2021年1月10日 (日)

新田義興と夫人の、品川区にあった塚~⑬大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。本当に。


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~義興の「胴」が埋葬されているという新田神社の御塚(大田区/東急多摩川線武蔵新田駅)~


特に新田義貞のファンにはあらねど、判官びいきゆえー道誉殿ではないー前回は義貞殿のことだけで長くなってしまいました。ゆえに2回に分けました。

前回はこちらです→ 「新田義貞のこと少しだけ~⑫大河「太平記」を観ていて」


さて、
新田義貞の子息義興の首塚と夫人の塚だと伝わるものが、それぞれ品川区の荏原にもあります。

新田義貞の足跡を巡り興味を持ち、義興と夫人の塚のことを知りました。訪ねたのは数年前のことですがブログに書くタイミングがありませんでした。ちょうど大河「太平記」の再放送で新田義貞の最期がオンエアされ、塚のことを思い出したので書くことにしました。


まず義興の首塚ですが、それは東急大井町線の荏原町駅近くにある庚申塔さんのあたりにあったようです。

タイトルが「品川区にある」ではなく「品川区にあった」と過去形になっているのは、今はもうなんの痕跡がないからです。もしかしたら痕跡のカケラぐらいは残っているのかもしれませんが、マリコ・ポーロ には見つけられませんでした。


🐎 新田義興の生涯をザックリと

皆様ご承知のことと思いますので、メンドクチャイ方はすっ飛ばしてくだされ。


義興は、義貞の次男です。
母は上野一宮の社家の出で出自が低いことから、義貞に疎まれ新田荘にいたらしいですね。

ちょっとここで脱線。
社家の出でも出自が低いのですか?頼朝の母上も社家ではなかったでしたっけ?熱田大神宮は格上なのですかね?

足利尊氏も息子の直冬を母の出自が低いということで遠ざけていましたよね。当時は母親の出自が低いとそんなに嫌だったのでしょうか?それなら、そもそもお相手にしなければいいのにねえ…(←それができたら苦労はないって?)


話を戻し、義興クンのこと。


北畠顕家が奥羽からの上洛の際、その軍に加わる。

義貞、兄・義顕の死後は越後に潜伏(たぶん)。

官能の情乱…ちゃう、観応の擾乱(兄・尊氏 vs 弟・直義)では直義方で北条時行らと挙兵。上杉憲顕と結び一時鎌倉を占拠したが、尊氏の反撃により鎌倉を追われる。

尊氏没後、弟・義宗と共に再び決起。しかし、鎌倉公方足利基氏方によって多摩川矢口渡(大田区)にて誅殺される。

怨霊となり(←これ必要?💦)、新田神社(大田区東急多摩川線武蔵新田)に祀られる。


享年28才。
胴塚が矢口渡近くの新田神社(冒頭の写真)に、首塚は入間の愛宕神社にあると伝わる。


🐎 品川区の、首塚があったというのはどこか?

図書館で検索し見つけた『荏原中延史』によると…

~義興は尊氏の死後、鎌倉奪還を目指したものの敗退。多摩川矢口渡にて討ち捕られた義興の首は家臣により、義興夫人の縁故であり、夫人が暮らしていた、駅の反対側にある荏原氏の館跡と伝わる「法蓮寺」へ逃れてきたが、ここへも敵方が迫ってきたため、夫人と家臣達は法蓮寺向いの「入道山」へ密かに首を埋めた。そして、山中に穴を掘り隠れ住んだ…~

と、書かれています。


もちろん現代の荏原町駅含め東急大井町線沿線では、あたりを見廻してみたとて山はおろか丘も高台さえも見えません。「入道山」とはどのあたりでしょう?

『近世の品川・民族偏』(品川区教育委員会)には…
~(入道山は)駅の脇を通っている旧鎌倉街道、中通りを馬込の方に向かい、立会川を渡って二つに岐れる三角点に庚申塔が建っている…(略)…ここは元は塚になっていた
とあります。


なんですと!元は塚になっていた ですと?!


前回書いたように、荏原氏館跡と伝わる法蓮寺とその隣の旗岡八幡神社の前の「仲(中)通り」は、かつての鎌倉街道中道です。

そのまままっすぐ下れば(当時は上る?)池上本門寺。そして、多摩川 矢口渡 に出ることができます

本に書かれている通りに歩いてみました。


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~鎌倉街道中つ道。左が法蓮寺。その先隣が旗岡八幡神社。私が立っている背後が荏原町駅の踏切。~


上 ↑ の写真を撮った後、くるりと振り返り写真とは反対方向(後ろ)の馬込方面へ歩きます。

通りは賑やかな商店街のド真ん中ですが、法蓮寺から荏原町駅の踏切を渡り、立会川(暗渠の公園)を渡ると、確かに少し上り坂になっていました。


法蓮寺から歩くこと5分。三叉路に着。

お!ホンマや。庚申塔が残っていますね。

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~右へ行くと鵜木(光明寺道)、左は本門寺へ行く池上道。天明3年の石造道標の説明板がある。~


上記の『荏原中延史』の著者は、昔、このあたりを掘り返す時を見たそうです。なんと、そこは十畳ほどの広さで、「床の間のような所もあり、押入と思われる箇所もあり」と書いています。

それってホンマに新田関係が穴を掘っての隠れ住まい跡かいな??江戸時代の住宅の跡じゃないの?と眉に唾をつけながら読んだとしても、今はあまりに商店街商店街していて、鎌倉・室町時代はおろか昭和の初めを想像するにも難しくてよ。


🐎 義興夫人の塚

それは、品川区の記録にありました。


場所は、より一層、商店街商店街した超有名商店街 武蔵小山パルム商店街。そこに義興夫人(正室か側室かは不明)のものと伝わる塚がかつてあったのですって!

区の記録によると、その塚は、パルム商店街の、武蔵小山駅とは反対側の入口、つまり中原街道(旧中原往還)の平塚橋の近くの「權司稲荷」のところにあったそうです(平塚橋の「塚」とは違います)。


残されている記載と実際の場所がどうも合わず、しばらくウロウロしていて、ハタ!と気が付きました。記録が発刊されたのは昭和40年代。26号線や武蔵小山の商店街は出来てはいたものの、記録はそれより以前の町の風景を基準として書かれているのではないか?

当たり前のそんなことに今更気づき、スマホで東京の古地図(明治)を開き、中原街道と交差する品川用水(すでに暗渠)やそこに架かる平塚橋や、目黒碑文谷道の風景へ脳内を転換。

すると、記録と地図はみごとに合致。地図のそこには、墓(塚?)の記号がありました。

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それが確かに記録の塚かどうかは分かりませんが、ピンクの〇の所です。武蔵小山パルム商店街の入口あたりの一帯です。(緑の線はパルム商店街と26号線。)


平塚橋のあたりは新羅三郎義光の伝承にあるように、このあたりに低い(平)塚があったことから「平塚」の地名となったとされています。上にも書きましたが、夫人の塚は、この平塚の塚とは違うものです。

また、周囲をグルグルして聞き込みもしましたが、權司稲荷は見つけられませんでした。地図の見方が違うのかな~?


