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2012年2月22日 (水)

「小田原合戦史観を問い直す」

面白かった !!
若い研究者の方のお話を聞くのはとても楽しいです。新しい視点から史料を徹底的に調べ、現地を精力的に歩き、通説を打破するような興味深い考察を伺うことができます。いつでもどこでも十年一日の如く同じ話じゃつまらな・・・いやいや、ごにょごにょ。


先に当ブログでもご紹介した、「嵐山史跡の博物館」で開かれた「中世を歩く会」の講演会を拝聴してきました。

こちらの博物館の講演会やセミナーはいつもコンセプトがきっちりしていて、しかもほぼ中世のことなので参加したいものが多いのですが、なんせ我が家からは中途半端に遠いのでなかなか行けないんですよ。だって、少し先へ行くともう鉢形城という距離なんですもん。


講師は、竹井英文氏。演題は、「中近世移行期東国の街道と城館-小田原合戦史観を問い直す-」。

つまり、
~ 小田原合戦で区切ることなく、かつ徳川氏の自立性・独自性を過大評価することなく、小田原合戦の前後を通して政治史を検討し、中世史研究の断絶状況を克服していく (レジュメ抜粋)~


そうですよね。
ほとんど聞くのは、「戦国時代は小田原開城によって終わり、北条の旧領は家康に受け継がれ、城は徳川幕府によってお止め山となった」です。そう考えてみれば、かなりハショッテますな。小田原開城当時、家康はまだまだ豊臣の一大名。江戸幕府開幕まで十年以上もあります。

他の配置替えとなった戦国大名と同じく、新領地に入るには苦労があったでしょう。与えられた新領は広いし、あまたの北条の城も開城・落城しっぱなしのままそこにあるし、旧家臣の数も厖大。納得しない者や、この機に乗じての不逞の輩も出て来るでしょう。

しかも、そこは、まだまだ戦が続いている北への最前線。その上、おサル殿下の機嫌もそこねてはならない。並大抵ではありませんね。


講演会は、席が足りなくなるほどの大盛況。約3時間に渡る熱弁で、最後は大拍手で終わりました。時間がなくなってしまったので、残念ながら質問タイムは割愛となりました。

まあ、質問始まったら1時間じゃあ終わらないでしょうねえ。私達も、「拘束して、もっと話いっぱい聞きたいよねえ」と申しておりました。


講演の演題は3つです。配布資料(史料)も文書含め、たっくさん!親切!

竹井氏は「関東の名城を歩く」などにも執筆されていて城郭スキーには有名ですが、まだ若い研究者の方でもあり、知識が浅いわらわが間違い勘違いの聞き書きをここで紹介してしまったら申し訳ないゆえ、ちょっとだけにしときます。


注-1)
今回の竹井氏の講演は、様々な研究者の方達からの引用あり。レジュメや資料にも記載されています。分からないことは分からないときちんとおっしゃり、これからの課題もいくつか明示されてました。

注-2)
以下に出てくる のマークも、竹井氏のレジュメより抜粋です。


1.小田原合戦後の東国の街道-街道はどう変化したか-

「道」はわらわまったく分かりません!(えばるな。) 他の研究者の方が書かれたものも読むには読みますが、よく分からないので漠然とボワ~ンと読んでいました(すみません・・・)。

この日の竹井氏の話は、元を知らない私には新鮮でした。配布資料の、これはあちらこちらでよくご覧になると思いますが、齋藤慎一氏の「戦国期東国の主要道」の図に、竹井氏が加筆したものを穴の開くほど眺めながら、はぁ~、ふ~ん、へえ~、ほぉ~と拝聴しました。以下、レジュメから一部を抜粋。


▲ 北条時代にはあまり見られないルートの登場
   奥羽-岩付-武蔵府中-小田原
▲ 中世の武蔵府中
▲ 北条時代の武蔵府中
▲ 秀吉の帰還(宇都宮からの)ルート
▲ 岩付-小田原ルートの登場
▲ 太田一吉(7月28日八王子にいた)と武蔵府中
▲ 豊臣秀次と武蔵府中

府中御殿の起源は秀吉の「御座所」の可能性?
小田原-武蔵府中-岩付を通る「新 主要道」の整備は奥羽との関係?


うう、もうアカン。レジュメを全部書き写すわけにもいかんので、興味ある方はどうにか伝手を見つけてレジュメをゲットしてくだされ。


2.小田原合戦後の東国の城館-「小田原合戦で廃城」は本当か-

おお、これは分かりますよ。最近、巷で話題の(そうなのか?)、私もマリコ・ポーロ ショック!になったあのことですな。

小田原合戦が終わったあと廃城になったと伝わっている北条関係の有名な城々が、実はそうではなく、徳川によって使われ随分と改修されていた!という、あの話ですな。


これは、ちょっと前から私の周りでも随分と話がされていて、当ブログでも「八王子城ショック」として大久保のオヤジ?のことを書かせていただきました。それで少し八王子城への興味が薄れてしまった位のショックでした。

でも、今回、竹井氏は、
「(八王子城の)御主殿改修の可能性は低い。(徳川になっても)存続していたとしても大規模改修は考えにくい」
とおしゃってくださったので、マリコ・ポーロ復調!

