初詣1 古都鎌倉は前北条か後北条か
このイチョウの樹齢は800年とも千年とも聞きますが、800年だと実朝暗殺の時は樹齢10歳位??公暁、いくら細身でも隠れられない。やはり二代目説をとりますか。それとも本当に樹齢千年?!
「古都 鎌倉」 と聞くと、川端康成、立原正秋、永井龍男、太宰治、夏目漱石、などなどの文豪達がつくった、アカデミックで優雅な古都というイメージが浮かびます。
が、しかし、鎌倉は、京都のような「公家が連綿と継承してきた古都」ではありません。源頼朝が、というか頼朝の妻 北条政子の実家である前北条家が築き上げてきた、「武の古都」です。 いわずと知れた 鎌倉鶴岡八幡宮は、みなまで言うな
、関東の武家政権の要にてござります。ご存知、上杉謙信の関東管領就任式は、歴史好きにとってはツボですよね。
我らが小田原北条の二代目 氏綱公も、里見が焼き討ちしちゃった後の再建にかなり力をいれています。
八幡宮の長官(別当)は、当時の室町将軍家の一族でした(小弓公方の一族ね)。その一族を滅ぼした後に八幡宮を再建するということは、後北条にとって、「我らが関東の武家政権のボスだぞー」っと宣言するようなものだものね。
八幡宮や北条に限らず、領地をゲットした武将にとって、その地の寺社仏閣を保護(管理)することは、とても重要なことなのです。
それにしても、小田原北条の小田原城を攻めた人が、その足で、その八幡宮で就任式を行うなんてどういうことじゃ!
かれこれ300年以上の付き合いになるわらわの友が、生まれも育ちも現住居も八幡宮の裏なので、歴史とは関係なく私しょっちゅう鎌倉へ行きます。
その度に八幡宮を通り抜ける。歴史の舞台の中を、何事もなかったかのような顔をしてスタスタと歩く時が嬉しい(分かりますかね、この気持ち)。
源氏の時代は、実朝さんが↑画像のイチョウのところで公暁くんに殺されて終わってしまいました。たった3代なり。その後、前北条家が政権をゲットし京都から親王さんやお公家さんの将軍を迎えたりもしますが、前北条が執権としてなんと16代も続いています。源氏と前北条家を合せての、鎌倉幕府でした。
まあ、頼朝も前北条家の傀儡のようなものでしたしね。だって、自分の家臣はほとんどもってない。実朝さんは前北条家に暗殺されたというウワサもありますよね。義時殿は、実朝さんと八幡宮へ行った時、途中ひとりで帰っちゃたでしょう。それがアヤシイ・・って。
いかんいかんまた長くなる。しかも、わが後北条とは全然関係ない何百年も前の話で。
しかし、‘アカデミックな鎌倉’の代表者は、この源氏の実朝さんかもしれない。この方、明治か大正に生まれて、鎌倉サロンなど開いていたらよかったのにねえ。
さて、そして、北条執権の後、足利氏が出てきて室町時代が始まり、その後半に、わが伊勢新九郎こと北条早雲公が現れるのだ。こうやってたどっていくと、日本の歴史って長い。私達のご先祖様も、たとえ歴史上に名を残していなくても、この同じ永き時をつないできたのですよねえ。
いかんいかんまた重くなる。
~両北条の紋といえば、三ツ鱗(ミツウロコ)。魚の鱗ではなく、江ノ島弁才天に由来する 大蛇、竜の鱗です。ファンタジーな家紋である。~
伊勢新九郎さんこと北条早雲の「伊勢さんち」が「北条」を名乗ったのは、関東の武家政権を代表する名前にあやかりたかったからという説が定着しています。そりゃ関東で「伊勢」は、それこそ「よそ者」的な苗字ですよね。
(その後加筆、新九郎さんの次代当主氏綱の正室が、前北条ゆかりの女人だからとも最新研究から出てきています。諸説あり。)
「北条」と名乗りだしたのは二代目 氏綱公からです。ややこしいですよね。他になかったのだろうか?