区の昭和の記録には、塚は200坪ほどあったと書かれています。義興の家臣たちは逃走の途中、ちょうどここに新羅三郎が死した兵士たちを祀った大きな塚があったので、自害した夫人を葬ったのでしょうか。

どちらも土地の伝承にすぎませんが、夫人の遺体をどこまでも運んでいけるわけもなく、義興家臣の誰かが、荏原氏の誰かからその塚の伝承を聞いて、そこに埋葬することにしたのかもしれません。妄想に過ぎません…。


🐎 妄想逃走ルート

言い伝えによると、義興と最後の行動を共にした家臣は13人とされています。

家に帰って、武蔵小山のパルム商店街でお土産に買った名物の あんパン を食しながら、地図を広げ家臣達の逃走ルートを妄想してみました。


多摩川の矢口渡(大田区)で果てた主人・義興の首級を担った家臣達は鎌倉街道(仲通り)を北へひた走る

夫人(正室?側室?不明)が暮らしていた、又は、避難していた鎌倉街道(仲通り)沿いの法蓮寺の館へたどり着く

追っ手が迫ってきたため館をあとにする

鎌倉街道を少し戻り、立会川を渡った入道山の麓に主人義興の首級を埋める

中原往還に出(そんな主要道を行くか?とも思うが)、北へ向かう

途中、平塚(平塚橋)のあたりで夫人の足はもつれ、これ以上は足手まといになるばかり、もはやこれまでと自害

家臣達は夫人の亡骸を葬り、さらに逃走する


家臣達はどこへ向かおうとしていたのか? 入間 だろうか?


なーんて、全部妄想ですが、ここでなんと!

🐎 もうひとつあった夫人の塚

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~千代が池(目黒)歌川広重。滝の上段が松平藩抱屋敷。~


なんだかハマッてしまって、次々と古い伝承物を読んでみました。

と、義興夫人の伝承が品川区荏原から目黒区にかかるあたりにもあることを見つけました。両区のHPによると、『新編武蔵風土記稿』に書かれているそうです。


そこには女人の名まで書かれていました。

名は「千代」。
千代殿は義興討死の報を聞き池に身を投げたと伝わっているそうです。以後、池は「千代ヶ池」、そのあたりは「千代ヶ崎」と呼ばれるようになったそうな。鎌倉時代で一介の女人の俗名が伝わっているとは、これいかに。


池があったのは現代の目黒駅すぐ近く。山手線の外側で、ホテルプリンセスガーデン の脇の坂を下ったあたりのようです。

時代はグググッと下った江戸時代、一帯は島原藩松平家の抱屋敷でした。松平家の抱屋敷は広大で、現代の目黒駅の両側&山手線内側の目黒駅から恵比寿駅に至っていたそうです。敷地は約2万1千坪!いくら親藩とはいえ、抱屋敷で広いですね。


抱屋敷は絶景の地としても有名で「江戸名所図会」や広重にも描かれ、千代ヶ池には関東第一といわれた三段の滝が落ち込み、千代ヶ池の周りは江戸の庶民にも開放されていたようです。抱屋敷の池については、ご存知の方も多いかもしれません。


それにしても、なぜ荏原から目黒にかかるこのエリアに新田義興くん縁の女人の話が点在しているのでしょう。

彼女たちは同じ人でしょうか?はたまた 別人でしょうか? それとも単なる言い伝えに過ぎないのでしょうかねえ…。


🍸 大河「太平記」関連の記事の一部です。

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」
「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」

「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて
「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞は里見からの養子だった~⑨大河「太平記」を観ていて」

「尊氏と執権赤橋の寺「浄光明寺」~⑩大河「太平記」を観ていて」
「福島の人は北畠顕家が好き?~⑪大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞のこと少しだけ~⑫大河「太平記」を観ていて」

講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて(2014)


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2021年1月 6日 (水)

新田義貞のこと少しだけ~⑫大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの皆さま、ありがとうございます。本当に。

 

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~2021年は良い年になりますように。今年もよろしくお願い申し上げます。~


いかなる仕儀か、年末年始のブログが「南北朝見聞録」になってしまいました。このブログは小田原北条の見聞録なのに…?

先日、戎光祥さんが Twitter で行った「南北朝武将総選挙」の1位は、北畠顕家殿だったそうです。マリコ・ポーロ も顕家殿と尊氏様で悩みましたが、尊氏様に1票。


大河「太平記」。終盤に近づくにつれ、正成殿、顕家殿、義貞殿、後醍醐天皇(上皇)と果ててゆきトーンがだんだん暗くなってきました。

「太平記」もそうですが、「草燃える」「北条時宗」「花の乱」などなど、鎌倉・室町時代を描いたドラマは何故暗いのか。大河ドラマは人の一生を描くもの。後半は主要メンバーが次々と鬼籍に入り暗くなるのは仕方がないですが、それにしても鎌倉・室町は暗い!


身内で殺し合うからかな。でもそれなら戦国時代(戦国時代も室町時代といえばいえるが)もそうなのに、戦国時代のドラマはそんなに暗いと感じません。

むしろ、カッコエエ~みたいな爽快感を覚えたり、オレもやるぜーっ!(←何を?)とテンションが上がったりもします。鎌倉・室町時代は、舞台が京や鎌倉。狭いところで事が成されるから閉塞感があるのでしょうかねえ?以上、私感なり..




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~稲村ヶ崎~


前にも書きましたが、新田義貞を想うと、ただ「可哀想…」しかありません。

北条(前の)を倒し上野の棟梁となることぐらいが夢だった(たぶん💦)実直な坂東武者が、ひとつの全国区的な功をあげてしまったがために過大評価され、果ては見捨てられた…。後醍醐天皇は何度か義貞を都に呼び戻したのに義貞が応じなかったようではありますが、それでもそんな印象を持ってしまいます。


義貞の首は都大路を引き回され、さらし首となったそうです。

当時はそういうものだと理解してはいても、死してのちも可哀想…😢。


我らが旧八王子城を守る会の会長だった峰岸先生は、『新田義貞』(2005 吉川弘文館)で書いてらっしゃいます。

「『太平記』の作者にしてみれば、義貞の最期はその地位と活躍にふさわしい華々しいものとして描きたかったであろう。しかし…(略)…あっけない戦死を遂げてしまった。それ故、英雄物語としてのしめくくりが出来ないため、義貞の死に続いて延々と妻と勾当内侍の物語を描いて、その悲劇性を盛り上げようとしたのである。」
と。


義貞が表舞台にあったのはたったの6年。歌にも出てくるし物語や芝居で取り上げられることが多いので、なんだかもっと長い間活躍していたような気がしますが、享年38(37・39説あり)。若かったのだね。

国を出てから一度も帰ることはなく、皇子と三種神器を預けられ北陸で天皇を守って戦っていると思いきや、実は時代の中心から外れていて、遥か越前で果てる。ううぅ😢 可哀想…。


ちなみに戎光祥さんの総選挙で、新田義貞は高師直と同率5位でした。師直と同率では、義貞殿不服やろて。


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~隣の法蓮寺も含めた荏原氏館跡に建つという旗岡八幡神社。前を通るのは鎌倉街道。右側すぐにある荏原町駅の踏切を渡ると立会川(現在は暗渠)。~


