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2010年5月19日 (水)

早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏

それは、伊豆韮山の願成就院の仏様たちです。そして韮山は、北条早雲こと伊勢新九郎さんが初めて自らのものとしてゲットし、後半生を送った地。

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~足利茶々丸殿の屋敷跡を領空侵犯する二頭の龍。駿河(静浜)や遠江(浜松)から飛んできた空自?~


時代は、わが殿・氏照どのやヒロイン香沼姫さまの時代より100年程も前のこと。
京の将軍家から出向させられ関東に来てはみたものの、鎌倉に入れさせてもらえなかった将軍の弟君は、いた仕方なく、この韮山の、その時より更に昔の前北条家の屋敷跡、堀越に御所をかまえました。弟君は堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれました。


韮山の図書館でチロッと小和田哲男氏の書かれた物を読んでいたら、この堀越公方が死去した時のことに「妙法寺記」が引用されていました。そこには、堀越公方のことが「北条御所」と書かれていました。

もしかしてこれが、前北条と後北条の間に、もうひとつ「北条」がいた という、あのことなのですかね?


horse 討ち入り

堀越公方家にも洩れなく家督争いがおこります。

継母にイジメられ、土牢に入れられていた乱暴者(といわれている)嫡男・茶々丸クンは、パパ公方が亡くなると、継母とその子、つまり腹違いの弟を殺逆しお家を勝手に継ごうとします。

(何故いつまでも幼名の‘茶々丸’で、元服名にならないのかは、この際おいときます。知らないからsweat01


しかし、将軍家でもアレヤコレヤ問題がおこり、結局、この継母の産んだ、茶々丸クンの腹違いのもう一人の弟が、次の将軍になってしまいました! 嗚呼、茶々丸クンは、将軍の母上と兄君を殺した罪に問われることとなりました。

そこで、伊勢新九郎さんが、将軍家と、これまた一族で争っている「かんとーかんれー(関東管領)上杉家」 (謙信公が養子縁組するよりずっと前の上杉よ) と結託し、今川家のヘルプを借りて出張ってくるのです。

こんな話ばかりのこの時代。ややこしやのう。


茶々丸クンは館の背後の守山城にて自刃。この時、堀越公方御所とその周りはほとんど焼き払われてしまったそうです。

「ひど〜い北条早雲て〜」と思わないでね。焼き打ちは、この時代の戦の常套手段。「義の軍団」上杉だって、戦の時は、八王子城下をはじめアチコチ焼いてます。皆そうさ。だからいいのだ、ってわけじゃないですが。


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~伝・堀越御所あたりから守山城を見た~


茶々丸くんには、別の有力情報があります。証拠物件(古文書)も残っています。側近に守られ、甲斐に行ったとか、南伊豆の深根城に落ち延び、数年後に早雲公に攻められ、ここで自刃したのだとか。こちらにもお墓があるそうですね。

いや違う!三浦を頼って新井城に落ち延び三浦一族と共に早雲に滅ぼされた、とかいう話もあります。

継母に土牢に閉じ込められて・・というのも、果たして、乱暴狼藉狂乱の末、なのか、跡継ぎ問題にかこつけて裏で細川さんとか上杉が糸を引いたのか、伊勢新九郎さんもそれに関与していたのか、分かりません。歴史は、その時勝った方の言い分が後の世に伝わるからです。


fuji 願成就院 (がんじょうじゅいん)。

伝・堀越御所に隣接しております。上の茶々丸殿事件の時、堀越御所と共に焼失。が、しかし、これぞ仏のご加護。運慶作の五体の仏像が焼け残ったのです。

これらは素晴らしいです!!
毘沙門天、不動明王&こんがら童子&せいたか童子。胎内から、運慶作を証明する銘札が出てきました。銘札は宝物殿で見られます。「ほ・ん・も・のscissors」と書いてあります。うそ・・
もう一体の阿弥陀如来も、運慶作でほぼ間違いないだろうとのこと。


こんな伊豆の山の中の(失礼だ)小さな町(ホントに失礼)で、運慶の傑作を拝めるとは思わなんだですよ。このためだけにでも韮山を訪れる価値ありですねえ。当時、このお寺がいかに力があったかがうかがい知れますねえ。

ここでも、虎朱印の文書を拝見。

茶々丸殿のお墓がこちらにもあります。本堂裏にあるのですが、ちょっと怖かった。遠くからご冥福を祈って手を合わせました。


さて、お墓といえば、願成就院には茶々丸殿よりずっとずっと有名な方のお墓があります。

それは、北条時政殿です。時代はより一層遡る鎌倉時代。頼朝の妻、政子さんの父上。前北条ね。だって、願成就院は「頼朝戦勝祈願の寺」ですもん。


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~願成就院跡。隣に現在の願成就院がある。~


前北条が建立し、後北条が焼き払い、また再建したお寺。秀吉の小田原後北条攻めの時は、わが殿・氏照どのの弟君、北条氏規さんが守った 「龍城、韮山城」を落とす時にまた焼かれました。

そして、それを復興したのは、江戸時代。かろうじて残った後北条、河内狭山藩六代藩主・北条氏貞殿でありました。


ひとつのお寺の歴史をたどるだけでも気が遠くなります。


堀越公方を滅ぼし、それから数年かかって伊豆を完全に我が物とした北条早雲こと伊勢新九郎さん、ご自分の城や居館は、この堀越御所跡や守山城を再利用せず、駅の反対側(駅はなかったけど)にしたのだね。


マリコ・ポーロがこのブログをはじめた当初の記事、

「元祖義 伊勢新九郎の韮山へ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b243.html
「伊勢新九郎さん in 駿河の巻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-f636.html
「伊勢新九郎さん伊豆で温泉にはいるの巻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-82c2.html

あたりなぞを、今よりもっと稚拙ですがご覧いただけるとうれしゅうござります。


次は修善寺なり。
ほな。


catコメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。

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