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2009年12月19日 (土)

北条氏照と、八王子城の神や仏 その2

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~華厳菩薩の墓。欠けてはいるが、すばらしい宝篋印塔である。このあたりの気配は、ただものではなく、特にもっと奥へは軽い気持ちで足を踏み入れてはいけない雰囲気だ~


八王子城の山は、「深沢山」といいます。山城はたいがい、その山の名をとって「○○城」とすることが多いのですが、北条氏照はこの城の名を「深沢山城」とはせず、華厳菩薩と牛頭天王と8人の王子の、「八王子城」としました。

氏照どのが城の名に「八王子」を冠したのは、御殿場に北条がゲットした深沢城というのが、もっと古くからあったので紛らわしいということもあるかもしれませんが、やはり、華厳菩薩(けごんぼさつ)と牛頭天王(ごずてんのう)と8人の王子のパワーとご加護が欲しかったこともあったのだと思います


華厳菩薩と牛頭天王と8人の王子という方達

話は、千年以上前にさかのぼります。

「妙行 みょうこう」という、偉~いお坊さんが、京都からこの地にやってきました(妙行がなぜこの地を選んだのかはわかりまへん)。


妙行上人が深沢山の山中で日々修行に励んでいると、8人の王子を従えた牛頭天王(ごずてんのう)が現れ、

「そちの得にいたく感服しだぞえ。どこにもいかないで、この地にとどまるのじゃ~」

とおっしゃり、ドロンと消えたそうです。


それで妙行上人は、この地にとどまることにし、近隣の峰々には8人の王子をお祀りし、深沢山の麓にはお寺を、お建てになりました。

これが、八王子神社と宗閑寺の元となりました。妙行上人は、時の天皇陛下より「華厳菩薩 けごんぼさつ」という名を賜るほどの得の深~いお坊さんとなったのだったとさ。


時代はググッと下がり 600年ほど後。北条氏照どのがここに城を築く時に、お城の守護として山腹にこの8人の王子を「八王子神社」としてお祀りしたのです。

ちなみに、王子といってもプリンスではありませんよ。非常に簡単に例えると、眷属(けんぞく)、従者です。薬師如来の眷属が十二神将、釈迦如来の眷属が阿修羅を含めた八部衆、みたいな立場・・という言い方で、いいのかな?熊野へ行くと、‘王子’って、京都から熊野神社へお参りする途中の要所要所にある、ポイントみたいになってますね。


宗関寺

バス停から八王子城主郭へ向かう現代の道(400年前の道については前のブログでいろいろご覧くだされ)の途中に、「宗関寺」という氏照どのの菩提寺があります。開山は、「その1」でご紹介した、これもまた氏照どのの師、心源院の卜山禅師(ぼくざんぜんじ)です。

師は、氏照どのの城の大手と搦手の両方を守っていたのね。

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~旧宗関寺跡にある氏照どののお墓。落城忌の時に‘思い’をお話しされる椚先生と峰岸先生。~


卜山禅師(ぼくざん ぜんじ) という方

多摩 最大の偉人!といわれているそうです。

特に名家とか武門の出ではなく、熱心に修行に励み、氏康パパや氏照どのの絶大な信頼を得たようです。寺伝によると、なんと江戸時代まで、120歳位まで、ご存命だったって


先のブログでふれた、武田のマドンナ松姫を得度(出家へのお導き)させ、マドンナの終の棲家となった信松院を開山したのも、卜山禅師です。

禅師は、時の天皇陛下から紫衣(しえ)を賜るほどの偉~いお坊さんです。


さて、
「華厳菩薩 妙行」と「卜山禅師」が、頭の中でゴシャゴシャになっちまいましたか?お二人の生きた時代の間には、600年の時が流れていますぞ。

もっと詳しく知りたい方は、市のものを含めたくさん書かれたものがあります。ここで書き始めると長くなるし、私なんぞが書くよりそちらをご覧いただいたほうが、よほど深いかと存じまする。


寵臣 横地監物(よこち けんもつ)殿

華厳菩薩 妙行が建てた宗関寺は、かつては氏照どののお墓のあるあたりにありました。ちょっと離れた今の場所に移ったのは明治時代からです。移った先は、氏照どのの時代に、照どのの大層お気に入りの重臣 横地監物殿のお屋敷があったところでした。

江戸時代の軍記物に書かれたせいで、横地殿は、最後の時、逃げたのなんのといわれていますが、実はそうじゃない!若君(氏政アニキからの養子)を守って小田原に行こうとしたのだ!とも言われています。これは、今回の主題からはずれるので、いずれまた。

宗関寺まわりには、横地殿のオウチの土塁が、今でもずずず~っと長い範囲で残っています。

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~八王子城中腹の八王子神社の脇にある、横地監物を祀る「横地社」。~


重臣 中山勘解由(なかやま かげゆ)殿

八王子の氏照どののお墓は、江戸時代にはいってから、旧家臣の子孫 中山殿が建てました。

中山殿は、横地殿と同じく最後の時に城を守って戦い討ち死にしました。その中山勘解由殿のお墓を、照どののお墓の隣に並べて建ててらっしゃいます。

この中山家は、これもまた徳川家に召抱えられ、徳川将軍家の八条流馬術の継承者となり、子孫は水戸家の家老ともなりました。


八王子城は、主郭に行く途中の宗関寺や、これら家臣団の屋敷跡があるあたりも見ごたえがあり面白いのです。車やタクシーで管理棟へ乗り付けないで、現代の道でよいので、このあたりを歩きながら登城すると、いやが上にも気分は盛り上がります。

気をつけて見ると、現代の道(当時この道はありません)の左右の中腹には当時の「上の道」と「下の道」の名残が分かります。16世紀へ意識をもっていくマインドコントロールへの手助けになりますよ。ならんでエエですか。


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~侍医 西川信濃守の屋敷跡。(ここは個人のお宅なので入れませぬ。)~


ちょっと一言

八王子城のことを調べると必ず、「城に残った老臣達は・・」とか「老臣ばかりで戦った・・」とか、老臣老臣と出てきますね。

ですけどねっ
老臣ってったって、まだ50代前後よ。そりゃあ、昔は15-6で子供が出来、女性は30歳過ぎたら、お褥下がり(←興味がある人は自ら調べてちょ)。プラス20才位で考えろといわれているにしたって、120歳まで生きる人もいるのですからねえ。


50前後といえば、まあ、名が知れている方でいえば、真田広之さんとか村上弘明さんとか原監督とか、あっ!マイケル・ジャクソンですよ。まだまだイケてると思いませぬか。最前線で戦う一軍選手としではありませんよ。指揮官としてです。

ちょっと力(りき)がはいってしまった・・・いろんな意味で。ま、いいか。ただ、ヨレヨレのご老体(差別用語?)を想像してほしゅうなくての。


でもねえ。その指揮される当の現役精鋭達は、ほとんど氏照どのが小田原城に連れてっちゃったそうですからねえ。

なんでかしら。ここを「捨て城」としてしまったのか。家康の伏見城みたいに。それとも、ここが決戦の場となると思わなかったのか。決戦の場は小田原だと踏んだのかな。北条軍団軍団長だったから全軍を指揮せねばならず仕方なかったのかな・・・。


と、また先の記事「北条氏照の葛藤」に戻っちゃうので、このへんで。

ほな、また。


コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は、マリコ・ポーロが撮影したものです。
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