2017年3月16日 (木)

続・浄心院殿日海は二人いた~三浦ではなく北条の娘か?

【シリーズ 北条の血をひく女人たち】
二代北条氏綱の息女、太田資高室~番外編



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~文京区白山には、浄心院様の菩提寺だった「浄心寺」の名が坂の名として残っている。(坂の名の由来となった浄心院様の「浄心寺」は日蓮宗。現在はお寺はありません。近くに同名の浄土宗のお寺があるのでお間違えのなきよう。)~


先のブログ記事「太田資高室~浄心院殿日海は二人いた」で混沌としていた、浄心院殿日海は北条の娘 か三浦の娘Bか について、その後もう少し調査(妄想)をしてみましたところ…


衝撃の事実を発見!!


なんと、2人の浄心院殿日海の 死去年月日が同じ (天文19年9月14日)だったのです。ドびっくり~coldsweats02

浄心院 の没年月日は、『太田家記』より
浄心院の没年月日は、三浦家系図より(←私は未確認)


天文19年…か。北条氏康が山内上杉の平井城を攻め、翌20年に落とした頃ですな。

それにしても嫁と姑が同じ日に亡くなって、法名も同じなんてことがあるかね?いや、氏政の母と正室は同じ日に亡くなっていますが、それは小田原籠城中のこと。こちらはそれとは違いますしねえ。


wine 二人の浄心院とその夫君たちの後半生

核心に触れる前に、まずは時系列を整理してみました。辿るのがメンドクチャイ方はずーっと下方の、「太田家記」の項へどうぞ。


登場人物
浄心院=北条氏綱娘、太田資高の室
浄心院=三浦道寸娘、資高のパパ(養父とも?)資康の室


▲永正10年/1513年
三浦道寸の娘であるの夫・太田資康、三崎にて討死。
(資康の死亡については時期・状況共に様々説があるが、いずれにしても永正10年よりは以前。)


~妄想~
が嫁いだ頃、夫の資康は江戸にいたはず。資康が三崎の道寸の元へ向かった時、妻のも一緒に行ったのか?→道寸の娘だから行ったと思われる。

また、
資康の子である資高は、その時15才位。江戸へ置いていかれたのか?はたまた、パパ資康が三浦に走ったために、それで江戸城を出されて岩淵砦にいたのか?

後に氏綱に内応したのは、「祖父道灌殺害の件で扇谷に恨みを持っていたから…」とも言われているけれど、だったら何故に父親と一緒に三浦へ行けなかったのか?実は、やはり本当の父子ではなかったからなのか?山内・扇谷がらみの何かしらの事情なのか?

▲永正13年/1516年
三浦道寸、自害。次男・時綱は安房に逃れる(館山市資料より)。浄心院 も共に安房へ渡る(三浦氏系図より)。


~妄想~
ちょっと待った!

の兄弟である義意が三崎で討死したのは20才頃。例えばが義意の姉だとして、25-6歳。となると資高とは10歳位しか違わない。いくら昔とはいえ、資高はが産んだ子ではないですな。

ということで、先のブログ記事に載せた系図を書き替えてみました。


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~時綱が道寸の息子であることには諸説あり。~

▲大永4年/1524年
資高が北条氏綱と組み江戸城は北条の物となる。資高は江戸城香月亭へ入る。

▲年不明
氏綱の娘である、資高へ嫁ぐ

▲享禄4年/1531年
、康資を産む

▲天文16年/1547年
資高、江戸にて死去

▲同19年/1550年9月14日
AB、両名共、江戸にて死去


次に、『三浦家系図』と『太田家記』を見てみましょう。

どちらも、概要ではなく、どう書かれているか見てみたくて仕方がなかったのですが、なかなか図書館へ行けないでいたところ、歴友師匠殿が関連箇所を抜粋して教えてくださいました。かたじけない。ありがとうございます!


wine 三浦家系図

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~三浦氏の「新井城」。三崎の要害についても諸説あり。~


道寸の娘について、以下のようにあるそうです(歴友さんのをコピペさせていただく)。

「(義同)女子
嫁太田道灌一男資康、生新六郎「康資」後号武庵、天文十九年九月十四日死于江戸、法名浄心院日海、子康資建寺置像、号浄心寺今猶在小石川」


ふむ。
江戸にて死去か。小石川の「浄心寺」が菩提寺とありますな。浄心寺は、太田道灌開基「法恩寺」の末寺です。

浄心寺はかつて平河口にあり→本郷に移り→最後は白山でした。現代の感覚でいうと、小石川は、そのどこからも少し離れていますね。大きな区分の中ではまあ同じエリアとも言えますが。


また、何故に太田道灌ゆかりのお寺で弔われたのでしょうか?

太田さんちに嫁いだから?でも、三崎に行って、安房に渡った三浦の娘を、江戸の真ん中で誰が祀るのだろうか?


そんなことより!
そうです。資高の母でないどころか、この系譜からは資高さんが抜けているではありませんか。資康の子が、孫である康資ということになっていますね。ですよね?読み方合ってます?

ちと、アヤシイ~の~。


wine 太田家記

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~現在は日暮里にある資高開基の「本行寺」。当時は江戸城平河口にあった。浄心寺と同じく、法恩寺の末寺である。~


以下、同じく歴友さんからいただいたもののコピペ。

一、資高公奥様ハ北条氏綱の息女ニテ、天文十九年九月十四日江戸城にて御死去、万好斎公と同して法恩寺へ御葬送可有之処、平川口に別之寺を立、彼寺へ御葬送有之、是ハ常々御夫婦不和之由申伝候、夫故新六郎康資公へ御存生之内より被仰置候付、別の寺へ御葬被成候也、彼寺浄心寺と申候、此寺今ハ本郷丸山ニ有之候、

浄心寺書物ニ有之、
「浄心院日海比丘尼 天文十九年庚戌九月十四日施主 太田新六郎康資
本願徳成坊日成敬白」
如此之書付有之、日海様木像之御影有之候


ふむ。

こちらには、浄心院日海は北条氏綱の娘で、資高の奥様であり、(三浦の娘と同じく)江戸で亡くなり、(三浦の娘と同じく)子の康資が浄心寺という菩提寺を建立して葬送とありますな。お寺の場所は、平川口→本郷丸山。まあ合っちょるか。


資高さんの道名と菩提寺もこれで分かりました。

道名は万好斎。菩提寺は「法恩寺」。繰り返しますが、法恩寺は太田道灌の開基です、浄心寺は法恩寺の末寺です。


そして、面白い…と申しては失礼ですが、先立った夫の資高と同じ平河「法恩寺」に葬られるところ、息子の康資が、母浄心院の遺言により別の寺を建てたとな。それが、「浄心寺」だと。

なぜ別の寺へという遺言なのかというと、「常々御夫婦不和之由申伝候…」 だとさcoldsweats01


wine 混同

以上のことから妄想するに、やはり浄心院日海は北条の娘で資高の正室である、の線が強いのではないかと、私は思いたい。他家の記録よりは、資高さんの本家本元である太田さんちの家記の方が辻褄が合っていると思うのですよ。だって、そもそも三浦さんちの系図に資高さんがいないんだもの。

となると問題は、安房の正文寺にあると聞く浄心院の位牌ですよね。


三浦系図によると、浄心院は江戸で亡くなっています。三崎の戦いの際に安房へ逃れたはずの三浦の娘は、何故に江戸で亡くなったのだろうか?江戸で亡くなったのに、何故位牌が安房と江戸の両方にあるのだろうか?


~妄想1~
安房の位牌は三浦の娘 のものではなく、北条の娘 のものではないでしょうか。

の息子の康資が安房でも位牌を持ったのではないでしょうか。パパとママは不仲だったから、マザコンの康資(←ウソbleah)が、ママのだけ作ったとか。

それが三浦系図と混同され、いつの間にか三浦の娘のものだとなってしまっている…とか?


~妄想2~
それとも、安房の位牌はやはりBのもので、お名前が不明だったので、いつの間にか浄心院殿日海と混同されてしまっているとか。


~妄想3~
上のザックリ系図で、三浦道寸にもう一人女の子がいますよね。その子が、混同の、こんどー(近藤)です←若い人には分からんてcoldsweats01 で、浄心院殿日海となってしまった…とか?


なーんて。

もしかしたら、まったく反対で、浄心院は三浦の娘で、たまたま系図からは資高が抜けちゃっただけ。当時は位牌もお墓もアチコチにあるなんてよくあること。安房の位牌も江戸の位牌ものもので、太田家記が混同しているのかもしれまへん。

皆さんはどう思われますか?


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~嘉永時代の地図。緑のの中に「浄心寺」がある。ピンクの☆のあたりに現代の白山駅がある。~


先日、どこでもいいから、なんでもいいから、浄心院が生きた証の場所に立ってみたくて、トップの写真の「浄心寺坂」を歩いてみたのです。

大きな歴史の流れの中では、浄心院が三浦の娘だろうが北条の娘だろうが、どうでもいいっちゃあいいことです。どうでもいいことではあるのですが、でも、それぞれにそれぞれの人生を歩んだはずの二人の女人が、その人生を混同されたりしていたらお気の毒だと思うのです。


それはこのお二人に限ったことではなく、先の崎姫と山木大方にしても、氏綱室の養珠院と朝倉娘の養勝院にしても、北条ゆかりの女人達だけではなく他のあまたな女人たちも同じこと。ほとんどが、かつての敵の元へ嫁ぎ、実家から与えられたミッションを果たすべく大変な思いをしたことでしょう。

彼女たちにとっては余計なお世話だろうと思いつつ、今日も足跡を辿りながら妄想しておる次第でござります。


こちらが最初に書いた混沌のブログ記事です↓
浄心院殿日海は二人いた!~「太田資高室」北条の血をひく女人達②
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


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2017年3月 5日 (日)

日本遺産「飛鳥」シンポジウム~飛鳥を翔けた女性たち~

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~「飛鳥シンポジウム~飛鳥を翔けた女性たち」シンポジウムのパンフレットとレジュメ。飛鳥5 「ASUKA 5」 (命名 by ワテ)は、推古天皇、皇極/斉明天皇、持統天皇、額田王、善真尼。~


太田資高室の二人の浄心院様の行方にとらわれ過ぎ、吉良殿ゆかりの寺々について未だ書き上げられないでおります。

そこでちょっと一息。浄心院様たちが生きた時代より更に遡ること900年。推古、皇極(斉明)、持統、元明、元正…と、北条の血ならぬ、蘇我の血を引く女帝達の時代へ思いを馳せて参りました。


橿原市・高取町・明日香村による「日本国創成のとき-飛鳥を翔(かけ)た女性たち-」は、平成27年に「日本遺産」に登録されました。シンポジウムは、この3市町村の主催により、古代史の吉村武彦氏(明治大学名誉教授)と里中満智子氏を講師として催されました。

日本遺産とは、文化遺産にストーリー性を絡めて広げていこうというものだそうで、里中満智子氏の登場となったわけです。


飛鳥時代といえば、松本清張「火の路」、上原和「斑鳩の白き道の上に」、「日出処の天子」、「天上の虹」とそれに続くシリーズ、梅原猛の法隆寺物、永井路子「美貌の女帝」などのマンガや小説でしか知らずにファンになり、奈良へ通うこと数十回。

私にとっては、吉村武彦先生の講演は初めて拝聴(含む拝読)する専門家のお話しでした(恥ずかちぃcoldsweats01)。


メインフューチャーは、飛鳥5 「ASUKA 5」 のセンター皇極/斉明天皇。オープニングムービーも、皇極/斉明天皇がメイン。

続く講演とシンポジウムは、当時の女帝の成り立ち、天皇の諡名、勢力関係などの基本的な話から始まり、ご両人共、宝皇女(ひめみこ)が皇后であった舒明天皇時代→乙巳の変→重祚(斉明天皇)などを、発掘調査や謎の石仏群や、蝦夷や朝鮮半島情勢や、皇極のシャーマン的要素などを絡めた濃厚な内容の、たっぷりどっぷり3時間でした。


里中先生おっしゃるに…
飛鳥時代は女帝があまた即位した時代。女帝は大概、夫(または兄弟)である天皇(すめらみこと)が崩御し、跡継ぎが幼い時に擁立される。

しかし彼女たちが嫁いだ時、夫はまだ皇子(みこ)。皇太子(ひつぎのみこ)や天皇になれるかどうかさえ分からない。万が一なれたとしても、皇后(大后おおきさき)に自分が選ばれるかどうかも分からない。ましてや、夫が先立たなくてはならない。


以上要約ですが、そうか!考えてみればそうですよねえ。後の孝謙女帝のように始めから天皇にさせようと皇太子からの即位などという女帝とは違いますよねえ。

また、持統女帝なんて、お姉ちゃんが生きていたら無かったかもしれないですよねえ。

そうか。だから、皇極/斉明天皇のように再婚でも大后となることもあるのだね。


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~ホールロビーには里中満智子先生のパネルや、関連市町村の観光パンフレットがたくさん!~


以下、特に私にとって興味深かったこと。

wine 『日本書紀』における、皇極/斉明天皇の皇極時代と斉明時代との記述の色合いが違うこと。by 吉村先生

同じく、皇極/斉明天皇の性格は、皇極時代と斉明時代とでは違っている。by 里中氏

皇極時代=シャーマン的役割
斉明時代=積極的に統治


wine 入鹿の暗殺について、当時、中大兄皇子は正統な皇位継承者であったのに、その正統な皇位継承者が起こしたことを「クーデター」と呼ぶのだろうか??by 里中氏


wine 斉明天皇の土木工事好きは、「狂心渠(たぶれこころの みぞ)」などと悪く言われるが、それは、対外的に我が国をちゃんとした国家に見せるための都造りではなかったか。また、先進国的な見せ方をするため石材を多用した。by 里中氏

現代の「狂心渠(たぶれこころの みぞ)」を作っているのは誰かしら~、に場内爆笑。

「狂心渠(たぶれこころの みぞ)」との悪評を書記に残すところも凄い。ちょっと、やり過ぎたからか?と。


また、
飛鳥に点在し残る謎の石造物は、松本清張先生の小説や他の著作から、私はずっと斉明天皇のゾロアスター信仰からきたものだと信じていましたが、岩船などは、製作中の、斉明天皇の石室らしいですね。


wine 中大兄皇子がすぐに即位できなかった理由(わけ)は、昨今では同母妹である間人皇女との関係と言われていますが、
「当時は相当の噂になっていたはず。だって、1400年後の私の耳にさえ聞こえてくるぐらいですもの。」
by 里中氏に、場内爆笑。


wine シャーマン的要素は年をとるほどに衰えるのではないか。

Σ(゚д゚lll)ガーン そうなんだ…

だから、斉明時代は、皇極時代ほどにはそういうことをしていないとみられる。by 里中氏


wine 当時は前線に后達を連れて行った。たとえ身重でも。とはいえ、筑紫に出陣した時は斉明天皇は68歳!当時の68歳を考えると驚きだ。by 吉村先生

この出兵を里中先生氏が、集団的自衛権の行使とおっさったのに、またまた場内爆笑。お話しが上手いんですよ。ゆっくり、静かにお話しになるのにね。


などなどなど。

講演会には、橿原市・高取町・明日香村の長方のご挨拶や、文化財課の方からの遺跡の説明もありました。


そして最後に皆さん同じことをおっしゃる。
「飛鳥へどうぞ~~」

そりゃあ行きたいぜよ。もう十年ちかく行ってないわて。


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~時代は違うが、高取城の紹介案内もたくさんあった~


pen 余談

もう10年近く年前のこと。
飛鳥資料館で「玄武」が公開されるというので、この機会を逃したらキトラ壁画はもう一生見られないと思い(結局その後何度も、東京でも公開されたが)、遥か坂東より「玄武」のためだけに新幹線と近鉄線とバスを乗り継ぎ→2時間半並び→「玄武」のご尊姿を拝しに参ったことがあります。

それは想像していたものよりずっと小さくて、でも、暗がりで仄かに光に浮かび上がっていた「玄武」は、宝石のように神々しかったのを忘れられないでいます。


飛鳥歴史公園
https://www.asuka-park.go.jp/
かしはら観光ナビ「日本遺産」についてhttp://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/nihonisan/niuteisyoukai.html

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


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2017年2月 5日 (日)

謙信の侵攻と頼康の代替わり~「吉良頼康室」北条の血をひく女人達③

【二代北条氏綱 編-その2】


北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち、北条氏綱の息女たち~その1浄心院(太田氏高室)に続くは、吉良頼康に嫁いだ崎姫の足跡を辿りたいと思います。


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~吉良の重臣、大平氏の奥沢城跡といわれる九品仏浄眞寺の紅葉。背後は土塁(2016 秋)。周囲には堀跡も残る。しかし、ここの姫が崎姫にイジメラレタというのは伝説に過ぎない。~


wine 崎姫と山木大方(高源院)は別人だった

謙信の侵攻と吉良頼康の代替わりとの関連性の妄想に入る前に、まずは崎姫と山木大方(高源院)のことに触れなければなりませぬ。当ブログでも、しつこく&こってりと書いておりますので、ここでは簡単に。


かつては、崎姫=山木大方とされてきました。その後研究が進み、崎姫と山木大方は別人で、姉妹だということが分かってきました。


そして、


かつては、今川(堀越)六郎に嫁いだ山木大方が、六郎さん亡きあと、忘れ形見の氏朝を連れて吉良頼康に再婚したとされていました。しかし、上記のように、吉良頼康室の崎姫と山木大方は別人ということなので、

・吉良頼康室=崎姫
・山木大方(高源院)は今川から戻ったあと再婚せず未亡人のままで、六郎さんとの間の子である氏朝は、一人で吉良に養子に入った

つまり、氏朝にとって崎姫は叔母さんであり、義母でもあるわけですな。


Photo
~北条当主の直系ではないのでこの図には書かなかったが、山木大方の息子の氏朝には、幻庵の娘の鶴松院が嫁いだ。次代当主頼久の母である。~


どうやら、吉良頼康室 崎姫、氏朝母 山木大方高源院、そして、氏朝に嫁いだ北条幻庵の娘 鶴松院 の3人は、江戸時代を通して、ごちゃ混ぜ&混然一体&錯綜されながら、寺社やゆかりの土地で語り継がれてきたようです。

崎姫と山木大方のことを書いた以前ののブログ記事(のひとつ)を文末にリンクしましたので、ご覧くださりますと嬉しいです。


さて、ここで早速3つの疑問が生まれてしまいました。それは、吉良への養子縁組と、謙信の小田原攻めとの関係です。


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吉良頼康→北条の氏朝への代替わりは、何故行われたのか?

