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2010年9月 6日 (月)

北条一族の高野山 4「高野山を譲った神様」

伝承。~空海は、狩場明神(高野明神)と丹生都比売(にうつひめ)から、この高野の地を譲られた。~

高野山を歩いていると、この二人の神々(実は四神)に由来するものに度々出会います。

056_2 ~2匹の黒と白の犬は、空海を先導した狩場明神の犬。松栄堂さんの包装紙。「秘密真言最上宗」と書かれている。~


本地垂迹 (ほんじすいじゃく) 説と、神仏分離令

本地垂迹 とは、異郷の神だった‘仏’が、日本古来の神に姿を変えて現れるという説。日本の在来神と外来の仏との融和合体コラボレーション、みたいなもの、でいい?

かつての日本は神仏混合。今でも、大きなお寺には必ずそこを守る神社がありますね。小さなお寺でも、片隅に小さなお社(おやしろ)があったりしますでしょう。


明治維新直後、政府高官の大久保さん達が「日本は神の国である」と、神様と仏様をキチンと分別・・・じゃない、区別しようという政策を打ち出しました。これがエスカレートして、仏様ぶっ壊し運動へと発展し、悪名高き「廃仏毀釈 はいぶつきしゃく運動となったでごわす。

数年で、「こげんこつばしとったらイカンでごわす」とやめましたが、慌てて壊しちゃった仏像も、慌てて僧から神社の神官にくら替えした人達も、後悔先にたたず。責めてるんじゃありまへん。仕方ないです。政府の命令ですから。こういうとこは、公に近い関係のお寺が多いみたいですねえ。

だから、なんだっけ…。最近、余談にうつると、何話してたんだが忘れちゃうんでごあす。


そう、高野明神&丹生都比売。つまりこれは、高野山の地が、日本古来の地元の「神」と、新興の外来の「密教」との融合体になった、ということでいいのかな?こういう話は、日本中のアチコチでの伝承によくありますね。

日本古来の文化が、インポート(当時の最先端にイケテるのは唐の国、中国ね)な文化に乗っ取られるという、まあ、現代もあります。現代は欧米にですが、銀座の街とか、老舗百貨店の一階とかね。


空海と水銀

こんな話もあります。

「丹生 にう」という、水銀をつかさどる古い一族があります。以前、輪島塗りの時にチビット習ったりチビット勉強したりしたんですが、「丹生」とは、漆塗り(とか顔料)の朱に使う「辰砂 しんしゃ」に関係しています。ほら、鳥居なんかで「丹塗り にぬり の鳥居」とかいうでしょう。あの「丹」です。「辰砂 しんしゃ」の原料は水銀です。

高野山の地にも「丹生」という一族がいたようです。水銀鉱があって、それを管理していたということかもしれないらしいです。その丹生氏が、空海に支持した。その結果、空海は当時は貴重な水銀をも手に入れた…と。


この話は、けっこうイヤがられもしますが(お坊さん達に)、大宗教を起こしたり、大事業を成し遂げるには、経済力のあるバックが必要だし、そういう勢力が味方になるのも、その人や、その教えや、そのプロジェクトに魅力があってのことだと思います。


そういえば、ほら、朱をふんだんに使う「根来塗り」を生んだ「根来 ねごろ」も、同一エリアでしょう。(根来も、数年前の見聞を追々ね。)


高野山を空海に譲った高野明神と丹生都比売は、その後、高野山から姿を消してしまったわけではありません。大事な存在ですからね。 麓の九度山に、空海が創建した「丹生官省符神社 にうかんしょうぶじんじゃ」←すごいレトロな名前・・があります。(丹生都比売は天照大神の妹ですって!狩場明神は丹生都比売の御子らしい。)
そういえば、先に書いた「清浄心院」の阿弥陀さまの背後にもいらっしゃったな。


と、ここまでのことはマリコ・ポーロの浅い知識で書いています(浅い知識でさえ、書ききれない)。それに、色々な説や意見や考え方があるカテゴリーなので、あんまりここに書けないし・・。もっと本当の深いとこが知りたい方は、研究家のお書きになったものがけっこうありますので、そちらをご覧あれ。ハマってしまうかもしれない領域ですが。

042 ~壇上伽藍の御影堂(中)~

高野山宇宙の中心 「壇上伽藍」

丹生都比売と狩場明神は、高野山の「壇上伽藍」にもキチンとお祀りされています。


壇上伽藍に行かれると、「御影堂」までのあたりを一別して帰る人が多いですが、その先の「山王堂(2神を祀る拝殿)」の後ろ側へまわってみてくだされ。私はこのエリアが好きです。

手前のエリアは、スカーンと抜けた、明るく渇いた感じですが、山王堂の脇を通り抜け奥へ行くと気配が変わります。木々が生い茂り、湿った、いかにも「神域」のたたずまいがします。

丹生都比売や狩場明神達は、こちらにおわすしますのでありまする。

044 ~最奥の「西塔」。これも好き。~

壇上伽藍は「密教の世界をいくつもの堂塔で表現した空間」 だそうですよ。高野山の主要行事もここで行われることが多いです。


金剛峯寺

サル殿下の寺です・・・違います。全国の高野山真言宗の総本山であります。

殿下が亡き母上・大政所さまの菩提を弔うためにつくった「青巖寺」が前進だそうです。ですから、お寺の中はサル殿下の「桐紋」だらけです。

高野山に送られた殿下の甥、例の秀次殿の「自刃の間」があります。しかし、この建物は文久3年(幕末、新選組結成の年だわ)に再建されています。「自刃の間」って・・・??よう分からん。


町石道(ちょういしみち)

かつて高野山へ登る道はいくつかあったそうですが、「町石道」とはその表参道です。麓の九度山・慈尊院→奥の院・壇上伽藍まで続く、空海が高野山を開いて以来の道です。

1町(109m)ごとに下の写真のような石柱が建っていて、梵字と「あと何町」との道しるべが刻まれています。昔は木製だったそうです。計216基。

一度、町石をたどりながら麓からあがってみたいものです。標高差700mをゆっくり登って6-7時間だそうですが、高野山の修行僧の方達は3時間位で登るって。風のようだね。

039_4 ~バス通りの「町石道」


もっと高野山

高野山内はバスが便利に通っています。しかしだ、私はバスは一度も乗らず、山内を西へ東へ南へ北へとウロチョロウロチョロ動き回りました。といっても高野山の表面だけです。高野山は奥深く、広域で、とても一泊二日ではサラッとだけでも巡りきれません。

他にも、刈萱堂、熊谷寺、女人堂、徳川家霊台 etc.etc. と、山頂の表面エリアだけでもお参り処はたくさんあります。前回なんて、霊宝館に各塔頭秘蔵の戦国武将の肖像が一挙公開だったので、そこだけで半日以上つぶしてしまいました。


次回は、麓の九度山慈尊院から町石道を歩いたり、「真別処 しんべっしょ」 をお参りしたりしてみたい。写経も阿字観も、高野山で体験してみたい、みたい、みたい。

が、無理ですな。なんせ、坂東からは遠いゆえ時間とお金がかかる。そうそうは行けない。


ほな。


コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。

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