さんのブロク記事(の一部)をアーカイブすることにしました。あらためて読んでいると、色々と楽しめた時代でした。もうこんな日々は日本にも世界にもやってこず、これから一生どこにも行けず、友達はおろか親族にも会えないで人生を終えるのかな~なんて思ってしまいました。

以下、暇で暇でどうしようもない時にでも読んでいただけたら嬉しいです。


🐎「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」

🐎「土方歳三と北条氏照の 日野」

🐎「講演「土方歳三の宮古湾海戦」」

🐎「北条氏照と土方歳三の国府台城」

🐎「北条氏照の「大善寺」と「土方能」」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年5月 3日 (日)

小田原北条と「八丈島」

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


神は乗り越えられる試練しか与えない…
今、「JIN-仁」の再放送を再見していますが、果たしてそうかなと思ってしまいます。若い方はそうかもしれません。でも我らある程度の年齢以上の者は乗り越えられないまま終わるのではないか、と。

すみません、冒頭からドヨ~ンとしたことを書いてしまいました。

さて、本題は、我らが新九郎さんの時代の八丈島争奪戦でござる。いざ、参る!


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~戎光祥ヒストリカルセミナー「北条を倒すのはオレだ!~海と川をめぐる戦国大名の戦い~ 海をめぐる北条・関東上杉・三浦・里見の戦い」 レジュメ~


10年続けてきた小田原北条の見聞録ですが、不用不急の見聞は自粛。散歩圏内には北条ゆかりの場所がないため、以前拝聴してまとめられなかった講演会や北条以外のことばかり書いております…


今となっては、遥か いにしえ のことのように感じる一昨年/2018年の12月。「歴史秘話ヒストリア」で 新九郎さんこと伊勢宗瑞が取り上げられた時、八丈島 の陣屋の話があったのを覚えてらっしゃいますか?

そこでは、「八丈島の覇権争いは北条早雲の戦いの成否を決するもの」だとしていました。


小田原北条を10年以上も追いかけていながら、八丈島のことは初耳でした。聞いた時は、八丈島までぇ~?ホンマかいな?ヒストリアのことだからな~(ゴニョ)なんて思っていました。

しかし、どうやら本当のことのようですね。どうやら本当…と私が申すのも失礼ですが、昨年/2019年 に行われた真鍋淳哉氏の講演(上の写真)で、『八丈実記』(横須賀市史) というものに記録があることを知りました。巻9にいくつか載っています。


それは永正年間の、伊豆諸島をめぐる北条(伊勢)vs 扇谷・三浦の抗争中のこと。永正といえば、6年から始まったのが宗瑞の相模侵攻です。宗瑞は道寸殿の岡崎城を攻略 → 鎌倉侵攻 → 道寸殿が籠った三崎城を攻撃 → そして、三崎の落城が13年。

その頃の八丈島は、山内の家宰長尾氏→扇谷方であった神奈川の有徳人奥山氏(→のちに宗瑞に従属)や、宗瑞方である下田の御簾氏、道寸殿の北村氏などが、それぞれ代官として任命され、島の支配をめぐり様々な権力抗争が続いていたことが『八丈実記』に書かれています。


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~若い頃毎月のように行っていた下田多々戸浜 / この海の先の伊豆諸島に向かって安宅船が出陣してゆく…ちゃう、観光船の黒船(写真の写真を撮った)~


例えば永正11年のこと…

奥山宗隣と伊勢宗瑞が合戦となり、奥山忠督が奥山宗隣に加勢するため八丈島から出陣

道寸方が八丈島に渡海してきたため、奥山と道寸が戦いに及び

奥山は敗北し新崎の浜から出帆

しかし!沖合で伊勢宗瑞方の軍船13艘に追われ大島へ逃れる

しかし!宗瑞の代官朝比奈の二百ばかりの軍勢に夜討ちをかけられる

奥山は大島から三浦へ落ち延びる

翌年、八丈島へ帰島


どひゃ~、色んな人の色んな船が島々の間をアッチへコッチへ!

この戦闘についての『八丈実記』の記載はいくつかあります。それらは事の経過が少しづつ違いますが、奥山・宗瑞・道寸らの船が伊豆諸島の海を動き回っている様子が目の前に浮かぶように書かれています。

それにしても当時の船は後の安宅船とは違って、関舟とか小早舟のような小ぶりなものだったとは思いますが。どうなんでしょ。


真鍋氏によると、

「この間、八丈島をはじめとする伊豆諸島においても伊勢氏と三浦氏の抗争が展開」され、「この時期の八丈島は、全体としては伊勢氏の支配下にあったが、島の南部のみ三浦氏の支配下」
にあり、

武蔵・相模・伊豆の混乱に、八丈島をはじめとする伊豆諸島地域も連動し紛争が発生し激化していき、それはつまり「伊豆諸島が、これらの地域と開運を通じて密接な関係を有していたことを示すもの」

なのだそうです。


八丈島の支配権争いが激化したのは、永正12年。本土では、宗瑞が道寸殿を住吉要害から三崎へ追いやり三崎要害を攻撃している頃で、上↑ の、奥山が帰島した後の戦闘では、敵味方3千人もの兵が討死したとあります。

5月には両陣営とも城を築き、宗瑞方の朝比奈が「新崎に陣屋を構えた」そうです。ありましたね、「ヒストリア」で言っていた 陣屋


そして、永正12年の6月。宗瑞が伊豆諸島の支配を確保し、伊豆半島←→伊豆諸島←→三浦半島←→江戸湾 の海上ルートを掌握。これは、伊勢氏が「紀伊半島から東国に向かう際の重要な海上ルートを確保」することになったとのことです。


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~明治の大砲のレプリカ、三浦半島は大昔から現代に至るまでも防衛拠点(砲台郡跡のブログ記事文末添付)~


また「ヒストリア」では、確か、八丈島の特産 黄八丈 のことにも触れていましたよね。

それについても、黄八丈って江戸時代ぐらいからの特産品じゃないの~?と私は思ってしまったのですが、これも、どうも確かなようです。

講演では黄八丈の話がでたかどうか記憶が定かではないのですが、図書館に行けないのでネットで黄八丈の歴史を見てみたところ、室町時代から知られていて、関東上杉氏、小田原北条、上 ↑ の奥山氏、三浦氏などが黄八丈をめぐって争ったようです。


「ヒストリア」で観た時は、なんで八丈島?と思ったのですが、講演で「当時の海上交通において伊豆諸島、特に 八丈島 が重要だった」ということを認識しました~。


講演では、江戸湾(当時はそう呼ばなかったが)が常に脅威にさらされていて、パトロールや挑発行為がもちろん北条によっても行われていたことや、玉縄の北条氏勝の判物が残っている野中氏や、上総の山口氏のように里見・北条両国をまたいで活動する、いわゆる海の半手の商人の話などもあり、とても面白かった(と記憶している)です。

このことは、同氏の著『戦国江戸湾の海賊』(戎光祥出版)でも読めます。


が、壮大過ぎて知識が浅い マリコ・ポーロ にはそれらはまとめきれず、八丈島 の 箇所だけをどうにか書かせていただきました。

…いや、八丈島のことだけでも全部は書ききれなかったので、ご興味を持ってくださった方は時勢が一段落したら図書館で『八丈実記』を是非ご覧くだされませ。


ちなみに、
『八丈実記』の著者は近藤富蔵という文政年間に流された流人で、父上は、エトロフや千島探検で有名な人物だそうな。富蔵は隣人を殺傷した罪で八丈島へ流され、そこで書いたのが『八丈実記』だそうです。

ということは、宗瑞や道寸殿が活躍した時から250年以上も経ってから書かれたものです。もちろん土台とした記録のようなものはあったのでしょうが、随分と時を経ていますね。


そうそう、この富蔵殿の島での奥様は、宇喜多秀家の末裔だそうですよ。八丈島の最初の流人であった秀家殿がここで出てくるとは!
へえ~~


「北条五代の娘たち ⑧ 玉縄水軍の御しんぞう様」
「公方の姫~青岳尼事件 あらたに知ったこと」
「北条氏綱が、三浦道寸ではなく息子義意を祀ったのは何故だろうか?」
「伊勢新九郎 湘南ボーイへの道」

「三浦半島の大要塞!観音崎の砲台群ガイドツアー」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年4月24日 (金)

③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ゴミの収集関係の方、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関係などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~足利尊氏の屋敷跡だった長寿寺の庭は、今頃はシャガ(射干)で覆い尽くされていることでしょう。今年は行けない。~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…

本当は小田原北条の大河で、こういうことをやりたかったんだい!


さて、大河「太平記」3話目は、マリコ・ポーロ待ちに待った後醍醐天皇と尊氏様の出合いが描かれました。何度も同じことを書いて恐縮ですが、醍醐寺のお庭で偶然お見上げした御上。目と目が合ったあの瞬間が尊氏様の恋?の始まり。ドラマでの、これからの二人の関係を象徴しているような気がしました。

御上といい、日野殿といい、佐々木殿といい、京の都は青年時代初期(たぶん)の尊氏にとって刺激強すぎ!


