2023年12月 1日 (金)

小田原の気になる本と12月の情報(2023)

マリコ・ポーロ

前回の御用米曲輪見学会の記事と一緒にしていましたが、情報が盛りだくさん過ぎてゴチャゴチャしてしまったため分けました~。

御用米曲輪見学会の記事はこちらです→「御用米曲輪の現地説明会に行けました(2023.11)」


🐎 本の紹介

▲ 小田原北条ファンお馴染み、文化財課のインディージョーンズ佐々木健策さんの新著です。
『山川歴史モノグラフ43.戦国期小田原の城と城下町 遺跡と景観にみる戦国大名』

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▲ 御用米曲輪の発掘調査について詳しくお知りになりたい方はこちらをお薦めいたします。
小田原市教育委員会『御用米曲輪 発掘調査概要報告書 2016年

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🐵 小田原の企画展・イベントなど

▲ 天守閣では「小田原北条氏誕生500年記念特別展「関東の雄 北条氏綱」」が開催中。


▲ ↑ の関連記念特別講演会「戦国大名 北条氏綱を語る」

加筆:当日いきなり行ってもOKだそうです

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募集人員に限りがあるゆえまだ大丈夫かどうか分かりませんが、HPにあるので大丈夫なような…。お確かめくだされ。


▲ 2024年1月7日(日)
「戦国北条フェスティバル」

豪華メンバーですよ!オンライン配信もあるようです。
マリコ・ポーロまだ把握しておらぬゆえHPをご覧くだされ→「戦国北条フェスティバル」


🐎 玉縄の講演会
「玉縄城の真実を解明する戦国歴史講演会&シンポジウム」

令和6年1月6日、きらら鎌倉にて。
今日(12月1日)申し込み開始です!

マリコ・ポーロは、前にも書きましたが、玉縄城の築城は山内上杉か新九郎さんかが気になります。

詳細はこちら→「玉縄城の真実を解明する戦国歴史講演会&シンポジウム」


そして…

🐵 本丸広場の秀吉…いや、お猿さんが東筑波ユートピアへ移封されるそうです。

12月13日(水)10:30~お別れ会ですって。穏やかに暮らしてネ。


↓ オマケ

🍷 拙本の追加納品
完売となっていた拙本1作目 『北条五代の娘たち-姫君たちの足跡を追って』 を某所から数冊入手できたので、小田原平井書店さんへ追加納品いたしました。2作目(最後)『早き雲と青き空を追いかけて-伊勢新九郎・北条氏照見聞録』 とあわせてよろしくお願い申し上げまする。詳しくはこちら→ 「拙書▲『北条五代の娘たち』の販売」「2作目の拙書▲販売について」


萩真尼ことマリコ・ポーロ

🐱画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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2023年11月30日 (木)

御用米曲輪の現地説明会に行けました(2023.11)

マリコ・ポーロ

🍷 拙本の追加納品
完売となっていた拙本1作目 『北条五代の娘たち-姫君たちの足跡を追って』 を某所から数冊入手できたので、小田原平井書店さんへ追加納品いたしました。2作目(最後)『早き雲と青き空を追いかけて-伊勢新九郎・北条氏照見聞録』 とあわせてよろしくお願い申し上げまする。詳しくはこちら→ 「拙書▲『北条五代の娘たち』の販売」「2作目の拙書▲販売について」


また、御用米曲輪見学会の記事とこれからの小田原の情報を一緒に書いたのですが、盛りだくさん過ぎてゴチャゴチャしてしまったため分けました~。12月の小田原情報はこちらです→「小田原の気になる本と12月の情報(2023)」


さて、本題。

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~井戸の上層から江戸時代の瓦が出土したため埋まったのは江戸時代と考えられるそう(ボケボケ写真でゴメンナチャイ)~


整備検討委員会傍聴の現地視察を含め、発掘調査中の御用米曲輪に立ったのはかれこれ…7-8回目になるでしょうか。

ワクワクドキドキ ワンダー御用米曲輪。何度立っても心が沸き立ちます。なんだか当時の様々な声まで聞こてくるような…。マスクを外し、掘った中の空気を思い切り吸い込み、掘った土にもコッソリ触っちゃった😜。

え?その空気は令和の空気だし、土は近代の土とな?まあ、固いことをおっしゃらず✋


こたびは第8次調査で、未調査だった石組み水路の展開を明らかにすることが目的のひとつだそうです。

もしかしたらここは主殿の跡かもしれないという期待をこめての見学でしたが、残念ながら今のところまだ分かりません。


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~砂利敷・玉石敷遺構だらけ。砂利が円形に抜けている範囲があり礎石があった可能性があると。~

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見学の方達が江戸時代エリアに移動した後、独りで発掘中のエリアを覗いて土にそっと触れて(ダメッ💢)いたところ、後ろから声が。

 …マリコ・ポーロ、ここに主殿があったのじゃよ…

「え!?そうなんですかっ!?」

振り返れば、そこにはただ風が吹いているだけ。

なーんて、信じる?


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~当初の頃の見学会では池のキワまで行くことができた(現在は埋め戻されている)~

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~同じく当初の見学会では鉄門の方へも上がれた(正規ルート/現在は埋め戻されている)~


これまでの発掘調査の説明会よりはスペクタクルさはいまひとつでしたが、はたして主殿はここなのか!ワクワクドキドキ💓

調査は令和12年までを目標としているそうですが、今後の調査がひっじょーーに楽しみです。


🍷 以下は、何度も行なってくださった御用米曲輪見学会に皆勤賞なみに参加した時のブログ記事の一部です。写真もたくさん撮りましたのでご覧くださいましたらいと嬉し。

「御用米曲輪の検討委員会を傍聴しました(2023.7)」
「小田原城御用米曲輪 「総見」2014.3.8」
「小田原北条の「御用米曲輪」見学会(2013.11.23)」
「石・石・石!戦国北条の御用米曲輪 (2013.2.16)」
「小田原城、戦国の御主殿クラスの建物跡(2012.8.20)」
「2月4日「御用米曲輪」の見学会の報告(2012..2..4)」
「幸田口門に出現した「障子堀」と「御用米曲輪」再び見学(2012.1.24)」
「発掘調査中の小田原城 「御用米曲輪」を見学(2011.12.14)」

「迷宮の「御用米曲輪」」


萩真尼ことマリコ・ポーロ

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2023年11月17日 (金)

緊急 ▲ 御用米曲輪見学会、延期

マリコ・ポーロ

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~こちらは雪の日の御用米曲輪(2012.2)~


大雨で御用米曲輪が水没。明日18日の見学会は中止だそうです。

代替見学会は来週25日(土)12:30〜14:00で調整中とのこと。

詳細は、追って発表されるそうです。


あんなに準備をされていたのに、残念…😢。


「「御用米曲輪発掘調査現地説明会」が行われます!2023.11」


🍷 拙書の宣伝
小田原平井書店さんに拙本2冊目(最後)『早き雲と青き空を追いかけて-伊勢新九郎・北条氏照見聞録』 を追加納品いたしました。詳しくはこちらを→ 「2冊目の拙書▲販売について」 


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2023年11月 5日 (日)

関ヶ原に同道したと伝わる家康の側室「英勝院」

マリコ・ポーロ


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~英勝寺御廟内部~


徳川家康の十数人(二十人近い)の側室の中で非常に有名な方がいる。江戸時代にたいそう出世し、鎌倉に名刹があることからも、阿茶局やお万の方より有名だ。

それは 英勝院様 である。


英勝院について検索をすると、「阿茶局と共に関ヶ原に同道した」ことが必ず出て来る。しかし、その話が書かれている史料を見つけられないでいる。

いずれにしても、そんなに有名な側室なのに、今年の大河ドラマには御出ましにならないようなので書きたいと思った。昔少し書いた記事と重なるところもあるがお許しくだされ。


また、わらわが末席を汚している「道灌びいき」の会で、鎌倉英勝寺の御廟の中へ入れていただいた時の昔の記事も添付させていただいたゆえ、あわせてお読みくださればいと嬉し。

ほな!


ある時、英勝院は意外な話を家康から聞く。

小田原北条が滅びた後、小田原の寺もいくつか家康に付き従い江戸へ移転した。その中に、谷津の「本誓寺」というお寺があった。同寺の六世大誉上人も弟子を連れて江戸へ移ってきていた。

その弟子のことを聞いた英勝院、
「そりゃ、わらわの叔母の子供にござります。ドびっくり~じゃわいなぁ」。


という言い方を英勝院がしたかどうかは知らないけれど、英勝院は大誉上人を開山として江戸本誓寺を開基する。そして英勝院の叔母の子供、つまり従兄弟だという弟子は、弁誉上人として江戸本誓寺の二世となった。

家康から聞いて初めて知ったのかどうは分からないが、『江戸浄土宗寺院寺誌史料集成』(宇高良哲編、大東出版社)にあるようで、私が調べた『浄土宗大辞典』にも、弁誉上人は「随願」という法名で、英勝院の従兄弟だとあった。


このことは以前ブログに詳しく書いたのでご興味あらばこちら → 「家康の側室達ゆかりの、小田原北条の寺々」2016.5 


💋 英勝院とは

英勝院お勝の方(お八/お梶←出世魚のように名は変わっている)は、家康を扱った小説やドラマなどでも必ずと言っていいほど出て来る有名な女人なので今更言わずもがなだが、家康が60を過ぎてからの側室で、36才近い年の差がある。

また、市姫という子がいたが夭折してしまった。家康の最後の子供だったそうだ。


💋出自

所説あり。

最も知られているのは、父親が太田道灌の曾孫康資で、母親は北条氏康の重臣遠山綱景の娘「法性院」だという説だ。法性院は氏康の養女として康資へ嫁いだ。


余談だが、法性院は遠山の娘ではなく、氏康の弟氏堯の娘ではないか?と以前ブログに書いたことがある。詳しくはこちらに → 「法性院は遠山ではなく北条氏堯の娘ではないだろうか?~北条五代の娘たち⑨ 太田康資室」2021.8


また、根拠は調べきれなかったが、英勝院は法性院が産んだ子ではなく江戸氏の娘であり、太田康資の養女となったとの説もある。


ほかにも、今伝わっている英勝院の出自は、寛永年間に『英勝院様御事績』を記す時、家康の寵愛深い英勝院の権威付けのため、また、家康の家族の歴史を輝かしいものにするために作り上げられた話だとおっしゃる方達もいらして、なかなかに謎は残っている。

江戸本誓寺の住職となった英勝院の従兄弟「弁誉上人」とは、遠山系だろうか?遠山さんは、徳川幕府で重用されているし。それとも太田系となると、康資の兄弟姉妹の子?これも調べ切れなかった。 


💋 なんと嫁ぐ!

