2017年11月20日 (月)

花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?

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~レジュメ~

一昨日は、小田原城で開催中の企画展「小田原北条氏の絆~小田原城とその支城」の関連講演会、氏政と氏照を拝聴してまいりました。

「北条氏政と小田原城」が佐々木健策氏、「北条氏照と八王子城と」は齋藤慎一氏でした。定かではなかった氏政さんの生年が天文8年と分かったそうで、どうして分かったのか知りたいと思いました。


本題。
少し前のブログ記事に、島田市博物館の「寿桂尼と今川氏展」のことを書きました。その時、花蔵の乱で寿桂尼は義元ではなく玄広恵探を擁立しようとしていたという展示を見て、皆さんはすでにご存知のことだったかもしれませんが、私は驚いてしまいました。


その根拠として、

① 企画展の説明には、高白斎記に「(寿桂尼は)花蔵ト同心シテ」とあることだとありました。高白斎とは、信玄殿の駒井高白斎のことですね。


チラッと調べたところ、

② ‐寿桂尼は福嶋のところへ何かしらの「住書(注書)」を持って行った(←このことがどこに書かれていたのかは、この時点では調べきれなかった)。
   ‐ 寿桂尼は夫君の氏親の代から、恵探の母(氏親様の側室)の実家の福嶋と昵懇だった。その関係は、寿桂尼が隠居しても続いている。

いうことは分かりました。


北条以外にあまり興味の巾を広げないようにしているため、寿桂尼が恵探側だったということは初耳で本当にビックリ coldsweats02。広げないようにしているのに、もう少し詳しいことが知りたくて…買ってしまいました~。

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~有光友學 著。吉川弘文館。葛山を調べるのにチョコチョコ図書館で読んでいたが、図書館通いでは間に合わなくなってしまった(キーホルダーは今川さん)。~


ご本の発刊は2013年ですが、参考にさせていただいたのは、中におさめられている 1992年の講演のお話です。


①の「同心シテ」の解釈は諸先生方によって様々です。事件のザックリした流れと合わせて以下。


(天文5年)
3月17日、当主氏輝とその弟彦五郎が同日に急死。

4月27日、福嶋、恵探を擁立し挙兵。

5月24日、高白斎の日記には以下のように書かれているそうです。ここで、寿桂尼が福嶋のところへ行き「同心シテ」が出てきます。

「五月廿四日夜、氏照(輝)ノ老母、福嶋越前守宿所ヘ行、花蔵ト同心シテ、翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福嶋党久能へ引籠、…」

そして、6月14日、花蔵殿(恵探)は藤枝の普門寺で自害することになります。

(天文6年)
2月10日、義元と武田信虎の娘が結婚

2月26日、北条氏綱が「駿州出陣」

という事態になってゆきます。


② の「住書(注書)」とは、書物(カキモノ)、書類のことです。かなり分かりました。


「住書(柱書)」のことが書かれていたのは、義元が岡部左京進に出した自筆の感状だそうです。

何に対しての感状かというと、花蔵に取られた「住書」を取り返したことに対してだそうです。
住書花蔵ヘ被取之処、親綱(岡部)取返付畢


そして岡部殿は、賜った感状にメモを書き足しています。

乱の前に、大上様(寿桂尼)が住書(注書)を持って花蔵殿へ行った。(岡部殿は)花蔵城(葉梨城)を落とし、住書を取り返した、と。

大上様御注書お取、花蔵被為参候処…うんぬん」


へえ~~ wobbly。乱の前ですか~。感状が出たということは、よほど大事な書き付けだったのですね。その住書にはいったい何が書かれていたのでしょう。


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~寿桂尼の隠居所で菩提寺となった龍雲寺。静岡駅からバスで10分位。~


有光先生の本には、寿桂尼の発給文書のことも書かれていました。

同じく息子である先代の氏輝の時は、氏輝が一人前になるまでは寿桂尼が代わって発給していることが多かったのですが、義元の代になるとそれが全くないそうです。義元はまだ 18‐19才で、印判も僧侶時代の黒印「承芳」を使っている頃だったにもかかわらずです。

つまり、乱以降、寿桂尼はかなり遠ざけられたのではないかというのです。


しょえ~~ bearing

なんだか、色々と複雑そう。


歴史小説や雑誌を読んだり、ネットなどで検索すると、今でもほとんど「寿桂尼は実の息子の義元を当主にしたかったので、雪斎と組んで福嶋と恵探を滅ぼした」と書かれていますよねえ。時代劇だって、義元の傍には必ず雪斎と寿桂尼がいるじゃあないですか。

前のブログにも書きましたが、島田市博物館にいかなければ私は諸説あることを知らず、これからも「息子を当主にしようとした寿桂尼」を話していたと思います。花蔵に限らず、こういうことって他にもたくさんあるのだろうな~。


これで完全に決まり!という時点ではまだないとは思いますが、これからはドラマや映画の絵面も少し変わってくるのでしょうかねえ。


「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-29ad.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年11月11日 (土)

「馬をめでる武将たち展」 馬の博物館(2017年)

開催期間: 12/3(日) まで
博物館への行き方: 京浜東北線の根岸駅からバスですぐ。♪山手のドルフィンは~ の近く。


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断捨離中ゆえ図録は我慢。展示目録はなかったので、気になるところだけメモを取りました。


horse 伝北条氏康像

写真で見ると、困惑しているような顔に見えるかもしれませんが、実際にナマで見るとそんなことはなく、とっても若く、ポッテリした唇が印象的な顔です。

展示の説明には…

▲ 氏康像と同じ頃に描かれたもの。
▲ 直垂は、氏康像は鶴亀だが、この像はそれに松が加えられている。また、小袖も華やか。
▲ 元服はしているが非常に若い。

もしかしたら氏康が直垂を下げ渡したとすると、それは、息子だろう。

とすると、それは、氏邦・氏規・景虎と比定できるのではないか。

と、ありました。


疑問1)
直垂は、絵で見る限りは氏康像と色も違うし(変色しているかもしれないが)、鶴の向きも違うので、別誂えか、絵の上でだけこの柄にしたかもしれないとも私は思いました。

疑問2)
では、なぜ、氏親・氏政・氏照ではなく、邦・規・景と比定しているのかしら?親・政・照だと、ちょっと年代が上になってしまうからかな?

疑問3)
それから、「個人蔵」。
どこから出てきたのかも、像主を判断する材料となりますよね。どこなのだろう…。


と話したら、北条歴友さんがから矢文をいただきました。ありがとうございます。

「個人蔵」は青梅の方で、この肖像画は作年青梅市郷土博物館で催された企画展「戦国時代の青梅~三田氏の滅亡と北条氏~」に出ていたそうです。

青梅ですか…。よもや、源三(氏照)どのではないですよね?青梅をゲットした頃はもう少し大人ですものね?


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horse 北条時長像

時長って誰?鎌倉執権ですか?

幻庵殿の長子で、今、「北条三郎」と呼ばれている方がいますよね。その方のことらしいです。「時長」というのですか。初めて知りました。へえ~~。

こちらは、北条三郎殿の菩提寺である小田原(風祭)の「宝泉寺」蔵です。宝泉寺とは、北条三郎殿の法名です。


horse

・黒漆塗六十二間筋兜(天文4年)
伊達家ゆかりのものらしい
・鉄錆地四十八間筋兜の鉢のみ
上杉朝宗の頃のものらしい
・吹返しに二つ引両紋の六十二間小星兜(永禄12年)
・ 秀吉の馬廻衆のものだという兜

もう一頭あったが忘れてしまったsweat01


horse 伊達政宗がボーイフレンドの只野作十郎くんに出したお手紙

病気の作十郎を心配。
今日は馬を見る予定だったが変更して鷹狩りをした。夜語りの相手がいないので家康がくれた手紙を読んでいるのだよ…などと、とりとめもないことを書き連ねたお手紙。


腐っているのでbleah こういうお手紙が気になってしまう。

手燭の元でひとり、前に貰った家康の手紙なんかを読んでいる所在なげな老齢(52才)の政宗の姿がチョットいいな~と思ってしまって。


なんならワテがお話相手になりましょうか?ペラペラ ベチャクチャ。
「え~い、やかましいオナゴじゃ!そういう意味ではない!」

え?どーゆー意味?

バサッ(←お手討ちの音)


horse その他、初公開の上杉朝宗や、秀吉や官兵衛などの書状。今川氏真が京都にいた頃の肖像や朱印状などなど。

200円でこれだけ楽しめるのじゃ!


23日の講演会も面白そうです。特に、長塚氏による「朝倉右京進ー鞍を作る戦国武士の周辺」が興味津々。朝倉右京が講演の内容になるなんて珍しいです。

行けないですが…。


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~懐かしのドルフィン~

海を見ながら歴史話に盛り上がる午後。note ワイングラスの なぁかぁを~ 貨物船がとぉおぉる~。あ、ソーダ水か。ソーダ水の発泡の中では景色は見えない…と当時話したっけ。


horse これも行きたいが、そんなにどこもかしこも行けにゃい

特別展「戦国時代の千葉氏ー古文書が語る争乱ー」
千葉市立郷土博物館
HP→
https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyodo/tenji.html#tokubetu


過去の馬の博物館での企画展のブログ記事です。

「ススメ!小田原北条氏展」 馬の博物館(2011年)             
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/at-e4d3.html
「戦国の城と馬」 馬の博物館(2010年) 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-cfc6.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年11月 3日 (金)

「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)

                                               by マリコ・ポーロ

Photo
~島田宿を歩き大井川に突き当たった河畔に建つ~


wine 早川殿 朱印状

♪ 唄は茶っ切り節~ 男はぁぁ 次郎長~

毎度古くてすみませんと、静岡の茶どころ島田の宿、島田市博物館の「寿桂尼と今川氏展」へ行った一番の目的は、今川氏真に嫁いだ北条氏康の娘、早川殿の ナマ朱印 を見ることです。


ただそれだけのために島田まで行くかね。我ながらビックリですが、今のところ日本でただひとつしかないのです。

今まででしたら行かなかったと思いますが、書き続けている「北条五代の娘たち」で早川殿の足跡を辿ったばかりでパッション Max。どうしても見たい!お昼ご飯代を削ってでも、秘蔵のマンガを売ってでも見たい(?)。エイヤッ!bullettrain と行ってしまいました。


堪能しました~ heart01 早川殿の朱印 「芳菊」 。早川殿の朱印は「幸菊」と書かれている本が多いので、私もそう思ってきましたが、「芳菊」なんですね。でも、義元殿の印伴「承芳」の「芳」の字と随分違うような、違わないような…。ちょっと私には分かりませんが。

一回見て、会場を一回りしてまた戻って見ました。穴のあくほど見ちゃった。もし穴が開いていたら、私がジーーーーッと見たからです。なんてね。


朱印状の内容は、寿桂尼が所領を安堵していたお寺に、寿桂尼が亡くなったあとその権限を受け継いだ早川殿が、寿桂尼と同じく所領を認めたものでした。

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~図録を撮ったのでボケボケ。現物はかなりハッキリクッキリと鮮やかだった。図録には「芳菊」とあったが、展示はどうだったか忘れたsweat01


朱印状が出されたのは永禄11年11月。その1ヶ月後、今川は武田信玄によって駿府を追われることになります。


そして、
今回の企画展では、花倉(花蔵)の乱について 2つ 新しいことを知りました。そのうちの1つは、本当に驚きました。


wine 「花倉」の乱?「花蔵」の乱?

皆さんはとうにご存知かもしれませんが、今、「花倉の乱」ではなく、「花蔵の乱」と呼ぶ(書く)方が主流だそうですね。


「花倉」とは合戦があった場所。はなくらの乱は、以前は恵探が福島と最終的に花倉城に入り起こした内乱のように考えられていたので「花倉の乱」と言われていました。私もそう認識していました。

しかし今では、はなくらの乱は、花倉城だけでのことではなく、今川家を二分し北条や武田など周辺の大名も巻き込んだ大きな政争だととらえられ、恵探の異名「花蔵殿」から「花蔵の乱」と呼ばれているそうです。


知らんかった~。ブログなどに書く時に、「花倉」「花蔵」どちらの字を使うかいつも悩んでいましたよ。へえ~~~。


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~図録充実。ワテの2つの知らなかったことも記載。キーホルダーは、「反撃!今川さん」。悔し涙の義元殿だとか。静岡市非公式キャラクターだそうだが人気者で活躍している。~


そしてもうひとつは、もっの凄く驚いたこと。

wine 寿桂尼は、「花蔵ト同心シテ」いた by 高白斎記

ドびっくり~~


なぜ同心したのか?

寿桂尼も恵探も共に北条と繋がりが深かったことと、栴岳承芳(義元)と組み今川家中で発言力を増してきた雪斎への寿桂尼の対抗意識から…ですと。恵探が北条と懇意だったのも知りませんでした。


よもや寿桂尼が実子の義元を抹殺するまでのことではないとは思いますが、ほなら、北条氏綱は義元に支援を要請されたのではなく、やっぱり氏綱が「今が好機!」と、勝手に河東に乱入したのだったりして。

いや、それより、氏綱に要請したのは義元ではなくと恵探と組んだ寿桂尼だったりして。すると、乱後に義元が怒って、雪斎ラインで武田と同盟したのも納得だわ~なんて思ってしまいました。


ホンマかいなと思って、家に戻ってからチト調べてみました。それは有光氏・前田氏・大久保氏らのご研究のようです。しかし、「同心シテ」 をどう解釈するかはそれぞれ「味方をする」「一味して」などなど諸先生方色々。小和田先生は、「妥協して」ととらえてらっしゃるようです。

いずれにしても、これは他国の高白斎が見聞きしたことを書いたもの。聞き間違いや情報伝達の不十分さもあると思われるから、そのまま理解してよいかどうかも問題とありました。


また、乱の前、寿桂尼が恵探のもとを訪れる時に「住書を持参した」とあるそうで、それは、この乱の妥協案が書かれたものではないかと小和田先生はおっさってらっさるそうです。住書 には何が書かれてあったのでしょう。寿桂尼は息子義元を助けようとしたのでしょうか…。

また、寿桂尼が恵探に住書を持っていったことを、なんで駒井が知ったのでしょうね。


そんな論争があることなんて全然知りませんでした。『今川氏研究の最前線』にも書いてなかったような…。

(加筆:
『今川氏研究の最前線』の大石泰史氏 P109 にそれらしきニュアンスのことが書いてあると、コメントちょうだいしました。あらためて読んでみましたら、ホント、あるある!ありがとうございました。福嶋との繋がりは夫君の氏親さま時代からなのですね。へえ~。confident


様々な論文や本を全て読んで常に最新の研究を知るということは私には無理ですが、諸説ありということを知ることができ、また、早川殿のナマ朱印も堪能することが出来て今回の企画展に、エイヤッと行ってよかったです。神様、仏様、稲尾様(これまた古い)、ありがとう。


「寿桂尼と今川氏展」は、11月26日(日)まで。

新発見・初公開だという、氏真さんが6首の和歌を書いたものも出ていました。書かれたのは天正5年頃。氏真が諏訪原城にいた頃です。注)途中一部展示替えがあるようです。


wine 寿桂尼の隠居所&菩提寺 「龍雲寺」

島田で企画展を観たあとは駿府へ戻り、静岡駅からバスですぐの寿桂尼さまのお墓参りです。

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~寿桂尼墓所を背後に、寿桂尼が見守った駿府のご城下をワテも眺めてみた。~


horse これも行きたい
「馬をめでる武将たち」 馬の博物館

新発見の「伝・北条氏康像」や、「今川氏真像」も出ているそうです。またまた講演会も魅力的。講演会は行けないですが…。HP→http://www.bajibunka.jrao.ne.jp/uma/event/event_20171020.html


「駿府 「臨済寺」の特別公開」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
「今川時代の駿府~吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html

「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html
「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html
「今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-88b5.html


萩真尼ことマリコ・ポーロ

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2017年10月28日 (土)

「吉祥寺」 古河公方室、太田道灌、遠山氏ゆかりの名刹

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち⑤
【二代・北条氏綱の息女たち、足利晴氏室 ~ 続編】


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~現在は本駒込にある「吉祥寺」~


前回に続けまして北条氏綱の娘、四代古河公方足利晴氏室の芳春院のことです。


horse まずは、関宿に残る晴氏のお墓の妄想の続き

前回のブログ記事で、関宿に残る、四代古河公方足利晴氏のお墓と伝わる「謎の石塔」の、晴氏の法名が刻まれた墓石はなんなのだろうと色々妄想いたしました。

その後もう少し資料(史料ではなく資料sweat01)を読んでみました。


芳春院&はるる(晴氏)の息子である五代古河公方ヨッシー(義氏) は、父母が死去した永禄3-4年頃、野田と共に関宿に籠城していたのですね。

永禄4年7月に芳春院が亡くなった時、芳春院の兄北条氏康が、籠城中の野田さんへ弔意を表す書状を出しているのです。ということは、芳春院は息子と共に関宿にいて、そこで没した可能性があります


芳春院がその時に、前年亡くなった夫のお墓(供養塔)を関宿に建てたということも考えられます → 翌年に芳春院が亡くなると、息子のヨッシーが母芳春院 のお墓を父はるる のお墓に並べて建て → 時が過ぎ二つのお墓(供養塔)は崩れ、散らばり → その後村人たちが一人分のお墓だと思って積み上げた…
なんて?