大河「太平記」は今まで何度か観ておりますが、ここにきて、パパ貞氏についてチト違うことと、ドラマに出てこない人達がいることに突然気が付きました。

もちろんドラマですから史実通りでなくても全然かまいませんし、それを言い出したら前回触れた、そもそも尊氏青年は京へ行ったのか?もそうだし、私には分からないアレも、ソレも、コレも、と多々あるのでしょう。


鎌倉炎上前後のことは(も)不勉強・不案内なので良く分からないのですが、以下は気になったことの 三つ鱗(←小田原北条を書く時によく使う…シクシク)です。皆さんはどうにご存知のことと思いますが、数少ない手持ちの本で確認してみました。

合っているかにゃ~?こういう時に図書館へ行けないのがもどかしい。


▲ パパ貞氏はとうに出家していたのでは?

パパは、その偏諱「貞」を賜った、北条高時の父であり数代前の執権「貞時」が没した時に、出家したとされています。


年代を調べてみました。

執権貞時の没年は、応長元年(1311)。尊氏クンの元服は、元応元年(1319)です。ドラマでのパパにはまったく出家者の気配がありませんが、尊氏クンが5-6才の時にすでに出家していたことになりますね。


ただパパの出家はもっと前の執権貞時の生前のことかもしれないという見方もあるようです。尊氏クンが生まれる前のことですが、パパは、物狂所労 (心の病)だったといくつかの記録にあるそうで、出家はそのための可能性が強いそうな。

また、嫡男の次代家督が若くして亡くなった時、尊氏クンはまだ子供でした。一旦は家督を退いていたパパ貞氏が当主に戻ったので、ドラマではバリバリ俗体の設定にしていたのかもしれませんね。


▲ その、嫡男であった尊氏クンの兄はまだ生きていたのでは?

その名は「高義」。母は正室で、金沢殿の娘です。ドラマでは、パパ貞氏が金沢殿のオウチを訪ねた時にチラッと出ました。尊氏や直義のママ上杉清子殿は側室だったのですね。

高義さんが他界したのは 21才の時。病のようです。

高義さんが亡くなった時、尊氏クンは 13才です。元服したのが15才でしたから、ドラマ当初の頃は兄上はまだ存命だったはずです。尊氏少年と直義少年ばかりが出ていましたが、まあ、北条一門の子と側室の子では一緒に過ごすことがない家もありますし、これはドラマである


しっかし、小田原北条と同じですねえ。四代当主の氏政も次男でした。兄上は同じく早世しています。

何度も書いておりますが、もし兄上様が生きていたらその後の小田原北条の運命は違うものになっていたかもしれない。氏政・氏照も、あのような(どのような?)強い絆は結ばれていたでしょうか。


同じように、もし北条一族の婿である高義さんが存命だったら、尊氏・直義ペアはどうなっていたでしょう。鎌倉炎上はあったでしょうか。室町幕府は成立したでしょうか。

すべてはそうなるべくしてそうなったと思うのですが、それでも想像(妄想?)は尽きません。


高義さんは鎌倉の 延(円)福寺 にて弔われたそうです。号は「円福寺殿」。高義さんが母親のために開基したとも、母親が息子のために建てたとも伝わっています。

延福寺は直義が最後に幽閉されていたお寺であり、パパ貞氏や直義の菩提寺「浄妙寺」の裏山にあったそうです。今は廃寺となっています。


▲ 尊氏様にはすでに側室と子息がいた!

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~熱海の伊豆山神社。その子 竹若 は、ここから京へ逃れたともいわれる。~


知りませんでした…。上のふたつ▲を調べていて知りました。幼名は、竹若。母は足利一門の 加古氏の娘とのこと。

尊氏が正室の登子さんとの間に嫡男を授かったのは、25才の時です。それ以前に生まれた子は、父尊氏に認められず後に敵対した 直冬 しか知りませんでした。竹若、皆さんはご存知でした?


ドラマでの尊氏殿は可愛く初心な様子で登子さんとお話しをしていますが、本当はすでに側室も子供もいたのですね。

尊氏さまったら!💛


先のことになりますが、なんと竹若は、北条一門が東勝寺に果てたまさにその年に亡くなっているのですね。父尊氏が鎌倉幕府に叛旗を掲げ六波羅を攻めた時、竹若は京へ逃れる途中、駿河にて北条の追手に討たれたそうです。

生年は不明ですが、直冬や千寿王(義詮)の年齢からするとまだ少年だっと思われます。


なぜ伊豆山神社にいたのだろう…?

竹若の母の父、つまり祖父は基氏といい、足利4代泰氏の子とされています。しかし系図を見ると、泰氏の子に基氏はいません。でも、泰氏の他の息子たち、つまり母親の兄弟たちには、賢宝・覚玄・覚海と出家者の名前があります。竹若の伯父さんの誰かが伊豆山にいたのかな…?


尊氏が家督を継ぐのは27才の時。パパ貞氏が59才で亡くなった後です。遅いですよね。正室を娶るのも遅いです。なにか問題があったのでしょうか。これについては、もっと調べてから書きたいと思うておりまする。書ける知識が増えたらですが…テンテンテン。


✒ 参考にさせていただいている本(順不同)

・我らが「旧・八王子城を守る会」会長だった峰岸純夫先生『足利尊氏と直義』
・下野新聞社編集局『下野国が生んだ足利氏』
・森茂暁氏『足利尊氏』
・日本史史料研究会/平野明夫氏編『室町幕府全将軍・管領列伝』

・細川重男氏『鎌倉幕府の滅亡』
・亀田俊和氏『南朝の真実』
・永井晋氏『北条高時と金沢貞顕』
・田中奈保氏講演とレジュメ「鎌倉公方御所の所在について」


次回は「帝 ご謀反」なり!


「今日(3/21)は、北条氏康の早世した長男の命日です」

「①大河「太平記 父と子」~北条高時のこと」
「②大河「太平記 芽生え」~足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年4月18日 (土)

②大河「太平記~芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみ収集関係、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品の販売関係、宅配関係などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~足利公方邸があったあたりの滑川(恵観山荘庭にて)鷺がいた~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…


今週の「歴史秘話ヒストリア」は楠正成でした。先日の「英雄たちの選択」は新田義貞でしたし、BS3の大河ドラマアンコールで「太平記」の放映が始まったからなのでしょうか。

先週の「太平記」第2回目では、尊氏と、後醍醐天皇の側近である日野俊基殿が出合いましたねえ。日野殿は尊氏に京の都がどれほど素晴らしいか(そうかね?)を語り、強烈な印象を残して去っていきました。


京への憧れがつのる尊氏クン。それからあんなことやこんなことがあり、尊氏クンはブラザー直義が諫めるのにも耳をかさず、ここをチャンス!とばかりに鎌倉を飛び出し京の都へ向かいます。

ドラマでのことですが、このシーンを観ていて、青年時代初期に京を見た尊氏クンと、見ていないブラザー直義との違いが、兄弟の軋轢を生む原因のひとつになったのかもしれないなどと思いました。


あくまでもドラマの話よ。

実際、足利尊氏はこの頃に京都に行ったのですか?手持ちの本を何冊か調べましたが、そのようなことは見つけられませんでした。


さて、
パパ足利貞氏や、鎌倉での尊氏・直義たちの屋敷がどこにあったのか?のこと。


▲ ふたつの候補地

それは 大蔵稲荷下 のあたりだと、我らが「旧・八王子城を守る会」の会長でらした峰岸先生の『足利尊氏と直義』に書かれていました。


私達が鎌倉で見る「足利公方邸跡」という碑が建っている場所は、八幡宮から → 金沢街道をずーっと行って → パパ貞氏やブラザー直義の菩提寺「浄妙寺」も過ぎ → 「泉水橋」というバス停から住宅街に入るあたりです。

(余談ですが、浄妙寺と泉水橋の途中の街道沿いに「青海波」というお蕎麦屋さんがあります。お蕎麦もお酒も天ぷらも美味しい~。今は状況が外出自粛。鎌倉へは行けませんが、マリコ・ポーロ的にオススメのお店です。)


碑には、
「…足利義兼が居を定め約270年にわたり足利氏の鎌倉屋敷があった。足利尊氏、直義の兄弟は当地で生まれ育った。…」
とあります。

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~足利公方邸旧跡の碑~


▲ 大蔵稲荷下

峰岸先生の本を読んだ時、あれ?大蔵稲荷下とでは場所が違うね…と思いました。

でも、代が変わると屋敷も変わることもあります。現に北条執権家でも16代それぞれの屋敷があり全員が全員同じ屋敷には住んでいませんし、足利家も亀ヶ谷(長寿寺)だったり大倉だったりと代によって違うようです。


大蔵稲荷 がある「大倉(大蔵)」自体の範囲は広いです。今でいう二階堂・西御門・雪ノ下・浄明寺・十二所一帯です。碑が建つあたりも大蔵です。

では、大蔵稲荷 はどこでしょうか?


