北条一族の高野山 3 「小田原坊」
マリコ・ポーロ
「北条一族の高野山」1・2 と書いてまいりましたが、いよいよ旅は佳境へ。
~小田原坊「高室院」の障子の引手(開ける時に手掛かりになる部分)にも三つ鱗が。もうこれだけで胸が高鳴る。~
戦国大名や江戸時代の各藩は、それぞれがそれぞれの塔頭 (たっちゅう) と師檀関係を結びます。パトロンみたいなものです。現代のお寺と檀家の関係より、政治的・精神的にもっと深く濃い。これまた「高野山 1」でも少し書きましたので今回はサワリ。 「塔頭 たっちゅう」 とは
子院みたいなものですかね。大寺院にはかならず、本堂があって、そのまわりに小さいお寺がたくさんあるでしょう。例えば京都なら、大徳寺、妙心寺、建仁寺などに。アレらのことです。箱根早雲寺だって、かつては多数の塔頭をかかえていました(ブログ記事「今日は北条早雲後命日」参照くだされ)。
高野山は規模が違いますから、その数も桁違い。現在は 117!の塔頭が山内に点在しているそうです。 戦国武将は大檀那(おおだんな)
例えば、わが祖先の殿様・庄内藩酒井家や米沢藩上杉家は「清浄心院」。真田家は「蓮華上院」。私が前回泊まった「総持院」は細川家。伊達家は「時明院」。そして我らが後北条家は「高室院」…てなぐあいです。
これは、絶対ここだけ、というわけではなく、一つの家でも複数の塔頭の檀越だったり、塔頭の方は当然、複数の家を檀越としています。
各塔頭は大檀那である大名家から様々な庇護を受けますが、反対に、その大名家に何かあった時は協力します。蟄居させられる北条一族は当然、高室院が引き受けました。 宿坊
塔頭のうち、現在は約半分が宿坊を併設しています。以前は、参拝者は、偉い人であろうが庶民だろうが、自分の出身地ゆかりの宿坊に世話になりました。富士山参りとか伊勢参りと同じね。
今でも、そうする人や団体もありますが、ほとんどみんな自由に好きな所に泊まったりランチ(中食 ちゅうじき)したりしてます。
~清浄心院の清々しいお部屋で、お庭を見ながらいただく中食。食事は、どこの宿坊でも必ず塗りの足付き膳でだされます。~
お部屋係はお坊さんです。大きな塔頭だと「寺バイ」が多いですが、その寺バイの子達も、つまりはお坊さんインターン。これも修行だそうです。
はいっ?「寺バイ」ですか?お寺でのアルバイトのことっす。
宿坊に泊まると、翌日早朝から「朝ゴン」に参加できます。
朝ゴンは絶対参加の宿坊もあれば自由参加のとこもあります。でもまあ、せっかく高野山の宿坊に泊まるのですから、参加しなきゃ意味がない、というより、参加したくて宿坊に泊まるのよね。
はいっ?「朝ゴン」ですか?
朝の勤行(勤行)のことです。だいたい、6時から始まります。
宿坊は、旅行会社のフリープランやツアーと提携するような超ゴージャス宿坊から、大昔ながらの、修行や参拝の人達が長期滞在するような大部屋を襖で仕切っただけの所まで様々です。特に思い入れがなければ、「高野山宿坊組合」に聞くと客観的情報が得られますよ。
でもね、思い入れがあってもねえ、設備的に泊まりにくいところだと特に女性は難しいので、そういう場合は中食 ちゅうじき (ランチ)で行かれるのがオススメです。
宿坊の食事は、朝・中・夕、とうぜん!精進料理です。が、しか~し!ご安心めされい、おのおの方。般若湯はバッチリあります。
はいっ?「般若湯」でござるか?
