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2011年5月12日 (木)

小田原城「御前曲輪」で妄想す~香沼姫

wine 御前曲輪の場所と立地

小田原駅を現代の天守閣とは反対側に出て、早雲公の像を右手に見ながら、学校やお寺や住宅に開発されてはいるが、それでもまだ当時の地形の片鱗を残す八幡山の急な坂道を登ってゆく。八幡山と小峯を遮る八幡山堀切を跨ぎ陸上競技場に突き当たると、このあたりが、かつての 御前曲輪 である。古郭でも奥深いところにあたる。

背後にはあの3本の大堀切。三方からは両の手で守らるれように山に囲まれた谷戸の広い窪地で傾斜を成している。ただひとつ開けた前面からは眼下に相模の海を望むというロケーションにある。

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~今はほとんどが総合グラウンドになっていて、陸上競技場の中に祭祀を行った敷石遺構の一部が見られる。赤茶色のところはトラック(400mで8レーン)で、手前が敷石遺構(場所は本来の位置からは移されている)。「コの字」に崖に囲まれ、向こうの空が開けている方が、海。~


あらゆるものに書いてあるので私が言うまでもないが、御前曲輪は北条家が祭祀を行った場所のようである。


wine 御前曲輪と香沼姫さま

以前、なんちゃって小説風ブログ記事 「レジェンド・オブ・香沼姫」 を書いた。最初、お話仕立てにするつもりはまったくなかったのだが、ある時ふわっと、香沼姫さまが御前曲輪に立っているシーンが頭に浮かんで、自然にパソコンを打つ手が進んでああいうものが出来てしまった。

イメージする香沼姫さまのモデルはいるのだが、私も長生きしているので、それは古い女優さん(失礼)で、たぶん40代後半以上でないとその方が美しかった時(お歳を召されたが今でも可愛らしい)をご存知ないと思うからここでは言わない。というか、御前曲輪に立ってらっしゃる頃の香沼姫さまはすでに老境の身ですがね。

今まで陸上競技場の中には入ったことがなくて、実は、今回の「北條ウィーク」の「北條ウォーク」での一番の目的は、小田原高校の中に入ることと、御前曲輪の敷石遺構の場所に立って妄想することだった。


先に色々と香沼姫さまや山木大方のことを書かせていただいた(←二人の姫に対する謙譲語)ことの少し繰り返しになるが、香沼姫さまは生涯嫁ぐことなく、徳川の世まで、この御前曲輪より少し下った谷津のあたりの広い敷地に住まいし長生きをされた。

香沼姫さまは、北条氏康の女兄弟である山木大方と見付城城主・堀越(ほりこし)六郎の娘といわれている。山木大方の歳の離れた腹違いの妹という話もあるが、どちらにしても、北条家がこの強力な手ごまである香沼姫さまをどこにも嫁がせることをしなかったのは何故だろうか。

また、香沼姫さまは北条家の最も神聖な場所である御前曲輪の近くにお住まいになり、それが北条が滅びた後も許されていたのは何故だろうか。

それは、家康の娘であり北条氏直の正室だった督姫と仲良しだったからだとか、北条に戻った山木大方・香沼姫ラインは北条幻庵の保護下にあり、谷津あたりは幻庵の管轄だったからだとも言われている。


Photo_2
~敷石遺構(本来の位置からは移されている)~


wine 御前曲輪とは

小田原城に限らず、城の中で祭祀が行われた場所をいう らしい。そういえば、昔行った伊勢原の岡崎城にも「御前曲輪」があった。


特に昔の人は生活全般がそうであっただろうが、公家や庶民だけではなく、戦国武将も、いや、戦国武将こそ神頼み仏頼みをする。例えば出陣の場合は、その有無だけではなく、方向や日取りや時間までご神託を伺った。

それは加護する神社に占わせたりもしたが、自身でも占卜(せんぼく)をした。私のかつての別格本山ヒーローの上杉謙信公なんてその最たるものだ。「毘沙門天がこう言ったから」「毘沙門天が守ってくださるから」・・・違うか、「わしに、毘沙門天が乗り移ったから」・・・いやもっと凄くて、「わしは毘沙門天になったから」かな。だから出陣じゃー!おーっ!なのである。


wine 小田原城の御前曲輪

上の写真の敷石遺構は御前曲輪の最も奥にあり、太占(ふとまに)をした炉の跡が残っているのが見える。太占とは亀の甲羅や鹿の肩甲骨を焼いてそのヒビ割れから占うもので、盟神探湯(くがたち)などと共に、むか~し歴史の授業で習った、古代から伝わる占いとして「フトマニ・クガタチ」のフレーズが頭に浮かぶ方もいらっしゃると思う。


この敷石遺構を眺めていると、ちょっとゾクッとするものがある。

「北條ウォーク」では幸い御前曲輪が休憩タイムだったので、しばらく一人で敷石遺構の前に立ち、向こうの海の方を眺めながら妄想に浸ることができた。


天皇家などもそうだが、伝統ある名家は一族の女人から神事にたずさわる人を置くことがままある。香沼姫さまは戒名がきちんとあるが、昔は戒名があるからといって内々の神事にたずさわってなかったとはいえない。だから、香沼姫さまは北条家のそういう立場にあった女人だったのかもしれないと、私は以前から妄想している。

徳川の御世になって、いくら香沼姫さまといえどこの場所に自由に出入りできたかどうかは分からないが、この日ここに初めて立ってみて、北条最後の女人、伝説のようになっている香沼姫さまは神秘的なこの場所にぴったりで、私はここに香沼姫さまに立っていただいたいて良かったと思った。


wine 四百年の時を経て

御前曲輪は、昭和30年頃まではほとんどが竹藪で、土塁や空堀やいくつかの曲輪跡や、虎口と思われる土塁や段丘もあったそうだ。昭和37年にこのあたり一帯を総合グラウンドにするために削平工事をしていたところ、この敷石遺構が現れた。

当時は古代の住居跡だと思われたようだが、日本列島がどんどん開発されていく時代でもあり、詳細な「平面図」はあるが、ほとんど調査はされず競技場になった。


古郭や総構えは仲間や家族と何度も歩いたことはあるが、今回はじめて田代先生と山口先生という郷土史研究の専門の方が講師でじっくりと(でも広大なので大急ぎで)まわった。ひとつの虎口が普通の山城一個分あると言っても過言ではないような、戦国期の小田原城総構えや古郭は、あまりに壮大で眩暈を覚え、百回位行かないと私の手にはおえないと改めてつくづくと思った。まあ、老い先短いから無理じゃが。

そして、それらはほとんど調査がなされていないのである。まったくもったいないことではあるけれど、市も今後どんどん土地を買い取ってゆくようなので、逆にこれからが楽しみでもある。

中世の北条時代あってこその小田原ぞ。そう、わらわは思う。


それにしても、藪に覆われていた頃の御前曲輪跡に是非とも入ってみたかった。


wine 陸上競技場の中は普段入れないものと思っていましたら、普通に入れます。ただし、競技などのある時は関係者以外は入れないそうなので、行かれる時は競技場に直接お問い合わせすることをおすすめします。

ご興味あらば、カテゴリー「後北条の姫君達」で、香沼姫さまの記事をご覧くださりませ。また、「レジェンド・オブ・香沼姫」もよろしければ。http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-bb1a.html


では。。

cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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