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2010年10月16日 (土)

BS日本の城ミステリー「高知城」

先週の「熊本城」に続き今宵は「高知城」。

002 ~高知城の修復順番待ちの石垣(2010.2)~

土佐には近しい親戚がおり何回か行っているので、今日の「高知城」は親しく拝見。


最初は、カメラが攻撃側の立場になって、追手門(大手門)から攻め込みながらの城の防御体勢の紹介。普段は非公開の追手門の2階・渡り櫓にも潜入。板垣退助の銅像はスルーし、詰門をくぐって・・・はイカンぜよ。右の細い道を通って上へ上へ。ぐるり廻ると、詰門の反対側へ。詰門は廊下橋となって本丸御殿へ。


そうそう、この、廊下橋の内部の気配がい~いのよね~。

雨や台風の多い土佐ならではの水や風の対策を説明しながら、本丸御殿の中へ。高知城は、本丸御殿と天守が続いている珍しいお城ですね。本丸御殿はほぼ山内一豊時代のままで残されているそうですよ。天守は火事で焼けてしまったので、江戸中期に、一豊時代の通りに再現。この時代によく許可がおりましたねえ。


高知は戦争で空襲をうけましたが、天守は残ったのですねえ。本丸御殿とか追手門などは被害にあったそうですが。

「高知城」の天守の最上階はとても狭くて小さいでしょう。下から見上げると、コキッて折れそう。登ったとたんに四方からビュービュー風が吹き入れていたのを思い出しました。「掛川城」と同じ造りなんですって。一豊、最初の城に思い入れが深かったのだね。皆、そうか。


と、ここまでは順調だったのですが、ここから、山内の長宗我部家臣に対する身分区分の説明となり、結局は龍馬や武市の‘思い’へと話は移ってしまいよったがぜよ。武市の生家を訪ねたり、龍馬記念館を映したり、黒鉄さんと三津五郎さんで志士達の話をしたり。

ちょっとちょっと、龍馬記念館は長宗我部の「浦戸城」ですよ。城番組なんだからさあ、お城をやってくださいましよ。高知城の石垣は浦戸城のものを移したって、行った時にガイドさん達がおっしゃってましたよ。

とは思えど、黒金氏が幕末なのは存じておりましたが、三津五郎さん幕末もお好きなんですねえ。

021 ~若宮八幡宮、元親殿初陣像~


でも、見てよかった。
山内家19代のご当主と、長宗我部家17代のご当主(元親殿の弟の直系)が出演!なさったのです。

それぞれの、お城に対する思いをこうおっしゃってました。

(山)

「高知城は戦うためではなく、土佐を守るために造ったのだと思う」
「城が高知のシンボルとなり、観光のためにもなって、城を造ってよかった」
「(今も、)どうやったら高知のためになるか考えている」


(長)

「長宗我部は、まったく消された」
「私の一族は 忍従 である」
「今でも、城を見るたびに涙ぐむ」
「(高知城は)長宗我部からみたら、無念の城 である。」


マリコ・ポーロが土佐で聞いたのですが、長宗我部一族はずっと違う苗字を名乗っていて、長宗我部に戻ったのは、ついこの間なのだすて。

両家とも、現在は江戸にお住まいです。


ちなみに、「高知城」は閉門時間(閉門はしないけど建物には入れなくなる)に、「ほたるの光」は流さない、そうです。

次週は、閉門時間に「ほたるの光」を流す「姫路城」。


以下、先週の「熊本城」の感想ですたい。
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-7233.html


ほな。。


コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。

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