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2010年7月 5日 (月)

もし今日、小田原城が落ちなかったら

420年前の今日(旧暦7月5日)、小田原城は開城した。というか、つまり、小田原北条は降伏をした。北条一族は、日本中の戦国武将に見守られながら、100年前に自らが開けた時代の幕を自らおろしたのだ。

すでに戦国の世をあきらめて秀吉の元に集った戦国武将達は、この日、戦国の世が終わったそのことを更に強く実感したことと思う。

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~北条五代Tシャツ~

小田原城開城のことは、今まで、鉢形城、韮山城、石垣山一夜城、香沼姫、堀秀政殿、などでもたっぷり書いてきたので、またまたここには書きませぬが、もうひとつだけ妄想させてくだされい。

その妄想とは・・・もし、まだ秀吉が攻めてこず、今しばらくそれまでの体制が続いていたら北条はどうなっていたかということ。


とりたてて親族争いがなかった北条一族だけれど、さすがに五代目にきて少し亀裂が入りはじめましたよね。それは、もちろん、時代の流れが変わったことが大きな原因だったでしょう。考え方が兄弟・親子・叔父と甥で違ってきた。

世の中が複雑になるに比例して考え方や生き方も多様になってくる。もし小田原攻めがなく、おサルに「関東は北条殿がそのままお好きにやってくだされ」と言われても、対立は起こるべくして起こったのではないかしら。

その対立とは、わが殿 北条氏照どの&兄上御隠居様 vs 照どのの甥の五代当主・北条氏直&弟くん氏邦&同じく弟くん氏規という構図で浮かんでしまう。


さて、420年前の今日7月5日、当主氏直は、弟の氏房と共に小田原城を出て、降伏のため滝川雄利(一益の娘婿)の陣へ向かう。

氏直の降伏は秀吉に受け入れられたけど、切腹を申し渡されたのは先代当主の父である氏政と、叔父の氏照。重臣、松田と大道寺。自身の命は許されてしまった。なんと辛いことよ。


それから事は待ったなしに進む。

翌6日に、榊原康政らが城を受け取りに小田原城へ入城。

10日、氏政・氏照は城を出、家康の陣へ入る。入れ替わりに、家康は小田原城へ入城。
(この4日間、それぞれどうやって、どういう思いで過ごしたのだろう。この4日間だけでも、テレビドラマや映画が作れそうだね。)
氏直も滝川の陣所から家康の陣へ移る。氏政、氏直、氏照、そして氏規はここで再会し話が出来たと思いたい。

11日、氏政・氏照兄弟は、弟 氏規の介錯で切腹。

13日、秀吉による勝ち戦の論功行賞が、小田原城内で行われる。家康殿が関東への配置換えを言い渡されるのは、この時。今では、それは事前に打ち合わせされていたとなっている。

21日、氏直達は高野山へ旅立ち、籠城していた北条の城兵達も徳川の家臣となった者も多く、それぞれの道を行くことになる。


こうして「開城」という段取りをリアルに想像すると、主要メンバーは別として、その他の城兵達は、たぶん、現実味がないまま、追いたてられるまま、とりあえず城を出ていく、という感じだったのかなあ、と思ったりもする。

小田原攻めに参加した武将達も帰路につく。そのまま東北征伐に行かされ帰れなかった人達も多い。みんな、長~い滞在だったね。


家康、家康と出てくるが、関東を受け取ったとはいえ、まだまだ豊臣下の一大名としての時代は続くのだよ。


おっ、そうだ!
ひとつ、いつも忘れそうになることがある。
北条氏直さんは、武田信玄の孫でござります。なんか不思議。


「八王子城とオオタカを守る会」の落城忌の話は、旧暦の日にあわせてアップしたいので、また読んでね。

ほな。

cat コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。
画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。

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