公方義氏が梁田と和睦して関宿を出たのは、芳春院がこの世を去った7月。たぶん、母上の弔いを済ませてからのことなのでしょう。


horse 芳春院殿さまの、江戸の位牌寺だった 「吉祥寺」

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~かつて、駒沢大学の前身である栴檀林という学問所だったことに由来する御干菓子「栴檀」。黒糖の味が美味しい。~


小田原北条の重鎮中の重鎮、遠山綱景の法名は「吉祥寺殿」なのですってね。知りませんでした。


お寺の「吉祥寺」は、太田道灌の開基。中興開基が遠山綱景。そして、芳春院の江戸での位牌寺でもあります。江戸城代であった遠山さんが、長年に渡り古河公方家の取次だったことから、遠山中興開基の吉祥寺が芳春院の位牌寺になったようです。

長~い素敵な参道の両側が檀家さん方の墓所で、榎本武揚のお墓や、小田原出身の二宮尊徳の大きな供養碑もありました。


遠山綱景の法名が吉祥寺殿ということは、吉祥寺は綱景の菩提寺なのでしょうか?墓所をウロウロしましたが、とても広くて遠山家のお墓は分かりませんでした。そもそも、遠山家のお墓はこちらにあるのでしょうか?

いや、「吉祥寺」という寺名は、 太田道灌が「吉祥」の印を発見したことに因んで付けられたのでした。だから綱景の法名「吉祥寺殿」は偶然たまたま同じなだけで、菩提寺ではないかもしれません。ただ、吉祥寺の中興開基は綱景なのでまったく無関連とも思われません。

綱景は太田道灌に敬意を表し、お寺の名前を取って自らの法名を「吉祥寺殿」としたのでしょうか?

遠山綱景は、永禄7年の国府台で戦死しました。


(皆様ご存知のように、お寺の「吉祥寺」も当初は江戸城内にありましたが、現在は本駒込に移転しています。)


horse 北条綱成の娘の菩提寺「祥雲寺」

2
~屋根も境内も仏具も三鱗だらけ。~


吉祥寺をお参りしたあと、遠山家や江戸太田家ゆかりの気になるお寺があったことを思い出し行ってみました~train


上に書いた遠山綱景の息子、遠山隼人佑景久に嫁いだ北条綱成の娘浄光院殿の菩提寺「瑞宝山 祥雲寺」です。広尾にある、江戸時代 の狭山北条家の菩提寺も「祥雲寺」ですが、偶然同じ名前のようです。

永禄7年、祥雲寺は遠山家によって、吉祥寺と同じく江戸城内に開基されました。永禄7年とは、国府台で綱景や景久が戦死した年です。「瑞鳳山」とは、景久の法名からとっています。また、浄光院さまは、夫に先立ち永禄3年に亡くなっています。


ご本尊の薬師如来は天正17年に建立されたことが、胎内に書き残されています。天正17年…もう臨戦体制の頃ですが、遠山家の誰かが病気だったりしたのですかねえ…。

こちらも大きなお寺です。薬師如来は小ぶりですが、同じく小さいけれど荘厳なお厨子の中で、深い光を放っていました。ちょっとゾクッと した。


祥雲寺はその後、江戸に徳川が入ったり火災があったりして、現在の池袋に移転したようです。

お寺の紋は遠山家の紋ではなく、浄光院様の実家の三鱗なのですね。そういうものなのですか?本堂も▲仏具も▲境内も▲三鱗だらけでした。


芳春院の足跡を辿って、古河公方の取次だった遠山さんに行き当ったのですが、遠山家がいかに江戸で勢力を持っていたのかを実感するお寺巡りでした。


horse 「狩野元信」展で北条氏綱!(~11月5日まで)

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~サントリー美術館のミュージアムショップで買った『酒伝童子絵巻』のカード~


芳春院さまとも遠山さんとも全然関係ありませんが、サントリー美術館で開催中の「狩野元信」展を観に行きました。

目当てはもちろん、我らが北条氏綱が企画・発注した『酒伝童子絵巻』です。大永二年作。詞書は、近衛尚道(北条氏綱後室の父)・定法寺公助・青蓮院尊鎮。


展示には氏綱が発注したことだけは書いてありましたが、その後、この絵巻は代々の北条当主が保持し、小田原が滅びた後は五代氏直の室であった家康の娘の督姫が池田家へ再婚する時に持参しました。

あら~~coldsweats01


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年10月20日 (金)

北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち
【二代・北条氏綱の息女たち、足利晴氏室】


Photo
~伝・四代古河公方 足利晴氏の墓~


関宿城(跡)から馬で、いや、車で5分ぐらいのところに「宗英寺」というお寺があります。慶長年間に、家康の弟である初代関宿城主松平康元により建立された由緒あるお寺で、康元のお墓もあります。


宗英寺に四代古河公方、足利はるる こと足利晴氏のお墓と伝わっている五輪塔があると聞き、一度拝んでみたいと思っていました。以前、逆井城などを周った時に関宿城博物館までは行ったのですが、当時は足利公方に興味がなかったので素通りしてしまいました。

立派な山門をくぐり、説明板をじっくりと読んだあとは、スタスタスタスタと墓所へ。墓所をグルグルしましたが…ありませんのう、はるるのお墓。お寺の方に伺いましたら、「晴氏のお墓と伝わっているもの」は、山門を入ってすぐのところにあると。墓所にあるとばかり思って脇目もふらずに歩いておりましたよ。


戻ってみると…

どひゃーー coldsweats02 思わず後ずさり。

凄い石塔がそこにありました。写真では伝わらないかもしれませんが、石塔はトーテムポールのように高いです。優に2m位はあるのではないでしょうか。後ずさりしないと、全容が見られません(ちとオーバー?)。五輪塔と呼ばれているようですが、五輪塔ではないのですてね。なんと申したらいいのか…石塔、です。


石塔は、崩れていた(崩れそうだった?)のを、お団子のように重ね合わせて接着されています。特に「晴氏墓」などの表示はなく、忽然と現われたようにそこに建っています。


この石塔がなにゆえ、はるる(晴氏)のお墓だと伝わっているのでしょうか。

それは、塔の、上から6個目の四角い石に、はるるの法名である「永僊(仙)院殿」と刻まれているのが読めるからです。

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~文字はけっこうハッキリしている?この部分は宝篋印塔とのこと教えていただく(2017.10.29)。~


▲ 天文7年。
古河公方足利晴氏と、伯父である小弓公方足利義明が松戸台あたりで合戦に及んだ。北条氏綱・氏康父子は、自身の軍隊を持たない公方晴氏の名代として参戦。一方、義明を擁立したのは安房の里見氏。

第一次国府台の戦いである。▲


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~里見勢らに見限られ(?)た小弓公方足利義明が、単騎北条軍に突入し討死した相模台城跡(松戸駅前聖徳大学内)。~


wine 芳春院殿

合戦に勝利した北条氏綱が晴氏の後室として嫁がせたのが、娘の芳春院殿です。

大河ドラマにからめて、氏康の娘の早川殿(今川氏真室)を先に書いてしまいましたが、再び氏綱の娘に戻ります。


芳春院は、その容色を楊貴妃にも例えられ、公方に嫁いでからは、実家と公方家の間を取り持つ重要ミッションを担い、鎌倉での息子義氏の公方就任式典では共にパレードに連なり、「日本王天下光」の朱印を使い、実家の全面バックアップを受け当時の東日本の女人では最高の権勢を誇りました。

小田原を出てから、葛西・古河・栗橋・関宿などなど子息の義氏と共に居城を移し(たぶん)、夫君の はるる とはほとんど別居生活だったとは思いますが(たぶん)、華やかで、頭も良く、女王のような威厳を感じさせる、そして勝気な女性だったのでしょうねえ(北条の女性は皆強い wobbly)。


芳春院については、以前、古河などで妄想を広げたブログ記事をたくさん書きました。一部を文末へ添付いたしましたので、あわせてご覧くださると嬉しいです。


horse 古河公方 足利晴氏

いつも書いていて恐縮ですが、古河(鎌倉)公方の名前を覚えるためにニックネームを付けて呼んでいます。初代シゲッチ(成氏)→二代マー君(政氏)→三代タカピー(高基)→四代はるる(晴氏)→五代よっしー(義氏)…。それでも、マー君とタカピーが時々テンコシャンコになるsweat01


四代はるる は、北条氏綱から娘を送り込まれ、先妻との子は廃嫡とされ、いったんは北条と和解しましたが、廃嫡された息子藤氏と共に北条に叛旗を翻したものの敗北。波多野(秦野)に幽閉され、その後野田にお預けとなり、そこで亡くなりました(野田家文書・鑁阿寺文書)。


古河には、はるるの法名の「永仙院」というお寺があります。今は廃寺となっているので正確にはお寺が「ありました」ですが、永仙院は、それ以前は「乾享院」という、シゲッチ開基のお寺でした。「乾享院」とはシゲッチの法名です。その後、はるるの菩提寺となり、法名である「永仙院」となったそうです。

(ん?ということは…永仙院=乾享院にシゲッチのお墓はあったのでしょうか?現シゲッチのお墓は後に造られた供養墓です。)


永仙院跡には墓地が残っています。しかし、そこに、はるるのお墓とされているものは見つけられませんでした。あるはずですよねえ。廃寺になってしまっているので、もう分からないのでしょうかねえ。

同じく古河の「一向寺」というお寺が、永仙院の遺宝を引き継いでいるそうなので、一向寺さんに行ったら何か分かったのでしょうか。古河に行った時は、時間がなくて寄れませんでした。


horse 謎の石塔

さて、話を関宿宗英寺の「石塔」に戻します。

野田で亡くなった はるる のお墓(法名が刻まれた石)がなぜ関宿にあるのでしょうか?


お寺の方、関宿城博物館の学芸員さん、「道灌びいき」の会員である古河の郷土史会の方々に伺いましたが、本当に分からないそうです。元々畑の中にあったものをここにおさめたと聞いているとのこと。

関宿城博物館の展望室から悠々と流れる利根川や江戸川を眺め、古河の方向を見つめながらながら妄想してみました。


▲ 元々は野田の栗橋城の近くにあったが、その後栗橋城に入った我らが北条氏照どのが配下の者に「撤去せい」と命じ、そこに一緒にあった他のお墓などと一緒に配下の者が少し離れた関宿の畑の中へ、テイッ!と捨てた。

または、栗橋が北条に従属したのちも墓はそこにあったが、天正18年、北条が滅びたあとに入った小笠原さんちの誰かが、そのあたりにあったお墓類の使えそうな石だけ残し、不必要な石を少し離れた関宿の畑の中へ、テイッ!と捨てた。

そして…

▲ その後に関宿に入った松平さんが、畑の中に散乱している墓石の中に「永仙院」と刻まれたものを見つけ、「あまりに哀れじゃ…」と、配下の者に命じ整えさせた。が、配下の者は積み重ね方をよく知らず、そのへんの石を適当に積んだ。


な~んてね。
実のところはお墓は古河や久喜にあったのでしょうが、野田さんか誰かが、こちらに供養塔として築いたのかもしれませんね。もしくは、もう少し後に梁田さんが建てた供養塔かもしれないですねえ。

時が流れそれらは放置され、崩れ散乱していたのを土地の人達が積み上げ、それを松平さんかお寺の人が寺内におさめた…というところだと思います。


Img20170905_201819_2
~丸に二つ引きの家紋が端然とそびえる久喜にある臨済宗「甘棠院(かんとういん)」。晴氏の祖父、足利政氏の屋敷・菩提寺である。~


永禄3年、はるるは激動の人生を終え、葬儀は久喜「甘棠院」にて営まれました。芳春院はこの時に落髪します(喜連川判鑑)。

北条にその立場を追われ敵対していた夫君とはほとんど一緒にいなかったと思われる芳春院ですが、晴氏死去の翌年この世を去りました。まだ40代前半だったと思います。栄華を極めた方にしては、まだお若いですねえ。


晴氏と芳春院がこの世を去り、芳春院の息子義氏が公方になると、足利公方と北条の関係はあらたな時代を迎えることとなります。義氏には氏康の娘が嫁ぎますので、古河公方のことはその時にまた。


pen 謎の石塔について加筆。

もう少し資料を読んでみましたら、芳春院の息子の公方ヨッシーは、父母が死去した永禄3-4年あたり、野田と共に関宿に籠城していました。

永禄4年7月に芳春院が亡くなった時、芳春院の兄北条氏康が籠城中の野田さんへ弔意を表した書状を出しています。ということは、芳春院は息子と共に関宿にいて、そこで没した可能性もありますよね。


もしかしたら、芳春院が、前年亡くなった夫のお墓(供養塔)をその時そこに建てたということも考えられますよねえ。そして翌年、息子の公方ヨッシーが母 芳春院のお墓を父はるる のお墓に並べて建てたとか…。

ヨッシーが梁田と和睦して関宿を出たのは、7月。たぶん、母上の弔いを済ませてからのことなのでしょう。


Img20170905_201832
~甘棠院の周りを取り巻く堀と土塁。本堂へは近づけない。~


cherryblossom  芳春院を書いた記事の一部です
「古河公方の古河を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html
「後編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8375.html
「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fdbc.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html


wine 今までの北条五代の娘たちの記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

・三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年10月12日 (木)

出ましたね! 「享徳の乱」 峰岸純夫著

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~『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』 講談社メチエ 2017.10.10 ~


ついに出ましたねsign01
坂東の戦国ファン待望の、「享徳の乱」についての峰岸先生の本。

『応仁の乱』 『観応の擾乱』中公新書)とあわせての、室町トリロジーですね。(『応仁の乱』は読んでおりませんが。)


『享徳の乱』の表紙は月岡芳年ですか。だ~い好きです!え?表紙が錦絵?と思われる方もいらっしゃると思います。私も実はそうでしたsweat01

本にも書かれていますが、初めは先生も、「明治になってからの錦絵を掲げることはいかがかとも思った…」そうです。

ところが編集者の方が、「江戸時代の人の方が、フィクションを通じてではあれ、関東の大乱について現代人よりよく知っていたのでしょう…芳流閣は架空の建物とはいえ、成氏の居所として「古河」が描かれている…享徳の乱を周知させたいと願うなら、八犬士や絵師の力でもなんでも借りて、華やかなカバーにしようじゃありませんか…(抜粋)」と言われ、思いなおされたそうです。


確かにシゲッチ(成氏)の肖像は無いし、関係者たちや関連史跡の肖像や写真は、今まで出版されている書籍の表紙に使い尽くされていますものねえ。しかもチト地味…ゴニョ。

実際、この本は本棚に入れてしまうのがもったいない表紙で、正面を向けて飾っています。


狂言回しは新田岩松との、長文の「はじめに」を読み終わったばかりのところですが、その末尾にはこう書かれています。

いささか前置きが長くなったようだ。それでは読者を十五世紀の関東にご案内しよう。

わお!
ワクワクドキドキ happy02


「講演会 「享徳の乱における分倍河原合戦」 峰岸純夫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post-832a.html


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2017年10月 9日 (月)

非公開 「英勝院」の御廟内部~鎌倉

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~スーッと扉が開くと、そこには華麗な世界が!~

いや~、すっっっばらしかったです。写真だけでも歴友の皆さまにと一生懸命撮りましたが、スマホのチャッチイ写真では十分お伝えできないのが残念。


wine 通常は非公開

英勝院さまが太田家にゆかりということで、現ご当主の太田資暁さんに連れられて、「道灌びいき」の会員が拝見出来ることになりました。

同じく非公開とはいえ山門の上部はNPO鎌倉ガイドのツアーで昇らせてもらえたことがありますが、祠堂の扉はまず!開けてはいただません。どころか、覆堂の中にさえ入れてはもらえません。(外からは伺えます。)


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~軒下には彩色も鮮やかな斗栱や雲文をみせる軒支輪がめぐる(内海氏の資料より抜粋)~


wine 英勝寺と英勝院

英勝寺の開基は英勝院さま。英勝寺は、鎌倉扇谷の太田道灌の屋敷跡に英勝院が建立しました。


英勝院とは言わずもがな家康の側室であり、戦に連れていくと必ず勝ったことから「勝」と名を改めさせられたことで知られていますよね。出自については、太田道灌の玄孫だとか、北条重臣の遠山景綱の曽孫だとか諸説あります。

いずれにしても、水戸藩初代当主で水戸黄門の父である徳川頼房の養母として、水戸藩では特別&格別大切にされた女人です。頼房は、母が側室「お万の方」、養母も側室「お勝の方・英勝院」。どちらも坂東の女人です。どうしても二人が脳内で混ざってしまいますが、この祠堂を見ると、「養母」という存在の大きさが分かります。


