小田原城「御用米曲輪」整備計画、市民の意見募集ですって!
(2011年12月加筆
以下は、2011年2月の時点のブログ記事です。発掘調査が続き、整備内容はどんどん進化しています。)
市民だけか。そりゃそうですわね。観光客からも募ったら収拾がつきません。ひとつづつ順番に、ですね。
小田原城の、御用米曲輪とは
江戸時代の小田原城は徳川将軍家の出城でした。本丸御殿は上様(将軍)のためのものであるからして藩主の拠点は二の丸。ゆえに、「御用米」というのも「藩の」ではなく、「将軍家の御用米」ということだそうであります。茶壷に追われてトッピンシャン(戸をピッシャン)のお茶壷曲輪のお茶壷もそうですものね。
「御用米」とは、お米だけではなく海藻やお塩も含んでいたそうで、お蔵の中はさぞやい~い香りが漂っていたことでありましょう。
御用米曲輪の場所はといえば、小田原駅からの一番の近道(道路や線路に沿った道から天守閣へのアプローチ)の左側、元臨時駐車場あたりになります。江戸時代はここに大きな蔵が6棟程建っていたんですって。(江戸時代にあまり燃えない&萌えないマリコ・ポーロ。)
~御用米曲輪跡が臨時駐車場だった頃。手前のコンクリートの段々は、戦後(小田原攻めの戦後じゃない)野球のグラウンドだった名残の観覧席。このコンクリートの観覧席を食べ始めている木の根っこもあった。こわい。~
昨年から何かと話題の小田原城伐採問題、いえ、「小田原城本丸・二の丸整備計画」は、今年はこの御用米曲輪が(樹木伐採も含め)整備されていきます。
賛否両論ありますが、市と市民の方の歩み寄りの努力や、市の情報公開は進んでいるようですね。先月末に現地見学会や説明会が開かれ、実施計画の「素案」も公開されていました。
「素案」ですから、サラリと書きます。 やること
土塁の修復や曲輪面の修景などの整備。復元物は造らず原則は平面表示。曲輪の形を明確にし、今後広く活用することをベースに、行われるそうです。
まずは、駐車場やグラウンド施設の撤去です。これ大変そうね~。「既存の建物を撤去した後でないと適切な手法を判断できない部分が多く残されている」そうです。発掘調査も不足らしく、全てはそれからですね。 今のところ検出されている遺構
江戸時代-蔵跡と考えられる敷石、石列、石組水路、井戸など
戦国時代-基檀状遺構、切石遺構など
以上などの平場のものは、駐車場として利用するために盛り土されて埋蔵保存されています。
平場ではなく、周囲の土塁や石垣、敷石、堀などは、露出している所もあり、土が崩れ積もった所もあり、関東大震災で本丸の石垣から崩落した石材がゴロゴロしてる所もあるけれど、絵図などにある曲輪の範囲は裏付けられているとのこと。
現在の建造物の撤去工事にはもちろん、文化財・樹木・造園の専門家が立ち合うそうです。 個人的に興味があった3つの通路のこと
(通路その1)
北入口から御用米曲輪脇に沿い天守閣に向かう通路は、駅から一番の近道です。江戸時代、曲輪の土塁はこの通路を通って天守閣へ続いていたそうですが、この通路は今回の整備では対象外だそうです。
(通路その2)
その1の通路から曲輪跡へ入る橋の下の道も、当時は土塁で塞がっていたそうですが、こちらも塞がずにおくそうです。
江戸村化反対派ではありますが、どうせならそこまでやればカッコイイものになるのに、と単純なマリコ・ポーロは思ってしまいましたが、開けておくのは、災害時の安全性やバリアフリー通路の確保、管理車両の通行などのためだそうです。
なあるほどね、色々あるんですなあ。そして、「当時はここはこうでした」という表示をしてくれるそうです。相生橋は残るようです。この橋の外観の風情がね、いまひとつね。
当時の、曲輪と本丸の行き来に使っていた門は本丸広場の茶店のとこに「鉄門 くろがねもん 跡」として残っているんですよ。ちょっと目立たないけど知ってる?
