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2011年12月19日 (月)

発掘調査中の小田原城 「御用米曲輪」を見学(2011.12.14)

(マリコ・ポーロの後北条見聞録)

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~御用米曲輪の北側(通路下あたり)土塁。16世紀後半の堀と溝も、検出。~


石垣山一夜城のカエル御料人様に気をとられ過ぎ、御用米曲輪のことをしばし忘れておったわ。

サル12月14日、整備が続く「史跡小田原城跡調査・整備委員会」の第1回目を傍聴しました。会議に入る前に、委員の方々が発掘調査中の「御用米曲輪」を視察されるのに、傍聴者も同行させていただけました。(←実はこれが目的、な~ぁんてね。)


師走。あれやこれやと野暮用があり時間がなく初めて新幹線を使ってしまいましたよ。近いんですねえ。30分ちょい!お金持ちだったら毎回新幹線を使うのになあ。そしたら毎週行けますわ。

さて、
御用米曲輪に下りたのは初めてです。当然ですが、上から見るより広く感じます。元グラウンドの名残のスタンドも全部撤去されたので、かなり広いです。平場は元駐車場の名残のアスファルトもはがされて土になっているので、どっぷりと

「土塁に囲まれた戦国期の小田原城に立っている感」

に浸れました(ふふふ)。


何度か書いた繰り返しになりますが、江戸時代、御用米曲輪には幕府御用米の倉が建ち並んでいたそうです。江戸時代超初期、稲葉さんが北条の小田原城を大改修する前の絵図面(加藤図)にも、倉らしき横長の建物がいくつか描かれています。

何故、江戸時代の米倉の発掘調査にマリコ・ポーロが興味あるか。それは、こたびの調査整備で、後北条時代の石積み遺構が検出されたり、後北条時代の曲輪や堀の形成が分かったからなのです。


すでに出されている整備計画の実施設計書で、江戸時代の遺構の下には小田原北条時代以前の何層にもわたる遺構面が形成されていて、それらはほぼ完全に保存されているということは読みました。

読んではいましたが、小田原城は徳川幕府によって廃城とされたわけではなくその後もずっと生きている城で、御用米曲輪も、江戸期から明治大正と続く改修→野球グラウンド→駐車場との変遷で、後北条時代の遺構がこんなに見ることができるなんて全然期待してなかったんですよ。

「別に、いいわ。御用米曲輪は江戸時代にあげる」と思っていました。


徳川さんが「開けちゃいかん」と埋めた「パンドラの曲輪」を掘り起こして開けてくださったがために、後北条時代の「堀」だの「かわらけ」だのか現実に次々と現れ出てきてしまい、これらはどうなるのだろうとの新たな苦悩(オーバー)が始まってしまったのです。

関係諸所の方達は大変でしょうが、私達、北条・城郭ファンは今後の整備保存が気になるところですね。


後用米曲輪は後北条時代の初めの頃に出来たらしいですが、北条時代何に使われていたかは分かっていないそうです。これも前に書きましたが、氏政さん若かりし頃の屋敷があったかも(森幸夫氏 2009)とか、祭祀用のかわらけが出土していることから儀式や宴会が行われた場だったかも(佐々木健策氏)とかとかとか考えられているようです。

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~石組側溝。本丸へ抜ける鉄門(くろがねもん)に登るルートにある。このルートは常盤木門より古い。加藤図にもある。ということは、後北条時代も・・・。本丸側の鉄門跡の脇には今はトイレがあるが、今後は分からないわね。~


委員会は、小和田哲男先生(委員長)、小笠原清氏(副委員長)はじめ、中世史、考古学、建築史、都市工学、造園、近世史などの諸先生方や、小田原市の埋蔵文化財課、公園課、観光課、そして神奈川県教育委員会の方達で進められました。傍聴含めて30人余り。