なんだ、大久保長安の甲州金隠し説は無かったのか・・・(マリコ・ポーロの妄想)


下記、レジュメ一部抜粋。

▲ 氏邦さんの鉢形城
開城後、徳川の成瀬殿が入ったとされるが、具体的な検討は少ない。城の存続は確実。ただし、縄張りの大規模な改変は考えにくい。
なぁんだ、そうなんですか。
現在の曲輪どりとあまり変わってないそうですよ。どうなんでしょうね?

▲ 津久井城
「御知行割」未記載だが、戦国期の城主内藤氏「御屋敷」に徳川氏代官守屋氏が陣屋を設置、考古学的にも改修を確認。山城は廃城?

▲ 為さまと綱成の玉縄城
本多正信が入城、元禄期まで存続。一時、鳥居元忠も在城?

▲ おサルの石垣山城
天正19年銘の瓦が出土。小田原合戦後も存続。

 直前まで拠点だった城郭は、落城直後に城館・城下町を移転することは困難。加えて北条氏残党・一揆への対応。
もちろん、重要性が一気に低下したのは事実。一方で、北東縁辺部が重視される傾向。

1.の、街道整備の問題との関係が・・・!
つまり、奥羽方面を意識!
なぜ、井伊や榊原は箕輪・館林に入部したのか!

ここからが、私は、特に興味深かったんですよ。2.のことは前から各方面から聞いてだいたい知って(ショックになって)いましたが、ここからのことは知らなかった・・・というか、そういう視点で考えた事がなかったんです。

目から、ミツウロコが落ちました







3.豊臣政権の東国政策と街道・城館-奥羽仕置と東国-

なんと、
本多や榊原や井伊などは、家康の家臣ではなく、徳川と同じく独立した一大名として、おサルの直臣として抱えられたとおっさるのです!

先に書いた、黒田基樹氏の本での氏直・氏規の立場と同じですね。よく、ドラマにありますよね。
「政宗、小十郎をワシにくれないかのう」
とか
「景勝殿、与六をワシにちょうでぇゃ」
みたいな場面。

ドラマだと、おサルことごとく断られていましたが、あれってホンマきゃあも? 仮にもし、もっと早く北条がサルについてたら、照どのも邦殿もそうなってたのかしら。秀吉は直臣が少なかったから欲しかったこともあるでしょうが、兄弟重臣離れ離れ。勢力分散だわね。凄い手法!


徳川グループの話に戻りますが、入封地も家康ではなく秀吉が決めたというのです!

~家康は官位・家格の面で他大名より上位にあるものの、あくまで豊臣政権下の一大名。秀吉と対抗関係にあるわけではない。「領国防衛」は一般論。よって別の積極的な理由があるのでは?(レジュメ抜粋)~

それは、つまり、奥羽方面を意識した配置であ~る、と考えるのですな


秀吉の関東・奥羽支配構想のもと、家康を小田原ではなく江戸に、「特大知行取」を箕輪・館林・結城へ配置。

家康 対 秀吉・豊臣系大名を想定する通説は再検討すべき。


そして、石垣山城が存続していた理由は?
小田原合戦以後も奥羽方面へと向かう豊臣秀次軍の拠点として存続・整備された可能性大。加えて、再び秀吉の「御座所」として機能する可能性も多分にあったといえる。
「金箔瓦包囲網」にあまりとらわれない方がいい。


てなことで、とてもとても私の筆と知識では3時間の講演と、その元の時代背景や今までの通説を報告しきれません。


おっもしろいですねえ。
そうそう、天正19年には、家康国替えの噂もあったんですって?(家忠日記)
家康の関東入国でさえ、一時的だった

かもしれないんですね。まだまだ不安定な時代ですねえ。九戸の乱、朝鮮出兵、関ヶ原・・・これからですよぉ。

この狭間の時代の研究が進めば、その前後の時代の今までの考え方も変わるかもしれません。もっと知りたいことが色々ありますが、わらわは今、為さまや小田原城、そして以前からの氏照どの追っかけで手いっぱい。これ以上範囲を広げられません。

これらについては竹井氏の更なる進化を遂げたご報告をお待ちしたいと存じまする。楽しみなり。


しかし、たくさんの研究者の考察や厖大な史料を整理し、ご自分の考えをまとめ、3時間弱で分かりやすくお話をされた竹井氏が凄いと思ってしまいました。

上記の八王子城に関するレポートは、近々出る「八王子史研究」の第二誌に載るそうです。


講演のあと、八王子や埼玉の歴史仲間と車で移動しながらお茶飲みながら、城のことやら家康やおサルのことなど2時間べしゃりまくり。

そして、わらわ、秀吉による徳川家臣団の配置の話が印象に残り過ぎ、その夜、おサルに職場異動を申し渡される夢見ちゃいました・・・。何故かおサルは勝新太郎だった。緒形拳さんであってほしかった・・・。


再びの注)
以上は私のツボだったところです。もっと詳しい方でしたら違うところがツボだったかもしれまへん。あしからず。


こちゃらは、マリコ・ポーロの妄想
「アフター北条氏照の大久保長安についての妄想」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-6cc6.html


おしまい。


コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。

画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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