« 小田原城開城へ、最後の6ヶ月 | トップページ | 報告!「津久井城開城記念~攻防戦」(2012) »

2012年6月20日 (水)

6/24 は「津久井城攻防戦」 です(2012)

いよいよ「第1回 第422回津久井城開城記念~攻防戦」です!

合戦日時: 平成24年6月24日(日)
13時半~
合戦場  : 県立津久井湖城山公園
根小屋地区御屋敷広場


前回のブログ記事「天正18年 小田原城開城まで」をご覧になってくだされば、ほぼ関東全域(全部じゃない)にわたる後北条の城々が、次々と落城・開城していく様子を時系列で追っていただけると存じます。

本多忠勝率いる徳川勢による津久井城攻撃は6月20日頃から始まりました。開城は6月25日。津久井で合戦が繰り広げられているその間、23日、われらが北条氏照どのの八王子城が落ちます。津久井城から津久井湖方面を望むと、お天気の良い日には八王子城が見えるそうです。その日、焼け落ちていく煙炎があがる八王子城を眺め、津久井衆達は何を思ったことでしょう。


津久井には 「逆さ梅(下馬梅)」 の伝説があります。

落城していく八王子城から走り出る伝令武者がいました。津久井のあたりにさしかかった時、地元の農民に「津久井城はいかがあいなったかっ」と問えば、「すでに落ちた」とのこと。

がっくりと馬から降りた武者は、無念のあまり、ムチ代わりにしていた梅の枝を道に突き刺します。時が過ぎ、梅は根付き、花を咲かせました。

そこには今も梅の木が植えられているのですよ。


津久井は甲斐と相模の国境。境目の土地はどこもそうだったように、津久井も甲斐武田が廃れるまでは、武田と北条とで半分づつ支配をうけ保護もされていました。「下馬梅」の話は伝承ですが、武田が廃れた後、津久井城は八王子と本城小田原とを結ぶ中継点として重要な役割を担っていたのでしょう。


境目の城としての津久井城の微妙な立ち位置や縄張りや津久井内藤氏のちょっと謎な歴史については津久井城のHPをご覧いただくとして。

さて、天正18年小田原合戦での、津久井城攻防戦は以下のごとく再現されるでござる。


~ 北条の猪俣某が名胡桃城を搾取する事件を大儀名分に、豊臣秀吉は北條討伐に兵を向けた。22万にも膨れた軍は、箱根を越え、あっという間に関東に到着した。小田原城こそ籠城し長期的な抵抗を見せるが、他の支城は次々と落城していく。6月23日には八王子も落城し、残されたのは小田原の他は武蔵忍城と、相模津久井城。
津久井に篭った兵はわずか150。それに加え農民等を含めても500に満たない。対して攻め寄せたのは、本多忠勝を始めとする三河兵 1万2000。果たして城方の運命は・・・!
(by 義虎殿)~


登場人物


津久井軍

城主 内藤大和守綱秀
馬場佐渡守
守屋若狭守
井上加賀守
秩父次郎左衛門
佐藤伝左衛門
井上源三郎
津久井衆(含む FMさがみさん)


徳川軍

本多忠勝
鳥居元忠(鉄砲隊長)
井伊直政
平岩親吉
戸田忠次(徒歩武者隊)
松平康貞(徒歩武者隊)
三河兵

ナレーション
今回は台詞はなく義虎殿がナレをします


午前中は、陣中食(オニギリと味噌玉)を作ります。

観光センターもありますが、お弁当を持っていってピクニックがてら武将ウォッチもナイスと思います。どうぞ、422年前にタイムトリップしてらしてください!わらわは現代で仕事がカキイレドキなので行けない。。。


詳細は、先のブログ記事↓を参考にしていただくか、公園管理事務所にお問い合わせくだされませ。
「津久井城開城記念~攻防戦再現のお知らせ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/422-fbdd.html


ほな。


コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。
画像は、武将友とマリコ・ポーロが撮影したものです。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

|

« 小田原城開城へ、最後の6ヶ月 | トップページ | 報告!「津久井城開城記念~攻防戦」(2012) »

4.その他の後北条ゆかりの地」カテゴリの記事

5.後北条、企画展・講演会・イベント祭りなど」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 6/24 は「津久井城攻防戦」 です(2012):

« 小田原城開城へ、最後の6ヶ月 | トップページ | 報告!「津久井城開城記念~攻防戦」(2012) »