また、「英勝寺」は現在では鎌倉に唯一残った尼寺です。あれ?東慶寺は?と思ってしまいますが、東慶寺は明治にすでに尼寺ではなくなっています。

英勝寺は、以前はお寺自体が通常非公開でしたが今は一般公開されています(入れない箇所や入れない日もあります)。


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~祠堂の扉。お洒落な蝙蝠形格狭間。~


地元にお住まいの著名な鎌倉歴史研究家・内海恒雄氏の熱~い英勝寺ラブheart01のご説明を伺いながら、水戸藩が総力を尽くして造り上げた、垢ぬけた(by 内海先生)建築、仏像、彫刻、石造建造物の数々を拝見して回りました。

じっくり見たら英勝寺だけで一日が終わってしまいそうなそれらについては、ここに書きはじめたら長くなり過ぎてしまいますし、にわか知識の私が書いてもオコガマシイ。内海先生がお書きになったものや、他のHPなどでご覧くださいませ。詳しく書かれているHPがたくさんあります。


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~この紋どころが目に入らぬかーー!柱には太田桔梗。~


▲ 祠堂

祠堂がのる石垣は、江戸城と同じ造りの石垣だそうです。

黄門さまが建立した英勝院のお墓はお堂の背後に建っていて、堂内の須弥壇の後ろの「花灯枠」から、立派なお位牌を通して拝めるようになっています。(お墓だけなら、脇から側面をお参りできます。)


Img20170930_211344


お堂は小振りですが、典雅艶麗。屋根は宝形造、天井は格天井、正面と両側面には桟唐戸。東照宮と同じような極彩色ですが、小振りなためか、漂う気配のせいか、ずっと上品です(東照宮が下品というわけではにゃい)。

渋くて華麗な須弥壇の後ろの花灯枠からは外光が入り、それはまるで、背後の英勝院の巨大な墓塔から後光が差し込むが如くです。


ちょうど英勝寺を拝観したあとの、たまたまこのタイミングに、BS6「歴史鑑定」で水戸家のことをやっていました。「歴史捜査」は観るけれど「歴史鑑定」はあまり観ませんが、ちょっと観てみました。

初代の頃の水戸家はお金がなかったそうな。黄門様の時代に上向きになってきたようです。英勝寺の創建は寛永年間。資金繰り大丈夫だったのかな…な~んて、いらぬ心配をしてしまっただよ。


そして、またまたちょうどこのタイミングに、BSで「水戸黄門」が始まったので、つい観てしまいました。黄門様がラーメンを作っていました!ラーメンを最初に食べたのは黄門様ではなかったという話もありますね。諸説あり…ですな。


「里見へ走った公方の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82f7.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html
「家康の側室達ゆかりの、小田原北条の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-9dfe.html
「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-df71.html

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2017年9月30日 (土)

今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」

シリーズ 北条五代の娘たち
【三代・北条氏康の娘たち~番外編】


Photo
~萬昌院功雲寺。戦後(昭和の)、萬昌院と功雲寺が一緒になった。~


中野(落合)に 萬昌院 という大きなお寺があります。先にも書きました杉並(上井草)にある「観泉寺」に移る前の、今川氏真夫妻や兄弟らの当初の墓所です。

氏真の孫の代に「観泉寺」が今川家の菩提寺とされ、氏真らのお墓もそちらへまとめられたそうです。観泉寺へは分骨なのか全て移したのかは存じませんが、萬昌院のお墓はそのまま残されています。


早河殿のお墓は「無縫塔」と呼ばれる卵型のものでした。お坊さんのお墓にされるタイプです。

観泉寺に移されると、もう宝篋印塔になります。


萬昌院の開基は今川氏真の弟、一月長得(いちげつちょうとく)。開山当時はもっと江戸城近くにありましたが、例によって、火事や諸々の事情で大正の頃に今の場所に移ったそうです。

一月長得のお墓ももちろんここにありました。


萬昌院さんは非常に警備の厳しい御寺で、山門には警備員さんが立っています。お寺の中に入る時には記帳をしてリボンをもらいます。

写真は、墓所、境内、山門さえもNG。門柱だけ許可を取って撮りました(ジーーっeye と、カメラの角度を監視されながら)。


こちらの墓所も歴史上の有名な人物のお墓が多く、吉良上野介殿のお墓もありました。立派でした~。

上野介殿が松の廊下で内匠頭に切られた時には傷の手当てをし、赤穂浪士たちに討ち捕られた時には、首と胴の縫合をしたという御典医栗崎道有のお墓もありました。同じお寺なのだね。


このところ、都心のお墓を色々と廻っております。足利はるる(晴氏)に嫁いだ、氏綱のむすめの足跡を辿っていたらアチコチ気になるお寺が出てきてしまったのです。

都心でも大きなお寺はたくさんあるのですねえ。ちょっと驚きました。それらのお寺のことも追々書いていきたいと思います。


「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


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2017年9月19日 (火)

本城 小田原でもスーパー連続講演会です!

その他、前回のブログ記事に続いて気になる講演会・ツアー・戦国まつりも下記に追加しました。

Img20170919_093459_2


前回のブログ記事で、津久井や埼玉の連続講演会を凄い凄いと騒いでおりましたら、出ましたよ!小田原。さすが我らが本城、ファンタジーワンダーランドでの3ヶ月連続講演会は超スペクタクルです。


おっと、その前にまたで恐縮ですが…sweat01

昨日は、ファンタジーワンダーランドでの「キャンパスおだわら」の歴史講座に行って参りました。(すぐに連続講演会を知りたい方は先に下方をご覧くだされ。)


講師は小和田哲男先生。タイトルは、「北条氏と両上杉氏の抗争」

Img20170918_140835

両上杉とは言わずもがな、扇谷と山内(含む・謙信&景勝ら)。内容は、北条早雲こと伊勢宗瑞~天正18年の上杉はじめ北国勢による鉢形や八王子城攻めなどまでの百年に渡る上杉と北条の抗争についてです。

時系列でお話ししてくださったので脳内整理ができて良かったです。また、享徳の乱について、やはり先生も、「関東戦国史を語るのに、とても意味がある」とおっしゃっていました。


最もビビビッときたのが、北条vs上杉とは関係のない最後の最後のお話しでした。

▲ 偏諱(へんき・かたいみな)について

例えば…
信玄(晴信)や謙信(輝虎)、長尾晴景、伊達家( 稙宗・晴宗・輝宗)などなどなど、京の将軍家から「晴」「輝」など一文字賜っている戦国大名は多いですね。今川義元などは格上なのか「義」の方をもらっている人もいます。

ところが、北条はそれをしていません。北条はなぜ将軍家から名前をもらわなかったのでしょうか?


(先日の室町期研究会を拝聴し以下、書き替えました)
それは…

古河公方が偏諱を拝領しているから、北条が将軍家から賜るわけにもいかないからなのではないでしょうか。

晴氏・義氏など古河公方が拝領しています。古河公方を担ぎ上げている北条家が、京の将軍家から偏諱を賜ったら、古河公方と同等になってしまいます。というか、そもそも、変ですよねえ。

「氏」については、足利→今川→小田原北条なのでしょうか?私には、まったく分かりません。


それから、
もうひとつ恐縮ですが、締切が近いのでお先にご紹介。

horse 地元中学生が案内する小田原城

日時: 9月23日(土)10:00 馬出門集合
申込締切:9月20日
申込:箱根町企画課
0460(85)9560


昨日、小田原城で予行演習中?の中学生たちに遭遇しました。引率の方がおっしゃるには、中学生たちは夏休み中をかけて勉強したそうです。「このように一生懸命なので、たくさん来てほしいと思うんですよねえ」と。

手話や英語もですよ。凄いですねえ。素敵な企画だと思いました。私もお休みだったら是非参加したいと思うのですが残念なり。

HP→http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201709/CK2017091402000169.html


やっとこさ本題。

horse 小田原の、長きに渡るスペクタクルな血湧き肉躍る「連続講演会&シンポジウム」のお知らせです。数年前の、御用米曲輪の連続見学会のワクワクドキドキ感再び!


Img20170920_095431

講演会は、天守閣の特別展「小田原北条氏の絆~小田原城とその支城~」(冒頭の写真)の一環として催されます。こちらも大変魅力的です。各支城からもお宝がワンサカ集結するようです!我が八王子城からはベネチアレースガラスか参陣。


▲ 特別展
期間: 10月1日(日)~12月24日(日)


▲ 連続講演会&シンポジウム

浅野晴樹関東管領(?)、お馴染みの佐々木健策氏と齊藤慎一氏、伊豆の姫様池谷初恵氏(順不同)らによる、氏政兄弟衆とその城についての講演や、重鎮小和田哲男氏と小野正敏氏、諏訪間順館長、新進気鋭の竹井英文氏(順不同!)らによる講演などなどが、3ヶ月連続で怒涛のように催されます。

内容はもちろんのこと、講師陣もこれまた豪華絢爛shine。当然抽選ですが、どの催しも競争率が高そうですね~。


(日 程)
・ 講演会: 11月18日(土)、12月10日(日)
・ シンポジウム: 1月13日(土)

シンポジウムは大ホールで、1000人の北条ファンを集結。
Let’s ホージョー パーリー!


詳細はHPを…と申し上げたいのですが、HPはまだのようです。現在の特別展「小田原城武者揃え~戦の時代の装い~」が終わったら(9/24(日)まで)、次がアップされるのだと思います。

申し込みの締切は11月以降なので、それまで暫定的に上の写真を拡大してご覧くだされ。よく見えん?すみもはん。小田原ならチラシが配布されていると思います。


おっと!
上記の兄弟衆についての講演に、五男(養子もいれたら七男)の景虎さんがいませんね。

すでに申し込みは終わっていますが、9月30日に、我が城八王子の生涯学習で、乃至氏による講演会「御館の乱と上杉三郎景虎~北条氏康の七男、越後に起つ~」があります。私はお休みが取れないので参れませんが、行ける方、羨ましかと~。


まだまだあります。

horse クラブツーリズムのツアーの数々

Img20170919_093742
~裏側のページにも満載~


▲ どれもそそられますが、簡単にチャチャッと行けるのが、現地集合解散の「出張!お城EXPO!in 小田原」(画像一番上)。

日にち: 10月9日(月・祝)
料 金: 2500円


(午前の部)10:30~12:30
・城郭ライター萩原さちこ氏
・小田原城天守閣館長 諏訪間順 氏が語る「あなたの知らない小田原城の世界」

あなたの知らない世界…ひえぇ~coldsweats02  こわい~(ちゃうちゃう怖い話じゃない)


(午後の部)14:00~15:30
・歴史研究家:小和田 泰経氏、歴史芸人:長谷川 ヨシテル氏

などなどだそうです。


私はクラブツーリズムとは関係がありませんが、歴友師匠さんが石垣山一夜城を案内したり、お城EXPO実行委員会にも旧八王子城を守る会の知人方がいるので、チト宣伝をさせていただきました。

詳細はクラブツーリズムさんのチラシをゲットするかHPを。


horse 戦国まつり

Img20131007_210747_2


▲ 第50回「伊勢原観光道灌まつり」
10月14・15日(土・日)

15日の「道灌公鷹狩り行列」の道灌役は、太田道灌の子孫である俳優の北村有起哉さんが出陣されます!大河ドラマではお馴染み、映画「関ヶ原」でも井伊直政を演じてらっしゃいましたね!若き道灌、楽しみですよね~。私は休めませんがannoyhttp://www.city.isehara.kanagawa.jp/dokan-fes/


▲ 第18回「三増合戦まつり」
10月8日(日)

▲ 「もののふの里 葛山城址まつり
10月29日(日)


ふぅ~。
前回のブログ記事とあわせても全て紹介しきれません。また、あまりに催しが多く、家族・友人・仕事を犠牲にしても行ききれません。それどころが、情報を把握しきれませんよね~。

まあ、私なぞは、11-12月の土日なんてお休みできませんので、ほとんど参加できませんが。皆さんどーぞ行ってくだされませ。いいわねえ。


「2017 秋冬の気になる歴史企画展・歴史講演会など」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/2017-2544.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2017年9月 4日 (月)

2017 秋冬の気になる歴史企画展・歴史講演会など

その前に…
8年前の9月3日に当ブログを始めました。いつもコメントをくださったり、声をかけてくださったり、お知らせの矢文をくださったり。本当にありがとうございます。心より感謝申し上げます。

当時は、古河公方も関東管領も良く知りませんでした。太田道灌は江戸時代初期の人だと思っていましたsweat01。全然知らないのに、知らないからこそ結構知っていると思って、恐れも知らず歴史ブログを始められました。

少しは知るようになった今より、知らなかった頃に書いていた頃の方がアクセス数も遥かに多く、滞在時間も長いのは何故なのでしょうか。ワクワクドキドキのパッション感でしょうか。


さて、北条五代の娘たちを追いかけ初めてから早1年。彼女たちの夫君の人生を調べるのに手間取りなかなか更新出来ませんが、こちらもゆるゆる続けていきながら、9年目に突入です!


201091
~9月9日は重陽の節句、菊のお節句です~


horse 《新発見「江戸始図」関連展示》「松江城と江戸城―国宝になった城と天下人の城―」

加筆です。
この企画展は存じていたのですが、徳川時代に興味がないので書きませんでした。

ところが!歴友師匠さん方がほとんど行かれており、話を伺うと、「江戸始図」はじめ(はじめ、はじめ…)、北条時代を残す江戸初期のことが色々と妄想できる企画展らしいですよ。

HP→http://hibiyal.jp/hibiya/index.html


horse 滝山城 歴史講演会

続・日本100名城記念の講演会。もっの凄い魅力的な講演会です!書状類の「由井」とはどこだったのか?興味津々!さっそく申し込みました~scissors


日にち: 10月29日(日)
ところ: 八王子労政会館
主催:NPO法人滝山城跡群・自然と歴史を守る会


・講師: 小和田哲男
「北条領国における滝山城の歴史的意義」

・講師: 中田正光
「遺構から読み解く滝山城」

・講師: 峰岸純夫
「由井・滝山・八王子城三転説批判」

受講料:1,000円 
定 員: 200名

申込締切:10月10日(火)必着(応募者多数の場合は抽選)

詳細はHPを→http://takiyamajo.com/html/events.php


horse 歴史講演会「戦国時代の今川・井伊・津久井」
日にち:平成29年10月1日(土)
講 師: 大石泰史(直虎時代考証)

ところ: 相模原市立博物館
申込不要、先着順、定員200名


horse「戦国時代の山城 津久井城」
相模原市立博物館考古学講座

●第1回 「小田原城研究から津久井城をみる」
日にち:平成29年9月24日(日)

●第2回 「発掘調査から津久井城をみる」
日にち:平成29年10月29日(日)

●第3回 津久井城跡発掘調査現地説明会
日にち:平成29年11月26日(日)

●第4回 「三増合戦から津久井城をみる」
日にち:平成29年12月24日(日)

●第5回 「中世庭園から津久井城をみる」
日にち:平成30年1月14日(日)

●第6回 「北条領国の城郭から津久井城をみる」
日にち:平成30年2月25日(日)


申込不要、先着順、定員200名
共催: 公益財団法人神奈川県公園協会 県立津久井湖城山公園

時間や講師など、詳細はHPをご覧くだされ

http://sagamiharacitymuseum.jp/blog/event/%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%8E%9F%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E8%AC%9B%E5%BA%A7-%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%80%80%E6%B4%A5/


horse 武蔵武士 再発見!
「武蔵の中世文化財活用プロジェクト」

埼玉各地の会場で企画展・シンポジウム・講演会・ツアーが目白押し。埼玉の方達はすでにご存知でしょうが、その他の地域の方達はご存知ないかもしれません。HPはまだのようなので、書きます。申込など詳細は私も分かりませんので、それぞれお問い合わせいただけると助かります。


(講演会karaoke
・11/4(土) 「中世東国社会と女性たち」 埼玉県立熊谷図書館
・12/15(金) 「鎌倉時代の後家尼の力(仮)」「比企の尼(仮)」 国立女性教育会館
・12/23(祝) 「武蔵武士の本拠と本領」 国立女性教育会館
・1/27&28(土・日) 「武蔵武士とその本拠」 国立女性教育会館


(企画展 eye
・8/22(火)~12/3(日) 「比企の中世 Part1」 東松山埋蔵文化財センター他
・8/30(水)~9/30(土) 「中世の児玉地域-武蔵武士の活躍」 早稲田大学本庄リサーチパーク
・10/7(土)~11/23(祝) 「中世社会と女性たち」 埼玉県立熊谷図書館
・11/25(土)~1/25(木) 「武蔵武士とその時代」 埼玉県立熊谷図書館
・12/2(土)~2/18(日) 「武蔵武士とその本拠」 埼玉県立嵐山史跡の博物館


(バスツアーbus
・2/9(金) 「武蔵武士の本拠を訪ねる」 大久保山児玉地区


ふぅ~。凄いですねえ。どこのどれに行ったらいいやら困っちゃいますねえ。


horse 第2回 「岩櫃城フォーラム」
戦国終焉!戦国末期の上野の国と岩櫃城

日にち: 10月28日(土)
会 場: 東吾妻町コンベンションホール


内容: こちらもHPが見つからないので書きます。以下。

(岩櫃城保存整備事業説明)
東吾妻町教育委員会

(講演1)
講師: 平山優 氏
「真田信之時代の岩櫃城~天正・慶長年間の上野戦国史~」

(講演2)
講師:秋本太郎 氏
「戦国末期の城郭~箕輪城跡の調査から考える~」

定員:400名、会場が満席になり次第締切
問い合わせ: 東吾妻町教育委員会事務局 0279-59-3370


面白そうです!
わたしは参れませんが…


と、そんなこんなしているうちに、文化財ウィーク、早雲寺「曝涼」、鎌倉「風入れ」や、三増合戦まつり、伊勢原まつり、葛山城址まつり、山城サミット、小田原の遺跡調査発表会、お城EXPOなどなどなどの時期になってしまいます。

あっという間ですねえ、人生は。四十九年一睡夢 ← もっと生きちゃってるけど bleah


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2017年8月24日 (木)

東博で等伯 「びょうぶとあそぶ」美術体験

by マリコ・ポーロ

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等伯の「松林図屏風」&光琳の「群鶴図屏風」と映像との、新しい表現手段を使った展示を「体験」してきました。

高精細複製の「松林図屏風」を囲み、左右頭上に「瀟湘八景図」の壮大な景色が広がりました。特に冬の映像は圧巻でしたよ~lovely


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「群鶴図」では、部屋に入った人数だけ鶴が舞い飛び、一緒に戯れることができます(周りに恥ずかしくなければ…)。

う~ん。どう書いていても、この宇宙観は伝わらないですねえ。写真に撮るとチャッチイですにゃbearing。こげなものではごわはんで。ご興味ある方は、はよ行って、体感してみてたもんせ~。9月3日(日)まででごわす。


漆工室の蒔絵の展示も素晴らしいです!

