« 南総里見 4 「現代の館山城も辛い」 | トップページ | 木地師 「山中の虎」 受賞! »

2010年3月 5日 (金)

南総里見 5 「戦国人たちは消えてゆく~里見忠義」

マリコ・ポーロ


里見家最後の当主 里見忠義さんの弟君が開山したお寺が、東京にもあります。日蓮宗 「仙寿院」。開基は徳川家康の側室、あの‘お万の方’です。

 007_3
~お名前のところ画像が切れてしまいました。弟君は「日遥」とおっしゃいます。~


‘お万の方’は、先のブログに書いた、正木氏の娘ですよねえ。

北条幻庵の孫(氏隆)の娘、つまり曽孫が正木家にお嫁にいってお生みになった子です。ややこし。つまり、北条早雲こと伊勢宗瑞の、玄孫?にあたるのですね。


仙寿院は、お万の方が、ご子息(紀州徳川家のお殿様 頼宣)の厄年にあたり、ご自身にゆかりのある里見家の日遥上人に開山をお願いして建立したお寺です。お万の方は日遥上人の大外護者でした。

江戸時代の仙寿院は、紀州徳川家と伊予松平家の江戸における菩提寺だったそうで、絵図を見ると今とは比べものにならないほどの大寺院です。10万石ですって!!ドびっくり~。とても格式あるお寺なんですねえ。

日遥上人も、仙寿院だけではなく、安房や越後のお寺でたくさんの高弟を育成した高僧だったそうです。


以上は、仙寿院で入手(300円也)した抄録に詳しく書かれていたものを抜粋してみましたが、この日遥上人のことは、発掘された墓誌に記されていたそうです。抄録にはこの墓誌の銘文も載っています。

里見の系図を見ると、忠義さんの弟君には、忠堯さんという方しか出てきませんが、この方と日遥上人は違うようですね??日遥さんの俗名は‘太郎義幻’となっています。‘太郎’って長男に付けるものじゃないかし?


しっかし、一人のことを調べるだけでも、次から次へと関係者が増えてきて、まったくもってきりがない。新しく何かを知ると、前にスルーしたとこを「あっ!確かあそこにっ!」っと思い出したりして、又そこに行って新たな角度から見なきゃ気がすまないし。人間の五大欲には、智識欲ってのもはいるんじゃないの?それとも単なる野次馬ミーハー  ?


話は少し前、里見の若き忠義さんに戻します

江戸時代にはいってまもなく、ある年の重陽の節句(菊のお節句です。先のブログの重陽の節句をご覧くだされ)に、里見の当主 里見忠義さん(日遥上人の兄上)は、いつものごとく徳川将軍家にお祝いを述べるため江戸城に向います。


そこで忠義さんは老中の使者に呼ばれ、いきなり国替え(配置転換)を通達されます。理由は、ご正室の実家の大久保さんの謀反に加わったとの疑い。半年も前の事件です。

忠義さんは、そのまま親戚の大名家へ、ひとりで預けられ謹慎。そして、江戸屋敷や安房へ戻ることなく、伯耆の国(今の鳥取)倉吉へ異動させられました。その時21歳。


主のいない館山城には早馬(早舟?)が飛び、安房は驚愕動転。あっという間に幕府から城受け取りの軍勢がやってきて、その連中が有無を言わさずバタバタと荷造り、らくらく引越し便。

ニャン。家臣達は少々の抵抗はしたみたいですが、どうしようもありません。殿は謹慎中。助けに来てくれる上杉謙信はもういません。

皆、何がなんだか分からないまま泣く泣く倉吉へ向かいます。館山城はケチョンケチョンに破壊され、堀もペッタペタに埋められてしまいます。


なんか、ここまでは赤穂浪士に似ていますね。徳川の、お家お取り潰しのマニュアルがこうだったんでしょうね。


家康という人

091
~江戸城 清水門あたり。江戸城では一番古いエリアで、石段が残っているのもここだけ。江戸城内では私が一番好きな場所です。現代の「観光江戸城」とは違う、往時のお城の雰囲気がして気に入っております。ここの清水門は江戸城でたった3つの重文のひとつ。~


さて、家康という人ですが・・・徹底!してます。

子供の頃からず~っと織田や今川で人質として過ごしています。正室も今川の姫ですし、その上、信長に疑われたため正室と長男を成敗しています。だから屈折してたんだよ、と思いますか?でも、こんな境遇の御曹子は戦国時代はザラにいます。

