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2011年3月11日 (金)

高月城と、滝山城と山の神曲輪

(2016.10.26 加筆
10/22 の八王子城ガイダンス施設での峰岸純夫先生の講演で、由井城≠浄福寺城 との先生のご自説が初めて紹介されました。)


八王子城でもお世話になっている歴史古街道の会の方のガイドで、高月城~滝山城内~山の神曲輪&城内とその周辺の鎌倉道を、花粉にまみれ歩いてきました。滝山城は4回目の登城となりますが、山の神曲輪と高月城は始めてにござる。

Photo_4 ~滝山城には搦手から登城。左側は整備された遊歩道。右土塁の上がちょっと残っている当時の道(鎌倉道)。どちらを通ってもよいのに皆わざわざ古道を歩く。~


八王子城と同じく、われらが殿・北条氏照どのの城とはいえ、滝山城でいつも感じるアウェイ感。私の知ってる(知らないけどね)氏照どのとは違う氏照どのの城みたい。ここに立つ氏照どのがなかなか妄想できない。これはなんなのでしょうね。もしかしたら、北条氏照という「人物」より八王子城という「城」の方により思い入れが強いのかな。逆に、滝山城や栗橋城や祇園城をホームにしている方達もそうなのでしょうか。今度聞いてみたいです。


私のそんなのとは質も違うし、比べものにもなりませんが、氏照どのもアウェイ感を持つことがあったのでしょうか。

氏照どのは外地を転戦していることが多いですね。例えば、たまにやっと小田原に戻ってくる。もちろん皆自分に敬意を表してはくれます。しかし、小田原ではすっかり当主を囲むブレーンも出来上がっているし、そうでなくともなんとなく感じる空気感の違い。当主が氏直になってからは特にね。私達もあるじゃないですか。同じ会社で同じルールでの元に動いているのに、支店や営業所が違うとなんか雰囲気違うというのが。

氏照どのにはないですかね。トップの人間だし、だいいち、そんなものいちいち感じている暇はないか。

と、また妄想になってしまい申した。


さて、滝山歩き。
毎度そうですが、八王子城の会の方(複数の会に所属してる方も多い)や、あちこちの城や講演会などで遭遇したりする見知ったお顔も何人かいらしていて、アウェイながらも馴染んだ感じです。

私はこういうツアーで誰かと並んでおしゃべりしながら歩くということは、ほとんどないんですよ。妄想したいから。まあ、私だけではなく、そういう方は多いですよね。お友達同士で来ていても歩いてる時は離れてる。それぞれ妄想ポイントが違いますからねえ。


高月城

Photo ~耕作地となっている主曲輪~

ここで大石氏のことを書きはじめると、また、先の「由井の源三」の記事のように混乱妄想シンドロームに陥るのでやめて、この日に見聞きしたことだけ書きます。

小さな城で、主曲輪もその下の曲輪も耕作地になっているし、営業してなさそうなホテルも建っているしで、当時とは随分変わっているとは思います。しかし、当時の道らしき筋は分かりますし、水の手は残っているし、主曲輪の堀切や馬出しの跡も分かります。

氏照どのが滝山に移ってからこちらも改修されたようですが、私には、房総や三浦半島の古い城跡と似た雰囲気がして、それは、北条流と言われる大土木工事が行われた華やかな城が好きな方達にはチト物足りないかもしれませんが、私は気に入ってしまいました。


特に所々の木の間から秋川の、対岸へ渡るのに使われた渡河点が望め、これがまた妄想が広がり非常にいい感じです。

登り口の曲輪跡に「空室・満室・高月城」の、うらぶれた看板があったのは可笑しかったですが、これも高月城が古くて小さいながらも知名度がある証拠・・なのか?