お手持ちの地図をご覧くださると助かります ー と言ってもほとんどの地図には載っていない謎のお稲荷さんです ー 金沢街道の岐れ道の交差点手前から滑川にかかる「大蔵稲荷橋」を渡って山の中に入った所にあるようです。北条得宗家の東勝寺や宝戒寺などに裏山から抜けられそうですが、しかとは分かりません。

屋敷は 大蔵稲荷「下」 とあるので、その麓の、金沢街道から滑川を渡ったあたり一帯ということですかね?頼朝が建てた父義朝の菩提寺「勝長寿院(跡)」も近くですな。


それとも、滑川は渡らないあたり?いや、それなら大蔵稲荷「下」とはしないでしょう。

あ!
滑川を渡らないとすると、そこは頼朝時代の大倉幕府があった場所で、頼朝の持仏堂だった法華堂や、それこそ頼朝殿のお墓もありますね。

足利家は源氏の嫡流ですから、そこに屋敷を構えたということはありえるような?それとも嫡流だからこそ、そこは聖域で、川を挟んで向かい合ったところに屋敷を構え、日々屋敷から川向うの頼朝殿のお墓を仰ぎ拝んでいた…とか。

いずれにしても、大蔵稲荷の方が、碑の建っている浄明寺より八幡宮にはずっと近く、碑とはちょっと離れています。


友の家の近くでもあり滑川に沿った道もよく歩きますが、このあたりは道が途絶えている(ような感じ?)ので行ったことがなかったです。

(またまた余談ですが、このあたりにも「千花庵」というお酒もアテも充実の雰囲気の良いお蕎麦屋さんがあります。もちろんお蕎麦も美味しいです。)


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~峰岸純夫『足利尊氏と直義』(2009.6) 吉川弘文館~


▲ 峰岸先生の本に戻ると…

・足利義氏(尊氏の直系何代か前)の「大倉亭」に、時の将軍(藤原氏)が方違えに行った(吾妻鏡)。

・「大蔵稲荷下」の貞氏邸で書写した(鎌倉市史)。

・尊氏が丹波で討幕蜂起したとき、息子の千寿王は「大蔵谷」を落ちていった(太平記巻10)。

等々とあり、峰岸先生は、「大倉(大蔵)亭が鎌倉時代を通しての足利氏の館と考えてよいだろう」としています。


フ~ム (~_~) ?
本と地図を見ながら考えていて、ふと思い出しました。そういえば、昨年(令和元年)6月に開かれた鎌倉考古研究所が主催した講演会で、田中奈保氏が足利氏の御所の場所についてお話しされていました!


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~田中奈保氏の講演は「鎌倉公方御所の所在について」~


▲ 田中氏の講演

峰岸先生の本に挙げられていた資史料と引用は同じでしたが、パパ貞氏や尊氏・直義の邸が碑のある方なのか、それとも大蔵稲荷下なのかについて、お話しの中で触れてらしたかどうか、忘れてしまいました…。

が、レジュメには、
「…「大倉」という広い範囲の中で御所が複数あったり移転したりした可能性を考慮せねばならないが、『新編鎌倉志』にいう「公方御所」(浄妙寺東隣)の位置と重なる史料上の初見を改めて検討した結果、その妥当性は高いことを指摘した。…」
とありました。


つまり、尊氏・直義の邸は、碑のある方ということですか?ふーむ。ワテにはもちろん分かりまへんが、では、千寿王が鎌倉から逃れた後、大倉亭 はどうなったのでしょうか。これはレジュメもメモもありました。

田中氏の講演によると、「兄弟の時代の 大倉亭 のことが史料に現われない理由は、北条氏によって破却されたからか?と長塚氏」だそうです。

子息の千寿王は後に、二階堂を足利御所としたそうです。尊氏殿は、中先代の乱後に二階堂から若宮小路の将軍家旧跡へ移ったとのこと。


こうやって書いていると、現地はおろか図書館にも行けないのがもどかしいです。でも、外出は自粛!県をまたいでは尚イケマセン。

「おウチで妄想してね」←小池都知事風に。


次回の3回目は「風雲児」。先のブログにも書いたマリコ・ポーロのイチオシ、尊氏様が初めて御上(後醍醐天皇)をお見上げ申し上げる、あのシーンがいよいよ!


「①BS3大河「太平記~父と子」と、北条高時のこと」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」

「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


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2020年4月14日 (火)

宗瑞を圧迫した立役者、赤沢朝経~家永遵嗣氏 講演

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみ収集関係、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品販売関係、宅配関係などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。

そんな切迫した状況下で呑気なことばかり書いていて恐縮です。


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~小田原シンポジウム「伊勢宗瑞の時代」のレジュメ~


さて、ところで、いきなりですが…

赤沢朝経 って、誰?


今となっては遠い昔のように感じる世の中が平穏だった昨年の12月、小田原で シンポジウム「伊勢宗瑞の時代」が開かれました。そこで、家永遵嗣氏が、赤沢朝経(宗益)は「伊勢宗瑞圧迫の立役者」だとおっしゃったのを聞いて以来ずっと気になっています。

図書館も使えない今…といっても、中央図書館のホームページで蔵書検索をしても、赤沢朝経について書かれた本は出てきません。


🐎 そこで、人様のブログやホームページを覗かせていただいた

すぐ感化されてしまう単純な脳なので人様の記事はあまり読まないのですが、この際致し方ないということで、やはりとても少ないながらも拾わせていただいた赤沢朝経(宗益)の情報は…


・赤沢家は、小笠原の庶流で、本拠地は信濃である。

・今川氏親に圧迫をうけた斯波のお友達

・足利義政の弓道の師匠であり、細川政元(勝元の息子)の被官だった。

・明応年間、義澄を立てた主君細川と共に反義稙(義材)派で活躍。

・つまり、新九郎さん(宗瑞)と仲間の時もあった。

・永正元年、主君細川政元に反逆するが → その後また政元に復帰。

・政元が家臣に暗殺された時に自身も自刃。

などなど。合ってる?


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~小田原のレジュメはいつも分厚くて本のように充実!~


🐎 シンポジウムでの家永氏の話&レジュメより

明応7年、宗瑞が伊豆を、氏親様は赤沢朝経のお友達の斯波氏から遠江をゲット(ゲットとは家永先生はおっしゃらないけど)。

しかし、義澄 をかつぐ細川(含む赤沢朝経)・宗瑞・今川氏親達は「少数派」である。


明応8年、北陸にいた 義植 が上洛開始。これが「二人の将軍の対立の 第2段階 の始まり」と。


細川が、越後上杉・山内上杉・古河公方(政氏)を 義澄派 に誘いこみ、東国の義澄派は多数派になる。茶々丸が没したことで、細川は茶々丸派と結ぶことが出来るようになったのだ。
義植は周防へ逃れる。)


文亀1年頃から、宗瑞や今川氏親は、細川のこの「政策転換」により細川勢力から圧迫をうけるようになる。そして、「政策転換」は赤沢朝経を主導とした「軍事的敵対政策」へと発展する。

つまり、これは「裏切り」と言って良かろうと。


この頃、赤沢朝経はお友達の斯波のために、かねてより企画していた氏親様から遠江を取り戻す攻撃を実行!


宗瑞は、赤沢に協力している小笠原に対抗するため(か?)の甲州対策で、信濃の諏訪に接触しようとしている。赤沢は、小笠原を通して諏訪とのパイプが強いからだ。

宗瑞は、諏訪と武田が細川側につくことを恐れたと思われる。


新九郎さんの仲間がどんどん減ってゆくこの時期が、「新九郎さん最大のピーンチ!の時期」。

それは、「宗瑞が茶々丸を討って義澄の生母の仇討ちを果たした、という功績は、細川政元の裏切りで吹っ飛んだ」ということにもなる。


そして、家永先生曰く…
文亀4年(永正1年)に、宗瑞が小田原を支配しているらしい証拠が顕れるため、宗瑞が大森から小田原城を奪う何事かがあったようだ。

(宗瑞の小田原城奪取の時期については、いまだ諸説あり?)


と、以上は、なるべく家永先生がお話しとレジュメでお使いになった言葉で書いたつもりでござる。

とはいえ、京の情勢や明応~永正のこの時期の坂東にも知識が浅く、家永先生の機関銃トークに耳はついて行けても脳がついて行けなかったマリコ・ポーロ のこと。早とちり、勘違いがあるやもしれず、ご興味を持ってくださった方は是非レジュメをお取り寄せくださいませ(現在もあるかどうか不明)。


赤沢朝経。小田原北条の追っかけで、新九郎さんのこともたくさんブログに書いておきながら、まったく知りませんでした。というか、新九郎さんの個人情報ばかり書いていて、その時代をほぼ知らなかったことにも気が付きました。

まだまだまだまだ 々々々々々……知らないことばかり。


ゆうきまさみ氏は、ここまで書いてくれるかにゃ~。伊豆をゲットするまでのような雰囲気のことをおっしゃってもいたようないないようなでしたが…。

「講演「伊勢宗瑞 漫画家と歴史家が語る北条早雲」」
「『新九郎、奔る!』 ゆうきまさみ 著」

「小田原北条の女領主、伊豆の山木大方」
「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」
「後北条家の御用達 「江川酒」を飲んだ」

「北条五代の娘たち ⑦ 錯綜する堀越(今川)六郎室」 

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」

▲ 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女たちのこと
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年4月 7日 (火)

①大河「太平記~父と子」と、北条高時のこと

マリコ・ポーロ

小田原北条追っかけのマリコ・ポーロなのに、このところ違うことばかり書いております。こんな憂える世界情勢の中、呑気なことを書いていて恐縮ですが…


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~北条義時、時房(連署)、時頼、長時(赤橋)、時宗、高時パパ貞時、そして、高時の屋敷跡「宝戒寺」の鎌倉北条三鱗▲~


