« 今、相馬野馬追なんですね | トップページ | 先祖は藤沢周平の海坂藩士? »

2010年7月27日 (火)

それからの後北条一族

自分の家が滅ぶというのは、どういう感覚なのだろう。

討ち死にしちゃったりした場合はそれで終わりだし、沙汰を待ち死罪となれば、それはそれで覚悟を決めればいいだけだ(と、簡単に言うが、戦いに臨む前にすでに覚悟は決まっているだろうし)。

生き残らされてしまったとしても、群雄割拠の戦国時代真っ只中なら、あっちについたりこっちについたり、諸国を放浪しながら次の主を見つけたり、残った家臣を集めて上杉謙信を頼って領地を取り返してもらったり。大変だけど、分かりやすい。

江戸時代なんてもっとシンプルだと思う。「お家再興!」これ以外にない。赤穂浪士だって、最終目的は「仇討ち」ではなくて「お家再興」にあるでしょ。


しかし、戦国時代から天下統一期へと大きく時代が変わる中で、長年続いた自家が降伏し命を助けられてしまったら・・・・・自分の気持ちをどこへどうもっていったらいいのだろう。いっそ、戦で死んでいたほうがよかった、と思うのだろうか。


小田原降伏後、一族中で高野山へ送られたメンバーには、わりと早くに亡くなった人が多い。それも、みんなまだ若くてね。

籠城中に病が流行ったかもとの話もあるが、生きるモチベーションを失って、免疫力が一気におちてしまったのか、それとも、心が空になってしまったのか。

Pict0033 ~古代蓮・7月真昼~


7月5日、後北条は降伏。残された北条一族はその後どんな道を歩んだのか。パラパラとアチコチに書いていますが、降伏月のここで主要メンバーの「それから」をまとめてみました。


horse まず、わが殿北条氏照どのの叔父上「つなしげぃっ!」の孫になる、玉縄城主だった北条氏勝殿

落城寸前の山中城から玉縄城へ撤退し降伏。おサル殿下に気に入られ、徳川家の大名となりました。下総岩富一万石なり。しかし、岩富藩はすぐに廃藩。

この氏勝の孫(甥)は、徳川幕府の兵法指南となった北条氏長です。甲州流軍学を学んで「北条流兵法」を創った人。弟子は有名な山鹿素行ですよ。(会津の直江兼続の屋敷跡を通り過ぎた時、そこは山鹿素行誕生の地でもある、と書いてあったな。)


horse 次に、照どのの弟・鉢形城主だった氏邦殿

先の記事でお話ししましたが、加賀前田家へお預けとなり、能登の七尾で余生を送ります。遥か能登の地で何を思って暮らしたのか。前田慶次郎の娘を後添いにもらったってホント?享年55才。


horse 高野山組

同じく照どのの弟、佐野城主だった氏忠殿は、高野山から伊豆河津に移され、3年後に亡くなりました。

後日談。ご正室と姫は毛利輝元に預けられ、姫は毛利家の重臣の息子を婿にとったそうです(幕末は当然勤皇の志士ですねえ)。


照どのの末の弟、小机城主だった氏光殿は、高野山で2ヶ月後に亡くなっています。


照どのの甥で五代当主・氏直の弟、岩槻城主だった氏房殿。2年後に唐津で亡くなっています。唐津にいたのは、「お預けとなったから」だとか、「秀吉の朝鮮出兵に参陣させられていたから」で、そして唐津で病で倒れたのだ、とかとか。


同じく高野山組ですが、再三ブロクに登場していただいている、照どのの弟、韮山城主・氏規さん。後の河内狭山藩北条家一万石の藩祖ですね。(このことについては追って見聞録を書きまする。乞うご期待!)


氏直さんの弟で、氏邦殿の養子になった直定殿は紀州藩に仕えました。


horse そして、同じく高野山組の、北条五代最後の当主・北条氏直。

北条氏直さんという個人像には特に思い入れはないのですが、小田原攻め最後のあたりからのこの方の立場や気持ちを考えると、胸がつまって、書いてていつも涙が出てきちゃうから、今回は書きません。

氏直は家臣達への主従関係の解約書を書いています。
「みな、それぞれ思う道を行ってくれ…」と。

あー、ほら、こう書いただけで、その時の氏直の状況や気持ちが浮かんできて涙でそ~。


高野山へ送られた、と聞くと、なんとなく侘しくトボトボと落ちていった、というイメージがありますが、実は、旧家臣達を含めて300人位の大所帯だったそうですよ。


horse ちょっとよく分からないこと

-仙台に行った、氏直さん直系の子孫と伝わっているお家(桑島家)。
-氏照どのの養子になったり、千葉家に養子になったり、「それから」は蜂須賀家に仕えたりとかいろいろ説のある、氏直さんの弟の北条直重殿。
-氏光殿のご子息、氏則くん。


horse 不確かなこと

氏照どの達の母上、瑞渓院。氏康のご正室ですね。小田原城内で自害された、と伝わっていますが・・・。


マリコ・ポーロとしては、岩富(現在の佐倉)、河津、七尾、唐津、狭山、紀州など、それぞれの場所に行って見聞してから書いてみたい・・・が、見聞しきれん(小棚の使用人ゆえ)。ゆっくり追々。

もし、お時間あらば、先のブログの「戦国フィナーレ石垣山一夜城」「北条軍団三男坊の城、鉢形城」あと、韮山あたりの記事もあわせてご覧いただければ、いと嬉。

ほな。


catコメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

|

« 今、相馬野馬追なんですね | トップページ | 先祖は藤沢周平の海坂藩士? »

10.北条一族、最後の3ヶ月と高野山」カテゴリの記事

2.北条の小田原」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/545855/48810214

この記事へのトラックバック一覧です: それからの後北条一族:

« 今、相馬野馬追なんですね | トップページ | 先祖は藤沢周平の海坂藩士? »