家康の寵愛深い英勝院ではあったが、ある時、何故か側近の松平正綱に下げ渡された。

ところが、これまた何故か速攻で戻されている。このあたりの事情も謎である。


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~石碑だけが残る鎌倉十橋のひとつ、英勝院に由来すると伝わる「勝の橋」(寿福寺門前)~


💋 徳川へ出戻った後

ここからが、英勝院が徳川家で最も活躍する時代となる。上に書いた、市姫を産んだのもこの頃で、英勝院30才だったそうな。当時の初産としてはかなりの高齢出産だ。


皆様ご存知のことだろうが、英勝院は、お万の方が産んだ鶴千代(徳川頼房)、越前藩主結城秀康の次男虎松(松平忠昌)、外孫振姫らの養母となる。

余談。
お万の方といえば、杉本苑子『長勝院の萩』を昔読んだ方も多いでしょ。


ちなみに振姫は、北条氏直の正室であった家康の娘督姫が再婚した姫路藩主池田輝政の娘である。振姫はのち、英勝院の夭折した市姫の婚約者だった伊達忠宗に嫁ぐ。← ややこしくて、書いてるそばから忘れちゃう😓


💋 鎌倉、英勝寺

英勝院は、鎌倉扇ガ谷の太田道灌のかつての屋敷跡だった地を家光より賜り「英勝寺」を建立する。英勝寺の初代門主は徳川頼房の娘で、その後、江戸時代の門主は代々水戸家ゆかりの姫君たちが務めている。


御廟は外からは覗ける(お参り出来る)が、内部には入廟できない。道灌びいきの会で入れていただけた時のブログ記事がこちら→「非公開 「英勝院」の御廟内部~鎌倉」


ここで 疑問?
太田道灌亡きあと、この地は誰の物だったのですか?


英勝院のお墓は英勝寺のほかに三島の妙法華寺にもあるが、『徳川幕府家譜』には、英勝院は江戸の瑞松寺に葬られたとあるそうだ。ちょっと聞いた話で調べてはいないけれど、そんなことってある?


まーあとにかく出自にしても、「塩は美味くて不味い」はじめ逸話にしても謎の多い方だが、それだけ徳川家に多大な貢献をし、強烈なインパクトを残した女人であったのでしょう。

寛永19年、英勝院は65才で此の世を去った。


そして、!
これらのブログで考察&妄想したとおり、英勝院の母である法性院が遠山綱景の娘ではなく、北条氏堯の娘だとすると…

それまで、英勝院に流れる血は「太田系が半分 + 遠山系が半分」だと思っていたものが、 北条家の血も随分と流れていた ということになるのであーる。合ってる?


また余談。
英勝院というと観月ありささん、阿茶局というと京塚昌子さんが浮かんでしまうのは、わらわだけ?

道灌は北村有起哉さんよ。なんせお母上方が道灌の子孫だし、伊勢原の大慈寺所蔵の肖像画(江戸後期)にそっくりじゃない?


🍷 同じく側室の西郡局を書いた記事です
「北条氏直の正室「督姫」の母の墓」
「「どうする家康」の西郡局で思ったこと」

🍷 お万の方の仙寿院を訪ね里見の終焉を書いた記事です(2010年、よく分かっていない頃に書いた記事で恐縮ですが)
「シリーズ南総里見 5 「戦国人たちは消えてゆく~里見忠義」」


🍷 小田原平井書店さんに拙本  『早き雲と青き空を追いかけて-伊勢新九郎・北条氏照見聞録』 を追加納品いたしました。買ってくださった皆様ありがとうございます!
また、初本 『北条五代の娘たち』 も出版社さんが少しだけ持ってらしたのであわせて納品いたしました。詳しくはこちら→ 「2冊目の拙書▲販売について」


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2023年10月19日 (木)

「御用米曲輪発掘調査現地説明会」が催されます!2023.11

マリコ・ポーロ


雨で水没したため明日(18日)は中止。

25日に延期の予定だそうです。詳細は追って発表されるそうです。


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~前に写真をあげた時に皆様からのご質問が多かったこのエリアも見学できますよ、たぶん~


待ってました ‼

11月18日(土)、小田原北条ファンの皆様お待ちかね、発掘調査現地説明会がついに開かれるそうです ‼


7月の御用米曲輪検討委員会を傍聴した時のブログ記事→「御用米曲輪の検討委員会を傍聴しました(2023.7)」」 でもご紹介しましたが、小田原城御用米曲輪の発掘調査は現在も続いています。


思い起こせば……
私が最初に御用米曲輪に立ったのは、2011年の12月。「史跡小田原城跡調査・整備委員会」の第1回目を傍聴した時でした(文末にブログ添付)。

そして最初の見学会が開かれたのが、翌2012年の2月。以後見学会は立て続けに開かれ、見学者は1万人を超えたそうです😲(同じく文末にブログ添付)。私がブログのコメント欄やSNSで交信していた北条ファン同志の方々にたくさんお会いできたのも、この見学会でした。


やがて御用米曲輪は暫しの眠りにつきました。

こたび、白馬に乗った王子様が現れ御用米曲輪にチュッ💋……いや、違う、発掘調査が再開され始めての見学会となります。

詳細は追って小田原市のHPに載るでしょうが、いつもの見学会と同じく一日に何回か催されるのだろうと思います。

楽しみですね!
(例によって、わらわは当日でないと行かれるかどうか分かりまへん😢)


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🐎 以下、御用米曲輪のこと

🍷 これまでの検討委員会の公開されている会議資料はこちら → 「史跡小田原城跡御用米曲輪戦国期整備検討部会」

🍷 何度も行なってくださった御用米曲輪見学会に皆勤賞なみに参加した時のブログ記事の一部です。

「小田原城御用米曲輪 「総見」2014.3.8」
「小田原北条の「御用米曲輪」見学会(2013.11.23)」
「石・石・石!戦国北条の御用米曲輪 (2013.2.16)」
「小田原城、戦国の御主殿クラスの建物跡(2012.8.20)」
「2月4日「御用米曲輪」の見学会の報告(2012..2..4)」
「幸田口門に出現した「障子堀」と、「御用米曲輪」再び見学(2012.1.24)」
「発掘調査中の小田原城 「御用米曲輪」を見学(2011.12.14)」

「迷宮の「御用米曲輪」」


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2023年10月 9日 (月)

新著 「『太田道灌状』を読み解く」 尾崎孝

マリコ・ポーロ


取り急ぎご紹介😊


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~「 『太田道灌状』 を読み解く 足跡をたどりその志操に迫る」 MPミヤオビパブリッシング~


待ってました!

全把握したいとは思いつつも読み解けない「道灌状」。1冊の本にしてくださり嬉しいです。

著者は、私が末席を汚している「道灌びいき」の会でもお馴染みの道灌研究の重鎮、尾崎先生です。


「道灌状」というものの解説から始まり、それぞれの段は、本文・読み下し文・現代語訳・登場人物の説明・言葉の解説・背景・内容の解釈などなど懇切丁寧。

これで全把握できない人(マリコ・ポーロ😓💦)は坂東戦国ファンの資格なし……なんてことはないと思いますが、必携の本だと思いますのでご紹介させていただきました~。


中國時代劇を観る合間、毎夜、一段づつ読んでおります。


🍷 太田道灌、道灌びいきの会関係のブログの一部です。よく分かっていない時に書いたものもござるゆえ甘~い目でご覧くださると助かりまする。

「太田道灌vs豊島一族の「江古田原古戦場」2013.5」
「豊島一族の「練馬城」を歩く」2016.4
「消えた「豊島一族」はどこへ?」2019.8

「岩付城を築いたのは、太田か成田か?」2015.8
「「岩槻城」 道灌の会で実地見聞?」2015.11

「月命日に公開される 太田道灌像「静勝寺」」
「道灌伝説の「山吹の里」を歩く」2015.4


🍷 拙書の宣伝
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マリコ・ポーロ

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2023年9月29日 (金)

家康と北条氏規の、わりない仲

マリコ・ポーロ


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~三浦衆を率い三浦郡を支配した北条氏規の本拠「三崎城」~


「わりない仲」は「理無い仲」と書くのだと知らなかった。理屈や分別を超えて親しいこととか、非常に親密であることを言う(goo辞書)
さて…


▲ 何事があっても君のことは見捨てない。もしこれにそむいたら、日本国中大小の神、富士、白山、天満天神、八幡大菩薩、愛宕の神罰をうける。▲

と、家康が北条氏規に宛てた、何があっても氏規を守り通すと神かけて誓ったラブレターが残っています(神奈川県立歴史博物館蔵)


なーんて。

ラブレターではありませぬ。

これは、今年の大河「どうする家康」で秒速スルーされた天正壬午の乱の和睦時に書かれた、家康が氏規へ宛てた起請文です。家康自筆だそうで、血判が捺されています。

宛名は漢字の「美濃守」ではなく仮名で「みののかみ」。とっても親しげ💓。

書状はこちらで見られます→「神奈川県立歴史博物館HP」


なにゆえ二人はこんなに親しげなのかというと、幼少から少年期にかけての約10年間、今川家での人質仲間だったからです。しかも駿府の御屋敷はお隣同士でした(訪ねた時のことは文末に添付)。

義元殿の庇護の元、共に勉学や武道に励み、和歌や蹴鞠を嗜み、元服をし、今川の御一家衆関口家からお嫁さんをもらった相婿だったともされています(氏規の場合は今のところ確定ではないと思う)。


氏規の方が3つ年上のお兄さんになりますが、悪戯をしたり、遊びに出かけて帰りが遅くなり家臣を困らせ、氏規の祖母君である寿桂尼に叱られたりするのも一緒だったことでしょう。


永禄の初め頃に氏規は小田原へ戻ります。その後、北条と徳川は時には敵対することもありましたが、氏規と家康の結びつきは終生続きます。

まさに、知己!


チト余談…
天正11年、家康の駿河あたりへの出陣時、韮山城に在番していた氏規に、会って思い出話をしたいと手紙を出したとの話がありますが、どうもこれは解釈違いのようだと聞いたことがあります。

うろ覚えなので、気になる方はお調べくだされ。


本題に戻り…
そんな知己関係もあり、永禄年間あたりから氏規は北条と徳川との外交を担当することになります。


氏規は、冒頭の写真の三浦郡だけではなく、23才で早世した叔父の為さま こと北条為昌の旧領を受け継ぎ、玉縄、河越、上野館林などを任されるだけではなく、北条の聖地韮山城の在番もメインで担います。

北条は一族を最前線の支城に送り込みますが、氏康も息子たちを東西南北の拠点へ配置します。ここで氏規は、南、西、北を守ることになり、兄・我らが氏照や弟・氏邦と同様に、北条内では重要なポジショニングとなっていきます。(氏康の子供たちは皆本当に有能だね😊)


外交面でも、家康だけではなく様々な戦国大名家との折衝を行っています。なかでもビビッとくるのは、父氏康&兄氏政と同じく足利将軍家の直臣でもあったことです。氏照や氏邦はそうではありませんでしたよね?
(石渡洋平『北条氏康の子供たち』集録2015.12/ 黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院』平凡社2017.12)

ちょっと疑問なのは、
後々、氏規が秀吉のもとへ出仕した当初、官位がなく惨めな思いをしたとされていますが、義昭の直臣だったら、その時に官位のひとつも与えてもらうことをしなかったのかな?ということです。


ま、それはそれとして、ゆえに氏規は、北条五代当主氏直と家康のお嬢さんとの縁組や、家康と父氏政との黄瀬川での会面、そして、小田原城開城と北条の存続などで大活躍します。


小田原降伏後、秀吉は、主戦派だった先代当主氏政と実質上の北条軍団軍団長の氏照に切腹を命じ、介錯を弟の氏規に行わせます。氏規、辛かったね…。

家康は、氏規は兄ふたりを介錯したあと必ず自害しようとするからさせるなと井伊直政に命じたと伝わっていますが、この話は定かではないようです。


家康殿は、冒頭のラブレター……ちゃう✋、起請文の通り氏規のために心血を注いでくれました。

家康が北条の存続に力を尽くしたのも、北条のためではなく、氏規のためだったのだよね💓。

氏規の家系は江戸時代、狭山藩として続きます。


📖ちなみに…
ふたりのことは、伊東潤氏が『虚けの舞』という小説に書いてらっしゃいます。


家康にとって氏規はこんなに大切な友で、秀吉天下制覇時の家康の去就にも影響を与えあった人だったのに、こたびの大河では氏規はチラッと名前しか出ないとはどーゆーことじゃわいな?

