司馬遼太郎さんにカブレてゆく、根来(ねごろ)
マリコ・ポーロ
~根来寺 根本大塔(撮った写真の、写真を撮った)~
高野山からおりて紀ノ川を下ると、根来(ねごろ)という土地に着く。
空海が高野山を開いてから約300年後、高野山に大騒動があった。座主の地位を追われた(捨てた?)興教大師(こうぎょうだいし) 覚鑁 (かくばん)が、高野山を下り、後に信長や秀吉をも恐れさせる一大勢力「根来寺」を興したところである。
先日来、高野山「小田原坊」での夜の気配からどうしても抜けきれないでいて、数年前のことではあるけれど印象的だった根来寺でのことも書きたくなってしまった。
数年前に初めて高野山へ行った頃は、輪島塗りにかかわっていたこともあり、根来塗りや根来衆ゆかりの地「根来」に興味があって、根来関連の物を読みあさっていた。大好きな司馬遼太郎さんが、「街道をゆく」の中で根来のことを、
吹く風までがただごとではないのである…
と書かれていらしたのを読んで、その「ただごとでない風」の中に立ってみたくなった。 根来寺(ねごろでら)
根来へは、現代は舟で紀ノ川を下ったり出来ないので、和歌山駅に出て、そこからバスかタクシーで15~20分位。
駅まわりの賑わいを抜け田畑風景の中を少し走ると、道はすぐに低い丘陵地帯に入る。高野槙の木やほんのちょびっと残る古い石垣の名残が見られる、緩やかな丘と丘が折り重なりあう間の明るい谷を車は進む。
400年前の根来寺は、この谷々に2千七百あまりの院坊が建ち並び、一万人以上の僧兵(根来衆)をかかえた、石垣の連なる大城塞宗教都市。信長や秀吉が徹底的にたたき潰しにかかるほどの一大勢力だった。
そこだけポッカリあいたような、カラ~ン(ガラ~ンではなく、カラ~ン)とした広い空間に着くと、そこが根来寺。
朝早く行ったので、まだ開門前。とはいっても入れちゃうのだがそれは無礼ゆえ、しばしボーッと、山に囲まれて丸ぁるくスコーンと抜いたような青い空を仰いでいると、
「ごめんなさぁい、お待たせしましたね~。どうぞどうぞ」とお寺の方。まだ開門時間前なので遠慮していると、「お堂を開けるから一緒に行きましょう」。
歴史やお寺が好きな人でも、根来寺は根来攻めの時に灰儘と化しすべては埋もれてしまっていると思ってらっしゃる方が多い。兵火によりほぼ消滅したが、それでも仏像や、大門、根本大塔(国宝)、大師堂(重文)などは当時のまま残っている。
お堂の扉の鍵を開けてくださっているのを後ろで待つ間、ふと壁に目をやると、弾痕が撃ち込まれた跡。よく見るとたくさん。うぅっ、これは会津の滝沢本陣よりスゴイ、か?鉄砲のトップ商社だった根来は、その鉄砲を散々撃ち込まれて滅びることになったのであるかぁ。
ギギギーっと扉が開いて、「さぁ、ど~ぞ~。すぐ明るくなりますからね~」。真っ暗で何も見えぬ中に立っていると、係りの方が明かり取りの戸板を開け始めた。
一枚一枚、扉を開けられるたびに差し込む朝の日差しに、内陣の仏様が一体一体浮かび上がってきた。それはなんとドラマチックな光景だったことよ。係りの方にとっては毎日の当たり前の光景なのだろう。仏様にササッと手を合わせスタスタと向こうへ行ってしまったが、私には、今でも忘れられないぐらいの印象的なひと時たっだ。
そういえば、私は勘違いをしていたが、根来衆って僧兵のようなファッションではないんですってね。平安時代の弁慶のようなとまでは思わなかったけど、短髪や坊主頭で、黒っぽい、まあ弁慶に近いカッコで鉄砲のお手入れ・・みたいに想像してた。ところが、通常は着流し姿で、髪は後ろで一本に束ねて垂らしていたって?そうなんだ~。 興教大師 覚鑁(かくばん)
覚鑁上人は、覚鑁を追った高野山にも大切にお祀りされている。奥の院参道中ほどをちょっと入ったところにある「密厳堂」 。このあたりの参道は石段になっていて「覚鑁坂」とよばれている。参拝者は素通りしていく人が多いが、親戚の子が言うには、現代の高野山のお坊さん達は皆きちんとお参りしているそうである。
もうひとつ、奥の院と壇上伽藍の間に、刈萱道心と石動丸くんをおまつりした「刈萱堂」というお堂がある。ここに「密厳院」という塔頭があるが、こちらが覚鑁が高野山にいらした時の自坊の跡のようだ。
定かではないが、高野山での覚鑁上人のご本尊は運慶作の不動明王。前北条の北条時政が寄贈したもので、今、これは、マリコ・ポーロが先のブログ「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」でご紹介した、願成就院の一体だって!!ほんと!?