(通路その3)
もう一つの通路。これは扱いが難しいわね。北東側の土塁の上。人気の散歩道であり、通り抜け生活道路でもある、クスノキの大木の並木道…というか木の根道です。
通行道は曲輪内の平場に設け、土塁へは自然に溶け込むような階段を作り、土塁上の通行量は制限するそうです。遺構保存と民家や学校への配慮です。
う~ん。分かるけど。あの土塁の上を自由に歩けなくなるのは、歴史好き観光客としては淋しい。でも、これは、曲輪内の道がどんな感じになるかにもよるわね。薄暗く、夕方からはちょっと不安なクスノキ土塁上より、良い散歩道が出来るということになるかもしれません。
曲輪内は、芝敷(野芝の改良種)がベースになるそうです。浜離宮とか皇居東御苑みたいなイメージかにゃ。でも、真夏は曲輪の中央は暑くて歩けないでしょうねえ。
それよりも、この土塁のクスノキの大木群に巣くうカラスを先にどうにかしてほしいものですが、まあ、まだ「素案」ですからね。ラフプラン、たたき台です。でも、「素案」が一番大事で、具体的な実施案はこれをベースに作られるんです。何か意見や疑問がある人は、今言わなきゃこれでいいと思われても文句は言えんがです。 ザ・植栽
専門の部会で「具体的な手法を検討」し、整備委員会にはかり、「整備方法を決定」するそうです。樹木の剪定・伐採は以下を考慮するそう。
○ 一度にたくさんはしないで、極端に景観・環境が変化しないようにする。
○ 天守閣からの眺めや、逆に曲輪からの上方への眺め(御用米曲輪って下の方にあるんですよ)。
次が意味が分からん。みんな分かるの?専門用語使わないでくだされ。まあ、なんとなく雰囲気分かるけど。
○ バッファゾーン(←って何??) としての隣との遮断効果。
そしてまた、次の文章の意味が分からない。
○ 「曲輪取りを明確にするために曲輪周囲を一体的に取り込む空間とする」ことも考慮し、樹勢・樹形の調整に配慮…。「曲輪取りを明確にするために」は分かりますが、その後が 3G にできない??? さて、(通路その3)のところでも書いた、扱いが難しそうな土塁のクスノキ君達
残すことは前提となったのですね。しかし、
「遺構保護・防犯対策上だけでなく、樹木を健全に維持するためにも整枝や間伐は必要である」との提言を得ているそうです。
遺構保護は優先順位1番です!遺構あってこその小田原城址公園です。遺構がなければ、ただの一文教リゾート都市の公園です。遺構がなければ、その上にどれだけ立派な建造物を建てたって、それこそただの江戸村です。
市民の皆さんにとっても、何百年もの華麗な歴史が埋まっている、その上を、なんでもないことのように毎日あたり前のように歩く、それもひそかな自慢のひとつとなっているのではないでしょうか。たぶん。地味な歴史の地で日々を送る私は、それが羨ましい。
防犯対策は、そう、ちょっと鬱蒼としすぎているので死角になっているし、まわりの状況に慣れてない私などにとっては、人がいない時など陰に変な人(私が一番変な人)がいたらヤダな、と思うこともあります。はじめて来た友人が「暗い~」と言っていましたし。
植栽計画の具体的な手法については、発掘調査や建造物の撤去が終わらないと判断できないところが多いそうです。
あ、これは分かります。大きな木が多いから、間引きや剪定をしていくごとに、日当たりや海風のあたりも変化してゆく。我が家の、マルゴー姫の額より狭いベランダでさえそうなんですからね。大木を一本切ったら尚更でしょう。その都度その都度の検討が必要ですよねえ。
個人的な疑問
(その1)
検出された戦国期の遺構も案内板に表示されるのかな?
表示してね。
(その2)
弁天さまはどうなるのかな?(上の写真)
そういえば、弁財天曲輪は本丸・二の丸植栽計画には、現在は民間の土地と書いてありましたな。様々なタイミング(世代交代?)をみて市が買い取ってゆくと。頑張ってね!
元々このあたりは蓮池。後北条時代ゆかりの場所でもあります。復元・復興反対派ですが、水を流して蓮池弁財天曲輪は造ってみてくれい。勝手な人ね~。江戸時代だってあったんだからええやん。土佐のはりまや橋みたいなのはいやだけど。
とにかくこのへんの荒んだ雰囲気を明るく変えてくだされ。
こちら側にも、少しは戦国時代に浸れる場所をつくってほしいんです。
以上は、「素案」を私なりにまとめたものですので間違い勘違いがあるかもしれません。市が公開しているものを読んでくださいね。
実施案ができるのは3月中旬。整備事業は3年もかかるそうです。
市民の意見募集は今月14日までです。詳細は市のお知らせにあります。
ふい~っ。お昼の休憩時間を3日間も使っちゃいましたよ。小田原城址を縦にバサッと切って、江戸時代・後北条時代・大森時代・それ以前・・・と、土木工事や埋蔵物の移り変わりが生で見られるといいのにな~。
ほな。。
コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。
画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。
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