新田義貞の子息義興の首塚だと伝わるものが、品川区の荏原にもあります。

首塚を訪ねたのは数年前のことですがブログに書くタイミングがありませんでした。ちょうど大河「太平記」の再放送で新田義貞の最期がオンエアされていたので子息の首塚のことを思い出しました。


その塚は、東急大井町線の荏原町駅近くにある庚申塔さんのあたりにあったようです。

というところで、次回の「新田義興と夫人の、品川区にあった塚」へ続く…


🍸 大河「太平記」関連の記事の一部です。

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」
「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」

「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて
「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞は里見からの養子だった~⑨大河「太平記」を観ていて」

「尊氏と執権赤橋の寺「浄光明寺」~⑩大河「太平記」を観ていて」
「福島の人は北畠顕家が好き?~⑪大河「太平記」を観ていて」

講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて(2014)


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年12月30日 (水)

福島の人は北畠顕家が好き?~⑪大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

本年もご覧くださいましてありがとうございました。心より感謝申し上げます。
来年は良い年になりますよう、切に祈ります。


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~鎌倉時代後期創建と伝わる「桑折寺」山門は、桑折西山城から移築された室町時代のものだそうだ。~


21才…。
建武4年8月11日、北畠顕家は再び霊山城を出発。延元2年5月22日、和泉国石津(現在の堺)で相果てる。


何度か書いていますが、ひとつの土地のヒーローの認識は、その土地に暮らす人達と全国区とでは違うことがあります。小田原人の二宮尊徳(金次郎)、米沢人の上杉鷹山、萩人の吉田松蔭、大阪人の真田幸村…。

東北人は、そりゃあ伊達政宗に決まってると思いきや、どうやら北畠顕家のようですね。東北といっても広いので県や地域によっても違うでしょうが、私の片方の親の実家でもあり今でも近しい親戚達がいる福島の伊達や信夫、つまり旧信達あたりは、伊達家発祥の地であるにもかかわらず、ヒーローは北畠顕家のようなのです。


なぜ北畠顕家?

江戸時代に松平さんが霊山神社を祀り地元で尊崇されてきたからなのか、それとも戦前教育の影響なのか…。


北畠顕家は後醍醐天皇(上皇)の命により福島と京との長~い移動距離を行ったり来たりさせられ、連戦に次ぐ連戦。最後は大阪にて討死。ドラマを観ていても、出てくるたびに、悲しい…。

伊達桑折が実家だった亡親は特に歴史が好きというわけではありませんでしたが、大河「炎立つ」「伊達政宗」そして「太平記」を日曜と土曜の週2回必ず観ていました。「炎立つ」と「伊達政宗」は納得ですが、「太平記」はちょっと不思議でした。聞くと「北畠顕家だよ。やっぱり東北は北畠顕家なんだよ」と申していましたわ。


冒頭の写真「桑折寺(こうりんじ)」は桑折氏の菩提寺で、私事で恐縮ですが親の実家の菩提寺でもあります。お寺は顕家殿とのゆかりはないようだけど、顕家殿が伊達に赴いた時にはすでにあったのだな~と、再放送を観ていて思い出しました。


顕家は和泉で負けはしましたが、どうしてこんなに強かったのか…?

また、南朝方は「一致団結して帝を守り尊氏様に相対していた」と昔は思っていたのですが、全然違うようですね。


私の北畠顕家像は親の受け売りだけですが、かぞえ 21才 で果てた美少年→美青年の貴公子というイメージでした。

嗚呼それなのに、それなのに。なんと妻子がおったとな!ちょっとイメージがガラガラと(勝手に腐っていたマリコ・ポーロ💦)。


亀田俊和著『南朝の真実』を前に読みましたが、この後も、パパ親房卿の葛藤は南朝の総帥となりながらも続いていくのですね。


🍸 大河「太平記」の記事

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」
「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」

「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて
「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞は里見からの養子だった~⑨大河「太平記」を観ていて」
「尊氏と執権赤橋の寺「浄光明寺」~⑩大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年11月28日 (土)

尊氏と執権赤橋の寺「浄光明寺」~⑩大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ


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~浄光明寺は萩の名所~


だからあの時、鎌倉を捨てなきゃよかったのに、義貞どのぉ…

と、ドラマを観ながらひとりごちていたら 大河「太平記」(再放送)も早35回。今、尊氏様は30才そこそこで、放送は残すところ 15回になってしまったのですね。


ドラマでも尊氏様が新田義貞を討ちに「南無はちまんだいぼさーっつ!」と出陣しますが、実際、足利は「軍勢催促状」を数十通出しています。

催促状は尊氏ではなく直義の発給になっているんですってね。峰岸先生はこれを、「尊氏の心身不良もあるが、政権への反逆とされるのを避けるため、義貞との私闘を印象づけようとした」と書いてらっしゃいます。


大塔宮のことにしても、こたび都へ戻らなかったことにしても、尊氏は弟直義によってどんどん後戻りできないところへ押し上げられていきますね。

でも尊氏の直義への想いは強く、この一年後に、あの有名な願文、この世は夢のごとくに候…現世の幸福は直義に譲ります。直義をお守りください…が清水寺に奉納されるのです。


それはそうと、
足利殿のことが だ~い好きな判官殿(佐々木道誉)は、今井宗久の先祖だそうですな。

来年…いや、再来年の大河が北条ではなく北条だったショックがあとを引き、現在の大河「麒麟がくる」は時々しか観ていませんが、道誉と宗久のことは番組HPの陣内さんのキャストメッセージにありました。だから宗久も陣内さんが演じてらっしゃるのですね。

先日観てみたら、宗久殿がお茶を点てていました。さすがバサラな趣味人の判官殿。見事なお点前にござりました。


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~扇ガ谷にいた上品な猫。「登子どの!」と呼んだらこっちを見た。~


尊氏が蟄居したといわれる 浄光明寺 の裏山の下にはかつて 多宝寺 という大きな寺がありました。江戸時代にはすでに廃寺となっていたようですが、寺の僧たちを葬ったやぐら群が残り板碑や焼物や五輪塔なども出土しているそうです。

浄光明寺境内の裏山から山道をしばらく行くと 覚賢塔 とよばれる名僧覚賢の巨大な五輪塔があります。ゆうに3mはあり、凄い存在感(毎年4月の鎌倉まつりの時だけの公開だったと思う)。この五輪塔も多宝寺にあったもののようです。


なんと!私には分かりませんでしたが「戒壇」の跡もあるそうですよ。どこ?

