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2011年11月 4日 (金)

後編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の、謎

Dsc_0217_2
~関係者のみの、法名と没年付き系図。~


後編でござる。

wine 本光寺文書

便利でありがたい世の中ですね。
神奈川県立歴史博物館のHPの デジタルミュージアム で、所蔵文書が解説付きで見られるのですよ。

氏康殿が弟の菩提を弔うために、「城内」に開基した本光寺。当時の本光寺が城内のどのあたりにあったのか、というか、 「城内」 にあったというのが気になりました。当時で「城内」に祀るとしたらそれは今で言うところの古郭ですよね。


(2012.2.17 加筆
それがですね、古郭ではないようなのですよ。ご興味ある方は 2012・2・17に書いた記事をご覧くだされませ。)


お寺さんで本光寺だけが城内にあったのでないとは思います。前に書いた瑞渓院の当初の菩提寺(早雲寺はおサルに乗っ取られており、籠城中だったため城内にしか埋葬できなかった)、「願修寺」も城内古郭にありましたしね。

後北条時代の本光寺がどんな感じなのか、それと、もうひとつ確かめたいことがあり本光寺文書を見てみたのです。氏康から氏政、そして氏規と、本光寺に対しても色々とケアしておりますな。


▲ 本光寺文書を見て興味をひいたのは、
為さまが亡くなったのは、天文11年。本光寺が開基されたのは、16年です。5年間どうしていたのかと思っていました。
本光寺は早雲寺の管轄下にあったようなので、御位牌やご遺骸などもとりあえずは早雲寺にあったのかしら?それとも、城内は広いからいかようにも出来たのかな?分からん。


それから、
▲ 本光寺の寺務は栖徳寺さんの意見を尊重するようにと、氏政さんが指示しているのも面白かったですわ。栖徳寺さんは幻庵殿の奥さまの菩提寺です。

▲ その後は、
氏規さんが本光寺担当となっていますね。為さまの領地のうち、三浦領は氏規さんが受け継いでいますし、氏規さんのご正室は、つなしげぃ!の娘です。


と、まあ、つまり、本光寺がいったいどこにあったのかは本光寺文書では分かりませんでしたが、それよりも・・・、

県博の解説には、本光寺は 「城 となっていました。あにゃにゃ???「城」ではないの?コピペが禁止なのでリンクは出来ませんが、ご覧になってみて。


しかし!わらわは次の物を読んで、やはり 「城 にあった確率の方が高いと思いました。

そして、為さまは、北条の坂上田村麻呂だったことも。。。


wine 立木望隆氏著
  「北条氏綱夫人養珠院と後室近衛殿について」

以前に香林寺の記事を書いた頃、養珠院について気になり色々と読みあさっている時に、黒田基樹氏の著作の参考文献の欄で見つけたものです。タイトルをメモしただけでそのままになっていたのを思い出しました。

1981年の神奈川県史研究の No.45にあります。古いですが、古いものこそ見方によってはかなりのヒントが得られますよね。図書館へ取り置き予約をしてから行ってみました(置いているところが限られているのでご注意)。


余談ですが、立木氏の著作については、ブログ仲間の遠江衆や小田原衆から紹介していただいた、「小田原史跡めぐり」という素敵な御本があります。この本のことはまた追々ご紹介することもあるかもしれませんが、本光寺が古郭にあった(たぶん)ことが分かった時、その御本にあった昭和の初め頃の古郭の写真の風景が脳裏に浮かびました。


話は、立木氏の考察に戻ります。

ここで私が一番関心を持ったのが、本光寺の山号です。目を見張りました。

鎮 城 山

というのですね。心臓がドキドキheart01しますね。城を鎮める。坂上田村麻呂みたいだと思いました。

ただ、本光寺の山号 「鎮城山」 をこちらの本以外で見たことがありません。というかそもそも本光寺という文字を見ることもあまりないのですがね。それで、上にあげた「本光寺文書」が見てみたかったのです。もしかしたらここに 「鎮城山」 の表記があるかもしれないと思いました。

でも、ありませんでしたweep


もし、氏康時代からその山号だったのなら、ひと世代後の氏政さんと氏照どののように、氏康殿は、軍事、行政、外交、全てにおいて自分の片腕だった弟、夭折した弟、特に戦にすこぶる強かった弟に、北条の軍神 としてこの先も我が北条を守ってほしいと思ったのでしょうか。


立木氏はこう書かれています(以下一部抜粋)。

~ 氏康の弟の為昌(彦九郎)は、まったく謎の人物というほかない・・・第一に、香華寺を本城(初期北条氏の城か)の中に建てている事、山号も特異な感じをあたえる こと、次に“為昌”という諡(いみな)の異例なことである。

こうした理由から、この人物が果たして氏綱の実子が否か、その死についても、日頃から注目してきた。~


心拍数上がりますねえ。妄想も広がります。この先を考察された著作があるのでしょうか?是非、拝読したい。


立木望隆氏は後北条、特に北条幻庵(氏綱の弟)の研究が専門の方だったようですね。久野の幻庵屋敷跡の一角にお住まいだったそうです。ご健在だったら是非お会いしてみたかったです。

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~為さま印判(といわれているもの)~


立木望隆氏氏のくだんの考察の中では、やはり、養珠院さまの香林寺開基や大長寺の朝倉氏夫人像のことも書かれていました。朝倉氏夫人像の胎内碑の銘文も全文載っていました。

また、氏綱公後室の近衛殿と、北条の謎の女人 No.6?(マリコ・ポーロ的ナンバリング)、氏政さん後室の鳳翔院のことにも触れてあります。両ご後室についてはまたいつかにさせていただきまする。


楽しいのは、北条幻庵は、兄上(氏綱)の正室である養珠院さまに仄かな恋心heart01を抱いていたのではないかとおっしゃっていることです。

~それは、「幻庵おぼえ書」の最後の条の文章の行間から・・・ごく控え目な起ち居や、浅からぬ教養をふんわりと包み込んだ、たおやかな容姿などが彷彿し・・・~(一部抜粋)

と書かれてらっしゃいます。

そういえば、法名の「春花」というのからも養珠院さまのたたずまいが分かるような気がしますね。


種徳寺殿さまについては、歴史ブログ仲間の高村殿(歴探)が、先の当ブログ記事から、種徳寺殿さまは、玉縄の氏勝の姉(つまり、つなしげぃ!の孫)だったかもしれないと妄想・・・いえ、考察してらっしゃいます。

そして、「ひたすら徳川大名化していく弟を見切り、一族の開祖本光寺殿を祀る寺院を自ら建立させた姿を想起すると、なかなか感慨深いものがある」と種徳寺殿さまの思いに心を寄せておられます。


果たしてそうなのかどうかは私は分からないですが、まことに北条の女人とは、知らない人にとっては「ヒロインがいない」 なのでしょうが(←嫌味)、調べれば調べるほど、皆それぞれ強く、個性的で、波乱万丈、魅力的でありまするな。


以下、先の記事でござる。

「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッきた氏綱ご正室の出自」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-2c49.html

高村殿ブログ記事「小笠原康広室(種徳寺殿)は氏康の娘か?」
http://rek.jp/?p=4973

「北条一族の高野山 3 小田原坊」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/3-6cea.html


cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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