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~鎌倉から室町の鞍が素晴らしく美しかった…~


足利尊氏さまheartの御教書も出ていました。今川範氏に発給したものです。2階の「武士の装い」室です。

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cherryblossom 不忍池畔にある長浜の観音ハウス

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東博の帰りは恒例となったルート、不忍池畔にある滋賀の「びわ湖長浜 KANNON HOUSE」に寄りました。

不忍池を琵琶湖に見立てた静かでシックな小さな空間には、戦国の戦火から村人たちによって守られた観音様たちが定期的に交替でお出ましになります。観音の里の映像が流れ、外の景色とあいまって、喧騒の上野公園にいるとは思えないまったり感。ゆっくり鑑賞(お参り)できます。

この日は観音様の日(毎月18日)ということで、甘茶をいただきました。


観音の里長浜にあまたさぶらいける観音様。ひとりの観音様の展示はだいたい2ヶ月とのこと。今は余呉町の川並地蔵堂の「聖観音立像(平安時代)」がいらっしゃいます(写真)。スッキリ小柄で素敵でした confident

次はどなたがいらっしゃるのかな~。HP→http://www.nagahama-kannon-house.jp/


「国宝 「檜図屏風」 by 狩野永徳」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/by-f7f7.html
「「洛中洛外図」が霞んでしまった「二条城障壁画」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-ec61.html

「白洲正子展「神と仏、自然への祈り」世田谷美術館
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-13d7.html
「伊東マンショ と 湖北の観音展)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/7-82016-a39e.html

「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0862.html
「みちのくの仏像」展と、会津の徳一」東博
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-70b4.html
「藝大美術館 興福寺仏頭と十二神将の企画展」のこと
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/2013-1dd6.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2017年8月11日 (金)

北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻

wine 浄福寺の件でコメントくださった方、お返事差し上げましたがアドレスが違うということで未達となりました。コメントありがとうございました。
from マリコ・ポーロ


シリーズ 北条五代の娘たち
【三代・北条氏康の娘たち】

Photo
~今川氏真・早川殿夫妻の終いの棲家跡を、向いのスーパーから俯瞰した。現在の東京都品川区の大井町駅あたり。今はなんの遺構も碑もない。~


先年からヨロヨロと追い続けている【北条五代の娘たち】。早雲こと伊勢宗瑞の娘達に始まり、ただ今、二代氏綱の娘達の途中ではありますが、ちょっと順番を割り込んで、大河で旬の今川氏真室 早川殿 のことを思ってみました。


wine 早川(早河)殿
パパ: 北条三代当主氏康
ママ: 瑞渓院(父・今川氏親/母・寿桂尼/兄弟・今川氏輝、彦五郎、義元)

兄弟: 氏政、氏照、氏邦、氏規、上杉景虎
姉妹: 七曲殿(綱繁室)、千葉親胤室、長林院(岩付太田室)、浄光院殿(足利公方室)、桂林院殿(武田勝頼室)

などなどの他に、イトコやなにやらで父氏康の養子女となった義理の兄弟姉妹まで入れると、ウジャウジャウジャウジャ。早川殿は、それらの長姉と考えられています。


北条の女人たちは、嫁ぎ先が滅びたり同盟が崩れたりしてもすぐに実家に戻らない方が多いですね。帰れと言われてもガンとして戻らなかったり、遠国へ渡ったり、夫君と共に命を絶ったりする女人が幾人か浮かびます。前にも書いたかもしれませんが、それは何故だろうと考えることがあります。

相手への情愛が深い情熱型の女人が多かったのか。はたまた、細かくて窮屈な北条(そうなのか?coldsweats01)に比べると、嫁ぎ先は居心地の良いところだったのか。それとも、北条には戻り難い雰囲気があったのか…いや、幻庵大伯父が引き取り後は後見となって面倒をみてくれるので、それはなかったと思いたいですよね。


北条家には、その幻庵殿が娘を吉良氏朝(頼康の次代)へ嫁がせる時に渡した、他家への嫁入りの心得書 『北条幻庵覚書』というものがあります。

やはり、その教えが、北条一門の女人達には根付いているのではないかと思うのです。


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~『北条幻庵覚書』 永禄3年12月16日


放映中の大河ドラマ「直虎」に出てくる、今川氏真の正室 早川(早河)殿 も、そんな女人たちの一人です。

氏真や早川殿のことは以前にたくさん書きましたので、そちらもあわせてご覧くださると助かりまする(文末に添付)。


上にも書きましたが、早川殿は、我らが氏政や氏照たちウジャウジャ兄弟姉妹の、一番上のお姉さんだとされています。つまり、早川殿が子供だった頃はまだ北条の初期です。

伊勢宗瑞の質実な暮らし方を色濃く受け継いだ小田原や、領地争奪の戦の日々に明け暮れる東国から京の香りに溢れた駿府へ入った 16-7歳 の少女にとって、嫁ぎ先はどれだけ華やかに見えたことでしょう…たぶん。

猛々しい戦国武者や超ワンパクな弟達(そうか?)を見慣れている身にとって、氏真や義元や今川の側近たちはどれだけエレガントなジェントルマンに見えたことでしょう…たぶん。


なーんて、北条の曽祖父の実家の伊勢家は京の将軍家の取次ぎの家。母上は今川の出。それほど粗野で野暮ではなかったはずですが、それでも、今川はきらびやかで shine アカデミックに思えたことだろうと想像します。

寿桂尼は御祖母様。大叔母の長松院(宗瑞娘)も重臣三浦家にいますし、弟クンの氏規もすでに駿府にいたでしょうから、心細いこともありませんしね…たぶん。

(とんだ見当はずれだったらゴメンナチャイ、早川殿 bleah


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~氏真や早川殿が一時過ごした小田原の早川。早川は、小田原市街から川(早川)を渡ったところ。石垣山城の麓の漁港である。~


今に伝わる氏真の評判については、その後駿府の主となった徳川家が「前の領主はこんな情けない人間だったんだど~。それに比べて今はとてもいいでしょ~」と思わせるために作り上げたものだという説もあります。しかし、当時の信玄殿はじめ周辺の武将たちの人物評を聞くと(?読むと)、やはり、戦国時代の武将には向かなかった方だったような気が私はします。


氏真が武田によって駿府を追われてからの流転や、北条氏政の息子(氏直)に「今川」の名跡を譲った(後に返してもらった)ことなどは皆さまご存知の如くですが、夫妻一行が難民となって小田原へ来た時、なぜ城内エリアではなく、川の向こうに彼らを置いたのかがずっと気になっています。


① ただ単に、夫妻の屋敷を城内エリアに建築するまでの仮住まいだっただけ。(完成する前に出ていった。)

② 人数が多くて、城内エリアに高級難民キャンプとするに適した場所がなかった。

③ 早川は幻庵の管轄地。北条の出戻り組は幻庵が後見担当だったから、自然の流れで小田原に一番近い早川村になった。

④氏政さまが、城内エリアに置くことを嫌がった。もちろん、個人的好き嫌いではなく政策的理由で。


氏真夫妻が小田原を出ていったのは、北条が再び武田と結んだことにより、ここにいては今川の再興は有り得ないと考えたからと言われています。それもあるとは思いますが、「あとの人生、このひなびた漁村(当時のことよ)で一生を終えるのか…。」と、どよ~ん ↓ としてしまったのかもしれないですねえ。think


「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

「駿府 「臨済寺」の特別公開」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
「今川時代の駿府~吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html

wine 北条五代の娘たちの記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html

北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html


萩真尼ことマリコ・ポーロ

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2017年8月 2日 (水)

シンポジウム~戦国期における大名と「国衆」(2017.7.16)

by マリコ・ポーロ


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~レジュメの厚さ、なんと A3 で 6mmwobbly。これさえ読めば、今の「国衆」が分かる?~


最近トント聞かなくなった「国人」という言葉


真田丸にも増して直虎さんでは「国衆」とい う言葉が、登場人物のセリフの中で連呼されているのが気になっていました。

古い人間である上に、専門的に歴史を勉強したわけではないので、学問上の専門用語にいまひとつ、ふたつ、みっつ疎いところがあります。「国衆」って、国人の集合体を表す「国人たち」の意味かとおもっていました。違うんですね。「国人」個々を言うのですね。「国衆」とは、「戦国期の史料に見られる用語を概念化したもの」だそうですね。当時の記録にチビットは書かれてはいるものの今とは使われ方が違うそうな。


戦国史研究会(協力・室町期研究会)の7月例会「戦国期における大名と「国衆」」のシンポジウムを拝聴して参りました。

著名な先生方や若手人気研究者の方達もいらっしゃていて、休憩時間などに質問したきこと数多(あまた)あれど、いつもの一般向けの講演会とは違い、恐れを知らぬマリコ・ポーロも流石にちょっと遠慮してしまうプロフェッショナルな雰囲気が会場に漂っていました。


シンポジウムでは、今までの研究成果の整理や、様々な文書をもとに地域別に「国衆」についての報告がされました。「国衆」の定義は地域によってもマチマチなんですね。。

それぞれ例に挙げる文書の解説も長くて、私のような素人には難しく途中途中で朦朧族sleepy になりながらも、初めて知る話も多かったので大変面白かったです。


karaoke地域別報告は下記の如くなり。

▲ 東北 「田村氏の存在形態~南奥の国衆」
▲ 関東 「真壁氏と佐竹氏の関係を中心に
▲ 中部 「信濃高梨氏の国衆化」
▲ 東海 「国衆の本領・家中と戦国大名~今川領国を事例に」
▲ 北陸 「上杉氏における国衆の譜代化~北条・毛利安田氏を素材に

そんな「国衆尽くし」の中で、終始「国人」で報告を通した方がいらっしゃったのにも興味をそそられました。


▲ 畿内 「畿内近国における国衆の特質」
▲ 中国 「中国地域の戦国領主について」
▲ 四国 「土佐の地域権力」
▲ 九州 「戦国期南九州の有力領主」

脳内いっぱいいっぱいになってしまったので西日本の報告は近畿だけ拝聴して、お先に失礼しましたが、西日本では「国衆(国人)」という考え方は最近までなかったんですってね。どうりで、報告のタイトルにも「国衆」という言葉は無く、「戦国領主」「地域権力」「有力領主」ですね。ちょっと拝聴したかったにゃ。


「国衆」については、黒田基樹氏はじめ様々な方のご研究がありますが、先日発刊された ↓ こちらでも、この日のシンポジウムで東海地域の発表をされた糟谷幸裕氏や、遠藤英弥氏が書いてらっしゃいます。

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~『今川氏研究の最前線』 大石康史編 日本史史料研究会監修、洋泉社~


北条五代の娘たちを書き始めて、初期北条の婚姻に今川(特に葛山)との関係が濃厚なのに気が付き、この本を買いました。こちらでも、「国衆」ではなく「国人」を使っている方もいらっしゃいますし、「半国守護」なる言葉も出てきました。ナンジャそりゃ??

当時の時代によっても違いますが、それにしても分からん despair そのカテゴリー。

国衆、国人、戦国領主、地域領主、分郡領主。国主、戦国大名…etc.etc.。


フト思ったのですが、例えば私がブログで書き続けている北条五代の娘たちの嫁ぎ先を簡単に一言で言い表す時は何と言えばいいのだろうか。三浦は「今川の重臣」と書いてきたけれど、それでいいのかな?葛山は「駿河の国人(国衆)」でいいのですかね?いや、「氏」の名を与えられているから、すでに「今川の御一家」か?江戸太田は「上杉の重臣(だった)」?では、世田谷吉良は?戦国大名でもないし、もちろん国人(国衆)でもない。足利公方の一門かな。吉良は特別なのかしら。「吉良殿様」だしね。

つまりは、宗瑞の時代でも、国人カテゴリーには娘を嫁がせていないということか。


というか、そもそも、そこまでのカテゴリー分別(ぶんべつ?)が、ただのブロガーの書くブログ記事に必要なのか?ってこと。


wine シリーズにしている「北条五代の娘たち」ですが、調べることがとても多くなかなかアップできておりません。それに…このシリーズ、ほとんど読んでくださる方がいないようで、アクセス分析を見ると、どうやら月に数人。えーん。でも、ライフワークとして続ける所存でござる。次は少し順番が変わりますが、旬の、今川氏真室の早川殿に思いを馳せたいと思います。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年7月22日 (土)

「戦国!井伊直虎から直政へ展」 江戸東京博物館

その前に…

祝! 「北条幻庵、大河ドラマ出演!」

今週の直虎さんに、北条幻庵が出ましたね!最後のエピソードでも久野の幻庵屋敷や一節切、覚書が紹介されました。品川徹さんは、今BSでも再放送中の「風林火山」で兄の北条氏綱を演じてらっしゃいます。これで、大河で兄弟を演じたことになりますねえ。

幻庵殿のブログ記事の一部です ↓
「戦国武将が愛好した尺八 一節切」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html
北条幻庵の伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html


Photo
~おお!龍澤寺三世住職 「傑山宗俊」像だ!ドラマでは美坊主なので、チト興味があった(ミーハーcoldsweats01)。実際は、南渓和尚とさほど年が変わらなかったらしい。井伊直政に従い、五世昊天と共に小牧・長久手の戦いにも参戦したそうな。~


本題でござる。

氏真さんへ嫁いだ北条の娘、早川殿の続きをアップしようと思ったのですが、大河ドラマ展を観て参りましたので、そのことを先に。

直虎さん自体には興味がないとはいえ展示はかなり見応えがあったので、途中で入口に戻り音声ガイドを借りてじっくり観ました。ガイドは南渓和尚cat小林薫さんです。


以下、ツボだったもの。
注)ワテのツボなので、戦国通の方達ならもっと凄いツボがあると思います。


▲今川氏親さま木像
写真は様々な本に出ていますが、実物は初めて見ました。謹厳な風格と品の良さ、インテリジェンスな雰囲気。さすが我らが北条早雲こと伊勢宗瑞の甥っ子!素敵~heart

▲寿桂尼 朱印状いくつか
いつ見ても、どれを見ても、カッコエエ~lovely

▲ 今川氏真判物
氏真の花押は何度も見ていますが、これまで氏真に興味がなかったのであまり記憶に残っていませんでした。最近ブログで早川殿を書き始めてからとても興味がわいたので、今回は穴の空くほど、じーーっと見ました。穴が空いちゃってたら、すみもはん…。


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▲ 兜
信玄殿が寒川神社に奉納したと伝わる、例の、あの鉄錆地六十二間筋兜です。永禄12年の三増を思い出します。

▲ 琴
勝頼様が富士山本宮浅間神社に奉納したもの。天正5年 Made in 駿府。


▲ 北条の銅鑼
榊原、本多、井伊が小田原城内に入った時、家康にくじ引きで ぶん撮り蔵 を決めちゃれと言われ、榊原がゲットしたもの。その後、榊原と共に越後高田へ。榊原さん、保存しておいてくださりありがとうござる(ただホッタラカシだっただけ?)。


▲ 茶入(唐物・肩衝)
足利義政→宮王(秀吉の謡の師)→おサル→家康→井伊と、渡ったもの。最初は義政殿なのね~heart04


などなど。ちなみに、文禄・慶長期以降の直政はじめ四天王、並びに家康のものは甲冑以外ほとんど見ていません。

そちらのファンの方々にとっては、尚一層興味深いものが展示されていたのだと思われます。


今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年7月14日 (金)

