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2011年12月 9日 (金)

天正18年の「石垣山一夜城」を歴友と歩く

タクシーの運転手さんに「一夜城ヨロイヅカファーム」の駐車場に IN (イン) されそうになり慌てたところで終わっていた「歴友と歩くシリーズ」(シリーズなのか?)、 第3段の「石垣山城」の続きでござる。

江戸時代に切り出した石をサラッと見た後、私達はまず、南曲輪下の石垣を見るために左側に廻る。

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関東大震災で崩れしままではあるけれど、私はこれらの石垣(特に角の大きな石積み)を初めて見た時非常に感動したのだが、  関西在住の歴友 サユリンは、こういうおサル時代の石垣を見慣れているため、反応は今一つ。。。

されど、サユリンは言う。
「一夜城」というネーミングから、なんとなく漠然と墨俣一夜城みたいなものを思い描いてましたよ。ちゃんと造ったんですねえ。

そりゃそうさ。関東の覇者、我らが北条を陥落させるための城だもの。ちゃちな物を造られちゃあ困るってもんさ。


では、石垣山一夜城に登城してみよう

「関東の名城を歩く~石垣山城」での、佐々木健策氏の真似 bleah


石垣山城は公園になっているので、ヨロイヅカファームの前から緩い登りの遊歩道がついている。崩れしままの石垣を眺めながら歩くと、なんの標識もないため、知らない人はそのまま遊歩道を登り自然と馬屋曲輪(当時は何と呼んだか知らん)へ出ることになる。

遊歩道を進むサユリンに、
「こっち、こっち。
我らは、ここ を登るよ!」
6_2 

と、ゴロゴロと大きな石が崩落したような急斜面(写真だと平坦に見えるが、急である)を指さすマリコ・ポーロ。当時の大手道といわれているところだ。

「ただの崖としか思えへんやないすか」と、サユリンだけではなく誰もが言う。私も最初そう思った。このあたりの石垣が関東大震災で崩落したままなので、よけいそう見えてしまうということもある。


ちょっと前のことだが、私が一人でここから降りてきたら、下にいたミドルエイジのご夫婦に、「凄いとこに登ったんやね。上に何があるん?」と聞かれたことがある。

ここが当時の大手道だといわれていることを話したら、ご主人の方が大変関心を示され、登るのは大変かとか、どのくらい時間がかかるのかとか、途中に順路の案内はあるかとか、いろいろ聞かれた。ここには一応古い石垣山城の説明板があるのだが、皆さんあまりご覧にならないようだ。

そして奥様の質問。
「一夜城ってどこやの?この上?」

城にあまり詳しくない方はそうなんだろうなあと思って、
ここが、ぜ~んぶぜ~んぶお城なのだということや、上まではすぐであることなどなどを教えて差し上げところ、

「ほな、太閤さんが小田原を見下ろして、どやっ!ってやった場所はどこやねん?私ら、太閤さんが、どやっ!ってやらはった場所に立ちたくて来たんやわ~。」

なるへそ。
太閤さんが「どやっ!」とやったかどうかは分かりませんが、それはですね・・・と説明し、奥さまは遊歩道を、ご主人は大手道を登って途中から馬屋曲輪の方へ行き奥様と合流という手はずで行こうということになった。しかし、順路表示とか案内板がないので、それは止めにし結局お二人で遊歩道を行かれることになった。


残念やね。表示がなくても、防衛主体のための城ではないので迷うことなんかまずなく、道らしきものをたどって行けば簡単に 「どやっ!」の場所まで登れるのに。山城に行き慣れてない方や、この先がとうなっているか知らない方にとっては躊躇うものがあるのでしょう。

前にも、この道を通って本城曲輪へ上がった時、展望台から下を覗いていたオジさま達に、
「どっから来たのっ!?」
と驚かれたこともある。
一応は整備された城であるにもかかわらず、なのに、である。


公園整備している割には案内表示が少ないことは確かだわねえ。

されど、ただ一つ言えることは(お江さんか)、この崩れしままの大手道。案内標識を出して、みんながどんどん登り始めたら、もっと崩れたり、広くなったり、脇道が付いたりして、新しい「平成の道」が出来てしまう恐れもある。難しいですね。

3 
~大手道に残る石積みの側溝~

さて、サユリンとマリリンであるが、二人は大手道の途中のあちこちで、しゃがみ込み、草をかき分けるという怪しい行動にでる。

このあたりの木の根元に残っているという 此石かき左右 加藤肥後守 石場」 と刻まれている石(歴ブロ友のAさんに教えてもろた)が見たかったからだ。でも、今回も見つけられなかった。どこ?まだある?誰か持ってっちゃったんじゃないの?


