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2012年5月16日 (水)

「北条氏照が上洛してきたらヤバいぞ」by 三成

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~八王子城 (2011年秋、高尾駅のホームから)~


前回のブログ記事「安土城に妄想注意報がでた日」で、氏照の外交能力は実はどんなんだったのだろう?と書いたところ、ブログを相互リンクしている歴ブロ友「歴探」さんよりご意見&ご考察頂戴。

・・・氏政・氏照は情報を先取していたように私は考えています・・・だからこそ、石田三成の「氏照が先に上洛したら万事休すだ」という発言になる・・・(引用高村殿ご了承)


おお!そうでしたよ!その文書のこと忘れておりました。以前に八王子城の仲間が、ほれ、氏照が西でも認められていた証拠だよんと、宇都宮文書のこれを持ってきてくれて、オーホッホッホッ あたりまえだのクラッカーと喜んだことがあったのでしたわ


それは、天正17年3月の三成が宇都宮国綱に宛てたお手紙のことであります。

当時北条は下総から北関東の攻略を続けつつも、前年には氏規が上洛したり、秀吉の元へ何人も使者を派遣しておったりもしていました。秀吉は、その辺の詳しいことを上洛して報告するようにと宇都宮さんへ三成を通して申し渡します。


北条の上洛についても「氏政でなく、弟の氏照でもよい」と言うており、反北条勢と仲良しの三成は、宇都宮さん達北関東の諸将達に「だから早く来い。氏照が先に来ておサルに(とは三成は言わない)色々と言上したらヤバイぞ」と上洛を即したのであ~る。

そうそう大変よ、照どのが先に行って秀吉に会ったら。そして兄上様は秀吉に言われちゃうの。「氏政殿、弟御をワシにくれんかのう~」って。

わらわとしたことが、我が殿の能力を少しでも疑ごうたりして申し訳もござりませぬ。やっぱり魔王の洗脳がまだ解けてないですかね。


仕事がカキイレドキで休みがなかったのですが、レポートだのなんだの後処理はあるもののやっと今日から通常に戻りますわ。そのカキイレドキ中に考えたのであるが(考えるな!)、私は、この時、氏照どのに行ってみてほしかったなと思います。

もし行っていたらその後の展開は変わっていたかもしれませんねえ。


信長の頃の滝川一益が取次だった時代とは違い、家康が間にはいるようになったりしてからは直接秀吉側とコンタクトもとれるようになりました。前年には弟くんの氏規も上洛しました。

沼田のことについても秀吉もけっこう理にかなった裁定をしてくださっており、氏政上洛についても妥協案を何回も出してくださっちょる(何故か急に丁寧語になっちょる)。

いかに強気で負けず嫌いな氏照とはいえ、現地でその目で見てそこに集う諸将達と直接話をしたら違う考えを持ったかもしれない。

氏照なら兄上を説得できたと思うし、さすれば名胡桃も起きなかったかもしれない。


まあでもねえ、戦をして負けたならいざ知らず、何代にも渡り自分達の力でゲットしていった領地を、遠く離れた西で直接手も下さず勝手に、

「天下はワシ(秀吉)のものになったから、こっちはアヤツの物。あ、そっちはオヌシが自力で取ったんじゃないから少しコヤツの物にしてやって、残りはそのままオヌシの物でいいよん。それらのことで挨拶に来てちょーでゃあ」

と言われてもねえ(そういう言い方はされてないと思うが)。


プライドの高い大大名の前当主であるご隠居様(氏政さん)にとっては納得できないべ。

でもそれは北条だけではないのよね。徳川さん始め、伊達だって、上杉だって、日本中の大大名達も同じ悔しい割り切れない思いを抱えながらおサルの元に下っていったわけだわなあ。


そうそう、先週の大河「清盛」でも、都の平氏と坂東武者源氏との意識の差が出ていて面白かったですわ。特に、源氏の葛藤が見応えあるねえ。

今週の保元の乱から平治の乱にかけては、それがもっと如実に描かれそうで興味津々。朝廷内のシーンも、まるで舞台劇をみているようで45分あっという間なり。


おしまい。

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