北鎌倉側の巨福呂坂切通しあたりからも行けるような噂を小耳に挟んだので、こちら側からも一度歩いてみたいと思ってはいるのですが山道に慣れてないと危ないかな…。←曖昧な情報なので行かれる場合は調べてくだされ。


多宝寺の開基は北条執権家極楽寺流の業時という方で、浄光明寺を開基した長時とは兄弟だそうです。一帯は、極楽寺流の領分だったんですね。

足利尊氏室の登子さんの実家の赤橋家は極楽寺流。浄光明寺は赤橋家の菩提寺であり、残っている絵図には、新田義貞の鎌倉攻めの時に討死した登子さんの兄上である執権守時殿の屋敷が描かれているそうです。

尊氏様は、妻の実家の寺へ引き籠ったわけですな。


浄光明寺へは小町通りから入るのが近いのでしょうが、小町通りの異常な人混みを避けて今小路側の英勝寺の踏切を渡っていくルートをおすすめします。途中の雰囲気やいくつかの石碑も、観光客の私なぞには鎌倉っぽく感じられて好きです。


🍸 大河「太平記」の記事

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」

「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」
「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて

「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞は里見からの養子だった~⑨大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年9月28日 (月)

新田義貞は里見からの養子だった~⑨大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ


この4月から大河「太平記」の時代ことをチョコチョコ書いておりますが、本来は戦国時代の小田原北条、特に北条氏照の 追っかけブログとして 11年 続けてまいったものにござります。

2月半ばよりいまだ逼塞中。まだまだどこにも GoTo せず、北条見聞が出来なくて他のことを書くことが多くなっておりますが、もし小田原北条や氏照にチビットでもご興味あらば、それらの記事をご覧いただければ嬉しいです(文末添付)。


それにしても…

北条氏照の介錯人が氏規でなかったことと、氏照の下原の槍について書きましたが、興味を持ってくださったのが知り合いお一人だけ。いつもは何かしらの新情報やお教えをコメントでいただけるのですが…意気消沈。。。
(ノД`)


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~『歴史研究』第684号(2020年9月号)~


気を取り直して!

大河「太平記」第25回は「足利尊氏」。
後醍醐天皇からお名前の一字「尊」を賜り、北条高時からいただいた「高」から →「尊」となりました。


前に書いたかどうか忘れてしまいましたが(よる年波で…)、大河「太平記」では難しい言葉がい~い具合で使われていますね。

今回では…
梟雄の輩、御手(ぎょしゅ)にかけ申さん!」

すごい (*_*)


また、後醍醐天皇が、みごとな舞を披露した北畠顕家くんに ふわりと御衣を投げ、
かずけとらせる

聞き取れはすれど意味が分からず調べちゃいました。

「被けとらせる」。「被く」とは、御衣を頂戴することなんですね。知らなかっただ。このあと、いただいた御衣を左の肩にかけるのだそうです。美しき顕家殿の、その雅なシーンまで欲しかった~。


昨今の大河ドラマ(に限らず時代劇)は、「分かり易く」を大事にしているそうで、ストーリーもですが台詞も分かり易くしているようですね。

昔の視聴者だって、ほとんどは難しい言葉のちゃんとした意味は分からなかったでしょう。我が家の両親(含むワテ)などもたぶん全然分からない言葉が多かったと思います。でも、大河ドラマは面白がって観ていました。分かり易い=面白い、ではないのですよね~。


さて、本題。

新田義貞 は里見の生まれで、新田へ養子にいったのですか!

知りませんでした(恥)。どうりで新田義貞の系図を見ると、父とされる朝氏(義兼とか氏光とかいう系図もあり)と点線 ……で結ばれているので、変だな~と思ったことはありました。


時々投稿させていただいている『歴史研究』の今月の特集は「安房里見一族の謎」です。

『歴史研究』は昭和33年から続く老舗の歴史研究会が発行している月刊誌です。加来耕三氏初め専門の先生方も書かれていますが、主には歴史ファンの投稿雑誌です。今回は、専門の研究者の方達や里見の末裔(堂本前知事も)の方達の寄稿がほとんどでした。


里見は新田だから義貞のことも何人かの方が書いてらして、また、再放送中の大河「太平記」がちょうど義貞の鎌倉攻めということもあり特に興味深く拝読しました。

義貞が里見から新田へ養子にきたということは、『新田義貞の出自-里見氏との関係の中で-』(里見繁美氏、大東文化大学教授)に書かれていました。


冒頭、
新田義貞は、いつ、どこで生まれたのかが明確になっていない。何故かといえば、それ以前の新田氏の存在感がきわめて希薄だからである。

へえ~~。そうだったんだ~。それも知らなかった💦。


新田義貞の父親は、里見郷を拠点としていた里見氏ではなく、新田荘高林郷(太田市高林)の方を拠点にしていた里見義忠 なのですってね。

高林郷から至近距離にある台源氏館(または反町館)に暮らして跡継ぎのいなかった新田氏七代・朝氏のもとに養子として入った であろうと。


鎌倉攻めに参加したのは、実の兄上達はじめ、大半が里見の関係だったそうな。

後の越前までも一緒で、義貞の嫡男・義顕の自害に、その時の里見一族の惣領と嫡男も殉じているそうな。関係が非常に 密 ですねえ。


このことを歴友武将さんに話したら、「では、弟の脇屋義助は?彼も養子だったのだろうか?」と。

おう!それは浮かばなかったです。兄弟共に養子だったのか?義貞が養子に入った後に生まれたのか?ただ、義助も「氏」が付かず里見の「義」が使われているので、里見の子の可能性があるのか?昔はあっちこっちへ養子を出したり貰ったり、家が没落したり復活したりで…どうなのかにゃ?


『歴史研究』に、里見繁美氏の考察はもっと詳しく書かれています。バックナンバー、買えます。
「歴史研究会」HP


🍸 大河「太平記」の記事

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」

「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」
「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて

「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」
「新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」

🐎 小田原北条の氏照のことなどの一部

カテゴリー「八王子城と北条氏照」
カテゴリー「北条一族、最後の3ヶ月」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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2020年9月23日 (水)

新田義貞の正室のこと~⑧大河「太平記」を観ていて

サル9月3日、当ブログは12年目に突入。総記事数は公開したものだけで 728件 となりました。

皆様の「面白かったよ~」の一言に励まされてここまで続けてこれました。本当にありがとうございます。心より感謝申しあげます。これからもよろしくお願い申し上げます。

え?つまり、ということは、マリコ・ポーロ、あの頃からもう10才以上年をとっちゃったということか!でも、当初から読んでくださっている皆様もですよん。ふふふ。


さて、本題。

 Photo_20200921154501
~鎌倉「九品寺」。新田義貞が、鎌倉攻めの時に本陣を置いた場所に北条慰霊のために建立した。坂の向こうは海(材木座)。高い所にあるので見晴しが良かったのか。鎌倉唯一の義貞開基の寺で、山号の額は義貞の文字(の写し/本物は保存)~


というところで、さて本題。

新田義貞には詳しくあらねど、義貞を考えると「かわいそう…しかありません。

この後のことになりますが、鎌倉を手放し、御上のクチグルマに乗せっられ…というか、そのクルマに乗るしか他に道は無かったのかな…。


大河「太平記」24回目は「新政」。
後醍醐天皇の公家一統の政(まつりごと)が始まりました。皇子の大塔宮は尊氏様のことが大っ嫌いで、なかなか信貴山から下りてこないのですな。

鎌倉幕府を滅ぼすために当初からあんなにパパ上帝のために頑張ってきたのに。事が成ったら「また坊さんに戻れ」というパパ上もどうなのかと思ってしまいます。宮は「武家よりも君のうらめしくわたらせ給う」と、父上後醍醐のことを尊氏よりも恨めしいとおっしゃったとか。『梅松論』にあるそうなので本当かどうかは分かりませぬが。


そして、義貞。
国元からやってきた正室に、短絡的に「あなた!ファイトッ!」とづけられて上洛を決意します。

あーあ、いかんぜよ~。ニッタムサク で鎌倉を出たら(そんな無策じゃなかったかもしれないけど💦)。武家の聖地鎌倉を足利方に取られちゃうじゃん…と、思ってしまいました。


新田義貞の女人としては勾当内侍が浮かびますが、内侍は京での側室です。そういえば、義貞の正室は誰だったのだろう?

