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2012年2月 2日 (木)

続き・迷宮の「小田原城」

小田原北条氏の降伏により、おサルによる実質的な天下統一が達成されたのである・・・の続き、「小田原城跡整備計画」レジュメより小田原城の歴史(2011年3月)を書き写しやす。

つまり徳川さんの時代の小田原のことになりますな。徳川ファンで当ブログを読んでくださっている方はいらっしゃらないと存ずるが(北条ビイキに偏っているゆえ)、ひとつのお城の‘人生’ならぬ‘城生’として、北条ファンの方もざっと目を通していただければお城も嬉しかろうと思いまする。同じく(赤い字)は、マリコ・ポーロのよけいな つぶやき 。


「小田原城の歴史」続き

小田原北条氏滅亡後 、小田原には徳川家譜代の家臣である大久保忠世が4万石で入り(前期大久保時代)、小田原城各所の整備を行っている。


(この頃、徳川家はまだおサルの下の一大名ですね。北条一族や家臣団も、それぞれ徳川一門やその他の大名家に抱えられ家臣となっています。

本家の北条家は高野山から五代当主・氏直さんが戻り死去した後、氏直さんの叔父であり、我らが殿・北条氏照どのの弟くんであった氏規さんの時代になります。

このあたりのことは当ブログで3年間こってり書いてきたので、ここでは繰り返すこと致しませぬが、氏規さんは家康殿とは今川の人質仲間。幼馴染の仲好しです。北条家はおサルの旗本となりました。

ちっ

子息で後に河内狭山藩の始祖となる氏盛くんは、家康殿につき従って、陸奥九戸の乱や、おサルの朝鮮出兵のために名護屋へ在陣したりしています。関ヶ原も家康殿に従軍して小山へ行っています。氏盛さん頑張ってます

しっかし、北条家が残ったのも家康殿のお引き回しのおかげですねえ。その氏盛さんも32才で亡くなっています。

って、あれ?私、何書いてるんだっけ?まあ、そんな時代の頃ってことですな。小田原城の歴史、続けやす。)


文献資料からは、入封間もない天正19年の段階で大久保氏が小田原城の普請を開始していることがわかり、発掘調査においても前期大久保期に構築したであろう遺構が確認されている。
しかし、大久保氏は慶長19年(1614)に改易となり 小田原城は 破却 されることとなった。

(大久保氏が改易となったのは、例の八王子の大久保長安からみですな。慶長19年といえば・・・大阪冬の陣ですよ!
冬の陣で家康殿についていったのは、氏盛さんの子息、氏信くんになるのかなあ。まだ少年ですねえ。夏の陣図屏風には、ちゃんと三つ鱗の旗差し物が描かれていますよ。と、脳内は北条から離れられん。)


そして、大久保氏改易後の小田原城は、幕府が城番の大名を置く番城時代となった。元和5年(1619)には阿部正次が城代を努めるが(阿部時代)、元和9年にはふたたび番城となり(第2次番城時代)、大御所となった二代将軍徳川秀忠の隠居城として小田原城を用いることが計画された。

この時、小田原町奉行揖斐政景、石垣奉行阿部正之などが小田原へ着任しているため、この段階に小田原城及び城下が改修された可能性が考えられている(佐々木 2005)。このことは、寛永7年(1630)の「小田原御天守御石切かへの事(小田原市史別編城郭近世1・2)」の存在などからもうかがい知ることができる。


しかし、秀忠が逝去したために計画は中止となり、寛永9年には稲葉正勝(春日の局の息子)が8万5千石で入封することとなった(稲葉時代)。

稲葉時代になると、稲葉氏入封間もなく発生した寛永10年1月の寛永地震の復興と寛永11年の将軍家光上洛に伴う小田原城整備により、小田原城および城下の改修作業は急ピッチに進められ、延宝3年(1675)までに本丸・二の丸・三の丸などに石垣や櫓などを構築し、現在見られるような小田原城の姿を完成させたのである。


貞亨2年(1685)、稲葉正通は越後高田に転封となり、貞亨3年(1686)には大久保忠朝が下総国佐倉から10万3千石で入封した。大久保氏は72年ぶりに小田原城主に復帰したこととなり、これ以後幕末までの時代を後期大久保時代と称している。


この時代は、元禄16年(1703)の元禄地震、宝永4年(1707)富士山噴火による火山灰降下、そして度重なる火災による被害などもあり、災害復興による藩財政逼迫の時代であった。

(現在の天守閣は、元禄地震で崩壊し宝永3年に建て替えられたものの設計図等を参考にして昭和に造られました。)

153
↑これ。


そのため、嘉永5年(1852)に外国船防備のための御台場が築かれたほかには大規模な改修は行われることなく、明治維新を迎えることとなった。

(ペリーが来たのは、嘉永6年か・・・。小田原藩もご家老が切腹したり、いったんは幕府についたりと、親藩ゆえのすったもんだが色々あったようですね。この時代の小田原藩にあまり詳しくないけれどご興味があるという方は、遊撃隊関係の本から読まれると面白いかもしれません。)


小田原城では、その荒廃から廃城令を待たずに明治3年(1870)に廃城届を提出して天守閣・諸櫓・もろもろは民間に払い下げられ、二の丸隅櫓を残して解体された。

(どこの城もそうですよねえ。公的機関や民間の企業や団体や、また、有志が買い取ったりしていますよね。そうそう、小田原城の天守閣は、小田原で今もある二番目に古い(たぶん)本屋さんのH書店さんが買ったんですよ。)


というところで、 「小田原城の歴史」はこれで終わりです。私もこれで終わりにしようと思いましたが、同じく整備計画のレジュメにある「御用米曲輪の略歴」も一部分だけ書き写そうと思います。

「小田原城の歴史」は明治維新までで終わっていますし、4日の見学説明会に向けて「御用米曲輪」の現在に至る最終段階の姿は大事かな。

つまり、もう一回だけ続く・・・


「小田原藩 相馬家菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-cd40.html
「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-6cc6.html


コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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