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永禄4年の謙信侵攻時、何故頼康は玉縄へ移されたのか?

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頼康室の崎姫はどこにいて、どうしていたのか?


実は、氏朝が吉良へ養子に入ったのが永禄3年12月。家督を継いだのは翌年2月で、これは頼康の生前。しかも頼康は40才になるかならぬかです。﨑姫と頼康には、分かっているだけでも3人の男の子もいました。

当主も生きていて嫡子もいるのに、なぜ北条からの養子が当主となったのでしょう?その頃は、特に吉良と北条の関係には問題はなかったはずです。むしろ吉良殿は、北条では別格扱い。大事にされていたように思われます。


それどころか北条は、はるる(足利晴氏)とよっしー(足利義氏)の間に、「臨時的な公方」として吉良頼康を擁立しようとした」可能性があるそうなのです。

その根拠は、
・ 天文17~21年までの間、頼康が「左兵衛佐」の官途を名乗ったこと。「左兵衛佐」は、代々鎌倉公方家が名乗るもの。
・ 頼康がこの官途名を名乗る直前に、はるる が北条氏と敵対していたこと。


つまり、
北条は頼康を、はるる との関係断絶~よっしー の公方就任までの間のプールとしていた可能性がある、ということだそうです。(谷口雄太『武蔵吉良氏の歴史的位置』(『千葉史学』57号2010年)より。)


そして頼康殿は、
氏朝に家督を譲った年の暮に亡くなりました。


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~吉良頼康が熊野大社を勧請して創建したと伝わる、等々力の玉川神社~


3つの疑問について、妄想に浸ってみました。

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吉良頼康→北条の氏朝への代替わりは、何故行われたのか?


▲ たんなる病だった

頼康殿は、ずっと病だったのかもしれません。でも嫡子がいるよね。それに、もし病だったら重要拠点の玉縄に移すかね?


▲ 氏康の陰謀か!

頼康が当主でいては、いつまでも吉良を完全に北条のものに出来ない!ここはひとつ、いいように使える(か?)氏朝くんを送りこみ、名門吉良の名跡をゲットし、その家臣団をも北条の直臣にしてしまおう!

と、氏康と相棒の綱成で図ったのか!?二人には為さま(氏康弟・北条為昌)のことで前科があるゆえ(←超妄想)、勘ぐってしまうのう…。


▲ vs 謙信の態勢固め

これは、②の、頼康殿の移動のことと一緒に考えねばならないのかもしれないですが、それこそ、謙信くんの侵攻に備えての人事異動の可能性もありますかね?

時系列をチト整理すると・・


(永禄2年)
4月 謙信、上洛し、関東管領内諾。北条らの制圧を決っする

(永禄3年)
8月 謙信、越後出立
12月 北条の氏朝、吉良へ養子に入る


謙信、関東の諸将を集結させながらズンズン南下し、次々と攻防戦を繰り広げる

(永禄4年)
2月 氏朝、吉良の家督を継ぐ
 〃 吉良頼康、蒔田→玉縄に移る
3月 謙信、小田原に陣を張る
12月 頼康、逝去


上の、氏康陰謀説の見方を変えてみると、以下のようになります。

こんな情勢の中、吉良閣下(「閣下」は梅花無尽蔵より)を当主として戦の真っただ中に置くわけにはいかない。嫡子もまだ若い。吉良殿に替えて一門の氏朝を前線に置いた上で、優秀な吉良家臣団の指揮を北条が直接とれるようにしよう!

なんて?


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永禄4年の謙信侵攻時、何故頼康は玉縄へ移されたのか?


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~吉良殿の城、世田谷城。(言わずもがな石垣は現代の土崩れ防止の公園整備。)~


①と重なりますが、永禄4年2月、氏朝が吉良の家督を継ぐ頃のこと。氏康は、謙信の侵攻から頼康殿を守るため、たいそうな人数を付けて頼康殿を綱成管轄の浦賀城へお移しするように命じます。

その後、浦賀城から玉縄へ変更します(吉良との取次ぎ、高橋郷左衛門への書状にあり)が、いずれにしても綱成の城。


まあねえ、最終的に頼康を移した玉縄が、避難場所として安全かどうかは疑問ではありますがね。だって、その頃の玉縄は、謙信くんの侵攻に備えて城の修復だの補強だのがガンガン行われているのですから。

まさか、吉良閣下を最前線で謙信くんと戦わせちまえrock
なんて?


頼康殿は玉縄城で亡くなったのでしょうか?それとも、謙信が小田原・鎌倉を去ったあと蒔田に戻り、そこで亡くなったのでしょうか?

もし玉縄で亡くなっていたら、それこそアヤシイ~~。

そこが知りたい。。。


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頼康室の崎姫はどこにいて、どうしていたのか?

まったく分からん!
( `д´)キッパリ


頼康殿自体が、蒔田にいたり世田谷にいたり、また蒔田に行ったり、玉縄に行ったり。

北条の女人達は嫁ぎ先の夫と最後まで行動を共にするという人が多いですが、それにしても、当時の正室が全ての場所へ着いてまわったとも思えん。


上にも書いた横浜歴博の「蒔田の吉良氏~戦国まぼろしの蒔田城と姫君展 2014.7」では、頼康の父の時代、その室(上杉)が「世田谷局(上杉定正書状)」と呼ばれたことから、

「正室は世田谷にいて、蒔田は別荘のような場所」
ではないか?とありました。

頼康殿の時代はどうだったのかなぁ。


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~私がクダクダと書いたものより、こちらをお読みになった方が遥かに良いと存ずる。1200円じゃが、取り寄せの価値大いにあり。~


うーん、私には じぇんじぇん分かりまへん。分からないなりに、そんなこんなを妄想しながら、まずは吉良頼康殿と崎姫の菩提寺探しです。これがまた大変。


wine 崎姫&頼康殿の菩提寺

その人を知りたければ菩提寺へ行け!
by マリコ・ポーロ


が、しかし…

見つかりませんweep


前回の太田さんちと同じです。死去年は分かっているのに、お墓が分かりません。頼康の法名が勝光院殿なので世田谷の勝光院のようなのですが、蒔田の勝国寺とも聞きます。どうもハッキリしません。「勝国」とは頼康のお祖父さんだか曽祖父さんの法名ですから、違うかもしれないし、一緒のお寺なのかもしれない。

頼康さえそうなんですから、妻の﨑姫にいたっては、その法名さえも分かりませんcrying


仕方がないので、その頃の吉良殿ゆかりのお寺をいくつか探索してみることにしました。

長くなったので、素敵なお寺巡りや、寺々に伝わる、崎姫が確かに生きた証の仏様については次回に続く。


「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」展
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/at-2d5f.html
「後北条の姫も妬んだ常盤姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-64d0.html

「後北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

「北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「太田資高 室~二人の浄心院▲北条氏綱の息女たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

ほにゃ。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年1月17日 (火)

講演 「戦国の争乱と沼津-境界の戦国史」 by 則竹雄一氏

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~一度立ってみたかった、何かにつけて登場する三枚橋城。左奥方向の、橋が架かっているのが狩野川(黄瀬川)。北条の徳倉城 はビルで見えなかった。~


さて、
絶賛開催中の、富士・沼津・三島3市博物館共同企画展「駿東・北伊豆の戦国史」の、沼津市明治史料館で行われた則竹雄一氏による講演会を拝聴して参りました。


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~充実の図録。なんと、200円也!~


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午前中は企画展を見学。


展示は、北条5代を主軸として、それぞれの時代に起こった、

今川義忠の死と跡目争い→宗瑞の伊豆入り→第1次河東一乱→第2次河東一乱→信玄の駿河侵攻→甲相同盟→御館の乱による同盟の崩壊→家康の登場と勝頼の駿河出陣→武田滅亡→家康の河東支配→氏政&家康の会盟→関東・奥惣無事・・

延徳3年~天正18年までの流れが、たっぷりの文書や地図・写真などと共に時系列で分かり易く説明され、たいそう濃ゆ~いものでした。


そうそう、今ハマっている葛山氏の展示もありました!


fuji 講演会

そして、より濃かったのが、午後の則竹雄一氏による講演会。

則竹氏の書かれた『北条氏康の子供たち 2015.12』での我らが北条氏照の項や、『古河公方と伊勢宗瑞 2013.1』を拝読し、一度講演を伺ってみたいと思っていたのでチト遠いですが頑張って沼津まで参った次第。行った甲斐がありました~。


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~惣無事(天正13年島津義久宛豊臣秀吉直書)、第一次河東一乱(天文6年妙法寺記・快元僧都記・西光院北条氏綱判物)、第二次河東一乱(天文14年妙法寺記・高白斎記)などなど~


則竹氏は、この様々な勢力支配が入り乱れた地域と時代を、たくさんの文書を元に時系列に沿い、明晰な声で、熱く、しかも分かりやす~く解説してくださいました。いや~、面白かったです!

境界の戦国史はとてもドラマチックで、大河ドラマ一年分を観たような気持ちになりました。


出来事それぞれへの則竹氏のお考えについては、私の勘違いや、私の書き方により語弊が生じると申し訳ないので割愛。へぇ~~confident と思ったことだけ。


▲ 沼津市が持つ豊富な史資料
伊勢宗瑞遺構546点。
市内現存文書約170点。

上にも書いたように、沼津は境界地域で支配勢力がコロコロと入れ替わったため、ひとつの場所で3大名の史資料がみられる。則竹氏曰く、「しかもケンカばっかりしているから、いっぱいお手紙を出す」

アハハ happy01 。へぇ~~


▲ 「駿郡」は古代以来の郡名ではなく、また「河東」も新しい地域名

元は「駿するがぐん とな。「駿郡」 の初見は、天文20年の今川義元判物。

へぇ~~


そして、よく聞くし、よく口にするけど、よく分かっていなかった「河東」の「河」とは何川だかご存知でした?あ、皆さんご存知でしたか。そうですよねえ。私知らなかった・・coldsweats01

富士川、なんですってね。「河東」の初見は、北条氏綱さまの天文6年の書状だそうです。

へぇ~~


▲ 「人返し」

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~天正6年北条家『裁許印判状』・天正13年北条氏規印判状など~


北条家の『裁許印判状』を読みながら、泉郷の「乙さん」という女性が、入れ替わる北条領と徳川領を行ったり来たりする様子と、なぜ村から民が欠落するのかという話を、日本昔話しのように楽しく説明してくださいました。

へぇ~~


たった一人の村民の足跡がこんな細かく書き残され辿ることが出来るとは驚きました。当時は、村民=生産力&戦力だものねえ。

乙さんも、さぞや、あの世でビックリしていることでしょう。


▲ 興国寺城のこと

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~下段。興国寺城(天文18年今川義元判物(写)・駿州錯乱(永禄11年北条氏照書状)~


かつて、興国寺城は「北条早雲旗揚げの城」と言われました。しかし昨今は、ごにょにょ・・となってきていますね。

2012年10月に当ブログでも書きましたが、黒田基樹氏は2012年にこう書いてらっしゃいました。
① 興国寺城拝領は史料になく、伝承の域を出ない
② 興国寺城築城は天文18年である(早雲はおろか氏綱も死んじょるsweat01
③ 早雲の領地は富士市の「下方荘」であり、駿東郡にある興国寺城は下方荘の支配拠点にはそぐわない

ゆえに、下方荘拝領が事実ならその拠点にふさわしいのは「善得寺」である、と。


2012年の本なので現在のお考えは分かりませんが、上の写真の、義元が真如寺(旧興国寺)に宛てた書状には、「興国寺の跡地に興国寺城を造る…」とあります。これが黒田さんも書いている天文18年築城説の根拠なのですね。

へぇ~~

則竹氏も、「ということは・・ねっ、沼津の皆さんにとっては・・・ごにょ」みたいにお話しされていました。


そんなこんなで、
企画展も講演会も興味深くて、へぇ~~と思ったことは他にも多々あれど、それを人様に自分が話せるかといえば、とても無理。だって、本当にややこしい地域なんだもん。乙さんの立場がよく分かる(?)。

駿州錯乱 ならぬ、脳内錯乱 bearing


いただいたレジュメの最後にあった「年表」が、年表とされながらも、さながら文書の史料集になっているのが凄かった!


企画展は、こちらの沼津市明治史料館と三島市郷土資料館「北条五代と山中城」が1月22日まで。富士市の富士山かぐや姫ミュージアム「三国同盟とその周辺」が2月26日まで。

ほにゃ。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年1月 5日 (木)

浄心院殿日海は二人いた!~「太田資高室」北条の血をひく女人達②

【二代北条氏綱 編-その1】


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~北条氏綱の銘と花押がある唐草螺鈿の鞍。ただ今、江戸博の「戦国時代展」でも展示。(↑画像は、馬の博物館「ススメ!小田原北条氏 2011.10」を観に行った時にいただいたポスターより)。~


昨年後半より足跡を辿り始めた「北条の血をひく女人達」。今川系との結びつきが濃密だった初代伊勢宗瑞まわりの女人達に比べ、勢力を広げていこうとする二代氏綱の代になると、娘たちの嫁ぎ先も当然の如く広がります。

ところが、その夫君も含めて人生の終わりまでたどり着けなかったり、複数の姫の言い伝えが錯綜していたり。脳内カオス状態にござります。


wine 氏綱の娘たち

「氏綱の娘」ということは、つまり、氏康の女兄弟ということになりますな。

二代氏綱は、少し地味な印象を持たれる当主かもしれません。しかし、氏綱がいてこそ北条が百年続いたとも言われる名当主です。北条ファンでは、氏綱を、「憧れる」というよりは「リスペクト」している人が多いですよねえ。他の当主を呼び捨てにしていても氏綱だけは、氏綱「公」と呼ぶ人もいます。


氏綱には息子は4人(氏康・不明・為昌・氏堯)しかいませんが、姫は多いです。6人いるとされています。昔は5人でしたが、最近は堀越六郎に嫁いだ山木大方と、吉良頼康に嫁いだ崎姫は別人となりましたそうなので、1人増えました次第です。


① 浄心院→江戸太田の太田資高室
② 大頂院→3代氏康のバディ、北条綱成室
③ 崎姫(法名不明)→吉良頼康室
④ 芳春院→古河公方、足利晴氏室
⑤ 高源院(山木大方)→今川の堀越六郎室
⑥ ちよ(法名不明)→葛山氏元室

こんなにいるのだよ、2代目の娘だけでも…。北条の血をひく女人達の足跡を訪ねようと思う!な~んて軽い気持ちで表明(?)しましたが、いざ始めてみたら、まーあ大変。体力と軍資金が許す限りでゆるゆると。


それでは、どなたからまいろうかにゃ。②大頂院、④芳春院、⑤山木大方については今まで随分と書き散らかしてまいりましたし、わらわ現在「道灌びいき」の会にお世話になっていることでもありますので、まずは、江戸太田に嫁いだ①浄心院様から。


pen加筆:2017.3.16
その後、二人の浄心院についてもう少し調べたところ驚くことが分かりました。こちらをご覧くださいましたら幸いです。http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html


wine 浄心院殿日海
(夫) 太田資高、江戸太田


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~太田資高開基「本行寺」。当時は江戸城内平河口にあったが、江戸時代に現在の日暮里へ移ったそう。~


いきなりですが、捜索願ひ!

この太田資高さんと、浄心院様のお墓はどこにありますか?


浄心院殿日海の夫である資高の祖父は、あの太田道灌です。ややこしいので浄心院関係だけでいうと、道灌の息子の代に、太田さんちは2つに分離独立します。

兄が、俗にいう江戸太田。弟(イトコとも?)が岩付太田です。北条は、3代氏康の代になると江戸だけではなく岩付にも娘を嫁がせたりもしますので、脳内は余計にカオス状態となります。


現代の太田家のご当主を存じ上げているので、なんだか太田さんちの個人情報に触れているようで気が引けてしまいますがcoldsweats01、話を493年前に戻すと…。


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~現代の品川プリンスシネマへ上がる坂道。氏綱の江戸城奪取時、曽我(上杉方)vs 多米(氏綱方)の「高縄原」はこのあたりと伝わる。~


大永4年正月、扇谷上杉の重臣ではありながら岩淵の砦で不遇をかこつていた(たぶん…)太田資高の内応により、北条氏綱は関東の流通の要であった江戸城を手に入れます。資高は、江戸・小机などの知行を安堵され、江戸衆の中では最大の領地を有します。そして、氏綱の娘を娶ることとなります。

しかし、資高は江戸城代などになったわけではありません。資高は城内の道灌ゆかりの香月亭に置かれ、城内には氏綱の重臣遠山や富永が入ってきます。江戸城は遠山を筆頭とした3人の城将がいる3つの城のような組織となるのです。


また、資高には先妻の子である長男がいましたが、北条の浄心院が生んだ康資が跡取りとなります。そのことも、次代の里見への離反へ繋がる要因のひとつだったのかどうか…?