前回のブログ記事→ 「大河『太平記』の再放送が始まりますね!(2020.4)」

足利尊氏が出仕したのは北条高時の在位中であり、新田義貞が東勝寺に執権一門を滅亡させるのはその14年後ですか…。

大好きとはいえ、またあの濃ゆいドラマを週に一度、最初から観るのかと少々たじろぎましたが、何度も観ていると観るポイントが変わってきて新たな気分で楽しめそうです。


● 何世代も続く足利の屈従

初回のテーマは、足利一門、特に尊氏パパ貞氏殿が父上から受け継いだ屈従と忍耐が、尊氏にも引き継がれていくような…でした。

タイトルの「父と子」は、尊氏とパパ貞氏だけではなく、パパ貞氏とそのパパ家時 のことでもあったのですね。そして、家時殿にもまた先祖から受け継いだものがありましたよね。そう、重~い重~い、あの「置文」です。追々ドラマで出てきます。


★ 北条高時と妖霊星

さて、北条高時殿と聞いてマリコ・ポーロがまず思い浮かべるのは、妖霊星を見ばや のこと。当ブログを読んでくださる方はご存知でしょうが、高時殿が異形の者たちと

♪ 天王寺ノヤ ヨウレボシ(妖霊星)ヲ見バヤ

と謡い踊っている場面が絵巻でも描かれていて、よく目にします(インターネットでも検索すると画像を見ることができます)。


妖霊星は国が亡びる時に現われるものとされていて、これを知った藤原なんたらとかいう将軍付きの学者が鎌倉幕府滅亡を言い当てたとかいう、あの話です。異形異類の者たちが本当に異形異類だったのか、田楽者だったのか、町場のホームレス達なのかは置いたとしても、これが本当の話かどうかは分かりません。

それは、高時殿を暗愚にしたかった『太平記』の創作だったのかもしれず。


鎌倉によく一緒に行く長年の歴友さんは、お仲間たちと『妖霊星を見ばや~歴史創作鎌倉幕府アンソロジー』という同人誌(なのかな?)なども出してらっしゃり、マリコ・ポーロの鎌倉炎上師匠です。

妖霊星を見ばやは、北条(前の)滅亡を象徴する キャッチコピー のような逸話なのでしょうねえ。


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~「侍気分」さんの、愛用しているデニムの鎌倉北条ポーチ(小田原北条追っかけなのに?)。鎌倉炎上コラージュのTシャツもあったが今はあるかな?店前に鎌倉の遺構が保存してあり、そのあたりの時代ファンは必ず立ち寄る人気店。若宮大路沿いのビルの1階。~


🐶 高時と「犬合わせ」

北条高時といえば「闘犬」も有名です。

古来、血…特に獣の血を忌み嫌う宮廷人にとって、犬同士を噛ませ合わせる遊びなぞは、神仏の祟りが起きそうなほど醜悪で、あな恐ろしや(現代人もそうだと思いますが)。


当時、鎌倉にいた将軍は親王さんです。宮廷人です。ドラマでは、犬合わせの場に親王将軍も同席していましたね。どうりで終始浮かぬ表情をしてらっしゃいました。あれは、得宗殿(高時)の尊氏への仕打ちに対しての表情ではなく、犬合わせそのものに対しての倦んだ表情と見るものかもしれませんね。

尊氏くん、あれだけ噛まれたら普通は狂犬病。。。


しかし、高時が闘犬を異常に好み、犬に絹の装束を着せ、ゴージャスな犬専用の輿に乗せたりしたという話は、やはり高時を暗愚だったとするためにややオーバーに書かれたものかもしれないとの御説も聞きます。


と、色々と書いておりますが、「太平記の時代」については(も)知らないことばかり。

例えば、
鎌倉幕府後半は北条得宗家により北条一門の支配がなされていたと私は思っていましたが、昨今の研究では、一門はそれぞれ独立運営されていて得宗家が仕切っていたわけではないのですってね。新しい研究本をもっと読まなきゃ、ワテ。

我らが「旧・八王子城を守る会」会長だった峰岸純夫先生の数々の著作、永井晋氏『北条高時と金沢貞顕』、細川重男氏『鎌倉幕府の滅亡』、森茂暁氏『足利尊氏』、亀田俊和氏『南朝の真実』など、あっちを読んだり、こっちを読んだりしておりますが、一年、ドラマについていけるかな。


それにしても、暗い。先日、同じく大河の「北条時宗」の総集編をレンタルで観ましたが、鎌倉の歴史は開府してから(する前から?)ずっと血みどろで最後まで暗く、読み終わったり観終わったりした後の 爽快感 がこれっぽちも無いです。山に囲まれた閉塞的な狭い土地でどれだけの血が流れたことか。

されど、惹かれます。

『太平記』で救われるのは、鎌倉だけではなく都や、日本中を舞台として全ての登場人物がドラマチックに描かれているので、爽快感は無いですが、閉塞感も無いというところ、ですか。


パパ貞氏殿は言います。30数年経っても思いは同じだ…
家臣の一色右馬介は申します。いずれ、殿は……
と。

いずれ…
ーー これより長きドラマが始まる。


🐎 置文 のこと少し書いています
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

「②大河「太平記~芽生え」と、足利尊氏の屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」

宝戒寺での高時殿の法要のこと
「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年4月 4日 (土)

大河「太平記」の再放送が始まりますね!(2020.4)

マリコ・ポーロ


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「新田浪漫」北嶋屋さん。新田義貞ゆかりの新田神社のある武蔵新田駅前商店街のオシャレな酒屋さんです。店内の中央に鎮座ましますのは、お酒のスチール樽。いくつかのお酒が量り売りで、ボトルが選べ、ラベルも自分で描けます(私はお店の方に描いてもらいました)。


さて、
BS3「大河ドラマアンコール」。昨年度の「葵三代」に続いて「太平記」が4月5日(日)から始まりますね!

先日の「英雄たちの選択」は、その前ノリなのかどうかは分かりませんが、新田義貞でした。呉座氏・高橋源一郎氏・島田久仁彦氏のご機嫌な(?)トークがとっても興味深かった…というより、とっても面白かったです!


「太平記」は、あまたの大河ドラマの中でマリコ・ポーロの ベスト1です。それもダントツで。

原作は学生時代の夏休みに読んで一時は夢中になったのですが、大河ドラマで最初にリアルタイムで観た時は、もーねー、尊氏さまの優柔不断さについて行けなくて、途中で離脱しました。

それから十数年、歴史の見方が少し変わった頃、レンタルビデオで借りて観てみたら…思いっきりハマりましたよぉ。オンデマンドや、好きな回をまたレンタルしたりして何度も観ました。


当ブログにも、大河ドラマの「太平記」や鎌倉の縁の地のことを感情的(?)感傷的(?)に何度も書いたりしてきました。一時は、小田原北条見聞録をやめて、鎌倉炎上見聞録に変えようかと思ったほど。

やっとクールダウンしたのに、なんとまたBSで始まることに!あの濃ゆ~いドラマをまた最初から観るのか…。嬉しいような、脳内がまた太平記一色になるのが困るような…。


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~鶴岡八幡宮「歴史画集」新田義貞が稲村ケ崎に太刀を奉ずる図~


大河「太平記」は、ストーリーや脚本はもちろんのこと、役者さん達がまた全員が素晴らしかったですよねえ。

尊氏さまは、マリコ・ポーロが是非にも北条氏照を演じていただきたいと思っていた真田広之さん。弟くんの直義が、氏政さまより遥かに良かった(私感)高嶋政伸さん。「弟を殺してしまったーーーーっ」。あのシーンは忘れられません。

家と一族を守るためにグッと我慢のパパ貞氏。素敵でした。緒形拳さん、それまでとはチョット違う役柄でしたね。


後醍醐天皇の片岡孝夫(仁左衛門)さんは私が大好きなツートップの役者さんなので(もう一人は言わない)、なんの文句もありようがありません。格調高く、また、孝夫さんは元々ドラマや歌舞伎でも悪役としても華があるので、したたかな後醍醐天皇がピッタリでした。

醍醐寺のお庭で尊氏くんが初めて御上をお見上げ申し上げた時の衝撃。二人が美しかったですぅ~~(←何度も同じことを書いて恐縮)。あの一瞬が、その後の尊氏さまをず~っと引きずっていましたよねえ(ドラマでのこと)。


鶴太郎さんの北条高時も、勝野さんの赤橋殿も、フランキー堺さんの長崎殿も良かったですよね~。東勝寺での最後のシーン。繰り返して観ました。後藤久美子さんの北畠顕家くん。最初に配役を知った時は謎?謎?謎?でしたが、良かったわ~。近藤正臣さんの、パパ親房殿は言うに及ばず!

