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2012年6月16日 (土)

小田原城開城へ、最後の6ヶ月

我らが小田原北条運命の天正18年。

「天下統一にむかって・・・」と聞こえのよい大義名分に名を借りて(←マリコ・ポーロの偏見)、秀吉殿の関東・東北制覇のメインイベント「小田原合戦 北条攻め」は始まった。

以下、主なものだけ。


horse 2月初旬、徳川家康を先鋒とする西日本エリアの名にし負う戦国大名達からなる豊臣軍はおよそ22万。本隊は山中城(静岡・三島)へ、別動隊は北条氏規守る、北条一門の聖地韮山城(伊豆)に向かう。

(3月1日) 秀吉、京都を出陣

(3月3日) 三島・黄瀬川で徳川家康ら東海道軍が前哨戦におよび、ここに小田原合戦の火ぶたは切られたimpact

(3月27日) 秀吉、三枚橋城(沼津)に着陣。

(3月28日) おサル、韮山近くをウロチョロする。


途中ですが、ここで注:
別に私は秀吉が嫌いではにゃい。ある意味「凄い人」だと思っておる。特に最近ますますそう思っておる。

続けます。


(3月29日) 北条氏勝(つなしげぃっの孫)と重臣松田・間宮らが守る山中城 は2万の軍勢に囲まれた。約4千でむかえ討つも、落城

(4月1日) 東海道軍、よもやの箱根山突破bearing

(4月4日) 西日本エリアの名にし負う戦国大名達(全部書くと大変ゆえひとくくりで)からなる豊臣軍は小田原着陣。

(4月6日) 秀吉、北条家当主代々の菩提寺「早雲寺」到着、布陣(←なんちゅうこっちゃ、よりによって菩提寺にannoy)。

(4月初め頃) 秀吉、石垣山(笠懸山)に城を築き始める。

我らが北条氏照&氏邦コンビで普請中の城を急襲し、おサルを山から追い出すscissors(←うそ)


(4月8日頃) 小田原は山から海から取り囲まれ、完全包囲される!

何やってたんや~、氏照軍団長ぉ~


小田原城には、軍勢その他要員+早雲寺の僧達はじめ避難してきた人達+人質達(戦の時に裏切らないように人質を城内に囲うということはどこの戦国武将達もやることである)=約10万が籠る。

対する豊臣勢はおよそ22万。軍の配置に興味ある方は、この頃に書かれた「小田原城仕寄陣取図」をご覧あれかし。


しかし、凄いことだと思いませんか。これだけの名だたる戦国大名が集結した城が他にあるだろうか。いやpaperない。


horse 一方、韮山へ向かった蒲生レオさま、細川忠興、織田信雄をはじめとする名にし負う戦国大名達からなる別動隊は、

(3月29日) 韮山城 およそ4万4千の軍勢で囲まれる。守るは北条氏規以下、3千6百。


horse 一方、伊豆海岸線の北条水軍の城々へも、九鬼、加藤、脇坂、長宗我部ら名にし負う水軍軍団の戦国大名たちが向かうship

(4月中ごろ~) 次々と落城

(4月17日) 毛利水軍一万以下 下田城 へ向かう。対するは北条重臣の清水ら、約6百・・・。

(4月23日) 下田城降伏


どこも、むかえ討つ北条側の人員があまりにも少ないですよねえ・・・。


horse 一方、前田利家、上杉景勝、真田、依田らの北国勢は、

(2月) それぞれ出陣。旧暦2月とはいえまだまだ寒く雪も降る降る。

(3月初め) 碓氷峠(群馬と長野の国境)が突破されimpact後北条の超々重臣・大道寺の松井田城(群馬)への攻撃が始まる

(4月初~中) 周囲の国峰城、厩橋城などが先に落とされてゆく。

(4月22日) 後北条の北の要、 松井田城ついに降伏


しどいわweep。四方八方から皆でよってたかって・・・。


ここで、注:
こう書いてゆくと北条がやられっぱなしのようであるが、豊臣軍も討ち死にしていく重臣達もおり双方被害は大きい。戦は辛い。


horse このあたりで、秀吉殿は、東海道を攻めのぼり小田原に着陣していた徳川家康軍を、相模・武蔵・下総方面へ出撃させるのであります。使われますねえ、家康殿。黙々と任務遂行してますね。一枚、いや、何枚も上手(うわて)な方なんですかねえ。

