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2010年3月21日 (日)

戦国時代の八王子城を歩く~山麓(ふもと)

(加筆: 以下は2010年頃のデータや状態の元に書いております。八王子城も検証や発掘調査が進み日々進化しておりますので、そこらあたりをお含みおきの上ご参考までに・・ということでご覧いただけましたら幸いでござりまする。)


八王子城は国史跡にもかかわらず(毎度しつこい)、山頂曲輪までの間ほとんど城跡としての案内板がありません。ふもとの管理棟の看板を読んで、パンフレットの絵図面を頼りに行くしかないのです。

006_2
~Dr.西川 (西川信濃守)のお屋敷跡から見た、戦国時代の大手道。 ブルドーザーは護岸工事。大丈夫?遺構を壊さないでね。 ~


しかしですね、パンフレットの絵図面を見ながら登っていったにしてもよく分かりません。
例えば、絵図面には「柵門台」という八王子城の重要ポイントが記されています。ところが、実際の「柵門台」の場所には、どこにも「ここが柵門台だよん」という案内板はなく、知らない人は、ただのハイキングコースの途中と思って先へ進んでしまうか、柵門台はどこだろう?とこの辺を行ったり来たりしてしまうのです。
八王子城はこんなところばかり。


だいたいからして、このハイキングコースも八王子城の謎のひとつ(謎と思うのは私だけ?)。ハイキングコースは八王子神社の参道を兼ねているとはいえ、江戸時代ここは幕府によって禁足地とさせられていました。神社は普通にチョロチョロお参りに行ける場所ではなかったのです。

では、このハイキングコースの元となる道はいつからあったのか?はたまた元となる道はあったのか?四百年前はなかったことは確かです。江戸初期に書かれた絵図にはないからです。ただ、城兵達が土塁に上がるためのケモノ道みたいなものはあったかもしれないとのことです。そう考えないと、城の機能上どうにも不便だからです。


ということで、誠に僭越ではありますが、ここで、わらわに出来うる限りで八王子城を案内(あない)させていただきとう存じます。ほんのメインルートだけ。八王子城は奥深すぎるし、広域すぎる。

先のブログの「北条氏照と八王子城」を合わせて読んでいただけると非常に助かります。


ぜ~んぜん物足りねぇって方や、信~じられない~って方は、椚先生(少々昔ですが)の書かれたご本や「八王子城とオオタカを守る会HP」を是非ご覧くだされ。専門的なので、専門用語が多いです。

また、最近は管理棟に「市」のボランティアガイドさん(八王子城とオオタカを守る会のメンバー含む)は常駐してらっしゃいます(ガイドさん達の案内は山麓のご主殿まわりだけとさせられています)。


八王子城ってどこにあるんだ?

八王子駅ではありません。JR・京王線の高尾駅です。京王線のホームからは八王子城の深沢山が向こ~うに見えるぞ。頂上が台形の山ね、城跡だから。

駅の目の前は、廿里とどり古戦場。北条vs武田ですよ!氏照どのが八王子城を築くきっかけとなった、ヤバかったあの戦のあった所です。パパ氏康が「こたびは、やめとけ」っつったのに兄弟で三増峠まで追っかけてってコテンパンにやられちゃった、あの戦です。


北口からバスに乗り(けっこうバスは出ていて、どれに乗るかはそこで聞いてた方が早い)、 「霊園前」で降ります。約10分弱。

八王子城へ行かれる時は是非ここから歩いてほしい。車や馬で直接乗り付けず、当時と同じく徒歩(かち)で登城してみて。

バスを降りたところが、当時の八王子城への最初の門があったあたり。門といっても、江戸時代の白壁のりっぱな門ではありまへん。戦国時代の門を想像してね。


重臣達の屋敷跡が続きます

歩くのは、きれいに舗装された現代の道。この道路は近年に出来た道です。当時はなかったのです。だから、私達は、家臣達のお屋敷の中を縦断しながら歩くことになります。
つまり、当時の屋敷は、「この道の左右をつなげて一軒」と想像してください。各お屋敷の表門は、左側の川沿いだったでしょう。

私の友人のひとりは、「3Gに出来ない~」と泣いておったが、慣れれば出来る。城跡に限らず、「跡」を巡るには想像力(妄想力)が不可欠よねぇ。


では、当時の登城道は?

