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2010年6月16日 (水)

八王子城落城、氏照の残・念

天正18年6月23日、北条氏照が丹精こめた関東の戦国時代最大級の山城は、その完成をみないまま、その城主が一年も不在のまま、落城した。

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~古道に残る石垣~


この時の八王子城には、氏照と共に戦場を渡り歩いてきた歴戦の重臣達が在城しているとはいえ、若手の精鋭部隊は本城(小田原城)に詰めてしまっている。

地元の村民や僧侶、女子供老人など非戦闘員を含め二千人にも満たない人数で、豊臣方に味方する三万とも五万とも言われる前田・上杉・真田など、そうそうたる戦国武将達の連合軍に立ち向うことになったのだ。


大将もいない城ひとつ落とすのに、何故ここまでの軍勢が必要なのか。つまりは、北条軍団の軍神・北条氏照の城を徹底的にたたきのめすことで、小田原本城の戦闘意欲をなくさせるための、犠牲となったのである。

そうと知りつつ、城兵達が「ここを最後」とどれだけ必死に戦ったか。そうと知っていても、助けに戻れない本城に詰める者達。それぞれの気持ちを思うと、この戦をしなければならない意味が分からなくなってくるほどだ。


押し寄せる連合軍。破っても破っても立ちはだかる、北条氏照、渾身の防御設備

勝った方はあまり言いたがらないが、攻める方にも多大な犠牲者がでたであろうことは想像するに難くない。


八王子城に立つといつも思う。たとえ滅びるにしても、いや、滅びるからこそ、北条氏照はどんなにか自身が手塩にかけたこの城で采配を振り皆と共に戦いたかったか。

北条軍団を率いて生涯を戦にあけくれた人が、最後に自分の城で戦えなかった残・念(ざんねん)が、文字通り城跡のあちらこちらに今でも 残っているような気がしてならない。


北条の城は、この2年程前(天正16年)位から臨戦体制に入っている。氏照からも、秀吉の東征に備える武器・弾薬の準備や城の普請などの数々の指示書が出されている。

「関八州を制覇した」と一応言われているものの、力ずくで傘下に加えたフランチャイズ城が多く、そういう城主達は時代を読み自家存続のために、かつては北条に付いたように秀吉に組していっている今、一族直営の城は実はそんなに多くはないのである。


420年前の今頃、すでに本城(小田原城)は連合軍に四方を囲まれ、わが八王子城にも敵は北東から迫りつつある。


そして、六月二十二日夜半、エピローグの幕は開く。


今までのブログと重複するのでこのくらいで。カテゴリー「八王子城と北条氏照の城跡」、特に「北条氏照の葛藤」あたりをお読みいただければ、いと嬉しき次第なり。
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-3c27.html


catコメントは公開いたしませぬので、ご遠慮のうご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。


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