次代の康資へは、遠山の娘が氏康の養女となって嫁いでいますよね。2代続いて北条は江戸太田家との結びつきを図りましたが、こちらの女人については、「遠山の血をひく女人」であって「北条(当主)の血をひく女人」ではないため、こたびは足跡を辿ることはいたしませぬ。


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~渋谷城跡といわれる金王八幡宮。高縄原から上杉を追った小田原勢は、渋谷方面へ迂回し江戸城へ押し込んだ・・と伝わる。~


そこで、上記の「捜索願ひ」です。

資高・浄心院、夫婦そろって菩提寺(お墓)が分かりません。没年は分かっているのに。息子の康資が安房へ移したのかしら。


資高はターニングポイントであった、江戸城のあの内応から23年後にその生涯を終えます。たぶん、そのまま江戸城の城将として、江戸城(またはその周辺)で亡くなったと思います。正室の浄心院は、その3年後に亡くなります。

浄心院も夫と同じく…と言いたいところですが、ここで疑問の三つ鱗。


▲ 疑問-1 浄心院は「比丘尼」なのか

太田家記には「浄心院殿日海比丘尼」とあるようです。法名から察するに日蓮宗ですよね。

大概は、夫が先立って剃髪してもそれは形だけです。なぜ彼女だけ比丘尼なのでしょう?「比丘尼」ということは、正式に修行したお坊さんですよね。いつの時点で仏門に入ったのでしょう。

分っからんのう…。


▲ 疑問-2 「浄心院日海」はもう一人いたcoldsweats02

Photo
~カオスは、祖父(資康)と孫(康資)の名が似ていることから始まっている?~


(浄心院殿日海-A
私が足跡を辿っている浄心院様は、北条氏綱の娘です(『太田家記』にあると黒田氏の本より)。


(浄心院殿日海-B
もう一人の浄心院日海は「比丘尼」ではなく「禅尼」と書かれています。資高のパパ(つまり道灌の息子)である資康の妻だというのです。

安房の「正文寺」という誕生寺の末寺に位牌があるそうです。誕生寺は、里見へ付ついた資高の息子(康資)のお墓があるお寺です。横須賀の、三浦氏系図にも「浄心院殿日海」の名前があるそうです。


↑ のともに家伝と寺社の御縁起ゆえ参考までにととどめたいとは思いますが、資康の妻というのは、宗瑞によって滅ぼされたあの三浦道寸の娘だと言われています。そのため資康は三浦について、新井城の戦で死んだと伝わっています。

ということは、Bは、資高のママということになります。姑(B)と嫁(A)が、まったく同じ戒名ってことがあるのでしょうか?


また…もし浄心院が  だとしたら、その位牌がなぜ安房にあるのでしょう?孫の康資は確かに北条から離れ安房の里見へ行っていますので、お祖母さんの菩提を弔ったのでしょうか?

康資が弔ったのは、母である浄心院‐ だということはないでしょうか?


そこで…
安房の館山市立博物館のHPを見てみました。そこには、道寸らが北条に滅ぼされた時、息子の時綱が安房に逃れてき た…とありました!ということは、浄心院日海が B だとしたら、その時、兄(または弟)の時綱と一緒に落ちたのでしょうか?


それと…
資康の墓と伝わるものがある横須賀の大明寺の御縁起には、「戦国時代には太田氏の帰依をうけ・・」とあります。三浦のお寺で戦国時代に太田系となると、やはり B の線が強いのでしょうか?いや、 A ですか?


うぎゃー。もう、分からん!
読んでくださっている方もそうでしょねえ?


ふと思い出しましたが…
三浦さんとこには「三浦浄心」なる、新井城から逃れ、後に北条の家臣となった一族の方がいますね。小田原にも籠城して、『北条五代記』を記している、あの人です。「浄心」はよくある法名ではありますが。

なにか、どこかで、色々と錯綜してないですかね?sad


▲ 疑問-3
岩槻領七里の「大園寺」の御縁起に資高の名を見つけました。

そこにはこうあります。

~太田新六郎資高(大崇院昌安道也居士、永禄11年1568年寂)、および太田源五郎康資の室(陽光院芳林妙春大姉、永禄10年1567年 寂)を開基大檀那とするといいます。~


・資高は江戸太田だから、岩付の領域である足立郡七里にあるお寺は関係ないのでは?
・資高の没年は天文年間。永禄ではない。
・法名も違う。この法名は、岩付太田の氏資のもの。資高の法名は不明。
・康資は資高の息子だが、その室の法名は「法性院」。没年は天正時代。
・「芳林院」は、岩付の氏資の母上(三楽斎の正室)。

世代も、一世代違いますし、資高は江戸城奪取に協力したから、氏綱が協力関係をより堅固にするために娘を嫁がせたはずなので、岩付領の七里とは関係ないですよね。


これまた分っからんのう。

江戸の太田資高に嫁いだ北条氏綱の姫、あなた様はいったい誰なのですか?


次は、③吉良に嫁いだ崎姫の足跡を辿ります。



「北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と頼康の代替わり▲北条氏綱の息女たち
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

「北条幻庵の伊豆の屋敷と、幻庵・長松院の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

「ついに分かった!北条氏照ご正室の最後と、氏綱正室の出自」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-f9c7.html
「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッときた氏綱ご正室の出自」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-2c49.html
「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-47de.html
「後編~」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-2d95.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年12月30日 (金)

「お城EXPO」での、わらわのマヌケなお話し

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~各城、観光色が強い中で、興味深い展示だった寄居鉢形城のブース。これは天正18年の陣図。~


あまりにマヌケな話で誰にも詳細を話さなかった(というか皆さん任務が忙しく話せなかった)が、話さないと年が越せないため(そうか?)書かせてくだされ。


実は・・・
会場を間違えて暫く並んでしまいました・・・泣き顔

そう。その夜は、パシフィコ横浜では福山雅治のコンサートもあったのですね。そういえば駅でポスターを見たような、見ないような。。。興味があらしまへんのでまったく気にせず、みなとみらいの駅からスタスタ歩いていました。


パシフィコ横浜のペデストリアンデッキの所で、デッキ道は二手に。電車の中&駅を降りてからも、あんなに地図を確認したのに(そもそも地図を見る必要があるか?的な道順だが)、自他共に認める超方向音痴のワテは、「お城EXPO」のポスターが何枚か並んでいる方へ(写真↓ご参照)、何の迷いも無くスタスタスタスタ、裸じゃないけどスタスタ坊主。

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案内の人がたくさん立っていて、メガホンで盛んに「階段の下へ降りてくださ~い!」と。前日テレビのニュースでやってたりしたし、やっぱり混んでるな~と思いながら、スタスタスタスタ階段を降りるワテ。


階段を降りると・・
ぎょえーっ!げっそり もっの凄い並んでるぅ~。でも、チケットを買う人が並んでいるのかもしれにゃい。で、案内の人に聞いてみた。

「チケットを持っているんですが、並ぶのですか?」

「はい。並んでください。」 by 案内の人。しかも、当たり前だろ~みたいな雰囲気。


うーん、帰ろうかな・・と思ったが、講演会を聞きたいから並んだだ。暫くスマホを見たりしていたが、ハタッ!と、変だ!と思って、もう一度案内の人に聞いてみた。

「開城・・ちゃう、開場は何時でしたっけ?」
「開場はまだまだですよ。まだ並んでいる方はいらっしゃらないのではないかな???」by 案内の人。

「え?10時じゃなかったでしたっけ?」
案内の人がもう一人寄ってきて、「15時じゃないかな?」


絶対おかしい!恐る恐る聞いたみた。

「これは何の列ですか?」
「物販です」
「何の物販ですか?」
「福山雅治グッズです」

しょえ~~~あせあせ(飛び散る汗)


ボーッとしているワテに、 案内の人、
「失礼ですが、どこに行かれるのでござるか?」←もはや、ボケ老人(失礼)対応

「お城EXPOでござる」 by ワテ


案内の人、
「あ、それなら、まっすぐ行って→横断歩道を渡って→階段を昇って→目の前に見えるところが入口ですよ~。ここは、福山雅治のコンサート会場です。」

「すみません・・・そうですよね。客層が妙に違うとは思ったんです・・」 by ワテ。

案内の方達、大爆笑ーわーい(嬉しい顔)


超、恥ずかしかった。寄る年波には勝てぬ。


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~小田原城のブースでは、ふたつの小田原城(戦国時代と江戸時代)を紹介。失礼ながらお顔を隠させていただきました。~


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~小和田先生、黒田基樹氏、諏訪間順氏、伊東潤氏による講演&シンポジウム。~

午前中の昇太師匠のトークイベントだけで帰った方達が多いらしく空席がけっこうありました。通し券のため、午後のこの贅沢な講演に入れなかった北条ファンが多々いらっしゃり、もったいなかったです。これが全国にわたる「お城EXPO」ではなく「北条EXPO」だったら、超満席の立見も出るって感じのシンポジウムだったでしょうねえ。まだ第一回目ですからね。来年はより期待ができるそうですよ。


また、西&南の城が多く、関東甲信越&東北の城が数城しか無かっ た(含む我が八王子城)ので、次回はもっと出るといいにゃ~。


そんなこんなで、皆さま良いお年をおむかえくださいませ。
萩真尼 こと マリコ・ポーロ


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2016年12月 9日 (金)

3館共同企画展 「駿東・北伊豆の戦国時代」

(2017・1・17 加筆
下記の、明治史料館で1月8日に催された則竹氏の講演会のことをアップしました。→
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/--by-fa4e.html )



毎年々同じことを申して恐縮ですが、地球の自転が速くなっているのか(←わけないただ今年末商戦まっただ中のため、取り急ぎ、前回のブログ記事 「年末、気になる後北条関係のイベント」の追加です。

非常に気になる魅力的な企画展です。皆さまはとうにご存知かもしれませんが、以下。


富士・沼津・三島3市博物館共同企画展 
「駿東・北伊豆の戦国時代」

今川、武田、北条の様々な思惑が錯綜した地。3館が共通テーマで企画展を開催中。3館分のスタンプを集めた方には景品をプレゼントだすて(なくなり次第終了)。


▲ (三島市)郷土資料館
「北条五代と山中城」

期間:2016/10/15~2017/2/26

残念ながら、黒田基樹氏の講演会も学芸員さんのギャラリートークも終わってしまいましたが。もっと早く書けば良かった・・weep

HP→https://www.city.mishima.shizuoka.jp/web_event015273.html


▲(沼津市)明治史料館
「駿豆争乱 国境(くにざかい)の攻防」

期間:2016/11/12~2017/1/29

すでに行かれた方のお話しを伺うと、とても濃ゆ~い展示だったそうですよ。1月8日に則竹雄一氏の講演会がありますが、残念ながらすでに締切でござる。

12/18(日)11:00 と 14:00 にギャラリートーク(学芸員による展示解説)があります。

HP→http://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/shisetsu/meiji/topics/h28/kikaku2.htm


▲ (富士市)富士山かぐや姫ミュージアム
「三国同盟とその周辺」

期間: 2016/12/17~2017/2/26

講演会は、1月15日から募集です。
日にち:2017年1月29日(日)
テーマ:「大宮司富士氏と大宮城」
講 師:松本将太氏(富士宮市教育委員会学芸員)

また、ギャラリートークは毎土曜日の、11時~&14時~の2回。

HP→http://museum.city.fuji.shizuoka.jp/event/index/detail/?p=1#204


以下、僭越ながらのマリコ・ポーロ
「早雲が最初に賜った城は、三国同盟の城?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-10e3.html
「北条氏政の御首級(みしるし)はどこに?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-470a.html

with 家康で、今川・武田とは関係ないですが・・
「家康と北条氏政、黄瀬川の河原で酒宴する」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-fe11.html


ほな。

萩真尼

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2016年11月17日 (木)

年末年始、気になる後北条関係のイベント(2016)

(嵐山を追加しました)

10月より北条の血を引く女人たちを書き始めてから、その女人たちの連れ合いの一族への興味というウネウネ障子の大空堀に落ち込み、どうにも抜け出られなくなっております。

前回のブログ記事で少しだけ触れた葛山さんの最後も衝撃的でしたが、2代氏綱の娘たちが嫁いだ太田さんと吉良さんなどは、その先代や次代はよく分かっているのに当代の最後がいまひとつ謎で、菩提寺も不明(つまり妻のお墓も分からない)。


ということで、ここで脳内ひと休み。暫くご無沙汰していた「気になる後北条関係のイベント」です。盛りだくさん!


horse 嵐山史跡の博物館
「戦国を生き抜いた武将たち」

期間:2016年11月1日(月)~2017年2月19日(日)


~小田原北条氏が北武蔵(現埼玉県域)に勢力を伸ばした天文の河越合戦から天正の小田原合戦で滅亡するまでの時期に、北武蔵で活躍した武将たちの動向を紹介します。~(HPより)

北条がかなり濃いみたいですな。学芸員さんによる展示解説の回数も多いですし、梅沢先生の講演会の申込も12/20 までで、まだ間に合いますね。

HP→http://www.ranzan-shiseki.spec.ed.jp/?page_id=355


▲ シンポジウム
「関東の戦国末期を再考する」

日にち: 2017年1月29日(日)
申 込:1月4日~17日必着

・基調講演
池享 氏(一橋大学名誉教授)
「河越合戦から小田原合戦まで―関東の戦国争乱終結の意味―」
・報告1
盛本昌広 氏(中世史研究者)
「北武蔵における国衆・地侍・百姓の動向―境目の地から後方支援の場へ―」
・報告2 
佐々木健策 氏(小田原城天守閣)
「小田原北条氏の領国支配―発掘調査からみる本城と支城―」
・報告3
秋本太郎 氏(高崎市教育委員会)
「小田原北条氏が進出した城について―出土遺物を中心に考える―」
・討論

HP→http://www.ranzan-shiseki.spec.ed.jp/?page_id=389


horse 江戸東京の成り立ちと、日本のお城文化展
江戸城再建

期 間:2017年1月1日(元日)~6日(金)
ところ:東京国際フォーラム
B1 ロビーギャラリー Ⅰ・Ⅱ、1F入口 太田道灌銅像コーナー

~関東から始まった戦国時代に活躍した太田道灌公に関する各種展示や、伊勢原市の甲冑隊が参加する行列練り歩きと寸劇や手作り甲冑の展示、そして「都市の文化力と日本の体幹“お城”」をテーマにした一二三四連学の講演会(有料で通し券@1,000円、当日1回券@500円。事前予約制)。~HPより

HP→https://npo-edojo.org/edo_castle/template.php?pcode=2806


horse 埼玉県立嵐山史跡の博物館リフレッシュオープン記念企画展
「戦国を生き抜いた武将たち」

期間:11月1日(月)~2月19日(日)


「小田原北条氏が北武蔵(現埼玉県域)に勢力を伸ばした天文15年の河越合戦から天正18年の小田原合戦で滅亡するまでの時期に、北武蔵で活躍した武将たちの動向を紹介します。北条氏ゆかりの兜をはじめ、秀吉の朱印状、武将が使用した刀、古文書、城跡からの出土品など貴重な資料を多数展示し、戦乱の時代を武将たちがどう生き抜いたのかを検証します。」(←HPコピペ)

だそうです。面白そうですねえ。

博物館のHP
http://www.ranzan-shiseki.spec.ed.jp/?page_id=355


そして、皆さまもご存知の以下2つのビッグイベント。今更、詳細説明不要なり。


horse 江戸東京博物館
「戦国時代展 -A Century of Dreams-」

期間:11月23日(水・祝)~1月29日(日)

博物館のHP
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/special/10313/%e7%89%b9%e5%88%a5%e5%b1%95%e3%80%8c%e6%88%a6%e5%9b%bd%e6%99%82%e4%bb%a3%e5%b1%95%e3%80%80%ef%bc%8da-century-of-dreams%ef%bc%8d%e3%80%8d/


horse 「お城EXPO」

期間:12月23日(金・祝)~12月25日(日)

博物館のHP
http://www.shiroexpo.jp/



horse 鉢形歴史館平成28年秋季企画展
「関東の武具~関東五枚胴具足を中心に~」

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~パンフレット~

期間:11月27日(日)まで


メイン展示は、伊澤昭二氏所蔵の五枚胴具足、北条氏邦の重臣である秩父孫次郎重国の具足。そして、以前当ブログで書かせていただいた、伝秩父と同タイプの檜原の甲冑の残欠のパネル展示でした。

今のところ現存する五枚胴具足は5つ。今回は、その全てが揃っているところを観られるというわけです。


特に伝秩父孫次郎殿の具足は甲冑好きの方達では有名なものだそうで、ご子孫の家に伝わっていたのが、こたび歴史館に寄託されたとのこと。失われた部分も多いですが、残っている兜・胴・籠手・脛当・佩楯等が展示されています。

五枚胴具足は戦国大名ではなく、関東の国衆たちが着用したものだそうですね。なぜ、関東だけなのでしょう。それも北条傘下ですよね。質問したかったのですが甲冑のことはトント不案内なので、せっかく答えてくださっても、その意味が分からなかったら申し訳ないので控えましてござりますcoldsweats01


karaoke 伊澤昭二氏の講演

6日に井澤氏の講演がありました。

内容は、甲冑の歴史や時代による変遷、そして五枚胴具足についてでした。

その後、氏の解説で展示を鑑賞しましたが、氏綱の黒漆塗の軍配と、氏康の兜「黒漆塗十二間筋兜」などが出ていました。軍配はシンプルで、兜もシンプル。戦場に被っていったとは信じられない、美しい調度品のようでした。


そこで知ったのですが、北条氏照の「銀象嵌四十二間筋兜鉢」が某お寺にあるそうな。井澤氏に何故それが氏照のものだと分かるのか伺ったところ、ある家臣のご子孫(その家の名は言えないとのこと)から買い取り、由緒書からみてもほぼ間違いないと。

見たいな~。見たいな~。でも、見ることかなわぬそうです。


また、私は興味がないのですが、前田慶次の朱塗の「木刀」には皆さんたかって(?)らっしゃいましたよ。


檜原衆の甲冑・・・の残欠を観に檜原を訪ねた時のマリコ・ポーロブログ記事
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-36f1.html
鉢形歴史館HP
http://www.town.yorii.saitama.jp/site/rekishikan/exhibition-kantounobugu.html


horse 小田原城「灯の回廊」

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~10月23日の点灯式~


「灯の陣 甦る!石垣山一夜城」は終わっていますが、11月26日まで、小田原城江戸時代エリアが330個の灯籠で照らされています。

Img20161023_182449_2


karaoke 黒田基樹氏の講演

お城で点灯式と石垣山プロジェクションマッピングのあった10月23日は、黒田基樹氏による「小田原北条氏100年の両国経営」の講演会もありました。

名将といわれている三代北条氏康が、実は優れた行政家でもあることを再認識。


また、五代100年に渡る両国経営の基礎を築いた北条早雲こと伊勢宗瑞は、どこでその仕組みを学んだのか…。それは、たぶん、今川で体験したことが大きな影響を与えたのだろうと思いました。

北条氏規も今川で少年時代を過ごしていますが、他の兄弟たちと少し毛色が違ってしまったのも、今川での影響大だったのでしょうか。やっぱり今川家って名門ですな。


名門といえば、黒田先生が面白いことをおっしゃっていました。

講演の冒頭は20分以上「真田丸」のお話しだったのですが、あそこに出てくるあの時代の武将達は、北条を除いてほぼ一代目の成り上がり。北条氏政だけが100年近く続いている正真正銘の国主であり、それが、ドラマではよく現わされていたと。


北条の税制が細かく整っているのも長く続いてきたからで、また、北条には「あぶく銭」が無かったからだと。「あぶく銭」とは、金山とか流通とか交易による収益のことだそうな。アハハ。

そして、それらの制度をまとめあげたのが、氏康なのですよね~。抜群ですよねえconfident


話がそれてしまった。
繰り返しまするが、小田原城の「灯の回廊」は11月26日まででござる。


horse 峰岸先生講演会
「享徳の乱~日本の戦国時代の開幕~」

会 場:八王子市生涯学習センター
日 時:11月27日(日)10:00~12:00

要申込ですが、すでに一応受付終了です。私は「道灌びいき」の会に入っておりますが、この時代はややこしくてどうにも全体像が把握でけしまへん。峰岸先生のお話が楽しみです。


flair 由井の城のこと

私は行けなかったのですが、先日の先生の講演会で、氏照の初期の城「由井の城」は「浄福寺城ではない」というお話しがあったそうですね。


行かれた方達からレジュメやメールなどをいただき、ドびっくり!数年前に当ブログでは、由井城=浄福寺城でこってりたっぷり書いておりますのですよ。しょえ~~。

峰岸先生のお話しを直接拝聴したわけではないので、今ここに講演の詳細を書くのは控えますが、キーポイントは、由井郷  と 由井の区別?