北条氏政・氏照 「墓前祭」~今年も小田原開城に思いを馳せる

by マリコ・ポーロ


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~氏政・氏照の遺骸(首以外)が埋葬された北条氏の菩提寺「伝心庵」。北条早雲こと伊勢宗瑞の室、南陽院殿の牌所でもあったと伝わっている。その後、現在の中町に移された。~


7月5日に小田原は開城。11日には四代当主氏政と、そのバディである弟、北条軍団軍団長・八王子城主の氏照が自刃。今年の「小田原北条開城・落城月間」もほぼ終結となりました。

以前に書いたことの少し繰り返しになり恐縮ですが…。


horse 氏政&氏照の墓所と「墓前祭」

天正18年7月11日。Dr.田村安斎邸で自刃した兄弟二人の遺骸は、北条の氏寺「傳心庵」に埋葬されました。(傳心庵で自刃とも言われている。)


その後の大久保氏の時代に傳心庵は寺町(中町)に移され、墓所は放置。それを整備してくれたのが、大久保氏の次に小田原へ入った稲葉氏です。(稲葉さん、ありがとう。)

時は下り、墓所は関東大震災で再び荒れてしまいました。そこで、昭和24年、地元の有志の方達が「北條遺跡顕彰会」を結成し、墓所は再興されたのです。墓前祭は、昭和28年から続けられているそうです。


素敵ですねえ。支配者が変わっても、時代が流れても、地元の敗者を大切に供養してきたのですね。もっとも、稲葉さんは祟りを恐れたのかもしれまへんが…coldsweats01


この日の墓前祭で、顕彰会現会長さんや市の文化部部長さんも、墓前祭の活動を代々に渡って続けていきたい、地域の宝を大事にし保存活動を続け活用していきたいとのお話しをしてらっしゃいました。

今年は、八王子衆3人(重鎮?男子2名+女人1名)&滝の城衆(1名)&わらわの5人で参拝させていただきましたが、一般のファンも参加できるこのような法要を、最も悲惨な戦いをした八王子城で出来ないことはとても淋しいことだと思いましたよ。さすが我らが本城。


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~墓所には、三鱗と、顕彰会立ち上げのお一人である、現会長さんのお祖父様の筆による「北条忌 三百八十年記念」(今年は427年)の幕が張られ、現在墓所を管理する永久寺御住職のお出ましを待つばかりなり。~


horse 6月23日 氏照の八王子城が陥落してからの本城小田原

この9年間でしつこく書いたブログ記事(の一部)を添付させていただきました。ご覧くださいましたら嬉しいです。


「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-adb2.html


▲ 6月24日   龍城を明け渡す
伊勢宗瑞により戦国の始まりを告げた聖地韮山の城が 終わりをむかえた。

「北条氏規、今日(24日) 龍城を明け渡す」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-eb87.html

▲ 6月26日 秀吉、早雲寺から笠懸山へ移る
のちに石垣山城と呼ばれる、小田原の 負の遺産 であ~る。

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「天正18年の「石垣山一夜城」を歴友と歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「堀秀政の小田原の墓」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bf85.html


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~石垣山城で「北条ワイン」を飲み干してやった~


▲ 7月1日 氏直が降伏開城に同意
いつも胸が詰まります。長く続いた家を終わらせる最後の当主の気持ち。氏直は、二度と見ることはない相模の海を、どんな思いで眺めたことだろう。

「北条氏直、最後の当主の 『最後の朱印状』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3b83.html

▲ 7月5日 小田原開城
当主氏直は弟氏房と共に渋取口より滝川勝利の陣に「走り入った」。彼らの脳裏を、二代氏綱公の『御遺訓』はよぎっただろうか。

~天運尽きはて滅亡を致すとも、義理違へまじ きと心得なば末世にうしろ指をささるる恥辱は あるまじく候。 昔より天下をしろしめす上と ても、一度は滅亡の期あり。 人の命はわずかの間なれば、むさき心底 努々 (ゆめゆめ)あるべからず・・~

このあと7日まで滝川の陣で過ごし、その後、徳川の陣に移ることになる。

「北条氏直の投降は、走ったのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-c645.html
「今日は、北条氏直殿の命日」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-dc5d.html

▲ 7月10日 氏政・氏照 城を出、家康の陣へ入る
すでにこちらへ移っていた氏直・氏房兄弟、そして、韮山から降りてきた弟の氏規たちと、会って話が出来ただろうか。人の情が分かる家康殿のことだから、きっとそうさせてくれたことでしょう。

代わって家康が小田原城へ入る。ちっannoy (← 今褒めたばかりなのに…)

「小田原攻め、徳川方の陣場めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5964.html
「小田原攻め、松平文庫の『小田原陣図』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-2808.html

「小田原攻め、北条氏照の本陣 報身寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html

▲ 7月11日 北条氏政・氏照 死す

「北条氏政の首級(みしるし)はどこに・・?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-470a.html
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-df65.html

「兄上様(北条氏政)からのお届けもの」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-d92a.html

「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e356.html

▲ 7月13日 小田原城内で、秀吉による論功行賞が行われる

ちっannoy

▲ 7月21日 氏直一行は高野山へ旅立つ

「それからの後北条一族」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-93b0.html

「北条一族の高野山 1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-f00e.html
「高野山、小田原坊」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/3-6cea.html

「北条家、狭山藩邸跡」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5c4c.html
「北条氏規の大阪の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-361c.html

「「江戸時代の北条家、東京の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-72d6.html


最後に…
「小田原城開城へ、最後の6ヶ月」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-f53a.html


さて、「開城・落城強化月間」も終わり。途中になっていた「北条五代の娘たち」へそろそろ戻ろうかと思うておりまする。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

cat 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2017年6月28日 (水)

八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後

by マリコ・ポーロ

Img20170625_131844
~霧立ち込める御主殿にて合掌…(2017年6月落城月)~


今年もやってきました。八王子城落城 6月23日。


その前に…
先週、直虎さんが新野の次女と北条との縁組をすすめていましたね。お相手は狩野主膳。氏照の重臣、狩野一庵の息子です。

一庵殿は八王子城で壮絶な最期を遂げましたが、主膳殿はどうしたのでしょう。やはり討死したのでしょうか。としたら、新野の娘はどうなったのでしょう。


大善寺や相即寺には八王子城戦で命を落とした人々の、一部ですが、過去帳があります。『新八王子市史資料編』に載っていますが、主膳やその「内」の名前は見られませんでした。

主膳は氏照に付き従って本城小田原に入っていたのでしょうか。しかし、その場合も妻女は八王子に残されていたはずです。新野の娘は、舅や姑と共に八王子城で果ててしまったのでしょうか。

見せしめとされ、徹底的に皆殺しとされた八王子城には、一門の内から嫁いできた女人だけではなく、新野のように他家から嫁いできた女人もいたのでしょうね。なんだか可哀想だわねえweep


狩野主膳家がその後どうなったのかと思いましたら、小田原が終わったあと→主膳の息子は徳川方木俣氏の養子となり→江戸時代は井伊家の家老などを勤めたようです。

へえ~~。


Img20170626_214841_3
~戦国時代の「平和」とは、権力者のための「平和」。敵もやってこず、安心して自領を支配できる「平和」とのこと。最近のテレビドラマにみられるような「民衆のために求めた平和」という意味ではないそうです。~


本題の、前田家臣達の証言です。


岩付も落ち、鉢形も降り、24日には韮山が、25日は津久井も開城。そして、26日には、秀吉が、早雲寺から小田原の 負の遺産 のちに石垣山一夜城と呼ばれる笠懸山(松山)に移りました。いよいよ、本城小田原開城までのカウントダウンが始まります。

天正18年の経緯については今までドッチャリと書いてきておりますので、先のブログ記事(カテゴリー「八王子城と北条氏照」)をご覧くだされますと嬉しいです。


さて、八王子城落城月のサル一日、八王子市史編さん委員でもある八王子衆、加藤哲先生による講演会がガイダンス施設で催されました。主催は、NPO八王子城跡三ツ鱗会。

惣無事令「と、最近いわれることもあるもの」に投げかけられている疑問符について、最新の説を分かり易く解説してくださいました。


今の歴史の教科書に書かれていることは、戦国時代に限らず、私達の時代とはかなり違っていますが、惣無事については、こう ↓書いてあるのですね(山川出版社『詳説日本史B』)。

▲ …関白になった秀吉は、天皇から日本全国の支配権をゆだねられたと 称して、全国の戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉の裁定に任せることを 強制した ⑧。…

この政策を総無事令と呼ぶこともある。▲(赤字とアンダーラインは、マリコ・ポーロが致しました。)


ドびっくり~\(^o^)/

何故かバンザイ。随分と変わりましたね~。


加藤哲先生は高校の歴史の先生です。今年初めに講演会へ行った則竹雄一氏もそうですよね。お話しも上手で、私の学生時代もこういう先生方だったら良かったのにな~。歴史の授業が嫌いにならないで楽しみになっていただろうな~。私が通っていた中学や高校の歴史の授業、ただ年号と出来事を時系列に話されるだけで一時間が長くて辛くて。それなら年表読むわ、と思ったものでした。


おっと、そうそう。話を戻し…
停戦命令は、関白だから ではなく、信長の後継者だから 出したと考えるのだそうです。その根拠も様々な方面からの検証で説明してくださいました。


Img20170626_215007
~大手から御主殿に向かう橋の上から、御主殿虎口を眺める(2017.6)~


講演の中で特に興味を惹かれたことがあります。それは、江戸初期に書かれた、八王子戦に参陣した金沢藩前田家の家臣たちの戦功の覚書です。

市史に載っているそうですが、見ていませんでした。
(^^;sweat01


八王子城の壮絶な戦いは、八王子城兵だけではなく攻め手側にもたいそうな犠牲が出ました。前田利家や榊原康正らは、八王子城を落とすのに非常に難儀したことを手紙に書いていますよね。

かつて「八王子城とオオタカを守る会」の重鎮Y殿は、利家が遺言状でも八王子の戦についてかなり触れているということは、あまたの戦を経験した利家にとってさえも八王子戦は印象的な戦だったのだと思うとおっしゃっていました。


覚書についての加藤哲先生のお話しを聞いていて、戦功を証言した家臣達はどういう人達なのだろうか、どの程度の地位の家臣なのだろうか知りたくなりました。チト検索してみましたところ、興味深いことが出てきたのです。



Img20150404_191020
~旧道から見上げる柵門台下の石垣~


まずは、証言の覚書を抜粋。もっと詳しくちゃんとお知りになりたい方は、市史をどーぞ。


horse 横山山城守(横山長知・利長家臣)

…塀際に付き、矢きりを切り落として一番に乗り申したところ、城中の者きびしく防ぎ、大身の鑓にて左の膝頭をつかれ石垣の下へ突き落され、歩くこと叶わず…


horse 横山如雲(山城守甥)

…一番乗りをされた山城守様が塀の上より石垣の下へ突き落されたところ、御舎弟五郎殿(16歳)が山城守様を助けようとしたが、御母衣が石垣に埋まってしまった。脇差にて母衣籠を切り離し山城様を引き立たせた。御家来衆が追々駆けつけ、五郎殿は本丸へ攻め登った…


horse 向七兵衛

…横山山城殿・太田但馬殿(太田長知)の御両人は手負いとなったため、私ひとり残り、塀へ乗り、名乗りしたところ鉄砲で胸板を撃たれた…


horse 山崎作右衛門尉

…閑斎(山崎長徳)と共に隅の櫓の下まで罷り越し、塀を乗り越えようとしたところ鉄砲に撃たれた…


horse 堀覚左衛門

金子 と申すところを朝懸けに攻め、金子三郎左衛門という者を討ち取った…


horse 今井才右衛門

…一番の丸(山頂曲輪ではなく御主殿だろう) 多門へ、宇野平八・印牧次郎兵衛と共に一番乗りを仕り、矢簾を切り落とすところ、三人共に鑓手を負った…


どの覚書にも、「この働きは、ダレソレがよくご存知です」と必ず書かれています。山城守殿や山崎殿がいたのはどこだったのでしょうね。堀殿の金子曲輪しか分からないところが残念なり。


八王子城ファンの私は、いつも守る側の立場からばかり見ています。ご本人方の申告なので話を盛っているところもあるとは思いますが(胸板を撃たれても助かっている?←by 加藤先生)、麓から山頂に向かって攻め上ってゆく寄せ手の困難さがビジュアルで迫ってくるようです。彼らは利家や利長にとっても側近中の側近だったのでしょうが、それでも最前線で一番乗りを争って戦っていたのですねえ。

その日は、こんなシーンが、深夜から翌朝にかけて城のあちらこちらで繰り広げられていたのでしょう。


007_2
~外郭の太鼓曲輪の大堀切。遥か下方に人がいるのが分かりますか?八王子城はどこもかしこも急峻である。~


そして、戦功を述べた彼らの、その後のこと。

なんと、上の覚書に出てくる横山山城守、山崎閑斎、太田但馬、そして前田利長の間で刃傷事件が起きたのです!


ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、慶長7年(1602年)、前田利長の命により、横山山城が太田但馬を、城内にて殺害したそうですよ!

当初は、山城殿と閑斎殿の二人で事を成すはずだったのが、閑斎殿が遅刻してしまったのでsweat01 山城殿が一人で実行に及んだそうです。太田殿もかなりの反撃をしたそうですが、力尽きてしまったとのこと。


前田さんちにはトント疎いので私には理由はよく分かりません。徳川派と反徳川派の争いだったとか、妾を取り合ったとか、果ては狐の仕返しだったとか色々言われているようです。

ご興味ある方はどーぞお調べくださいませ。


しかし。八王子城の最前線で一緒に戦った3人が、10年後には城内で殺し合っていたとは…。

そんな時代であったことよ。


bottle 八王子城戦で犠牲となった方々に献杯 bottle


「八王子城落城~北条氏照の残・念」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-4eae.html
「今夜半、八王子城総攻撃始まる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/420-9797.html
「八王子城落ちる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0e49.html
「八王子城、戦い済んで日は暮れて・・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-1bb4.html

「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-6cc6.html
「報告▲八王子城の発掘調査見学会」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cac0.html
「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8c21.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年6月22日 (木)

6月23日、八王子城は今年も落城す

Img20150621_085403
~霧たちこめる御主殿~


horse 八王子城 6月22日

427年前の今頃、すでに本城(小田原城)は連合軍に四方を囲まれ、わが八王子城にも敵は北東から迫りつつある。

そして、今夜半、エピローグの幕は開く!


以下、アーカイブです。リメンバー 八王子城。

http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-4eae.html


moon1 6月22日夜半、火蓋は切られる

▲ 降伏した大道寺らを先頭に立たせ、かつて小田原攻めの時に武田信玄も渡った大神(昭島市)→ 平(八王子市)へ多摩川を渡河し始める。時刻は現在の午後10時頃ではないかと言われる。


見上げれば、月は満月よりすこし欠けていた。

霧が出はじめた…

出始めた霧は次第に濃くなり、月は隠れ視界は閉ざされる中、午前1時から2時頃、大手・搦め手とも攻撃は始まる!

http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/420-9797.html


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~宵闇迫る八王子城遠景~


horse 6月23日未の刻

八王子城落ちる
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0e49.html


horse それからの横地監物

「檜原の残影」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-f195.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年6月 7日 (水)

今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」

by マリコ・ポーロ


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~久翁寺は、北条幻庵の家臣の関善左衛門が中興したとのこと。現在は無住。~


駿府を捨て、掛川、戸倉と移ってきた今川氏真がどうにか落ち着いたのが、正室・早川殿の実家である北条の小田原です。小田原では、城から西へ早川を渡った「早川」に屋敷を与えられたとされています。後の石垣山城の麓になります。

早川は北条の重鎮中の重鎮、宗瑞(早雲)の息子、北条幻庵の知行地でした。幻庵は、小田原に戻ってきたり逃れてきたりした親族たちの後見をする立場にあったようで、氏真ご一行様が早川にいたというのも、確かな史料はありませんが幻庵の関係からなのだと思います。


Img20170607_223321

久翁寺のことは『北条氏康の子供たち』で知りました。今川義元殿の13回忌が営まれたことは、龍譚寺所蔵「記事諸余」にあるそうです。他にも書かれているものがないか帰りに城内の図書館で探してみましたが、ありませんでした。


あの今川義元殿の法事が、あの氏真によって小田原で営まれたとは、なんだか感慨深いものがあります。

法要には、氏真の女兄弟で、武田信玄の息子義信に嫁いだ嶺松院(嶺寒院?)も列席していたことでしょう。嶺松院は義信廃嫡後に実家に戻されてより、氏真夫妻と行動を共にしています。

また、その席には、宗瑞の娘で今川の三浦に嫁ぎ、こたび同じく一緒に戻ってきた長松院様もいたことでしょう。


このまま小田原から、駿府復帰を果たしたかった(たぶん)氏真殿。しかし、再び流浪の人生が始まります。もちろん、正室である我らが北条の早川殿も、その人生の最後まで一緒だったことは言うまでもありません。

二人の終焉の地である江戸品川の屋敷跡のことは、追々。


Photo

久翁寺の前の道で、誰かに施されたご飯を夢中で食べていた猫 。近寄っても気が付かない風なので、「氏真殿っ」と呼び掛けたら ハッ!として、スタスタ歩き出し、なんにもしてないにょ~んとばかりに電柱の陰に座った。

「ご飯食べちゃうぞ~」と言ったら、お耳をヒクヒクさせておったので、「いい子だね~」と写真を撮った。毬遊びは上手かな?


