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2011年11月 1日 (火)

前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎

(加筆 2014.3
養珠院さまは、堀越公方・足利成知の家臣である横江北条家の娘だということが発見されましたby黒田基樹「伊勢宗瑞」。このブログ記事を書いた当時はそのことはまだ分からない頃でしたので、それをお含みくださった上で以下をご覧いただければ助かります。)


先のブログ記事、「玉縄城主・北条為昌の菩提寺でビビッときた、氏綱ご正室の出自」の続きです。少々間があいてしまったので、ご興味をもっていただいた方は、先の記事からお読みいただけると助かります。

注)・・・
為さまと養珠院さまは、母子にござりまする(と、今のところいわれておりまする)。


さて、
玉縄城潜入 → 為さまへの興味 → なぜ為さまのお墓が、小笠原に嫁いだ姪(種徳寺殿さま)の菩提寺(東京・赤坂)にあるのか?→ 謎の女人・氏綱公正室の養珠院の出自の考察(妄想) → 養珠院は小笠原家ゆかりの方ではないか?

まで繋がってしまいましたが、以下は、その妄想に至るまでの自分の脳内整理も兼ねた、マリコ・ポーロの妄想記録にござります。


wine その前に、登場人物の整理をしたいと存じまする

▲ 北条氏綱公
言わずもがな、後北条二代当主
▲ 北条氏康殿
言わずもがな、後北条三代当主

▲ 為さま(法名、本光寺殿)
北条為昌さま。
二代・氏綱公の子息で、氏康殿の弟君。
玉縄城主。
23才で亡くなり、北条の軍神 となった(根拠は後編で)。

菩提寺は、後北条時代は 「城内 ←ここがミソ」 の本光寺。滅びた後は、くだんの江戸の種徳寺(しゅうとくじ)。


▲ 養院さま
為さまの正室。重臣・朝倉氏の娘。為さまより早く亡くなっています。享年、たぶん17才位。菩提寺は小田原板橋の香林寺。たぶん、もしかしたら。

香林寺は、かつて氏綱正室「養珠院」の菩提寺とされていましたが、香林寺は朝倉ゆかりの寺なので、それは養珠院と養勝院の混同であると思われます。詳細は、当ブログの養珠院についての一連の記事をご覧くださると嬉しいです。

(加筆: 2012年発刊の黒田基樹氏著「戦国北条氏五代」では、養勝院は綱成の実母となっています)

▲ 養院さま
掲題の、二代・氏綱公のご正室。出自不明。
菩提寺は、当主のご正室なので箱根早雲寺。おサルに焼かれた。

▲ 種徳寺殿(しゅうとくじでん)さま
氏康殿の娘。別格重臣の小笠原家に嫁ぐ。
菩提寺は、くだんの種徳寺。


▲ つなしげぃ!(法名、円竜院殿)
北条綱成。
今川から逃れてきて氏綱公の養子となり、娘を娶る。つまり、氏康公の同い年の義弟であり、熱き友情で結ばれた(たぶん)股肱の臣。
のち、為さま(年下)の養子扱いとなり次の玉縄城主となる。

と言われているが、黒田基樹氏(2007年)によると、福島(くしま)は福島でも違う家系の伊勢九郎という重臣の息子で、「伊勢」という名のことからも、とうに何かしらの縁戚関係があったのではないかとのことかもしれないらしいそうな。

弟の弁千代くんのこととか書きたいが、話がそれ過ぎるのでやめとく。

菩提寺は、玉縄城下にある龍寶寺(りゅうほうじ)。


▲ 小笠原家(京都系)
くだんの種徳寺殿さまの嫁ぎ先。
伊勢新九郎さんこと北条早雲の正室も小笠原家の方で、北条家にとっては別格待遇の重臣であり、一族。
京都小笠原家は江戸期に廃れたらしく、一族の菩提寺は不明。

注)ちなみに、当時の女人は御名が分かりません。ゆえに、全て法名で書きました。


ザッとこんな感じなり。恐縮ですが、先のブログをご覧いただけるともっと分かりやすいかと存じまする。

さあて、どう書いていこうかしら。ややこしいぞ。皆さまも、「ほう~」とか「ほんまかいな?」とか思いながら、ご一緒に推理(妄想)してくりゃれ。出来ましたら、皆さまお持ちだと存じますので、系図なぞを広げていただくと助かります。


まずは、軽い疑問から・・・いや、重要か?

wine 玉縄城主の菩提寺の名前は、何故、つなしげぃ!の法名ではないのだろう?

玉縄城下にある龍寶寺は玉縄北条氏の菩提寺です。龍寶寺殿は、つなしげぃ!の息子である氏繁の法名です。そのまた息子の氏勝がここを玉縄北条の菩提寺として整えましたが、どうやらその時に、祖父 つなしげぃ!の法名から → 父(氏繁)の法名の龍寶寺へと変えたようです。

(綱成の戒名は、円竜院殿と瑞光院殿と二説あるんですか?)