佐々木道誉は陣内孝則さんでしたね。尊氏さまについたり離れたり。でも結局は尊氏さまラブ❤でね(ドラマの話)。隠岐の島に御上が降り立つ時に、御上がフッと道誉の肩に触れるシーン。故意か偶然か。陣内さんの表情が良かったです。


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~「義貞の旗」阿部龍太郎。「積読 つんどく」状態になっていたが、家にいる時間が長くなったためまた読み始めた。~


新田義貞は、始まってすぐに役者さんが変わりましたね。ショーケンも良かったかもしれませんが、根津甚八さん良かったです。正成の、どうしても尊氏さまには勝てない劣等感や暗さが伝わってきました。

そして、なによりも、武田鉄矢さんの楠正成!!
武田鉄矢さんはあまり…ごにょですが、正成は良かった。すっごく良かった。


う~む、限がないですな。書いていると興奮しちゃって、良かった~の連呼でなんの感想にもなっていませんが、とにかく大河「太平記」は、「物語好き」にとっては、良かったと思います。

鬼籍に入った役者さんも多いですが、もう観ることが出来ない名演が観られるのも楽しみです。


「麒麟がくる」の収録もお休みになりましたね。再来年の大河が「後」北条ではなく「前」北条と決まってから大河ドラマへの興味が一気に薄れ、実は「麒麟がくる」も観ていなかったのですが、「太平記」となると楽しみです。


呑気な話ですみません。

しかし、「麒麟がくる」に限らず、暫くの間はドラマの収録が難しいでしょうねえ。となると、昔の名作ドラマの再放送が増えることと思います。また、スタジオに大勢集まってギャアギャアギャアギャア わめきまくるバラエティ番組も減るでしょうねえ。


どれだけ気を付けてもどうにもならないかもしれませんし、私も楽しくブログを書いているようですが、毎日どうしようもなく欝々としております。皆様、どうぞくれぐれも気を付けて日々をお過ごしくださいませ。

よろしくば ↓
「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
「「太平記~父と子①」大河ドラマアンコール」

「なぜ小田原北条は大河にならないのか?」


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2020年3月24日 (火)

追記~北条氏康の長男と北条家和歌短冊集

マリコ・ポーロ


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タイトルの北条家和歌短冊集とは「喜連川文書」にある『足利義氏等和歌』のことです。東大の史料編纂所に写本があります。北条ファンでは有名な和歌集ですが、いつのもので、どういうものなのか、今更ながら知らなかったということに気が付きました。

手持ちの本々やペーパー類を見ても、検索をしても、ヨッシー(義氏)の代に収められたということと、黒田基樹著『瑞渓院』(P78)の写真しか分かりません。図書館は閲覧が出来ない状況です。ご存知の方教えてください。


なぜ知りたいかというと…

前回のブログ記事で、16才で天に召された氏康の長男、新九郎くん(氏親か?)のことを書きました(文末添付)。新九郎くんが頭から離れずにいると、昨夜のこと、北条師匠から「氏親」の署名の画像がメールで送られてきました。かたじけのうござる。眺めながら、この和歌短冊集のことを考えました。


ブログにも書いた新九郎くんの実名のことですが、黒田基樹氏の数冊の本によると、実名が「氏親」だということは次の2点から分かったとされています。

① くだんの『大宅高橋家過去帳』」(公開資料ではない)に、天用院殿は「実名新九郎氏親云」とバッチリ書かれている。

② ヨッシーの代の、この和歌短冊集『足利義氏等和歌』に、「氏親」含め誰だか分からない人が3人いる。

ゆえに、①と②を合わせて、氏康の長男=新九郎さん=「氏親」である。


和歌短冊集に収められている和歌は、いつ、どうやって集められたのでしょう。


▲ 妄想1
ある時(いつ?)歌会が開かれて、その時の和歌をまとめられたものなのでしょうか?

・ 新九郎くんが亡くなったのは、天文21年3月
・ ヨッシーが公方に就任したのは、同年12月

なので、それはないですかねえ。


また、収められている和歌の詠み人は、
~ 氏康・氏堯・氏光・氏忠・氏親?・氏政・氏照・氏規・氏邦・氏直・氏能?氏冬?・範以(今川)~
です。

ジジ氏康が他界した時に国王丸(氏直)くんは9才位ですから、まだ歌は詠めない…ことはないですが、今川範以にいたっては生まれたてホヤホヤ~ぐらい。これらの13人で一緒に「歌会」は不可能ですな。


ということは…

▲ 妄想2
和歌短冊集は、ヨッシーの代に、以前に集めた和歌の数々を編纂したものなのでしょうか。


ヨッシーこと足利義氏は、若くして生涯を終えてしまった氏康殿の亡き子息を悼み、彼が残した歌も一緒に収めたのでしょうかねえ…。


「今日(3/21)は、北条氏康の長男の命日です」
「小田原城のライフスタイルと饗応の膳」


🎠 ぜんぜん関係ないですが、今日は景虎さんが鮫ヶ尾城で果てた日です…。

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画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年3月21日 (土)

今日(3/21)は、北条氏康の早世した長男の命日です

マリコ・ポーロ

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~早雲寺と門前の桜。北条歴代当主とその正室、そして、氏康・氏政の早世した嫡男たちの菩提寺でもあった。~


北条一族で、ついつい忘れがちですが、時々思い出しては気になる人がいます。その人は「新九郎」くんとおっしゃいます。

新九郎くんは氏康の長男で、氏政の 2-3才 上の兄上になります。亡くなったのは、天文21年3月21日。16歳で天に召されました。


元服したのは亡くなる前年の末あたりとされています。急な病だったのでしょうか。

実名は、近年の研究では「氏親」とされています。もしそうだとしたら、母である今川の瑞渓院の父親の名前、つまり祖父と同じ名前です。今川を大きく発展させた当主にあやかったのでしょうか。次代当主として嘱望されたであろう矢先に命尽きるとは…可哀想でしたねえ。


天文21年といえば、上杉憲政が越後の謙信君の元へ行った年ですね。パパ氏康は上野への侵攻を進め、謙信君も越山。また、氏康の妹芳春院の子である足利ヨッシー(義氏)が、古河公方に就任。前年、ヨッシーのパパはるる(晴氏)と氏康は、一応和睦したんですね。(このあたりのことは先のブログ「北条五代の娘たち」の芳春院のところで書きました。)

新九郎くんが此の世を去ったのは、そんな頃です。


その容貌ですが、以前ブログにも書きましたが、数年前に「馬の博物館」で公開された謎の少年像が新九郎くんかもしれないかもしれないそうですよ。朝倉直美氏が検証され、その可能性があると講演会でおっしゃっていました。

なかなかイケメンで、少し憂鬱な表情がかえって魅力的。そうだったらいいな~~。


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~桜々の滝山城(2013年)もしかしたら氏政の城だった…わけないね。~


氏照の少年時代を妄想する時、松千代丸くん(氏政)& 藤菊丸くん(氏照)&助五郎くん(氏規)&乙千代丸くん(氏邦)の4人だけの絵面が脳裏に浮かびます。しかし、本来は新九郎くんを入れた5人が兄弟として過ごしていたのですね(景虎さんは新九郎くんが亡くなってから生まれた)。

もし、もし、新九郎くんが生きていたら、彼らの構図はどうなっていたでしょう。氏政さんは、どこかの支城を任されたはずです。どこかしら?順繰りにズレたのかな。それともパパ氏康がそれぞれの資質に合った地を選んだか。


氏政&氏照の最強ペアは、新九郎くん&氏政ペアになっていたでしょうか。いや、やっぱり政&照ペアは不動で、照は政を当主につかせるために……

なーんて、Black、ブラック。。。


新九郎くんが存命で四代当主になっていたら、氏政さまの生涯に渡るストレスもまた違ったものになっていたでしょう。そして、当主が違えば、小田原北条もまた違う方向に向かっていたかもしれません。

考えても詮無いことですが…。


法名は「天用院殿」。墓所の天用院は早雲寺にあったそうですが、早雲寺一帯は秀吉に焼かれたため跡形もありません。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

少年像が馬の博物館にて公開された時のブログ記事です。
「謎の北条家少年像~馬の博物館(2017年)」

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2020年3月 6日 (金)

「北条氏綱像」は後世に改変されたのか?

マリコ・ポーロ


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~小田原北条二代当主 北条氏綱 花押~


ここ数日、北条氏綱の肖像写真をずーっと眺めています。

知りませんでした…
改変された痕が、いくつかうっすらと透けて見えるそうですね。


昨年より末席に参加させていただいている「小田原北条の会」での鳥居和郎氏(神奈川県立歴史博物館/小田原市文化財保護委員)の講座でチラと小耳にはさんだ、氏の研究ノート『北条氏綱像の改変についてー北条早雲像、氏康像、時長像などとの比較からー』(2016年) を拝読。

改変されたと思われる細かい点と、改変の時期とその理由、改変前は何だったのか…などが検証されていました。昔からバランスの良くない絵だとは言われてはいますが、びっくり&色々納得。


ただ、鳥居氏も書かれていますが、たとえ改変されたからといっても、改変が良くないとか氏綱公へのリスペクトがないということにはならない、ということは最初に書いておきたいと思います。


▲ 北条氏の肖像

当ブログを読んでくださっている皆様はとっくのとうにご承知のことですが、北条一族で現在のところ分かっている像は、宗瑞・氏綱・氏康・氏政・氏直の五代と、幻庵殿の子息である時長、そして、数年前に発見され話題となり「馬の博物館」で展示された謎の少年 の7幅です。


それぞれが描かれた時期は…

(宗瑞)晩年、または没後すぐ
(氏綱)没後わりとすぐ、又は、寛文十年頃に土佐光起により描かれた(小田原開府五百年より)
(氏康)没後わりとすぐ
(時長)没後しばらく経ってから、作風や装束からして氏康没頃か?
(氏政と氏直)寛文年間に玉縄北条の子孫である北条氏平が土佐光起に描かせ、寄進した

とされています。


氏政と氏直像は没後80年位経った江戸時代に描かれたものなのでチト置いておいて、氏康、時長、謎の少年像は作風も装束も似たようなイメージです。氏綱像が明らかにこれら3像と違うのはポーズと装束です。凄く違う。


ポーズは前のめりな感じで、他の戦国武将像でもこのようなポーズは見たことがありません。装束も、ジミ~~~。いくら質素を旨とする北条家でも地味~すぎ。

だいいち、直垂と袴の色が違う。氏綱公のお好み?刀も貧相(刀よく知らない私感)。なんだか阿弥衆みたい。なんで氏康は父上の肖像を描くのにこんな地味~な装束にしたんだろう?ご自分はオシャレな肩身替わりの小袖なんか着ちゃっているくせに。

なにより、口元が妙。これは後世に修復でもして、その時に修復が失敗しちゃったのかな?

