会津の言い分 その1
輪島塗にイニシエーションをうけた?マリコ・ポーロは、塗物に関しても妄想と偏見がある。最近、「会津復古会」の塗師屋の方のお話しを伺う機会があった。今回は、漆器に関しての、「会津の言い分」を。
もちろん、会津の旅と歴史のルポも聞いてくだされませ。
~ある塗師屋が復活させた、藩政時代の会津絵がほどこされた三段重。ボケボケですみまぬが、諸事情によりわざとボカシました。~
会津へは何回も行っている。でも、輪島塗に洗脳されているので会津塗に対して(特に最近の)ある先入観があり、きちんと見ていなかった。
このお重も「会津塗」として気が付いたのではない。その不思議な意匠に、「ん?この塗物はなんだ?」と目がとまったのである。そうしたら、それが会津塗りだった。
その塗師屋さんに伺ったところ、私が不思議と思った意匠は、藩主である会津公を「神」として中心に据えたものであるとのこと。
会津藩はご存知のように、幕末の戊辰戦争で滅びた。城を枕に、というか、城下全体を枕に、藩士の老若男女 戦い全滅した。
会津藩最後の藩主、松平容保(かたもり)公は、その時まだ20代。お体が弱かったとのことだが、お写真を拝見すると、綺麗なお顔だが、太くきりりと上がった眉が負けん気が強そうだなあと感じさせる。
(2013.1.6 加筆修正 会津藩最後の当主は容保公ではなく‘喜徳’殿とのご指摘をいただきました。水戸徳川からの養子のようです。修正させていただきます。ありがとうございます。)
容保公は、時の帝、孝明天皇をとても崇拝してらっしゃった。帝も、容保公をとても頼りに親しく思われてらした。帝が容保公に当てたお手紙が現存していて、複写なら私達も拝見することができる。現物は日本銀行に保管されているとのこと。
容保公は、このお手紙を筒にいれ、亡くなるまで、文字通り肌身離さず首からさげてらした。お風呂にお入りになる時だけはずして、脱いだ衣の上に置いた。
しかし、動乱の時代は、お二人を、美しい情緒的な関係でいさせてはくれなかったのだ。
会津藩は、官軍が徳川幕府を倒すための徳川方のシンボルのように標的にされ、コテンパンにやっつけられたのである。会津藩は新政府軍により逆賊とさせられた。
私は、両祖父の時代まで、片や荘内藩士、片や越後→伊達桑折、の在だったので東北にはDNAが騒ぐものがある。(でもですね、戊辰の時、会津藩は藩士のみで戦い、荘内藩は農民・町民こぞって戦った。これは藩の特質をあらわしていて興味深いと思った。)
それと、実は、私のヒーローは中学生のときから土方歳三さんなので・・。でも、土方さんは宇都宮でケガをしちゃって、清水旅館(東山温泉という地元の説あり)で療養してたので、あまり会津では活躍していないらしい。
というか、会津から新選組は追い出された。「この戦は会津藩のこと。会津藩士だけでやる」みたいなことで。しかし、斉藤一は会津に残って一生暮らしたな。彼は、やっぱりホントは会津藩士だったのかしら?