今週の回は小田原開城だということで、小田原駅地下街ハルネの広場ではパブリックビューイング&トークショーが催されるそうです。大丈夫かな。小田原城のシーン、1分位で終わっちゃわないよね。老婆心ながら老婆だから心配。


🍷 氏規関係の主なブログ記事です

「初出!北条氏照と氏規の「連署書状」」2021.6

「北条氏規の大阪の菩提寺」
「江戸時代の北条家「狭山藩邸跡」」
「江戸時代の北条家、東京の菩提寺」
「江戸時代の北条家下屋敷跡「北条坂」」

「北条氏規、今日(24日) 龍城を明け渡す」2010.6
「小田原北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム」2015.1

「駿府で暮らした伊勢宗瑞の姉と北条氏規」
「家康と北条氏政、黄瀬川の河原で酒宴する」


🍷 拙書の宣伝
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マリコ・ポーロ


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2023年9月26日 (火)

伊勢宗瑞 「火牛の計」 は津波だった?

マリコ・ポーロ


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~ 🐄 と新九郎さん~


伊勢宗瑞こと新九郎さんの小田原城奪取の逸話 「火牛の計」 の 「 🐄」は津波のことだった!?

知りませんでした……。そんな説があったのだね。


伊藤一美著 『太田道灌と武蔵・相模』戎光祥出版 2023.9 を今チロチロと読んでいるところです。

その説は「江戸氏の支配地周辺に蠢く新田義興の亡霊と怨霊」の項に書かれていました。


ほかにも書かれているものがないか探ったところ、2013年のカナロコにも書かれ(どひゃ~😲10年も前)、また、2019年に小田原城天守閣で催された企画展「伊勢宗瑞の時代」の関連シンポジウムの2回目でも、伊東市教育委員会の金子浩之がその話をされていました。

カナロコの記事 →「「火牛の計」は津波? 小田原城奪取に新説/神奈川」(2013)


1回目のシンポジウムは行けましたが、2回目は行けませんでした。シンポジウム資料もあるのですが……読んでいませんでした💦。新九郎さんの小田原城奪取でよく言われている、明応地震に便乗して城を乗っ取ったとか(ヒドイ)、大地震ですでに城域は崩壊状態で誰もいなかったとか、そういう話かと勝手に思ってしまったからです。

くまなく、隅から隅まで、じーっくり読まなきゃアカンですね。とうにご存知の北条ファンの方も多く、今頃で恐縮でござる。


🐄 火牛の計

そも「火牛の計」とは紀元前の中国戦国時代、それこそマリコ・ポーロが先日ブログに書いた中国時代劇 「キングダム 戦国の七雄」 の頃の話です。斉と燕の戦いで、斉の将軍・田単が夜陰に乗じ千頭の牛🐄 の角に松明を付け燕の城へ攻め込み城を攻略した…という作戦が「火牛の計」と呼ばれました。

木曽義仲も倶利伽羅峠でこの手を使ったと伝わっていますよね(真偽のほどは私には分からぬ)。


さて、我らが新九郎さん。
伊豆をある程度手中にした新九郎さんは、いよいよ相模へ侵攻。そこでこの作戦を使いました。

「ウチんとこで鹿狩りしたらそっちの箱根山へたくさん逃げ込んじゃった。鹿を狩りたいから勢子放ってエエ?」と小田原の大森さんを騙して城内に勢子と偽り味方の兵を入れ、田単と同じく角に松明を付けた千頭の牛🐄 と共に背後の山から攻め込んで見事に小田原城を手に入れた……


という逸話を信じている方は今はさすがにいらっしゃらないとは存じますが、本題は逸話ではなく、その牛🐄さんのこと。


🐄 明応の津波はいつ起きたの?

シンポジウムの資料を読んでみました。

明応のころ、相模湾で巨大地震が起き、津波は伊豆・小田原・鎌倉など相模・房総の沿岸に押し寄せたと『鎌倉大日記』にはあるそうですね。沿岸地域が津波により甚大な被害を受けた直後に新九郎さんが小田原城をゲットしたという説が、最近わりと主流になっています。


ところが、こたび、津波が起きた年が3通りあることに気が付きました。

黒田氏は「明応年」、金子氏は発掘調査による津波堆積層や『熊野年代記』などから「明応年」としています。


もうひとつは、「明応年」説です。鎌倉市教育委員会&神奈川県温泉地学研究所によるものです。

「神奈川県温泉地学研究所観測だより、鎌倉の明応津波〜大仏殿は流されたのか?2013」
「鎌倉における過去の津波について、浪川幹夫・平田恵美・辻亜紀(以上、鎌倉市教育委員会)・萬年一剛(神奈川県温泉地学研究所」


いずれも『鎌倉大日記』を参考のひとつとしていますが、金子氏も「この事件を伝える同時代史料は少ないために、あるいは別の考えも成り立つかもしれないが…」と書いてらっしゃいます。

『鎌倉大日記』は誰がいつどうやって書いたか分かっていませんし、原本は残っていないそうですね。書き写し間違い・伝え間違いもあるかもしれないと「明応7年」説には書いてありました。


新九郎さんが小田原城をゲットしたのが地震の直後だとすると小田原城奪取の年も変わってきますよね?

どっち?


🐄 なぜ 牛=津波 なのか?

昔の日本では「津波災害」をうまく表現できる言葉がなく、その表現のひとつが、魔物的な姿をしていた「牛」だったそうです。牛って魔物的?と思いましたが、それは「赤牛」とか「巨大な牛」とか「千頭の牛」とか異様な姿の牛で語られるそうです。

そして、「牛」がつく地名は沿岸地に多く、過去の水害との関係性を示す場所に多くつくらしいです。


水の神として 龍 は有名だけど、牛とは 🐄。

牛だけに……書くのやめた。おやじギャグ。


「千頭の牛が猛り狂う姿は、津波が小田原を襲った状況を物語風に述べたのであろう」と。牛が暴れ回る様々な描写は、津波に読み替えると現実味があるとおっしゃっています。

シンポジウムの資料「伊勢宗瑞の時代」には、そのへんのところ詳しく書かれています。天守閣で売店で購入(500円)できますし、郵送もしてくださいます。こちら→「小田原城天守閣刊行物」


🐄 ほかの、牛さん出没情報

冒頭に挙げた伊藤一美氏の本にありましたが、建長3年(鎌倉時代)の浅草寺にも、牛🐄(の如きもの)が現れたようです。

牛は海ではなく浅草川から飛び出して来て、嶼中を走り廻ったそうです。これも津波ではないかとしています。


また、素戔嗚尊伝承にも牛が登場するそうでね。

そういえば、我らが北条氏照の「八王子」ゆかりの牛頭天王の奥さんは龍宮の姫ですよね?確か…。違ったかな?


また、『備前国風土記』にも「牛窓説話」というものがあるそうです。神功皇后の船団がこのあたりにさしかかった時、海上から「牛鬼」が現れたという話とな。

これらは御本に詳しく書かれています。


以上、とても面白い話だと思ったので、超遅ればせながら記しました。


🍷 最近の関連ブログ記事の一部です
「宗瑞を圧迫した立役者、赤沢朝経~家永遵嗣氏 講演」2020.4
「宗瑞は京で失脚したため駿河へ下った!?~森幸夫氏」2020.12
「今川義忠への制裁に宗瑞が関与していた?~家永遵嗣氏」2021.12

「① 新九郎さんはいつ頃から幕府からの独立を考え始めたのか?」2022.1
「② 新九郎さんはいつ頃から幕府からの独立を考え始めたのか?」2022.1


🍷 拙書の宣伝
小田原平井書店さんに拙本2冊目(最後)『早き雲と青き空を追いかけて-伊勢新九郎・北条氏照見聞録』 を追加納品いたしました。詳しくはこちらを→ 「2冊目の拙書▲販売について」

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🐱画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。
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2023年9月18日 (月)

馬の博物館『戦国武士と馬』展(2023.10-11)

マリコ・ポーロ


さて、
「小田原北条の気になる講演会など(2023.9-10月)」
「ブログ15年目に突入&「本佐倉城跡」見学会」


に続いて、根岸 「馬の博物館」 で気になる企画展が始まります。


🐎 秋季特別展 「戦国武士と馬」

会期:2023年10月7日(土)~12月3日(日)


なかでもマリコ・ポーロが特に気になるのは、昨年ブログに書いた(文末添付)、氏照家臣中山家ゆかり 八条流馬術 が初めて取り上げられることです。

記念講演会やギャラリートークもあるのですね。楽しみです。詳細はこちら → 馬の博物館HP


以上、取り急ぎ。


🍷 馬の博物館のブログ記事の一部です
「八条流馬術~氏照家臣の中山勘解由の息子照守」

「謎の北条家少年像~馬の博物館(2017年)」
「「ススメ!小田原北条氏展」 馬の博物館」
「「戦国の城と馬」 馬の博物館(2010年)」


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また、初本『北条五代の娘たち』はおかげ様で完売いたしましたが、八王子・日野市政・たましん歴史資料室・鎌倉・玉縄・日比谷・寄居・岩槻・伊豆の国・伊豆市の図書館で開架してくださっています。お問合せ(または蔵書検索)くださいませ。


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2023年9月14日 (木)

ブログ15年目に突入&「本佐倉城跡」見学会

マリコ・ポーロ


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いつも拙ブログをお読みくださいましてありがとうございます。謝謝。

今日9月14日は14年前にブログを始めた日です。記事数は 900件 近くになり、おかげさまで本も2冊作ることが出来ました(詳細は文末添付)。

昔から読んでくださっている方は覚えてらっしゃるかと存じますが、ブログ名は当初からかなり長い間「後北条見聞録」でした。当時ブログにも再三書きましたが、msn でブログ名をア〇ル〇 サイトに乗っ取られ、msn が何の対処もしてくれなかったため名前を変えたのでした。


そんなこんなもありましたが、ブログは15年目に突入いたします。

最近は中国時代劇にハマり過ぎ、またコロナ禍や家の諸事情でなかなか遠征できずブログの更新も間遠になっておりますが、北条愛💓は、いささかも衰えておりませぬ。これからもよろしゅうお願い申し上げまする。


さて、本題。

高札で知りました。本佐倉城で見学会があるようです。

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日時:令和5年9月23日(土)
時間:10時~12時

集合場所:本佐倉城跡東山馬場(案内所)又は 酒々井町中央公民館
それぞれの集合時間が違うので、ご注意を。

事前申込み不要

詳細は ↑ のチラシに。


本佐倉城さんは、よく見学会を行ってらっしゃるような記憶があります。城周りは行ったことがありますが登城はしたことがないマリコ・ポーロ。いつか行けたらと思っております。


また、令和3年に催された講演会の記録集「城と城下にみる戦国大名の権威ー本佐倉、小田原、甲府ー」が取り寄せできるようです。小野正敏先生ですよ!