審議事項は・・・、

御用米曲輪修景整備について
▲ 本丸・二の丸整備基本構想の見直しについて


報告事項は・・・、
▲ 銅門の土塀剥離(台風による)に伴う修復工事について
大木や古木も倒れ、相当な被害がでましたね。

▲ 三の丸外郭清閑亭土塁用地の取得について
▲ 三の丸外郭新堀土塁 の暫定整備について

八幡山古郭 「東曲輪」の試堀調査結果について

現地見学はありませんが、実は、この「東曲輪」の報告も密かにお目当てでした。プロジェクターで写真もたくさん見せていただきましたが、いやぁ~難しい。わらわには3Gにできぬ・・・とギブアップしましたら、小笠原氏が「われわれ遺構を見慣れている者でも全体像の把握が難しい」とおっしゃっていました。

それは、私とはまったく違うレベルででの話です。
今、公開されている東曲輪は、東曲輪の一部です。その後も、今年は、西側で堀障子が、南側では片側の法面が、北側で堀などが検出されています。しかし、公開されている部分以外は私有地でおウチを建てるため、こっちチョコチョコ、あっちチョコチョコとの調査となるから、全体像の把握が難しいということにござります。


実は、わらわ、会議の途中のあるところ、それも大事なところで急に強烈な睡魔におそわれてしまったんですよ。でも、ここで寝たら少人数だから目立ってヒンシュクものでしょう。しかも、「おいおい、マリコ・ポーロがそこ寝るとこじゃないだろ」と呆れられそうな議題のところだったので、寝ないように頑張りましたよ。


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~上の写真の鉄門へのルートにある水路遺構。説明してくださるのは、小田原市のインディ・ジョーンズさん達。~


委員会は、傍聴させていただいてよかったです。今までの各委員会の議事録は読ませていただいておりましたが、私達の営業会議の議事録とは言語がまったく違う?言い回しや専門用語が多くて内容を理解できていませんでした。直接聞くと分かりやすいですし、今回は内容もシンプルだったように思いました。


がしかし、新たな検討事項や見直し事項は、山盛りです。基本構想や、整備の基本方針などのほとんどが、現在の認識に基づき、修正、新たな検討、再編をする必要があるとなっており、中には「全面的な見直しが必要」の案件もありました。

駐車場・バリアフリー・災害時の避難場所などの社会的な環境整備や、公園としての自然環境の整備は大事ですがちょっと別にして、歴史的環境 の面だけをとっても、貴重なものが続々と出土してきてしまうと、史跡内の民有地の扱いや史跡の保存整備や公開方法の再検討は、どんどん必要になるのでしょうねえ。

中世・近世の遺構が混在している、しかも大城郭だった小田原城ならではの難しさです。どんどん、再検討、再再検討をして良い方向へやっちょってってくだされ。


絵図にない堀が検出されたりもして、ゆえに、まだまだ変更があると思うので、今、内容を細かくここには書かないでおきますが、ちょっとだけ。

くだんの伐採(植栽)のことはといえば・・・、
都市工学の先生の、「切るばかりではなく、1本切ったらどこかに1本とか2本とか植えるという考え方でいったらどうか」との提案は良い提案だと思いました。

そこで造園の先生が、「当時、草木がまったく植えられていなかったはずはないから、当時植えられていたものが何かの調査」に関しておっしゃったところ、当時の花粉分析もすでにすすめられているとのこと。


とても良いことだわと思いましたが、それが判明したからといって、単純に同じ(ような)草木を植えるわけにもいかないんですね。あまりに鬱蒼となり土塁などの景観が分からなくなったりしなくて、夏は広い木陰が出来るもの。遺構を壊すほどに根を張り巡らさなくて、でも、台風や大雨で土塁などの崩落を防ぐもの、でなければならないそう。

そんな木あるのか?ですが、戦国末期から江戸期にかけての貴重な土塁や石垣を食いつくしている木の根や、関東大震災で崩落した石垣を目の当たりにすると、そういう草木を探して植えていってほしいと強く願うものです。

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~北東の土塁下(クスノキのとこ)。下層は中世期の層。信玄が火を放った焼土痕を探したが見つからない。影が黒く入って分かり難いですかね。~


