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2011年3月 1日 (火)

北条氏康ご正室「瑞渓院」の二つの菩提寺

瑞渓院様は、北条の三代当主、相模の龍(氏康殿)のご正室にて、われらが殿・八王子城城主北条氏照どのはじめ、氏政・氏邦・氏規・早河殿・桂林院・・多くて書ききれぬ・・達の母上にございます(氏照&氏邦の武闘派コンビの母は違うかもしれないという説あり)。

実家は、先の駿府旅のブログ記事でも書いた今川家。義元殿の女兄弟であり、母親は、戦国時代の女人では最強の存在感を発する、ご存知!寿佳尼殿。実に華々しい確固たるバックグラウンドを持った女性です。


horse ひとつ目の菩提寺

瑞渓院のお墓は、今は、小田原駅から小田急線で4つ目の栢山(かやま)駅から歩いて5-6分のところの「善栄寺」にあります。

栢山は「せせらぎ水路」と呼ばれる細い水路が流れる、畑と閑静な住宅街の静かな町。この日はお天気が良かったので富士山もよく見えました。


栢山といわれて小田原人が思い浮かべるのは、二宮尊徳(二宮金次郎)です。これも前に書きましたが、小田原人にとって郷土のヒーローは、北条五代でも大森さんでも稲葉さんでも大久保さんでも柳沢慎吾ちゃん?でもなく、二宮さんなのです。

私は小田原人ではないので、駅から善栄寺に向かう途中にある二宮尊徳生家跡に大きな碑や説明板があったのには、「ほぉ~、やはりのう」と感心しました。生家の斜め向かいにある善栄寺は、二宮尊徳とその一族の菩提寺でもありました。


善栄寺で驚いたことがあります。門前のご縁起に、開基は 巴御前 だと書かれてあったのです。そーいえば前にも小田原の街の中の笠守稲荷でそんな話を聞いたことがあるのですが、その時は、「巴御前が小田原に?寺社仏閣の由緒は信じられないからな~」と聞き流していました。


巴御前と小田原の話は次回として、時代はそれより下ること400年。善栄寺は瑞渓院によって宗派を変えて中興されたそうです。

小田原市のHPには「お墓は本堂の前に移された」とあります。が、ない・・・。探したら墓地の方に、普通に檀家さん達のお墓に混じってありましたよ。

Image12041 ~説明書きには「この宝篋印塔は江戸時代に作り代えられた」とある。~

不思議だわ。瑞渓院のお墓がお城からこんなに離れたところにあるなんて。


horse もうひとつの菩提寺

通常、瑞渓院の墓所といえば善栄寺ですが、黒田基樹氏の何かの著書に、何の説明もなく「瑞渓院菩提寺 願修寺」として写真だけが載っているのを見たことがあるのです。

瑞渓院は、天正18年6月12日に小田原城内で亡くなっています。一ヶ月後には降伏することになる、まさに籠城まっただ中です。氏政殿の側室だか後室だか(実は黄梅院ひと筋じゃないのだよ)の 鳳翔院 も同じ日に亡くなっています。たぶん、強気の瑞渓院は「もやはこれまで。皆のものなにをグズグズとしておるのじゃ!わらわはお先にまいりますぞ」と自害したのであろうことは、誰もが想像・・・いや、マリコ・ポーロが妄想するところです。

どうやらそのとき瑞渓院が葬られたのが、この「願修寺」というお寺のようなのです。


願修寺については、全国や小田原のお寺案内のようなもので、住職(他のお寺の兼任)のお名前と城山3丁目にあるということしか分かりませんでした。寺籍はあるようですが、ご縁起などは公のものでは何を調べても見つけられませんでした。

たったひとつ、三島大社町にある臨済宗大徳寺派の祐泉寺(北条氏信開基)さんのHPの「後北条の寺々と戦国末期の情勢」に数行だけ由来がのっているのを見つけました。そこには、願修寺は瑞渓院の中興だが、永禄3年の上杉謙信の小田原攻めで堂宇が消滅し、その後、瑞渓院の息子・氏政殿が再興したとありました。