家康はまだまだ秀吉下の一大名。徳川軍は、小田原攻めが終わった後は関東に国替えとなり東北征伐に行かされることになります。2月10日に駿府を発ってから二度と故郷の地を踏むことはなかったのだよねえ。


さて、松井田城が落ちたことに衝撃をうけ、下野・上総・下総の城々は次々と開城していきます。

(4月21日) 壬生城・鹿沼城(栃木・宇都宮方面)、佐竹・宇都宮らに攻められ開城。

(4月24日) 箕輪城(栃木)、開城。

(4月26日) 陥落した山中城から戻った氏勝が籠る玉縄城(神奈川・大船)、徳川勢に開城を求められる。

(4月27日) 遠山守る江戸城・葛西城、開城。

(5月初め) 河越城・松山城(埼玉中西部・もう少し北へ行くと鉢形城)、開城。

(5月19日) 鉢形城 戦はじまる。

(5月22日) 岩付城(埼玉東部)、開城。

(6月5日) 忍城(埼玉北部・群馬茨城の国境に近い)、石田三成・大谷刑部らによる攻撃が始まる。

(6月14日) 鉢形城開城


ふぅ~。ここまで合っているかしら?間違ってたらコッソリ教えてくだされ(コッソリ直すから・・・)。

パソコンのまわりには諸先生方が書かれた何冊もの本や、今までの自分のメモ書きノートが散乱。


さあ、秀吉の魔の手はいよいよ我が城、北条氏照どのの 八王子城(東京・多摩エリア) にも迫ってきます。

後半は、比較的「開城、助命」が多いですね。小田原本城を降伏させるためにも今後の東北仕置きのためにも、「秀吉に逆らうとこうなるでゃぁも」という「見せしめとなる城」がそろそろ必要ですね。


(6月20日頃) 津久井城(神奈川・相模原)、本多忠勝・鳥居元忠らによる攻撃が始まる。

(6月23日) 「見せしめの城」として、北国勢により壮絶な攻撃をうけ 八王子城 落城crying
是非、たっぷりこってり書いてきた先のブログ記事の数々を読んでやってくだされや。

(6月24日) 照どのの弟君である北条氏規守る 韮山城(伊豆)降伏。
八王子城が落ちたことはまだ知らない・・・

(6月25日) 津久井城 開城
津久井城からは、八王子城が焼け落ちてゆく炎煙が見えたはず・・・weep


(6月26日) 秀吉、早雲寺から石垣山の城に移る。


籠城中の小田原には主要城の城主達が詰めていました。留守部隊が守る自分達の城が次々と落ちていく報をうける城主達はどんな気持ちだったのでしょうね。無念だったでしょう。自分がいたら・・と思ったでしょう。城を死守した城兵達に申し訳ない思いだったでしょう。

また、その城主達を見る、北条最後の当主・氏直の心の痛みもいかばかりだったでしょう。戦意が失われていくのも仕方ありません。


7月5日 日本中の戦国武将に見守られながら小田原城は開城する


おっと、まだ闘っている城がありました。

7月11日) 忍城開城

(7月12日) 檜原城 (奥多摩・八王子のもっと西)には、氏照の寵臣である城主平山氏重以下城兵+八王子城の残兵(含む・氏照の重臣横地監物、たぶん・・)達が前田・上杉をむかえ討つが、奮戦空しく落城。平山、横地ら自刃。


ジ・エンド crying

よろしければ、カテゴリー「北条一族、最後の2ヶ月と高野山」をご覧いただければ嬉しいです。昨年も書きましたが、あの時は取り憑かれたように書いたのでもう二度とあの時以上のテンションでは書けしまへん。
全部で14記事なり。
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/cat22295280/index.html


ひとまず、ほな。

cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は、マリコ・ポーロが撮影したものです。

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