« 「多摩のあゆみ」新号は、後北条特集 | トップページ | 「ほたるの光」が流れる東西境目の城はどこ? »

2010年9月13日 (月)

江戸時代の北条家「狭山藩邸跡」

タイトルに「藩邸」と書きましたが、三万石以下は、「藩邸」ではなく「陣屋」の由。江戸時代の北条家は一万一千石なので、正式には「狭山陣屋」です。

049_21
~狭山陣屋は狭山池に面していた~


horse 狭山池

上の写真を一枚撮っただけで、高野山から下りてきた身はあまりの暑さに堪えきれず、池端に建つ巨大な「狭山池博物館」にヨロヨロと入館。

狭山池は、空海が高野山を開くより尚200年も昔の飛鳥時代、国家的大プロジェクトとして誕生した人工池だったんですってね。日本最古のダム式ため池。知りませんでしたよ。


狭山池は、その後も現代に至るまで大きな改修がされていて、かかわってきた人もそうそうたるメンバーです。行基や重源、片桐且元殿などなど。特に、重源(ちょうげん)は、館内の展示のアチコチにお名前が出ていました。

重源(ちょうげん)と聞いて思い浮かぶのは、源平の合戦の時代に平重衡が焼いちゃった東大寺の再建、ですが、今行ってきた高野山の「高野聖」をまとめて確立させた方でもありますよね。大きな勧進には必ず頼りになる強い存在の方なんですねえ。


この博物館はスゴイです・・・たぶんsweat01土木・建築にかかわる方達がご覧になったら。1400年にわたる治水灌漑事業の、その時代その時代の最新鋭の技術が見られるわけです。わらわは、よう分からへんかったですが、分からんなりにも珍しかったので結局全部見ちゃっいました。

(暑くて外へ出たくなかっただけ、という声もありますが。)


horse 狭山藩と狭山池

「この池も狭山藩のものかぁ~。幕府からの補助金はあるだろうけど、維持管理がさぞや大変だっただろうな~」

と思ったら、狭山池は幕府の管轄だったんですって。途中、数年、狭山藩が管理をまかせられた時期もあったそうですが、またすぐ幕府管理に戻って、江戸時代後期になると幕府財政難のため、池の恩恵を受ける農民の共同管理に委ねられてしまったそうです。


050_21

ここでも、北条関係の文書を発見。

おサル殿下(←失礼だ)の股肱の重臣、片桐且元殿が北条氏信クン(氏規さんの孫)に宛てたお手紙です。狭山池を広げるために使った氏信さんの領地の代替地に関する内容でした。

最初に、「御親父 知行所 (お父上様のご領地)・・・」 とあったり、宛名が「北条太郎助殿」なのがカワイかった。氏信くんは、お父上が早く亡くなったので小さい頃に家督を継いでいます。

このお手紙をもらった時は何歳位の頃かな?と思って後で調べたら、9才でした。この方も25才で亡くなっているわ。北条家の男子は短命な人が多いですねえ。


horse 狭山陣屋

今まで、散々、しつこい位に書いてまいりましたが、後北条家は、秀吉殿に降伏して以来、あんなことやこんなことがあった末、結局、徳川さんの江戸時代、河内狭山藩として明治を向かえます。その藩邸というか、陣屋の跡地がここです。


「陣屋」というと、戦国マニアは軍営地にあるのみたいのをつい脳裏に浮かべてしてしまいますが、これは江戸時代のことなので、広大な屋敷みたいなものを想像せねばなりませぬね。

三万石以下の大名家は「城」を持てず、「陣屋」とよばれる公邸私邸を兼ねたところが城代わりでした。といっても、「城」を持っていたのは徳川300諸侯のうち半分くらい。あとは、みんな小藩ゆえ「陣屋」を藩庁としていました。「陣屋」って、地方の代官所などのこともいいますよね。

0511
~黒い部分が狭山池。池に面して角に囲ってある部分が下屋敷、下の楕円部分が上屋敷。博物館にあった江戸中期の絵図面。~


狭山陣屋は片側が天然の要害・・・じゃない、人工ため池「狭山池」に面し、そこから流れ出す用水で上屋敷と下屋敷に分かれていたようです。

陣屋の表門は、今、堺の西本願寺別院に移築されているとのことです。暑うてのう。もうそこまでは、よう行かれへんわ。


0461
~狭山陣屋跡の碑。ここは、上の絵図面の上屋敷にあった馬場。碑の後ろ側あたりが当主の屋敷だったようです。ちなみに下屋敷跡は昭和13年、村民のために使ってくれと北条家は手放したそうです。それが「さやま遊園地」。~


狭山陣屋跡と狭山池と博物館は、大阪狭山市駅から徒歩すぐ。しかし情緒のあらへん駅名やな。狭山遊園地がなくなったから?「北条陣屋駅」にしたらええのに。

まさかここまで見聞するとは自分でも思わなかったのですが、ちょうど高野山への南海電車の「ぶらり途中下車」だったのです。


いったいマリコ・ポーロは、どこまで行くのだろう。マリコ・ポーロなのに、勘違いして「ドンキホーテさん」と呼んだ方がいらっしゃいましたな。大ウケでした。マルチョcatパンサもいるしね。

後北条に興味を持った当初は、狭山陣屋まで「見たい」「行きたい」になるなんて思いもしなかったですよ。その上、狭山池の灌漑の歴史まで見るなんて想像もつかないことです。まあ、趣味とはそういうものかな。仕事でもここまでやらない・・・なんてことはないですからね!


これも、子供の頃からいろんなところへ連れまわしてくれて、いろんな物に興味を持つことを教えてくれた親のおかげ。元気に育ててくれた親のおかげ。北条家を大阪へ引っ張り出した、おサルのおかげ。

高野山で思ったことにござります。

ほな。


cat 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログへ

|

« 「多摩のあゆみ」新号は、後北条特集 | トップページ | 「ほたるの光」が流れる東西境目の城はどこ? »

4.その他の後北条ゆかりの地」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/545855/49374826

この記事へのトラックバック一覧です: 江戸時代の北条家「狭山藩邸跡」:

« 「多摩のあゆみ」新号は、後北条特集 | トップページ | 「ほたるの光」が流れる東西境目の城はどこ? »