« 北条氏照と、八王子城の神や仏 その2 | トップページ | 琵琶島など「②北条氏照の悩める存在 上杉謙信と景虎さん」 »

2009年12月23日 (水)

北条氏照の悩める存在‘上杉謙信’と、景虎さん

(加筆
最新の研究をよく知らない頃に書いております。そこのところお含みおきのうえご覧くださると助かりまする~。また、10年後の 2019.11 の乃至政彦による講演の内容です。よろしくば是非こちらを →講演 「上杉三郎景虎 勝つための戦略」乃至政彦氏(2019.11)


北条氏照は、北条軍団の軍団長として戦ばかりしていたのではありません。他国との外交政策においてもかなりの主導権をにぎっていたようです。‘武の戦’と‘文の戦’、両方を請け負っていたのですね。


038
~ 2008年2月 鮫ヶ尾城。ご存知、氏照どのの弟君 上杉景虎がその命を終えた城 ~


と、カタストロフィーを感じている場合ではありません。鮫ヶ尾城のコンセプトはとてもストロングです。城域も広大。念のためですが、ここは景虎さんの城ではありませぬ。


上杉謙信は、子供の頃に大河ドラマ 「天と地と」を見て以来(年齢がバレるのう)、私にとって別格の存在です。どうやら、‘上杉家’というより‘上杉謙信公’が好きみたい。なので、直江津へは、ピュリファイ(浄化)されたい時よく行きます。戦国時代好きには、「大好きな武将はいろいろいるけど上杉謙信は別格本山」 という方がけっこう多いのではないでしょうか。

上杉謙信については皆様じゅうじゅうご存知なので、すぐ本題へ。


北条は上杉と同盟を結びますね。氏照どのの弟君 景虎さんが証人(人質)として越後へ行かされたあの同盟です。これが、北条得意の「養子送り込み作戦」でもあったとしたら、相手がちょっと難し過ぎました。だいいち遠くて不便だし?


北条氏照どのが、直江パパ(兼続の舅)に宛てたお手紙の原本が、最近出てきました。この越相同盟を結ぶための交渉にあたったのは、氏照どのです。北条は、武田信玄に対する構えを強固にしたかった。上杉も、箕輪城を信玄がゲットしたりして、両者の利害関係はこの時だけ!一致したのですね。

氏照どのの書状には、「重ねて、使者(僧)を使わす・・」とか「当主の誓詞も渡すゆえ、疑うことなく、早く関東に出兵してきてくんなまし・・」みたいなことが書かれているので、北条の方が積極的に持ちかけた話なのでしょう。(氏照と氏邦の動きが重なるところが気になるところですが…ゴニョ)


この原本が公開された時、「八王子城とオオタカを守る会」の会長でもある峰岸先生の講義を拝聴しました。先生は、「越相同盟が結ばれたと知った関東の多くの人は、えっ、そう!?と驚いたでしょうね」

って


Image_20191202124701
~ 氏照文書の原本のコピーのコピーを広げて読んでたら、姫が、のっかっちゃって、どいてくれないんだもの。~


越相同盟の証人(人質)として越後に送られた(贈られた)景虎さん。武張った越後に舞い降りた一羽の鶴。案の定、謙信公は景虎さんを大層お気に召し、姪を娶らせ一族に加えます。

景勝殿のまわりの者達は気に入らなかったでしょうねえ。景虎さん、越後の言葉は話さなかったでしょうし、お屋形様のご寵愛をかさにきた、気取った鼻持ちならないヤツ、みたいに思ったかもしれません。


越後側からも北条に証人が送られています。謙信殿不在時の春日山城責任者である柿崎晴家殿。この人は、後に送り返され、御館の乱の時は景虎さん側に付きますが、すぐ景勝殿側に殺されています。

人質として北条にしばらくいたので、その意向をうけた人間と思われたからでしょうか。柿崎家は、謙信公の信頼厚い重臣だったのにね。あ、だからか(←意味深~)。


考えようによっては上杉謙信も罪な人だ。あちこちに思わせぶりです。

だいたい、謙信公が関東管領をうけたことが、関東の形勢をよりややこしくしたんですよ。関東管領が山の向こうにいて関東にいないんだもの。来ちゃあ帰り、帰っちゃあ来る。そのたびに関東のプチ武将達は、あっちへついたり、こっちへついたり。


その越相同盟も、効力を発揮しないまま解消されてしまいましたね。謙信くんったら援軍よこしてくれなかったし。それなら、景虎さん返してちょ。

それに、謙信くんも謙信くんですよ。戦国大名家なのに子供を作らないなら、跡目についてきちんと決めておくべきでしたよ。酒好きなんですからね。(私、謙信くん好きですよ。ほんと。)


まあ、遺言があろうがなかろうが、この乱はおこっただろうと思いますが。

 

031

鮫ヶ尾城から発掘された、落城炎上時に蒸し焼きにされた炭化オニギリ。県立博物館で公開されてたのを撮ってしまった。精米された白米ですって。さすが米どころ。

って、当時も越後は米どころかどうか知らないですが、越後に限らず炎上した城跡からはよく炭化した米粒が出ますね。鮫ヶ尾城も八王子城も今でも私達でも見つけられます。持って帰っちゃだめよ。国史跡ですから。


景虎さんは、御館にこもったりしないで、さっさと頭を丸めてしまえばよかったんですよ。でも、それは出来なかったのかしら。北条の越後侵攻の最前線とさせられていたのかしらね。

もしかしたら、御館に移ったのは身を引いたからかもしれません。御館って、行くと分かりますが、およそ戦うにしても籠もるにしてもまったく適していません。春日山城の真下だし、真平ら(まったいら)だし。いや、そんなわけないか。援軍を早くよこせとお手紙かいていますもんね。


それに、たとえ身を引いたんだとしても、兼続くん達はそうさせるわけにはいかなかったでしょう。だって、謙信公亡き後の越後をゲットしたい反上田衆や北条や織田にとって、景虎さんの存在は利用価値がありすぎる。

北条は、氏照・氏邦兄弟を援軍として送りましたが、結局は雪に阻まれて行き着けませなんだ。


景虎さん、越相同盟が崩れた時、‘もし IF’ 北条へ戻っていたら、北条最後の時を小田原城で一族と共に向えられたのでしょうか。

以前、初冬のある日、出張帰りにピュリファイされたくて?直江津で途中下車したことがあります。だれもいない御館跡に立ってそんなことを考えていると、花も葉もない木々が何本があるのに気がつきました。


「あ~、桜の若木か・・」と思ったとたん、なぜか涙が出た。

 

134
~直江津の夜明け~

夜陰、春日山から御館へ逃れてきて、景虎さんはどんな思いでこの朝焼けをみたのか・・・。


今回は、「氏照どのと謙信公の越相同盟」の話にしたかったのに、書き進むうちに景虎さんへ気持ちがいってしまいました。景虎さんへはそんなに思い入れはないのだけれど、「北条の子」ですし、わらわ判官びいきなので。


次回は、謙信公の越後と、美味しいお酒やお祭りなど。
ほな。


拙書「妄想と偏見の城跡見聞録」2008年9月より抜粋。 コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

|

« 北条氏照と、八王子城の神や仏 その2 | トップページ | 琵琶島など「②北条氏照の悩める存在 上杉謙信と景虎さん」 »

4.その他の後北条ゆかりの地」カテゴリの記事

6.小田原北条以外の歴史のこと」カテゴリの記事

0.八王子城と北条氏照」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 北条氏照と、八王子城の神や仏 その2 | トップページ | 琵琶島など「②北条氏照の悩める存在 上杉謙信と景虎さん」 »