調べてみました。


正室は嫡男の義顕のママで、実家は北条得宗家の被官だった安東氏なのですね。ドラマでは、足利家は北条におもねて北条一族の娘を娶ったように周りから言われていましたが、それは足利だけではないじゃあないですかねえ。なーんだ。

北条高時の重臣であった、義貞室の安東の叔父上は義貞の鎌倉攻めの時に自害しています。また、尊氏の正室の兄上である執権赤橋殿の討死も自害同然。鎌倉幕府はすでに腐りきっていたと言われていましたが、東勝寺での一門の最後といい、やっぱり坂東武士。最後は潔かったのですねえ。


先の話になりますが、義貞室は義貞亡き後、新田荘の義貞の館跡ではないか?と伝わる「明王院安養寺」で夫の菩提を弔って暮らしたと伝わっています。

こちらの不動明王は、義貞の鎌倉攻めの時に山伏に化身して一族に触れ回ってくれたのですって!?


🍸 大河「太平記」の記事

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」

「尊氏の早世した兄と討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」
「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて

「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」
「北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


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2020年9月12日 (土)

北条高時の母の伊豆韮山~⑦大河「太平記」を観ていて

 マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~池谷初恵著『鎌倉幕府草創の地 伊豆韮山の中世遺跡群』2010(新泉社)


韮山は我ら小田原北条ファンの「聖地」である。

しかし、韮山は小田原北条にとってだけではなく、鎌倉幕府を開いた頼朝の源氏にとっても、その後の執権政治を行った前の北条にとっても「聖地」だった。


現代の私達からしたら、伊豆韮山は伊豆半島の付け根で、歴史と仏の里であり、ある日突然畑の真ん中から温泉が湧き出た風光明媚な観光地のイメージだ。そんな韮山が中世、なぜ前北条の拠点となったのだろうか?

当時の伊豆の国府は三島にあった。韮山には国府三島と半島を繋いだ下田街道が通る。また、狩野川という駿河湾にすぐ繋がる狩野川も流れていた。つまり、韮山は陸運と水運の交通の要所だったのである。


(小田原北条にとっての「聖地韮山」のことはたっぷりこってり今までブログに書いてきたので割愛しますが、文末に少し添付いたしました。ご覧くださいましたら、いと嬉し。)


028
~前の北条氏館跡&堀越公方屋敷跡~


さて、大河「太平記」第22回は「鎌倉炎上」。ついに鎌倉幕府の終焉を向かえましたね。レンタルビデオで何度も観て、東勝寺跡にも何度詣でたことか…。なんだか月並みな言い方で恥ずかしいですが、本当にこの大河は名作中の名作ですよね~。

小田原北条が大河になる時もこのぐらいのクオリティでお願いしたいです。いつになるか分からぬが、それはコロナ終息より遠い道のり…。


何度も観ているのに今回初めて思ったことがあります。高時の母、覚海尼はその後どうなったのだろう?

伊豆韮山で晩年を過ごしたこと以外ぜんぜん知らないので、以前に小田原北条や堀越公方のことを読みたくて買った冒頭写真の本『鎌倉幕府草創の地 伊豆韮山の中世遺跡群』に何か書かれていたことを思い出し開いてみました。


▲ 実家:安達氏
▲ 実名:不明
▲ 法名:覚海円成
▲ 享年:不明(60代位 カ?)


▲ ポジション:側室

側室だったんだ!(*_*)
沢たまきさんの貫禄💦から正室だとばかり思いこんでいました。

貞時の正室は、北条得宗家の人なんですってね。安達が貞時に対して謀反を起こし、許された後に安達家庶流の娘であった覚海尼が嫁がされたんですってね。

戦乱の時代にはよくあることですが、覚海尼は、一族の仇に嫁いだのですね。


息子の高時さんが24才で病のために執権を退いたあとの後継者問題では長崎殿と組んで騒動を起こし、これで、先の称名寺のブログ記事に書いたその時の金沢貞顕殿が執権を降りることになったのです。

ドラマでは、しょっちゅう、いきなり、高時さんの部屋へ現われます。「山内禅尼」と呼ばれていたので山ノ内にお住まいだったのでしょうが、それは、貞時亡き後の出家後のことかと思っていました。側室だったからハナから山ノ内にいらしたのですかね?


▲ 鎌倉炎上の後

それが、伊豆韮山です。

堀越公方の屋敷があったところは、以前は前北条家の屋敷がありました。そこに、覚海円成尼と一門ゆかりの女人のために「円成寺」が建立されたのだそうです。


円成寺を安堵するよう尊氏さまに命じたのは、なんと…

後醍醐天皇!


御上~~、あなたって人は…


そして、尊氏様の弟の直義さんも円成寺に寄進をしているのです。
へえ~~。鎌倉北条を滅ぼした、みんなの複雑な心境が分かるような気がしますよね~。


覚海尼は、残された一門の女人達を引き連れて寺へ移ります。


030


覚海尼は夢窓疎石を師と仰いでいたそうで、師と交わした和歌が残っています(『正覚国師集』)。


相州高時禅門の母儀、伊豆の北条にすみける時、よみてたてまつられける

あらましに
まつらん山ぢ たえね ただ
そむかずとても
夢の世の中

此歌は、世をそむく我があらましの行末にいかなる山のかねてまつらん、とよみ給ひたりしを思ひ出でられたるにや


御返し

夢の世と
思ふうき世をなほすてて
山にもあらぬ
山にかくれよ


「あらまし」とは、いわゆる物事のあらまし の あらまし ですよね。

険しい山道ですらすでに途絶えてしまった。自らあえて世にそむかずとも、今やこの世のことは夢の中のよう…と覚海尼。

それなら、夢のようだと思う浮き世をなおも捨てて、山にもあらぬ山の中へとお隠れくだされ…と師。

マリコ・ポーロ意訳。違っていたらゴメンナチャイ覚海尼様、夢窓疎石様。


ご興味ある方は、『鎌倉幕府草創の地』を是非!各時代の発掘調査のことがたくさん載っています。


🍸 大河「太平記」の記事

「北条高時のこと~①大河「太平記」を観ていて」
「足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?~②大河「太平記」を観ていて」
「尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸~③大河「太平記」を観ていて」

「北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて
「金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて
「八幡様も坂東発祥の神社ではなかった?~⑥大河「太平記」を観ていて」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


🍸 小田原北条にとっての聖地韮山についてたくさん書いたブログ記事の一部です

「小田原北条の始まりを告げた城 「韮山城」 シンポジウム」
「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏~願成就院」

「北条氏政が謙信や信長にプレゼントした、韮山の江川酒」
「後北条の女領主、伊豆の山木大方」


「北条幻庵の伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」~シリーズ北条五代の娘たち「伊勢宗瑞の娘たち」」
「‘元祖 義’ 伊勢新九郎の韮山へ」

「前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」
「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年8月27日 (木)

八幡様も坂東発祥の神社ではなかった~⑥大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

医療介護はじめエッセンシャルワーカーの方々ありがとうございます。本当に。


(2021.2 加筆
八幡神は西から…と以下に書きました。その後あるテレビ番組を観ていて、八幡神は、欽明天皇の御世、3才の童子の姿で宇佐に現われたのが始まりと知りました。欽明天皇は推古天皇の夫敏達天皇の父親です。)


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~多摩川に日が沈む。「田園調布八幡神社」創建は鎌倉時代中期?石段を下りた鳥居の先が多摩川(9年ぐらい前にお詣りした時に撮った)。~


南無八幡だいぼさーつ!