私はすでに、オンライン配信で拝聴してしまいましたが、メモをたくさん取りました。詳細はこちらを→「酒々井町HP」


🍷 以前のブログ記事
「千葉親胤の暗殺は氏康の指示だったのか?~北条五代の娘たち⑩ 親胤室」

「浅草にある千葉氏の「石浜城」」


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2023年9月 8日 (金)

『キングダム 戦国の七雄』 中国時代劇

マリコ・ポーロ


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~『よくわかる中国史』2023.2 中西竜也/増田知之編著 ミネルヴァ書房、『中国時代劇で学ぶ中国の歴史2023』キネマ旬報ムック~


中国時代劇の話は3回目となり恐縮ですが、日本の戦国時代好きな皆様にとってもオススメなドラマが始まっているのです。

マリコ・ポーロは ロマンス(BL)武侠仙侠 ものばかりがお気に入りなわけではござりません。一番好きなのは、やはり史劇や史実を元にした時代劇です。

ということで、今BS12で放映中の『キングダム 戦国の七雄』はかなり好きなドラマ(?)です。


「戦国七雄」とは、春秋戦国時代に覇権を争った 秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓 の七国のことをいうそうですね。それさえ知らなかったマリコ・ポーロ(恥ずかし)。

こちらに詳しく載っています → BS12公式HP 『キングダム 戦国の七雄』


『戦国の七雄』は、1話完結で七雄それぞれの国の歴史を描くドキュメンタリードラマです。

1話は1時間半。しかし、たった1時間半のドキュメンタリードラマだというのに、少しも薄っぺらなところはありません。中国時代劇らしく、綿密でゴージャスでスケール大きく描かれ、中国時代劇で重鎮を演ずる役者さん達が総出演。まるで映画のようです。


その国が興る前から始まるのも面白いところのひとつなのですが、なんせこちらの知識が無さ過ぎ、また、ちょっと字幕を読み逃したり、その前の台詞に気をとられて考え事をすると、もう付いてゆけず、録画を止めたり、手っ取り早くウィキペディアを見たりしながらになるゆえ、観終わるまで半日ぐらいかかってしまいます。私は。

今、燕、趙、楚の3話が終わったところですが、燕の話など、心うたれてしまいました。16年も敵国にいたのに忠心は変わらない…ちょっと泣いちゃった😢。

再放送は無いのですが、U-NEXでは会員見放題になっています。またアマゾンプライムは、@330円、または同じくエンタメアジアで観るしかないです。今のところ。


次回は 韓。楽しみ!


お断りしておきますが、女性はほとんで出まへん。

この路線でいけば、『司馬懿 軍師連盟』 『大明皇妃』 『ミーユエ』 などがお奨めです。ほかに、架空のお話ですが、南北朝を舞台とした『琅琊榜』も非常にお奨めなり。


また、
最近では、BS11で放送が終わったばかりの 『孤城閉』 もとても秀逸なドラマでした。

北宋の仁宗の生涯を描いたドラマなのですが、最初は静かで地味~とリタイアしそうでしたが、官吏や宦官・女官たちそれぞれの人生が丁寧に描かれることで感情移入できるようになり、後半は、のめり込んでしまいました。

感銘を受け過ぎて、4-5日は他の時代劇を観る気になれませんでした。人物描写もさることながら映像もセットもロケも素晴らしく美しかったです。今、U-NEXで 見放題/ポイント になりました。


それから、
今 wowow で放映中の 『康熙帝』 もかなり見応えがあります。康熙帝と、黄河の治水に命を懸けた人達の物語です。特に国家啓蒙的なものは感じ取れません。時代劇です。

これまた、全面氷結した黄河ロケはじめロケもセットも衣装も、皇帝の日常生活の描き方も素晴らしく、最近の中国映画はどれも映画なみに数十億の予算を使ってきますから見応えがありますよ。

あ、こちらも太皇太后さま(素敵よ)以外の女性は超脇にしか出てきませんので、あしからず。


もし、これをお読みになってくださって、どれか観てみようかな~と思われたら、まずオススメは 『陳情令』💓か 『成化十四年』💓……ではなく、『三国志 Secret of threekingdoms(原題 三国機密)』 です。

三国志の時代を元にした、後漢の復活をかけた賢帝側と曹操側の攻防のお話です。内容は架空ですし、結果は史実なので変えようがないですが、私たちお馴染みの三国志の英雄たちももちろん総動員!


戦のシーンは 『大明皇妃』 『軍師連盟』 『永楽帝』などと比べるとマイルドですが、ちゃんとご用意されています。本国では動画再生回数30億回を超え、日本でもBSや有料テレビで何度か放送されています。配信サービスではU-NEXで見放題になっています。

マリコ・ポーロが一番最初に観た中国時代劇で、泥沼に陥ったきっかけとなったドラマでもあります。まずは、こちらの公式HPを → 『三国志Secretofthreekingdoms』

こちらは美女も美男もたっぷり出ます。


いや、そういうのじゃなくて、もっと中国武侠っぽいドラマを観てみたいと言う方。『天龍八部 レジェンド・オブ・デスティニー(2021年)』がオススメです。

香港武侠物の大家である金庸の原作で、時代設定は宋代。実在の国や家を元にした架空ストーリーですが、ツッコミどころ満載。これぞ懐かしの王道という感じ。最初はチト無理と思いましたが、これはこれでだんだん面白くなり50話最後まで楽しみました。


中国時代劇はどれも50話~80話ありますので、日本の大河ドラマをしょっちゅう制作しているようなものですね。しかも、毎度莫大な予算を使って。

これらを、BSや有料テレビ、配信などで一気見するような感じになります。常に寝不足状態は必至。まあ、それだけ長いから、一人一人を深く描けるということでもあるのだと思います。


さて、

中国時代劇が好き好きと言いながら、どの時代が好きかも言えない超初心者のマリコ・ポーロ。

そりゃあ魏晋南北朝だろうと単純に考え、まず 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』川本芳昭著 講談社学術文庫 を図書館で借りてみました。「中国の歴史」というシリーズ物なので、初心者向きかと思ったら、難しくて🙌お手上げ。

 
無念の返却をし、かわりに入門用(かな?)の冒頭の写真の本を借りました。特に下の1冊『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』は超初心者用かと思いきや、なかなか詳しく時代背景が書かれていて読みでがありました。

今のところ一番興味があるのは、「明」かな~。


この3年で観たドラマ20本余を羅列しました(常時更新中)
「まだまだ病みつき!中国時代劇」

「「すばる」が初の重版をした中国時代劇!」


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2023年9月 1日 (金)

氏康、忍びの頭領に葛西城奪還を命ず!

マリコ・ポーロ

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~葛西城跡~


永禄5年3月21日、本田正勝 は氏康から参陣を求める書状を受け取る。

本田正勝は元は足利衆として山内上杉に仕えていたが、この時は上杉謙信の下にいたらしい。(氏康がなぜ謙信のところにいた本田に参陣を求めたのかは私は知らない。もともと本田は氏康の指令で謙信に付いたの?)


書状には、参陣の際は所属を明かさぬようにし、太田康資 の軍へ行けとあった。

皆さんご承知の通り、参陣する武将は旗指物に家紋や所属を記した旗指物を掲げるものだが、そういうことをいっさいするなということだ。つまり、太田康資の下で何か特別な任務を遂行するということで、それは康資の軍へ行って初めて康資から聞かされるということである。


康資軍で本田殿がうけた氏康の指令は、

葛西要害以 乗取上申付者…(北条氏康判物 永禄5年3月22日)
葛西城を 忍び をもって乗っ取れ…

だった。


葛西城は、第一次国府台(天文7年)で扇谷上杉 → 北条の城となった。我れらが藤菊丸(北条氏照)が後見を勤めた、氏康の甥である足利義氏の元服式もこの城で催されている。

しかし、永禄3年。
長尾景虎が関東の反北条勢力を率い小田原城下までやって来る。北条の葛西城はこの時、落ちた。葛西&古墨田川エリアは、岩槻太田(太田康資はまだ里見方へ付いていない)の勢力下となる。


翌年、景虎が越後へ退くと、北条氏康の葛西城奪還作戦は始まった💢。

結果、これも皆さんご存知の通り、北条方が勝利。葛西城を取り戻すことが出来、本田正勝は金町(葛飾区)あたりの知行を得ることになった。


本田殿が康資から承った段取りがどういうものだったのか、忍び達がどういう立ち廻りをしたのかは、図録には書かれていませんでした。

もしかしたらそれは口頭でのみ伝えられたのか、はたまた紙に書かれていたが読んだ後すぐ燃やしたか、食べたのか(?)。


🔍 余談
江戸の人……いや、東京の人は知っているかもしれないが、葛飾区のこのあたりでは「本田 ホンデン 瓜」と呼ばれる、まくわ瓜が採れる。

ふと、これが本田正勝に由来するかどうか気になったので簡単にWiki で見たら、かつてこのあたりには「本田町」という町名があり、町名は「江戸時代の西葛西領 本田筋 に由来する」とあった。

どうだろう?分からない。見当違いだったらゴメンナチャイ。


話を戻し、
「忍び」についてはあまり興味が無いこともあり、「忍び」が城の乗っ取りを命ぜられることが多々あることを知らなかった。

また、「忍び」とは、山里に隠れ住む異能集団で、傭兵として今日はこっちの仕事、明日は敵対しているあっちの仕事、と、主に諜報や扇動活動、放火などをするものだと思っていた。


ほれ、あの『風林火山』の河越城で勘助や伝兵衛がやっていたような、あんなこと。

(あ、でも、ああいう仕事だってことか!😲)


ま、しかし、ひとつの武家の家臣であり、普段は通常の任務についているが、事に応じて、極秘で召集され軍と共に特別任務にあたるパターンがあることも初めて知った。

目からミツウロコ 👀▲▲▲


さて、本田一族は天正18年の小田原攻めの頃どうしていたのか?