家紋も同じく三ツ鱗(ミツウロコ)。非常にシンプルでアートな図形だと思います。前北条が正三角形とか、後北条が二等辺三角形とか、いんや、主家がどっち、分家がそっちとか、いろいろ言われていますね。
この ↑ 画像は私の大好きな、鎌倉宝戒寺の門です。夏の終わり(秋の初め?)になると、萩があふれるように咲きこぼれるお寺です。宝戒寺は前北条家の屋敷跡ですよん。なので、この三ツ鱗は前北条なのですね。
小田原北条家、伊勢さんのままだったら家紋は「揚羽蝶」だったんですね。雅でしたですな。 私が好きな鎌倉ポイント ①
戦国時代とは関係ないですが、光明寺の蓮。
大賀さんが発掘された縄文時代の種から花咲いた蓮です。今では、ここ光明寺のように、日本各地に種分けされていますが、5時起きして古都鎌倉のお寺で見る蓮は、これまた、ひとつの趣向であります。
蓮を堪能して、お寺を出てくると、目の前は夏の湘南。サーファーがたーくさん。聖と俗、古代と現代が、道路一本隔ててある。これぞ人の世の習い?
この後、八幡宮の源平池の紅白の蓮を見にまわります。蓮見のハシゴ。贅沢ですな。時間とパワーさえあれば、お金はかかりまへん。時間が問題か。いや、寄る年波で問題はパワーな私。 ポイント ② 覚園寺
鎌倉で一番、ダントツ好きなお寺です。このお寺は、ただものではありません。
北条執権家から徳川家康までが帰依した、現在は真言宗のお寺です。すっばらしい境内の、すっばらしいお堂の中に、すっばらしい十二神将がおわします。案内の時間が決まっていて、勝手に入れません。お寺の方に付いて見学します。
境内の奥は、なぜか、伊勢神宮や石上神宮の太古の神社の禁足地のような不思議な雰囲気が漂っています。
あと、好きなお寺は、上にあげた宝戒寺の萩の時とか海蔵寺。紫陽花の時の成就院。同じく紫陽花の時のまんだら堂(ここは、新九郎さんが攻めた 住吉城跡 なのよ)。浄光明寺もいいな~。妙本寺も好き・・・と、きりがないですね。
それから、わらわの友人がオススメの 永福寺(ようふくじ)跡。頼朝が造った鎌倉三大寺院のひとつです。ここは、ちょっと驚く。「えっ?ここどこ?」って。復元プロジェクトがあるらしいですが、今どうなっちょるがかの。
お寺以外ですと、大谷記念美術館とか、旧華頂宮邸の荒れた(スミマセン)庭とか、金沢街道の一本裏の滑川沿いの道あたりがいいですねえ。 ポイント ③ 流鏑馬(やぶさめ)
これは、‘たまらん’ 行事です。
4月と9月に、八幡宮の境内で行われます。私は、流鏑馬(西では笠懸という)は、まったく分かりませんが、それでも、見たことを書き出したらきりがない程です。
日本中のアチコチで流鏑馬(笠懸)は行われています。しかし、以前私が働いていたところに流鏑馬をされる古武道をやっている方がいて、元同僚に、その人に聞いてもらった(ややこしい)話では、鎌倉と、関西のどこだかは、ちょっと‘格’が違うらしいのです。ですから、参陣する射手も歴戦のツワモノ揃いだそうですよ。装束も典雅な風格があります。
流鏑馬は、よくテレビのニュースなどで見る、矢を射るところではなく、その前後の儀式がより‘たまらん’のです。是非、ぜひ、一度、一日掛かりで八幡宮の「神事」流鏑馬をご覧あれかし。途中、疲れちゃったら、お茶しに行っても、まだやってます。
流鏑馬は神事なので、勝敗を競うものではないそうです。上の画像は、昨年4月に一番的を射た男(おのこ)です。あんまりカッコイイ(矢を射るところが)ので、同志に命じられて写真を撮ってしまいました。矢を射るところは、ものすごいスピードと迫力で写真なんか撮っていられません。 湘南の酒
といえば、寒川の熊澤酒造さんですね。「天青」です!
広大な酒造所には和食店もあり、ビール酵母を使ったパン屋さんもあり、楽しいです。和食店は大正時代の蔵を改装した、ステキな内装です。天青の利き比べができますよ。鎌倉からはちょっと距離ありまして茅ヶ崎で相模線に乗り換えです。同じく、後北条の氏綱公が再建に力をいれた寒川神社の近くです。 江ノ島
こちらは、後北条というより、わが殿 北条氏照どのの支配下なので、いずれ、また、重く熱く。江ノ島は美味しいものもあるよん。 コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全て同志とマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。
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