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2011年10月 7日 (金)

玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ

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~大船駅~

サル秋晴れの一日、「日本城郭史学会」主催の玉縄見学会&シンポジウムに参加してまいりました。諏訪壇や鞠蹴場(まりけば)にも入らせていただけましたぞ!

中世城郭好きや玉縄北条スキー(好きー)で、仕事や遠方で参加出来なかった方達もたくさんいらっしゃるでしょうに、わらわ如きがこんな貴重な体験をして申し訳ない気持ちなり。

写真が5個づつしか載せられないので、写真のためだけに3部作となります。西ヶ谷先生がここを撮れ!と皆にすすめてくださった場所を撮りました。といっても、スマホもアホだし、私の腕もアホなので大した写真ではありません。

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~おなじみ、巨大な大船観音。この山は玉縄城の出丸だったそう。~


もう有名なことですが、「つなしげぃ!」北条綱成殿の玉縄城の主郭部分は、今はミッション系の女子校となっていて、城攻めとしては戦国時代より現代の方がはるかに難攻不落といわれています。参加の男性陣にとっては、玉縄城潜入で燃え、女子校潜入に萌えた一日となりました。

それもこれも、来年の築城500年を前にした、地元保存会「玉縄城址まちづくり会議」の熱意と、女学校の校長先生のご厚意のおかげさま。参加者はなんと!120人!見学会は数班に分けて行われましたが、私は早く行ったので西ヶ谷先生の組になりました。

午前中は、西ヶ谷恭弘先生に案内していただきながら玉縄城主郭周りと、女子校潜入・・・ちゃうちゃう、女子校になる前の戦国時代の玉縄城主郭部を歩きました。女子校のお教室で持参のお弁当を食したあと、午後はシンポジウムという段取りです。


玉縄北条といえば、やはり、地黄八幡「つなしげぃ!」の綱成殿が有名ですね。ちなみに、「つなしげぃ!」は、大河「風林火山」での松井誠さん演じる氏康殿が綱成殿を呼んだ時の口調です。そう、河越攻めの時のね。気に入ってるの。

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~地黄八幡が翻る、西ヶ谷先生思い入れ大の綱成一族の飯沼城(逆井城)。~

さんざん書いているので簡単にしますが、綱成殿は、今川の福島(くしま)だと言われています。そうではないらしいとの説もあります。

どちらにしても、我らが後北条二代目の氏綱公の元にやってきて、親子二代で北条の姫を娶り北条の一族となり、その後は北条との血の繋がりはやや薄くはなりますが、重臣として天正18年、山中→玉縄でサル殿下に降伏します。


「つなしげぃ!」は玉縄北条の初代ではありません。初代は、早雲公次男の氏時さんです。早くに亡くなったようです。二代は、氏綱公の三男坊であり、氏康殿の弟君・為昌殿です。

以前、香林寺のところで、なぜ為昌殿には「氏」がついていないのかなと漠然と思っていたことを書きましたが、その後教えていただきました。為昌殿は大道寺盛昌が烏帽子親なのですね。だから盛昌の名前をから為昌。

ちなみに香林寺(小田原)は、為昌殿のご正室・養勝院の菩提寺ではないかと、今はいわれています。お寺の縁起は養珠院(氏綱の正室)となっていますが・・・。(よろしくば、先のブログをご覧くだされませ。)

(加筆: といわれていたのも束の間。2012年発刊の黒田基樹氏著「戦国北条五代」では、養勝院は綱成の実母に変わっていました!)


玉縄城は、為昌殿のあとの一時期は幻庵さまが管理し、それから大人になった「つなしげぃ!」が城主となります。為昌殿、綱成殿の頃の玉縄北条の勢力は大変なものですね。玉縄領だけではなく、小机から三浦までを占めています。つまり三浦水軍もということになりますか。こちらも前に書きましたが(こればかりで失礼)、里見と&情熱の女人・青岳尼エピソードでも活躍してますね。


その里見氏の鎌倉来襲の時の犠牲者を供養した首塚をお参りし、玉縄北条の菩提寺の龍宝寺を参拝し、主郭部に向かって歩きます。

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~龍宝寺~
つなしげぃ!開基の立派なお寺で、墓所は画像向かって右の山頂です。この先の、主郭東の口である「七曲」を守る砦の役目があったとも言われています。

龍宝寺の名前の由来は「綱成の息子の綱繁の戒名「竜宝寺殿」です。綱繁は父である綱成より先に亡くなりました。まだ43才。パパ綱成は歴戦のツワモノであったにもかかわらず、70を越える長生でした。玉縄北条の菩提寺には息子の方が先にお入りになってしまったのですね。


龍宝寺からバス通りを渡ったあたりは「植木谷」というところです。後北条時代からの植栽林で、江戸時代、なんと東海道の松は全てこの玉縄の松が使われたんですって!世の中知らないことだらけ。トリビアなり。

さて、植栽林と言えば、番匠。

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~小坂家~
後北条時代は玉縄番匠(建築業。今でいうところの大手ゼネコン)、江戸時代は名主さんだった家だそうです。戦国期は、この小坂家の長屋門前はず~っと堀だったそう。しかも水堀。


写真もう5個になってしまった。
2 へ続く・・・・。

cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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