本田の本拠地は深谷(現深谷市川本)で、調査も入っている。本田は畠山の流れだそうで、市や観光系のHPを見ると戦国時代の本田一族というより鎌倉時代の本田一族 推し のようだ。


氏政の頃は羽生城ミッションで大活躍し、その頃は深谷上杉の下にいた。

最後、深谷城は包囲され開城した。本田一族がそこにいたのか、当主と共に本城へ詰めていたのか、はたまたすでに北条から離れていたのかは分からない。


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以上は、氏照友さんにいただいた、嵐山史跡の博物館で2年前に開催された企画展『実相 忍びの者』の図録を読んでいて面白いな~と思い書いた。

図録には、本田一族や本拠地だった深谷本田郷のこと、羽生城ミッションのこと、他所の忍びについてもっともっと詳しく載っている。書状もたっぷり!
こちら→「刊行物・グッズ」


また、こちらにも少し書かれていた。「戦国乱世と葛西城」P98。
以前拝読した時「忍」の文字のことは読み流してしまっていたが、もしかしたら!と読み直したらあったあった、忍、忍、忍💦。

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~谷口榮『江戸東京の下町と考古学』(雄山閣 2019.4)~


昨今「忍び」が注目を浴びているようで、様々な本が出たりイベントが催されたりしているが、なんせ史料が少なくなかなかその実態を掴むのは難しいようだ。

そもそも、史料となるたくさんの足跡を残した「忍び」がいたら、そりゃ大した「忍び」じゃないってことで。

もしかしたら私たちが未だまったくその存在を知らない、もっの凄い「忍び」の集団がいた…なーん考えたりすると夢があるネ。


「葛西城を歩くツアーに参加しました」2013.11
「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」2013.1

「北条五代の娘たち④古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」2017.10 ←拙書『北条五代の娘たち』に加筆修正してまとめました

「北条氏照と土方歳三の国府台城」2010.12


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2023年8月25日 (金)

小田原北条の気になる講演会など(2023.9-10月)

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さて、本題。

New!
🐎 かながわ考古学財団設立30周年記念シンポジウム
「小田原北条氏の境目の城」

日時:10月21日(土)
10:00~17:00

会場:相模女子大学グリーンホール(相模原市文化会館)

申し込み:インターネットで9月22日(金)まで
※抽選で1,000名


▲主な演者と演題

・「戦国期山城の貯蔵施設について」 中井 均
・津久井城・齊藤真一(相模原市教育委員会)/ 河村新城・相良英樹(公益財団法人かながわ考古学財団)/ 河村城・加藤拓也(足柄上郡山北町教育委員会)/ 山中城・寺田光一郎(静岡県三島市教育委員会)

詳細と申し込みは、こちら→「かながわ考古学財団」HP


New!
🐎 多摩の歴史講座オンライン配信

申し込み期限:8月31日


「第25回多摩の歴史講座 デジタルアーカイブで資料をみる-古文書・絵図・地図・写真-」が配信されているそうです。

第5講「戦国時代の紅林家文書を読む」は、前にブログで書いた氏照家臣の 紅林八兵衛さん とこの文書ですよね。面白そう!

詳細 → 「公益財団法人東京市町村自治調査会 企画調査部多摩交流センター」
申し込み → https://bit.ly/3QYsoSk


ブログ→「大活躍!北条家臣 紅林八兵衛さん」


New!
🐎 レジュメ冊子の配布

先にブログ →「大石は松田氏だった ~ 多摩地域史研究会講演会より」 でご紹介した、多摩地域史研究会31回大会『氏照時代の多摩』の冊子を頒布してらっしゃるそうです。

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事務局さんへご連絡を。こちら → 多摩地域史研究会HP


🐎 追加募集中 急いで!
八王子市民自由講座
「”古今無双の名大将“と称えられた上杉謙信は、本当に強かったのか?」

定員が少なく先着順なので、間に合わなかったらゴメンナチャイ。

対象:どなたでも

講師: 乃至政彦 氏
乃至さんの八王子での講座は3回目。1回目は私も拝聴。

日 時:9月1日14時~16時
会 場:八王子生涯学習センター南大沢分館
受講料:200円

詳細と申し込み → 「八王子生涯学習センター 南大沢分館」


🐎「滝山城歴史講演会と寸劇」

先にブログにお知らせを出しましたが、先着順なのでまだ空きがあるかどうか分かりません。HPには満席とは書かれていないので大丈夫かもしないかもしれないかも?なので、再掲載しておきまする。お忘れになっていた方、急ぎお問合せくだされ。

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日時:9月17日(日)10:30~
場所:加住市民センター

講師:黒田基樹氏
演題:北条氏の戦略~氏照の人物像と役割

滝山観光まちおこし実行委員会HP → 「滝山城歴史講演会と寸劇」


マリコ・ポーロ

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2023年8月20日 (日)

今に残る北条氏照ゆかり「御茶屋の松」

マリコ・ポーロ

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~現代の「御茶屋の松」/ 氏照友より拝借~


北条氏照の休憩施設に立っていたという「御茶屋の松」の明治の頃の写真を、八王子衆の氏照師匠&氏照友さんが見せてくださった。

松は、日野用水に沿った東光寺道(拝島往来)の西端の粟須境、現代風にいえば八王子市と日野市との境目の八王子市側(確認済み)に立っていたようだ。

今は三代目(たぶん)が植えられている。
 *注)現在、用水は当時と流路が変わっています。


「御茶屋の松」のことは、日野の佐藤家所持『佐藤家文書』の、元禄の頃に書かれた「挨拶目録」の中の日野用水開発についての項に載っているそうだ(日野市史 第二章 第一節「日野宿の成立と発展」)。


何度か書いているが、幕末、佐藤家(下佐藤家)の当主彦五郎さんは土方さんの義兄で新選組の大スポンサーだった人だ。

佐藤家は永禄年間に美濃の武儀郡から移ってきた日野の名士だが、当時の隼人さんは、日野用水を引いたり東光寺道を造らされたりと、我らが氏照にさんざんコキ使われ😢…いや、頼りにされていた。


以下、コピーをいただいた日野市史より超抜粋。


🍡「茶屋」とは

戦国~江戸初期のもので、主な街道沿いに多くあった。村人や一般の通行人のためではなく、領主のための休憩施設をいう。

へえ~
休泊施設としての「御殿」は小杉御殿や府中御殿などなど史跡になっていたり図絵に描かれたりしているので知っていたが、「茶屋」というものの存在は知らなかった。


最初に「御茶屋」と聞いた時、「お団子」なんて吊り下げ旗が風に揺れ、秋山小兵衛を待つおはるちゃんが赤い毛氈の縁台に座ってお団子を食べている……時代劇によくあるそんな場面を思い浮かべたマリコ・ポーロ。

いやいや、それは「腰掛茶屋」であって、「御茶屋」はまったく違うようだ。当たり前💦。ただ、さほど立派なものでもなかっただろうとは思う。


🌲 最初の松
「挨拶目録」によると、佐藤隼人さんが日野用水などの土木工事を氏照に命じられたのが、永禄10年。御茶屋もその時に出来、松もその頃に植えられたようだ。

氏照の、滝山城時代だね。


🎄 二代目の松

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~市指定の天然記念物だった~

文化年間の頃の勘定奉行の役人の記録に、「御茶屋の松」は「…古木ありて枯れし故…新たに植えしと云」とある。すでに松は二代目だったようだ。

写真は市史に載っていた明治の頃に撮られた松だが、この松が勘定奉行殿が見た松なのだろうか?


🎄 現在の松

上の写真の説明に、この松は枯れて現在は新しい松が植えられていると説明が書かれている。その新しい松というのが冒頭写真の松のようだ。


まあ…

だからどうだということはないのだが(えーっ)、氏照もこの松の木のたもとの御茶屋で休息をし、この松を愛でた…かどうか分からんが、よく見たことであろうと妄想して長々と書いたた次第なり。


現在の松を植えて管理しているのは誰だろう?地元の有志?八王子市?

いずれにしても、残していてくださりありがとうございます。

また、御殿跡というものはそこそこあるが、御茶屋の痕跡はあまり残っていないようだ。市史にも載っていることだし、是非この松に説明板を建ててくれたらいいな~と願うものでござります。


マリコ・ポーロ

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2023年7月31日 (月)

猫姫🐱月へ帰る

マリコ・ポーロ


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当ブログにチョクチョク登場している🐱姫が、先月、月へ帰りました。
あと1ヶ月で23才でした。


以下、苦手な方はご覧にならないでくだされまし。


急に調子が悪くなり3日間点滴に通いました。その日の朝も自分でトイレをして、点滴から戻って私のヒザの上に座っていてそのまま…。23年も生きたのに、最後はあっさり逝ってしまいました。


先日、実家の菩提寺である目黒のお寺で、人間でいえば四十九日のような法要と位牌の開眼をしていただきました。

お寺さんには檀家だけのペットのお墓もあるのでペットの法要もしてくださるのです。お寺さんも代々🐱や🐶を飼っていたから。


位牌を作るつもりはなかったのですが、火葬をしてくださったお寺さん(菩提寺とは別のお寺)で待っている間、テーブルにさりげない風を装って(?)置いてあったペット供養のカタログを観ていたらどうしても欲しくなって注文してしまいました😓。

買ってしまったら開眼(魂入れ)をせねば意味がないので、お願いした次第。


こういう時は皆さん同じだったと思いますが、私はもう仕事に行っていないから家でただ泣いているばかりになってしまいます。🐱のために色々とやったり(買ったり?)、ブログを書いたり、好きなテレビや映画を観まくったり本を読んだり、お出掛けしたりと気が紛れることを見つけています。


また、たくさん残ってしまったフード類(未開封)は、五反田にある「日本動物福祉協会」が寄附を受けてくれました。

なんと私は約23年ぶりにベッドの真ん中で寝たのですが、翌朝起きたら今までの通り端っこに寝ていました。また泣いちゃった……。


それにしても、お寺も火葬場も人間と同じ段取り内容だし、供養グッズも可愛いものがとーってもたくさんあることに、ペット産業もここまできたかとドびっくり~😲でした。

萩真尼ことマリコ・ポーロ


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2023年7月27日 (木)

英雄たちの選択「戦国パイレーツ!里見一族の野望」を観て

 マリコ・ポーロ

🍷 小田原平井書店さんに拙本2冊目(最後)『早き雲と青き空を追いかけて-伊勢新九郎・北条氏照見聞録』 を追加納品いたしました。詳しくはこちらを→ 「2冊目の拙書▲販売について」


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~ずっと部屋に飾っている八犬士の犬坂毛野さん(豊原国周&鏑木清方・對牛樓の旦開野)~


大きな声では言えないが、実は常々、里見が大河ドラマになってほしいと思っておる。
(えーーーっ😲)

だって、北条もたくさん出るよん。しかし、水軍撮影に経費がかかり過ぎるから無理でしょう。


番組はとても興味深かく、しばらくは保存版。特にビビットきた三つ鱗……では足りず五つ鱗は以下。

▲ クジラと小田原北条は同じ?
クジラを捕る時のように、北条の水軍に対応したって滝川先生🤣

▲ 長年の私の謎、弘治2年の海戦について
触れられなかったので、やはり無かった?