根来寺は、江戸時代に紀州徳川家の庇護を受け、ある程度は復興をしたはずだし、最盛期のお堂や塔や仏様も残っている。なのに、そこには、「一大勢力が滅びて何も無くなった地」の雰囲気が漂っている。
そして、こう言っていいのか悪いのか、空は明るいのに、囲む山々は緩やかなのに、‘気配’がない。仏も僧達も皆いなくなって、覚鑁の魂だけが取り残されている…そんな感じがした。これは、なんなのだろう。
覚鑁という方も、他の宗派の開祖達に比べると今ひとつ知られていない。「根来」とか「覚鑁」とか聞くと、お坊さん達は違うだろうが、私達歴史好きにはなんとなくミステリアスな妄想が浮かぶ。
覚鑁上人は、500年後、根来の寺が自分を追った高野山にもまさるとも劣らない大勢力となり、その荒々しさがために時の権力者に攻め滅ぼされ、今、伝説のようになっていることをどう思ってらっしゃるのだろうか。享年49才。信長や謙信公と同じだわ。なぜだか、すご~く長生きされたようなイメージがあったけれどそうじゃあなかった。とても研ぎ澄まされた人生を送られたのでしょうねえ。お墓は、根来寺奥の院にござります。 日前国懸神宮(ひのくまくにかかすじんぐう)
耳馴染みがないお名前でございましょう。紀伊之国の一宮。日前神宮と国懸神宮の二つのお社が、ひとつの境内にお祀りされているのでこういう名前になっている。
創建は2600年以上前!!古いです。由緒おおありです。神さびまくってます。
根来に行った時、もう少し時間があった。和歌山城に行こうかどうしようか迷ったが、藤堂殿にも紀州さんにも復元された天守閣にもあまり興味がなかったので(後で認識したのだが、和歌山城には藤堂殿時代の野面積みの石垣が残ってるって…行けばよかった…)、「街道をゆく」で司馬さんオススメのこのスゴイ名前のお宮へ寄ることにした。
二つのメインお社はシンメトリーに並んでいたが、それどころではなくて、境内には何十もの神様の小さい古色蒼然としたお宮が所狭しとおわすのである。うかがったところ80余りあるそうだ。
神宮の境内といっても、広々と清々しい境内、というのではない。明治神宮や伊勢神宮のように整然とした森という感じでもなくて、どちらかというと原生林に近い感じ。奈良の春日大社ほど濃い密林とも違うが、あまり人の手を入れていない原始の森のように(原始の森は見たことないが)、木々がバサバサ生い茂り、立ち枯れた木も若木も一緒くたに乱れ折り重なるようにうっそうとしている境内であった。
なのに、なんとこの神宮、和歌山駅のすぐそばの超街中にある。これが一番の驚き。
平日の夕方近かったこともあるかもしれないが、参道も広いのに恐くて、よう散策でけへんかった。私、日前宮の神様達に拒否されたのかな。
ほな。
コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。
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