北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

「駿府 「臨済寺」の特別公開」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
「今川時代の駿府~吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html

「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html

「北条五代の娘たち①今川から戻った長松院様」
伊勢宗瑞(北条早雲)の息女たち
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html


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2017年5月30日 (火)

講演会 「後北条以前の小田原」

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~サブタイトルは「政治・社会状況からみる鎌倉・室町時代の小田原地域」~


ゴールデンウィークで賑わう小田原で催された講演会の主催は、小田原史談会さん。

講師は、野村朋弘氏。京都造形大(東京の)准教授で、小田原在住。ご専門は中世朝廷儀礼・公武・神社史。特には、金沢文庫の称名寺文書だそうで す。北条執権~南北朝あたりの話を少しされましたが、面白かったです。


講演会場は、お城の本丸広場より混んでいると言っても過言ではない程の沢山の人で、大盛況~!立ち見はおろか会場に入りきれるのか、消防法は大丈夫かと心配しましたが、どうにか大丈夫だったらしいです。私はもちろん2時間立ち見、いや立ち聞き。

後北条以前の小田原ってあまり知らないですものねえ。私なんて、『鎌倉大草子』の足利尊氏さまの野営のことぐらいしか存じまへん。興味津々ですよねえ。


それもそのはず、講師の野村氏もおっしゃるように、後北条以前の小田原に関する史料はほとんどないそうです。

史料が少ない中での「歴史の復元」「小田原の、敗者の歴史の再構築」がこたびの目的とのこと。あ!「敗者」というのは小田原北条家ではありませんよ。後北条以前ですから、上杉禅秀の乱で、禅秀について負けた中村党の土肥氏や、次に小田原をおさえたものの、伊勢宗瑞に負けてしまった大森氏などのことです。


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~会場は駅から天守閣にむかう途中の市民交流センターUMECO。ホールには亡くなったUMECOの肖像画と北条五代キャラクター画が並んでいた。~


horse 講演内容

-古代の相模の国の成り立ち、古代~中世の小田原・鎌倉へ至る街道、小田原宿・酒匂宿などの宿、早川・成田・中村などの荘園とその領主、北条執権が滅びた要因のひとつ(後家人制度の複雑化と崩れ)などなど。


-酒匂・国府津・小田原あたりは交通の要所であり、また、様々な例から、幕府(鎌倉幕府)からすると早川・国府津あたりが重要な境界線 だったと。

知らなかったのですが、酒匂には、将軍家(室町)が泊まる御座所があったそうですね。御座所跡のようなものは残っているのかしら?


-最後の10分ぐらいで荘園領主の話になり、大森氏の話が出たのですが、このへんの話をもそっと聞きたかったかったと思いました。

小田原についての史料がとーっても少ないのは、上にも書きましたが、つまり彼らは敗者であるからだそうです。そのあとに北条が入ったから。

江戸時代以前の江戸と同じだと思いましたわ。江戸時代以前の江戸には何も無かったとされたのは、小田原北条は敗者であり、そのあとに徳川殿が入ったからね。


急いで帰らなければならなかったので、講演後の質問タイムまではいられませんでした。会場を去る時に、最初の質問者の方が「北条以前の領主の館はどのあたりにあったのか…」のようなことを質問されてらっしゃいました。

うー、聞きたかったよぉcrying
どこにあったの?


「小田原にある謎の城跡 花岳城」(城源寺)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3b70.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年5月10日 (水)

講演会 「享徳の乱における分倍河原合戦」 峰岸純夫

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~鎌倉公方屋敷跡(鎌倉)~


こたびは「北条五代の息女たち」をチトお休みし、時代を半世紀ほど遡ってきました。


「道灌びいき」の会に入って何年も経ちながら、享徳の乱前後の出来事や人物がどうしても脳内で整理できません。上杉や長尾関係の本を買い&借り漁ってはみるものの、読んでる途中でボワ~ンdespair としてしまい寝落ち。本は本棚の腰曲輪へ山積み。

専門書はワテにはまだ無理。まずは小説から入ろう!そうだ、そうだ。そもそも戦国時代も室町時代も幕末も最初の取っ掛かりはマンガや小説だったじゃないか…と思い、伊東潤さんの「叛鬼」を読み始めたてみたものの、やっぱり途中でボワ~ン(すみましぇんsweat01)。


本を読んで何がややこしいって、まずは名前!

足利は、モッチー(持氏)→シゲッチ(成氏)→マー君(政氏)→高ピー(高基)→はるる(晴氏)→よっしー(義氏)…で、 古河公方はまだ覚えやすいんですよね。しかし上杉なんていつまでたっても、山内・扇谷・犬懸・宅間・庁鼻和そして越後などがゴチャ混ぜ。長尾ときたひにゃあ、もう、ねえ。

それから、シゲッチが「享徳」を使い続けたことで、年号が二つあるのもヤヤコシや~。


これは自力(?)ではアカン。老い先短い身、モタモタしている暇はにゃい。人様の話を聞いた方が手っ取り早いと思った時あたかも、高幡不動春季大祭!毎年恒例でおこなわれる、我らが「旧八王子城を守る会」の会長さんであらせられた峰岸純夫先生の今年の講演会のテーマが、享徳の乱。グッドタイミングゥ!


そして、もうひとつ。「小田原北条以前の小田原」についての講演が小田原でありましたので、そちらも拝聴してまいりました。


まずは、享徳の乱の講演会の方から。

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~文字を見るだけでワクワクしませんか?~


これを読んでくださる皆さまには今更言わずもがなですが、享徳の乱とは、異常に簡単に言うと、鎌倉公方シゲッチ vs 関東管領上杉 の関東の内乱ですよね。始まったのは、新九郎さん こと 伊勢宗瑞 の伊豆入りより約40年は前になります。


「戦国時代は関東の享徳の乱から始まった」 「東国では応仁の乱よりもっと前から戦国時代は始まっていた」「応仁の乱はさほどスケールの大きな乱ではなかった」などなど最近とみに言われ、認識も変わってきていますね。

とはいえ、『古河公方と伊勢宗瑞 2013.1』で則竹雄一氏は、「これ(享徳の乱)をもって東国の戦国争乱の開始とは評価しがたい」とおっしゃていますし、絶賛発売中の呉座勇一氏の『応仁の乱』には、享徳の乱のことは書かれていなかったりして、色々なお考えがあるのですねえ。


先日の朝日新聞でも応仁の乱のことを特集していましたが、日本中の武家が東軍派と西軍派に分かれて戦った…のように書かれていました。でも、日本中とはいえ、そこにあった年表には、東日本の武家はまったく出てきていませんでしたわ。これで「日本中」とは、これいかに?とも思いましたよ。

友人や同僚で、大河ドラマは必ず観る、史跡巡りが大好きという歴史好き達でも、皆、応仁の乱は知っていても、「きょーとくのらん?なにそれ?」と今でも申します。


かく書きながら、私なんぞも子供の頃からの歴史ファンを自称しながら、小田原北条に興味を持ち始めた数年前までは、日本中の武家が応仁の乱に関わり、応仁の乱で坂東の地が荒れたと思っていましたし、当時の関東に古河公方なる権威があって、関東管領なる勢力があることも知りませんでした。恥ずかちぃcoldsweats01

足利尊氏・直義時代に鎌倉府に公方(当時は関東管領)が下向してきたことぐらいは、うっすら記憶の底にありましたが、その後のことは気にとめたことがありませんでした。だから大河ドラマを観ていても、今一つ分からない箇所が多々ありました。


峰岸先生は享徳の乱関係の講演会の前に、必ず聴衆に「享徳の乱」という言葉をご存知かどうか聞かれます。幕末以外の歴史の聴講者は年配者が多く(含むワテ)、知っているpaperと手を挙げる人はとても少ないです。

だって、歴史の授業では習わなかった世代だから。


まあねえ、先に戦国時代に突入した方が凄いというわけでもないですし、乱の大きさを競うものでもないでしょうが、いずれにしても東国と中央は密接に関わっていたはずで、そのへんのところを、広~~く浅く(ややこしいから浅くでエエbleah)知りたいものです。

前置きが長くなりましたが、講演の内容です。峰岸先生の 「享徳の乱」についての講演は、昨年(2016)11月にも八王子生涯学習でもおこなわれました。上杉憲顕(秋)以外のことは少し同じところもありますので、ふたつの講演を合わせて以下。


Img20170506_215910_3


horse BS時代劇「塚原卜伝」(2011.10~放映)のこと

「塚原卜伝」は私も観ていましたが、先生は時代考証をされていましたよね。その時の脚本家との台本の内容についての興味深い会話。受け取り方が違うと申し訳ないので、以下そのまま写します。

真尋さんの(卜伝の妹)のナレーションに、
「応仁の乱から40年、うち続く戦乱で庇護者を失った鹿島大明神は・・」とあった。

峰岸先生
「応仁の乱から40年はまずい。応仁の乱の戦乱は関東に影響せず、これは享徳の乱とすべきでしょう。」

脚本家
「そうかもしれませんね。しかし、享徳の乱については余り知られていない。最近の教科書には出ているようですが、60才以上の高齢者は学んでいない。このような時代劇のファンは多くこの世代です。」

先生
「そうですか。でもこれは応仁の乱の影響が関東にも及ぶという誤りを冒しています。」

脚本家
「ここのところは申し訳ないがこのままにしておいて、別の場面で享徳の乱について触れましょう。」

先生
「わかりました。。。」


享徳の乱は28年も続いた、日本で一番長いかもしれない乱。関東の乱(享徳の乱)が、京の幕府と関東府の戦いへ発展。京の応仁の乱へ波及(ここがまたヤヤコシや~)。享徳の乱に比べると、応仁・文明の乱は「〇〇〇な内乱」 by 先生。

〇〇〇はここに書くのは控えますが、小さな…みたいな意、みたいな違うみたいな、ごにょ。


horse 2016.11 「享徳の乱の歴史的意義‐東国社会を根底から改変した」

同じく受け取り間違うと申し訳ないゆえ以下そのまま写しました。


① 鎌倉公方足利氏と管領上杉氏による専権支配が衰え、二元的支配(両者の勢力圏が分割)となる。

② 各地に城郭が構築され、本ー支城関係で結びつけられた勢力圏「領」が形成されて、「戦国領主」を生み出していく(郡・郷を単位とする)。

③ 以前に当然とされた分離型の所領支配は、強入部(軍事力による侵攻・支配)によって崩壊し、所領支配が一元化していく。

④ この乱が、関東における古河公方と管領上杉の対立だけでなく、幕府ー鎌倉府の二大陣営の対立であったため、幕府内部に大きな影響を与えた。

この乱を主導した足利義政・細川勝元政権は、関東の平和実現に失敗したため、その批判勢力(山名宗全)が蜂起して、応仁の乱が発生した。

応仁の乱の終結をまって、享徳の乱も終息する。応仁の乱は、享徳の乱の一部を構成するとも考えられる。


そして、上と重複するところもありますが、

horse 2017.4「享徳の乱と応仁の乱がもたらしたもの」

① 分散型所領形態が解消していき、城郭を中心に戦国領主の形成
② 幕府・関東ともに上部権力の衰退
③ 下剋上、上剋下による権力争奪から戦国対明への途が開かれる

まさに“戦国時代の開幕”といえる。


というところで、やっとこさ分倍河原合戦について。


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~藤沢「遊行寺」。応永23年、上杉禅秀vsモッチーの乱の犠牲者を供養する。~


講演のタイトルは、「享徳の乱における分倍河原合戦ー上杉憲顕(秋)の討死と高幡不動での供養」


高幡不動といえば我が土方歳三さま。分倍河原(ぶばいがわら) といえば田村正和さま の古畑任三郎の居住地…いや、それらではなくてcoldsweats01 なぜ高幡不動で享徳の乱のお話しなのかというと、高幡不動には享徳の乱のキャストの一人である上杉憲顕(秋)のものと伝わる供養塔があるからにござります。

憲顕(秋)とは、犬懸の上杉禅秀の息子ですな。時代を遡ること百数十年の、足利尊氏・直義の母方のイトコである上杉憲顕と同姓同名なので、あとの時代の憲顕は便宜上「憲秋」とされているようです。


horse 時系列

▲ どの変(紛争?戦乱?)を発端とするかは、遡れば限がないが、
将軍義教と関東管領上杉による足利モッチーの追討→自害だの、結城合戦だの、関東公方の復活(シゲッチ)だのによる不満分子の紛争がプロローグとしてありーので(というか、これじゃもうすでに関東の争乱は始まっていたのではないかと思えないこともないが)、

▲ 享徳3年
それらの乱が大きな争乱(享徳の乱)となる決定的なキッカケとなる、鎌倉公方・足利シゲッチ(成氏)による関東管領・上杉憲忠の誅殺!(これを「下剋上」ならぬ「上剋下」と言う by峰岸先生)

▲ 享徳4年(康正元年)
シゲッチ、上杉討伐のため府中へ出陣!

▲ 扇谷上杉、庁鼻和上杉、そして犬懸上杉の憲秋らのチーム上杉が、シゲッチ軍と高旗(高幡)・立河(立川)・分倍河原などで激戦annoy

▲ チーム上杉方の敗退

と、異常にハショッテ分倍河原合戦をまとめてみました。


高旗(高幡)で討死したのは上杉憲顕なのか。池亀(池上)に逃れて自刃したのは誰なのかについては諸説あるところですが、いずれにしてもシゲッチは、こののち古河に拠点を移し「古河公方」といわれることになります。

文明6年(享徳22年)、応仁・文明の乱は集結すれど、東国ではまだまだやってる「絶賛!享徳の乱」。


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~やっぱり、文字を見るだけでワクワクするでしょ。~


最後に、高幡不動尊での講演会のレジュメに手書きで載せてくださった交戦勢力図を。脳内整理するのにとても助かりました。


▲シゲッチの古河公方軍

① 守護・守護代
下野(小山)、常陸(佐竹)、下総(結城・千葉)、上総(武田)、安房(里見)

② 古河公方直轄領を支配する直臣
野田(古河)、梁田(水海・関宿)、佐々木(私市-騎西)


▲ 将軍・義政&管領・細川勝元の幕府軍

a. 守護・守護代
上野(山内・長尾)、相模(扇谷・太田)、伊豆(山内)

b. 堀越公方&その直臣(渋川・上杉)

c. 幕府奉公衆
二条上杉、八条上杉のオール上杉

. 周辺守護大名
越後上杉房定(五十子陣)、駿河今川範忠(鎌倉)

. 関東の戦乱(上杉禅秀の乱)で滅ぼされた遺族・亡命者
新田岩松家純、犬懸上杉憲顕(兄)・教朝(弟)・教房(甥)


ふぅ。どうまとめて良いか難しくて、書くの大変でしたー。合ってるかな~、自信ない。

あんまり信用できない?ですよね~。そんなアナタに朗報です!追々、峰岸先生の享徳の乱の本が出版されるそうですよ。


次回は、小田原での講演会「後北条以前の小田原」です。


「 出ましたね!「享徳の乱」 峰岸純夫著」 2017.10.10
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-45e7.html

「BS時代劇 塚原卜伝」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/bs-ed39.html

「古河公方の古河を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html
「後編~古河公方の古河を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8375.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2017年4月11日 (火)

北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺

Photo
~功徳山「天嶽院」。境内は小田原北条の三鱗だらけ。~


(明応4年) 北条早雲こと伊勢宗瑞により開基

(天正4年) 火災に遭い、綱成と氏繁が中興開基

徳川時代は思いっきりハショリ…bleah

(平成10年)室町時代の様式に統一し七堂伽藍が復興


開基は明応4年とのこと。宗瑞が茶々丸を追い、伊豆に居を移した年ですね。


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~近くの湘南深沢にある大慶寺や等覚院と同じく、山門は素敵な茅葺の屋根。~


「北条五代の息女たちシリーズ」で、脳内は混乱状態。また、あまりのマニアックさゆえかブログ記事へのアクセス数が激減。

コメントもまったくいただけなく、北条にはヒロインがいないと世間で言われるけれど、こんなにいるのに、つまり興味があまりないのかもしれないな~と意気消沈の今日この頃。


息女達を一休みして、大船にある伊勢宗瑞ゆかりの「天嶽院」をお参りしました。

北条ファンにとっては三鱗だらけの境内を歩くだけでもテンションが上がります。玉縄の龍宝寺や大長寺(大頂寺)、深沢の寺々とあわせての、北条ゆかりの大船めぐりなんていかがでしょう。


たまたまお寺の方が出ていらして三鱗のクッキーをくださいました。

2_2

もったいのうて、食べられにゃい…


「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html

「玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-170d.html
「玉縄城-2」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-77e4.html
「玉縄城-3」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-0e19.html

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-0e25.html

大船「大長寺」について→「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-47de.html


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2017年3月31日 (金)

吉良頼康ゆかりの寺々(川崎・目黒・世田谷・蒔田)

シリーズ 北条五代の娘たち
二代・北条氏綱の息女たち、吉良頼康室~続編】


wine 「泉澤寺」
川崎、武蔵小杉駅からバスで15分弱位…だったかな?