来る12月17日に、氏照研究では第一人者であられる加藤哲先生の講演会があります。何か関連するお話しが出ますかねえ。


horse ということで、加藤先生の講演会
「戦国時代の八王子~武蔵大石氏と北条氏照の入嗣」

会 場:八王子市生涯学習センター
日 時:12月17日(土)
講 師:加藤哲(八王子市文化財保護審議会副会長)

要申込。11月30日まで。

生涯学習センターHP
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/event/koza/chuokominkan/055609.html


karaoke 加藤先生も、先日も八王子で講演をされていますね。

題して「北条三兄弟」。八王子・小田原・寄居が北条を共通点とした姉妹都市となった、その記念講演でした。

こちらも私は仕事で行けなかったのですが、行かれた北条友から冊子のような分厚いレジュメをいただきました。氏政・氏照・氏邦三兄弟の生い立ちや治世や外交や戦いについての最新の研究成果だけではなく、行動や文書から推し測るそれぞれの性格分析にまでお話が及んだようです。行きたかった~。


ん?まてよ。
三兄弟の三都市?ほな氏規さんは?氏政の兄弟衆では欠くことのできない一人ですぞ。

そういえば、「北条五代を大河にしよう」という関連自治体一体となった観光推進協議会にも氏規さん関連は入ってないですな。小田原の北条五代PRキャラクターにも、いにゃい。

氏規は韮山城では在番であり、本城は三崎城です。三崎一帯は現代も三浦氏イチオシみたいなので難しいのかな…。


加藤先生が編纂委員をつとめてらっしゃる「新八王子市史 通史編2 中世」 絶賛発売中。
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/seisaku/13570/37248/054963.html


pen 氏照と氏邦の兄弟仲についての余談

北条氏照の最新の研究については、黒田基樹氏・朝倉直美氏編の『北条氏康の子供たち』を拝読し、ドびっくり~。目からミツウロコの連続でしたが、中でもどうにも引っ掛かっているのが、越相同盟時の氏照と氏邦の確執(と言っていいのかな?)。

その時ブログでも少し触れましたが、以前から気になっていたそのことを、『・・子供たち』では則竹雄一氏が、そして、直近では丸島和洋氏が『戦国大名の外交』で書いてらっしゃいますね。

かなり納得感がありましたので、こちらももう少し妄想を広げてみたいなと思っておりまする。

マリコ・ポーロ→「一枚岩じゃなかった、北条氏康の子供たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-9391.html


三井記念美術館の「松島瑞巌寺と伊達政宗展」は残念ながら行けませんでしたが、年末に向けてまだまだ気になる企画展や大イベントが目白押し。


horse 小田原「遺跡調査発表会」

もはや小田原の冬の風物詩となった?恒例行事。これが終われば、もう今年の歴活も終わり。

日にち:12月11日(日)

小田原市HP
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/property/kouhoushiryou/happyou2016.html


wine 超余談
鉢形城の深沢川にある、竜宮への入口

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~竜宮への入口のお釜は、この奥の方。~


鉢形歴史館での伊澤氏の講演会の前に、鉢形衆の北条師匠が城への大手口からの登城ルートを案内してくださいました。

いつもお城へは寄居駅方面から橋を渡って登城しており、「ふーん、鉢形城ってこんな感じか。我が八王子城の方が全然いいじゃん」などと思っておりました。


しかし、住宅街に残る痕跡を辿って諏訪から入ったのですが、本当にドびっくり~。目からミツウロコ。鉢形城の凄さに圧倒され、マリコ・ポーロ言葉少なに・・。

そして、竜宮への入口のお釜に向かって叫ぶ。

乙ちゃーーーーん!


正龍寺さんに左衛門が預けたという「水切丸」はいずこに?
寄居町商工会HP 「竜宮伝説~乙姫にもらった刀」
http://www.yorii.or.jp/otohime/densetsu.htm


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年11月 3日 (木)

北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?

【シリーズ 北条の血をひく女人たち】
伊勢宗瑞の息女たち~番外編その2

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~小田原久野にある栖徳山京福寺~


富士の裾野の名族、葛山氏の最後を今さら初めて知りました。衝撃的でした。文末に取り急ぎ少しだけ。


さて、
前回のブログ記事「番外編その①」では、幻庵こと北条宗哲の伊豆の屋敷と菩提寺を訪れた時のことをご報告いたしました。

こちら小田原の久野は、幻庵宗哲の小田原での屋敷があった一帯です。ここに、「栖徳山 京福寺」はあります。


pen その前に、幻庵宗哲の母親と正室についてですが・・

位牌や過去帳などの研究から、現在では、幻庵ママが善修寺殿。ミセス幻庵は栖徳寺殿(せいとくじ)とされているそうです。ママ善修寺殿は伊豆の狩野氏の娘(たぶん)。ミセス栖徳寺殿は今のところ出自不明です。


前々回のブログ記事「北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち」で昨今の説を、前回のブログで、それを確かめるべく伊豆修善寺にある幻庵の菩提寺「金龍院」をお参りした時のことを書きましたので、そちらも合わせてご覧くださると助かりまする。


そこで行き当るのが、幻庵宗哲のミセスはどこのどなた様か?ということですよね。

小田原詣(?)はもう何十回にもなりますが、先日、なんと初めて幻庵殿の久野へ行きました。例によってウロチョロウロチョロしていて見つけたのが「栖徳山京福寺」。


栖徳!
ミセスの法名ではありませんかっ!

あ、皆さんとうにご存知で。幻庵ファンには当然知られたお寺とのことですが、今まで全然気に留めんかっただよsweat01

京福寺は、かつては足柄街道をもう少し先へ行った幻庵の屋敷跡の奥にあったそうですが、その後(いつ?)現在の場所に移されたそうです。


ここで、ちょっと待った!

え?え?え?小田原の幻庵の屋敷跡は現在の中宿あたりですが、伊豆の幻庵屋敷跡も同じく現在の中宿ですよ!


これはどういう偶然の一致ですか!?ドびっくり~。

冷静になって考えると、つまり、そうなるべく場所に幻庵は屋敷を構えたということなのだね。お流石でござりますなぁ。


Img20160912_181242
~本堂の屋根にも内陣にも、泣く子も黙る三鱗~


大好きな萩の花が風情をいや増しているお寺の境内には説明板がありました。

へえぇ~。北条研究の先生方の本には、「栖徳寺殿」は<せいとくじでん>とありますが、お寺では<すうとくじでん>と呼ぶのですね。


え?え?え?ちょっと待った!←また(^^;

そも、こちらのお寺は、「葛山氏の菩提寺」だとあるではありませんか!


ドびっくり~!←また(^^;

つまり・・
栖徳寺殿様が幻庵の母であれ妻であれ、栖徳寺殿=葛山氏 ということか!


昔、何かで読んだことがあります。栖徳寺殿は、幻庵や氏綱の兄弟である、葛山に養子に入った「氏広の正室で北条の女」だと。

その時、某SNS に書いたことを今思い出しましたが、「確かに当時の伊勢宗瑞にとって葛山は大事かもしれないけれど、その頃の北条家にはまだそこまでの女子の要員がおらず、血が近すぎてそんなこたあないやろう」とスルーしていました。


しかし、逆に考えたらどうだろう?

幻庵の正室を葛山氏から迎えることは十分あり得る話です。宗瑞が、側室である葛山殿との間に出来た息子(氏広)を葛山へ入れ、もう一人の息子(幻庵)には葛山から嫁をもらう。

それは、もしかしたら、葛山殿の姪とか従妹とかかもしれない。(←で、大丈夫よね?血は濃くならないですよね?ややこしくて、自分で書いてて訳分からなくなっちゃった。)


当時の宗瑞はまだ今川の構成員だったから、自分も含め、三浦だの葛山だのとの婚姻政策が大事だったのかもしれない。実際、氏広は今川の御一家衆に名を連ねています。いや、すでに宗瑞が御一家衆だったので、今川筋との縁組が盛んに行われたのでしょうか?

孫(氏綱の娘)も葛山に嫁がせているし、前にも書きましたが、葛山とは濃ゆ~~い関係ですねえ。


(加筆
というか、もしかしたら宗瑞は、今川の御屋形様に覚られぬよう、着々と駿東ゲットを目論んでいたのかもしれへんかもしれへん。義元の代になった時、義元はそのけん制のために武田と組みましたものね。)


pen 葛山氏のこと

葛山に嫁いだ氏綱の息女 ちよさん のことを調べていて、ドびっくり~(←また)。

追々書こうと思っていますが、葛山氏の最後をご存知でしたか?あんなことやこんなことがあった結果(追って)、ちよさんが嫁いだ葛山氏元は、信玄殿に謀反の疑いをかけられ、「諏訪にて誅畢」されたそうですよ。


「諏訪にて誅畢」は、北条友の一人である武将さんが裾野市史から探し出してくださいました。

氏元は諏訪で処断され遺体は諏訪湖に沈められたとか、諏訪湖に投身したとか色々と伝わっているのですね。

武将さんが教えてくださったので私も図書館で裾野市史や諏訪市史や茅野市史を見てみました。「諏訪湖に投身(潜蹤)」という言葉は裾野市史の『仏眼禅師語録』にありましたが、諏訪や茅野の市史には葛山のことは何も載っていませんでした。


それにしても、宗瑞や氏綱がこれほど関係を大事にした名族の終焉は諏訪だった。それも、もしかしたら諏訪湖の底に沈んで終わりかと思うと切ないです。

このことは、また。


Img20160912_181129
~京福寺の景虎の供養塔~

話を小田原の栖徳山京福寺に戻し。

京福寺には、越後に嫁いだ・・ちゃうちゃうpaper養子に行った、氏康の息子で幻庵の娘婿であった景虎さんの供養塔がありました。


次は、葛山と共にその生涯を終えた ちよさんをはじめとする北条氏綱の息女たちになりますが、なんですか、様々な時代や様々な人々が交錯し、「北条五代」ってやっぱり長いな~と思った秋の一日でした。

では、こたびはここまでに。


北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2016年10月19日 (水)

北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」

【シリーズ 北条の血をひく女人たち】
伊勢宗瑞の息女たち~番外編その1



修善寺駅より下田街道をバスで下ること約10分 → 尺八の名曲「滝落」ゆかりの名漠旭滝がある「旭滝口」でバスを降り → 5分ほど坂を上ると、北条幻庵宗哲の菩提寺「金龍院」があります。

「金龍院」は眺めが良く、吹く風も爽やかな気持ちのよいお寺でした。


fuji 宝珠山「金龍院」

Photo
~坂の上の石段を上ると大きなな本堂が現われ、振り返れば幻庵屋敷があった大平(おおだいら)の景色が広々と見晴らせる。~


金龍院には、いつの時代に作られたものかは分かりませんが、幻庵&姉・長松院&妹・青松院、そして母親である善修寺殿のお位牌があります。

幻庵の母「善修寺殿」と、妻の「栖徳寺殿」がどうやら入れ替わって伝わっているらしいことは前回のブログ記事に書きました。次の番外編②でもそのことに触れますが、それを実証する手がかりのひとつが、ここ金龍院の御位牌にも見られました。


幻庵のことが書かれた本などには、「金龍院位牌によると・・」みたいなことがよく出てきます。大変申し訳ないことに、金龍院というお寺自体は明治の初めに無くなったとばかり思っておりました。

ところが、先日のブログ記事にも書かせていただいた三島祐泉寺さんのHPで、金龍院さんが現在も立派に健在されていることを知りました。本当に申し訳もございませんですsweat01


「金龍院殿」とは、言わずもがな、宗瑞の息子で我らが北条の長老である、北条幻庵宗哲の戒名でござります。

お寺の開基は幻庵宗哲。臨済宗大徳寺派早雲寺末寺でしたが、明治の廃仏毀釈の時に一瞬廃寺となり、その後は曹洞宗のお寺として再興されたそうです。

(お寺は境内は自由に入れますが通常本堂は開いておらず、事前にお寺へ連絡をとらせていただきました。)


fuji お位牌

Img20161011_215503_2
~古~い御位牌。写真の掲載はご遠慮願いたいとのことなので、超ヘタクソで雑な絵ですが簡単に書いてみた。(お位牌の形状などは、正確ではござりませぬ。)~


真ん中に金龍院殿、つまり幻庵宗哲。その右側には母の「善修寺殿」。左側には前回のブログ記事に書いた姉の長松院。その左が妹の青松院となっています。背面には、それぞれの関係性と没年が書かれていました。右から順に、

善 天正二年戌年七月弐五日 幻庵公母君也
金 天正十七己丑年十一月朔日 逝去
(空  白)幻庵公姉君也
(空  白)幻庵公妹君也

で、合っているかな・・。背面は、ちょっと見えないところもありましたのでチト不安。もちろん縦書きです。


ところで表面ですが、あれ?
右側(善の隣)が開いていてチト不自然ですね。

ご住職に、「複数を一緒にした位牌ってこういうものなのか」「右端に、いずれ他の誰かを足そうと考えていたのだろうか」と伺ってみたところ、「位牌は複数一緒というものはないですね」「最初は普通に金龍院殿(幻庵)だけだったのを、いつの頃かあとから足したのだと思いますよ」 とのこと。


そういえば、あまりにご先祖様が多くて位牌がたくさんになってしまい置ききれず、後世に数人をまとめたという古いおウチの位牌をいくつか見たことがあります。


再び、あれ?
「宗」の文字がありませんね。馴染みのある「宗哲」「宗意」ではなく、「哲公」「意公」となっていました。あにゃ?「宗」は大徳寺派の僧名ですよね。

このへんは、私にはチト分かりません。


よくお参りできるようにと、ご住職がお位牌を手前の机の上に出してくださいました。しみじみ~と手を合わせました。


fuji 伊豆の幻庵屋敷

Photo_4
~館跡にある謎のお堂~


金龍院のすぐ近くには、幻庵の伊豆での屋敷がありました。

幻庵宗哲の屋敷といえば小田原の久野のことしか念頭になく、修善寺大平の屋敷のことはまったく存じませんでした。金龍院さんと同じく、先日お参りした、幻庵の息子の菩提寺である三島の祐泉寺さんのHPで知りました。


候補地は、道芦原地区と下宿地区の二つあるそうですが隣接しているので、妄想する上では、ほぼ「このあたり一帯」という感じでいいのですかねえ。金龍院さんが詳しい場所を教えてくださいました。

一帯は畑でした。説明板もなにもありませんし、新しい路地や道路が作られていて、そこがそうだと知らなければまったくわからないと思います。でも知っているその目で見ると…雰囲気チト分かります。まさか、土塁と堀の名残じゃあないですよね?って。


畑中に狭い小高い場所があります。大きな大きな椿の木の下に、上の写真のお堂がありました。

畑仕事をしてらしたご近所の方が寄ってらして(不審だった?)少しお話を伺えました。お堂は、以前は個人の所有でしたが、今は修善寺町が管理しているそうです。中には、仏様がおわすそうです。

それ以外のことは分からないので、その場でスマホ検索してみましたが何も出てきませんでした。なんだろうねえ。お寺だったのかしらねえ。そんなに古くはないのかしらねえ。


(加筆
まったく分からんので、家に戻ってから伊豆市の方へ問い合わせしてみました。伊豆市さんからは大変丁寧で詳しいお返事を頂戴いたしました。

このお堂は「宝勝院」というお寺だったそうです。しかし、詳細は不明とのこと。また、幻庵の屋敷跡やその地の歴史についての内容も興味深いものでした。

私の方でももう少し勉強して、妄想を広げてからブログに書きたいと思っています。ありがとうございました。)


fuji 兄弟姉妹の晩年


Photo_2
~その、謎のお堂がある小高い場所から、下田街道や金龍院や旭滝の方角を眺めるの図。~


金龍院さんで、長松院さまが確かに生きた証のお位牌をお参りした後、境内から、遮る物なく眼下に広がる大平の景色を眺めました。

子供の頃の長松院さまはこの景色を眺めて暮らし駿河に嫁いでいったのだろうな。今川から戻ってきた晩年も、もしかしたら小田原の久野ではなく、この大平で余生を送ったかもしれないな。


また、金龍院の開基は天正11年とのこと。
黒田氏の本によると幻庵の発給文書は、家督を譲った天正11年頃に韮山から発給されたものが数通を最後にパッタリとなくなったそうです。

長松院さまだけではなく、幻庵も、晩年は久野を後継者(孫)に譲り伊豆で暮らしたのではないかと思いました。


早雲こと早雲庵宗瑞も韮山を本拠地としその生涯を終えました。中伊豆は私達北条ファンにとっては、やはり聖地ですねえ。


そういえば!
もう一人の宗瑞の息女、青松院さまーーっ。あなた様はいずこに・・


pen 名瀑「旭滝」

Img20161004_213503_2
~写真では全然表せないぐらい、大きくてビックリ。高~くて、神々しいほどキラキラキラキラ。天から落ちてくるみた~い。~


旭滝は、金龍院を下ってすぐのところにあります。136号から入って徒歩でもすぐです。ここには、かつて虚無僧の普化宗「瀧源寺 ろうげんじ」というお寺があったそうです。