お酒でござるよ。
最初の一杯目は、美しいお坊さんが注いでくださいました。
色即是空 南無大師遍照金剛…
注1) あんまり飲むと、翌日の朝ゴンに参加できない。
注2) お酒はNGな宿坊も数件あるらしいので、予約の時に確認を。まあ、でもね、高野山に泊まった時くらいはさ、お酒なしでもいいでしょ。アル中やないんやから。デトックスですよ。
高野山は、やはり宿坊に泊まって、夜や早朝の高野の気配を感じるのが醍醐味だと思います。あそこまで行くと、南紀白浜や那智勝浦に泊まりたくなりますが、昼間の喧騒の中では感じ取れない「何か」があると思うのです。 小田原坊
~小田原坊、高室院 たかむろいん~
今回は、マリコ・ポーロ迷わず高室院・小田原坊に宿泊。超ゴージャスではないですが、鍵もかかるし、大規模でもないし小規模でもないし、お寺の方達も感じのよい泊まりやすいお寺です。立地も便利。
この日は、他に泊り客がいなくて貸切り状態。高野山は月曜日が定休日なので(商店が)、お山は全体的に人も車も少ないのです。
高室院の開基は、村上天皇のご子孫だそうです。奈良の天河神社の天河弁財天女の「化現 (神仏が姿を変えて衆生を救うために現れたかたち)」といわれた名僧も出しています。
どんな方だったんだろう?弁天様の化現って、ヴィジュアル系的に?内面的に?・・・ちょっと妄想。
小田原攻めの後、秀吉に命を許された最後の当主・氏直さん以下、兄弟、叔父君、親族、重臣達を含め、およそ300人の大所帯がこの高野の地に蟄居となりました。お寺の方がおっしゃるには、メインメンバーは、ここ高室院に寓居していたけれど、随身達は近くやお山の麓のあたりに住まっていただろうとのこと。「そんなにたくさん収容でけへんしなあ」。 高野山の夜
1200年の歴史が幾重にも積み重なった濃密な気配が漂う聖地の夜。スポーツドリンクを買いに一人廊下の自販機の前に立って、ふと本堂の方を見ました。
400年前、ここに確かに、氏直や、氏規や、氏忠や氏光達がいたのだなあと思うと、400年なんてそんな昔のことではないように思われて、今、その暗がりの方へ歩いていったら彼らに会えそうな、そんな気になりました。
あかんあかん、歩いていったらアカン。妄想族にはヤバイ場所が、高野山。 高野山の朝は、朝ゴンで
5時起床。
夜ご飯は早いし、聖地高野山は他にすることもなく、部屋にテレビはあれど、なぜかテレビなんて全然見る気もしなくなり、ちょー涼しいし、夜8時半には寝てしまったゆえ、5時起きなんて軽い軽い。4時半頃自然に目が覚め、腹筋のように起き上がっちゃった。
楽しみにしていた朝ゴン参加です。親戚にもらった輪袈裟と経本とお数珠を持って本堂へ(そんなの持ってなくても全然いいのよ)。いい感じですよ、朝ゴン。途中辛くなったら抜けても許されるから。そんなに厳しくないのよ、一般衆生にはね。
おん おぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まに はんどま
じんばら はらばりたや うん
できるところから唱和。お四国巡りをかじったゆえ、けっこう唱えられるんですな、これが。 後北条家のお位牌
その後、お寺の方達と北条話で盛り上がり、「そんなに好きなら…」と後北条家のお位牌を拝ませていただけました。古い、大きなお位牌でした。恐悦至極!ありがたい!南無大師遍照金剛。
お寺の方が、有名な戦国武将ではもうひとつお位牌があるのですよ、「こちらです」と。
どれどれ、と見ると‥
おおっ!藤堂家。藤堂高虎さんやおまへんか。一応、拝んどこか。 中食(ちゅうじき)は、庄内藩と上杉家ゆかりの塔頭で
~清浄心院 しょうじょうしんいん~
前回高野に行った時は、謙信公が得度した「無量光院」でいただきましたので、今回は、米沢上杉家と庄内藩ゆかりの(たまたまか山形つながりか同じ塔頭だったのね)、清浄心院で中食 ちゅうじき(ランチ)です。
清浄心院の開基は空海その人。堂宇を再興したのは、平清盛の子息宗盛殿です。あの横笛の恋人だった滝口入道もこのお寺で修行していた時があったんですって。戦国武将だと、他には佐竹、太田道誉(こちらは北条の敵というか、息子は味方というか、佐竹の配下というか・・ふ~ん、そうなんだ~)なども、師檀関係にあったお寺だそうです。
高野山町定休日(月曜日)の翌日だったので人が少なくて、中食の後、大師堂・本堂・灌頂堂(勧請堂?)をお参りさせていただけました。
米沢上杉家は、上杉景勝殿からこちらの檀越です。
謙信クンのお位牌にもお参りさせていただけました。これまた恐悦。かなり嬉しいねえ。ありがとうございました。高野1200年の歴史の中にいると、400年前はかなり身近なんですね。
そして、この清浄心院で、より一層うれしかったことは、運慶作の阿弥陀如来を拝めたことです。「えっ、これ、運慶?」と思うような、スレンダーで美しい阿弥陀さまでした。立像です。
その後は、「霊宝殿」へ。
前回も今回も「霊宝殿」をじっくり見ましたが、まことに高野山はお宝の宝庫・さすが世界遺産!
ほな。
まだ続く、高野山。壮大すぎてどうしよう・・・。 コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。
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