などと、ずーっと思っていました。


研究ノートの マリコ・ポーロ がビビットきたところを以下に写させてていただきますが、詳しく、正確に!知りたい方は『神奈川県立歴史博物館研究報告ー人文科学 第43(2016)』を。


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~氏綱印判「郡」~


さて、今私は肖像画を見ながらこれを書いております。ここに早雲寺さんの許可なく肖像画を載せるわけにはいかないので、皆様も是非お手持ちの肖像をご覧くださりませ。


▲ 改変の可能性のある箇所について

① 坐り方

・中世の武家の坐り方は「胡坐」が正式なのに「正座」である。「正座」が正式となったのは江戸時代から。
・両ひざの間にうっすらと描線が見え、位置から見ると「胡坐」の描線とみられる。
・直垂の絵の具が薄くなっている部分には畳の絵の具が透けて見える箇所がある。


坐り方については、早雲寺さんでも「正座」に書き直していると見ているようです(早雲寺図録)。 武田勝頼とか真田信繁の像は正座ですが、これらは正式な場面ではないからなのかな…。

・また、マリコ・ポーロの疑問の直垂と袴の色が違うことについては、「正座に改変された時に塗り直されたからであろうか」とありました。


② 風折烏帽子

・氏康像に比べてかなり省略されている。
・烏帽子の前部が、前頭部の輪郭線と重なっているのは不自然。

そう言われてみると、氏綱公の烏帽子はかぶって(のって)いなくて、縁部が張り付いているようです。まさかの、絵師がヘタとか…。


③ 肩のライン

・左肩より右肩がかなり上がっている。
・右肩より下がった位置に輪郭線が見え、改変されたことが分かる。元の輪郭線だと左右ほぼ同じ高さ。

うーん。写真では輪郭線は見えぬが、もし改変されたとのだとしたら、左右の肩の高さを違えた理由はなんだろう…?


④ 扇

・宗瑞や氏康や時長や謎の少年像のように握っておらず、人差し指と中指で挟み込んでいるよう。
・同じく4像のように親骨が明瞭に描かれておらず、絵柄も不自然。

そう言われて見ると、親骨が無いです。妙な(チャッチイ)扇ですな。ヒラヒラし感じ。しっかり握っていないし。やっぱり絵師がヘタクソ?
(^^;


⑤ 袖の先
たいがい、左の袖の先端が上の方にハネ上がっている。

・元はハネ上がっていたようで、上畳の彩色の下に元の線がかすかに見える。

そう言われてみると(←また💦)、氏康・時長・謎の少年、みなハネ上がっていますが、江戸時代に描かれた氏政・氏直の袖はハネ上がっていませんね。


⑥ 刀

・氏康も時長も謎の少年も腰刀だが、氏綱は脇差。
・柄&鞘口と鞘尻との曲線がつながらず、曲線が不自然。
・鍔がない。

つまり、もともと脇差は描かれておらず、後から脇差を書き加えた。だから、鍔を描くと親指と重なってしまうから鍔も描かなかった。


ホントだ!他の3像は立派な目貫や笄が描かれているのに、氏綱公のさびしい~。


⑦ 直垂

・胸紐や袖露が無い。
・腰の後方の膨らみの位置が不自然で輪郭線も他より細い。


以上が改変の可能性がある箇所についてですが、じゃあ、改変、改変って元はなんなの?ですよね。

例えば、烏帽子。時代としては烏帽子を被らない風習が徐々に広まってはいるが、当主の肖像としてある程度の格式が求められたであろうから露頂で描かれた可能性は少ないと。


で、烏帽子や脇差があとで描き加えたとするならば…


「もとの像は俗体像ではなく法体像だったのであろう」


▲ 宗瑞像との比較

北条家に限らず、没後何十年も経ち当人を知る人が誰もいなくなってから肖像や銅像を作る時は、故人の親族の面差しを元に作られることが多いですよね。氏綱の親族で法体像といえば、父親の北条早雲こと伊勢宗瑞です。


研究ノートでは、宗瑞像と氏綱像の頭部の大きさをそろえた画像などから二人を比較しています。以下。

・氏綱の瞼の輪郭線はかなり後世の手が入っていて当初の状態は確認できない。
・マリコ・ポーロが気になっていてチト妙だった氏綱の口については、やはりこの部分も描き直されていて当初のままではないことが分かる。

また、
・宗瑞には髭が無く、氏綱にはある。また、宗瑞には皺があるが、氏綱にはない。つまり二人の年齢が描き分けられている。
・二人の顔の各部位の位置がほぼ同じであるため、顔の印象が極めて似ている。


つまり、「氏綱像の制作にあたり早雲像が土台となったことがうかがえる」と。


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▲ ほな、なにゆえそういうことをしたのだろうか?

それは、天正18年、おサル…いや、秀吉殿によって早雲寺が焼かれた時に「氏綱像は失われてしまったとみられる」からとな。

以前、早雲寺の曝涼の時に伺いました。宗瑞の肖像が無事だったのは、お寺の方が持って避難させていたからそうです。箱書きとか書付とかはあったのかともお聞きしたところ、それは無かったけれど、早雲寺初代&二代の住職の頂相と一緒にあったから宗瑞に間違いないとのことでした。


もし鳥居氏のご研究の通りでしたら、氏綱公の肖像は避難させなかった(避難できなかった)のですかねえ。もしくは、避難させてはいたが、戦後のドサクサでどこにいったか分からなくなってしまったとか。

だとしたら、いまに突然どこかから発見される可能性もありますね!お顔も全然違って、宗瑞似ではなく氏康系のお顔だったりして。もしそうだとしたら、ですが。


やっと最後。いつも長くて恐縮です…

▲ 『北条五代記』に書かれた氏綱像のこと

五代記に書かれていることが本当なら、江戸時代になってからのことですが、かつて北条家の家臣だった三浦浄心が早雲寺を訪ね氏綱像を拝したようですね。


そこにはこうあるそうです。
…俗体にして白衣の上に掛羅をかけ、顔相にくていに書り、物すさましく有て、てきめんにむかひかたし、子細有ゆへにや、荒人神のように…


「俗体」ですか。「白衣」の上に「掛羅」をかけているのですか。掛羅(から)とは、お坊さんが両肩から前に垂らしている四角い布ですよね。宗瑞や謙信君が肖像でまとっていますね。俗体で掛羅だと、朝倉義景や信玄パパ信虎の肖像が思い浮かびます。

「にくてい」(憎体)= 不敵な面構え ということで、研究ノートでは、「早雲像の方が相応しいように思える」としています。


「白衣」とはなんだろう?白の直垂?それとも夜着?夜着なら烏帽子も脇差も付けないですよね。病に伏してから、夜着の上に掛羅を付けて肖像を描かせたのでしょうか?そんなことあるかな。武将の肖像としてはチト弱々しいですよねえ。

研究ノートには、この場合の「白衣」は白色の着衣ではなく、着衣に彩色が加えられていなかったので衣を「白」としたのではないかとありました。なるへそ~。


つまり…

浄心が拝んだ「氏綱像」は彩色がされていない白描の肖像で、それは、不敵な面構えからしても「早雲像であったのかもしれない」。

烏帽子や脇差を後で加えた可能性があり、お顔も早雲像とよく似ていることから、「早雲像の模本があり(氏綱像が残っていなかったので)それを氏綱像と見なしていたのかもしれない」。そんな中で氏綱像も必要とされ、「父早雲像の模本(おそらく白描)などを土台として制作されたのではなかろうか」と。

そして、この研究ノートは、外見を中心とした考察であるので、今後、科学的手法による精度の高い検証がされることを期待するとしています。


ただ、マリコ・ポーロ思うに…
もし早雲寺や一族の子孫が改変したとしたなら、このような地味~な仕上げにしただろうか?氏康と並んで遜色がないようにしたのではないだろうかにゃ?