虚無僧といえば、吉川栄治『鳴門秘帳』。田村正和サマ。


ぱおぉ~~~♪

どうも古い人間で。いや!時代はもっともっと昔のこと。そして、北条幻庵といえば尺八(一節切)。旭滝を見ることは、幻庵の菩提寺をお参りすることと同じくらい楽しみでした。


内田康夫の『喪われた道』という小説に、この旭滝と、普化宗や虚無僧、そして尺八の名曲「瀧落之曲」のことが書かれてあります(あと大久保長安のことも出てきますよん)。

訪ねた時が小説を読んだ直後だったので、もっと曰くありげな閉塞感のある滝だと勝手にイメージしていました。ところがギッチョン、明るくまぶしく、また、雨が続いていた後だったので水量も多く見事なものでした。つい、「おおぉ!coldsweats02 」と声が出てしもうただよ。


pen 県指定文化財の十一面観音

瀧源寺の御本尊だった十一面観音は、現在は金龍院にあります。平安時代の作とみられています。金龍院さんでは、そちらも拝ませていただけました。

高さは1mあるかないか。小振りなのに迫力がある観音様でした。函南といい、韮山の願成就院といい、伊豆半島には素晴らしい仏様がたくさんあるのですねえ。


早雲の息女だけでマリコ・ポーロは3部作になってしまう。氏直の息女までなんていつになるやら。いや、だいたいからして遠征費用が掛かり過ぎ、そこまで続くのだろうか。。。

では、こたびはここまでに。番外編その②へまだ続く。


北条幻庵の子息の菩提寺「三島 祐泉寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-200a.html
戦国武将が愛好した尺八 「一節切」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html

後北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-6735.html

北条氏政が謙信や信長にプレゼントした、韮山の江川酒
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-493e.html
後北条の女領主、伊豆の山木大方
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

ついに分かった!北条氏照ご正室の最後と、氏綱正室の出自
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-f9c7.html
‘元祖 義’  伊勢新九郎の韮山へ
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b243.html

早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-a414.html
前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-475a.html
「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0862.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年10月12日 (水)

伊勢宗瑞の息女たち~北条の血をひく女人達①

【北条の血をひく女人たち】 伊勢宗瑞 編~本編


040_2
~秋になるとコスモスが咲き乱れる石垣山(2011.11)。眼下に望むは相模の海と小田原の城。小田原で生まれ育ち、海が見えない土地に嫁いでいった姫たちは、さぞかし海が懐かしかったことでしょう。~


さて、当見聞録も8年目に突入いたしました。いつもご覧くださいまして誠にありがとうございます。


前回のブログ記事にも書きましたが、このところ、「北条の血をひく女人たち」が確かに生きていた証を辿って歩いております。実際に現地に立って感じた 姫君たちの残り香 を皆さまにお伝えできれば幸いです。

まずは初代当主の北条早雲こと伊勢宗瑞の娘たちから参りたいと存じまする。


wine 宗瑞(早雲)の娘たちと、息子の宗哲(幻庵)

宗瑞には、今のところ、娘が2人いたことがわかっています。ふたり共に母は側室の善修寺殿 で、幻庵とは同母の兄弟姉妹です。

伊豆修善寺にある幻庵の菩提寺「金龍院」の位牌によると、上から長松院、幻庵、そして下の妹の青松院の3人となるようです。(金龍院をお参りした時のことについては次回。)


北条家五代にわたる重鎮中の重鎮の長老幻庵は、二代当主である氏綱の腹違いの弟ですね。

氏綱の母は正室の南陽院殿。京の小笠原家の姫です。幻庵の母である善修寺殿(ぜんしゅうじ)の出自は、伊豆狩野氏だという説が現在では有力のようです。


狩野氏は伊豆のど真ん中、狩野川一帯を有する平安の昔から続く名族です。伊豆衆のリーダーともいえる存在で、宗瑞の伊豆支配に対しては最後まで抵抗しました。

ついに宗瑞に下ったあと娘を差し出す(差し出させられた?)ということは、あり得たことだと思います。また、幻庵の伊豆での屋敷は修善寺の大平あたりだったそうで、となると、お母さんの実家の土地を受け継いだということなのかもしれません。(大平を歩いた時のことも次のブログ記事で。)

それに、法名の「善修」は「修善寺」と似ているし・・・なんちて。


あっflair

善修寺殿の息子である幻庵の生まれは明応2年説が主流ですが、狩野氏が宗瑞に降りたのが明応5年ですから、もし善修寺殿が狩野氏だったら、幻庵が明応2年に生まれたということはないですな。もっと後です。


pen 幻庵の母と妻がテンコシャンコ

かつて「善修寺殿」はミセス幻庵だといわれていました。そして、幻庵ママは「栖徳寺殿」だとされていました。


どうやらそれは、「栖」が「善」よりかなり早くに亡くなったため、先に亡くなった「栖」がママで、「善」はミセスだと思われたからのようです。位牌や過去帳などからの研究で、今は逆。ミセス幻庵は「栖」、ママが「善」、ということだそうです。

史跡の説明板や小田原のHPはまだ以前のままですし、研究者の方達の昔の著作なども当然その当時の説で書かれていますから、そこらへんからの拡散が悩ましいところですねえ。


一緒にしては大変おこがましいですが、それは当ブログ記事も同じこと。気が付いた記事には加筆をしていますが、いちいち全部は出来ませんしねえ。


ちなみに、
ミセス幻庵「栖」は天年間没。幻庵ママ「善」は天正2年没 wobbly。さすが幻庵ママ、長生きですな。


Img20160912_203946_2
~小田原久野。広大な幻庵屋敷跡。その要害ぶりは、「久野城」と呼ばれていた。~


長生きといえば、やっと本題。話を宗瑞の娘たち(幻庵の姉妹)に戻し・・。これが驚いた。


wine ひとりめは、長女の長松院殿 (ちょうしょういん) さま

(夫) 今川の三浦氏員
(母) 善修寺殿(側室)
(同腹の弟) 北条幻庵 こと 宗哲


長松院は、今川の三浦氏へ嫁ぎます。

駿河三浦氏は今川家の重臣であり、今川の客分から御一家衆となった当時の宗瑞家と三浦の縁組は、今川当主の薦めもあったことかもしれませんね。


さて、その後何十年も経ち、北条の当主も何代も引き継がれ領域も益々広がった、その頃・・

この長松院の名前がまた表れます。


それは永禄12年。
そう、武田信玄の駿河侵攻の時です。

今川氏真一門は駿府を捨て掛川城に落ちます。その掛川城も家康に攻められ降伏。氏真らは妻の実家である北条に引き取られることとなります。


一行が蒲原城まで来た時、北条四代当主氏政は大伯父上の幻庵殿へ書状をつかわします(幻庵も srill 健在)。

「(承っていた)三浦しんぞうが、きのう蒲原に着きましたよ~」


「三浦しんぞう」とは、氏政の大伯母上であり、長老幻庵の姉上である、三浦に嫁いだあの長松院のことだそうです。

氏康の娘(氏政の妹)である早川殿は今川氏真の正室で、氏真と共に逃れてきていましたが、なんと長松院も一緒だったのですね!


ドびっくり~coldsweats02
まだ生きてたんですねえ・・・(失礼だ)

長生きですねえ。さすが幻庵の姉。さすが善修寺の娘。


考えてみると、長松院さまは、花蔵の乱も、河東一乱も、三国同盟も、義元殿の最後も、武田殿の駿河侵攻も、まさに今川でナマで見た方なんですねえ。

寿桂尼さまとは同年代。気に入られていたのかな~。う~ん。お会いしてお話しが聞きたいものです。


長松院が高橋某に再婚したという話もありますが、このように晩年まで「三浦しんぞう」と呼ばれていましたので、再婚説はないでしょう。あ、いや!80近くなって再婚!?まさかね。

ということで、三浦家の御新造さん長松院は、弟の幻庵の庇護の元で晩年を過ごしたようです。


子供達はどうしたのでしょう。子供と言ってもかなりの年齢ですが、氏直に仕えたとも何かで読みました。その後はどうしたのでしょう。徳川に仕えたのかな・・。

(加筆
さっき読んでいた黒田基樹氏の本の今川氏真のところに、幻庵が氏真の家臣三浦義次に所領を与えた文書のことが書かれていました。

この三浦さんが長松院の家族かどうかは分かりませんが、幻庵は親を亡くした若い一族や、他家から戻ってきたり避難してきた者たちの庇護をすることが多いですし、また、かつては今川との取次でしたから、その繋がりで、家臣達を召し抱えたりしたのでしょう。)


今川から戻った長松院が暮らしたのは、小田原久野の幻庵屋敷のあたりなのか、それとも幻庵の領地であり菩提寺のある修善寺大平あたりだったのか・・・それは、分かりません。

009_2
~長松院さまもお参りしたであろう修禅寺(地名は修寺、お寺は修寺)~


tv 余談

三浦氏にも色々な流れがあるようで、この三浦さん一族かどうかは分かりませんが、大河「武田信玄」の再放送を観ていたら、義元が亡くなった後のシーンに三浦さんは庵原さんと一緒に出ていました(何度か観ていますが今まで気にとめなかった)。


wine もう一人の宗瑞の息女、青松院 (せいしょういん?) さま

(母) 善修寺殿
(同腹の弟) 北条幻庵 こと 宗哲
(同腹の姉) 長松院殿


残念。
法名以外はまったく分かりません。早くに亡くなったのかしら・・。


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~小田原の幻庵屋敷跡に残る池(のごく一部?)。残っている土塁が分かり易い。~


horse 宗瑞の子供たち

こうして書き連ねながらつらつら考えていたら、嫡男(氏綱)こそ伊豆衆の堀江北条の娘をもらいましたが、次男(氏広)は葛山へ。長女も今川の三浦へ。末っ子の幻庵宗哲の嫁は葛山から(たぶん→次々回の「京福寺での葛山妄想」をご覧くださいまし)もらっていますな。

いいのか今川系ばかりで?とも思ってしまいますが、まずは地固め。勢力拡大のための大物他家との華麗な縁組は、次代の氏綱からとなります。


幻庵殿のことについても7年間たくさん書かせていただきましたが、幻庵の最新のブログ記事と、今川時代の駿府を訪ねた時のことにてござります。

北条幻庵の子息の菩提寺「三島 祐泉寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-200a.html

早雲の姉と北条氏規の「駿府」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html
駿府 「臨済寺」の特別公開
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
今川時代の駿府 「吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html

太田資高 室~二人の浄心院▲北条氏綱の息女たち
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と頼康の代替わり▲北条氏綱の息女たち
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html


horse あとがき三つ鱗

▲ 今回 参考にさせていただいたのは主に、
黒田基樹氏、下山治久氏、湯山学氏のご著作。三島祐泉寺さんHP、関連各地の町史、資料館・博物館発行資料、関連神社仏閣のご縁起・ご由緒などです。


▲ 北条当主の息女たちについてあらためて書く理由2つscissors

‐ 北条関係の資料館や博物館やお祭りなどに表れるのは、「北条の女人たち」とはいえ、それは「北条に嫁いできた他家の」女人たちであって、「北条の血をひく」女人はほとんど出てこないことが残念だったから。

‐ 「北条が大河にならないのはヒロインがいないからだ」とよく言われますが、北条にはドラマチックで波乱万丈な人生を送り、その任務を果たそうとした女人が多いことを知ってほしかったから。


▲ 女人たち妄想するにあたって、以下の3つを念頭に置きたいと思っておりまする。
1) 現代に繋がる家伝には立ち入らない。触れない。
2) 各地に伝わる姫伝説は書かない。←元々あまり興味がにゃい。
3) 神社仏閣のご由緒ご縁起や史跡説明板などは、昨今の研究に基づく変更がなされていないものが多いので、参考にとどめる。


では、こたびはここまでに。
次回へ続く・・・


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年8月24日 (水)

御用米曲輪の『報告書』&『江戸東京の下町と考古学』

その前に・・
岩櫃で楽しそうなフォーラムがありますね。

●●●
●●● 岩櫃城フォーラム

『ここまで見えた!!岩櫃城~最新の調査で明らかとなる真田の城の姿とは?~』

日にち: 9月19日(月・祝)
ところ: 東吾妻町コンベンションホール
定 員: 400名
申込不要

講演は、竹井英文氏、吉田智哉氏(東吾妻町教育委員会事務局)、齋藤慎一氏

吾妻町HP
http://www1.town.higashiagatsuma.gunma.jp/www/contents/1464220726660/index.html


▲▲▲
さて、本題でござる。


beer 谷口榮 『江戸東京の下町と考古学』

  Img20160813_075802
~2016.2.25 雄山閣 2200円
カバー表(東京東部地形段彩図 小林政能氏提供)

「縄文海進から昭和の戦争遺跡まで、近年の発掘調査の成果から水の都・東京低地の地域史を描く!!」


著者は、江戸(東京)の歴史好きにはお馴染みの、葛飾区郷土と天文の博物館学芸員・谷口榮氏。

まだ中世のところしか読んでいないですが、前島や葛西城のことが載っています。考古学なので人物のことはほとんど書かれていませんが、右下の赤丸内に「家康以前の江戸は寒村ではな かった!」とありますよね。このところ非常に気になっているテーマなので、とても面白かったです。

雄山閣HP→http://www.yuzankaku.co.jp/products/detail.php?product_id=8283


beer 『史跡小田原城跡 御用米曲輪 発掘調査概要報告書』

Img20160802_115312_2
~2016.3.30 小田原市教育委員会 3000円~


関係者用か!というくらいの、もっの凄い情報量。「戦国期遺構全体図」のオマケが嬉しい。

東国中世考古学研究会HP→http://tougoku.cocolog-wbs.com/_online/2016/05/post-2555.html


beer 『発掘調査成果でみる16正規大名居館の諸相‐シンポジウム報告-』

Img20160802_120318
~2016.3.10 東国中世考古学研究会 2500円~


2015年7月18日・19日に開催されたシンポジウムの記録集。 発表要旨の再録、総合討論の記録、成果と課題を掲載。16世紀の大名居館の建物・庭園・空間構成をどう読むか?(以上コピペ)

御用米曲輪はもちろんのこと、大内氏館、朝倉氏館、韮山堀越御所などなどなどの、調査成果の報告とそのあとのシンポジウム。

HP→http://tougoku.cocolog-wbs.com/_online/2016/05/16-e878.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2016年8月16日 (火)

北条幻庵の子息の菩提寺「三島 祐泉寺」

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~蓮と三鱗(本堂の屋根)のマリアージュ。祐泉寺は北条新三郎さんの中興開基。ゆえに、三島といえど三鱗は前北条ではなく後北条。~


前回のブログ記事の日帰り旅の続きでござる。伊豆の歴友さんが、三嶋大社→仏の里美術館とまわる前に、連れて行ってくださいました。


fuji 新三郎さんの父、北条幻庵宗哲とは

昔書いたことの繰り返しに少しだけ加筆したもので恐縮ですが・・


今更私が申すまでもなく、北条幻庵宗哲は北条早雲こと伊勢宗瑞の子息で、二代氏綱公の腹違いの弟君であります。

幻庵は、子供の頃から箱根権現に入り→近江三井寺で過ごし→その後は箱根権現の別当となります。箱根権現、伊豆韮山、上野平井、武蔵大井、小机・・等々々、莫大な所領を有す武人としてだけではなく、京とも密接な繋がりを持つ、北条家の文化&風流担当重役でもあります。


また、御一家衆として、男子女子問わず一族の端の端までの面倒を見ていたようです。誰がが亡くなると、その後進の後見となり、誰かが嫁ぎ先から出戻ってくると、その庇護をしていたようです。


幻庵は生涯、小田原本城近くの久野に住まいします。

久野の屋敷は堀と土塁が周囲を囲み、竹林の奥には風雅な茶室があり、一角には先だった正室の菩提寺が建っていたそうです。さながらひとつの城郭のようだったのでしょう。現在も屋敷跡の遺構がほんの少し残っています。


と~っても長生き。初代宗瑞から五代の氏直までが会えた方です。北条の百年を見てきた人。生き証人。

ただ、最後の最後だけは見ることがなかった。北条一族の上昇だけを見た、ある意味で幸せな人。いや!ここまで一族を見てきたのだから、肉体は死しても魂は残り、一族最後の日を小田原城で見届けたのかもしれません。


fuji 北条新三郎

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~祐泉寺の新三郎の墓。隣に並ぶのは、同日、討ち死にした弟の融深のものだと伝わっている。~


が、しかし、そんな重鎮中の重鎮の子息たちは・・・

長兄の三郎さんが早くに亡くなります。そのため、新三郎さんは跡継ぎとなります。だから、「新」三郎。


ところが、新三郎さんは、永禄12年の武田信玄の駿河侵攻時、城将として在城した、対武田最前線の城「蒲原城」で戦死してしまうのです。なんと、弟の融深も一緒。

蒲原城での戦いは非常に激しいものだったらしく、二人の兄弟だけではなく、清水康英の息子や、笠原など城兵たちは全滅したと伝わっていますcoldsweats02


三郎さんも、新三郎さんも、融深さんも生年が分かりませんのでシカとは申せませんが、幻庵殿は、息子3人とも、10-20代で亡くしてしまうのですねえ・・・。


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~祐泉寺にある新三郎氏信の肖像。死後100年位経って描かれたものとのこと。チト老けてないかえ?~

新三郎さんの正室は公家の西園寺家から迎えています。北条御一家衆で公家のお嫁さんがいるのは、新三郎さんだけです。父幻庵の京との繋がりが分かりますよねえ。


fuji 新三郎氏信の跡継ぎ

幸い新三郎さんには、氏隆という跡継ぎがいました。小田原戦の時は本城に籠城し、その後は氏直らと同じく高野山組です。

赦免の後は、讃岐丸亀城主生駒氏に仕えそこで亡くなります。跡継ぎはいなかったようで、幻庵の北条家はここに終わりとなりました。


祐泉寺
ご住職が語る、幻庵家と新三郎さんの話が面白かったです。ご住職は、新三郎兄弟が討死したのに、武田信玄を名将だと称えてらっしゃいました。敵を悪く言わないご住職はさすが仏門の方でらっしゃると思いました。


