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2012年4月28日 (土)

江戸東京博物館「北条氏綱の経典」

しょえ~

大変なことが、さりげな~く(なのか?)変わっておるのを見つけてしまいました。先に何度か 目からミツウロコ だったことを紹介させていただいている、今年1月発刊の黒田基樹著「戦国北条氏五代」のことです。

最初に一気に流し読みした後は、興味のある箇所を興味が出るたびに再読しております。江戸博で開催中の「増上寺展」へ、北条氏綱公が亡き正室・養院(ようじゅいん)様の供養のために納めた経典を見にいくにあたり、氏綱公の妻子のあたりをパラパラとめくっていて、年表のページでハタッと手がとまってしまいました。


散々書いております、氏綱公の息子の玉縄城主・北条為昌のところです。

あにゃ?
正室・養院(ようしょういん)の記載が無く・・・なっている。

ちょっと待って。養院はどこへいっちゃったの?(養院と養院と違うので要注意)


為さまは、後北条家が関東に地盤が根付き始めた時代の当主の息子。しかも、嫡男の氏康殿より広き領地を拝領し、次の時代を担う旗頭として父上から大きな期待を寄せられた人です(たぶん)。

その正室がどこのどなただったのか、つまり、パパ氏綱がどこの家と縁組みしたかったかということは、北条家がどこの誰とより強力な結束を求めたのか、または勢力下に組させたかったかということになり、当時の北条家の方針が分かる大事なことだと思うんですよねえ。


当ブログをずっとご覧になってくださっている方達にはまたまた繰り返しになり恐縮ですが、北条為昌の正室は、朝倉氏の娘・養院です。の、はずです。

養勝院を探して年表を追いました。


いらっしゃいましたよ!「つなしげぃ!」の北条綱成の母として。

いえね、綱成は為さま死去後、為さまの養子として家督(主に玉縄)を継いでいます。ゆえに、為さま正室の養勝院は義母になるので、それだけならそれは間違ってはいないのです。しかし、養勝院の没年記述が今までと違っており、その上なんと!夫が違うのですよ~


養勝院に関する私の最終認識は、2007年の同じく黒田氏の著書「北条早雲とその一族」です。

▲ 2007年版
没年 天文7年
夫   北条為昌

▲ 今回の2012年版
逆修 天文18年
夫   九郎(実福島氏)

あにゃにゃのにゃ???


「逆修 ぎゃくしゅう」とは、自分が生きているうちにあらかじめ(逆)、死後の冥福を祈願して仏事を行うことですね。

福島(くしま)九郎とは誰でしょう。こちらは、2007年版ですでにお書きになってらっしゃいます。当ブログでも紹介させていただきましたが、通説では綱成は福島正成の子ですが、福島に正成という人は存在しておらず、それは、のちに北条一族に組し「伊勢」と改名した「福島(伊勢)九郎」のことであろうと。


綱成の出自には私はあまり興味がないので調べておりませんし、これからも調べるつもりはありませんが、ここでビビッと頭に浮かんだのが、これも先に当ブログで紹介した鎌倉の大長寺にある「北条為昌夫人の像」と伝わっている像の「銘文」です。

この像とは「朝倉氏の娘・養院の像」のことです。

しつこくしつこくの繰り返しですが、大長寺では「北条氏綱公(養院)夫人像」となっています。これは、小田原の香林寺が養院を養院にしていたのと同じく珠と勝がテンコシャンコということで、神社仏閣や家伝によくあるゆえ措いておくとします。


話は銘文のことです。
つらつら思い起こすに、そういえばたしかその銘文にも、▲-①「逆修」とか、▲-②「九郎」とかあったような気がします。立木望隆氏の論文「北条氏綱夫人 養珠院と後室近衛殿について (1981)」をファイルから引っ張り出しました。以下に一部分を写すと、


▲-① 逆修のこと

~老境に至ったので(○以至衰老)、菩提心を発し(中比発菩提心)、逆修菩提のため(為逆修菩提)、木像を刻み奉納するなり~

わらわ古文書読めんのだが、読みとり方は合ってるかし?


上にも書きましたが、「逆修」とは生きているうちに・・・ですよね。木像の銘文の日付は天文18年9月18日です。ってことは、天文18年には、養勝院はまだご存命ということになるのかし?

いやいや、違いますね。日付の上に「干時」とありました。ということは、亡くなったのが天文18年かし?像はすでに造られていて、後に亡くなった日付を入れたのかし?かしかしかし?