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~門前に着くなり、説明板でいきなり我らが氏政アニキの虎朱印!(右下の)~


泉澤寺は当初世田谷にあったものの、火災にあったために天文年間に頼康殿が現在の地へ移したと伝わっています。お寺は中原往還に面しており、周りには当時の堀ではないかといわれている二ヶ領用水が流れています。


ご本尊の阿弥陀如来は南北朝時代の作。その銘札には、「吉良頼康」と「妻平氏女」の墨書きが残っているそうです(『戦336』 by 黒田基樹『北条早雲とその一族 2007』)。

「平氏女」とは、小田原北条家の姫ということです。頼康と連名で「妻」となっているということは、頼康に嫁いだ北条氏綱の娘、つまり、﨑姫ということになります。(ということの連呼で恐縮。)法名は不明。


お寺の方に伺ってみました。大変感じ良く対応してくださいましたが、その銘札のことは分からない、亡き先代なら知っていたかもしれないとのこと。残念なり。

そこで、家に戻ってから川崎市さんの方へ問い合わせさせていただいたところ、北条幻庵の伊豆市さん同様、とても詳しく丁寧なお返事を頂戴しました。なんと、世田谷区にまで聞いてくださっていました。


以下、要約です。

上記の『戦国遺文後北条氏編336』は、世田谷区が出版した『世田谷区史料第二集』からの引用なので、世田谷区に問い合わせてみたところ…
「1959年以前に世田谷区内の古文書等の調査をした際に、泉澤寺のこの阿弥陀仏の札銘に関する記録が出てきた」

のだそうですが、この記録も札銘も現在は確認が出来ない状態なのだそうです。


(川崎市さん、世田谷区さん、お忙しいところ一歴史ファンの疑問を調べてくださり誠にありがとうございました。)


泉澤寺は元々世田谷にあったので、お寺の記録も世田谷に残っているのだとは思いますが、それにしてももう分からないとは重ね重ね残念じゃのうcrying

(どのように書かれていたのかは記録に残っていて史料を読むことが出来ます。ややこしく長くなるゆえここには書きませんが、ご興味あらばお調べくだされ。)

川崎市教育委員会HP→http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000056.html


wine 次は「勝光院」
世田谷区、世田谷線宮の坂駅

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~駅から住宅街に入るとすぐに美しい竹林が現われた~


当初は「竜凰寺」として吉良家が創建。その後、先のブログ記事にも書いた、頼康の養子となった北条氏朝が、養父頼康の院号の「勝光院」と改めたそうです。

すわっ、ほな頼康殿のお墓はここかっ!と思ったのですが、そこらへんのところはよく分かりません。


「吉良家墓所 ↑ この先右手」という案内板がある木戸をくぐると、きちんと柵で囲まれた世田谷吉良一族の墓所がありました。説明板を読むと、こちらには氏朝の孫以降のお墓があると書かれていました。

つまり江戸時代ってことですな。右の隅には、もう少し古そうな五輪塔がいくつかまとめてありましたが、あれらはどなたのお墓なのかな…。


「氏朝の局」(正室である北条の娘か、側室かは不明)や、世田谷城にあった千手観音などの仏様が坐すそうなのですが、本堂はピシッと閉っていて、境内は人っ子一人おらず静寂に包まれていたため、お参りできるのか否か分かりませんでした。

勝光院は非常に美しいお寺で敷地も広く、世田谷線の駅近くの住宅街に京都の洛外にあるようなお寺があるとは想像もしていませんでした。


wine 世田谷「勝国寺」
世田谷区、世田谷線世田谷駅

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~境内で、ワテのことをジーーーッと見ていた猫。「よりやす殿か?」と声をかけてみたが、無反応。お寺に入ってから出てゆくまで、ずーーーーっと見られていたsweat01。~


開基は頼康殿のお祖父さんといわれている政忠殿です。

こちらには、小田原北条から嫁いだ室の持仏であった(『世田谷区社寺史料』より)と伝わる薬師如来が坐します。昭和初期までは秘仏だったと『勝国寺寺院明細帳』にあったそうですが、その『勝国寺寺院明細帳』の所在は今は不明で、調査時に聞き取ったものだろうとのことです。


現在、秘仏は年に一度、新春初薬師法要の時(1月12日が日曜日の場合は1月12日、それ以外は1月12日以降の最初の日曜日)に御開帳があります。

是非拝んでみたい!と思ったら、歴友師匠に、「(数年前の)横浜歴博の蒔田の吉良氏展に出ていたじゃない」と言われちった。まったく覚えとらんcrying。なに見てんだろ私ったら。


それよりなにより、
勝国寺は、なぜ世田谷と蒔田と2つあるのだろうか?

世田谷区HP→http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/106/152/d00129077.html


wine 蒔田「勝国寺」
横浜市、ブルーライン蒔田駅

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~蒔田城の麓にある勝国寺~


ということで、蒔田の勝国寺にもお参りしました。


吉良殿の主な領地は世田谷と蒔田ですよね。どっちを、いつ、どのように使っていたのか知りませんでしたが、上と同じく横浜歴博の企画展の時に少し雰囲気が分かりました。

吉良成高・頼康父子の頃は、世田谷が公邸で正室が住み、蒔田は文化人などが訪れる別荘のような場所だったのだろうとのことだそうです。へえ~~。

また、
パパ成高の妻は「世田谷局」と呼ばれ(上杉定正書状)、息子の頼康(or氏朝)の妻は「蒔田御前」と称した(世田谷徴古録)ともありました。へえ~~。


蒔田勝国寺には頼康殿の供養塔があります。案内&説明板があり、自由にお参りできます。

境内の碑には、「頼康も当寺に葬りしといへば四基の中にあると思慮せられる」とありました。ホンマどすかっ!ドびっくり~ coldsweats02。ただ、頼康のお祖父さん・政忠の法名は「勝国寺殿」ではない、とも言われていますな…。うーん。よう分からん。


それにしても、今、蒔田城には某女学校が建っていますね。学校が建っていて良かったです。

これは玉縄城にも言えることですが、もし学校が建っていなかったら、今頃は宅地開発やその他様々な施設により跡形も無くなっていたことだろうと、私は思いますよ。


wine 東光寺
目黒区八雲、都立大学駅

1
~おお!吉良殿の紋がまぶしかとーshine


東光寺は、頼康殿より数代前のご先祖殿が、幼少で亡くなった息子の墓所としたお寺だそうですが、説明板を読んで驚きました。


こちらには3基の宝篋院塔があり、案内板もあって自由にお参りできます。

その幼少で亡くなった方以外のあとの2つの宝篋院塔のうちのひとつが、私が今探している頼康殿のお墓だとされていました。そして、あとのひとつは、頼康養子の氏朝(山木大方と今川堀越六郎の息子) の娘、つまり頼康の義理の孫のお墓だと!

ホンマどすか!ドびっくり~coldsweats02


う~ん。しかし…
頼康の法名は「勝光院殿」なのに「大徳寺殿」となっているし、没年も大永では早過ぎるし、官途名がこちらは「左京大夫」になっていますが、そうじゃなかったような…。手持ちの吉良の年表を見てみたらやっぱり違うような。世田谷吉良で「左京大夫」は3代目の頼氏だけのような。頼氏の法名は「大徳寺殿」かな?チト分からにゃい。

まあねえ、昔のことゆえ、その後の数百年の間に何人もの名前が混ぜぇこぜぇになってしまうなんてことは、どこのお寺でもあることですよね~。


いや、それとも!あの当時は頼康殿を世田谷に葬れなかった理由が何かあったのかのう。

まったく分からん!いったい、頼康殿とその室である北条氏綱の娘はどこに葬られたのか…。


以上の他にも世田谷等々力で満願寺や八幡神社などを訪ね歩きました。

頼康殿は寺社への信仰心が厚かったようで、ゆかりの素敵なお寺は他にもあまたありますが、これ以上お寺参りをしては脳内が益々混乱してしまいそう。ひとまず頼康殿のお寺巡りはこれにて終わりにいたしとう存じます。


本編→北条五代の娘たち ③ 吉良頼康室~謙信の侵攻と吉良の代替わり
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」展
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/at-2d5f.html
「後北条の姫も妬んだ常盤姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-64d0.html
「後北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

「北条五代の娘たち①北条早雲こと伊勢宗瑞の娘たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html

「北条五代の娘たち②太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html→その後知った驚きの事実「浄心院は三浦道寸の娘ではなく、北条氏綱の娘ではないか? 」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html


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2017年3月16日 (木)

浄心院は三浦道寸の娘か北条氏綱の娘か?

シリーズ 北条五代の息女たち
二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室~続編】


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~文京区白山には、浄心院様の菩提寺だった「浄心寺」の名が坂の名として残っている。~


先のブログ記事「太田に嫁いだ二人の浄心院~北条五代の息女たち」で混沌としていた、浄心院殿日海は北条の娘 か三浦の娘Bか について、その後もう少し調査(妄想)をしてみましたところ…


衝撃の事実を発見!!
なんと、2人の浄心院殿日海の 死去年月日が同じ (天文19年9月14日)だったのです。

浄心院 の没年月日は、『太田家記』より
浄心院の没年月日は、三浦家系図より(←私は未確認)

ドびっくり~coldsweats02


天文19年…か。北条氏康が山内上杉の平井城を攻め、翌20年に落とした頃ですな。

それにしても嫁と姑が同じ日に亡くなって、法名も同じなんてことがあるかね?いや、氏政の母と正室は同じ日に亡くなっていますが、それは小田原籠城中のこと。こちらはそれとは違いますしねえ。


wine 二人の浄心院とその夫君たちの後半生

核心に触れる前に、まずは時系列を整理してみました。辿るのがメンドクチャイ方はずーっと下方の、「太田家記」の項へどうぞ。


登場人物
浄心院=北条氏綱娘、太田資高の室
浄心院=三浦道寸娘、資高のパパ(養父とも?)資康の室


▲永正10年/1513年
三浦道寸の娘であるの夫・太田資康、三崎にて討死。
(資康の死亡については時期・状況共に様々説があるが、いずれにしても永正10年よりは以前。)


~妄想~
が嫁いだ頃、夫の資康は江戸にいたはず。資康が三崎の道寸の元へ向かった時、妻のも一緒に行ったのか?→道寸の娘だから行ったと思われる。

また、
資康の子である資高は、その時15才位。江戸へ置いていかれたのか?はたまた、パパ資康が三浦に走ったために、それで江戸城を出されて岩淵砦にいたのか?

後に氏綱に内応したのは、「祖父道灌殺害の件で扇谷に恨みを持っていたから…」とも言われているけれど、だったら何故に父親と一緒に三浦へ行けなかったのか?実は、やはり本当の父子ではなかったからなのか?山内・扇谷がらみの何かしらの事情なのか?

▲永正13年/1516年
三浦道寸、自害。次男・時綱は安房に逃れる(館山市資料より)。浄心院 も共に安房へ渡る(三浦氏系図より)。


~妄想~
ちょっと待った!

の兄弟である義意が三崎で討死したのは20才頃。例えばが義意の姉だとして、25-6歳。となると資高とは10歳位しか違わない。いくら昔とはいえ、資高はが産んだ子ではないですな。

ということで、先のブログ記事に載せた系図を書き替えてみました。


Photo_2
~時綱が道寸の息子であることには諸説あり。~

▲大永4年/1524年
資高が北条氏綱と組み江戸城は北条の物となる。資高は江戸城香月亭へ入る。

▲年不明
氏綱の娘である、資高へ嫁ぐ

▲享禄4年/1531年
、康資を産む

▲天文16年/1547年
資高、江戸にて死去

▲同19年/1550年9月14日
AB、両名共、江戸にて死去


次に、『三浦家系図』と『太田家記』を見てみましょう。

どちらも、概要ではなく、どう書かれているか見てみたくて仕方がなかったのですが、なかなか図書館へ行けないでいたところ、歴友師匠殿が関連箇所を抜粋して教えてくださいました。かたじけない。ありがとうございます!


wine 三浦家系図

012_2
~三浦氏の「新井城」。三崎の要害についても諸説あり。~


道寸の娘について、以下のようにあるそうです(歴友さんのをコピペさせていただく)。

「(義同)女子
嫁太田道灌一男資康、生新六郎「康資」後号武庵、天文十九年九月十四日死于江戸、法名浄心院日海、子康資建寺置像、号浄心寺今猶在小石川」


ふむ。
江戸にて死去か。小石川の「浄心寺」が菩提寺とありますな。浄心寺は、太田道灌開基「法恩寺」の末寺です。

浄心寺はかつて平河口にあり→本郷に移り→最後は白山でした。現代の感覚でいうと、小石川は、そのどこからも少し離れていますね。大きな区分の中ではまあ同じエリアとも言えますが。


また、何故に太田道灌ゆかりのお寺で弔われたのでしょうか?

太田さんちに嫁いだから?でも、三崎に行って、安房に渡った三浦の娘を、江戸の真ん中で誰が祀るのだろうか?


そんなことより!
そうです。資高の母でないどころか、この系譜からは資高さんが抜けているではありませんか。資康の子が、孫である康資ということになっていますね。ですよね?読み方合ってます?

ちと、アヤシイ~の~。


wine 太田家記

Photo_3
~現在は日暮里にある資高開基の「本行寺」。当時は江戸城平河口にあった。浄心寺と同じく、法恩寺の末寺である。~


以下、同じく歴友さんからいただいたもののコピペ。

一、資高公奥様ハ北条氏綱の息女ニテ、天文十九年九月十四日江戸城にて御死去、万好斎公と同して法恩寺へ御葬送可有之処、平川口に別之寺を立、彼寺へ御葬送有之、是ハ常々御夫婦不和之由申伝候、夫故新六郎康資公へ御存生之内より被仰置候付、別の寺へ御葬被成候也、彼寺浄心寺と申候、此寺今ハ本郷丸山ニ有之候、

浄心寺書物ニ有之、
「浄心院日海比丘尼 天文十九年庚戌九月十四日施主 太田新六郎康資
本願徳成坊日成敬白」
如此之書付有之、日海様木像之御影有之候


ふむ。

こちらには、浄心院日海は北条氏綱の娘で、資高の奥様であり、(三浦の娘と同じく)江戸で亡くなり、(三浦の娘と同じく)子の康資が浄心寺という菩提寺を建立して葬送とありますな。お寺の場所は、平川口→本郷丸山。まあ合っちょるか。


資高さんの道名と菩提寺もこれで分かりました。

道名は万好斎。菩提寺は「法恩寺」。繰り返しますが、法恩寺は太田道灌の開基です、浄心寺は法恩寺の末寺です。


そして、面白い…と申しては失礼ですが、先立った夫の資高と同じ平河「法恩寺」に葬られるところ、息子の康資が、母浄心院の遺言により別の寺を建てたとな。それが、「浄心寺」だと。

なぜ別の寺へという遺言なのかというと、「常々御夫婦不和之由申伝候…」 だとさcoldsweats01


wine 混同

以上のことから妄想するに、やはり浄心院日海は北条の娘で資高の正室である、の線が強いのではないかと、私は思いたい。他家の記録よりは、資高さんの本家本元である太田さんちの家記の方が辻褄が合っていると思うのですよ。だって、そもそも三浦さんちの系図に資高さんがいないんだもの。

となると問題は、安房の正文寺にあると聞く浄心院の位牌ですよね。


三浦系図によると、浄心院は江戸で亡くなっています。三崎の戦いの際に安房へ逃れたはずの三浦の娘は、何故に江戸で亡くなったのだろうか?江戸で亡くなったのに、何故位牌が安房と江戸の両方にあるのだろうか?


~妄想1~
安房の位牌は三浦の娘 のものではなく、北条の娘 のものではないでしょうか。

の息子の康資が安房でも位牌を持ったのではないでしょうか。パパとママは不仲だったから、マザコンの康資(←ウソbleah)が、ママのだけ作ったとか。

それが三浦系図と混同され、いつの間にか三浦の娘のものだとなってしまっている…とか?


~妄想2~
それとも、安房の位牌はやはりBのもので、お名前が不明だったので、いつの間にか浄心院殿日海と混同されてしまっているとか。


~妄想3~
上のザックリ系図で、三浦道寸にもう一人女の子がいますよね。その子が、混同の、こんどー(近藤)です←若い人には分からんてcoldsweats01 で、浄心院殿日海となってしまった…とか?


なーんて。

もしかしたら、まったく反対で、浄心院は三浦の娘で、たまたま系図からは資高が抜けちゃっただけ。当時は位牌もお墓もアチコチにあるなんてよくあること。安房の位牌も江戸の位牌ものもので、太田家記が混同しているのかもしれまへん。

皆さんはどう思われますか?