Img20160928_224723_3

蒲原落城とは全然関係ないですが、祐泉寺さんには第六天がお祀りされていました。一瞬、おおっ!と思いました。

我が氏照どのの八王子城の搦手にも第六天があります。前に、小田原の百姓曲輪のことを書いていた時に、小田原北条の守護神は何だろうと歴史師匠と話したことがあります。表は弁財天ですが、絶対に裏守護神があるはずだと。それでビビッときたのが第六天でした。ま、何の根拠もない妄想ですが・・・。


祐泉寺さんはHPも充実→http://www.geocities.jp/pycbb333/

マリコ・ポーロ、以前の幻庵殿関係のブログ記事の一部です。
「小机は まづ妄想の初めなり・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-3e14.html
「戦国武将が愛好した尺八 一節切」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html
「初詣2 北条幻庵の箱根」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-87c7.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2016年8月 9日 (火)

信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」

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~仏の里美術館の素敵な写真満載のパンフレットと入場チケット~


函南(かんなみ)は、まことにもって「仏の里」であり、「仏の里美術館」所蔵の 慶派 の多数の仏像は素晴らしいものでした。

が、その前に・・・


horse 三嶋大社「宝物展示」

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~迫力の彫刻が取り巻く本殿。嘉永の東海地震で被災。慶応2年落成。~


三嶋大社の宝物館で催されている宝物展示(前期)を見学に立ち寄りました。

三嶋大社は、今更私が申すまでもなく、北条早雲 こと 伊勢宗瑞が、2本の杉の木(山内上杉&扇谷上杉)をネズミさん(宗瑞)がカジカジしている夢を見たという言い伝えで有名ですね。


二代・北条氏綱が社殿を再建し、代々の小田原北条当主達にも尊崇された神社です。特集展示「古文書から知る戦国の世(前期)」も、ほとんどが小田原北条関係のものでした。

もちろん、頼朝、尊氏さま、鎌倉公方・基氏、秀吉など、同じく三嶋大社を厚く信仰してきた武家の古文書類も盛りだくさん。展示も、それぞれの文書の現代語訳、背景の説明、絵図面などが用意され、親切で大変分かり易いものでした。


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我らがアニキ、北条氏政の、例の「信長との同盟が叶えば社殿を建てて差し上げまする~」の願書(願文)も出ていましたよ。

願文をあげてまで望んでいたのだね・・。でも、信長の娘と氏政の息子(五代・氏直)との婚姻は叶わなかったね・・。


あれ?
ほな、社殿の再建はどうなったのだろう?coldsweats01


宝物館は以前から一度観てみたかったので、行って良かったです(涼しいしね~)。このためだけに遠方から行くのは人それぞれですが、三島周辺に行かれた時や、近場の方には是非にオススメでござる。見学にはけっこう時間を取った方がよいと思われます。

前期は9月25日まで。後期は9月27日から。また、今月(8月)17日には、恒例の流鏑馬があります!武田流でござる。

三嶋大社宝物館HP→http://www.mishimataisha.or.jp/treasure/


では、本日のメインイベントへ!


fuji 「かんなみ 仏の里美術館」

美術館があるのは、函南(かんなみ)桑原区。


樹齢800年といわれる恐ろしいほど巨大なクスノキを通り過ぎ、景色が開けると、「お堂」をイメージした美術館の屋根が見えてきます。

この桑原区にある平安時代の仏像群は、千年の長きにわたり、村人たちにより、戦乱や廃仏毀釈や災害などから守られてきたそうです。


あれ?
どこかこういう所を訪ねたことがあるぞ・・

そう。それは奥琵琶湖。湖北の十一面観音群ですわ。あるんですねえ。こういう所が日本には、いくつか。しかも守られてきた神仏像は、素晴らしいものばかり。


実は、函南の仏像群のことはまったく存じませんでした。伊豆在住の歴友さんから教えていただき、「仏の里美術館」のことも知ったのです。

こたびは、その歴友さんが車でアチコチ連れて行ってくださいました。


ルートは、

三嶋大社→祐泉寺(北条幻庵子息の墓)→かんなみ→韮山願成就院→毘沙門堂

と、真夏ゆえ城跡は行かず、もっぱら神社仏閣&美術館宝物館巡りとなりました。木陰やクーラーがあるから涼しいものね~sweat01


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~仏像が座す「お堂」をイメージした建物。平等院の宝物館「鳳凰堂」などを手掛けた栗生明氏の設計。実際はもっとぜんぜん素敵(ヘタな写真ですみません)。平日なのに来館者もけっこういらっしゃっていた。~


明治30年。
残った仏像群の散逸を防ぐために、地元の有志により 長源寺というお寺の裏山に「桑原薬師堂」が建てられ仏像達が納められました。

その後、これらの仏像達は函南町に寄付され、保存と後世への継承のため、みんなが鑑賞できる施設として「かんなみ仏の里美術館」が出来たそうです。


そもそも何故この地にこれだけの仏像群が残っていたのか?

弘仁7年(816年)、箱根三所権現を開いた高僧万巻上人が、嵯峨天皇の命を受け都へ上がる途中、高齢のために今の愛知県のあたりで亡くなってしまいました。万巻上人とは、伊達政宗が生まれ変わりだとされていた、あの万巻上人ですよね。

従者たちは上人のお骨と共に箱根へ引き返すことになりますが、この桑原の地で険しい山坂に難儀し、この地に一堂を建てて持っていた仏像などを納めたそうです。それが新光寺とういうお寺で、これらの仏像群は新光寺に関係するものだと考えられているそうです。新光寺はいつの頃か廃寺となりました。(美術館のチラシより)


十二神将も見ごたえがありますが、特に、慶派でも分かっている作品が少ない 実慶 の阿弥陀三尊像(重文)は素晴らしいものでした。

また、大竹区の廃寺となっている蓮華寺跡の小さなお堂に祀られていた、高さ15cm位の743体の観音像も公開されていました。展示は9月末までとのこと。


展示も美しく、それぞれの仏像もそうですが、仏像というものについての解説も詳しく紹介されていて大変興味深かったです。

ボランティアガイドさんも常駐。皆さん詳しいですよ~。


と、まあ、私がなんのかんの書いても稚拙な筆では書ききれまへん。この夏休み、中伊豆の温泉へ行って翌日10時に旅館を出されたあとは、ぜひ行かれてみてくだされ。

これまた素敵な、「仏の里美術館」のHPです。
http://www.kannami-museum.jp/


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~驚愕の、みしまコロッケ饅頭(ピンクの矢印のところに「饅頭」と書いてある)~


お昼は三島のウナギ?私達3人共ウナギは食べられないのでお蕎麦。名水の里のお蕎麦は美味しい。お土産は、「みしまコロッケ饅頭」。以前テレビドラマ「ごめんね青春」で知った三島コロッケにそっくりな、お饅頭。

祐泉寺や韮山の毘沙門堂のことはまた追って。


以下は、中伊豆での北条関係のことを書いたブログ記事の一部でござる。

後北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-6735.html

北条氏政が謙信や信長にプレゼントした、韮山の江川酒
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-493e.html
後北条の女領主、伊豆の山木大方
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

ついに分かった!北条氏照ご正室の最後と、氏綱正室の出自
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-f9c7.html
‘元祖 義’  伊勢新九郎の韮山へ
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b243.html

早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-a414.html
前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-475a.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2016年8月 3日 (水)

調査中の御前曲輪南堀(毒榎平北堀)を見てきました▲小田原

前回のブログ記事で見学会のことを書いた、城山の陸上競技場から出てきた小田原城最大クラスの堀を見てまいりました。

場所はココ ↓ です。

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~茶色が堀。緑は土塁。薄緑は傾斜地。(小田原市教育委員会複合図)


現在、城山陸上競技場はリニューアル中です。こたびの発掘調査の場所は、グリーンの矢印 の所。


紅い矢印 は、現在は見えない(毒榎平方面からは一部分そこはかとな~く見える)が、御前曲輪から毒榎平方面へ斜めに登りながら(毒榎平から御前曲輪へ斜めに降りながら)続いていると思われる堀。

つまり、下の写真の向かって右下方と左上方を繋ぐラインです。

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~向かって右側が御前曲輪跡(陸上競技場)で、フェンスすぐ脇が、こたびの調査現場。左上方が毒榎平。~


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~右側が競技場。左側に毒榎平へと続く斜面。~


もっの凄い、薬研堀!
薬研堀だそうです coldsweats01


反対側も出ていました。この写真で分かりますかね?

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~向かって左が競技場。右側が、毒榎平へ続く斜面。~


写真を撮るために私が立っているのが堀の上ですが、当時はもっと高かったそう。つまり、堀はもっと深かった!


堀は「毒榎平北堀」と呼ばれています。「御前曲輪南堀」とは呼ばないのかと伺ったところ、まあどちらも便宜上の呼び方になるから同じことだとのことです。

また、この堀は、「毒榎平を守るため」と言われていますが、「御前曲輪を守るため」と考える方もいらっしゃいます。


この陸上競技場部分は、いったい何だったのでしょう。それに、今はひとくくりで「御前曲輪」としていますが、当時は堀によってもっと細かく分かれていたのでしょうか。

宝永の火山灰の跡までもかなり高さがありますので、江戸時代には既に思いっきり埋められてしまったのですね。

それとも、御前曲輪ではなく、毒榎平の方の機能を主体に考えたほうがいいのかな~?


最近ワテが凝っている百姓曲輪がすぐ東側にあるように見えますが、百姓曲輪と御前曲輪との間には距離も高低差もけっこうあります。(標高を調べたが分からなかった。当時はどちらが低い?)

小田原の古郭エリアは曲輪にしても外郭ラインにしても、また堀そのものにしても、かなりのアップダウンがあります。南北は尾根にさえぎられて行き来できない場所も多いです。二次元の地図で見ていては分かりません。足腰丈夫な方は是非一度歩いてみてくだされ。


凄いねえ、小田原。
すでに表に出ている所はもちろんですが、先日公開された大堀切西堀といい、こたびの競技場の堀といい、壮大な土木事業ですねえ。

いかに自然地形を利用したとはいえ、たった3年位で成された仕業ですよ。しかも、四百年も土に埋もれていても、ほとんど崩れていない(埋もれていたから崩れない?分からにゃい)。

当時、よほど地形に精通した優秀な土木工事集団がいたのでしょうねえ。


まあね、あんまり調査が進むと、ワテの香沼姫さまの妄想がガラガラと崩れてしまいますけどね…crying

でも、知りたい。複雑・・


2011年に書いた(妄想した)ものです。今では少し違うかもしれませんが、よろしくば。

「小田原城、御前曲輪で妄想す~香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-7998.html

小田原▲大堀切の「西堀」が公開!
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-c1af.html
障子堀が出てきた「百姓曲輪」を偵察させていただいた
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-1a58.html
その3 ▲総構の「荻窪口」と「百姓曲輪」の関係
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-0e40.html
小田原城総構の「二重戸張」の衝撃
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-d7fd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年8月 1日 (月)

第1回 「お城EXPO」 開催!

fuji 今日は、徳川家康が江戸に入府した日ですな。


さて本題。

第1回 「お城EXPO」が開催されます!

主 催: あの「日本100名城」を選定した日本城郭協会、
株式会社ムラヤマ、株式会社東北新社、パシフィコ横浜

日にち: 平成28年12月23・24・25日
ところ: パシフィコ横浜


本日8月1日より、チケットぴあ等で入場券が発売されます。

旧八王子城を守る会のメンバーの方達数人が城郭協会で活動していることもあり、知人が様々関係することもあり、ご盛況となることを祈ります。


シンポジウムには当代の人気研究者や小説家の先生方が揃い踏み。小さなお子さん達も楽しめるような企画もありそうですので(たぶん)、クリスマスの三連休は楽しみですね。

詳細は、実行委員会HPをご覧ください。出展者も募集中だそうです。
http://www.shiroexpo.jp/index.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年7月21日 (木)

小田原見学会▲陸上競技場で最大の堀が検出!

(加筆、正確には、御前曲輪南堀ではなく毒榎平北堀のようですが、便宜上そうしているだけで、どちらも同じだとのこと。)

2_2
~御前曲輪。発掘調査中なのは、この写真の向かって右の隅っこ。~


北条友の投げ文がきました。城山陸上競技場改修工事の発掘調査で 最・大・級 の堀が検出されたので、緊急の現地見学会です。

日時: 平成28年7月23日(土)
9:00~正午


horse 小田原城古郭 「御前曲輪」

古郭でも奥深いところにあたる。

背後には3本の大堀切、北側(写真左側)上部は桜馬場。三方からは両の手で守らるれように山に囲まれた谷戸の広い窪地で傾斜を成している。ただひとつ開けた前面(写真の向こう側)からは眼下に相模の海 wave を望むというロケーションにある。

戦後(小田原戦ではない)、調査がされないまま陸上競技場となった。現在のところ、当時の使用用途は不明。


あーもう、次から次へと!小田原はキリがない。本当に、ファンタジーワンターランド。御前曲輪ですよ。大変なことですsign03


ついでに、公開されたばかりの大堀切 西堀 も見てきてくだされ。


文化財課 HPに、凄い写真が載っています。

HP→http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/property/topics/kenngakukai160723.html


2011年に書いた(妄想した)ものです。今では少し違うかもしれませんが、よろしくば。

「小田原城、御前曲輪で妄想す~香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-7998.html

小田原▲大堀切の「西堀」が公開!
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-c1af.html
障子堀が出てきた「百姓曲輪」を偵察させていただいた
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-1a58.html
その3 ▲総構の「荻窪口」と「百姓曲輪」の関係
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-0e40.html
小田原城総構の「二重戸張」の衝撃
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-d7fd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年7月13日 (水)

小田原▲大堀切の「西堀」が公開!

flair 今、天正18年、なぜ富士山砦が奪われて(奪わせて)しまったのか、早川を越えさせてしまったのか??を考えていますが、富士山砦の攻防について書かれたものが見つけられません。


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~公開部入口。開城って?~


本題の前に・・・


horse
北条氏政・氏照、墓前祭

毎年、北条氏政&氏照の最強兄弟の命日7月11日には、小田原の顕彰会さんによる墓前祭が営まれます。もちろん私は顕彰会のメンバーではありませんが、昨年に引き続きお参りさせていただきました(どなたでもお参り参加OK)。

今年は八王子城衆数名と鉢形衆1名が一緒でした。八王子城にも氏照のお墓はありますが、氏照が最後を遂げた小田原の地での、我らが兄上さまとの合同墓前祭は、ひとしおの感慨があります。


今年は平日だったせいか土曜日だった昨年より一般参拝者少なかったですが、顕彰会の会長さんも世代交代し、参議院議員さんや県会議員さんたちも若い方達ばかり。小田原では、若い世代に引き継がれていっているのだな~と、これまた違う感慨が涙

昨年の模様です→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/in-5a37.html

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~八王子の銘酒「氏照」を、氏政・氏照の「墓前祭」にお供えさせていただけた。~


さて、本題。


horse 小峯の「西堀」 公開

小田原城古郭の小峯御鐘ノ台では、東堀、中堀、西堀と3本の大堀切が有名ですね。3本の堀は外郭ラインと繋がり合い、複雑な北西部の防衛線を作っています。

東堀は、メディアなどで小田原北条が紹介される時は必ずといってよいほど写真や映像が出てくる、あの素晴らしい V字カットscissors の堀。中堀は、そのすぐ脇にあり車道となっています。


そして、西堀

今までは普通には入れませんでした。埋もれてしまっている部分や私有地があったからです(普通でなければチビッと入れたsweat01)。


こたび市有地部分が整備され、7月5日から一般公開となりました。墓前祭の前にさっそく偵察に行ってまいりました。

Img20160711_130118_2

真夏なのに、キレイに下草を刈ってくださっています。ありがとうございます。


Img20160711_222816

広いですね。ちょっと写真では写しきれないです。眺望も素晴らしい!