清正殿の石をあきらめ、上へと歩き、オジ様達にギョッとされたところ(ホントに大したとこではないのですよ、革靴でも登れます)から本城曲輪へ。そして、ウッドデッキのような展望台に立つ。

「どやっ!サユリン」
おサルが「どやっ!」とやった場所はこちら側ではないと思うが、いや、そもそも「どやっ!」とやったかどうかも分からないが、でも、伊達政宗に「どやっ!」とやった時の秀吉になったような気が、不覚にもちょっとしてしまったマリリン。

二人で眼下に広がる相模の海と空と小田原の町を見やりながら、天守閣を探す。


別のところでも書いたが、私は、この石垣山城から小田原を眺める時の方が、小田原城内にいる時よりもはるかに北条を身近に感じられる。何故なら、ここからは天正18年の小田原が全て見おろせるからだ。

一人の時は、天正18年にタイムトリップして、氏政さんや氏直さん達北条一族の気持ちを想像する。今回は歴友と二人である。こういう時は、現代から天正18年を俯瞰する。

徳川の陣場が、あっち側のあのあたりでしょう。氏照どのが守ったのは、すぐそこの下。あそこが秀次、その向こうがレオ様(氏郷)ね。ちょうど沖に出てゆく舟が見え、「あ、ほら、毛利が帰っちゃう」。大笑いする二人。

布陣図と照らし合わせながら話をしていると一日中ここにいられそう。


ここで、想像してみて。
山から海からぐるりと小田原を取り囲んで林立する、そうそうたる戦国武将達の旗指物。軍馬のいななき。まだまだ続いている普請工事の音や飛び交う怒号、声高な物売りの声を。

ここで、想像してみて。
百年の歴史を背負い、20万の軍勢の中を、渋取口から出ていく北条最後の当主、28才の氏直さんの気持ちを。

日本中から集まった戦国人達に見届けられながら、五代に渡り百年続いた関東の覇者がそのフィナーレを飾った舞台を俯瞰できる特等席。それが、この石垣山一夜城なのだよ。


だから、そこに現代何かを造る時は、その壮大な歴史に少しは敬意を表してほしいと私は思ってしまうのだ。


本城曲輪からは瓦が出土されている。天守は瓦葺だったそうで、もちろん東国ではお初。瓦が焼かれた場所は静岡市より東のようだ。これは、先日の「小田原最新出土品展」の「遺跡調査発表会」のレジュメに「特別報告」として触れられている。


堀切を覗いたりした後は、登ってきたのと反対側から馬屋曲輪(二の丸)へ降りるとしましょう。

降りたら、スタスタと歩いていかないで振り返ってみてね。振り返ると・・・

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こんな風に、石垣山城では一番高さのある本城曲輪の石垣を堪能することが出来るのだ。(これは去年か一昨年の夏に撮影)

石垣は段々になっていて、崩れた石垣の間からは内部が見られる場所もあり、たまにへばりついて見ている人がいる(私じゃない)。


次は、井戸曲輪。
ほとんどの観光客はこの馬屋曲輪(二の丸)に立つだけで、一段上の本城曲輪にも行かないし、尚も行かない(降りない)のが井戸曲輪である。

井戸曲輪は降りると登って戻るのが大変だが、大変だっただけの価値はあるので、膝や腰が悪い方でなければ是非降りてみて。

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凄いね。
ダムみたい。

高さ10m以上はあるね。上からはぐるぐるぐるぐると、逆さまにした栄螺(さざえ)の様にらせん状に降りて行くようになっている。 井戸の底まで降りられて、いまだ水がこんこんと(と表現していいのかどうか分からないが)、湧いているのを見ることができる。


