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2010年9月 2日 (木)

北条一族の高野山 2 「戦国武将の墓碑めぐり」

「高野山 1」でずいぶん書いてしまった「奥の院」をもう少し。

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~後北条家の墓所は、参道のこの標識から更に奥に入った一角にある。ちょっとコワイ・・。小田原北條氏顕彰会が建立した「小田原北條氏の興亡」の大きな碑があった。


参道の橋

戦国武将を中心とした20万基にも及ぶ供養塔やお墓が、折り重なるように林立している「奥の院参道」。参道入口の最初の橋を渡ると、そこを境に空気の密度が変わります(ような気がする・・)。

前回来た時、普段なんも感じない同行の友人が、奥の院から出て来て入口の橋を渡ったとたん、「あー、息できるぅ」。出てきたそこだって、同じ標高の聖地高野山内なのにね。

参道には3つの川があり、それぞれに橋がかかっています。「橋」は、あの世とこの世をつなぐもの。私達は、3つの橋を渡るたびに、少しずつ俗世から離れ、浄土へ導かれていくのでしょうかねえ。


橋を渡るときには、必ず「一礼」をします。弘法大師空海、お大師様がお迎えにきてくださっているからだそうです。帰りは、橋を渡り終えたら振り返って、見送ってくださっているお大師様に、また一礼。

そのことを知らなくてやらない人達も多いのですが、恥ずかしがらずに一礼すると、後ろから来た人達も「おっ、そういうものか・・」という感じで真似してくれます。ここを歩いていると、皆、なんとなく神聖な気持ちになるのかも。


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~江戸時代の遠州掛川 北條家墓所。戦国時代の玉縄北条系。こちらは参道に面している。~


武将の墓碑

参道には、戦国時代に敵だった人同士のお墓や供養塔が仲良く隣り合っていたりします。あの世ではもうケンカなんかしないで、戦の思い出話なんかしてるかもね。

「いや~、あの時は、あーでこーで、実はこーしようと思ってたんだよ~。」

「えー、やっぱそうだったのか~。そうじゃないかな~って思ったんだけど、イマイチ自信がなくてさ、あーしちゃったんだよ~。」

「それにしても、弥勒、遅いね~」なんてね。

どうやって、墓所の場所決めをしたのかな?


歴史ファンの参拝者も多くて(含む、わらわ)、みんな、「高野山奥の院の墓碑をたずねて」という墓碑マップ(\100 観光協会で売っている)を片手に、「おー、ここだここだ」と、お気に入りの武将や大名家の墓碑をめぐってました(含む、わらわ)。

みんな、お参りして何を申し上げているのだろうね?
「安らかに成仏してください」?
「大好きだぜーーっ」かな?


お墓や供養塔は戦国武将のものだけではなくて、平安時代・鎌倉時代・室町前半の武将、天皇家、公家、江戸時代の大名家、現代人?、曽我兄弟、初代団十郎、四十七士なども目につきました。宗派は関係ないのですね。法然上人や親鸞上人などの墓碑もあります。

慰霊碑も多いです。現代の戦争や災害で犠牲になった方達、さまざまな協会・団体のもの。「ふぐ」や「シロアリ」や交通事故で犠牲になった動物の精霊碑なんかもあった。


参道は特に門もなく自由に何時でも通れますが、夜は当然のことながら、夕方や早朝も、あまり行かないほうがよいと言われました。その時間は、あの世とこの世の狭間の時間だからだって。逢魔が時ね。行ってもいいと言われても行けないよ。

ひえ~

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~奥州仙台伊達家~


そもそも「奥の院」とは

弘法大師、空海の「御廟」です。つまりお墓です。

お大師様は、「弥勒」があらわれるまで、生身のままここでわれら衆生を守ってくださっているのです。

ゆえに、御廟には毎日お食事をお運びしています。こういうところ多いですよね。比叡山延暦寺の最澄(私、実は好き)や奈良唐招提寺の鑑真和上などなど、高僧の御廟は皆そうなのかしら。


約2kmの参道をひた歩き、3つ目の橋「無明の橋 むみょうのはし」を渡り、行き着いたところが「燈籠堂」 本堂みたいなところ

その奥が、「弘法大師御廟」です。「無明の橋」とは、煩悩を取り去る橋だって!煩悩が取り去れなかったら何度も渡りなおさなきゃならない?橋を行ったり来たりしてたら、「むみょう~」じゃなくて「妙 みょう~」でしょう。


御廟のお参りは地上でもできますが、お大師様と結縁(けちえん)するには地下へ行かなければなりません。日ごろの行いが良い人には御影が見えます。細工は流々。←うそうそ、そうかどうか分かんないからね。噂よウワサ。


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~上杉謙信廟(with 景勝殿)。こちらも参道から奥へと登る。登り口に標示がないので気が付かない人も多い。他の大名家にはない覆屋付き。師檀関係にある塔頭・清浄心院の方に教えていただいたところ、景勝より8代までは、御遺骨はこちらにあり米沢は分骨だったが、8代当主よりそれが逆になったとのこと。~


私、お墓の写真は撮らないのですが今回は撮ってしまった。でも、さすがに真正面から全部は撮れない・・・。物理的には中に納められていない供養塔や御霊屋の場合が多いですが、分骨されている方も、本骨?の方もいらっしゃいます。


泊まりは、後北条ゆかりの塔頭・高室院、通称「小田原坊」。最後の当主・氏直さん以下が、まさに蟄居していたお寺です。

次回。


ほな。
南無大師遍照金剛


コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。

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