▲ 里見が謙信くんに思うこと
そうだよね~。
同感、どーかん、太田道灌😝。

▲ 里見の命運は、千葉のあの形と立地ある
なるほどです。

▲ 安宅船
「あたか」と読むのかと思っていたが「あたけ」なのだね。


以前アクアラインで何度も通い、倉吉のことまでをブログに書いた。里見好きの亡き八王子衆に「情緒的過ぎる」と助言をいただいたことを思い出す。

もっと調べて、また足を運んで書き直したい。

現代の館山城の「里見ノ城」の「ノ」も涙ぐましく、判官びいきゆえか、心惹かれる里見であることよ。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

🍷 随分前の今よりもっと知識がない頃に書いた記事もありますが、そのへん甘い目でご覧いただけると助かります。また、青岳尼のことは拙本『北条五代の娘たち』に整理して掲載しました~。

「公方の姫~青岳尼事件 あらたに知ったこと」2020.2
「里見へ走った公方の姫」2011.6
「弘治2年の「北条 vs 里見の海戦」は本当にあったのか?」2015.7
「鎌倉に訪ねる小田原北条ゆかりのヒロインの寺」203.3

「小田原北条と「八丈島」」2020.5


🐶 亡き八王子衆の歴友師匠に「情緒的過ぎ」と言われた記事の一部なり。

「南総里見ファンタジーツアー 1」2010.2
「南総里見 2 「稲村城」」
「南総里見 3 「久留里城」」
「南総里見 4 「現代の館山城も辛い」」
「南総里見 5 「戦国人たちは消えてゆく~里見忠義」」


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2023年7月21日 (金)

御用米曲輪の検討委員会を傍聴しました(2023.7)

 マリコ・ポーロ

🍷 小田原平井書店さんに拙本2冊目(最後)『早き雲と青き空を追いかけて-伊勢新九郎・北条氏照見聞録』 を追加納品いたしました。詳しくはこちらを→ 「2冊目の拙書▲販売について」


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~今年3月のブログにあげた写真。遊歩道から見たので何が書かれているのか分からなかったが、こたび江戸時代の瓦積塀の説明だと分かった。~


先日、「御用米曲輪 戦国期整備検討委員会」令和5年度第1回目 を傍聴させていただきました。また、御用米曲輪の視察にも同行させていただけました!

定員5名。間際に矢文が来たのでどうかと思ったのですがギリギリセーフでした。私が傍聴したのは2回目になります。


(委員など)
議事進行は、戦国ファンの推し 小野正敏氏。
小沢朝江氏(建築史/東海大教授)、高妻洋成氏(保存科学/奈良文化財研究所)、中島圭一氏(文献史学/慶應)、宮内泰之氏(庭園植栽景観/恵泉女学園)。内ご欠席2名。

そして、神奈川県教委、文化財保存計画協会、保存活用研究所、小田原市文化財課、小田原城総合管理事務所、公園課

の皆さんで討議が行われました。


(主な内容)
▲ 環境調査の経過報告
「異なる二時期の整備を行った場合のメリット・デメリット」をいくつか例を挙げて、また、「整備手法ごとのメリット・デメリット」などの説明。

▲ 審議
 ・地中レーダー探査について
 ・戦国期の整備方針案について
 ・小峯畑下段(数年前に発掘調査をしていた競輪場の下のアノ場所)の整備方針について


委員の方達にとっては基本のことかと思いますが、私なぞはそこまで調べるのかと気が遠くなりました。

史跡整備について今まで単純に、あーすればいいのに、こーしたらいいのにと申していてゴメンナチャイ😓。


充実の討議内容の詳細をここに書くのは控えますが、特に、戦国期と江戸期の2つの時代の遺構が同じ場所に重なる史跡整備の難しさがとても勉強になりました。

これからも諸々大変そうですが、御用米曲輪の整備保存&公開が楽しみではあります。どうか私の目の黒いうち、足腰が丈夫なうちに見られますように。ご意見番(そう?)の小野先生、なにとぞよろしくお願いいたします。


会議の後は、発掘調査中の御用米曲輪へ。

傍聴者も同行させていただけました。写真は不可ですが、何年ぶりかで御用米曲輪に立ち小田原北条成分をたっぷり点滴できたのが嬉しかったです。

そして、この異常な酷暑。遮るものも無い炎天下の元、いくら仕事とはいえ発掘作業に携わる方々に頭が下がりました。


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~コロナ前の墓前祭でいただいた「鈴」を、御用米曲輪のことが上首尾に運びますよう祈りながら結ぶ~


帰り、氏政さんと照どののお墓をお参りをしました。

将軍家のためのものとはいえ江戸時代の一藩の食料庫と、戦国大名の屋敷跡とどちらか重要か……

墓前でちょっと考えてしまいました。


🐎 これまでの検討委員会の公開されている会議資料はこちら → 「史跡小田原城跡御用米曲輪戦国期整備検討部会」


🍷 以下、何度も行なってくださった御用米曲輪見学会に皆勤賞なみに参加した時のブログ記事の一部です。

「小田原城御用米曲輪 「総見」2014.3.8」
「小田原北条の「御用米曲輪」見学会(2013.11.23)」
「石・石・石!戦国北条の御用米曲輪 (2013.2.16)」
「小田原城、戦国の御主殿クラスの建物跡(2012.8.20)」
「2月4日「御用米曲輪」の見学会の報告(2012..2..4)」
「幸田口門に出現した「障子堀」と、「御用米曲輪」再び見学(2012.1.24)」
「発掘調査中の小田原城 「御用米曲輪」を見学(2011.12.14)」

「迷宮の「御用米曲輪」」


萩真尼ことマリコ・ポーロ

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2023年7月16日 (日)

千葉親胤の暗殺は氏康の指示だったのか?~北条五代の娘たち⑩ 親胤室

 マリコ・ポーロ

🍷 小田原平井書店さんに拙本2冊目(最後)『早き雲と青き空を追いかけて-伊勢新九郎・北条氏照見聞録』 を追加納品いたしました。詳しくはこちらを→ 「2冊目の拙書▲販売について」


シリーズ 北条五代の娘たち
【三代北条氏康の息女】千葉親胤室


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~勝胤(親胤より三代前)開基佐倉「勝胤寺」/ 矢印が千葉氏墓所(数年前に撮った)海鱗寺にも行けばよかった…~


暗殺は氏康の指示だったのか……

結論から申すと、分かりません。手持ちの資料、武将歴友さんにいただいた『千葉一族入門事典(千葉氏サミット実行委員会編)』、図書館、充実の千葉市HPなどで親胤関連のものを読みましたが今のところ不明なようでした。


親胤は北条から離反したため(離反を目論んだため?)、弘治3年(1557)重臣一族で北条側だった原氏たちに殺害されました。それは、氏康の指示だったとも、氏康の指示はなく原たちの独断で為されたとも言われています。


親胤は下総千葉氏の当主ですが家系は 馬加(まくわり)千葉家で、当初は宗家ではありませんでした。享徳の乱時、宗家は管領上杉方に、馬加は古河公方方につきました。馬加は宗家の千葉城を急襲し、宗家は滅亡。馬加が宗家を継承することになります。

その後、本拠地を千葉 → 佐倉(千葉県酒々井)へ移し、城や城下が整ったのは親胤の三代前にあたる 勝胤 の頃……でよいでしょうか?


親胤は三男(所説あり)でしたが、長男が亡くなったため後を継ぎます。氏康の娘が嫁いだのはこの頃だと思います(史料なし)。

しかし、上に書いた内紛(か?)により親胤は命を落とします。


その時親胤、なんと 17才!

当主となってからも、婚姻してからも、そんなに時は経っていないでしょう。


出典が書かれていないので本当かどうか分かりませんが、以下のような話を読みました。

~原らは親胤の兄胤富(海上家当主となっている)に千葉家の家督を継がせようとして親胤を暗殺した。~


また、暗殺の段取りは、

~城中において猿楽を催し、その時に殺害する手はずだった。事前にこれを察知した親胤は妙見社に逃れたが、後を追われ渉十兵衛に殺された。~


うーむ、これがホンマやとすると、氏康の指示でも、氏康に忖度したのでもないですな。いや分からん。そうとも言えない。暗殺の手筈はまかせられたとしても、親胤暗殺自体は氏康の指示だったかもしれへんな。

武家の世、同盟を結んだり傘下についたりつかせたりして娘を嫁がせたものの、その後決裂し戦となり実家が嫁ぎ先を滅ぼすということはよくあることですが、当主個人を暗殺というのはあまり聞いたことがないような……。ある?


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~境内の「千葉水」勝胤が愛飲したと伝わる~ 


さて、親胤の正室、氏康のお嬢さんのこと。

「北条五代の娘たち」と申しながら、毎度お姫様ではなくお殿様のことばかり書いております。だって、お姫様よりお殿様の方が好きなんだもん😝


これがまた例によって例の如く なのです。

「尾崎殿」と言われていますが(『小田原編年録』「北条系図」)、「尾崎」の由来は不明だそうです。法名も死去した場所も年も分かっていません。


黒田基樹氏『戦国北条家一族事典』2018(戎光祥出版)に、様々な考察から(御本ご参照くだされ)、「円妙院殿」かもしれないかもしれないと書かれています。

だとすると没年は慶長九年になります。親胤くんは1541年生まれですから、50歩譲って同い年だとしても、円妙院(だとしたら)の享年は50代ですね。


親胤くん室は、夫亡き後どこにいたのかなあ。状況的に千葉家にそのままいられるはずはないから小田原へ帰ったとは思うのですが……。

本来ならトットと実家が引き取り、どこかの有力武門に再婚させるのでしょうが、なにゆえか再婚はしていないようなので詳細は残っていないのでしょう。


十代にして未亡人となってしまった方です。最初は可哀想なような気もしましたが、嫁いで間もないし、子もおらず、千葉家にそんなに思い入れはないでしょうし(たぶん)、実家に戻ってちょっと嬉しかったかもしれない。なーんて思っちゃったりもしました。


下総千葉氏は、氏康や原たちの目論見通り(かどうかはまだ分からんが💦)、海上家の兄胤富が継承します。


次ぎの世代の話…

元亀2(1571)頃
北条氏政の娘 芳桂院 が胤富の嫡子(次代当主)邦胤 に嫁ぐ

天正8年(1580)
芳桂院、死去

天正13年(1585)
邦胤、死去

邦胤&芳桂院の娘と、北条氏政四男直重(北条氏照の養子だったが解消)が結婚

家中の親北条と反北条の間で大騒動の末、直重が千葉氏を継承する


ふぅ~、戦国大名って婚姻関係を考えるだけでも専任の人が必要。たいへん~ですが、なにはともあれ、これで下総最大勢力の千葉氏は北条のものになり、佐倉は北条方房総衆(房総衆なんて言わない)のハブとなりました。

北条フィナーレまであと5年位しかなく、もう臨戦態勢に入った頃のことです。


ちょっと気になったのは千葉家後半当主の没年齢です。

(昌胤)38才、(利胤)33才、(親胤)17才、(胤富)53才、(邦胤)29才

胤富さんはそこそこですが、あとは短命だね。そのうえ、親胤君だけでなく邦胤さんも家臣によって殺害されているんですよ……。


ちなみに、最後の直重のこと。
秀吉の小田原攻めの時には本城小田原に籠城し、開城後は高野山組となります。赦免後、蜂須賀家に抱えられ、江戸時代は先祖の「伊勢」へ改名し徳島藩で続いたそうです。