おサルやタヌキのドラマでお決まりの、やんなっちゃう、いい加減やめてほしい、氏政さんが「なんじゃ、あれはっ!」とたまげるシーンがある。

本当にそう言ったかどうかは知らないが、それは、これら本城曲輪と井戸曲輪(の外側)の石垣を見ておっしゃったということになるわね。

何度も書くが、80日間に渡って、昼夜を問わず行われた大普請。「一夜の中に・・・(北条五代記)」なんて思うほど、北条がアホなわけないでしょ。


我ら二人は、北側の展望台へ向かう。
こちら側の景色もなかなか素晴らしい。箱根方面の山並が望まれ、箱根登山電車や、小田原藩主だった稲葉家(春日局の家)の菩提寺・長興山紹太寺も箱庭のように見える。

双子山の手前から煙が上がっていた。

「あ、狼煙があがってる!」
「ほんまや!」
「なんて?」
「えー、岡西の、お・は・ぎ、ですわな」

またまた、大笑い。
ちなみに「岡西のおはぎ」とは、私達のブログ仲間である 「歴探」 高村氏が強力推薦の小田原の、凄いおはぎ のことである。

石垣山城は、昭和までは個人の方の所有地だった。この北側の展望台より先にも曲輪があるが、そこはいまだ私有地である。


下城は歩き。
舗装されてはいるが、急坂である。自然に足がどんどんどんどん出てしまうので、足の甲が突っ張ってきて平らなところを歩きたくなってしまう程の急勾配である。

途中、ぱぁーっと景色が開ける場所がある。石垣山城の本城曲輪の展望台より視界が広がり、海やお城はもちろん、古郭まで見晴かせる。私はいつも必ずここで立ち止まる。

小田原城の天守は、八幡山から海に向かって続いてきた尾根がちょうど落ちるところにある。ここからはそれが非常に良く分かり、天守は、あたかも緑色の船の舳先にあるように見える。


ここからの眺めが一番好きだ。ここに庵のような店構えの Bar でも開きたいものだ。「Bar 三つ鱗 ▲▲▲」。土日の昼間しか営業しない。営業中は庵の前に三つ鱗柄の小田原提灯を出す。歴史ファンが集まって歴史話をし、豊臣ファンは当然に割高にする。

な~んて、企画倒れ必至なことを考えながら、小田原攻めで亡くなった堀秀政のお墓の脇を通り早川駅へ到着。


小田原へ戻り、相模湾の海の幸 fish & 相模の地酒 bottle でランチの後、先程、石垣山から眺めた敵の陣地である徳川陣場めぐりへと向かう。

今来た道を戻れない、超方向音痴のマリコ・ポーロ。前回、八王子衆&小田原衆のブログ仲間OZZさんと廻った時も、二度目なのに途中でまったく分からなくなり、小田原衆OZZさんに資料と地図を預け案内してもらう始末だった。

今回は三度目なのにまたまた迷いに迷い、遠来の歴友サユリンを 市中引き回しの刑 にあわせてしまった。


特に、どうしても見せたかった個人宅 Y家の中に残る徳川が陣場として築いた土塁なんぞは、その Y家自体が見つからずうろうろし、サユリンに

「Yさんちなら、さっき通りましたよ。すごい家だなあと思って見てたんですよ」

「あそこ、あそこ」と逆にサユリンに教えていただく、頼りなかとなガイドさんでごわした coldsweats01


ということで、行ってから、あんなことやこんなことや、カエルなことなどがあり1ヶ月も経ってしまったので、いささか臨場感がなくなってしまったが、毎度サユリンとの「ぶら歴史歩き」はいつも楽しい。

サユリンはとっくのとーに記事をアップしていて、しかもデジイチライフなため写真も非常にクリア。是非ご覧くだされ。その後の、高取城の石垣の写真などもすこぶる美しい。

「ぼっちらぼっちらと。」
http://d.hatena.ne.jp/staygreeen/20111110/1320937078

マリコ・ポーロ
「もし、今日小田原城が落ちなかったら」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-9cc7.html
「それからの後北条一族」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-93b0.html


では。

cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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