性格的なものもあるでしょうが、「まあ、このくらいにしとこうか・・」では、必ずあとあと家を脅かすことになる。長い間、他家の興亡を見てきて、ひとつの家を守るためには 徹底!しなけらば成らないという事を学んだんでしょう。


だから、徳川というひとつの家を守るために、あれだけの身分制度をつくり、藩主はじめその家臣や公家までも企画化し個性をなくさせてしまった。もちろん、城郭も。

里見だけではなく、長い時代その土地で勢力を広げ地盤を固めていた城主達を、それぞれ縁もゆかりもない土地へ異動させています。

里見のことも、徳川幕府のお膝元 江戸湾の先端に陣取ってられたらたまらん。しかも嫁の実家は小田原。相模湾ですよ。両方で江戸の入口を押さえられてる感じですもんね。


エピローグ

伯耆の国へ異動になった里見家。当初は4千石を与えられていました。4千石ではもうぜんぜん大名ではないですが、それも束の間。その後すぐに、わずか百俵扶持に減らされ、倉吉郊外に移されています。これは、罪人の扱いです。

忠義さんは次第に病いがちになり、菊のお節句にお屋敷を出たきり二度と安房の地を踏むことなく、はるか異郷でその命は終わります。


享年29歳。
安房の名門、里見家の終焉です。


ご遺体は、時の伯耆藩主 池田さんの家臣達が徳川幕府に処分の仕方などのお伺いをたてたり、本当に病死だということを証明したりするため、一ヶ月も放置されていたとのこと。夏の盛りなのにです。


忠義さんが倉吉へ来たばかりの頃、倉吉市の北条八幡宮(山田八幡宮)の社殿修復の寄付をした時に納めた願文があるそうです。以下、知人からコピーをいただいた願文を、たいへん僭越ながら忠義さんの気持ちになって、わらわが「妄想意訳」をしました。


敗壊転倒 奇かな妙かな…

徳川幕府によって没落させられてしまった我が里見家
どうしてこうなったのか 奇かな妙かな

いつかは必ず生まれ育った安房の地に戻り
領民と共にあることのできる日が来ることを願う

安房の民よ、どうかその日まで里見を忘れないでいてくれ

そして私自身も忠・孝の道を尊び、仁義礼智信の五つの徳をほどこすことを強く心に誓う


ううう 泣けちゃう…


江戸時代になったとはいえ、魂はまだまだ戦国人。戦って負けて城を取られたなら納得もゆく。でも、戦もしていないのに何故…。

沙汰を言い渡されたまま一度も戻れなかったから、家臣達や領民達に一言もなにも伝えられないままだったから、よけいに心残りだったんでしょうね。悔しかったでしょう。原文がよく読めない私にも、その気持ちが伝わってきます。


忠義さんが亡くなったあと、安房から従ってきた6人の家臣達が後を追いました。

同じような思いの戦国武将はたくさんいたことでしょう。徳川が悪いとか、他の武将達がふがいないとか、そういうことではありません。時代の流れとはそういうものなのだよ。


001
~早春の光溢れる仙寿院の参道~


が、しか~し!
三百年後、関ヶ原以後追いやられた家のリベンジが行われるのだ。これも、時代の流れ。

諸行無常。ただ春の夜の夢のごとし


補足

(その1)
お話の「里見八犬伝」の舞台となったのは、「滝田城」です。もちろん、滝田城も里見一族の城です。千葉県流にいえば(前回の4)、数ある「里見城」のひとつです。

でも、ここまで書いてきて思いました。もしかしたら全部「里見城」だっていいのかもしれませんね。郷土の人やファンにとっては、学術的なんて関係ないものね。心情的にはぜ~んぶ「里見城」だものね。前回(いつも)、小うるさいことを言いすぎましたわ。


(その2)
鳥取の倉吉市では毎年9月に、「倉吉せきがね里見まつり」が催されています。全国の里見一族が集まって神事が行われるそうです。

館山でも、秋に「南総里見まつり」が行われています。


里見 vs 我が北条のことを書くのをすっ飛ばしちょる
臼井城とか国府台城とかいろいろ見聞しましたので、追々。


ほな。
(2009年弥生、拙小冊子「妄想と偏見の城跡見聞録」より抜粋)


コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

にほんブログ村

|

« 南総里見 4 「現代の館山城も辛い」 | トップページ | 木地師 「山中の虎」 受賞! »

6.小田原北条以外の歴史のこと」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 南総里見 5 「戦国人たちは消えてゆく~里見忠義」:

« 南総里見 4 「現代の館山城も辛い」 | トップページ | 木地師 「山中の虎」 受賞! »