御子は、知られているとおり
~北条左衛門大夫綱成、同刑部少輔綱房、同息女松田尾州之御内
成~
となっていますな。


▲-② 夫のこと

~彼施主 古郷豆州之住呂
名字 朝倉 息女
北条九郎之御前~

ほっらね。「九郎」ですよ。為さまは「彦九郎さま」。だから私は神社仏閣や家伝によくあるように、ただ「彦」が抜けちゃっただけで、為さまのことだと思ってスルーしておりました。


あらためて考えてみれば、私は、何から為さまの正室が養勝院と思ってたんでしたっけか?

そうですよ、黒田氏が昔書かれたものからですわ。そういえば、立木氏は「養勝院は朝倉の娘」とだけで、どこに嫁いだかは書いていませんね。 仮に朝倉氏の娘・養勝院が福島九郎の妻だとすると、それは福島がまだ今川家にいる時ということになりますか。

ちなみに、為さまの父上で養院様の夫である氏綱公はもちろん「新九郎」です。ややこしいのう。だからみんなテンコシャンコになるのだよ。


う~む。朝倉の姫・養勝院は本当に福島九郎の妻なの?

そうなると、いったいぜんたい、為さまの奥方様はどちらのどなたなんですか?為さまの正室として伊豆衆二十家のひとつ朝倉氏は小粒でしょうかねえ。とうに伊豆は後北条のものとして確立しているようですしねえ。

いや、嫡男ではないですからそんなこともないのでしょうか。これも繰り返しですが、為さまはなぜか早世してしまってますから、よけい分かりません。朝倉氏の屋敷は、今、その名(朝倉右京進)を冠した「右京」という日本料理屋さんになっています。


その出自もよく分からない上に、ここにきてご正室も分からなくなってしまいましたよ。上には、年表が「さりげな~く変わっている」としましたが、私が知らないだけで、すでにどこかにこの件に関しての考察が出ていたのでしょうか?その可能性大ですな。

もう考えるの脳が気持ち悪くなっちゃった。これ以上は分からんて。

Photo
そんなこんなで、悶々としながら大川(隅田川)を渡河!江戸東京博物館へ。

徳川家は、その効力に期待して、様々な寺院から選んだ招来(宋や元や高麗など外国からやってきたもの)の大蔵経を、将軍家菩提寺である増上寺に納めたそうです。その中に、我らが北条氏綱公が亡き正室・養院さまの菩提を弔うために納めた「元版」の大蔵経もあったのですな。


巻頭に大永8年(大永戌子)の日付&氏綱公のサイン&印&花押。巻末には鎌倉極楽寺の蔵書の印がありました。

奥書は、
~斯一蔵真詮為
先婦養珠院宗栄
荘厳報土
大永戌子孟秋日
平氏綱~


この大蔵経は、前北条家か鎌倉執権家が極楽寺に納め、その後、後北条の氏綱公が、亡き正室の一周忌に、関係する寺社(修禅寺か?)に奉納したことが推測される、と説明板には書かれていました。

北条氏が亡き妻のために納めた経典が、徳川家に効力を発揮したかどうかは分かりませんが、氏綱公のサインの文字は、ちょっと肖像画のお顔に似ていました(?)。

ご覧になりに行かれる方は、「大蔵経」という展示のところを見てくだされ。「氏綱」という文字を目当てに大きな説明板で探しても見つかりまへん。展示一覧表にも、大永八年の大蔵経として載っています。


養珠院様と氏綱公の縁組を決めたのは、早雲ですよねえ。養珠院様も、どちらのどなただったのでしょうねえ。謎の女人といわれている、いえ、言っちょるのはマリコ・ポーロなんですが、こういうのを見ると謎でもなんでもなく、本当にいたんだなあと感慨深いです。


養珠院様のことはたくさん書いておりますので、ご興味お持ちいただいた方は、以下↓あたりか、カテゴリー「後北条のヒロイン達」をご覧いただければ嬉しゅうございます。
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-47de.html


おしまい▲▲▲


コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。
画像はマリコ・ポーロが撮影したもので。持ち出しは平にご容赦くださりませ。


「福島シェルター 動物+救護 にゃんだーガード」
http://nyanderg.web.fc2.com/
「文化財レスキュー」
http://www.bunka.go.jp/bunkazai/tohokujishin_kanren/chokan_message.html

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