まあこれは、千葉家が続いたというより、北条家のひとつの家系が続いたと言う方が合っていますが。


先日、親戚の法要で下総千葉に行き、千葉氏のことをよくわかっていないのに急に書きたくなってブログにした次第なり。

ほな。


🍷 「浅草にある千葉氏の城「石浜城」」2015


🍷 以下はシリーズ「北条五代の娘たち」の主な記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

拙本『北条五代の娘たち』に、新九郎さんと氏綱の息女を整理・加筆してまとめました。北条支城群の図書館で開架してくださっているのでお近くの方はそちらを是非ご覧くだされませ。→「本▲『北条五代の娘たち』を作りました」


・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち② 浄心院は三浦道寸の娘か北条氏綱の娘か? 」

「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」
「北条五代の娘たち④古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
「北条五代の娘たち⑤ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
「北条五代の娘たち ⑥ 錯綜する堀越(今川)六郎室」

「北条五代の娘たち ⑦ 玉縄水軍の御しんぞう様」 

・三代氏康の息女
「戦国の高等遊民夫妻~北条五代の娘たち⑧ 今川氏真室」
「法性院は遠山ではなく北条氏堯の娘ではないだろうか?~北条五代の娘たち⑨ 太田康資室」


萩真尼ことマリコ・ポーロ

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2023年7月11日 (火)

北条氏政・氏照 命日によせて(2023)

マリコ・ポーロ

🍷 小田原平井書店さんに拙本2冊目(最後)『早き雲と青き空を追いかけて-伊勢新九郎・北条氏照見聞録』 を追加納品いたしました。詳しくはこちらを→ 「2冊目の拙書▲販売について」


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~高野山 小田原北条墓所に建つ小田原北條氏顕彰会(旧名?)の墓碑 /2010年撮影~


今日7月11日は北条氏政・氏照兄弟の命日です。

今朝は家族の調子が良かったので数年ぶりにお墓参りに行き、ついでに発掘調査中の御用米曲輪も見てこよう!と張り切ったのですが…この暑さ🌞。「墓前で倒れていたマリコ・ポーロ、北条に熱中しすぎ熱中症で救急車で運ばれていた」と誰かにツイッターに書かれたら恥ずかしいのでやめました。


小田原での墓前祭はコロナ禍以来営まれていませんが、長年お参りさせていただいていました。

墓前祭では市長さんの挨拶もあり、最近は市の観光課さんも協力されているようですが、主催は市ではなく北條遺跡顕彰会さんです。コロナ禍のうえに世話をしてくださる地域の方達もご高齢になり墓前祭を整えるのが難しくなってきたそうです。


ちょっと話はそれますが、どこも同じ悩みがありますね。

我が街のお祭りもそうですし、各地の史跡保存会さんやボランティアガイドさんも80才前後の方が多くなっています。このような方達が主になって活動を始めた頃はまだ50代の方々もいらしたと記憶しているのですが、昨今は定年も延び、50-60代は仕事や介護や日々の雑事に追われ自分の身の周りのことだけで手一杯。

また、会員となってイベント等を遂行するよりは、自分達でオフ会などを開き史跡巡りを楽しみたいという人の方が多いのかもしれません。


氏政・氏照墓前祭に話を戻し……

もともと墓前祭は、かつて大火があった時、関東大震災で崩れたままのお墓がそのままになっているせいかもしれないと、商店街の有志の方達中心に顕彰会を立ち上げ墓所を整備し供養をしたことから始まったそうです。

会長さんも会員さん達も世代が変わり、小田原北条もファンが増え、当初の頃の趣旨(祟りを鎮める💦)も変わってくると、墓前祭も地域の方達まかせというわけにもいかなくなってくるのが自然でしょう。


小田原に住んでいたらな~

でも、わらわが好きに活動できるようになる頃には、わらわ自身がもう身体的に動けなくなっている年だろうて。今までこれだけ自由にお出掛けしまくっていたのだから仕方ないだろうと?たしかに。


氏政・氏照の墓所はいつでも誰でもお参りできまする。

余談ですが、面白いのは、あの墓所はわざわざ高く築いたのではなく、あのあたりは昔あの高さだったということ。あの、あの、ばかりで相済まん。


🐎 以下、7月11日のことを書いたブログ記事の、一部です(多すぎて添付しきれない)。八王子城落城、7月5日の小田原開城、氏直らの高野山などを書いた記事はまた別にたくさんありまするので、ご覧いただけたら嬉しいです。

▲ 墓前祭(小田原)
「北条氏政・氏照 「墓前祭」~今年も小田原開城に思いを馳せる」2017
「恒例 氏政・氏照「墓前祭」」2018
「北条氏政・氏照「墓前祭」 小田原2015」
「天正18年の供養~氏政・氏照墓前祭と八王子「相即寺」」2019

▲氏政・氏照の首級
「北条氏政の首級(みしるし)はどこに・・?」
「北条氏照の首級(みしるし)はどこに‥?」

▲氏政・氏照の天正18年
「小田原城~開城にむけて交渉す」2022
「北条氏照逝く~辞世のこと」

「後水尾天皇に選ばれた北条氏政の和歌~切腹の日によせて」
「氏政・氏照切腹と藤波辰爾さんの小田原城」2021

「小田原攻め、北条氏照の本陣「報身寺」」
「北条家ホームドクター田村先生の、日野「安養寺」」

「前編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」
「後編・北条氏照への想い~傑僧「卜山禅師」」

▲ 氏照を介錯したのは氏規ではないかもしれないという史料について
「その①~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その②~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その③~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その④~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」

 

▲ その後の内府殿
「家康は8月1日以前に江戸へ入っていたのか?」


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2023年7月 5日 (水)

大石は松田氏だった ~ 多摩地域史研究会講演会より

マリコ・ポーロ

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~なんと冊子になっていました!~


~今日は7月5日
北条五代当主氏直が弟氏房と共に渋取口から投降し小田原城が開城した日です~


さて……

6月25日(2023年)に開催された「多摩地域史研究会」さん 31回大会 の冊子を八王子衆歴友さんが送ってくださいました。毎度かたじけなし。

定員が少なく、また、連絡先が個人の方なのでブログでのお知らせは控えさせていただいておりました。


またまたビビッ😲とくることがありました。

内容は、
・ 戦国時代末期の在地社会に迫る
  ー 梶原勝氏(大会実行委員)
・ 国史跡八王子城跡御主殿
  ー 村山修氏(八王子市教育委員会)
・ 八王子城周辺の遺跡 16世紀を中心として
  ー 石垣知倫氏(八王子市教育委員会)
・ 北条氏照の在地支配と日野用水を開いた佐藤隼人
  ー 上野さだ子氏(日野の古文書を読む会・日野の昭和史を綴る会)
・ 北条氏照の家臣たち その類型と実態について
  ー 加藤哲氏(八王子市文化財保護審議会副会長)

朝10時から午後5時頃までという一日がかりの 密なる 講演が続いたそうです。直接拝聴したかったです😢。


まずは、氏照研究ではお馴染み、八王子衆の加藤先生の「北条氏照の家臣たち」を拝読しました。

類型別に例として取り上げられた家臣たちは以下です。


(類型Ⅰ)小田原からの家臣たち
・横地吉信
・布施景尊
・近藤綱秀
・狩野一庵


(類型Ⅱ)大石氏の旧臣
・小田野周定
・大石信濃守 定基&照基
・大石駿河守 高仲
・大石秀信

(同 Ⅱ)三田氏の旧臣
・神田与兵衛
・並木弥六郎
・宮寺与七郎

*以前のブログに書きましたが、小田野(小田と改名)や三田の師岡は後に水戸に行きました。中山と一緒です(文末添付)。


(類型Ⅲ)流浪する戦国の武士たち
・今川旧臣 紅林八兵衛
・武田旧臣 天野景貫 / 小坂新兵衛


 🐎 特に興味深かったこと

▲ 小田野と三田のこと

二代目大石信濃守の照基や大石秀信は、松田氏だったのですってね! 「大石一族に小田原の家臣が養子として徐々に入り込んでいった」 とは知りませんでした。

ドびっくり~😲


でも、なにゆえ松田?


うーむ (-_-) 色々妄想中


💡


話を戻して。
それゆえ、照基たち世は(類型Ⅱ)→(類型Ⅰ)に転化していると。

同じ大石の旧臣で、同じく軍事に携わっているにもかかわらず、小田野と三田は扱いが違っていたのはそういうことだったからですか。納得~。小田野さんも三田さんも氏照にコキ使われて💦いましたが、信頼度には差があったのだね。


▲ 他家からの再仕官のこと

前職でのキャリアによって、氏照の元でのポジションが随分と違うようです。現代と同じですね、ビズリーチ☝

氏照の家臣をこのように類型だって解説をしてくれた方は初めてですよね!さすが八王子衆の加藤先生でした。


🐎 発表要旨(冒頭の写真)を頒布してらっしゃるそうです。こちら→ 「多摩地域史研究会事務局」へご連絡を。


「水戸藩にあった「八王子町」と中山勘解由の息子信吉」
「八条流馬術~氏照家臣の中山勘解由の息子照守」

「檜原の残影~横地監物と武田の松姫」
「約400年ぶりに八王子城へ戻った横地監物」

「大活躍!北条家臣 紅林八兵衛さん」

「おはらい四郎兵 ~ 八王子城落城(2020)」
「烈婦「妙源」~八王子城落城」


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2023年6月28日 (水)

家康殿ったら失礼しちゃう!

マリコ・ポーロ

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~小田原北条氏誕生500年記念シンポジウム(2023.3.25年)~


前回のブログに、このシンポジウムがYouTube配信された!と興奮して書いたのに、諸事に紛れコロッと忘れていました。長年の北条繋がり知人の方からコメントをいただき思い出した次第😲。かたじけない。

さっそく拝聴しました。


YouTube配信されている講演は、天守閣館長の諏訪間順さん・平山優氏・黒田基樹氏のお馴染みの3人でした。

内容は、
▲ 諏訪間さん ― 概要
▲ 平山優氏 ー 天正壬午の乱
▲ 黒田基樹氏 ー 北条と家康殿との関係を時系列で

でした。


平山氏の講演は、天正壬午の乱の成り行きを追い、事細かにまるで講談のようにお話くださりとても興味深いものでした。著書『天正壬午の乱』は1回読んだだけなので、じっくり再読したいと思いました。

平山氏のお話も黒田氏のお話も最後のディスカッションも気になる箇所はあまたあり、メモがびっちりになってしまいましたが、妄想族のマリコ・ポーロ的に一番ビビッときたのは、黒田氏の話に出てきた 督姫 の婚姻のところです。


天正10年の天正壬午の後処理のこと。

北条と徳川の和睦が成り、10月には、北条五代当主氏直と家康殿のお嬢さん 督姫 の婚姻が取り決められましたよね。台風による大災害でちょっと延期になりましたが、翌年8月15日(新九郎さんの命日だ!)に 督姫 は壮大な花嫁行列で小田原に嫁いでらっしゃいました。


めでたいめでたいと私は思っていましたが、北条としては、そう単純に喜んでよい話でもなかったような……

家康の手紙からすると、せっかく同盟を結び婚姻も決まったのに、家康殿と北条は暫く連絡をとっていなかったそうなのです。新年の挨拶状も交わさなかったそうな……。


えー、なんで?

