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2010年5月21日 (金)

前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」

(2014.8.6加筆。
最近判明してきたことだそうですが、山木大方(やまきのおおかた)と崎姫は、今は、別人とされているようです。これを書いている頃は、崎姫=山木大方だとされていましたので、そのへんのところをお含みおきの上で読んでくださると助かります。→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/at-2d5f.html。)


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~弘法太子開湯の名湯「修善寺温泉」を流れる桂川~


「修寺物語 しゅぜんじものがたり」 という岡本綺堂の戯曲の名作をご存知ですか。

これまた、ある程度の年齢以上の方や(いつもこれですまんのう、お若い方達)、年齢に関係なく芝居好きの方達は、聞いたことがあると思います。私も、学生の頃、松本幸四郎さんの夜叉王で見たことがあります。先代の幸四郎さんよ。古くてごめんくだされ。映画にもなっていますが、これは見ておりませぬ。


「修禅寺物語」は、源頼朝と政子さんの嫡男、鎌倉幕府二代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ) と面打ちの娘・桂を物語の中心にすえた、面作りに憑かれた面打師・夜叉王の執念を描いたものです。えっ!違う?頼家と桂の悲恋が主題ですか?

以前は修善寺温泉のお土産屋さんには必ず頼家と桂のお人形さんが売られていましたが、今はどうかな?今回は日帰り強行軍だったので、お土産屋さんに寄っている暇がなかったから分からないですが、ウチの母の人形ケースにも雑多な物にまみれてありますよ。


この物語は、頼家が配流されてきたこと以外は全くのフィクションですが、岡本綺堂がこのお話を書くきっかけとなったという 「古面」 が、この修禅寺にあります。宝物館にあるので誰でも見ることができますが、これは見せちゃあかんよ~。恐すぎます~。遠目に横目でしか見られません~。

でも、逆にオープンにしといた方がいいのかな。‘気’が発散されて。封印して箱にしまっておいたら‘気’がこもって、「これを見た人は、うんたら~」になっちゃうかもしれないですものね。


頼家は、敵対する者の差し金で、漆の湯に入れられ、全身がかぶれただれ…書いてるだけでも怖いよ~、その辛苦を母・政子さんに訴えようと、その顔を面に彫らせた。それが、この古面だと伝わっています。そこまで疎むならいっそ殺してやってくれい。

実際のこの面は、作者不詳。由来も不明なり。


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~温泉は「修寺」、お寺は「修寺」~


史実の頼家は、政権を狙う叔父(前北条)によって鎌倉を追われ修善寺に配流となり、入浴中(漆じゃないよ)に暗殺されています。政子さんは、息子の冥福を祈ってか、自らの浄罪のためか、あちらこちらに仏像や経をお納めしています。

その後、頼家の弟・実朝さんが鎌倉幕府の三代将軍になりますが、ご承知のように鎌倉の八幡宮の大銀杏のところで、頼家の息子で仏門にいれられていた甥の公暁(くぎょう)に暗殺されることになるのです。裏で公暁を操っていたのが、政子さんの兄弟、前北条の義時なのではないか?ともいわれていますね。


修善寺温泉には、「源範頼 のりより の墓」というのもあります。頼朝の異母弟で、義経の異母兄のあの方です。頼朝の挙兵に参陣し、以後、鎌倉幕府の重臣となりますが、兄・頼朝から謀反の疑いをうけ修善寺に配流され(この人もかい)、誅せられたと言われています。

こんなんばっかり。
何やってんだい、源氏よ。


源氏の鎌倉幕府は、たった三代、30年そこそこで終了。実質は頼朝からして前北条の傀儡将軍だったと思いますが、そのあと前北条が執権(将軍にはなれない?平家だから?)として鎌倉幕府は約100年続きます。そして、足利尊氏が出てきて室町時代が始まるのです。

戦国時代まではまだまだまだまだです。ほんとうに気が遠くなる。


しかしですね、前北条執権家も、足利将軍家も、かんとーかんれー(関東管領)上杉家も、み~んな一族で疑心暗鬼の権力争い。応仁の乱の京に集まる公家や武門も、み~んなそう。


こういうものを見てきて、北条早雲こと伊勢新九郎さんは、一族で潰しあっていては一族の繁栄は得られない、民も落ち着いて暮らせないから国益も上がらない、ということを身にしみて感じたのかもしれないわね。

だから、細かい風紀委員みたいな家訓をつくり、死守させ、一族郎党で大きな争いをしてはいけないと伝えたのかもしれない。


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~修善寺温泉の竹林の小径。竹の子とツルキキョウ。~


修禅寺の開基は弘法大師ですが、ずっと後、応仁の乱で衰退したのを再興したのが、北条早雲こと伊勢宗瑞こと新九郎さんです。

お寺の縁起には、「北条早雲が、叔父の隆溪繁紹を遠州から招いて住持とした」とありましたが、新九郎さんて、ちょっと前までは「伊勢の素浪人」で出自が明らかじゃなかったのに、なんでここでは叔父上がハッキリしていたのだろうか???


伊豆市教育委員会の方に伺がったところ、それは、「日本洞上聯燈録 にほんとうじょうれんとうろく」による、とのこと。

これは、仏教界、主に禅宗の歴史の代々伝えられてきたものの記録ですが、私が韮山の図書館でほんのちょっと調べた「韮山町史」にもこの「燈録」のことが書いてありました。


町史では・・・
隆渓さんは、もともと韮山の北条(地名)の生まれだった。遠江(静岡県)の焼津と掛川の間あたりに 「石雲院」 という曹洞宗の名刹がありますが、隆渓は大徳寺からこちらへ移ったらしい。ということは宗派も変更ってことだね。

その石雲院に、どうやら伊勢新九郎さんの弟がいたらしい。あいや、またれいpaper弟って誰?ですが、一応お名前は分かっています。賢仲繁哲 (けんちゅうはんてつ) だそうです。この縁で、もともと地元の方でもあり、再興した修禅寺の住持として招いた、とあります。


いづれにしても、北条早雲こと伊勢新九郎さんは、歴史学的にはちょっと前まで出自が分からず「伊勢の素浪人」と言われていましたが、仏教界的には出自が伝わっていたのですかねえ。

(翌日加筆:隆渓繁紹も賢仲繁哲も、北条早雲と仲良しだったか、知人だったか、またはお寺を造る時に紹介されたか、ではありますが、血がつながっているというのは、やはり?×?×? だとういうご教授をいただきました。いいのかにゃ~修禅寺


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~韮山にある、前でも後でも、北条オタクにはたまらないバス停。~


北条早雲こと伊勢新九郎さんは、その遺言によって修禅寺で荼毘に付されるのです。ジュニアの氏綱公は、これでもかっ!というぐらい 盛大!に葬儀を営みましたとさ。(お墓は箱根早雲寺です)

修禅寺の宝物館には、新九郎さんが、戦で亡くなった人達の菩提を弔うために自らの血で書いたといわれている阿弥陀経がありました。


また、修禅寺には正覚院という奥の院があります。北条の姫である山木大方の夫、今川の堀越(ほりこし)六郎さんの菩提寺です。この話はまたいずれさせていただきとうござります。

韮山&修善寺、楽し過ぎる。一週間ぐらい湯治&見聞したいです。


次は、幕間でちょっとひと息。伊豆の珍しい新九郎さんゆかりの酒 bottle のこと。
ほな。


catコメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。

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