現代の道の左右の山裾あたりを見てください。なんとな~く山道が続いているのが見えます。お城に向かって左、城山川の向こう側が「上道」いわゆる大手道です。殿やVIPが通る道。

右が、家臣や我われ下々の者が使う「下道」です。これらも、椚先生やその先輩達が調査研究の末、そうと分かった道です。


これらの道は、普通では通れません。途中ふさがってたり、個人のオウチの敷地内だったりするので、現代の道で登城するしかないのだ。

ただね、春夏はこの道見えないんですよ。草に覆われててのう。


Dr.西川のお屋敷、横地殿のお屋敷、中山勘解由殿のお屋敷などなどなど続きます。いいですか~今、わらわ達は、それらのお屋敷の中を突っ切って城へ向かって歩いているのですよ。

城山川を渡る当時の橋の跡なども、それと分かる感じが残っています。

007
~横地殿の屋敷脇の土塁。当時はもっともっと高かった。突き当たりは城山川。向こう岸が「上道」と、高さ6-7mの防御台(仮称)。向こう岸は私有地につき普通では入れません。~

横地堤

それぞれの家臣の屋敷跡は、今、どなたのオウチかは個人情報になるのでここでは申し上げられませんが、江戸時代の千人同心のご子孫や、武田が滅びた時に甲斐からやってきた人のご子孫などがいらっしゃいます。

ひとつだけ。
氏照どのの菩提寺「宗関寺」は、横地殿のお屋敷跡です。ここには「横地堤」と呼ばれている土塁が残っています。現代の道と交差する左右の土手です。もちろん間は現代の道で分断されています。当時は、川の向こう岸の防御台と合わせてお城の防御土塁のひとつだったのです。


先日、たまたま、ご近所の古老Aさんのお話を聞くチャンスがありました。古老Aさんが小さい時は、この横地堤(通称)は4m位の高さがあったそうです。古老Aさんのご先祖は武田の遺臣です。

この会話が、可笑しいの。

守る会  「で、A さん(古老)も、甲斐から来たんだよね?」
古老のAさん 「そう、ウチ滅びちゃってさ、それでこっち来たのよ」
守る会 「Bさんは、一緒に来たの?」
古老のAさん 「B?あれは千人同心だからさ・・うんたらかんたら」

と、この調子で果てしなく続く続く。つい、この間の自分の事みたいでしょ。松姫さまがどこを通ってらしたか見てたかもねえ。

(「八王子城の神や仏2」や「16世紀と21世紀の狭間の空間へ」あたりを合わせてご覧いただけると助かります」)


氏照どののお墓

途中、氏照どののお墓があります。お墓は、中山勘解由殿の御子孫が江戸時代に、中山家のお墓と一緒に建てたものです。


外郭(がいかく)

「上道」のもっと上方、高い尾根が続きます。これは、八王子城の外郭です。上杉景勝殿が攻めてきたといわれている太鼓曲輪(一番奥の方、とうぜん御主殿と相対するポジションです)も、この外郭のひとつです。

外郭には5つの素晴らしい堀切が残っています。私も、城攻めのように、この5つ堀切を「守る会」の方達のロープに助けられよじ登り、滑り降りしました。とてもいい体験でしたが、一回でいいです・・。


ふもとの曲輪をめぐって御主殿へ

やっと城内。さあ、気分が盛り上がってきましたよね~。こないすか?城跡めぐりはマインドコントロールも大切よ。


管理棟に向かって手前右の広場は近藤曲輪と呼ばれています。この後に続く山下曲輪とともに、激戦地でした。造形大の建設で遺構はほぼ壊されています。この大学も今はある理由でここにありません。


管理棟前の階段を下りて、大手門から橋(当時は曳き橋)を渡り御主殿へ行ってもいいのですが、この道は舗装されてないとはいえ現代の道です。林野庁や旅館(今はない。ある理由で)がブルトーザーで遺構を壊して造った道です。ここを行くんじゃあ、私達はつまらない。
でも、ブルドーザーが削った無残な跡と、崩れしままの石垣が見られます。
(「城跡のレッドデータブック」あたりを合わせて読んでいただけると嬉しいです)


ちなみに、八王子城の「○○曲輪」という呼び方は、そこに○○さんの公邸があったのではなく、八王子城攻めの時にそこを○○さんが守った、と言われていることから付いている名称です。

数少ない資料や当時の住民や修験者達の証言からの話ですから確証がない場所もあります。研究者によってちょっと違ったりもします。


管理棟の手前を右に折れてくだされ。鳥居が見えます。

八王子神社の、近代に出来た鳥居ですが、ここをくぐってすぐ右のところが、当時の「下道」の、つまり家臣や下々の者達が使う道からの登城口です。橋台の跡や詰所があったと思われる小さな曲輪もありますが、全部、デロデロに崩れ藪に覆われているので、分かるかな~。川も土砂崩れってますが、私は言われなきゃ分からないけど、山城レンジャー達なら分かると思います。

もちろん、間のハイキングコースは当時ないですからね~。(あー、想像しずらい)