Img20160711_223325_2


元個人宅の遺構(?)が少し残ってはいますが、これで、東・中・西と3本の堀に立って、その壮大さを妄想できるようになりました。

入口は、今まで西堀の埋没あたりへコッソリ降りていた(これっ!)、水の尾口に向かう途中の、あの細い畑の脇の崩れそうな通路ではありません。東堀の、説明板がある方から入ります。中堀の脇の細い坂道を入る方です。看板あり。


西堀について、何年か前の、「小田原の城と緑を考える会」の総構ツアーの時にいただいた資料の一部を以下に抜粋させていただきます。


pen ・・公図等によれば全長 215m 位の距離で残存していた。尾根筋を横断する位置にあり、堀切の形態をなすため堀の左右に明確な段差はなく、わずかに西高東低の現地形により高低差があるのみである。

堀の東側には「小峯御鐘ノ台東」の土塁が続き、ここも原型をよく保存している。


規模は北端段違い部分から約100m程ほぼ直線状に南方へ走り、それより直角に東方へ折れて約15m直進し、さらに再び南方へ直角に折れ、つまり2回屈曲を示す。

これより先端までの間一部埋没しているが・・・現在は、曲折点より約35mほどが観察によって追跡できる。堀幅は比較的保存の良い部分で堀底で測って平均8.5m。平均堀幅に等しい。


北端は他に類をみないような残存状況のよい三方向からの段違い構造を示し、東方よりの外郭空堀に接続している。

西堀と外郭東方よりの空堀との中央軸線はほぼ一致し、双方の堀底はほとんど直角に落差があり、その高低差は西堀の方が5m高かった。また、東側つまり城内側には土塁が存在し、これは外郭土塁に接続して「小峯御鐘ノ台東」方向に続く・・pen


是非、行かれてみてくだされ。


wine以下は、北条氏照について書いた厖大なブログ記事から、ちょっと変わったものを。

「北条「氏政」の御首級(みしるし)はどこに?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-470a.html
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-df65.html

「小田原攻め、北条氏照の本陣 報身寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html

「北条氏照の存在が抹殺された?星谷陣屋」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-d9bb.html
「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-6cc6.html

「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html


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2016年7月 9日 (土)

7-8月の気になる後北条関係の企画展~伊東マンショと湖北の観音(2016)

小田原北条関係ではありませんが、10(日)で会期が終わってしまうので、まずは、こちらから。

間に合うかっ!


wine 特別公開「新発見!天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像」

ところ: 東京国立博物館
会 期: 7月10日(日)まで

八王子衆から教えていただいていたのですが、北条氏政のイメージ回復にとらわれ過ぎていてコロッと忘れておりました。以前、支倉常長の肖像が公開された時に一緒に行った400年来の友と観に行ってまいりました。


大友宗麟(宗麟は関係していないとの説あり)、大村純忠、有馬晴信ら九州のキリシタン大名がローマへ派遣させた少年たちのうちのひとり伊東マンショ。マンショくんの生い立ちや、この絵が辿ったストーリーも詳しく説明され、大変興味深かったです。

ティントレット工房なんですね!知りませんでした。平成26年に発見確認されたそうです。世界初公開とのこと。


少年使節団が送られたのは天正10年。支倉常長より10年程も前のこと。武田が滅びたり、本能寺で信長が最後と遂げ、甲斐・信濃の争奪戦が行われていた頃です。九州ではそんなことしてたんですねえ。

西洋画は特に分からないのですが、西洋で描かれたもののなのに、日本の「天正の時代」の雰囲気にどっぷり浸れました~。

トーハクHP→http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1793


flair 東博に入館するのに、飛行機に乗る時のようなセキュリティチェックがありまし た。常設のチケットを買うには並ばなかったのですが、チェックで炎天下けっこう並びました。これから半永久的にこういうことになるのでしょうかねえ・・・

東京オリンピックの時には、東京から避難したいとつくづく思いましたよ。


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~支倉常長像が公開された時の東博のパンフレット。常長とマルゴー姫cat。本物は、常長とワンコdogです。~


wine 「観音の里の祈りとくらし展Ⅱ-びわ湖・長浜のホトケたち-」

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~こんな素敵なクリアファイルをいただきました~


ところ: 東京藝術大学大学美術館本館
会 期: 8月7日(日)まで


近江の国。琵琶湖の北、湖北は「観音の里」とも呼ばれています。

以前に当ブログでもご紹介させていただきましたが、湖北の村々には何百年もの間、村人たちに信仰されてきた百を超える神様(神像)・仏様(仏像)が坐します。

戦の続く戦国時代や明治の廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた時には、仏様たちは村人により川に沈められたり土に埋められたりして守られてきました。現代も、廃寺になったり住持が常駐していないお寺の仏様たちは、地元の自治会などによって大切にされています。


水上勉や井上靖や白洲正子が書いた湖北の仏様たちの話にカブレた若い頃は、私も湖北の観音たちを訪ねて歩きました。いや、それぞれがとても交通の便が不自由な場所に点在しているので、歩いたというよりは、バブルの頃だったのでタクシーで大枚はたいて巡りました。

仏様たちは、ボランティアガイドさん達が案内してくださったり、地元の古老が説明してくださったり、あらかじめ役所に電話をしてお当番の方に鍵を開けていただいてからお参りしたりと様々ですが、どの仏様も敬われて・・というよりは愛されていて、皆さん地元の仏様たちを誇りに思ってらっしゃる気持ちが伝わってきました。


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~クリアファイルに入っていたパンフレット~


その仏像のいくつかが、こたびこの江戸の地にはるばるお出ましになられましたので、お参りに行ってきました。私の好きな仏様のひとつ、石道寺の十一面観音もいらしてくださいましたが、あにゃ??昔ご尊顔を拝した時は、唇に紅が残っていたような・・kissmark

しかし、これだけ仏様方が江戸出張中だと、今、夏休みで湖北の観音の里を巡ってみよう!と行かれても皆さんご不在ということですね。ありゃ~。すみませんねえ。


藝大の展示はいつもそうですが、こたびも仏像はケースにも入らず、テグスみたいなものも無く、チビッと抑えのようなものも下方に見えはしますが、地震とか大丈夫なのかなと心配にもなりました。

仏像はもちろん美しいのですが、それぞれの仏像の説明板にある、それぞれのお寺やお堂の写真がまた素敵でした。また行きたくなっちゃうね~。


そうそう、説明板といえば、それは湖北なので、私達に馴染みの南北朝~戦国時代の武将達の名前がたくさん出てきます。

信長とくれば、焼き討ち。秀吉とくれば、再興、再建。焼き討ちは戦国武将は誰でもどこでもやっていますし、次政権はそれを復興しているのですが、こう連続して書かれると、まるで信長が悪い人で秀吉が良い人みたいに思えてきて、なんだか信長がカワイソウになってしまいました。

藝大美術館のHP→http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2016/nagahama2/nagahama2_ja.htm


「みちのくの仏像」展と、会津の徳一」東博
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-70b4.html

藝大美術館での興福寺仏頭と十二神将の企画展のこと
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/2013-1dd6.html

「白洲正子展「神と仏、自然への祈り」世田谷美術館
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-13d7.html


horse 「戦国武将と足利学校」展

ところ:足利学校
会 期:9月1日(木)


・・・今回の展示では、戦国時代に活躍した7人の武将を足利学校所蔵資料によってご紹介します・・・(HP一部コピペ)

すでに行かれた享徳師匠がおっサルには、小さな展示だが充実とのこと。ぜひ行きたいですねえ!

足利学校HP→http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/senngokubusyoutenn.html


「古河公方の古河を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html
「後編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8375.html

「講演会「鑁阿寺と足利氏」at 金沢文庫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-00e3.html

「葛西城を歩くツアーに参加しました」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-7c64.html
「後北条一族の陰謀、公方の御座所 葛西城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fdbc.html


fuji 平成28年度 <前期> 通史・宝物展示

ところ: 小田原北条といえば「三嶋大社」、の三嶋大社
会 期: 9月25日(日)まで


1)三嶋大社の通史
2)特集「古文書から知る戦国の世(前期)」
3)紹 介「さまざまな宝物」
4)「奉納刀展示」

以前行った時は宝物館には寄れませんでしたので、一度行ってみたいと思っております。小田原北条関係はどれぐらい出ているかな・・?

三嶋大社HP→http://www.mishimataisha.or.jp/treasure/


嵐山や小田原でも魅力的な連続講座があるようですが、今宵はこれまでにいたしとうございます。


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2016年7月 5日 (火)

天正18年7月5日「小田原開城」 アーカイブ

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~虎朱印と北条氏直の花押 (以前、神奈川県立歴史博物館で購入)~


何年か前、あるところに書いたことがあります。

いつの時代でも、長く続いた家や組織を終わらせる最後のリーダーの勇気と辛さは計り知れない・・・

こたび、リニューアルなった現代の小田原城天守閣のシアター映像や、先日の大河「真田丸」を観て、あらためてそう感じました。


今日7月5日は、小田原北条最後の当主北条氏直が 「時代に降った日」です。小田原北条は日本中の戦国武将たちに見守られ、そして助けられながら戦国フィナーレを飾りました。

以下、今まで書いた北条氏直さんに関するブログ記事のいくつかです。ご覧くださりましたら嬉しゅうござります。(特に昔書いた記事に間違い勘違いもあるかもしれませんが、直すとその時のパッションが薄れてしまうのでそのままにしております。ゴメンナスッテ。)


「北条氏直、最後の当主の最後の朱印状」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html
「北条氏直の投降は、走ったのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-c645.html

「本日(7月5日) 小田原城開城す」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-e584.html
「今日7月21日、北条氏直は高野山へ旅立つ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/21-969c.html 
「今日は、北条氏直の命日 2010.11.4」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-dc5d.html

「石垣山で歴友たちと天正18年を偲んだ 2013.7」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e888.html
「小田原城開城の日に歩く、後北条の小田原 2012.7」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-3e2c.html
「天正18年の石垣山一夜城を歴友と歩く 2011.12」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「後編~天正18年の小田原へ、歴友と時間旅行 2011.7」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/18-0cf3.html

「小田原城開城へ、最後の6ヶ月」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-f53a.html
「それからの後北条一族」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-93b0.html

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html


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2016年6月29日 (水)

歴史を変えていく「大河ドラマ」

020
~9年位前に撮った写真~


真田丸ロス・・・

えーっ?!
裏で(表でも)あんなに文句言っていたのに、メンドクサイ女だな~。←天の声


「真田丸」が終わってしまい (え?)、ブログを書く張り合いが無くなってしまいました。放映していた時は、「他にあれもこれも書きたいのに、氏政さんの弁護に燃えて(萌えて)全然書けないじゃあないか!」とハラタツノリ だったのに、いざ終わってみると、それまで何を書こうとしていたか思い出せにゃい…(^^;sweat01

「小田原北条落城・開城強化月間」だったのに、毎年書いている、鉢形の開城や、瑞渓院の籠城中の自害や、我が八王子城落城や、韮山城開城などなどもつい書き忘れてしまい申した。


前半と、舞台が一度大阪へ移った後また関東へ戻った後半との氏政・氏直父子の性格設定が随分変わっていましたね。なんじゃ?これは。最初から後半のキャラクターでやってくれていたら私もここまでハラタツノリにはならなかったのに・・と思ってしまいましたよ。

それはそれとして。


さて、
以下は北条狂の独り言ゆえ、そうではない方々には御免なすって。

何度も何度もしつこいですが、私はなにも大河ドラマは史実通りにやれなどとは これっぽっちも思っておりやせん。だいいち当時生きていた人はいないのですから史実なんてホントのところ分からないですものね。書状は残っていても嘘やハッタリを書いているかもしれないし、実際の話し言葉や話し方なんてまったく分からないもの。


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~川中島。大河「風林火山」の頃に撮った写真。~


今、毎週日曜日にBSで「武田信玄」の再放送をやっています。何度観たか覚えていませんが、また観ていて思いました。

武田信玄と上杉謙信の川中島での一騎討ちは、実はなかった・・

そんなことは、チョッと歴史が好きならほとんどの人は知っています。でも、信玄や謙信を主役にした大河ドラマで一騎討ちのシーンがなかったら、なんだか物足りないと思いませんか。


「何故、なかった事をさもあった事のようにやるんだ!視聴者があったと思っちゃうじゃないか!」なんてハラタツノリにも全然ならない(私は)。だって、ドラマだもん。

そのシーンの放映日を心待ちにし、どういう演出になるのか、役者さんがどういう演技をするのかを楽しむ。だって、ドラマだもん。


そして、それは、武田信玄と上杉謙信のイメージダウンには、まったくならない。

でも、信玄や謙信のファンは嫌かな?


まあ川中島一騎討ちほどになれば、もはや歌舞伎でいうところの「型」ですが、小田原北条で言えば、まずは北条早雲こと伊勢宗瑞の「火牛の計」ですかね。

万が一、北条が大河になって「火牛の計」をやったら・・・やっぱり私は嫌だな~。そりゃあ宗瑞が格好良く描かれるでしょうし、本当はどうだったかが分からないから、そこは創作が入るとしても、もそっと真実味のある小田原奪取をやってほしいと思うでしょうねえ。


では、北条友がおっさていた氏康の「河越夜戦」は?

あれも後世に作られた話ですが、「風林火山」ではやっていましたよね。北条ファンは知っていますが、特に北条のファンではない歴史ファンではほとんどの方が「夜戦は本当だ」と思っていたことですよね。

あの時、上杉憲政を演じた市川左團次さんは、さすがに上手くて御大の風のある憲正でしたが、憲正ファンは憤慨していたのかなあ・・。


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~小田原の早雲像。火牛の計の牛さん達と伊勢宗瑞。伝説とはいえ、カッコイイheart01。~


「大河ドラマ」は影響が大きいです。

たった一回のドラマのイメージが視聴者の脳内に植え付けられてしま います。我が家の親や同僚たちのように「大河でやっていることは、ほぼ本当のこと」と思う人が多いのです。


また、大河でやると、NHKはじめ各局の歴史バラエティー番組も、そのコンセプトに追従することが多いです。お祭りや観光パンフレットや観光歴史館なども、それに沿って作られます。そうこうしているうちに、非常にそのエリアのその時代に詳しい人は別ですが、それはだんだん定説になっていくと思うのです。

私も北条関係だと「あれ?ぜんぜん違う」とそこそこ気が付きますが、それ以外だと、こんなことを書きながらもけっこう信じてしまっていることが多いのだろうと思います。


そうそう、今週の回ではまた、江戸はススキの原で何もなかった的なことを言わせていましたね。前に当ブログでも書きましたが、それは後の徳川政権が作った話で、戦国時代の江戸は流通の要。品川湊は繁栄していたし、道灌も城を構えたし、北条氏政も隠居後は江戸城にいたことを黒田基樹氏も書かれています。

あのお洒落でキチントさんの氏政がススキの原のボロ城に住むわけないでしょう。大河でやれば、ほとんどの視聴者の認識に決定打を与えます。これで、太田道灌も江戸の上杉も北条も無かったことになってしまいましたね。


西股氏がご自身のサイトで、江戸は寒村ではなかったと説明してくださっていますが、大多数の視聴者はネットは読まないですよ。読むのは、とうにそれを知っている歴史好きです。

今まで私は、大河の関係者様方のHPやブログやツイッターなどを読んだことがありませんでした。今年は、黒田氏、西股氏、丸島氏など何人かの方達のサイトを読んでいます。

今年の『文芸春秋』5月号での、山田太一氏と近藤晋氏(元NHKプロデューサー)の対談「鶴田浩二と菅原文太がいた時代」にもありましたが、昨今のドラマは 「分かり易く」 が大事なようですね。大河ドラマもしかりのようです。


「分かりやすく対比を描きたかったから、本当は上洛しようとしていた氏政を上洛拒否に描いた」とか、「当時の商人は皆そういうことをやっていたから、利休は北条への武器提供はやっていなかったけど、やってたことにした」とかとかとか。

そういう制作意図の犠牲にされた歴史上の人物はどうなるのか…。もう、あの世から反論は出来ないよ。


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~岩槻の道灌像。道灌像は、江戸時代に作られた山吹伝説の鷹狩装束姿が多いですが、こちらは珍しい甲冑姿。~


今回の大河では、「文句いい過ぎ。他人の歴史観をとやかく言うのはどうかと思う」みたいに言われ歴友を失ってしまいました。また、蟻の爪にもならない微々たる力ですが、少しでも小田原北条を知ってもらえたら嬉しいと何年もブログを書いてきたのに、大河であんな氏政や氏直を描かれたり(特に前半の頃)、やってもいないことをやったように捏造されて、大概の人達はそれを信じてしまうんだな~と虚しくなってしまったりしまた。

もちろん啓蒙しようなんて大それたことを考えているわけではなく趣味で好きで書いているのだし、弱小ブログの影響力がないなんて当たり前なのですが、ドヨ~ンdown となって、北条ブログをやめようかとも思ったりもしましたわ。


まあね、だからと言ってね、世界の情勢にはまったく何の影響もないですがね。

ただ、明智さんや、吉良さんや、小早川金吾さん達のファンの気持ちが今更ながらよう分かる今日この頃。


pen おせっかいな弁護
どうやら時代考証の先生方は、制作サイドや脚本には否やはつけられないそうですよ。いくらドラマとはいえ、そこは大河ドラマ。制作陣はもっと時代考証家の意見を聞いてくださいましよ。)


「家康以前の江戸は本当に 寒村 だったのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-0a2f.html
「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「北条氏政の 汁かけ飯 は後世の創作」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e356.html

「大河 独眼竜政宗」感想
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-cd19.html
「大河 武田信玄~小田原攻め(永禄12年)」感想
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-d8e7.html
「大河 江」 締め・・・というか繰り言
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-f2e0.html
「大河 清盛」の崇徳院と、時代劇のことチョッと
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-2365.html


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2016年6月17日 (金)

小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した

よろしくば、前回のブログ記事も合わせてご覧くだされますと嬉しいです。
「天正18年、そして小田原は囲まれた!」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-918d.html
「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html


Img20160614_234850_4


horse 登場人物

▲ 先代の二人の兄弟

(北条氏政)
御隠居、小田原北条四代当主
(北条氏照)
氏政のすぐ下の弟、八王子城主、北条軍団軍団長、氏政の片腕

二人は小田原開城後、秀吉の命により共に切腹する。


▲ 当代の二人の兄弟

(北条氏直)
氏政嫡男、五代当主
(北条氏房)
氏直の弟、岩付城主

二人は開城後、高野山へ送られる。氏直は、翌年、赦免となった大阪で亡くなる。享年29才。氏房は、2年後、お預けとなった肥前唐津にて秀吉の朝鮮出兵時に亡くなる。享年27才。


horse 天正18年7月5日、小田原城 氏政の新城内

上座に座る氏政、縦格子窓から外を眺めて立つ氏照。氏政の前に控えるは、剃髪し墨染の衣に身を包んだ氏直と氏房。


氏政 「・・もうよい、氏直。そなたはそなたの道をゆけ・・」
氏直 「父上・・」

氏照、振り返り穏やかにうなずく。

氏直 「おじ上・・」


深々と頭を下げよろめきながら立ち上がる氏直と、それを支える弟氏房。

退室しようとするも敷居際で前に進めず立ち止まる氏直の背中に、氏政、必死の願いをこめ

「ゆけっ!ゆくのだ!」


全ての思いを断ち切るように、涙をこらえ城内を渋取口へ向かう二人の兄弟。そのバックに流れるは、亡き氏綱公のあの御遺訓のナレーション(亡き氏綱の声で)。


~天運尽きはて滅亡を致すとも、義理違へまじきと心得なば末世にうしろ指をささるる恥辱はあるまじく候。 昔より天下をしろしめす上とても、一度は滅亡の期あり。

人の命はわずかの間なれば、むさき心底 努々(ゆめゆめ)あるべからず・・~


horse 再び氏政の屋敷内

城下を見やる、先の世代の二人の兄弟。共に手を携え、一心同体、勝利の旗を上げ続け北條王国を広げてきた。

眼下に広がる こゆるぎ(相模)の海を眺め、氏政は静かに言う。


「美しい海じゃ・・・」
Fin


(今年4月に色々ハラタツノリになり、一人妄想してFBにアップしたものです)

071
~小田原、御幸ケ浜~


wine お願ひ
出来ましたら、氏政は中井貴一。氏照は真田広之で妄想お願いたす。

book
「氏綱公御遺訓」は実際に氏綱公が書かれたかどうかは不明です。


以下は以前に書いた、なんちゃって小説です
「レジェンド・オフ・香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-bb1a.html
「城跡の幻影~八王子城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-75cf.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2016年6月15日 (水)

天正18年、そして小田原は囲まれた!

