北条一族の高野山 1「戦国武将の心のよりどころ」
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天正18年7月21日。後北条最後の当主・氏直以下、叔父、兄弟、重臣達が、およそ300人の大所帯が高野山へ向けて出立した。それは、前当主・北条氏政と、その弟の八王子城主・氏照が切腹した日から十日のちのことだった。 戦国武将は高野山が好き
戦国武将達は事あると高野山に蟄居謹慎させられたり、自ら逃げ込んだりしますね。直江兼続の弟くん、真田親子、秀吉の甥…などなど。「高野山にいって僧になってやる!」と家出パフォーマンスしたのは越後のお屋形さまだったわね。
近畿圏の方にとっても高野山は遠いと思いますが、東国の者にとっては尚更遠い。三蔵法師が天竺に行くようなものです(そこまでやあらへんが)。
私は数年前、お坊さんインターンの仲良しの親戚の子が高野山で勉学にいそしんでいた?頃に呼ばれて、プチ専門家に案内してもらえるチャンス!と、初めて高野山&根来の見聞に行きました。
高野山は戦国武将達の最大の心のよりどころでした。魔王やおサル殿下が攻めたこともありましたが、殿下も後には絶大な庇護をしています。
樹齢千年の杉木立に覆われた昼なお暗い高野山奥の院には、名にしおう戦国武将達や江戸時代の藩主達のお墓や供養塔が、長~い参道の両側の奥の奥まで、ぎっしりと隙間なく林立しています。参拝者は、一種異様な光景とも言えるその間をぬって、最奥のお大師様の御廟(墓所)まで約2キロを粛々として歩くのです。 なぜ、戦国武将達はこれほど高野山に固執したか
それは、遥か遠い先の世、そこに「弥勒 みろく」が現れるからであ~る。その時まで、空海がそこで衆生を救ってくれるからであ~る。
当時は(今も)長く続く「末法の世」。つまり、お釈迦さまが亡くなって長い時が過ぎ、正しい悟りを開く者もなく、お教えも消滅の危機に瀕している時代。
明日の命も定かではないのに、死んでも成仏できない。何から何まで真っ暗闇さ。それを救ってくれるのが、 「弥勒」なのである。しかし、今、「弥勒」はいない。末法の世だからね。
では、「弥勒」はいつ現れるのか。
なんと、56億7千万年後だそうじゃ。
56億・・・それじゃ地球なくなっちゃうよ。
つまり、来ないってこと?付き合ってる人に、「今度いつ会える?」と聞いて、「300年後」と言われたらお断りってことじゃん。とか俗な考えをしてはアカン。
では、どこに現れるのか。
それが、「高野山」の地なのだそうである。
それで、戦国武将達は皆、高野山に自らの墓をたてたり、孫子達が供養塔をたてたりしたのです。この地で「弥勒」が現れるのを待ち、救われんがために。その時まで、お大師様に守っていただくために。
果てしない思想ですね。そうそうは死なないだろうと思っている現代の日本人には分からない感覚ですね。
もちろん、ここには、戦国武将だけでなく、公家も、軍人も、政治家や企業の創始者など現代にいたるまでの庶民のお墓もたくさんあります。その数、約20万基! 「高野山」という山はない
高野山は今さら言うまでもないと言いながら言いますが、1200年前に弘法大師・空海が開山した聖地。標高1,000mの地に、117の塔頭(子院)や堂塔を配置した一大宗教都市です。
ちょっと意外ですが、「高野山」という山はありません。「高野山」とは、あたり一帯の聖域の総称です。
それから、これも意外ですが、山上のその広域な街は…平ら(たいら)、です。例えば吉野みたいに、街中の道はほとんど傾斜している、と思っていましたよねえ。
ここで、空海に高野山を譲りわたした狩場明神と丹生都比売 (にぶつひめ)や、空海と水銀の話もしたいですが、しだしたら限がないので、ご興味ある方は、たくさん書かれたものがあるので是非是非それらをお読みくだされ。とっても面白いです。
山内には歓楽施設以外はなんでもあります。町を行き交う人も、お坊さんはじめ寺に係わる人、観光産業に係わる人、学生、一般観光客、お遍路さん、など様々。大型バスもどんどん登ってきます。
まったくもって高野山とは、「俗」と「聖」が共存している町なのです。
その「聖」の部分は、奥の院だけではありません。中心は「壇上伽藍」エリアです。
奥の院は、空気に色々なものが混じったような濃密な雰囲気ですが、伽藍は明るく開けたエリアです。清浄な軽やかな空気が流れている感じがします。
前に行った時は、伽藍のすぐ隣の塔頭の宿坊(総持院)に泊まったので、夜、ライトアップされた伽藍を歩きました。物凄いピュリファイ感。
それから、高野山の総本山が「金剛峯寺」。秀次自刃の間があったな。
まだまだまだまだ、お山の麓から山腹、山頂、奥の奥まで、さまざまな由緒の堂塔が並び立っています。
「えー?高野山て、どういう縄張り(城じゃないから、そうは言わんか)になってるの~?どうなっているのか全然分からない~」、ですよね。私もよく分かりません。雑誌や資料や旅行誌を読むにも、山内マップは必需品。
高野山は、長い日本の歴史の中で体系もいろいろ変わってきています。
高野山は、私達、修行もしてない者の知るのは、ほんの一部分。その本質は、けっして知ることができない、知ってはならないもののようです。
そんな複雑無限なところが、「ザ・高野山」の宇宙なのであ~る
などと分かったようなことをベラベラベラベラと言っとるマリコ・ポーロですが、その時の数日間だけ見たことや、聞きかじったことを書いているだけで、果たして合っているかは自信がありません。
宗教学は難しい上、空海の資質のせいか、高野山は行き着く先が見えないほど深いので、もっと知りたい方はご自分でお調べいただけるとありがたい。
高野山は、また、お四国八十八ヶ所札所巡りの「打ち止め」の地でもあります。ここで、「上がり」となるのです。なので、お遍路さん装束の方も非常に多いですねえ。
おうっ。今回は、テーマが壮大すぎて書ききれんっ。
さてっと。やっと夏休み。3日間だけ。土日祝休みの方はよくあることでしょうが、私にとっては去年の夏休み以来一年振りの3連休。最近、仕事で心身共にすさんでいるから、ピュリファイ(浄化)されねば。
ほな。
コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。
画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。
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