「玉縄城潜入」の時にふと思ったのですよね。「氏勝さん、なぜお祖父様(つなしげぃ)の戒名を使わなかったの?」って。つなしげぃ!だって、ここに葬られているのにね。

このことについては、たぶん養珠院さまには関係ないと思われるので、妄想はこれでおしまい。


wine 鎌倉の大長寺に行ってみました

Dsc_0215
~大頂寺~

大長(頂)寺は、大船から、超・超・超、信じられないぐらい感じ悪い乗務員の江ノ電バスで10分位。あまりに感じ悪く、私も連れも怒り心頭になったのでタクシーにした。タクシーのドライバーさんはとても親切だった。

鎌倉や逗子あたりは、公共交通機関も、お寺も、飲食店も、そんなにイヤならお店や公開をやめたら?と言いたくなるくらいタカビーで感じ悪いところが多い・・・と感じる(私や、私の仲間はね)。私も接客業なので、考えられない。即座にお客様クレーム係だわ。

まあね、お寺さんはね、サービス業じゃあないですからねえ。


さて、気を取り直して。

大頂寺は、つなしげぃ!のご正室・大頂院殿さまの菩提寺です。大頂院殿さまは、氏康殿や為さまの妹です

なぜ、このお寺に行ったかというと、こちらには、「北条氏 公室 朝倉氏夫人像」があるからです。開基の翌年、天文18年に寄贈されています。これは、お寺の門脇の説明板にも書いてありました。


おかしいでしょ?おかしいですよね?
氏綱正室・養院の出自は不明のはずです。そして、朝倉氏の娘は養院(為さま正室)です。

前に書きましたが、小田原の香林寺と同じく、養院と養院がごちゃ混ぜになっています。このことは、今はけっこう御承知の方は多いですが、紛らわしいですよねえ。まあ、神社や仏閣の由緒や縁起にはよくあることです。


しかし、「ここもか・・・」と思いながらその説明板を見ていて、私は一瞬、もしかしたらこれは間違っていなくて、実は合っているのではないのかと思いました。

さんも、さんと同様に、朝倉さんなのではないか。だから、香林寺もそのまま「さん開基」で合っているのではないかと思いました。法名に同じく「養」の文字も使われていたりもするし。

でも、香林寺の開基は天文7年で、さんが亡くなってから随分と後だし、また、つなしげぃ!が、義父の当主の、正室であるさんの菩提をわざわざ正式に弔うこともないと思いますので、これは違いますね。


像の銘文には、つなしげぃ!三兄弟(含む妹)が、朝倉氏夫人の御子だとあるそうです。これは、朝倉氏夫人の夫君である為さまが義父になるので、その夫人も一応母ということになるからでしょうかね。


事前に大長寺さんにはお電話をさしあげ、朝倉氏夫人像は公開されてらっしゃるのかどうか伺いました。「観光寺院ではないのでそういうことはしていない」ということでしたが、お寺に立ってみたかったので一応行ってみた次第です。

Photo
~小田原板橋、香林寺の萩~


wine 種徳寺殿さま(氏康の娘)は、もしかして為さまの娘?

先の記事にも少し触れましたが、自分で書いた関係者の生没年と法名の図を、通勤電車の中でジーッっと眺めていて、種徳寺殿さまの非常な長生きにとても興味がわきました。なんと夫君より、28年も長生きされているのです。

夫君の小笠原氏は生没年が分かっています。67歳です。種徳寺殿さまの菩提寺開基年も分かっていますから、そこから雑に計算しても、種徳寺さまはゆうに80歳は越えてますね。

夫君の小笠原家の菩提寺は分かりません。普通、夫婦は同じ菩提寺ですよね。種徳寺殿さまが亡くなったのは夫君が先立って随分経っています。子供達もそれぞれ家が分かれ、時代も大きく変わっています。菩提寺が別々になっちゃったこともありうることです。


そこで、自分で書いた図を見ながらまたまたビビッきました。もしかしたら、種徳寺殿は、為さまの子供ではないのか?80歳以上まで生きたのだったら、母親が正室だったかどうかは別にして、為さまの没年からしてもそれはありうることだと思いました。小さい時(または幼児の頃)に両親共に亡くした種徳寺殿を、氏康オジが引き取ったのでしょうか?

為さまには御子がいないことになっていますが、もしかしたら・・・これは、超妄想です。まあ、歴史の大勢には影響がないことですがね。


wine 為さまの菩提寺を開基したのは、なぜ、義息(つなしげぃ!)ではなく兄上(氏康)なのだろう?

先立った為さまの奥方の養勝院さまはどこに葬られたのかも気になるところですが、為さまの菩提寺は当時は小田原城内にあったそうです。法名をとり、本光寺。そもそもは、これが私の妄想の発端となったのですがね。


本光寺は小田原北条が滅びたあと城内から出され → なぜか、姪(といわれている)の種徳寺殿さまが嫁いだ小笠原家が引き取り → 種徳寺殿さまが亡くなったあとは、その寺が種徳寺殿さまの菩提寺になり → 為さまと種徳寺殿さまは一緒のお寺におわすわけです。


つなしげぃ!が為さまの養子扱いになったのは、為さまが亡くなった後のようですが、それはそうとしても、本光寺の開基が義理とはいえ玉縄城を継いだ義息子(つなしげぃ)ではなく、兄上(氏康)様だったのは、なんとなく心情的に分かる気がしませんか。

自分の片腕だった弟、若くして亡くなってしまった弟。一族で親友とはいえ、他家の人に預からせるよりは、自分の近くに置き、自分が弔いたかったのかしら・・・ねえ。妄想族すぎますか?


ふぅ、長い。皆さま、こんな書き方で分かってくださいました?今までは前座で、これからが核心なんですよ。いくらなんでも長すぎるので、二つに分けまする。
次は、本光寺文書」 からでござる。3-4日後なり。


cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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