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2011年1月26日 (水)

駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規

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~北条早雲の姉上(妹?)北川殿の菩提寺「徳願寺」~


何故、「その場所」へ行ってみたいのだろう。

「その場所」に行ったからといって、その人がいるわけでもないし、ましてや今、当時のままの「その場所」なんてほとんどないのに。


昔から、「その場所」に立ってみるのが好きでした。昔は、「その場所」に立ってみた感想を家族や友人や同僚に、「聞いて聞いて」と話しまくったり、アルバム(古いですね)に写真を貼って脇に感想を書いたりしていたのが、今はブログに書くということに変わりました。もちろん家族や友人に語りまくることをしなくなったわけではないですけどね bleah


「静岡戦國祭」の合間(どちらが合間か分かりませんが)、後北条ゆかりの「その場所」に立ちたくて、大御所様強力フューチャーの駿府の町を歩きました。

では、以下、駿府の町歩きの話です。聞いて、聞いて!


fuji 北川殿の菩提寺「徳願寺」

北川殿は、北条早雲こと伊勢新九郎さんの姉上です。妹という見方もあります。徳願寺の縁起には妹となっていました。この北川殿が今川の当主の室となり男児を産んだことから、後北条一族の歴史は始まりましたね。
(このへんのとこは、以前に興国寺城などと共にご紹介しましたので、よろしければ。)


徳願寺は、駿府城からも駅からも車やバスで10分位(バス停からは20分ほど坂をのぼる)の、安倍川を渡ったところにある徳願寺山の中腹にあります。駅前のロータリーを抜けると斜め右前方に徳願寺山が見えてきます。徳願寺山は城跡でもあります。

広重の「東海道五十三次」の「府中」で、安倍川の向こう側にある墨色の山が徳願寺山なんですって!

車の運転が上手でない方は、他の人達のためにもバスやタクシーをおすすめします。上り口が非常に分かりづらいですし、舗装はされていますが対向車がきたらどうするの、くらいの細くて急でカーブが続く坂道(つまり舗装されていなければ、山道)を上らなければならないからです。しかも、けっこう人が歩いています。その上、バスの便はほとんどありまへんので要注意。リュックを背負って徳願寺城跡の方へ登っていく人達も何人か見かけました。

その山道を登りはじめると、もうすぐに(つまり急坂ということ)、

わぁおっ!
これは、これは。
素晴らしい眺めですよ!

駿府のご城下、駿河の海、そして富士山が一望のもと!なのです。ここは夜景もステキでしょうねえ。知らなかったから、ものすごく感動しました。「ちょっと行きたいかも」と思う方は、ここを読まないで・・って、もう遅いし。

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~北川殿のお墓にございます~

山門を入ってすぐのところにござります。ご住職(ご子息?)のお話では、当初お墓は山の上にあったそうです。後に本堂裏の歴代住職の墓地にお移しし、最近、お参りしたいという人達が増えたので、今度はこちらにお移し申しあげたそうにございます。当時は土葬。お骨も骨壷なども消滅している方達のお墓を移す場合は、一緒に土を一握りお移しするんですってね。台石はその時の新しいものです。

私はご遺体やご遺骨が埋葬されているお墓の写真は撮らないのですが、そういうことだそうなので、それに、とてもかわいらしい五輪塔なので、お参りした後に写真を撮らせていただきました。


北川殿は夫(6代当主)や息子(7代当主)に先立たれ、亡くなった時は80才を過ぎていたといわれています。

戒名(徳願寺縁起より)
 徳願寺殿慈雲妙愛大姉


fuji 北条氏規、人質時代の屋敷跡

何を調べても場所が分からなくて時間がなくなりましたので、あるHPにあった静岡市史の古地図を参考にさせていただきました。地図の前後に何か書いてあるでしょうから、図書館へ行ってこの市史の古地図を見たかったのですが、なんせ暇がなかったの(その後このHPをまた見ようと思ったが探し出せない・・)。


ところが、これが、「ぶらマリコ・ポーロ」でしたよぉ。

大変でした。その地図は小さくて、文字もぼやけて小さすぎてよく分からないのですが一応プリントして、まずは目指すポイント「小梳神社 」へ。この神社の名前も読めませんでしたが、「おくし じんじゃ」だそうです。

地図によると神社の鳥居からまっすぐに続く道の左側に、松平竹千代つまり家康と、北條つまり氏規の屋敷が隣り合わせになっています。神社の後ろ側は横雄川(安倍川の支流ですか?)。境内は細長く川に沿っています。横尾川は神社の本殿(らしきもの)のところで別れ、そちらは妹川となっています。


小梳神社は、静岡駅前の繁華街のど真ん中にありますが・・・あにゃにゃ?後ろに川なんか流れていまへん。いや、タモリさんが番組で言ってました。「道は記憶している!」。まわりの道に出て見ると、道はみごとに蛇行しています。「おー、これはかつて川だったのね!」。でも、東西南北が合わない。

もしや、神社移転してないか?こういう時に携帯は便利。小梳神社を検索してみました。神社に聞けばいいのですが、フリーマーケットみたいなのやってて境内はごった返してましてね。

すると、やっぱりね~。移転してます。かつては鷹匠町の方にあったようです。そういう観点でもう一度ぼやけた地図を見ると、あっ、神社の前の街道、「北街道」と読めないこともない。


今度は、そちらへ向かってまたひと歩き。お昼食べてなくて、早朝パンを半分食べただけ。血糖値さがっているはずなのに、「好き」ってスゴイ!

