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2010年1月 3日 (日)

太田道灌と小田原北条の江戸城

マリコ・ポーロ

新年なので、日本一の城 江戸城 を。でも、戦国時代のこと

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~某企業の屋上から、かつては北条の城だった徳川の城を見下ろしてやった図。肉眼だと、眼下に200度の視界で広がる。~


江戸城というと江戸幕府・徳川将軍 が思い浮かんで、それ以前も城だったということが、ちょっとピンとこなかったりしませんか。

小田原攻めの時、石垣山のテッペンで○○しながら(←お下品なエピソード。でも家康の入封は事前に談合してたのではないの?)秀吉に言われ、徳川家康が入る前は北条の城だったのですよ。


といっても、その前は、太田道灌が築城した上杉(謙信公が養子縁組する前の)の城でした。北条が上杉からゲットしたのです。そして、もっと前は、その名も‘江戸さん’の城だったとか‘秩父さん’の城だったとかいわれています。


なんで、こんな平地のど真ん中に

江戸は、かつては湿地帯でしたでしょう。江戸城は、そこに張り出した、戦国時代まではよくあるロケーションの城です。海や川や山(神田の山)に囲まれた、いわゆる「天然の要害」っつうやつです。


江戸湾は当時から埋め立てをし続けて現代に至ります。私なぞが子供の頃に比べると、東京湾はとても狭くなりました。子供の頃は、房総半島がもっとずっと向こうに見えたのです。子供で小さかったからじゃないですよ。本当に。

上にも書きましたが、江戸城は、関東管領 上杉さん時代に家老の太田道灌が築城しました。もちろん今みたいな壮大な石垣の城ではありません。土塁の城です。


家康は、将軍になってから、大名となった日本中のかつての戦国武将達に江戸城普請を命じます。もちろん、各家の持ち出しで。どのあたりを、どの家が担当したかはいろんな資料にのっていますが、面白いですよ。


太田道灌のこと


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~江戸東京博物館の太田道灌(おおた どうかん)殿。これより、日暮里駅前広場にある鷹狩りの時の騎馬像の方が断然カッコイイですが。~


太田道灌は、城を建てるのはもちろん、武将としても負け知らずの天下無敵。それも頭脳戦というようなもので、非常に優秀な文武両道な武将だったらしく、その才を恐れた上司 上杉さんによって、勢力争いのどさくさに紛らわして暗殺されたともいわれています。

その隙をついたのが、我らが北条早雲こと伊勢宗瑞こと新九郎さんでした。道灌がいなくなったことによって、北条の関東制覇がなったといっても過言ではない!かもでしょう。


太田道灌殿と新九郎さん、会ってますよね。確たる実証はありませんが、たぶん、今川の跡目争い騒動の時。

宗瑞の年齢については諸説ありますが、今では、今まで伝わっている年齢より20歳は若いのが決定のようですね。とすると、道灌殿は戦国武将としては新九郎さんより随分と先輩です。


この二人の会談は、私は、とてもドラマチックなことだったと思うのです。なんとうか、こう…新旧戦国時代の対面バトンタッチのような感じがします。


これを書いていて思い出したことがあります。


大昔、私の奉公先が間借りしていた新宿住友ビルの広場に、「玉ちゃん」なる猫の大きな像がありました。その、玉ちゃんが手に(前足に)持っている玉を、女性はナデナデすると幸せになれるといわれており、皆、ナデナデしていました。オジサマ達も酔っ払うとナデナデしておった。

オジたちも幸せになれたのだろうか?

そこには、「太田道灌が何かの戦さの折、このあたりで夜道に迷った。すると、どこからともなく玉ちゃんが現れ道案内をしてくれ、結果、その戦さに勝利した」ようなことが書いてあったと思います。


よく知られている、「蓑(みの)がないことを、山吹を差しだすことで伝えた娘の話」もですが、この玉ちゃんの話も江戸時代に広がったお話だそうです。太田道灌は現代の東京人もですが、江戸時代の江戸人にも人気があったのですね。

戦前(第二次世界大戦)までの少年少女達は学校で太田道灌の話を習ったそうです。国は、太田道灌の「何」を子供達に教えたかったのでしょうか? 我が家では、両親共に、「何を教えたかったか分からんが、山吹に実はならない、ってことは、それで知った」と言っちょります。






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~富士見櫓~

太田道灌が建てた‘静勝軒だったとか、いや’含雪斎だったとかいう亭があった場所、といわれています。櫓の向こう側はお堀。東京駅から歩いてくると、お堀に面して見える、あの櫓です。


最後に、太田道灌殿の辞世の句を

きのうまで
莫妄想 (まくもうそう) を入れおきし
鉄鉢袋 (へんなしぶくろ)
いま 破れけり


‘莫妄想 まくもうそう’は仏教用語。‘妄想や煩悩にとらわれるなかれ’のような意味?‘鉄鉢袋 へんなしぶくろ’は、お坊さんが、料理を入れるために携帯する鉄の鉢を入れる袋です。京都大徳寺まわりに鉄鉢料理のお店がありますよね。アレです。

今まで自分を律し自制していたけど、もう、そんなもんから解放されたい・・・違うな。解き放たれたい、くらいな気持ちなら‘破れる’は使わないな。‘鉄鉢から出す’程度の意味の言葉を使うわね。


‘破れる’ですものね。「あったま来た!もう我慢ならん。堪忍袋の緒が切れた・・・」って気持ちかな。道灌は和歌の名人ですから、言葉は吟味したと思います。

なぜ‘破れた’のか。

「アンタのために今まで頑張ってきたのに、ここにきて、この仕打ちかい!」と自分のボスに対して‘破れた’のか。もしかしたら、京都からやって来た、伊勢のナントカさんの、今までの秩序を平気で壊す所業に対して、だったりして。。。


最後の最後に…

江戸時代の江戸城に入ることができるの、皆さんご存知ですか?今、東御苑といわれているあたりです。

「本丸跡」とか「松の廊下跡 ↑」とか「跡」がたくさんあります。建物はほぼ残っていません。ほとんど火事で焼けています。江戸時代風味ですが、やはり素晴らしいです。屏風状に造られた石垣なぞは、「戦国時代の終焉と共に滅びた山城」ばっかり見ているわらわにとっては、別世界です。一口に「城跡」といってもいろいろですよね~え。


ちなみに、東御苑で私が一番好きな場所は、戦国時代も江戸時代も全然関係ないところ。昭和天皇がご提案されたという、武蔵野の林を保存しているエリアです。ステキです。

国木田独歩です。太田道灌や伊勢新九郎さんや、もっと昔の武将達や、都から流れてきた貴公子達が馬を駆っていた坂東の林も、こんな感じでしたのでしょうね。


江戸城も結局は滅びた一族の城です。城跡って、どこもそうですが、前政権のものは払拭する。

当然、江戸城で、道灌時代や小田原北条時代の痕跡を探すのはより難しい。


コメントは公開はいたしませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。

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