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2011年9月15日 (木)

三増合戦まつり前編(2011)~三増の地に何かが降りた日

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~呉越同陣。信玄が、普通にお話をしていても信玄だった。お見事。~

かつて 「そのこと」 があった場所で、敵味方関係なく「そのこと」 により命を落とした人たちの慰霊のために、「そのこと」を再現する。この日は、その意義を強く感じた日でした。


北条・武田、双方に多大な犠牲者を出す激戦の末、甲斐に脱した武田軍。われらが殿・北条氏照どのは、上杉輝虎(謙信)の重臣・山吉孫次郎(豊守)や、同じく謙信の重臣・河田伯耆守(重親)宛ての10月24日付の書状で、信玄を討ち留められなかったこと 「無念千万」 と書いています。

照どのも、相当に悔しかったでしょうねえ。大奮戦したようですし、強気で好戦的な方でらっしゃる上に(たぶん)、まだ30才そこそこですからねえ。
「父上、兄者、来るの遅いぜっ!」と思ったでしょうねえ。


さて、去る9月11日におこなわれた「第12回 三増合戦まつり」。
「米沢上杉まつり」や「関ヶ原合戦祭り」などに比べたら小さいイベントにもかかわらず、また、初めての寸劇にもかかわらず、皆さんの、北条や武田や戦国時代や歴史に寄せる熱い思いと、本格的な内容の寸劇に感動し、色々考えてしまい記事がなかなか書けないでいました。


私の隣に、寸劇を食い入るように見ていた地元の小学校中学年ぐらいの男の子がいました。見終わった後、「面白かったねえ」と言ったら、「うんっ!!」と目を輝かせて答えてくました。和太鼓演奏をしていた地元の高校生たちもとっても興味を持って、寸劇が終わったあと武将達を囲んで色々な質問をしていました。

「こんな所でも、こんな事が出来るんだ~」とおっしゃる方もいらしたそうです。トークが冴えてる大活躍の名物鉄砲隊長さん。鹿の角の脇立にヤクの飾り房の兜をかぶった甲冑姿が三河の古武士のようで渋い味を出していました。町長さんも、役所の方達も、実行委員会の方達も、地元甲冑隊の方達も、あんな方達も、こんな方達も、ここに至るまでは色々あったと思いますが、「良かった、よかった」と嬉しそう。

こういうイベントを見ることがきっかけで、地元の歴史に興味を持ち、それが、いつしか自分の先祖や自分の国の歴史を大事に思ってくれるようになればそれは素晴らしいことだと、この日あらためて感じました。

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~地黄八幡がたなびく三増の地!~


今、どこの場所でも誰の身にも、いつ何が起こるかわからない、いつ故郷を離れなければならなくなるかわからない。もし、いつかそんな時が来たら、また、そんなことがなくても仕事やプライベートで他の地方や海外などに居を移すことがあるかもしれない。

そんな時に、自分の故郷はこんな歴史上の大きな出来事の舞台になったところなんだよ、こんな素敵な人が昔いたんだよと誇りに思えるものがあれば、それは生きていく上での心のよりどころとなるし、また、こうして地元の歴史を次代に伝えていくということも大事なことだと思いました。


少し前までの故郷自慢は、「村から町になったんだぞ~」とか「大きなデパートだってあるんだぞ!」とか「新幹線が停まるのよ~」とかでした。それはもちろん地元の経済に効果があったことは確かだったと思います。私も随分とその恩恵を受けてきました。でも、魂の入ってない新しいものは、時が経つと弊害も生じてきます。

しかし、その土地に何百年もの長い時を超えて根付いてきた魂は、開発により上物(うわもの)が変わろうとも少しも動じないのだと思います。

町おこしは、対処療法として、他所(よそ)から、長続きはしないが即効性のある物や者を持ってきて外部に発信することも必要です。

しかし、まずは、地元の人達が、自分の生まれた土地や自分の暮らす土地の歴史や文物を再認識し、知識を深め、愛着を持つことから始まるのではないのかなと思います。そのためにも、ビジュアルで見られるこういう寸劇は分かりやすく、良い手段であるとも思いました。

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~信玄の「むかで衆」~


この日の寸劇は、最近よくある武将隊のようなパフォーマンスや歌やダンスなどはありませんでした。昨年、たまたま、あるイベントで各地の武将隊のパフォーマンスを見ましたが、それらとはちょっと雰囲気が違いましたね。重厚感があったんですよ。

