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2009年10月31日 (土)

八王子城その1「北条氏照 夢と覚悟の城」

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~「戦国の終わりを告げた城」 椚国男著~


八王子城は、われらが殿、北条軍団軍団長の北条氏照の居城だ。標高約460.5m。関東の戦国時代最大級の山城である。


上の写真の本は、この時代を書かれた本の後述参考文献によく記されているのでご存知の方も多いと思う。表紙は、復元される前、発掘直後の大手の石段の写真。発掘されるまでは全て土に埋もれていた。そこかしこに城兵達の魂が残っていそうな、深く美しい写真である。


八王子城に半生以上をささげてらっしゃる椚先生は、「八王子城とオオタカを守る会」の顧問もしてらっしゃる。椚先生のご専門は古墳時代だが、八王子城に関しては発掘調査の当初からたずさわってらっしゃるので、このご本の内容には非常に説得力がある。

専門的な箇所ももちろんあるが、椚先生達が、道なき道を登り、ヤブの中をかき分けかき分けしながら次から次へと遺構を発見してゆくところは、とてもドラマチックで、その時の興奮が読んでいるこちらまで伝わってきてワクワクする。


保存運動にかかわる人達の、そのひとつの史跡に対する想いや使命感や実行力とはこれほどのものなのかと思う。この方達の努力と戦いがあってこそ、今の私達歴史ファンは八王子城で妄想に浸れるのだね。

椚先生の奥方様は、古世古(こせこ)和子さんとおっしゃる児童文学者で、著作には、やはり八王子城落城を題材にした「赤いくし(櫛)」「ゆうれいからのラブコール」などがある。


八王子城の霊性

東京、高尾。まわりは、天皇家の武蔵野御陵はじめ霊園だらけ。松本清張の小説「黒い空」に雰囲気がよく表現されているので(当たり前だ清張だぞ)、ぜひ読んでみてくだされ。


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~JR駅ホームからは氏照のホームタウンが一望。向こうにかすむ台形の山が八王子城。~


このあたりは昔から霊性が強い所らしく、平安時代の始め頃、時の帝から「華厳菩薩」の名を賜った妙行上人という高僧が修行の場としたり(これも不思議な話なので追々)、隣の高尾山と並ぶ修験道の場として、山伏達が横行したりした。

同メンバーの Y 殿の、漢文学者であったお父上の蔵書にある、昭和三年に発行された逸見敏刀著「多摩御陵の周囲」に、ここらへんの興味深いお話がたくさん書かれている。


北条氏照という方

ブログの当初からさんざん登場しているので、「あい分かった。もう、みなまで言うな」かもしれない。ま、一言で表すなら、「カッコイイ漢(おとこ)」である。歴史ファンのおなごもだが、おのこ達に非常に人気がある。(東海地方より西南の方々にはあまり馴染みがないかなあ・・。)

姿形はどうだったんだろう(すみませぬ。わらわは女子なので)。幸か不幸か肖像画は残っていない。北条一族なので、むくつけきマッチョな強面(こわもて)風ではないと思いますが。


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~復元されたベネチアンレースグラスの壺~


落城炎上した八王子城は、徳川幕府が政治的理由から、「たたりがあるど~」と禁足地としたため、当時まだ珍しいベネチアンレースグラスや景徳鎮や青磁・青瑠璃などの典雅なお宝・・・の破片(焼けコゲ付き)が、いまだにザックザックと出土している。今年は、江戸東京博物館や八王子資料館などで展示もしていた。

強いだけでなく、趣味人としての氏照が想像されるでしょ。


築城 と 落城

それまで氏照どのは、少し離れた滝山城が本拠地だった。
武田に攻められれた時ホントに危なかったので、より強固な城を造らねば(←諸説あり)と八王子権現のある修験道の山、深沢山に目をつけた。


「山ひとつ城にする!」
火天の城での信長のセリフ

氏照もそう言ったかどうかは分からぬが、つまり、そういうことをすることにした。
しかも氏照どの、山ひとつ どころではない。外郭も含めて、山ふたつ、みっつ、である。

現代だったら「環境破壊だ」と大騒ぎ。さしずめ、「八王子城とオオタカを守る会」の方々などは、「木 切るなーっ」「八王子神社の遺構をいじるなーっ」「山削るなーっ!オオタカ来なくなるだろーっ」と、大反対署名運動だ。


でも、そんな運動は照どの、ものともせず考えた(たぶん)。
今度の城は、鉄壁の防御を誇る今までの北条流の城に、新しい要素を加えたものにしてやろうと。

それは、天下に自分達の威容を示すための城であり、外交の城であり、そして、イザという時は、当主はじめ本城機能を移せる城。世にいわれる「北条氏照の副都心構想」である。


家臣が見てきた信長の安土城をチビッと参考に、信長くんが派遣してくれた穴太の石積み集団を使い、石をふんだんに使った城を築き始めたのであります。

築城とは、単にお城を造るだけではない。家臣団の居住地をはじめ城下町も形成していかなければならない。八王子は、もともと町がひらけていたらしいが、それにしてもどれだけの人たちが、この一大プロジェクトにかかわったのだろう。


しかし・・・

八王子城は、わずか3年、未完成のまま落城をむかえた。奇しくも安土城と同じだ。

落城とは、戦い亡くなった城兵達の思いだけではなく、城を造るのにたずさわった人達の思いも・・・落ちる。私達は、城跡を見る時、つい、城をプロデュースした城主にばかり目がいってしまうが、造った人達の命をかけた苦労にも想いを馳せたいと思うのだよ。


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~標高439mから関八州を見晴るかす。相模の海も小田原城も、はるか筑波山まで見える。全て、北条の領地だ。たった3年しか見ることはなかった景色。~


八王子城が攻められた時、氏照どのは小田原にいた。総軍団長だから仕方ないわね。(重病で小田原から出られなかった、との説もある。)

城をまかされた重臣達は、それこそ必死で戦っただろう。だが、城は落ちた。小田原でこれを聞いた氏照どのは、床をたたいて号泣したとも伝えられているが、

照殿ぉ~、なんで、八王子城にいなかったのよ~。
まさか、捨て城にしたのではないですよね。家康の伏見城みたいに。


よく、「八王子城は、たった一日で落ちた」と言われる。
しかしそれは、「たった」一日」?だろうか。いろいろ交渉の余地ありで、緩急つけながら長期戦に持ち込む戦なら別だが、八王子城は、秀吉がはじめから「武力で一気に落とす」ことに決めていた。だから、前田・上杉・真田など、最強グループ総がかりの大軍に攻められた。前田利家や榊原康政の手紙にも、八王子城を落とすのは難義だった旨のことが書かれている。

城主不在、女子供・老人・農民が多かった城は、「たった一日で落ちた」のではなく、「一日かけて、やっと落ちた」 だと思うな、マリコ・ポーロは。


今年(2009年)の落城忌は8月13日(旧暦6月23日)だった。御主殿の滝下で飲んでいた遅い午後、守る会のメンバー S 殿が、ふと、

「そろそろ終わるな・・・」 

その一言が印象的だった。 
献杯・・・


八王子城を話しだすとやめられないとまらない。


ほな、次回は、ゆうれいからラブコールされた「八王子城とオオタカを守る会」のメンズ方が案内(あない)してくださった城域をご紹介いたす。

ほな。


コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。

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