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ありましたよ~。古地図にどんぴしゃな所が。写真の手前が北街道。向こうへ渡って左側に、一軒おいて竹千代屋敷、氏規屋敷と続くのですよ~。

といっても、いくら‘子供人質’とはいえ一軒はかなり広いでしょうから、三軒目ともなればかなり向こうでしょう。もっと向こうへ行くと、華陽院という、竹千代君のお祖母様の菩提寺があります。今川時代の竹千代君は、そばにお祖母様がいてくれたんですって。

街道のこちら側は商店が立ち並んでいて、その後ろは駿府城です。当時の今川館は今ほど広くはないと思いますし、また、位置ももう少し西寄りだったようですが、それにしてもお城の近くなんですね。

助五郎くん(氏規)はここに住んで、お祖母さまの寿桂尼と温泉に行ったり、竹千代君とお勉強したり、わ~いってチャンバラごっこ・・・はしないよね。したら、マジやばい。うう~、歩いたかいがあったのう。

もしかしたら、もうちょっと南西(右)かもしれないが、まあこのあたりってことにしてちょ。

そういえば、武田信玄の父親も今川が預かっていたのよね。どのあたりに住んでいたのかしら。


fuji 臨済寺

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~賤機山城の懐に抱かれているような臨済寺~

臨済寺といえば、雪斎。雪斎といえば、今川家の譜代の重臣の家の子。今川義元の法兄(仏教でいう兄弟子)であり軍師であり、そして、竹千代くんの師でもありますね。臨済寺の開山は、雪斎の弟子・大休宗休です。雪斎ではないのですよ。

臨済寺のある地は、元々は北川殿の屋敷だったそうです。パパ氏親(北川殿の子)が、仏門に入ったわが子・義元殿のために、義元殿のお祖母様である北川殿の屋敷跡に「善得」というお寺をつくってあげました。雪斎と義元殿は、かつて富士の「善得」で修行していたのです。

ちなみに富士の善得寺は、三国同盟が締結されたお寺と伝わっていますね。この時代が舞台のドラマでは、今川義元・武田信玄・我らが北条氏康殿、そして雪斎が集って、表面は穏やかながら辛らつな会話をするシーンが必ずありますが、川中島の一騎打ちと同じく、どうも史実ではそんなシーンはなかったようですな。


話を駿府の善得院に戻し、
ところが、ある日、義元殿の兄の当主・氏輝が、弱冠24才にして突然謎の死をとげますね。氏輝は、この駿河の善得院に葬られます。氏輝の戒名が「臨済寺殿」。善得院は、臨済寺と名前を変えるのです。

そういえば、氏輝(北条氏照どのではない)の弟の彦五郎も、同日に亡くなったんでしたね。彦五郎さんのお墓はどこにあるのかしら?一緒に臨済寺なのかしら?いや、臨済寺は当主クラスの菩提寺だから違うかな。彦五郎さんは実在したかどうか分からないとも聞いたことがありますが、文書にはちゃんと残っているのですね(以下)!


臨済寺は、静岡駅からバスで、駿府城の脇を通りすぎて15分弱。バス停からすぐです。上の写真だと郊外にありそうですが、思いっきり住宅街。賤機山の山裾に沿って細長くある大きなお寺です。静まり返っていて身が引き締まります。

今でも修行道場のため一般拝観はできません。見学できるのは、山門を入って石段を上がり本堂の前までです。お寺の行事によっては門も閉まっている時もあるそうです。でも、春と秋に一般公開があります。


ちょっと、疑問。
文書に太原 崇孚(雪斎)の名と共に出てくる「林際寺」って「臨済寺」のことかしら?でも、氏輝の「臨済寺殿」から寺名をとったなら、「林際」じゃ変ですよね。あにゃにゃ。


われらが八王子城主・北条氏照どのや氏規さんのお祖母様であり、私の大好きな寿桂尼の菩提寺「竜雲寺」へは行けませんでした。お城から近いのに残念なり。

そうそう、現在の小梳神社の近く、というか駅の近くに、徳川慶喜の屋敷跡がありました。今は料亭です。臨済寺の山門の扁額「大龍山」は慶喜の揮毫だそうですよ。

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ふぅ~、お疲れさん。お腹ペコペコ、餓死寸前。途中、お土産買いの時の試食で「安倍川もち」を1個つまんだだけ。このまま新幹線に乗ったら気持ち悪くなりそう。ということで、駅中の居酒屋で新幹線待ち。桜海老の釜揚げ&麦とろご飯で、「磯自慢」を一杯。


日帰り強行軍で密度濃すぎました。脳がクタクタ。いつもは帰りの電車で携帯でザッとブログ下書きするのですが、この日はもう無理。翌日は家のヤボ用をしなきゃね。翌々日はシビアな仕事が待っている。でも、仕事しなきゃ暮らしていけないし、この御時世に仕事があるのはありがたい。

現実に戻りたくなくて、いつまでも大御所様の町でグズグズしていた、この日のマリコ・ポーロであった。


以下は、ブログを始めた頃の記事。まだ稚拙でお恥ずかしいが北川殿関連の旅の話です。
それと、高村殿の rek-歴探より今川氏輝殿と彦五郎さんの死に関する文書です。

「今川氏輝・同彦五郎兄弟没する」 by 高村殿
http://rek.jp/?p=2491
「元祖‘義’伊勢新九郎の韮山へ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b243.html
「伊勢新九郎 in 駿河の巻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-f636.html


ほな。。

cat コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。画像と記事の持ち出しは平にご容赦願います。

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