土方さんは、近藤勇が死んで、北に向かったころからが、すこぶる魅力的だ。
と、話がズレそうなので戻します。
会津を話し出すとどうしようもなく長くなりそうなので、非常にハショる。四百年前から、いや、百年ほど前の幕末~現代までのエピソードを思いつくまま、ほんの少々。
▲ 会津魂の元をつくったのは、初代藩主、保科正之(ほしなまさゆき)である。保科さんも切ない方で、これを話し出すと長くなるし、どこにでも載っているので、興味のある方は自らお調べくだされ。
▲ 会津は、幕末の戊辰戦争時、上杉の米沢藩が先に降伏したことを長く恨んでいたらしい。会津と米沢の市長さんが仲直りの握手をしていたのを、前にテレビで見ました。でも、許してあげて。上杉は越後へ戻りたかったのよ。
~什の掟だっ!「ならぬことはならぬものです」~
▲ 会津は、今でも、藩政時代の「什の掟」を小さい頃から教えられる。この「什の掟」は、街中のいたるところで見かけます。
▲ 会津では、江戸時代、藩士の子は毎日藩校から家へ戻ると、まず切腹の練習をしたそうだ。
▲ 時は、明治。戊辰戦争の英雄 菅野権兵衛が一子、郡長正さん弱冠16歳の、「恥を知る」という精神のもとになされた明治の切腹。
この話も長すぎてしまうので割愛するが、天寧寺(近藤勇のお墓もある)で、この青年のお墓にある碑文を読んだ。今の時代に照らし合わせて考えてはいけないと思いながらも、私は絶句した。長正さんがもった壮絶な会津魂。
それより衝撃的なのは、その母上、会津の女の壮絶な厳しさ。皆さんも是非、調べてみてください。
▲ 会津は、今でも、街中のいたるところで、戊辰戦争時に砲撃されてボロボロになった鶴ヶ城の写真を見かける。私が必ず行くお蕎麦屋さんなどは、片側の壁一面がドアップのその鶴ヶ城の画像でできている。
などなどなど・・・
どれを考えても、ちょっと特殊で辛い。
~会津藩校「日新館」。私は江戸時代の藩校のピキッとした雰囲気が好きです。~
また、私が会津へ行くと必ずよせてもらう居酒屋の大将。「もともと会津の方ですか?」と聞いたら、「ハイ。四百石いただいてました。」って。誰が?でしょ。
その女将に、「女将さんは会津の女ですか?」と問うと、「白虎隊の○○の家の者です」!!!上の写真の日新館には、女将のご実家の白虎隊○○クンもモデルで登場していた。
また、塗師屋のマダムは、戊辰戦争の後、おうちに長州藩が滞留していて柱に刀傷なんかつけられたりしたのを、悔しそうに!話してらした。
こんな会話は、会津中どこへ行っても当たり前。歴史好きの観光客へのリップサービスもあろうが、本気は本気だ。
かつて、会津の伊東正義が総裁候補になったとき、「これでやっと逆賊の汚名が晴らせる」と、会津人達がインタビューに答えているのをニュースで見たことがある。
つい最近、朝日新聞で始まった「お殿様は今シリーズ」の初回は会津のお殿様だった。
ある番組で、会津藩をオチャラケた風に言われ、藩士達は・・・違う、市民達は激怒した。会津魂が炸裂し、テレビ局に猛攻撃をしかけた。局は降伏した。という記事だった(マリコ・ポーロ少々脚色)。
会津の幕末はまだ終わってない。幕末の会津藩だけではないが、時代の流れで敗者となり、はからずも逆賊の汚名をきせられたしまった人達の思いは、かくも深いのかもしれないと思った。。
なんだか、重く濃い話になってしまったか。でも、それほど会津は魅力的ということです。
江戸時代のお城は昭和の再建なのに美しいし、食べ物、特にお蕎麦は美味しいし、お酒も、小さい造り酒屋さんがたくさんあり美味しいし(お蕎麦とお酒は次回)。
史跡も、蘆名・伊達政宗・蒲生氏郷・上杉・保科・幕末・新選組 etc.etc. と大量。一本桜の銘木もアチコチにあるし、そして名湯 東山温泉。紹介しつくせまへん。
漆器についての「会津の言い分」を書きたかったのに。また話が長くなってしもうた。では、それは次回「その2」へ続く・・・。
ちょっと予告。伝統工芸の方達にとって、会津は、松平容保公の「会津藩」ではないらしい。だんぜん、蒲生レオ氏郷。レオ様は、四百年前の当主である。
ほな。。
コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。いただいたコメントにはお返事させていただいております。
画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。
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