と、手持ちの貧しい資料を漁ってみましたが、黒田氏が無いというものをマリコ・ポーロごときが見つけられるわけもなく😓。


黒田氏が推測するに、
ふたりの婚姻は、家康が 「口から出まかせ」 に言っただけではないかと。でも、それから氏政が色々とそれらの事の言ってくるから仕方なくではないかって。

失礼しちゃうわよね 😠 家康殿ったら!

そして、この同盟の主導権は、どーも家康側にあったのではないかと。


これは黒田氏の推測で証拠があるわけでもないです。また、北条氏直が秀吉に許されたのも家康殿がかなり頑張ってくれたからだとは承知しているし、江戸時代に北条家が狭山で続いたのも家康殿のおかげだと思っていますが、ここでハッキリ言っちゃうけど……

昔から徳川家康という方はあまり好きではないです。八王子衆でも好きな方多くて、ゴメンナチャイね。


正確に知りたい方はYouTube配信をご覧くだされませ。
こちら→「第59回小田原北條五代祭り 小田原北条氏誕生五百年記念シンポジウム「家康と小田原北条氏」」


「神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱」
「激戦!金窪城から神流川へ~天正壬午の乱」

「家康と北条氏政、黄瀬川の河原で酒宴する」
「今日は、北条氏直殿の命日」
「北条氏直の正室「督姫」の母の墓」


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2023年6月21日 (水)

YouTube配信 / 第59回小田原北條五代祭り、小田原北条氏誕生五百年記念シンポジウム「家康と小田原北条氏」

マリコ・ポーロ


速報!

YouTube 配信です!

ありがたい!

クリックして ↓ ご覧くださいませ。私もこれから拝聴します!

「第59回小田原北條五代祭り 小田原北条氏誕生五百年記念シンポジウム「家康と小田原北条氏」」

全2時間24分!


萩真尼ことマリコ・ポーロ

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2023年6月18日 (日)

滝山城「連続講演会」と、拙投稿『歴史研究』のおしらせ

マリコ・ポーロ

🍷 小田原平井書店さんに拙本 『早き雲と青き空を追いかけて-伊勢新九郎・北条氏照見聞録』 を追加納品いたしました。また、初本 『北条五代の娘たち』 も出版社さん分から納品いたしました。詳しくはこちら→ 「2冊目の拙書▲販売について」


気が付けばすでに 小田原北条開城落城月間 にはいっていました。諸事情で忘れておりました。

鉢形城も3日前に開城していました。氏邦さんゴメンナチャイ。


さて……

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~滝山城~


矢文きたる!
ヒュンッ 🏹


「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会さん」による、北条ファンお馴染みの連続講演会のお知らせです。もう18回目ですって。座学活動にも熱心なのですねえ。

以下です。


内 容:国史跡滝山城跡「丘陵地の山城の保存と管理」

講 師:亀山章 氏
東京農工大学 名誉教授 / 「滝山城跡(都立滝山公園)保存活用計画検討委員会」委員長 / 文化財指定庭園保護協議会会長 / 公益財団法人 日本自然保護協会理事長


・日 時:2023年7月10日(日)13:30~15:30

・会 場:八王子市加住市民センター
・受講料:500円(資料代)

・定 員:90名
(応募者多数の場合は抽選。但し、当選者の半数は八王子市民)

・申し込み:往復はがきで、7月14日(金)必着
詳細はHPでご覧ください → 「18回 連続歴史講演会 国史跡「滝山城跡 丘陵地の山城の保存と管理」」


亀山先生のご専門は、造園学、景観生態学、地域計画学、環境緑化工学、森林科学とのこと。歴史とはまた違う視点からのお話がうかがえそうで興味がありますネ。


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~『歴史研究』7月号 第712号(戎光祥出版)~


大河ドラマで全国区になってしまった家康の側室「西郡局」を書いた投稿を掲載していただけました。以前ブログに書いたことと重なる箇所もありますが、北条氏直にも想いを馳せ、ドラマに言いたい事もチビット添えて書きました~。

『歴史研究』さんには、これまでもいくつか掲載していただいております。ありがとうございます。


萩真尼ことマリコ・ポーロ

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2023年6月 2日 (金)

小田原北条家の文芸のこと

マリコ・ポーロ

🍷 小田原平井書店さんに拙本  『早き雲と青き空を追いかけて-伊勢新九郎・北条氏照見聞録』 を追加納品いたしました。買ってくださった皆様ありがとうございます!
また、初本 『北条五代の娘たち』 も出版社さんが少しだけ持ってらしたのであわせて納品いたしました。詳しくはこちら→ 「2冊目の拙書▲販売について」


さて……


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~北条氏綱が描かせた酒吞童子絵巻(サントリー美術館)、最終的には氏直室督姫と共に再婚先の池田家へ~


前回は道寸殿が和歌にかなり傾倒していたことにドびっくり~😲したことを書きましたので、こたびは北条家のことを。
前回 → 「お見それしていた三浦道寸の和歌のこと」


初代新九郎さんは京の官僚の出身。二代氏綱公の後添えは近衛さんのお嬢さん。氏綱公の弟の幻庵殿も幼い頃から僧門に入り、名将でありながらも教養人として知られた人でもあります。都の文化がかなり入ってきていたでありましょうから、北条家が和歌の造詣も深いことには驚きませぬ。

茶の湯や猿楽はもちろんのこと、飛鳥井家に蹴鞠を伝授され、書物や絵画の収集・書写も精力的におこなわれました。また、狩野派の絵師を取り立て、一族には玉縄の氏繁のような絵の達人もいたようです。


ちなみに、氏繁が描いたとされる「鷹」の絵が残っています。個人蔵で私は実物を拝見したことはありませんが、水野裕史氏 『日本における鷹図・鷹狩図の研究概要と展望 : 中国の鷹図を踏まえて』 P49 に画像を観ることができます。

眼光鋭く、少し開いた嘴から覗いている舌が生々しい。松の木の幹や枝も迫力があります。


森暁子氏 『北条氏繁の寝茶の湯―戦国武将の生活の一齣』 には、

  ……もちろん腕前もあろうが、もしかしたら『北条記』の伝えるように氏繁が自身で鷹を飼育しており、この生物をよく見ていたためという理由があるのかもしれない。彼が鷹を飼育していたという証拠は見つかっていないが、この絵はその話が真実であることを多少なりとも伝えるものかもしれない。……

とありました。(論考に『鷹図』は「氏堯」の作とありますが「氏繁」です)


文芸華やかなる北条家にござりまするが、特に和歌については、新九郎さんが定めたとされる 『早雲寺殿廿一箇条』 という家訓(のようなもの)にもあります。

十五条「可学歌道事
~歌道の心得のない人は品がない。良く学び、常に言葉遣いに注意しなさい。迂闊な一言で胸中が悟られてしまうものだ~

と、歌道にとても重きが置かれていたことが分かります。


前にも書きましたが、連歌の会も盛んに催されています。

幻庵殿の子息氏信は和歌の達人だそうで、氏康殿が自身の歌の添削をしてもらっていたとのこと(下山治久『事典にのらない戦国武将の居城と暮らし』)。

宗長や里村紹巴との親交は、これまたよく知られた話ですね。


雪折の 竹の下道ふみわけて すぐなる跡を世々に知らせむ

氏康(『武林拾葉』)の和歌とされています。定かではないようですが、私は好きです。

雪折れの竹を踏みしめ真っ直ぐに歩んできたことを後の人びとにも知ってほしい……。氏康の和歌であってほしいと思います。

氏康殿の和歌は小田原城天守閣特別展「北条氏康伝」の図録にも詳しく載っています。


「後水尾天皇に選ばれた北条氏政の和歌~切腹の日によせて」2022.7
「(追記)北条氏康の長男~北条家和歌短冊集」2020.3
「小田原北条家と猿楽の宝生大夫」2019.7
「小田原城のライフスタイルと饗応の膳」2014.1
「夢かうつつ か「小田原城 薪能」2009


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2023年5月28日 (日)

お見それしていた三浦道寸の和歌のこと

マリコ・ポーロ

🍷 小田原平井書店さんに拙本  『早き雲と青き空を追いかけて-伊勢新九郎・北条氏照見聞録』 を追加納品いたしました。買ってくださった皆様ありがとうございます!
また、初本 『北条五代の娘たち』 も出版社さんが少しだけ持ってらしたのであわせて納品いたしました。
詳しくはこちら→ 「2冊目の拙書▲販売について」

さて……


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先にお知らせした、三浦一族研究会さん主催の真鍋淳哉氏講演会 『三浦道寸とその時代-文武兼備の武将』 の矢文をくださった歴友さんから、講演会のレジュメをいただきました。史料が7頁もあり嬉しいです。

かたじけのうござる m(__)m


目を通していてビビッときたことがありました。

講演会のタイトルにもある「文武兼備」の、「文」の方のことです。

そういえば、同氏の『三浦道寸』2017.1 戎光祥出版 第三章が「文化人としての三浦道寸」という項でした。道寸殿は猛々しい方だと、なんの根拠も無く勝手にイメージしていたので、「文」が結びつかず読んでおりませんでした。


三浦道寸で和歌といえば、有名な辞世の句が浮かびます。

うつものも 討たるるものも かはらけよ くだけて後は もとのつちくれ


私も大好きな和歌です。

日々が死と隣り合わせの時代でしたし、当時流行った思想(末法思想)の影響もあるのかもしれませんが、「しょせん人は…」「しょせん人生ってやつは…」と、戦国武将らしい達観した感じが好きです。


あなたも私も、しょせん人はみな土塊に還ります。
Let's return to the ground!✌

いや、昨今は海に帰りたい人もいるかもしれませんが。


しかし、この歌は『北条五代記』にあるだけで(たぶん?)、本当に道寸殿の歌かどうかは分からないとされています。


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~新井城から油壷湾を覗く~


レジュメに戻り、道寸殿の和歌の嗜みのこと。

例えば道寸殿は、
東常縁から『古今和歌集』の深秘を伝授され、毎日歌書三葉を書写、毎日三首を詠んでいたそうです(三浦系図伝/北条盛衰記)。

書写は、鶴岡八幡宮(恵光院)や鶴岡小別当や荏柄天神社に残されているそうですし、道寸筆と伝えられる古筆切は30点以上確認されているのですってね😲。


お見それしました、道寸殿。御無礼いたしました。

上記の真鍋氏の本にはもっともっと詳しく書かれているので、ご興味ある方はそちらをご覧くださりませ。


次回は北条家の文芸のことを……。


「後水尾天皇に選ばれた北条氏政の和歌~切腹の日によせて」2022.7
「(追記)北条氏康の長男~北条家和歌短冊集」2020.3
「小田原城のライフスタイルと饗応の膳」2014.1

「伊勢新九郎、湘南ボーイへの道」2009.9


萩真尼ことマリコ・ポーロ

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