また、御用米曲輪の公開のことについて小笠原氏が・・・、
「なんとか皆さんに遺構を見ていただけるようにできないか」とおっしゃってくださったのは嬉しいですねえ


私も、以前、このことを市へのパブコメに書いたのですよ。

今回、発掘中の御用米曲輪をぐるり歩いてみて、今、表にあらわれている遺構面を調査の後また埋め戻し、土塁は修景し、平場は芝で覆い、平面表示だけにするのは、すこぶるもったいないとより強く思いました。


ブログでも再三書いておりますが、全部でなくて一部でよいので、大阪城の、家康によって埋められたおサルの石垣のように時々公開できる状態にするとか、イタリアのベローナのように強化ガラスみたいなもの?で覆い上から見られるようになったら素晴らしいですよねえ。

資料館やガイダンス施設に移されたものを見るのはつまらないです。ちょっとだけでもいいから、その現場で、そこにあった状態のまま覗ける方がはるかに血沸き肉躍ります。それなら遠くからでも見に来たいでしょう。

歴史ファンの観光客も倍増どころじゃないです・・・と思います。それに、歴史にそこまで興味がない一般観光客はガイダンス施設まで行かないもの。


え~い、面倒だ。曲輪ごと覆って「まるごと博物館」にしてしまえ!

そうこう書いている間にも、御用米曲輪からまたまた16-17前と見られる「堀」だの「かわらけ」だの、堀障子だのが出てきたとの矢文が!


御用米曲輪は、今後の整備保存や見せ方によっては、戦国・江戸ファンだけに限らず、小田原城観光の最強アイテムになるのではないでしょうか。

整備計画書の「目的」にもあります。
「小田原北条時代から江戸時代までの特色ある遺構を残す複合城郭として、歴史環境の復元的整備を図る」
と。

仕訳人の方達、もっともっと補助金どうぞよろしくお願いいたします。


御用米曲輪は、残念ながら、整備が終わるまで普段は立ち入ることはできませんが北側通路からは俯瞰できます。ぜひ行かれて、現代の小田原城に出現した 「土の曲輪」をご覧になってくだされ。


先日の見学では、なべ底のようになっている曲輪のあちらこちらを掘り返していたこともあり、そこここから何百年も前の空気が立ち昇って、それらが曲輪中に立ち込めているようでした。あの感覚は忘れられません。

あ、行かれる時は、双眼鏡をお持ちになることをお勧めします。


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~小田原駅構内に新しく出来た(リニューアルした?)駅弁屋さん。駅を降りてすぐ三つ鱗が目に入るのは、駅弁屋といえども嬉しい。
早雲公の銅像も、天守閣側の城内に移してくだされ!~


小田原城 、木造天守閣再建運動

小田原城跡整備と同じカテゴリーのようですが、別件なり。

今、小田原城天守閣の改修等の検討がなされています。天守閣は築51年。老朽化が進み、平成27年度までに耐震改修する方向だそうです。

それなら、いっそ、木造の天守閣を再建しよう という市民グループ、「小田原城木造普請の会」が発足しています。代表には、鈴廣・菜の花まんじゅう・魚國の社長さん達が名を連ね、カトケン市長も後押ししています。


まあそれは江戸時代の天守閣のことなので、後北条オタクのわらわにとしては御用米曲輪や二の丸や古郭ほどは燃えない(萌えない)のですが、鉄筋コンクリートよりは木造の方がはるかに素敵ではありますし、観光客や地元の子供達への啓蒙のためにも良いことだと思います。

しかし、補助金のための文化庁に出す資料が少なく(今のところ)、なかなか難しいようです。実現すればどんな感じになるのかな。現在の天守閣内にある江戸期の木造天守の模型みたいな感じですよね。


私は、「復元建造物ひとり反対派」ではありますが、出来たら、古郭に戦国期の櫓をひとつ造ってほしいです。もちろん、どこにどんな櫓があったかは定かではありませんので、模擬櫓にはなります。

テレビで北条早雲の紹介の時に、なにかというと江戸時代の天守閣が映るのは嫌なのね。模擬櫓でも、あればイメージ妄想しやすくなるでしょ。だから、1ヶでいいよん。


色々な運動が起これば話題になりますから、いいことじゃ。


「信玄に火を放たれた小田原城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-8322.html


では。。。

コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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