山の神曲輪

Photo_2

下から見上げるより遥かに広いのには驚きました。

滝山城「山の神曲輪」の機能は謎で諸説ありますね。これは、山の神曲輪に限ったことではなく、大石氏ゆかりの城全般がそうですねえ。


そもそも、この曲輪の「山の神」という名称もいつから言われているのでしょうか。

いざという時の村人の避難場所だったという話も拝読しましたが、城郭に対する知識が浅い私にはちょっと説得力が感じられず(私には、ですよ)、まあ、一級史料や埋蔵物などが出てきたら是非また勉強させてくださりませ。あんまり仮説の上に想像が重なってもねえ・・ごにょごにょりん。妄想だらけのわらわが言うな!ですがね。


さて気を取り直しまして、ここ「山の神曲輪」からは、多摩川の、本丸や中の曲輪からだと遮られて見えない左側エリア、秋川との合流点や武田信玄が陣をしいた拝島大師の森などが素晴らしくよく見晴らせます。

となると、妄想や話題はどうしても「戦国時代の渡河方法や渡河点」のことへ。有名なのは、上杉謙信や徳川家康などの古鎌倉道の平~大神の渡河点ですね。

しかし、搦手側にも、川越や鉢形の城へ行く時に渡った場所があるはずだし、当時の多摩川はもっとこちらまで川幅があったから、水運物資の積み降ろしなどをした船着き場のようなものがあるのではないか、とのガイドさんの一連のお話からも盛り上がりました。見せていただいた江戸時代の古地図にも秋川と多摩川の合流点よりやや下流に二つの渡河点が記されていました。

古街道研究の方達なので、城の考察も街道から切り込んでいくのがまた興味深いことでした。


「山の神曲輪」は、ちょっと前までは篠竹だらけで入れないこともないが大変だったそうですね。今は、滝山城内の小宮曲輪あたりから簡単な遊歩道みたいな道になり、しっかり竹も藪も刈り取られ、ベンチもある「見晴らし公園」のようになっていました。山城好きにとってはちょっとやり過ぎの感もありますが、ファミリーでハイキングがてらお弁当を食べるにはオススメです。

私はね、綺麗な「山の神曲輪」より、藪だらけの「山の神曲輪」に立ってみたかったんですね。時すでに遅し。


滝山城主郭

今回は鎌倉道を使い、山の神曲輪下、本丸と中の曲輪の間の橋下を通り搦手側から登城。そして、のたうちまわる大蛇のように城内ぐるぐるうねうね走る縦横堀々を、またまた歩きます。

今回は、特に本丸まわりの堀をぐるぐるし、千畳敷下の池跡へ出ました。

池は、NPO法人守る会の方達の尽力もあり耕作地もなくなり篠竹も刈り取られていて、千畳敷の段状の腰曲輪も、中の島も、堰もよっく分かりましたよ。

2_2 ~中の島跡から千畳敷の段状腰曲輪を見たとこ~

信濃屋敷、刑部(かるべ)屋敷、春には桜で薄ピンク色の湖のようになるもう1ヵ所(2ヶ所)の池を巡って、鎌倉道を下り帰路。


鎌倉道

滝山城の面白いところの一つは、城内外に鎌倉道がたくさん残っているところですね。でも、こちらも例にもれず失われつつあるようです。

下の写真、見えますかねえ。
滝山城内の鎌倉道の下側、崩れて道の遺構が現れてしまったところです。上側の草ぼうぼうが道です。道と土中とのきわ(うまく言えない)、何ヶ所か半円形に土の色が濃いところがあります。

これは、鎌倉道には必ずあるものだそうです。必ずあるけれど、何のためにあるのか分からないそうです。丸太を通したのではないかな、というもありましたが、そうでもないらしい。ちょっと面白かったので書きました。

Image12341_2

八王子城も深くて深くて何十回行っても把握できませんが、滝山城も、まるで城の造りの見本のオンパレードで、私は、滝山城をフィールドにして「中世城郭大クイズ大会」をやったら楽しいだろうなと思いました。


以下、大石氏のこと
「続・続・多摩ゆかり、北条氏照と 由井の源三」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-d478.html「続・多摩ゆかり、妄想は北条氏照から由井の源三へ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-7d25.html

よろしくば、こちらも
「滝山城、五千本の桜」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-1ace.html


ほな。。

コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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