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2011年6月21日 (火)

ゲゲゲの城「深大寺城」と「牟礼砦」

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~深大寺の参道の鬼太郎茶屋。水木しげる先生は、深大寺のある調布市在住。~

たまには優雅に菖蒲でも愛でながら蕎麦でもたぐろうということになり深大寺へ参りました。

しかし優雅に徹っせられないのが城跡妄想族。頭の中は、深大寺 → 深大寺城 → 後北条、の北条三段活用。

深大寺城の築城はかなり古いらしいですが、戦国時代は関東管領上杉氏(扇谷)の城でありました。北条氏綱お祖父様(氏照どのの)の河越攻めの時、上杉が対北条の備えとして整備したそうな。


深大寺はお寺も城跡も初めてです。まずは、深大寺城に対して北条軍が築いた砦に立ち、そこから深大寺城へ向かい、そこで後発部隊(といってもたった一名)と、合流することにいたしました。

深大寺城を抑えるための砦はいくつか(天神山・烏山)あるようですが、全部は回れないので「牟礼砦」だけ見聞。井の頭線の三鷹台駅から歩き、緑道になっている玉川上水の風情ある橋を渡るとすぐです。


牟礼砦

牟礼砦の跡は、「牟礼神明社」という神社です。「神明社」とは天照大神をお祀りする伊勢神宮のこと。

陣を築いたのは北条綱種(綱高)。知らないわあ。どなた?でも、「綱」をいただいているということは縁戚に入ったか、とても重用された人ということですよねえ。境内には、「牟礼郷土史研究会」による、綱高殿と、江戸城攻めから河越までの経緯が書かれた説明板がありました。


▲ 高橋将監種政は早雲に養育され、軍師多目氏に従学し、韮山に住み、氏綱公の時に大道寺方に配属され江戸城攻めで戦功を上げ‘綱種’の名を賜り、そして玉縄(甘縄)の城代となり、それから後、江戸城主となった。

天文6年、江戸城を追われた上杉朝興が河越城で没すると、その後を継いだ上杉朝定は江戸城を複さんと図ります。同年7月、重臣難波田を以って深大寺城に出陣。一方、北条綱種は江戸城から出陣し、深大寺城に対峙する城として高番山に築いたのが、この牟礼砦。 ▲

と、昭和55年の説明板にはありました(要約)。


北条は一気に河越へ向かい河越城を攻略。綱種(綱高)殿達の抑えが効いたのかな。北条軍が旗を掲げたとういう松があったそうですが、よく分かりませんでした。


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~神明社(本丸跡)から、反対側の二の郭だったらしきエリアを見たところ。下は堀跡だったのかしら?~


高橋家というのも古い名族のようですね。足利将軍家に仕え、堀越公方の元へ来て、茶々丸の乱の後は伊勢新九郎さんの家臣になったそうです。だから、綱種殿も韮山で新九郎さんに可愛がられたのでしょうか。

ということは、新九郎さんの息子で氏綱公の弟にあたる北条氏時に付いていた人なのかしら。氏時は、韮山にいて、その後玉縄城主となった人ですよね?合ってる?ビクビク(このブログを読んでくださってる方々、私より詳しい方が多いんだもん)。


砦跡にある牟礼神明神社は、天文6年11月に綱種が江戸の芝飯倉神明宮よりご分霊を勧請したそうです。江戸時代も街道の分岐点になり人々の尊崇を集めたらしく、嘉永3年の石の常夜燈がい~い感じでした。

そういえば、来年は、玉縄築城500年ですね!


さて、牟礼神明社を出張り深大寺城へ進軍しましょうか。そろそろ後発部隊も着陣する頃です。


 深大寺城

しょえ~!ど~ひて、こじゃんと人がおるがぜよ!

わちきは、水木先生は大好きでありんすが、朝ドラは「おはなはん」以来見ていないので(苦~ほとんど覚えてないが、クレージーキャッツのおはなはんのコントは覚えている)、いや、ひとつだけお気に入りが出ていたので見たが、まあ、とにかくゲゲゲといえば鬼太郎だと思っていたし、ドラマの人気も向井理(むかい?読めぬ)も全然知らなかった。それでも観光客は少し減ったそうで、全国放映のテレビの影響とは凄いものですね。


人込みに怯み、ふと道の反対側に目をやると、深大寺城の方向に向かう怪しい雰囲気をかもしだす細~い道が…!車道を渡りその道を入るマリコ・ポーロ隊(といってもたった2名)。客待ちタクシーの運転手さん達が、例によって「そっちなんにもないよ~」。

いや、あるんですよね、旦那方。こういうとこはね、たぶんね。

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~「坂下までお使いください。→ツエ」の手書きの看板と、手作り風の竹の杖。とても親切。ここは、三郭の裏あたりになるのかな。本当に杖が必要なほどな山道を、この木をU字に曲がりながら急降下。~

どこの城跡もそうですが、整備された場所より整備されてない場所の方が、だんぜん当時の情熱が残っているでしょ。


さて現代、深大寺城へは「神代水生植物園」から上がるようになります。深大寺城は湿地帯に囲まれ、水の豊富な土地だったのですね。

残念ながら菖蒲は終わっていましたが、紫陽花が咲く馬回り道のような軽い坂道を上ると、一の郭。二の郭への虎口あたりの空堀や土橋や建物の柱跡などが復元されています。さすが深大寺で、城内には小さいですが蕎麦畑もありました。

深大寺は「神代植物園」が有名ですが、こちらの「水生」の方もとってもいいですよ。特に城山に沿っているところが城跡中毒にはツボです。入園料は無料なり。

北条は、深大寺城は使わなかったようですね。

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~湿地帯には木橋の遊歩道。尾瀬みたい。後ろの山が深大寺城の主郭部。~


ここでまた疑問が。

なぜ、「深大植物園」とか「深大水生植物園」と書かないで、「神代」なのだろう?お寺は「深大寺」ですから、「深大」の方が古いはずだわよね。

伺ったところ、江戸時代このあたりは「深大寺村」でしたが、明治の市町村合併の時に、「深大」を使うと深大寺村に吸収されたようでヤダとか、あんなことやらこんなことやらで、「神代町」と違う文字をあてた町名になり、その後できた植物園なので「神代植物園」となり、今は、その「神代」という町名もなくなり「調布市」になったりとかとかとかだそうです。話がややこしくて把握できませんでしたが、ま、そんなことでしたわ。


空堀の写真を撮っていたら、女性が一人やはり堀や土橋の写真を真剣に撮っていました。なんとなくお互いにチラチラ。同類項でカッコ閉じ?話しかけようかどうしようか・・・。話しかけて引かれたらどうしよう。と悩んでいるうちに、何となくきっかけを失いました。

ご縁があればまたどこかで会えるわね。

深大寺城跡には、縄張図も遺構の説明板はありましたが、このあたりで起こった北条と上杉の戦いのことを書いた案内板がありませんでした(それともあったのかな?私が見つけられなかっただけ?)。

そのためなのかどうなのか、空堀や土橋を復元した深大寺城も楽しかったですが、私には、「郷土史研究会」の愛情あふれる説明板があった牟礼の方が、ずっと470年前への妄想を描き立てられました。

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~深大寺の入り口にある大きな説明案内板に見つけた氏綱公のお名前~


夕方になり、人気(ひとけ)がひいて静かになった深大寺。たくさんある「深大寺そば」のお店から、お庭でいただけるところを探し、お酒とお蕎麦と、そして、そばがきのお汁粉。


では。

コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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