それとも、北条家の質素倹約の見本として地味~にしたのか?不思議なり。

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時代は落ち着き、寛永・寛文の世。早雲寺、小田原藩、狭山北条家、旧玉縄北条家などによって早雲寺が復興されます。氏政と氏直の肖像も描かれ、現在の北条五代の供養墓も造られることになるのです。


最初にも書きましたが、たとえ改変したからといって、改変が悪いとか氏綱公へのリスペクトがなかったということではないと思います。

氏綱公の肖像がない。肖像が欲しい。なんとかして肖像を作りたいという想いからなされたのでしょう。


鳥居氏も最後に書いてらっしゃいます。

「…氏綱像が早雲像を土台として制作されたとしても、肖像が果たす精神的な役割を念頭において制作されたことは言うまでもなく、氏綱像は数百年にわたり二代当主の肖像として尊崇されてきた。この点において今後も氏綱像が果たす役割と重要さは変わるものではない。…」


今年の秋は久々に早雲寺「曝涼」に行き、氏綱公のご尊顔を拝そうか。


「早雲寺 「北条早雲画像」の曝涼 2010」
「今日は北条早雲こと伊勢宗瑞の命日」
「「早雲 足洗いの湯」 箱根湯本」


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2020年2月20日 (木)

公方の姫~青岳尼事件 あらたに知ったこと

マリコ・ポーロ


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~垂木、詰組、波連子…屋根の内側まで繊細で華やかな国宝「円覚寺正続院の舎利殿」は「太平寺仏殿」だった~


青岳尼 は小弓公方足利義明の姫として坂東戦国時代ファンのヒロインとして有名ですし、姫のことは幾度かブログにも書いておりますが(文末添付)、も一度。


義明が国府台で討死したのち、姫は北条氏康殿の庇護のもと鎌倉「東慶寺」へ入り、その後、鎌倉「太平寺」の住持となりました。東慶寺の住持は、青岳尼の妹の旭山尼です。

のちに、いかなる次第か定かではありませんが、姫は鎌倉を出奔。海を渡り里見義弘の元へゆき、二度と戻りませんでした。太平寺は廃寺となりました。

太平寺は、碑文によると元は比企一族の尼寺で、頼朝が池禅尼の旧恩に報いるためその姪を開山として創建したそうです。

初代鎌倉公方足利基氏の子孫の尼僧を中興の祖として発展し、「鎌倉五山」第一位の格式あるお寺でした。トップ写真の円覚寺正続院の舎利殿は、廃寺となっていた鎌倉太平寺から移されたものです。


前回のブログ記事「玉縄水軍の御しんぞう様」でも少し触れましたが、昨年、玉縄城址まちづくり会議さん主催の真鍋淳哉氏の講座「戦国江戸湾の海賊と玉縄城の水運」を拝聴しました。そこで、青岳尼についてマリコ・ポーロの今までの謎が解けたり、また、あらたな謎?となったことがありました。

講演で新しく知ったことや疑問を以下の4鱗▲に沿って書いて見ます。同じく真鍋氏の著作『戦国江戸湾の海賊』も参考にさせていただきました。

▲青岳尼は連れ去られたのか?共謀だったのか?/ ▲聖観世音菩薩は青岳尼と共に安房へ渡ったのか?/ ▲それは本当に弘治2年なのか?/ ▲公方の姫は東慶寺(か太平寺)にもう一人いた?


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~太平寺から移築された円覚寺正続院の舎利殿。屋根の反りがハンパない~

▲ 青岳尼は連れ去られたのか?共謀だったのか?

里見義弘が鎌倉へ攻め入った時に青岳尼を連れ去った、いや、義弘と事前に示し合わせ安房へ行ったなどなどと様々言われています。

以前のブログ記事は、共謀説を取って書きました。だって、姫にとって北条は父親の仇ですからね。太平寺に「庇護された」というより「剃髪させられ、浮世から離された」みたいなイメージでした。姫は義弘殿のいる安房へ帰りたくて、ふたりでもくろんだと妄想しました。


また、青岳尼が出奔したあとに氏康が東慶寺に出した有名な手紙には、「大平寺殿 むかい地へ御うつり、まことにもってふしぎなる御くわたて…」とあります。

ただの「くわたて」ではなく「御くわたて」と「御」が付いているのも、青岳尼も企てに関与したのだと受け取ったんです。


講演で真鍋氏は、
「父義明を殺されている姫。義明は里見の元にいたから、おそらくふたりは顔見知り。自らの意志で義弘と図って北条の監視下より逃れたのでは…?」
とおっしゃっています。


興味深いのは、安房の館山市立博物館の「たてやまフィールドミュージアム」のサイトに書かれていることです。

…(青岳尼は)義明が討死した際には、義明の遺児頼純とともに安房の里見義堯のもとへ保護されたと考えられている。その後足利氏と縁のある太平寺へ入寺したものであろう。…


すでに、青岳尼は義明と結婚していたことになっていますねえ。息子を安房に置いて鎌倉へ来させられたということですよね。もしそうだったら尚更帰りたいですよね。

真実はどうだったのか。それは、いまだ不明だそうです。


▲ 聖観世音菩薩と青岳尼は一緒に安房へ渡ったのか?

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~東慶寺で購入できる「聖観音」のポストカード~

鎌倉東慶寺宝蔵におわす「木造聖観世音菩薩立像」は、かつて青岳尼が住持していた太平寺の本尊で、円覚寺舎利殿(写真)が太平寺の仏殿だった時はそこに安置されていたと伝わっています。


チト話は逸れまするが…
廃寺にした太平寺の建物の移築のことで氏康が円覚寺に出した手紙(後述)には、「太平寺 客殿」とあります。

玉縄の講演の時に玉林美男氏がおっしゃるには、これは「太平寺 仏殿」ではないかと。「客殿」とは長方形の建物で、円覚寺舎利殿は正方形だから「仏殿」だと思われるそうです。

氏康殿、アバウト?間違えて書いちゃった?それとも移築されたのは舎利殿ではない他の建物?それとも、複数の移築があったのか?


話を戻し…
そもそもこの聖観音はいつ誰によって造られたのでしょうか。


東慶寺の、江戸時代に書かれた聖観音の由来書には、元は源頼朝の守本尊で、佐殿が、鎌倉に在住していた宋の工人陳和卿に依頼したとあるそうです。陳和卿って、実朝は誰それの生まれ変わりだとか言ったり、実朝の命で製造した舟が浮かばずに沈んだりという例の話の人ですよね。美しい仏様を造るんですねえ。

当初は東慶寺に置かれましたが、太平寺が建立された時に移したそうです。


へえ~~ (´▽`)
知らなんだ。


時は流れ…

同じく由来書によると、
里見安房守 が鎌倉に乱入し鎌倉の神社仏閣とともに太平寺も焼き払い → 御本尊と青岳尼を 連れ去り → その後、聖観音は氏綱公が東慶寺蔭涼軒からお願いして返してもらった → 戻った聖観音は 東慶寺に置かれ → 氏綱公は喜び蔭涼軒に感状を出し、その感状は今(江戸時代)も東慶寺にある…

のだそうです。


太平寺の仏殿は円覚寺で今も残っていますから太平寺は焼き払われてはいないと思いますし、里見安房守って誰?ではありますが、そのへんは江戸時代に書かれたものなので気にしないでおくとして、その他は由来書の通りだとすると‥


青岳尼の父足利義明が国府台で討死したのは天文7年。青岳尼はそれから鎌倉へ来ました。青岳尼と聖観音が一緒に安房へ渡り、聖観音の返還に氏綱がかかわることができるのは、氏綱が亡くなる天文10年までの3年の間ということになります。

3年もあれば起こった可能性もあります。太平寺跡の碑文にも、事件が起こったのは「天文中」とありますし。


でもそれでは、氏綱公が聖観音返還の担当で東慶寺に依頼をし、氏康は青岳尼の担当で東慶寺に手紙を出した、ということになります。それはなんだか妙です。

それに、天文7年~10年の間に、里見が鎌倉へ入ってきたという話を私は聞いたことがありません(ある?)。


これはどういうことだろう?
マリコ・ポーロなりに妄想してみました。


(妄想①) 聖観音と青岳尼は別々の時期に安房へ渡った

由来書の通り聖観音は氏綱公の時代に奪われた。それは大永5-6年の里見の鎌倉侵攻の時だと思われる。しかしそれは聖観音ひとり(?)だけで、青岳尼も一緒というのは後世の勘違い。


なぜなら、繰り返すが、青岳尼は天文7年までは鎌倉にはいないはずだし、もし一緒に安房へ行ったとすると天文7年~10年までの間になるが、その間に里見勢は鎌倉に来てない。

ま、コッソリ小舟で来て上陸し、聖観音と青岳尼を密かに連れ去ってしまうということも出来るかもしれないが、となると、後の氏康の手紙と合わなくなるから。


(妄想②) 氏康の時代に青岳尼だけが安房へ渡った

なぜなら、氏康が東慶寺に出した「ふしぎなる御くわたて」の手紙は、聖観音のことには触れていないから。聖観音は ① のように氏綱の時代に持ち去られ、その後東慶寺に戻されたままだったので無事だった。由来書は江戸時代に書かれたものなので氏綱と氏康とを混同した。

しかし、氏綱の感状のことはどうなるのか?感状、まだ残っているなら見たいです。


(妄想③) 氏康の次代に聖観音と青岳尼は一緒に安房へ渡った

上の②と同じく氏綱と氏康との記録違いで、全ては氏康が手紙を書いた頃に起こった。手紙で聖観音のことに触れていないのは、それは別の手紙に書いていて、その手紙はまだ発見されていないから。もしくは、聖観音のことは口頭で伝えた。

感状も、氏綱ではなく氏康の名前になっているとか?やっぱり感状を見たいです。


その感状とは、上でも触れた館山市立博物館「たてやまフィールドミュージアム」のサイトに載っているもの氏綱の、年未詳10月13日の書状でしょうか?ワテ読めないので分かりません。これです→ 「尼僧略奪」


う~む。疑問の解決には青岳尼がいつ安房へ渡ったかを知る必要があるのう。しかし、それが一番の疑問なのである!


