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2010年6月 4日 (金)

後北条の女領主、伊豆の山木大方

(2014.8.6加筆。
最近判明してきたことだそうですが、山木大方(やまきのおおかた)と崎姫は、今は、別人とされているようです。いずれにしても、どちらも氏康殿の女兄弟ではありますが、以下、それをお含みおきの上ご覧くださると助かります。→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/at-2d5f.html

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~山木大方(やまきのおおかた)の印判。虎ではない。疾走する猪である。印判は、特に今川や北条の女人達によく使われていた。カッコイイlovely。~


鎌倉の八幡宮が安房の里見によって焼き討ちされた頃、北条氏綱公ご正室の養珠院さまが亡くなりました。氏綱公は40代になりましたが、嫡男の氏康殿は元服前。今回の主人公の山木大方はじめ氏康殿の兄弟姉妹方はまだ小さくてらっしゃいます。

3年ほど経ち氏綱公は京より関白近衛家の姫 (近衛殿 このえどの) を後添いとしてお迎えになりました。近衛殿の姉君は、室町幕府12代・足利将軍の室。このことは先のブログ「願成就院の5体の運慶仏」にも少し書きましたので、そちらをご覧くだされ。


horse 山木御所

話をもどし。

山木大方の夫である今川の堀越(ほりこし)六郎殿の見付城はすでに落ち、山木大方は実家の北条へ戻ってくることになります。

その時、夫であった六郎さんは存命だったのかどうかは分かりませんが、お祖父さま(早雲)や、もしかしたら母上にもゆかりの地、早雲公の居館のあった伊豆韮山の、龍城(韮山城)のすぐ麓にある山木御所にお住まいになられました。


それはつまり、母上の所領を受け継いだということになるのでしょうね。

「山木」は地名で、「大方」とは、戦国時代には夫を亡くした上流の夫人に使われる敬称です。ゆえに、これより「山木大方 やまきのおおかた」と呼ばれることになります。


(2015.1 加筆。
氏綱の先妻であり山木大方や氏康たちの母である養珠院さまは、どうやら伊豆の横江北条家の娘のようです。→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-f9c7.html


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~山木御所があった辺りを見下ろした図。旧住居表示では字(あざ)神田屋敷。~


場所が分からず、郷土資料館の方に教えていただきました。目印もなんもないので途中で全然分からなくなり、あたりには人っ子一人おらず、犬には吠えられまくりなので、ケイタイで郷土資料館に電話をしました。

そこを右だ!左だ!と言われるままに歩き、「そこで、ぐるっと振り向いて!」 と、「そのあたりが、山木御所があったあたりじゃ!」。「かたじけないっ」。って感じでした。遥か昔の源頼朝時代の山木判官の館跡とは別なのですよ。


龍城と山木御所は徒歩(かち)にて10分程度。戦国時代の姫達は馬に乗りましたから、馬ならすぐね。

今なら山木大方は、伊豆では地元密着アウトドア風味で国産(けっして尾張産ではない)4WDというところでしょうかね。小田原に行かれた時は、重鎮だから一応メルセデスですかね。こういう女人は昔も今も、色は赤ね。


韮山を走る氏規さんは、紺色のMGにしてくださいcar

エコカーに乗りそうなのは…ああ、いかん。こんなこと書き出したら、北条一族が現代なら車なにか考えはじめてとまんなくなっちゃう。でもね、イタリア車ではないのよ。国産か英国系の上品でコンサーバティブな車に決まってます。もちろん、「湘南ナンバー」なり。


horse 香山寺(こうざんじ・こうぜんじ)

山木御所の近くの少し小高い所に「香山寺」という古刹があります。荒れていたのを伊勢新九郎(宗瑞・早雲)が再興しました。当時は2万5千坪。小田原攻めの時に、おサル勢によって全て灰じんに帰したそうです。

ちっannoy


箱根の早雲寺は、「早雲庵」という庵の跡を息子の氏綱殿が菩提寺にしたのですが、もともと 早雲庵は、早雲公が生涯暮らした韮山にあったといわれてもいます。

では、その早雲庵は韮山のどこにあったか。つまり、この香山寺がアヤシイ らしいですよ。


このお寺、他のお寺とまったく違う気配が漂っています。お寺の下に着いた時、なんとなく、「ううっ、怖い・・・」 と感じました。ホラー的な意味ではなくて、足を踏み入れるのをためらってしました。なんだろう。明るくてきれいなお寺なんですよ。結界?