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~嘉永時代の地図。緑のの中に「浄心寺」がある。ピンクの☆のあたりに現代の白山駅がある。~


先日、どこでもいいから、なんでもいいから、浄心院が生きた証の場所に立ってみたくて、トップの写真の「浄心寺坂」を歩いてみたのです。

(坂の名の由来となった浄心院様の「浄心寺」は日蓮宗。現在はお寺はありません。近くに同名の浄土宗のお寺があるのでお間違えのなきよう。)


大きな歴史の流れの中では、浄心院が三浦の娘だろうが北条の娘だろうが、どうでもいいっちゃあいいことです。どうでもいいことではあるのですが、でも、それぞれにそれぞれの人生を歩んだはずの二人の女人が、その人生を混同されたりしていたらお気の毒だと思うのです。


それはこのお二人に限ったことではなく、先の崎姫と山木大方にしても、氏綱室の養珠院と朝倉娘の養勝院にしても、北条ゆかりの女人達だけではなく他のあまたな女人たちも同じこと。ほとんどが、かつての敵の元へ嫁ぎ、実家から与えられたミッションを果たすべく大変な思いをしたことでしょう。

彼女たちにとっては余計なお世話だろうと思いつつ、今日も足跡を辿りながら妄想しておる次第でござります。


こちらが最初に書いた混沌のブログ記事です↓
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸状を取り戻せなかった太田資高」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


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2017年3月 5日 (日)

日本遺産「飛鳥」シンポジウム~飛鳥を翔けた女性たち~

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~「飛鳥シンポジウム~飛鳥を翔けた女性たち」シンポジウムのパンフレットとレジュメ。飛鳥5 「ASUKA 5」 (命名 by ワテ)は、推古天皇、皇極/斉明天皇、持統天皇、額田王、善真尼。~


太田資高室の二人の浄心院様の行方にとらわれ過ぎ、吉良殿ゆかりの寺々について未だ書き上げられないでおります。

そこでちょっと一息。浄心院様たちが生きた時代より更に遡ること900年。推古、皇極(斉明)、持統、元明、元正…と、北条の血ならぬ、蘇我の血を引く女帝達の時代へ思いを馳せて参りました。


橿原市・高取町・明日香村による「日本国創成のとき-飛鳥を翔(かけ)た女性たち-」は、平成27年に「日本遺産」に登録されました。シンポジウムは、この3市町村の主催により、古代史の吉村武彦氏(明治大学名誉教授)と里中満智子氏を講師として催されました。

日本遺産とは、文化遺産にストーリー性を絡めて広げていこうというものだそうで、里中満智子氏の登場となったわけです。


飛鳥時代といえば、松本清張「火の路」、上原和「斑鳩の白き道の上に」、「日出処の天子」、「天上の虹」とそれに続くシリーズ、梅原猛の法隆寺物、永井路子「美貌の女帝」などのマンガや小説でしか知らずにファンになり、奈良へ通うこと数十回。

私にとっては、吉村武彦先生の講演は初めて拝聴(含む拝読)する専門家のお話しでした(恥ずかちぃcoldsweats01)。


メインフューチャーは、飛鳥5 「ASUKA 5」 のセンター皇極/斉明天皇。オープニングムービーも、皇極/斉明天皇がメイン。

続く講演とシンポジウムは、当時の女帝の成り立ち、天皇の諡名、勢力関係などの基本的な話から始まり、ご両人共、宝皇女(ひめみこ)が皇后であった舒明天皇時代→乙巳の変→重祚(斉明天皇)などを、発掘調査や謎の石仏群や、蝦夷や朝鮮半島情勢や、皇極のシャーマン的要素などを絡めた濃厚な内容の、たっぷりどっぷり3時間でした。


里中先生おっしゃるに…
飛鳥時代は女帝があまた即位した時代。女帝は大概、夫(または兄弟)である天皇(すめらみこと)が崩御し、跡継ぎが幼い時に擁立される。

しかし彼女たちが嫁いだ時、夫はまだ皇子(みこ)。皇太子(ひつぎのみこ)や天皇になれるかどうかさえ分からない。万が一なれたとしても、皇后(大后おおきさき)に自分が選ばれるかどうかも分からない。ましてや、夫が先立たなくてはならない。


以上要約ですが、そうか!考えてみればそうですよねえ。後の孝謙女帝のように始めから天皇にさせようと皇太子からの即位などという女帝とは違いますよねえ。

また、持統女帝なんて、お姉ちゃんが生きていたら無かったかもしれないですよねえ。

そうか。だから、皇極/斉明天皇のように再婚でも大后となることもあるのだね。


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~ホールロビーには里中満智子先生のパネルや、関連市町村の観光パンフレットがたくさん!~


以下、特に私にとって興味深かったこと。

wine 『日本書紀』における、皇極/斉明天皇の皇極時代と斉明時代との記述の色合いが違うこと。by 吉村先生

同じく、皇極/斉明天皇の性格は、皇極時代と斉明時代とでは違っている。by 里中氏

皇極時代=シャーマン的役割
斉明時代=積極的に統治


wine 入鹿の暗殺について、当時、中大兄皇子は正統な皇位継承者であったのに、その正統な皇位継承者が起こしたことを「クーデター」と呼ぶのだろうか??by 里中氏


wine 斉明天皇の土木工事好きは、「狂心渠(たぶれこころの みぞ)」などと悪く言われるが、それは、対外的に我が国をちゃんとした国家に見せるための都造りではなかったか。また、先進国的な見せ方をするため石材を多用した。by 里中氏

現代の「狂心渠(たぶれこころの みぞ)」を作っているのは誰かしら~、に場内爆笑。

「狂心渠(たぶれこころの みぞ)」との悪評を書記に残すところも凄い。ちょっと、やり過ぎたからか?と。


また、
飛鳥に点在し残る謎の石造物は、松本清張先生の小説や他の著作から、私はずっと斉明天皇のゾロアスター信仰からきたものだと信じていましたが、岩船などは、製作中の、斉明天皇の石室らしいですね。


wine 中大兄皇子がすぐに即位できなかった理由(わけ)は、昨今では同母妹である間人皇女との関係と言われていますが、
「当時は相当の噂になっていたはず。だって、1400年後の私の耳にさえ聞こえてくるぐらいですもの。」
by 里中氏に、場内爆笑。


wine シャーマン的要素は年をとるほどに衰えるのではないか。

Σ(゚д゚lll)ガーン そうなんだ…

だから、斉明時代は、皇極時代ほどにはそういうことをしていないとみられる。by 里中氏


wine 当時は前線に后達を連れて行った。たとえ身重でも。とはいえ、筑紫に出陣した時は斉明天皇は68歳!当時の68歳を考えると驚きだ。by 吉村先生

この出兵を里中先生氏が、集団的自衛権の行使とおっさったのに、またまた場内爆笑。お話しが上手いんですよ。ゆっくり、静かにお話しになるのにね。


などなどなど。

講演会には、橿原市・高取町・明日香村の長方のご挨拶や、文化財課の方からの遺跡の説明もありました。


そして最後に皆さん同じことをおっしゃる。
「飛鳥へどうぞ~~」

そりゃあ行きたいぜよ。もう十年ちかく行ってないわて。


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~時代は違うが、高取城の紹介案内もたくさんあった~


pen 余談

もう10年近く年前のこと。
飛鳥資料館で「玄武」が公開されるというので、この機会を逃したらキトラ壁画はもう一生見られないと思い(結局その後何度も、東京でも公開されたが)、遥か坂東より「玄武」のためだけに新幹線と近鉄線とバスを乗り継ぎ→2時間半並び→「玄武」のご尊姿を拝しに参ったことがあります。

それは想像していたものよりずっと小さくて、でも、暗がりで仄かに光に浮かび上がっていた「玄武」は、宝石のように神々しかったのを忘れられないでいます。


飛鳥歴史公園
https://www.asuka-park.go.jp/
かしはら観光ナビ「日本遺産」についてhttp://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/nihonisan/niuteisyoukai.html

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


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2017年2月 5日 (日)

北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり

by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち
【二代・北条氏綱の息女たち、吉良頼康室】


北条早雲こと伊勢宗瑞の息女たち、北条氏綱の息女たち~浄心院(太田氏高室)に続くは、同じく氏綱の娘で、吉良頼康に嫁いだ崎姫の足跡を辿りたいと思います。


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~吉良の重臣、大平氏の奥沢城跡といわれる九品仏浄眞寺の紅葉。背後は土塁(2016 秋)。周囲には堀跡も残る。しかし、ここの姫が崎姫にイジメラレタというのは伝説に過ぎない。~


wine 崎姫と山木大方(高源院)は別人だった

謙信の侵攻と吉良頼康の代替わりとの関連性の妄想に入る前に、まずは崎姫と山木大方(高源院)のことに触れなければなりませぬ。当ブログでも、しつこく&こってりと書いておりますので、ここでは簡単に。


かつては、崎姫=山木大方とされてきました。その後研究が進み、崎姫と山木大方は別人で、姉妹だということが分かってきました。


そして、


かつては、今川(堀越)六郎に嫁いだ山木大方が、六郎さん亡きあと、忘れ形見の氏朝を連れて吉良頼康に再婚したとされていました。しかし、上記のように、吉良頼康室の崎姫と山木大方は別人ということなので、

・吉良頼康室=崎姫
・山木大方(高源院)は今川から戻ったあと再婚せず未亡人のままで、六郎さんとの間の子である氏朝は、一人で吉良に養子に入った

つまり、氏朝にとって崎姫は叔母さんであり、義母でもあるわけですな。


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~北条当主の直系ではないのでこの図には書かなかったが、山木大方の息子の氏朝には、幻庵の娘の鶴松院が嫁いだ。次代当主頼久の母である。~


どうやら、吉良頼康室 崎姫、氏朝母 山木大方高源院、そして、氏朝に嫁いだ北条幻庵の娘 鶴松院 の3人は、江戸時代を通して、ごちゃ混ぜ&混然一体&錯綜されながら、寺社やゆかりの土地で語り継がれてきたようです。

崎姫と山木大方のことを書いた以前ののブログ記事(のひとつ)を文末にリンクしましたので、ご覧くださりますと嬉しいです。


さて、ここで早速3つの疑問が生まれてしまいました。それは、吉良への養子縁組と、謙信の小田原攻めとの関係です。


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吉良頼康→北条の氏朝への代替わりは、何故行われたのか?

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永禄4年の謙信侵攻時、何故頼康は玉縄へ移されたのか?

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頼康室の崎姫はどこにいて、どうしていたのか?


実は、氏朝が吉良へ養子に入ったのが永禄3年12月。家督を継いだのは翌年2月で、これは頼康の生前。しかも頼康は40才になるかならぬかです。﨑姫と頼康には、分かっているだけでも3人の男の子もいました。

当主も生きていて嫡子もいるのに、なぜ北条からの養子が当主となったのでしょう?その頃は、特に吉良と北条の関係には問題はなかったはずです。むしろ吉良殿は、北条では別格扱い。大事にされていたように思われます。


それどころか北条は、はるる(足利晴氏)とよっしー(足利義氏)の間に、「臨時的な公方」として吉良頼康を擁立しようとした」可能性があるそうなのです。

その根拠は、
・ 天文17~21年までの間、頼康が「左兵衛佐」の官途を名乗ったこと。「左兵衛佐」は、代々鎌倉公方家が名乗るもの。
・ 頼康がこの官途名を名乗る直前に、はるる が北条氏と敵対していたこと。


つまり、
北条は頼康を、はるる との関係断絶~よっしー の公方就任までの間のプールとしていた可能性がある、ということだそうです。(谷口雄太『武蔵吉良氏の歴史的位置』(『千葉史学』57号2010年)より。)


そして頼康殿は、
氏朝に家督を譲った年の暮に亡くなりました。


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~吉良頼康が熊野大社を勧請して創建したと伝わる、等々力の玉川神社~


3つの疑問について、妄想に浸ってみました。

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吉良頼康→北条の氏朝への代替わりは、何故行われたのか?


▲ たんなる病だった

頼康殿は、ずっと病だったのかもしれません。でも嫡子がいるよね。それに、もし病だったら重要拠点の玉縄に移すかね?


▲ 氏康の陰謀か!

頼康が当主でいては、いつまでも吉良を完全に北条のものに出来ない!ここはひとつ、いいように使える(か?)氏朝くんを送りこみ、名門吉良の名跡をゲットし、その家臣団をも北条の直臣にしてしまおう!

と、氏康と相棒の綱成で図ったのか!?二人には為さま(氏康弟・北条為昌)のことで前科があるゆえ(←超妄想)、勘ぐってしまうのう…。


▲ vs 謙信の態勢固め

これは、②の、頼康殿の移動のことと一緒に考えねばならないのかもしれないですが、それこそ、謙信くんの侵攻に備えての人事異動の可能性もありますかね?

時系列をチト整理すると・・


(永禄2年)
4月 謙信、上洛し、関東管領内諾。北条らの制圧を決っする

(永禄3年)
8月 謙信、越後出立
12月 北条の氏朝、吉良へ養子に入る


謙信、関東の諸将を集結させながらズンズン南下し、次々と攻防戦を繰り広げる

(永禄4年)
2月 氏朝、吉良の家督を継ぐ
 〃 吉良頼康、蒔田→玉縄に移る
3月 謙信、小田原に陣を張る
12月 頼康、逝去


上の、氏康陰謀説の見方を変えてみると、以下のようになります。

こんな情勢の中、吉良閣下(「閣下」は梅花無尽蔵より)を当主として戦の真っただ中に置くわけにはいかない。嫡子もまだ若い。吉良殿に替えて一門の氏朝を前線に置いた上で、優秀な吉良家臣団の指揮を北条が直接とれるようにしよう!

なんて?


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永禄4年の謙信侵攻時、何故頼康は玉縄へ移されたのか?


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~吉良殿の城、世田谷城。(言わずもがな石垣は現代の土崩れ防止の公園整備。)~


①と重なりますが、永禄4年2月、氏朝が吉良の家督を継ぐ頃のこと。氏康は、謙信の侵攻から頼康殿を守るため、たいそうな人数を付けて頼康殿を綱成管轄の浦賀城へお移しするように命じます。

その後、浦賀城から玉縄へ変更します(吉良との取次ぎ、高橋郷左衛門への書状にあり)が、いずれにしても綱成の城。


まあねえ、最終的に頼康を移した玉縄が、避難場所として安全かどうかは疑問ではありますがね。だって、その頃の玉縄は、謙信くんの侵攻に備えて城の修復だの補強だのがガンガン行われているのですから。

まさか、吉良閣下を最前線で謙信くんと戦わせちまえrock
なんて?


頼康殿は玉縄城で亡くなったのでしょうか?それとも、謙信が小田原・鎌倉を去ったあと蒔田に戻り、そこで亡くなったのでしょうか?

もし玉縄で亡くなっていたら、それこそアヤシイ~~。

そこが知りたい。。。


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頼康室の崎姫はどこにいて、どうしていたのか?

まったく分からん!
( `д´)キッパリ


頼康殿自体が、蒔田にいたり世田谷にいたり、また蒔田に行ったり、玉縄に行ったり。

北条の女人達は嫁ぎ先の夫と最後まで行動を共にするという人が多いですが、それにしても、当時の正室が全ての場所へ着いてまわったとも思えん。


上にも書いた横浜歴博の「蒔田の吉良氏~戦国まぼろしの蒔田城と姫君展 2014.7」では、頼康の父の時代、その室(上杉)が「世田谷局(上杉定正書状)」と呼ばれたことから、

「正室は世田谷にいて、蒔田は別荘のような場所」
ではないか?とありました。

頼康殿の時代はどうだったのかなぁ。


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~私がクダクダと書いたものより、こちらをお読みになった方が遥かに良いと存ずる。1200円じゃが、取り寄せの価値大いにあり。~


うーん、私には じぇんじぇん分かりまへん。分からないなりに、そんなこんなを妄想しながら、まずは吉良頼康殿と崎姫の菩提寺探しです。これがまた大変。


wine 崎姫&頼康殿の菩提寺

その人を知りたければ菩提寺へ行け!
by マリコ・ポーロ


が、しかし…

見つかりませんweep


前回の太田さんちと同じです。死去年は分かっているのに、お墓が分かりません。頼康の法名が勝光院殿なので世田谷の勝光院のようなのですが、蒔田の勝国寺とも聞きます。どうもハッキリしません。「勝国」とは頼康のお祖父さんだか曽祖父さんの法名ですから、違うかもしれないし、一緒のお寺なのかもしれない。

頼康さえそうなんですから、妻の﨑姫にいたっては、その法名さえも分かりませんcrying


仕方がないので、その頃の吉良殿ゆかりのお寺をいくつか探索してみることにしました。

長くなったので、素敵なお寺巡りや、寺々に伝わる、崎姫が確かに生きた証の仏様については次回に続く。


「蒔田の吉良氏 戦国まぼろしの蒔田城と姫君」展
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/at-2d5f.html
「後北条の姫も妬んだ常盤姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-64d0.html

「後北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html

「北条早雲こと伊勢宗瑞の娘たち~今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条氏綱の娘たち ② 太田資高 室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

ほにゃ。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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