丹波 篠村八幡宮。太刀を掲げ、高らかに北条討伐を宣言する尊氏様。


大河「太平記」も気が付けばすでに 20話。

再放送が始まった時、よし!毎週の放映に合わせてなにかしら書こう!と決めたものの、何週分かまとめて録画を観ることがあったり、なにより、この時代には(も)詳しくないため調べることが多く、マリコ・ポーロにはチト無理のよう💦


さて…

尊氏様が唱える「南無八幡大菩薩」で、思い出しました。

とある、由緒の古い八幡様(田園調布ではにゃい)の説明板を読んでいて、目からミツウロコだったことがあります。


時を遡ること長元の頃(平安時代中頃)。

その八幡神社は、上総下総で起った平忠常の乱を治めるために源頼信がその地に宿営した時に八幡大神を奉斎し、戦勝祈願をしたのが始まりとありました。それは源氏と八幡神の、「坂東への第一歩」であったようです。

源頼信って誰?とスマホで検索したら、河内源氏の祖だそうな。


源氏は坂東の武士の象徴、みたいなイメージがあります。その氏神であり坂東にあまたある八幡様は、つまりは西から勧請された神社だったのですね。源氏は元々は天皇家から出ているから、考えてみればそりゃそうなのですが…。

その土地を侵略する場合、自家や一族が信仰する神社をどんどん置いてゆくと言われます。江戸人の代表のような我らが太田道灌も、その手法を使って豊嶋氏を追いつめていきました。


源氏の八幡神もそうなのかどうかは私には分かりません。ただ、前々回のブログ「峰岸純夫著『中世鎌倉盛衰草紙』を読みました」に、

関東中央部からは戦国大名権力を生み出せなかった。北条・上杉・武田などの関東の外に成長した戦国大名たちの草刈り場… とある

と書きました。もしかしたら坂東の外から入ってきた侵略者たちによって、坂東発祥で土着の神も追いやられてしまったのでしょうか。


もしそうなら、それよりもっと昔の坂東の神様ってなんなのだろう?図書館に行けないのでネットで探してみると、神について書かれたものは厖大で様々でとても知り得ません。

稲荷神も秦氏で京都ですし、天神様も、諏訪神社も、恵比寿様も坂東発祥ではないでしょう。そもそも、古事記の神様もほとんどが 西 発祥。源氏ではなく平氏を考えても桓武天皇で、西から始まった一族。千葉氏の妙見?いや、千葉氏も平氏か。

坂東のもっと古い氏族の氏神を探せば分かるかな…。鹿島神社?香取神社? 平将門?いや、アニミズム!?


我が家のエリアの氏神様も八幡様です。坂東の地の氏神様なのに坂東発祥の神様じゃなかったことに今更気が付いてしまいましたが、これからも尊崇してまいりますよぉ。

南無八幡大菩薩!
疫病退散!


注)神様のことは難し過ぎるため、これ以上は深く突き詰めて考えることはしないと思いますので専門的なコメントにはお返事しかねる…いえ、ワテには出来ないと思います。←すごいエクスキューズ💦


🍸 大河「太平記」の記事

「①大河「太平記 父と子」と、北条高時のこと」
「②大河「太平記 芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」


「④ 大河「太平記~帝ご謀反」と、北条家はなぜ将軍にならなかったのか?」
「⑨大河「太平記~宿命の子」と、金沢氏の称名寺」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年6月16日 (火)

金沢氏の称名寺~⑤大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~金沢文庫「称名寺」~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…。


その前に、2つ✌

▲ 峰岸純夫先生の新刊

『中世鎌倉盛衰草紙 -東国首都鎌倉の成立と展開-』歴史探訪社
7月31日発売予定だそうです。

峰岸先生は我らが北条氏照の「旧八王子城を守る会」の会長でしたが、ご専門はこちらなので楽しみです!


▲ 北條九代
先のブログ記事 「④ 大河「太平記~帝ご謀反」と、北条家はなぜ将軍にならなかったのか?」に、宝戒寺入口の碑にある「北條九代 頼経」の意味が分からないことを書きました。

細川重男氏の『鎌倉幕府の滅亡』を再読していて、「北條九代」の意味だけは分かりました。

皆さんはとっくのとうにご存知だったと思いますが、北條九代=北條得宗家 を言うそうですね!時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時 の9人で九代ですか。こんなことも知らなくて恥ずかちぃ💦

少しだけスッキリしましたが、頼経さんはいにゃいので、丸々スッキリとはしない…。


さて、大河「太平記」。
録画した⑥話~⑩話まで一日一話、毎日観ました。どっぷり太平記の一週間になってしまいました。

ドラマはまだ⑩話なのに内容は盛りだくさん。楠正成や大塔宮の登場、尊氏と登子さんの結婚、パパ貞氏の死去、尊氏様の家督相続、金沢殿の執権就任と辞職、赤橋殿の執権就任、そして、ジジ家時の置文…などなどなど。

大塔宮は、昔は「だいとうのみや」と言いましたよね~。今の「おおとうのみや」には未だに慣れず、つい「だいとうのみや」と言ってしまいます。


太平記の時代はまったく詳しくないので気になることばかりなのですが、こたび特に気になったのは金沢(かねさわ)貞顕のことです。大河「太平記」は何度が観ていますが、今まで金沢殿を気にしたことはありませんでした。

「太平記」は昨今の大河ドラマとは違って登場する人が厖大な数で、何度観てもそのたびに興味の対象が変わります。面白いドラマですね。


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▲ 尊氏の家督相続

ドラマでは、パパ貞氏が存命中に尊氏の家督相続がありました。

しかし実際は、パパは死ぬまで家督を尊氏に譲らなかったようですね(『足利尊氏』森茂暁)。


先のブログにも書きましたが、尊氏には 21才で亡くなった、8才年上の腹違いの兄上がいます。兄上の母親は、北条一族金沢氏の娘で、今回気になった金沢貞顕の妹です。

そんな華々しいバックを持つ兄上がいたのでは、尊氏は弟くんの直義たちと十羽一からげ(十羽もいなかったと思うが)、その他の子供達として幼少~少年期を過ごしたことでしょう。


パパ貞氏は、病(物狂諸労)ゆえか、先代北条貞時死去ゆえかは分かりませんが、すでに出家・隠居していました。ところが、兄上が亡くなった後も、尊氏は家督とはなりませんでした。病だったパパがカムバックするのです。

55才でパパが亡くなり、尊氏さまはやっと当主となりました。


珍しいですね。何がこうさせたのでしょう?
何故ですか?