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~石垣山一夜城より、小田原布陣図を見ながら城下を眺める。最も小田原北条フィナーレを感じられる場所。~


この日この時に至るまでの各豊臣勢の進軍については、こちらをご覧くだされませ(2012.6 作成)→「小田原城開城へ、最後の6ヶ月」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-f53a.html


horseそして天正18年4月、小田原城は囲まれはじめる

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~おなじみ『小田原陣仕寄陣取図』(毛利文庫)。まだ本陣は早雲寺。わざと海を南に逆さまにしています。~


▲ 本城には、当主氏直

▲ 秀吉への最前線「早川口」
守るは北条軍団軍団長。御隠居氏政の弟であり片腕のバディ、我らが八王子城城主・北条氏照

氏照は、忍城の成田、皆川(4/8 に投降)、壬生、毛利北条らと共に、本陣を報身寺に置く(文末のリンクブログ記事をご参照)。海側は真里谷武田らが守る。

対するは、木村一、長谷川秀一(羽柴藤五郎)、池田照政、堀秀政(羽柴左衛門尉)ら。


▲ その北、箱根道へ通じる「板橋口」
守るは、氏政弟(従弟)の北条氏忠、筆頭重臣の松田憲秀。

その向こう富士山砦に陣を張るのは、細川忠興(長岡越中)、織田信包(伊勢上野)。

▲ 御隠居・氏政は、最北の「水之尾口」
共に守るは、氏政五男の千葉直重

対するは、羽柴秀次(三好中納言)、宇喜多秀家(備前宰相)。


氏政・氏照らが自ら最前線で迎え撃とうとするところが興味深い。


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~『小田原陣図』松平文庫。本陣は石垣山へ移っている。ピンクのマーカーが北条氏照本陣の報身寺。~


▲ 山側、「荻窪口と久野口」
守るは、氏政弟(従弟)の北条氏光(当初は氏房カ?)

対するは、蒲生レオ様、黒田官兵衛ら。

このあたりの総構はかなり高さがあるので、レオ様たちはずっと下から「うわーっ、北条の総構すっげえな~」と見上げていたってことよね~。


▲ その東、「井細田口」
守るは、氏直弟、岩付の北条氏房。氏房は7月5日、氏直と共に降伏している。

対するは、滝川雄利(羽柴下総)、織田信雄(尾州内府)。

滝川は官兵衛と共に氏直の元へ最後の説得(打ち合わせ?)のために城へ行きましたから、たぶんここから入ったのでしょうねえ。


井細田より南へ海までは徳川家康(内府様/家康公/家康様)の持口となる。
(詳しくは末尾のリンクブログ記事「徳川陣場巡り」を是非ご覧くだされませ)


▲ 井細田とその東の渋取あたり
守るは、武蔵国衆、土気酒井、由良、足利長尾。

▲ 当主氏直とその弟氏房が出城した「渋取口」
守るは、氏直の馬廻り衆、山角、鈴木大学、小幡、津久井の内藤ら。



▲ 渋取と山王のあたり
守るは、和田、箕輪衆、上野国衆など

▲ 東の出丸「篠曲輪」
守るは、一門の吉良、重臣山角、依田。

▲ その南 「山王口」
守るは、重臣山角弟、氏直馬廻り衆二宮。


▲そして 海にはship
長宗我部元親、加藤嘉明、小浜隆景、菅達長、九鬼嘉隆、脇坂安治の水軍勢


ふうぅ~。途中で何度かのポジション替えもあったようですが、以上で合っているかな~。


もちろん以上は主なものだけで、守る側も攻める側も、これらの間も廻りもビッシリと固められ、様々な大名たちから籠城組への調略や、開城へ向けての折衝が進められていくわけです。

また、秀吉は、「城に入って共に籠城したい(果てたい)」と外地からやってくる北条側の者達の入城を許したりもしています。なかなか、人の情けの分かった人物ですな。


flair ちなみに・・
家康(と織田信雄)により氏直の元へ送られ面談したのは、信雄の家臣岡田利世だとのこと。それは、開城の約1ヶ月前。

それを小幡さんに話しちゃったので、小幡文書に書き残されているそうです。


文末にこれまでの小田原攻めについて妄想したブログ記事の一部をリンクいたしましたので、「真田丸」の愚痴をすっ飛ばしてご覧くだされますれば嬉しいです。


●●●
●●●
「真田丸」 の愚痴

やっぱり信繁くんが氏政を説得か。

「しかし、なにゆえ私なのですか?」by 信繁
「おぬしが主役だからじゃ」by 家康


氏直には信繁に頭を下げさせ、御隠居さまはついに白塗りの精神破綻者にされてしまった(戦や儀式の際には確かにお羽黒など施していたと以前某先生に伺いましたが、それは別物)。

今年の大河は、「対比」を描くために「(北条を)時代の変化について行けなかっ た象徴」としているそうですね。


最近の大河ドラマの特徴である、「視聴者に分かり易いように対比で描く」ために、なにゆえ北条が事実を変えられここまで過剰な創作をされなければならないのか・・。

また、これもここ数年同じことを書いておりますが、分かり易く、分かり易くって、視聴者をバカにしていますな。


しつこく申しますが、史実通りにやれなんて、これっぽっちも思っておりまへん。だってドラマだもの。

ただ、大河ドラマは影響が大きいのです。我が家の親や同僚たちのように「大河でやっていることは、ほぼ本当」と思う人が多いのです。また、大河でやると、NHKはじめ各局の歴史バラエティー番組や博物館の特別展も、そのコンセプトに追従します。


こうなったら、早く北条が滅びて、ワテに安らかな日常を戻してくれいと思う今日この頃。

では、今宵はこれまでにいたしとうございます。


wine籠城中に自害したとみられる瑞渓院さまのこと→「北条氏康ご正室「瑞渓院」の二つの菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-653a.html

「小田原攻め、松平文庫の『小田原陣図』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-2808.html
「小田原攻め、徳川方の陣場めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5964.html
「堀秀政の小田原の墓」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bf85.html
「小田原攻め、北条氏照の本陣」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「石垣山で歴友たちと天正18年を偲んだ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e888.html
「天正18年の石垣山を歴友と歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「小田原衆と歩く、総構えの北と西」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-31ae.html


「北条氏政イメージアップ推進ひとり委員会」のマリコ・ポーロでした。

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2016年6月 7日 (火)

北条氏政は、上洛準備を進めていた!

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~小田原北条四代当主、北条氏政の花押~


歴史は勝ち残った者により作られる。

その奢りと暗愚さで、小田原北条を滅亡に導いた張本人と言われてきた小田原北条四代当主 北条氏政。


でもそれは、かつての話。

歴史学が細かく深く猛スピードで進化している今、氏政は、柔軟で先見性のある政治能力を持ち、優秀な弟達や一族・一門を適材適所で使いこなし、北条の領域を最も広げた人物として見直されています。


horse 例えば、対信長。

氏政は従属を決し、信長の娘を嫡男の嫁に迎えるべく家督を息子に譲り、片腕である弟の氏照と共に重臣を使者として安土へ送り、信長の天下の元で北条政権の安定を図ります。


horse 例えば、秀吉への出仕。つまり「上洛」。

▲ 天正16年
氏政は家康を通じて秀吉への従属を申し入れ、弟の氏規を上洛させ秀吉への謁見をすませています。

天正16年といえば、小田原開城の2年前。氏規の上洛まではチッとグズグズしていたことは否めませんが、それは百年も続いた関東の王者の矜持ということで仕方ないと思ってあげてくだされ。

と、狂信的な北条ファン(←ワテ)はお願い申し上げる次第。


▲ 天正17年

氏政は引き籠り なってしまったりもしますがcoldsweats01、板部岡江雪斎も帰国し、ついに上洛を決意。息子の氏直(五代当主)がその旨を秀吉側の取次に連絡します。


あ、そうそうflair
江雪斎が信繁くんと対決などしていないのは言うまでもありやせんが。
(アハハのハ)。

真田の沼田城引き渡しを待たずして、氏政は12月の上洛に向けて費用の調達や随行員への準備の指示などを始めています。

また、「いまだ百日も後のことだけれど、何があっても遅れることは出来ない」ともおっさているとの記録も残っています(黒田基樹著『小田原合戦と北条氏』2013.1.1)。

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~享徳師匠が急ぎ手持ちの史料の写真を撮って送ってくださった。かたじけない!~

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~と、「マリコ・ポーロ、読めないだろうな~」と鉢形の師匠からも火急の矢文で意訳が!かたじけない。~


あ、そうそうflair

この頃、真田のお兄ちゃんは、家康への人質として駿府にいたのですってね。秀吉は真田お兄ちゃんへ、北条への沼田城引き渡しのために上使を駿府から沼田へ案内するように指令を出しているのです。

岩櫃にいたのではないのですね。知りませんでした~。だから徳川重臣の娘をめとり、あの時も徳川についたのですかねえ。

▲ 嗚呼、しかしcrying

そんなこんなしているところに、名胡桃事件が起こってしまうのです。


とまあ、非常に簡単にハショッテ書きましたが、その間の流れはもちろんそんなシンプルなものではなく、沼田の引き渡しはもちろんのこと様々な出来事があり、秀吉や徳川だけではなく、伊達、佐竹など北関東や東北の諸大名達とも交渉や戦などが繰り広げられるわけです。

また、大国の当主が上洛するのです。上洛までに色々な打ち合わせや駆け引きがあり、感情も揺れ動き、時間がかかってしまうのは北条だけではありませんよね。

(まさか氏政さんたら、やっぱりどうしても行きたくなくて名胡桃をやってしまったのではないわよね!?)


大河ドラマは「歴史ドラマ」ではなく「時代ドラマ」ですし、特に今年は信繁の記録がほとんど残っていないものを創作している「二次小説」ならぬ「二次ドラマ」。

ドキュメンタリーでもなくファンタジーなので、史実通りにやってくんなましなんてことは露ほども思っておりません。ただ、番組の最後のところで、少しだけでも「実は…」と説明を入れてくれたらな~と、熱烈な北条ファンは思う次第であります。


言いたいことは山ほどあるが、今宵はこれまでにいたしとうございます。←大河「武田信玄」の大井夫人。


wine
「北条氏照が上洛してきたらヤバいぞ by 三成」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-53e1.html
「北条氏政の 汁かけ飯 は後世の創作」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e356.html
「小田原城開城へ、最後の6ヶ月」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-f53a.html
「家康と北条氏政、黄瀬川の河原で酒宴する」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-fe11.html
「名胡桃事件の地、名胡桃城へ!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-4ae8.html
「神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-dae8.html
「激戦!金窪城から神流川へ~天正壬午の乱」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/18-f136.html


「北条氏政イメージアップ推進ひとり委員会」のマリコ・ポーロでした。

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2016年5月26日 (木)

家康の側室達ゆかりの、小田原北条の寺々

家康殿のご側室達とは・・

正木の娘 お万の方 と、太田道灌玄孫 英勝院(おかじの方) のことにござります。


さて、
この春、障子堀が出てきた百姓曲輪の妄想に浸っていた頃のこと。その日も百姓曲輪に立って妄想すべく、駅から百姓曲輪に向かってスタスタスタスタと歩いていました。

道の両側には、新旧(北条時代~江戸時代)取り混ぜていくつかのお寺が並んでいます。お寺は大好きなのですが、小田原ではお寺にはあまり寄らないようにしているため、こちらのお寺も一度もお参りしたことがありませんでした。


この日はチビットだけ時間があったので、北条時代には確実にあっただろうと思われるお寺2つ scissors (時間がチビットあるとはいえそんなには無いから2件だけ)に寄ってみることにしました。

事前にまったく調べていませんので、頼りはお寺の説明板とスマホの情報だけというなんとも心もとなきものなり。


horse 光秀山「浄永寺」

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始まりは、弘安3年(1280)。時の執権北条時宗の家臣、風祭の大野之亮光秀が日蓮上人に帰依し自邸に法華堂と七面社を建立。

永正15年(1518)、小田原北条二代、氏綱の伯父である日形上人の時に現在地に移り、氏綱が堂宇を再興。

と伝えられていると、お寺の説明板にありました。


風祭大野氏・・。風祭氏とは鎌倉時代の地頭ですな。

また、氏綱の伯父・・って誰?母方ですかね?


何はともあれ、
おお、やった!北条に思いっきり縁があるお寺ですねえ。

浄永寺は北条の厚い庇護をうけたようで、境内の七面堂の前には氏康の書状が石碑となっていました。出陣前に戦勝祈願をしたところ勝利し、それに感謝した内容でした。


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~花押付き。素敵~heart01

境内をウロチョロしていたら、お寺の方らしき方が通りかかり、一緒にいらした檀家さんだか石屋さんだかに、この文書のことを私に「説明してあげてよ」とおっしゃり去っていかれました。

親切~。でも、なんで北条ファン(歴史ファン)だとお分かりになったのだろう??まあ、檀家でなければ、そうだろうということでしょう。


書状は6月8日付けですね。なんの戦でしょうね。

そして、宛名の日源上人。浄永寺は、江戸時代には、紀伊大納言頼宣の母である養珠院殿の繋がりで紀伊藩(和歌山藩)の祈願所になっていたそうです。


この養珠院殿は、私が追っかけをしている氏綱公の正室の養珠院とは別人です。のちに家康の側室となった、正木一族の養珠院殿、お万の方のことです。何故、お万の方ゆかりの紀伊藩の祈願所だったのでしょう?

お万の方は、伊豆の田中氏の娘(兄は板部岡)が北条氏尭(氏康たちの早世した弟)の養女となって正木に嫁ぎ生まれた子だと言われていますね。正木さんは人質として小田原で暮らしていましたから、お万の方は小田原で育ったようです。日蓮宗を深く信仰された方のようですから、浄永寺にも帰依していたのでしょうかねえ。


このへんのことは、もうとても調べきれませんので、ご興味ある方は是非お調べくださいませ。と、人に振るcoldsweats01

以前、お万の方開基、里見ゆかりの、東京の「仙壽院」へ行った時のブログ記事を末尾に添付いたしました。まだ全然分かっちゃない頃に書きましたので、そのへんのところ甘~い目でご覧いただけると助かります。


北条ゆかりのお寺を訪ねて、お万の方へ妄想が広がるとは思ってもおらんかったぞえ。


horse 當知山「本誓寺」

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~境内より本丸方面を臨む~


創建は永正4年(1504)。開基は、今川氏親の家臣で鎌倉の藤枝という一族のどなたからしいです。

なるへそ~。
氏親殿の娘であり、氏康の正室となった瑞渓院様の最初の菩提寺「願修寺」も、すぐ近くですな。(瑞渓院は籠城中に亡くなったので早雲寺には葬れなかった。)


もちろん北条時代はそんな所縁もあって、歴代当主に庇護されていたことでしょう。小田原が敗れたあとは、当時の住寺大誉上人も他のあまたのお寺や僧侶達と同じく江戸に移ったそうです。


境内に人影はなく、ヒソ と静まり返り、本堂の扉も ピタ と閉ざされていました。

まったく分からないので、スマホで検索してみると、ある方のHPに少々興味深いことが書かれていました。ご許可をいただいていないのでここにリンクするのは控えますが、それは大誉上人が江戸に移りしのちのこと・・


▲ 江戸に移った本誓寺六世の大誉上人は家康の庇護をうけるようになりますが、上人には、同じく小田原から連れてきた小僧のお弟子さんがいました。それが、北条家臣の大導寺政繁と遠山の娘との間の三男だというのです。▲


大導寺は小田原戦のあと、責任をとらされ秀吉に切腹を命ぜられた者のうちの一人です。息子はそのまま小田原に居づらく江戸へ付いて行ったのでしょうか…。お話しはまだ続きます。


▲ この弟子のことを、家康殿が側室の おかじの方(英勝院)に話します。

英勝院様とは太田道灌の玄孫になりまして、北条重臣の遠山の娘(大導寺に嫁いだ娘の姉妹)が北条氏康の養女となって太田に嫁いで生まれた子のことです。

英勝院はおっしゃいます。
「そりゃ、わらわの伯母の子にございます!びっくりポン!」


英勝院は大誉上人を開山として江戸本誓寺を開基しました。大道寺政繁と太田道灌ゆかりのこの弟子は、弁誉上人として江戸本誓寺の二世となりましたとさ。▲

このお話しの流れの真偽は私には分かりませんが、『江戸浄土宗寺院寺誌史料集成』(宇高良哲編、大東出版社)にあるようです。ご興味ある方はどうぞお調べくださいませ、と再び人に振るcoldsweats01


面白いですねえ。「道灌びいき」の会にいながら、小田原を歩いていて英勝院に行きつくとは想像もしていませんでしたよ。

江戸本誓寺は江戸時代の区画整理やら火災やらにより、現在は深川にあるそうです。


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話は小田原へ戻りますが、小田原陣図(松平文庫所蔵)にある、「ホンセン寺」って、この本誓寺のことですかっ?!

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~ピンクの矢印。(赤字の報身寺は北条氏照の本陣が置かれたお寺。)~


小田原の本誓寺には、開基藤枝氏の守り本尊である13世紀の阿弥陀如来像が二体(本尊・脇侍)がおわすそうですね。県指定文化財。

拝見できなかった。残念。


wine 何も下調べせずにお参りした小田原の2つのお寺が、ともに家康殿のご側室ゆかりのお寺であったとは・・。人の歴史はどこまで繋がるのかと感心してしまうと同時に、小田原北条が坂東に広げ、次の為政者の時代へ残した人脈の凄さに途方にくれた一日となりました。

調べたら、もっともっとあるんだろうな~。ご興味がある方は是非どうぞお調べくださいませ。と、人に振る。。。


南総里見 5 「戦国人たちは消えてゆく」(仙壽院)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-c2ec.html
「小田原にある謎の城跡 花岳城」(城源寺)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3b70.html
「北条氏康ご正室 瑞渓院の二つの菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-653a.html

「小田原攻め、北条氏照の本陣 報身寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html
「小田原藩相馬家、菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-cd40.html
「北条崎姫と香沼姫、エピローグ」(高長寺)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b0c7.html
「香林寺の開基は、氏綱公ご正室?為昌殿ご正室?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-b125.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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