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2011年8月23日 (火)

信玄に火を放たれた小田原城

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これは小田原城御用米曲輪跡を北側通路から俯瞰したところ(2011.6)である。駐車場だったが調査整備が始まるため閉鎖された。まだアスファルトが敷かれている。

この向こうが、永禄12年、武田信玄が攻め込んできた蓮池門(幸田門)になる。

少し前のことになるが、御前曲輪で香沼姫を妄想した記事を書いた時に、小田原の研究者のサル方(ほんまにサル方が多いこのブログ)から、「小田原市郷土文化館研究報告No.45、北条歴代当主はどこにいたのか」を読んでごらんなさ~いとの有り難いアドバイスをいただいた。2009年の森幸夫氏の報告書である。


興味深い内容だったので先にもちょこっと触れたが、例えば、小田原城は八幡山古郭から同心円状に発展してきたのではなく、古郭は大森時代から「詰の城」だったとか、氏綱の頃から主郭は現在の本丸あたりにあったとか、とかとかが様々な文献資料や発掘調査結果から考察されている。

先ごろ発刊された「関東の名城を歩く~南関東編」でも、佐々木健策氏がこのことに触れいる。古郭からは天正年間(氏政・氏直時代)より以前の遺物はほとんど出土しておらず、つまり古郭の形成は天正年間頃の可能性があり、また、古郭は通常の生活空間としては使われていなかったと考えられるかもしれないと書かれている。


だから古郭は、香沼姫のような巫女的存在の女人が代々結界を張って祭祀を行ってらっしゃったのよ・・・はマリコ・ポーロの妄想話だが、このことは私にとってはかなりな衝撃で、このブログを始めた頃の記事に「新九郎さんがゲットした城を子や孫達が広げていった」みたいなことを書いておるのを「どおしよぉ~」と思ってしまったのだ。だって、わらわが書いたのはこの考察が発表された後なんですよぉ。

まあ、広げていったのには違いないのだか、広げ方も、当初の縄張りも違っていたのかもしれないってことでしょう。それじゃあ、古郭に立っての新九郎さんを妄想する時の、まわりの景色が違うじゃぁあ~りまへんか。


また、森氏も佐々木氏も書いてらっしゃるが、毛利家文庫にある天正18年4月5日~7日あたりの陣取り図によると、当時、当主の氏直さんはもちろん本城にいるが、家督を譲った隠居の身である氏政兄上は古郭付近に築かれた「新城」にいて、小田原城には2つの「城」が存在していたらしいとのことだ。

ちなみに毛利といえば、氏康殿の子(甥?)の氏忠の側室と娘は毛利へ預けられ、娘はそのあと毛利の重臣を婿(養子?)にとり「北条家」として幕末まで続いているわね。


話を戻し。
私はいつも、「戦国時代の小田原城」「小田原城は北条時代」と主張しているが、こうやって考えてみると、百年近くも続いた北条の小田原城の、いつの何を指して「北条の小田原城がベスト」と自分は騒いでいるのだろうと思ってしまったよ。佐々木氏のおっしゃる通り、総構えにしたって滅びる前の数年だけの景観であったのにね。

いえ、それは、やはり天正18年の姿でござりまするかな。


さて、件(くだん)の永禄12年のこと。小田原城は10月1日、加藤信景を先陣とした武田勢に「蓮池門」方向から「押入」られている。攻撃は翌日も続き、小田原城は本丸を残すのみで、悉く「撃破 畢」ったらしい。

敵方が書いていることだから少々話を差っ引くとしても、かなりなダメージだったことは想像できる。

しかし、武田勢のタフさといったらどうだろう。対・北条だけに限っても、前年後半から甲府と駿河を行ったり来たりしながら、駿河・冨士大宮・鉢形・滝山・小田原を攻めの、三増峠がありぃので、またいったん甲府に戻って、また出て来て蒲原城を落として駿河を再度獲得している(って、合ってる?ややこしくて分けがわからん)。

Photo
~幸田門(蓮池門)の説明板~

またそれた話を永禄12年10月についての森氏の研究報告書に戻すが、その時のことを信玄が遠山直廉に宛てた手紙に、「為始 氏政館」を悉く「放火」と書いている(悉くを使うのが好きだね)。

当時まだ本丸(本城)には家督を譲ったとはいえ、父上・氏康殿が居住していた。「氏政館」とあるからには、本丸(本城)とは別に氏政兄上の館があったということになる。


では、「氏政館」はどこにあったのか。

2009年時点での森氏の考察では、上記の、本丸だけ火から免れたことや、氏政館を悉く焼き払ったという手紙などから、武田勢が攻め込んだ蓮池門から近いあたりに氏政兄上の館があったのではないか?それは、二の丸あたりか、もしくは、現在の御用米曲輪跡あたりの可能性が高いとされている。

御曹子(現当主)の館が門近くにあるものなのかな?
とマリコ・ポーロには疑問もあるが、昨年の記事「戦国時代の漆塗の弓、小田原最新出土品展2010」でも書いたが、御用米曲輪(臨時駐車場)の脇にある弁天様のあたりからは戦国期の階段状石垣遺構も検出されている。

もし、ここが兄上様若かりし頃の館跡だったと仮定すると、その石垣は兄上様と氏直さんの館を繋ぐものではなくて、信玄に攻め入られた頃の兄上様の居館のものということになるのかもしれないかもしれないわね

(2011/7/12付の自分のメモに、御用米曲輪に兄上様の館はなかったかもしれない・・とあるのだが、何を見聞きしてそうメモったのかトント思い出せない)


いや!それにしてもこの検出された階段状石垣遺構には焼け焦げ跡があるのだろうか。いや!それよりなにより、小田原城って「火を被った形跡」が残っているのかな?八王子城なんてクッキリ残っているじゃないですか。いや!小田原城は信玄が去った後に大強化普請を行ったようだからすでにその時に処分されてしまったのかな。


(2012.2 加筆、その後、信玄が放った火の焼土痕が検出された!ご覧くだされ。「小田原城、戦国の御主殿クラスの建物跡」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-1f30.html


天守閣側で検出された戦国期の遺構を大阪城のように見せてくれたら、さぞやたくさんの戦国ファンが小田原を訪れることだろうなあ。

家康は秀吉時代の石垣に丸ごと盛り土をして、その上に徳川の石垣を築き城を建てたでしょ。その石垣は現在も土の下に残っていて、大阪市はそれを時々一般公開して現代の我々に見せてくれているそうだ。先日もテレビでイタリアのベローナが地下に残る古代遺跡を強化ガラス?みたいなのの上から公開しているのを見たが、ああいうのっていいわねえ。

でも、「石」なら可能だが、「土」は難しいらしい・・・。

次回は石垣山でごザル!


では。。。

コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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