まあ、各地武将隊の任務は「地元おこし」として観光客を招致することにありますから、武将達も宣伝マンとしてウケなければなりません。「三増合戦まつり」は慰霊祭ですから、そういう必要はないわけで、もともとのコンセプトが違うことには違います。


プロの役者さんではないので、間の悪いところもあったり、セリフをつっかえたり、動きがもたつくところもありました。文献を調べ史実をベースにして説得力のある脚色を加え、セリフも、残っている書状などから引用したりして難しいはずなのに、子供や高校生達も酔っ払いのオジ達も真剣に見ていました。後半は、満場し~んとして見入ってましたね。

子供や歴史に詳しくない人にも分かるようにと某大河のようにセリフをくだき内容を軽くしなくても、過去に生きた人達への畏敬の念があれば、大意や思いは伝わるもんなんですよね。(だいたいからして、「分かるように・・・」とする時点で、視聴者を「頭が悪くて、知識がないだろう」と馬鹿にしてると思うんですがね。と、また大河の悪口。)


それから、武将達が、それぞれの実年齢に近い方達だったのも説得力があるんです(信玄は違うか、もっとお若いわね。浅利殿はもっとか。失礼。)。

これは意外にとても大事なことで、保存会の重鎮達が演られるイベントも多いですが、ちょっと・・勇ましくない感じがして・・その・・残された城を守る先代の頃からの家督を息子に譲った○臣・・みたいな・・ごにょごにょ。


わらわ、寸劇が終わったあと、ブログ仲間達の企画・出演だったので、ひとこと「良かったよぉ~」と言いたくて舞台裏にまわりました。みんなの達成感のある泥だらけの表情(面頬で見えないが)を見たら、実は涙が出そうになった。なにも参加協力していないのに部外者がそこで泣いても迷惑でしょうから我慢したのですが、なんだか、みんなの北条や武田や戦国時代や歴史が、だ~い好きな気持ちが伝わってきちゃいましてね。


三増の合戦は、どちらが待ち伏せしたことになるのか、どちらが勝ったことになるのか、などなどなどなど分かっていないことも多いですが、戦国時代最大規模の山岳戦です。両軍合わせて3~4万の軍勢がこの国境近くの山岳地帯に集結し、犠牲者の数は4000人を超えるといわれています。

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~三増の地には、あちらこちらにこういう塚があります。合戦があった地に住む人達の弔いの心が、これらを今に伝え残しているんですね。~


「三増合戦まつり」の寸劇の主役は、浅利信種殿でした。武田二十四将の一人、赤備えですね。北条の領地を荒らしまくった後、甲斐に脱しようとする武田勢の殿(しんがり)をつとめ鉄砲に討たれ、この三増の地で果てた人です。(そういえば、武田の将クラスって戦で討ち死にする人が多いわね)。

信玄はこの地に墓をつくって甲斐へ去ったとのことですが、約200年後の江戸時代、村人が墓の脇を掘ったところ小さな甕が出てきて、「これはきっと浅利殿の遺骨だろう」ということで「浅利明神」として祀りなおしたそうです。

そんな退却(か?)のドタバタ状態の中で火葬できたのか?とか戦国時代に小さな骨壷?とか固いことを言ってはアカン。それは、絶対、浅利殿なんですよ!その骨壷の主は、ここで亡くなった全ての兵達の象徴なんです。だいたい分からないんだし、戦の後、村の誰かが火葬して埋め戻してくれたのかもしれないしね。真実を掘り起こす必要がない場合もあるんです。「思いは、浅利殿」なんです。

北条・武田、どちらがホームでもアウェイでもない北条領と武田領の境目地帯が舞台となった合戦まつりの主役にはぴったりですね。この浅利を主役にもってきた義虎さん達、ナイス!です。


浅利信種殿の魂も、今日ここで報われたことでしょう。この日、この三増の地には確かに何かが降りていました。

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~寸劇に感激して、そのあと行った「浅利明神」。合戦場からここに至る農道にもびっしり「三増合戦まつり」の旗が。なんでも、全部で1700本余りだと!~


ぐだぐだ暑苦しく語っていたら長くなっちゃた・・・いつもですが。
鉄砲隊演武や騎馬武者演武などの楽しき祭りと、殺陣も迫力があった感動の寸劇の内容は、次にいたしとうござります。by 大井夫人


コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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つづく・・・

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