こちらには、今川関係の先祖のお墓もありますが、これ?


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~香山寺のこの山門には驚いた。旧韮山県庁の門を移築したそうだが、お寺と思うとちょっと異様な雰囲気。~


山木大方が亡くなる前の年に、香山寺へ寺領を寄進した文書も残っています。そこには、「かぬま殿の筆にて書かせ申し候」とありました。

「かぬま殿」は、香沼姫さまですよね~え(高源院文書)。もうご体調が悪かったのでご自分で書かず、かぬま殿に代筆してもらったのですかねえ。


horse 六郎さん菩提寺

山木大方は亡き今川の六郎さんの菩提を弔うお寺を、この伊豆の地に求めます。「修禅寺」の和尚様に宛てたお手紙が残っています。「この度、うじやす(氏康)にうちなげき…修禅寺の奥の院・正覚院を六郎さまの菩提寺としたいので、和尚様、よろしゅう頼む」って。

「うち嘆いた」のは、費用のことか、それとも何かの理由で「まずい」のを、「そこを何とか」とお願いしたのか。


山木大方は、小田原と韮山を行き来していたようですね。領地の管理運営についての指示書を、両方の地から出しています。署名を、「にらやま 山き」と「大くら(大くほ) 山き」と使い分けてます。

そしてそこには、トップの画像にあげた「軍勝」の朱印判!


文章は女文字(かな文字)なのに、シメは男性の公用文書に使う 「仍如件」。よって件(くだん)の如し(ごとし)、ですよ。もしかして花押もお持ちだったら素敵ね。


山木大方、カッコイイですね~。キリリッとした方だったんでしょうね。こういう方って戦国時代の女性にはけっこういますよね。今川の寿佳尼などもそうですよねえ。

山木大方の妹である足利公方に嫁いだ芳春院も相当強そうですが、寿桂尼の娘である氏康の正室・瑞渓院なんかも随分とコワかったようで・・・って、怖くてこれ以上書けない・・・ごにょ。

氏康殿のまわりには怖い女人がいっぱい。いや、そのくらい強くなければ戦国時代は生きてゆけぬわ。実家から与えられた任務を見事に果たす女人が多いです。


上にも書きましたが、山木大方の印判は疾走する猪です。文字は「軍勝」。六郎さんの印判をそのまま使ったともいわれていますが、駿河での発給文書にはこの印判は無いそうなので、伊豆時代から使ったものでしょうかねえ。猪だったのかな?それとも伊豆にちなんで猪とか。今でも、伊豆といえば猪鍋だものね。え?


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~修善寺温泉の、修禅寺の正覚院。六郎さんの菩提寺です。~


韮山と修善寺、書いてたら限がないですねえ。妄想しすぎて、だんだん脳が疲れてきた。みなの者、ぜひ、行って堪能してくりゃれ。


またまた、ご興味がある方は、歴史ブログ仲間の古文書ブログ「歴探」で、関連の原文をどうぞ。現代語訳を付けてくださっているので大丈夫なり。

http://rek.jp/?p=2339 山木大方が氏康へのお願いをしたとの手紙
http://rek.jp/?p=2338 氏康、菩提寺に寄進してあげる
http://rek.jp/?p=2340 山木大方の滝山からの人足について
http://rek.jp/?p=2028 氏綱公、亡き正室の菩提を弔う


次は、「おた原 (小田原)」での山木大方(崎姫)と香沼姫。


ほな。

catコメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。

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