謙信公の小田原攻めは永禄4年なんですけど、まあ、いいわ。行ってみるべし。香沼姫さまのお墓の近くだなとあたりをつけ、探検隊(?)は城山3丁目に向かいました。


古郭のこのあたりは細い急な坂道が入り乱れ、住宅はみっちり立ち並ぶわ、行き止まりはあるわで本当に迷路のようなのですが、最後は郵便配達中の方に聞いてどうにか見つかりました。と言いますか、これじゃ分かるはずないと言いますか。

急坂の途中の狭い空き地に板碑や崩れた五輪塔が散乱した、「ここはなんなのだろう・・・」という場所なんです。隣接する民家?の門に消えかけた墨書きの文字で、かろうじて「願修寺」と読めました。まあ、追々いろいろ分かったのですが、とにかく当時はまさにお城の中だったということは納得できました。

そりゃあそうですよね。籠城中ですからね。城外に新たに菩提寺を造って埋葬するなんてことは出来ないです。早雲寺はすでにサル殿下が占領してますしね。


そういう状況下で母上を失い、満足な葬儀もできなかった(たぶん)氏政達の気持ちはいかばかりだったか。

歎き悲しむ優しい兄上(氏政)に、常に強気でポジティブシンキングな「明日のテル(氏照)」は言ったでしょう(またでた)。

「ええい、ご隠居!」
・・とは呼ばない?黄門さまじゃないし。

「ええい、截流斎どの!」
・・とも呼ばない?では普通に、

「ええい、兄者っ!または、大殿っ!いつまでもグジグジグジグジなさっていると、せっかくの母上のお覚悟が無駄になりますぞ!サル、討つべし!灰となって燃え尽きるまで戦うのじゃ!我らは必ず勝てる!」

たびたびで失礼。どうも現地に立つと思い(妄想)があふれてまいりましてのう。いずれにしても昔は土葬ですから、願修寺の土の下には瑞渓院様がお眠りになっておられるわけです(合掌)。

Image12021 ~善栄寺にも、もちろん三つ鱗~

栢山の善栄寺さんに、瑞渓院のお墓はいつからそちらにあるのか聞いてみましたが、昔からあるので分からないとのことでした。宝篋印塔は江戸時代のものだそうですから、駅前の氏政・氏照兄弟のお墓と同じく、稲葉殿がこちらにも造ってくださったのでしょうか。


その氏政殿と氏照どののお墓の脇には、氏政室の墓といわれている謎の五輪塔がありますね。甲斐へ戻された黄梅院の供養塔とされていますが、こちらも定かではありません。

瑞渓院と同じ日に亡くなった鳳翔院は、二代・氏綱公の後妻と同じく近衛家ゆかりの女人かもしれないとも言われています。この謎の五輪搭は、もしかしたら瑞渓院と共に亡くなった鳳翔院のものかもしれないな・・とも思いましたし、他のどなたかのものかもしれません。

隣の駅の板橋の妙安寺にある近衛家のお墓のひとつに、勝光院という方のお墓と伝わっているものがあるそうです。勝光院とは、「北条氏政の室の、母」だそうですが、その「室」が黄梅院なら母親は武田信玄の正室・三条の方ですよね。ということは「鳳翔院の母」ってことでしょうか?いや、鳳翔院自身のものかもしれないとも言われているそうですね。


小田原が降伏した前後は、尋常ではない数の人や馬で城下も周辺の村も大混乱状態だったでしょうし、なによりも、北条は負けちゃったわけですからねえ。何がどうなったかは分かりません。もしかしたら、願修寺に残骸のようにころがっていた五輪塔が、氏政殿達が籠城中につくった瑞渓院の最初のお墓かもしれませんしねえ。

小田原はなにもかもが土の下。私の中の小田原の歴史は、「天正18年」につきるのです。


「ところで瑞渓院さま、氏照どのは300年後に土方歳三として生まれ変わった、ということでよろしいのですよね…?」


ほな。。

cat コメント欄をもうけさせていただきました。公開はいたしませぬので、ご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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