▲ それは、本当に弘治2年なのか?

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~青岳尼が当初入った鎌倉東慶寺の梅~


通説では、由来書は「氏綱」と「氏康」を混同していて、青岳尼と聖観音が安房へ渡ったのは弘治2年の 北条vs里見 の戦時だとされていました。


弘治2年の海戦が本当にあったのかどうかについては、以前からマリコ・ポーロの謎でした。前回のブログ記事「玉縄水軍の御しんぞう様」でも書いたように、玉縄城での真鍋氏の講演でその謎は解けました。「弘治2年の海戦」といわれるものは、永禄4年の戦との間違いではないかというのです。

海戦がだったのかどうかは分かりませんが、永禄4年に里見が城ヶ島(三浦)を攻撃し、腰越(鎌倉)に侵攻したことが、氏康が玉縄の綱成の家臣に出した手紙に書かれています。


講演で真鍋氏は(何度もお名前を出して恐縮)、『北条家所領役帳』を示してくれました。なんと、役帳には「泰平寺(大平寺)殿」があるそうです!役帳は永禄2年ですよね!

弘治2年に太平寺から青岳尼がいなくなって廃寺となっていたら、永禄2年の役帳に載っているのはおかしいですね。太平寺は、少なくとも永禄2年は存在していたということです。里見の鎌倉侵攻が永禄4年なら、辻褄は合いますな。


が、しかし!

再三書いている「ふしぎなる御くわたて」の手紙には年が記載されていませんが、氏康が東慶寺住持の旭山尼に出したと言われています(もちろん侍者を通して)。旭山尼は青岳尼の妹です。旭山尼の経歴を見てみました。


あにゃ~~?
旭山尼は、弘治3年に他界しています


事件が起きたのが永禄2年以降でこの手紙もその時に書かれたものなら、手紙を見てほしい相手は旭山尼ではないですねえ。旭山尼の次か、次々代の住持の方でしょうか?調べたところ、次代は、足利政氏の孫で高基の娘(つまり古河公方の姫)。次々代は、義明の孫(つまり元小弓公方の姫)ですな。

それならそれで別によいのですが、そうではなくて、もし相手が旭山尼だったら、氏康の手紙は弘治3年より前の手紙になります。もしくは、永禄4年に氏康が アノ世の旭山尼に出したか(ひえ~~💦)。


手紙の直接の宛先は当然「いふ(衣鉢)侍者」ですし、文面には「その御寺へうらミ申へく候よし御ひろう、かしく、」で、お名前が書いてありません。

宛先は旭山尼と言われてきましたが、どこから旭山尼という話になったのだろう?

…………。


うぎゃ~
ややこしくて何を書いているか分からなくなってしもうた。


太平寺については、くだんの手紙に「大平寺の伽藍を廃絶するしかない(大平寺御事ハ、からんの事たやし申よりほかこれなく候)」とあります。実際に円覚寺に移築したのは永禄12年(これも年未詳だが氏康の円覚寺宛ての書状より)とされています。

太平寺の建物は、廃寺となった後しばらくはそのままだったようですな。


ちょっと思っちゃったのですが、青岳尼が鎌倉を出奔し安房へ戻ったのがもし永禄4年だったとしたら、鎌倉へ来てから 20年以上の月日が過ぎています。

そんなに逢わずに愛情とか執着とかって継続するものなのでしょうか?
え?する?失礼(^^;


そして、ここにもう一人謎の女人が出てくるのです。

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~青岳尼が渡った海~


▲ 公方の姫は東慶寺(か太平寺)にもう一人いた?

それは、先ほどから何度か書いている、氏康殿が東慶寺に宛てたお手紙の後半にあります。


「…(里見方は)また御新造を盗み取るとの噂を聞きつけました(又御しんそうをぬすミ取へきよし)…」

私はこの「御しんそう」は青岳尼の妹である東慶寺旭山尼のことだとずっと思っていました。なんだかどこかにそう書いてあったような記憶があるんだもん。


ところが「御新造」とは出家していない女性に使う言葉だそうですね。知らなかった(恥💦)。講演で真鍋氏は、「御新造」が誰かは不明だが、まだ出家していないが後々出家させようとしていたのか、足利関係の女性が寺にいたのだろうとおっしゃっていました。

そして氏康は、「御新造」を玉縄へお移しする旨を指示し、もし何かあったら東慶寺様へお恨みを申し入れる(若とかくあつてハ、その御寺へうらミ申へく候)とまで書いているのです。


誰だろう…?ということは、小弓公方関係の姫でしょうか?

小弓公方足利義明殿には3人の姫がいることになっています。青岳尼と旭山尼。もう一人は、山内上杉を継いだ上杉憲寛=足利晴直(晴氏の同母弟だそうな、よく知らにゃい)に嫁いだ方です。夫の憲寛殿は義明殿の元にいたそうです。


この方が未亡人になっていて、義明殿亡きあと青岳尼と共に氏康に庇護された可能性があるのでは!と張り切りましたら、御主人はもっともっと長生きしていました(天文20年没)。

なーんだ。


青岳尼が義弘殿の正室だったか側室だったかは定かではありません。青岳尼の子供のこともはっきりとは分かっていないようです。

青岳尼は天正4年に亡くなったと、安房の菩提寺の供養塔に刻まれているそうです。天正4年、里見義弘の正室は、小弓公方と敵対していた古河公方足利晴氏の姫となりました。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ


「里見へ走った公方の姫」
「弘治2年の「北条 vs 里見の海戦」は本当にあったのか?」
「鎌倉に訪ねる小田原北条ゆかりのヒロインの寺

・「南総里見ファンタジーツアー 1」
・「南総里見 5 「戦国人たちは消えてゆく~里見忠義」」

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年2月12日 (水)

まとめ「北条五代の娘たち」~宗瑞と氏綱の娘たち

マリコ・ポーロ


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~湯河原幕山~


シリーズ「北条五代の娘たち」の早雲こと宗瑞&二代氏綱のお嬢さんは、8人目の「玉縄水軍の御しんぞう様」をもってひとまず終えました。訪ねる場所は広範囲、読むものも大量、妄想すること果てしなく、宗瑞と氏綱のお嬢さんだけで足掛け4年もかかってしまいました。

日を置いて年を置いてバラバラと書き散らしたので、自分でもどこに何を書いたのか分からなくなったため以下にまとめてリンクを添付しました。暇で暇でどうしようもない時-そんな時ないでしょうが-にでもご再読賜りましたら、いと嬉し。


何度も書いており恐縮ですが、「北条の女人たち」を題するものは本でも講演でも展示でも、今川の瑞渓院(氏康室)、武田の黄梅院(氏政室)、徳川さんの督姫(氏直室)など北条に嫁いできた「他家の女人」ばかり取り上げられることが多いです。北条では武田に嫁いだ桂林院と今川に嫁いだ早川殿(どちらも氏康の娘)がいいところ。

北条家は子女が多く、お家乗っ取り養子&お嫁さん送り込み作戦は男女共同参画。お姫さま方も有効活用され、それぞれが歴史に影響を及ぼす大きな家に嫁ぎそのミッションを果たしています。そして、彼女たちのほとんどは、一族の重鎮であった幻庵殿の「覚え書」の教えゆえか、家同士が手切れになろうが夫君が死去しようが実家には戻りませんでした。


このシリーズは、北条の血を引く姫たちが、他家から北条に嫁いできた姫達や他の有名人気戦国大名ゆかりの女人達に負けず劣らず波乱万丈ドラマチックな人生を送ったことを北条ファンの皆様に思い出してほしくて始めたものです。蟻の爪(?)の先(?)ほどにもならない力ですが、少しでも興味をもってくださっていたら幸いです。

では、以下リンクにござる。(昨年ブログ屋のシステムが変わってから過去のブログ記事の改行が上手く反映されなくなっている場合がありますが、ご了承くださいませ。アクセス数が多い記事から順次修正しておりますが、なんせ大量のためはかどらずで。)


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~古~い プチ内裏雛~


▲初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女

「北条五代の娘たち①今川から戻った長松院様」

「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」

「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」


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~本城は蝋梅が満開。そういえば…北条の頃、城内の庭園(←どこか不明)に「泉式部」という梅があって、鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進したと本で読んだが、今でもその梅の子孫は小田原城や八幡宮にあるのだろうか?~


▲二代 北条氏綱の息女

(太田殿室)
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「太田道灌の子息「資康」と、孫?「資高」の不思議」

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」

「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」


(吉良殿室)
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」

「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」展」

「吉良頼康ゆかりの寺々(川崎・目黒・世田谷・蒔田)」


(今川六郎殿室)
「北条五代の娘たち ⑦ 錯綜する堀越(今川)六郎室」

(古河公方室)
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」

(葛山殿室)
「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」

(北条綱成室)
「北条五代の娘たち ⑧ 玉縄水軍の御しんぞう様」


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~八王子城城下の個人の方のおウチの中に残る土塁の上に咲く梅(入れません)~


▲三代 北条氏康の息女~大河「直虎」の時に今川さんが出たので先に書きました

(今川殿室)
・「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html
・「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
・「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html
・「今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-88b5.html
 


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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