▲ 称名寺と金沢文庫

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~称名寺と現在の金沢文庫を繋ぐ隧道。中世の頃は西側と東側と二本あったそうで、こちらは西側。マリコ・ポーロ的には称名寺の一番の魅力スポット。~


称名寺は、金沢北条氏の本拠地、六浦荘金沢郷(横浜市金沢区/金沢文庫駅)にある、金沢北条氏の菩提寺です。

北条義時の孫実時の屋敷にあった持仏堂が元で、そのまた孫、つまり今回の気になる貞顕の時に七堂伽藍を構えた大寺院となります。


金沢文庫がいつ出来たのかは定かではないようですが、実時の時代には書物蔵のようなものはあったようです。

気になる貞顕の代にかなりの蔵書が集まり、これも前に書いたことの繰り返しで恐縮ですが、それらは、後に我らが小田原北条や秀吉や家康がゲットしていくことになります(アリャリャ💦)。


称名寺の隆盛や文庫の充実だけから見ると、気になる金沢貞顕殿は素晴らしい人ですね。学識もお金もあり、連署であり、六波羅探題も努めているので、実行力もあるように思えます。

得宗北条高時は心身ともに病弱でした。貞顕が高時を心配して、周囲の人達に出した手紙などが残っています。高時が出家した時も、自らも出家したい旨を申し出ますが、逆に、次の執権になってちょ…と言われてしまうのです。


貞顕は10日で執権職を辞します。貞顕殿、良かったですね(え?)。

優しい方のようですが、なんとなく優し過ぎる方のようにも思え、ドラマで児玉清さんがとっても上手く演じてらっしゃるように思いました。


ドラマでは、高時から金沢貞顕への執権交代は割とすんなりと「押し付けられて」決定していましたが、実際はそうではなく、金沢オシの長崎一派と、高時の弟オシの高時ママ&ママの実家一族安達たちとの間でお決まりの跡目争いが起きています。

また、高時が暗殺しようとしたのは長崎円喜ではなく、その息子の高資ですよね。


世にいう、嘉暦の騒動です…
と書きながらも、よく「世にいう〇〇である」と言うのを聞いたり読んだりしますが、世にいう、世にいうって、知らないよん!ってえことが多いのはマリコ・ポーロだけ?


話がそれてしまいましたが、その「世にいう」嘉暦の騒動については、マリコ・ポーロなぞよりずっと詳しい方達がたくさん書いてらっしゃるので、それらをご覧いただくとして。ドラマの中で尊氏さまが登子さんに言った、「北条はもう終わりと思う…」はこのへんの騒動のことから言わせた台詞なのでしょうかねえ。

こんな中で、登子さんのお兄さんは執権になったのですね。


称名寺はいいお寺ですよね~。背後は山なのに開けた感覚で、白水阿弥陀堂に似ていると思いました。ご近所の方は、自粛中でも散歩にこういうところを歩けるから羨ましい。


これを書きながら「じゅん散歩」をチラチラ観ていたら、金沢文庫でした!ドびっくり~。じゅんちゃんはフェイスシールド。説明する先生はリモート出演。そんな世の中か…。


🍸 金沢文庫の記事

「瀬戸神社展と金沢文庫」
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

🍸 大河「太平記」の記事

「①大河「太平記 父と子」と、北条高時のこと」
「②大河「太平記 芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」
「④ 大河「太平記~帝ご謀反」と、北条家はなぜ将軍にならなかったのか?」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」


🌼 もうひとつの 花ぶろぐ「萩よりほかの花も見るべく」に尊氏様の菩提寺のシャガや鮫ヶ尾城のカタクリのことなぞ書きました。ついでにご覧いただければいと嬉し。

「足利尊氏の菩提寺に咲く~射干」
「越後鮫ヶ尾城~かたくり」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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2020年5月13日 (水)

北条家はなぜ将軍にならなかったのか?~④大河「太平記」を観ていて

マリコ・ポーロ

医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。


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~『執権』2019.10 細川重男著(講談社学術文庫)カバーデザイン 蟹江征治氏~


小田原北条の見聞録なのに見聞に行けないため、以前拝聴してまとめられなかった小田原北条の講演会や、BSで再放送中の大河「太平記」を観ていてフト思い浮かんだことを書いたりしております…


第④話&⑤話を続けて観ました。謀反とは下の者が上の者にたいして起こすことを言いますが、上の者(帝)が下の者(執権家)に対して起こしたことは何という?

タイトルの「帝 ご謀反」とは、それをとらまえてワザと付けたのかな?


京の都から我が家に帰る時の尊氏様。頭から京で起きた様々なことが離れず、どうしたらいい?右馬介…と見事な乗馬姿(馬の背に寝転ぶ)で悶々としています。分かりますよね~、これ。

どこかへ旅行に行って帰る時の気持ち。あぁ、この高速に乗ったら、あぁ、この電車に乗ったら、あとは現実へまっしぐら。最寄りの駅に着く間際に流れる新幹線のアナウンス。

「We will soon arraive at 東京、品川、新横浜、上野、大宮、etc.」(←だっけ?)
が、
「We will soon arraive at 現実

に聞こえるもの。ドラマでのあの時の尊氏クンの気持ちとは比べものにならないでしょうが…


太平記の時代はただ今勉強中で、まだまだまだまだドラマや小説からの知識を超えるには時間がかかりそうですが、道誉殿は以前より鎌倉に居住していたのですね。

森茂暁氏の『足利尊氏』2017.3(角川選書)で、
足利尊氏はこうしたいわば後醍醐シンパたちといっしょに都市鎌倉に居住していたのであるから、折にふれての後醍醐関係の情報は彼らの間で共有・蓄積されたに違いない。…
と読んだ時、あれ?と思ったのです。


ドラマでは、尊氏が京の都で初めて道誉に会ったように設定されていましたが、本来は、尊氏と道誉は鎌倉にてかなり付き合いがあったということなのですかねえ。道誉が鎌倉の御相伴衆だということも忘れてしまっていました。


さて、本題でござる。

ドラマの④・⑤ を観ていて、以前より気になっていたことを思い出しました。これほどの権力を持ちながら、そも、前北条家はなにゆえ将軍にならなかったのだろうか?

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~北条得宗・執権の屋敷跡だった宝戒寺参道の碑。「北條九代屋敷 頼経公」とある~


まずは、↑ の謎の碑のこと。

この「頼経」とは誰ですか?
前にも書きましたが、ここが屋敷だったのは今のところ得宗・執権・連署の7人(7人は連続していない)と伝えられています。また、北条の9代目は、大河「太平記」の足利のパパ貞氏殿が「貞」の偏諱をもらった 貞時殿です。

それに、もし鎌倉北条家の人だったら源氏の「頼」を使いますかねえ?


