家康と北条氏政、黄瀬川の河原で酒宴する
~小田原城の梅もほころび始めていました。~
先の土曜日に行われた「迷宮の小田原城御用米曲輪(by マリコ・ポーロ)」の見学説明会は200人近くの方達が参加され(説明会は100人余り)、大盛況でした。
公私&趣味?の小田原関係のほとんどの方がいらしてたようにお見受けしました。私もさまざまな方達とご挨拶ができ、また、新妄想ネタもいただけて、とても有意義な一日となりました。市の皆さま方お疲れ様でした。それから、お会いできた皆さま、誠にありがとうござりました。
御用米曲輪見学説明会のことは次回として、話はガラリと変わります。
昨年末(2011・12)に発刊された、『黒田基樹著『戦国北条氏五代』を読んでおりましたら、初めて知ったことや間違い勘違いで認識していたことがいくつか出てきました。
『戦国北条氏五代』は、「戦国北条一族(2005)」や「北条早雲とその一族(2007)」などに推敲や修正を加えて新たにまとめられたものとのことです。黒田氏のこのシリーズは大好きなので、過去の2冊も持っていて所々チョロチョロ読んでおりましたが、今回はじっくり読んでみています。
今更初めて知った事は、例えば、まず・・・ 天正14年、黄瀬川で、氏政さんと家康殿が3日間にわたって会っていた
これは知りませんでした!驚きましたよ。ホントなんですか?黄瀬川で対面したのは源頼朝と義経兄弟ぐらいだと思ってましたよ。
黄瀬川とは、現代でいうと静岡県の一級河川です。沼津と三島の間を流れてきて、沼津と清水の境目で狩野川と合流し駿河湾に流れ込みます。
学者さんが書いたとはいえ、素直に信じないマリコ・ポーロ。セカンドオピニオンが欲しくなり、参考文献にあった 前田利久氏の「天正十四年の家康・氏政会面について」の論文(静岡県史研究9号 1993年) を、図書館に見に行ってしまいました。
ホントなんですねえ。富士郡の西山本願寺での合同調査で確認された 「4枚の断簡」 や、「家忠日記」や「武徳編年集成(ってなに?)」や「史料綜覧(これまた何?)」や「駿河土産(これも知らん)」や、両家の覚書にあるんですねえ。
▲ 「4枚の断簡」とは
4枚は元は一枚の巻子仕立だったそうです。前田利久氏の論文には 「4枚の断簡」 の内容の詳細が載っています。簡単に要約すると、
1枚目は、氏政から家康とその重臣へのプレゼント目録。
2枚目と3枚目は、反対に家康から北条へのプレゼント目録&宴会の席順。
4枚目は、宴の様子が、書かれています。細かい記述で臨場感がありますので、その場にいた人が書き留めたものであろうとあります。
▲ 会見の主なメンツ
北条方が、当然の北条氏規、垪和、山角ら。
家康方が、酒井、榊原ら。
と、そうそうたるものです。
面白いことに、氏直さんは参加していないそうですよ。天正14年といえば、家督はすでに五代目の氏直さんに譲っていますし、3年前には上述の家康の娘・督姫を正室にむかえています。
当主同士というよりは、実権を握っている者同士の会見だったのですね。
▲ 段取り
3月9日に、まず三島にて面会。つまり、家康殿が黄瀬川を渡って北条領に来たんですな。
↓
それから、
3月11日に、沼津にて面会。今度は、政さんが黄瀬川を渡りました。
↓
その後、
両者はまたまた黄瀬川を渡り直し、北条領側の「惣河原」で酒宴を催したんですって!
↓
そして、
政さんの重臣の山角殿がまたもや黄瀬川を渡り沼津まで家康殿を送り、その時、家康殿が北条への反意はないことを示すために破却中の、三枚橋城を見せたんですってよ!
↓
それでもって、
山角殿はまたまた黄瀬川を渡って戻ったんですか。お疲れ様です。
面会(論文や史料には「会面」とか「御見相」とか「面談」とかとかが使われている)の場は、しかとは分かっていないそうですが、当時の例にならってたぶん両サイド共、しかるべき寺院が使われたであろうとのことです。
▲ 酒宴 の内容
酒宴が開かれた「惣河原」とは、駿東郡長泉町上土狩あたりの河原(長久保城の対岸あたり)のことだそうで、これは北条領です。
宴では、酒井忠次殿か演じた座興に氏政さんが悦にいって 脇差を授けたり(どんな芸したんだろ忠次?)、氏政さんと家康殿がすっかり打ち解けて「御二方連れテ御舞終も御乱酒」したそうです
。
茶会や能を催すなどのフォーマルなものではないのですね。かなり砕けた感じです。秀吉が天下統一をする前に、戦国大名同士がこんな場を持ったことはあまり聞きません。歴史好きにとっては魅力的な宴ですね。知っていたら参加したかったですよねえ…(?)
▲ 何故、このような会見がもたれたか?