ここから左へ行く人ひとり通れるような道が、激戦地の山下曲輪あしだ(あんだ)曲輪(この、あしだ、のいわれは不明です)と続く、家臣達が御主殿へ通う道です。

あしだ曲輪は奥へと細長く続きます。あしだ曲輪は説明板があります。


左へ行かず、ハイキングコースの右下の藪の細い道は、山頂へ向かう当時の道です。(ここは行かない方がいい。ハイキングコースを行ってね。)

殿やVIPの気分に浸りたい方は、ブルドーザーが造った現代の道から一部復元された大手道へ出て、伊勢神宮のような?橋をお渡りくだされ。

017
~お宝のひとつ。青花龍図水注(江戸東京博物館、戦国城館の宝もの展、2009で)。発掘された陶磁器はインポートブランド物が多い~


氏照どのの私邸が最初にあったところ?

あしだ曲輪の奥の方、草茫々の一帯が、最初に照どのの私邸があったのでは?と言われているところです。素晴らしい蝶つがいや飾り金具などのお宝が出てきています。

ここでは入口に近く用心が悪いということで、現在の御主殿の奥に移ったのではないか、という説が主流になっています。


御主殿(ごしゅでん)と御主殿の滝

やっと御主殿。ヤレヤレだよ。想像ばっかで脳が疲れちゃったよ、とここでヘバッテはあかん。これから標高460.5mの山頂曲輪まで、パワーがあれば詰の城まで行くのよ。もっともっと楽しい。


御主殿とは、氏照どのの私邸であり公邸でもあったところ、八王子城の政庁です。ほとんどの山城は、山頂は生活の場ではありませんでした。普段は麓におったのです。御主殿は発掘整備され、ここからも、北条の御曹子の垢抜けた暮らしぶりがうかがわれるお宝がザックザック出てきてるんですよ。

御主殿や滝や、一部復元された大手道や、伊勢神宮みたいな橋などについては、説明されたものがたくさんありますので、そちらをご覧いただければよいと思います。また、ここはボランティアガイドさんに説明を頼めますしね(その際は、是非、八王子城とオオタカを守る会の方をご指名くだされ)。


ステキなお台所

御主殿と城山川の間の道は、ブルドーザーが造った現代の道ですから、当時は当然、御主殿の敷地は川に迫り出していたわけです。現代の道は見ない振りをせねばなりませぬ。

当時は、御主殿から川を眺め宴を催したのでしょうねえ。今ほど木々もうっそうとしていなかったでしょうし。夏は、ベネチアンレースガラスの壺を飾り、蛍が飛び交うのを眺めながらインポート物の盃をかたむけたことでしょう。


御主殿の川側の土手には、川に行く時に使っていたと思われる細い道がうかがえます。分かるかな~、春夏は絶対分からない。山城レンジャー方達は見つけられると思う。

滝の上、御主殿から続いていたと思われるその道が、川にぶつかったあたりに(分かるけ?うまく言い表せない・・)、石で囲われた、峰岸先生いわく「ステキなお台所」があります。ここも椚先生達や諸先輩方が発見した水汲み堤です。当時は水を汲みにきたんでしょうねえ。

006_2 ~俯瞰してます~

その他

注1) 滝のところに建っている石碑に皆さん手を合わせてらっしゃいますが、戦国時代の八王子城とは関係ない碑です。

注2) あしだ曲輪にあるお寺は、近年になって市が個人のお寺さんに土地を払い下げたものだそうです。戦国時代の八王子城とは関係ありません。そちらにいらっしゃる方達はそのお寺の関係者の方だそうです。

注3) あしだ曲輪(奥の方)にある石仏群は、明治時代におかれたものだそうです。

注4) 山下曲輪ある「私有地につき、うんたら」の看板のところは・・・ここでは、まあ、旅館の跡地ってことで・・・


城跡って、明治維新以後いろいろな運命をたどり、いろいろな人達があんなことやこんなことに使っているので、戦国時代のものか江戸時代のものか近代のものか見極めるのが難しい。「あにゃ?」と思ったら調べてみると興味深いですよ。

家康が、廃城となった城跡を禁足地にして徳川直轄としたのは賢明だったのかもしれませんね。

(2011.11 加筆
近年、八王子城も、徳川直轄となった後少々改修をしているとの見方があります。それについてはいずれまたご紹介します。)


次回は山頂曲輪へ向けて登りはじめましょうぞ。

すっごい大変、これ書くの。現場でみたいに、「あそこが」とか「その向うが」とは書けないし、道も、自分が歩く分には自然にスタスタ行くのに、文章に書こうとすると、東西南北、上下、左右、後先が分からなくなっちゃう。いかに適当にブラブラ歩いているかということだ。

ほな。


コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。

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