「頼経」と聞いて思い浮かぶのは、源氏三代が果てたあと執権義時が京の公家から迎えた四代将軍「藤原(九条)頼経」、昔のドラマや小説などで「三寅」と呼ばれた幼児です。この子は、頼朝の妹の曽孫でした。

鎌倉の混乱をおさえるために頼朝の血筋を将軍として据えたとも以前はいわれることもありました。でも、当初は親王さんを迎えたくお願いしていたようなので、そうではないかな?

この幼児は8歳で元服し征夷大将軍となりますが、30才にならぬ前に時の執権により追い出され京に帰ります。


頼経以降の鎌倉将軍て、最後の守邦親王さん以外は皆追放されていますよね。守邦さんだってなんだか無視されていたような感じですし、「鎌倉炎上」時はどうしていたかも知りません(私だけ?)。いったい鎌倉幕府って、なんなんでしょうねえ?

な~んて、執権より将軍の方に気持ちが流れてしまいそう。


碑のことですが、ほな、「頼経」とは誰のことでしょう?北条得宗や執権に「頼経」という別名を持つ人がいたのでしょうか?調べても見つけられません。

碑は「北條九代屋敷」と「頼経公」とに少し間が開いていますね。ここは北條九代(誰?)の屋敷跡でもあり将軍頼経の屋敷跡でもある、と並列表記したのでしょうか?

ワテには分からん…。


6/6 加筆
細川重男氏の『鎌倉幕府の滅亡』を再読していて、「北條九代」の意味だけは分かりました。皆さんはご存知だったと思いますが、

北條九代=北條得宗家

を言うそうですね!時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時 の9人で九代ですか。

少しスッキリしましたが…頼経さんはいにゃい。


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~佐殿の前に突如現われたる名馬「池月」。まさに「池に映る月影」のようだった。伝承である(大田区洗足池)~


そこで話は戻り、前北条家はなぜ征夷大将軍にならなかったのかについてです。が、しかし、そんな難しいことが マリコ・ポーロ に分かるはずもないゆえ、細川重男氏『執権』を読んでみたのです。


それは「源氏ではないから」だと、以前はなんの疑問も持ちませんでした。そして、「ならなかった」のではなく「なれなかった」、つまり、「前北条家は将軍になりたかったけれど、源氏ではないのでなれなかった」と思っていました。

しかしある時、フト、あにゃ?源氏でなくても、親王さんやお公家さんも将軍になっているよね?ということに気が付きました。
今更ながらで…(^^;

坂東の戦国時代を調べるだけでも目いっぱい。イカン、イカン、これ以上興味の幅を広げては…とそれ以上は追及していなかったのですが、再来年(順調にいけば)の大河が義時殿と聞いて、がっくり気落ちしながらもチト気になったのです。


本では鎌倉北条のことを、「何の正当性もない極悪の政権・悪の一族がこれほどの長期間支配を存続することが可能なのであろうか…」と細川先生らしい書きようでしたが(どひゃ~💦)、「だとすれば、北条氏にも、その支配の正当性を支える論理が存在したのではないか…」と続きました。

じゃあ、それって何なのだろう?その論理で、あの長~~い年月、権力を維持していたのだろうか?


本は、二人の執権(得宗)、そして、私感ながら一人の将軍を中心に、「北条氏はなぜ将軍にならなかったのか」の答えに向かって進みます。

その二人とは、小四郎こと北条義時&時宗。一人の将軍とは、源氏賜姓をうけた7代惟康親王。北条時宗の時代の将軍です。


「この本は北条氏という「一族の物語」ではなく、「一族の物語」の底を流れる「基調低音」を書くことが目的」だそうです。

うーん、難ちい…。
浅い知識と働きの悪い脳の マリコ・ポーロ には、悲しいかな底を流れる基調低音はくみ取ることが出来ませんでした。

しかし、とても面白かったです。あっという間に読んでしまいました~ ♪(←じっくり読まないから基調低音が聞こえないんだ!)


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~能登国では佐殿の愛馬「池月」は能登町宇向田牧山の産とする。能登町鳥屋酒造さんの銘酒「池月」。器は福島相馬焼。自粛中、マリコ・ポーロは飲んでばかりいるんだろうって?チビットしか飲んでおりませぬ。免疫力が落ちるゆえ。~


話を戻し、それでは…

▲ 鎌倉将軍として必要だったものは

「清和源氏であることは、まったく意味をなさない。」(やっぱりそうだったのね。)

「必要だったのは、清和源氏であることではなく、頼朝の後継者であることではなかったろうか。」

「神格化した頼朝の後継者であることが、武家政権の首長たる将軍にとって必要な資格であったのではないか」


つまりは、鎌倉将軍には神格化されたものが必要で、頼朝の血筋の者なら後継者になりうるけれど、頼朝の血も引かないそのへんの武家(前北条)では将軍としての資格がないということですか?


それを「具現化した者こそ」、上に書いた、時宗の時代に源氏賜姓された七代将軍惟康なのだそうです。


しかし、頼朝の血を引かない前北条側からしたら…

▲ 北条氏がそのような将軍にならなかったのは

「…神聖化した将軍の下で得宗が将軍権力を代行するという政治体制(「得宗専制政治」)は、鎌倉幕府の歴史と伝統に基づく正当性、すなわち権威を持っていたのであり、……将軍を時宗が推戴し続けた理由も、この論理にあったのである。」


北条氏得宗は鎌倉将軍の「御後見」なのであり、自ら将軍になる必要もなく、また、なりたくもなかったのである。


ふう~、難しいことを書くことに挑戦してしまった~。
まとまりのない感想文をここまで読んでくださってありがとうござりまする。

マリコ・ポーロ が書いたことでは細川氏のおっしゃる「基調低音」が伝わらないと存じます。『執権』をお読みになってくださいませ。


毎週何かしら思い付いたことを書くぞ!と張り切ったのですが初めて調べることが多く、一週間「太平記漬け」になってしまう。時々、にしようと思います。
(^^;
次は「楠木登場」ですね!


✒ 参考にさせていただいている本など(順不同)

・我らが「旧・八王子城を守る会」会長だった峰岸純夫先生『足利尊氏と直義』
・下野新聞社編集局『下野国が生んだ足利氏』
・森茂暁氏『足利尊氏』
・日本史史料研究会/平野明夫氏編『室町幕府全将軍・管領列伝』
・田中奈保氏講演とレジュメ「鎌倉公方御所の所在について」
・細川重男氏『鎌倉幕府の滅亡』『執権』
・亀田俊和氏『南朝の真実』
・永井晋氏『北条高時と金沢貞顕』


▲今までの関連ブログ記事の一部です。暇で暇でどうしようもない時にでもご覧いただければいと嬉し。

「①大河「太平記 父と子」と、北条高時のこと」
「②大河「太平記 芽生え」と、足利尊氏の鎌倉屋敷はどこにあったのか?」
「③大河「太平記~風雲児」と、尊氏の早世した兄&討たれた長男竹若丸」

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
「講演会「鑁阿寺と足利氏」金沢文庫にて」

「氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」」

「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」
「前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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