天正14年といえば、おサルの妹サルが…いやいや、妹さんの朝日殿が家康に嫁ぐ年です。
会談を申し込んだのは家康からです。だから、最初に家康が北条領へ渡っています。宴も北条領で開かれています。
両家が交わしたプレゼントの内容も、目録を見ると、氏政が徳川方へあげた物より、家康が北条へあげた物の方がはるかに‘いい物’です。また、帰りに山角殿へ三枚橋城(徳川側の城)を破却しているところを見せたり、三枚橋城内の兵糧米一万俵を、北条の氏規さんに贈っているのです。
終始、家康殿の方がより気を遣っていますな。家康殿の気持ち(言い訳?気配り?もくろみ?)が、よっく分かりますね。うふふ。
加筆(2012.2.9)
北条氏政と家康の黄瀬川での酒宴の補足
サル御方から、「戦国時代の終焉~北条の夢と秀吉の天下統一」 by 齋藤愼一氏著(2005)にも載っちょるよんとの矢文が。
読んじょるつもりでも、その時点で自分の興味がない所は読み飛ばしているんですねえ。書いてらっしゃいましたよ、「沼津会見」の詳細を。タイトルは「徳川家康の立場」です。大変失礼申し上げました。
会見の主題は、「上方方面の防備」。
マリコ・ポーロ懸案の、氏政さんがお気に召した酒井忠次の出し物?は、「羽衣舞」と「ドジョウすくい」…じゃなくて、「海老すくい川の舞」。狂言ですか?
この会見のことは太田道誉が秀吉サイドにチクッたそうで、家康殿も秀吉に疑われるかもしれないギリギリ危ない橋を(川を)渡ったわけですな
今更初めて知ったこと。黄瀬川の対面の他には、例えば…
上杉謙信への書状の宛名
以前、北条が謙信くんに出した書状の宛名の書き方が書状によって違うのは面白い~みたいなことを書きましたが、何故かは追求しないまま忘れておりました。
そうだったんですか。
北条は古河公方に、謙信は上杉に、それぞれ任命された関東管領としてのプライドというか、ひくわけにはいかないものがあるんですね。
同盟が成り立たなくなっても(はじめっから成り立ってないが)、景虎さんを返さなかったのは、景虎さんを返せば交換条件でゲットした関東管領職をも手放さなければならないからと考察されていました。アタシャ、お気に召しちゃったから返さなかったのかと妄想しちょりました。
それから、例えば…
「伊勢」から「北条」への改姓は、まず氏綱公だけがなされ弟や子供達は順次かえていったこと
どの本を読んでも、「早雲は北条を名乗ったことがなく、氏綱から北条姓を名乗る・・」とあるので、なんとなく皆一緒に同時に改姓したような気になっていました。
「お~い、来月からみんなで北条って名乗っど~。」
「え~!?」
「名刺とか封筒とか印鑑とか急いで変えれ~。名義変更や取引大名への通知はぬかりなくやれや~」
小田原城はてんやわんやの大騒動~ってね。
そういう視点で考えると、一人で養子に行って姓が変わるのとは違って、一族丸ごと苗字を変えるというのはなかなか大変なプロジェクトですな。
それから、例えば…
督姫(氏直の正室、家康の娘)のこと
小田原が降伏した後、督姫は徳川の保護下で小田原に残っていて、氏直さんが高野山から下りてきてから亡くなるまで大阪で共に暮らしたんですか。知りませんでした。
実家(徳川家)に戻り、駿府かどこかで暮らして、その後そのまま池田家へ再婚したのかと勝手に思っていました。
氏直さん達が高野山に蟄居している間、小田原で待っていたんですねえ。となると、その間、香沼姫様と一緒の屋敷に暮らしていたという伝承にも説得力が出ますね。
氏直さんが家康殿の尽力でご赦免となり、とりあえずは大阪の織田信雄の屋敷跡に入りますね。督姫は小田原からやって来て一年振りに会えるんですね。しかし、会えたのもつかの間、たった2ヶ月あまりで氏直さんは亡くなってしまいます。
でも、たった2ヶ月でも一緒にいられて、そして最後を看取ることができて、よかったです。
(この姫達のことにご興味あらば、当ブログのカテゴリー「後北条のヒロインたち」をご覧いただければ嬉しゅうござりまする。)
それから、例えば…
北条氏直と氏規の立場
小田原が降伏し北条家がおサルの旗本になった時、氏直さんが当主としてかかえられ、叔父の氏規さんはそれまで通りその下の立場にあったと思っていたら、そうではなくて2人は別々におサルにかかえられたと。
秀吉って、北条に限らずこういうことしますよね。これ、ちょっと興味深い。 そして、衝撃的だったことは
新九郎さんこと北条早雲が今川氏親から最初に賜った城は…
興国寺城ではなくて、善得寺城ですと!?
「・・・興国寺拝領は伝承の域を出ず、駿東郡の興国寺城は下方荘の支配拠点としてそぐわない。下方荘の支配拠点としてふさわしいのは(同荘拝領が事実とすれば)、善得寺城と考えられる・・・」
ですって~。ご存知でした~?
善得寺城って今川&武田&北条の「三国同盟」のお寺があるお城ですよねえ。善得寺城をチョチョイと調べてもそんなこと全然書いてないですよぉ。
あ、それにもしこれが本当なら、ここだけの話ですが、「北条五代観光推進協議会」には興国寺城の沼津市が参加していますよね。善得寺城は富士市です。あや~。
と、まだまだあるのですが、この本のことはこのへんで。
おしまい。 コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。
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