北条「氏政」の御首級(みしるし)はどこに?
田子の浦に
うち出でてみれば白妙の
富士の高嶺に雪は降りつつ
新古今集と万葉集でチビッと違いますが、百人一首では覚えたての頃に札を取り合う、山部赤人の有名な歌ですね。
異常に暑い日が続いておりますが皆さま大丈夫でしょうか。大丈夫じゃあないですね。わらわもです。
さて、我らが殿、北条氏照どのの御首級(みしるし)のお話の最後に、兄上様である小田原北条四代当主・氏政殿の御首級は 「源立寺」 だろうか・・・?と書きました。それからどうしても気になり、猛暑も ものかは、お参りしてまいりましたよ。駿河 「源立寺」。
野次馬もここまで来ると、我ながら凄いと思ってしまいます。いえね、自分を含めて周りも猫も寄る年並み。いつ何があるかわからない。それだけではなく、日本だってどうなるか分からない。行ける時に行っておこうという気持ちに、昨年より此のかた駆られておるのございます。
氏政殿の首が埋葬されたとウワサされている、「大富泉山 源立寺 げんりゅうじ」は、富士川と興国寺に挟まれたちょうど真ん中にあります。上の写真が、その「源立寺」の山門のお屋根と、雪が降りつつない夏の富士山です。
ここから見ると富士山は巨大ですのう。さすが日本一です。この時期に顔を出してくれるのは珍しいそうですよ。
「源立寺」は、800年程前に月輪大師(がちりんだいし)によって開山され、当初は「立寺」だったそうですが、前北条の政子さん達の尊崇をうけたため「源」を頭に付けて「源立寺」となったようです。
「月輪」というえば、そうです。あの「月の輪御陵」の、天皇家の御陵がある京都の、「泉湧寺」を開創された方ですよ!そのため源立寺の歴代住職はほとんど泉湧寺から着任し、山内には「菊の御紋」が溢れていました。
その「菊の御紋」と共に目立ったのが、泣く子も黙る「三つ鱗紋」、天下御免の後北条(&前北条)の「三つ鱗紋」でした。
京の「戻り橋」で晒された北条氏政&氏照の首級のうち、照どのの御首級(みしるし)についての八王子「永林寺」→「宗関寺」という噂はマリコ・ポーロでご紹介させていただきやした。
では、政さんの御首級は?
政さんの家老・佐野新左衛門景政(小棹城主)が許しを得て小田原に持ち帰る途中、富士川の氾濫で時間をとられ、もう運びきれずこの地に埋葬し、景政も菩提を弔うために土着した・・・
と伝わっていますね。
この佐野殿はその後の江戸時代に、富士川のデルタ地帯の開墾に力を尽くし、その新田は「加島五千石」とまで言われるようになったそうです。
小棹城というのはどこでしょうか。また、佐野殿という人も私は北条重臣では存じませんが、「景政」の「政」は氏政からいただいたのでしょうか。
そして、なぜ、「源立寺」に埋葬したのでしょうか。まわりにも大きな歴史の古いお寺はたくさんありました。
「源立寺」は高野山小田原坊(高室院)とも深いつながりがあり、随分行き来もあったそうです。派は違いますが同じく真言宗です。
高野山で蟄居となった氏直さんがお願いして、まわりが尽力し(例えばやはり家康殿)、首級を返してもらったのでしょうか。埋葬は、最初から「源立寺に」としていたのでしょうか。それとも富士川を渡るのに暇がかかり、たまたまそこに縁のある「源立寺」があったのでこちらに収まったのでしょうか。
そんなことを考えていたところ、ある方から、佐野殿は穴山梅雪の家臣だとの情報をいただきました。梅雪の死後、嫡男は駿河を安堵されたが若くして亡くなりましたよね。その嫡男に最後まで仕えていたのが佐野殿であるようなのです。
ここからは、マリコ・ポーロ得意の妄想です。
佐野殿はその後は徳川についていたようなので、氏直さんの意を汲んだ家康殿が、佐野殿を遣わした。もしくは、その頃は佐野殿は北条傘下にいた。
佐野殿は氏直さんや高室院と相談し、氏政さんの首を、高室院と懇意で、自分も馴染みである駿河の「源立寺」で供養することになった・・・とか。
繰り返しますが、まったくの妄想です。
そして、「源立寺」さんにはもうひとつ素晴らしいものが・・・
なんとですねえ、「源立寺」の御本尊は、氏政さんの「念持仏」なのだそうであります!
富士市のHPには「氏康の念持仏」とありますし、「氏直の念持仏」という人もいるそうですが、お寺では「氏政の」と伝わっているそうです。
ちょっと残念なことに、御本尊は秘仏。60年に一回の御開帳だそうなんですよ。とはいえ、60年経っていなくても大事な法要の時などは御開帳されるようで、前回は新本堂の落慶式が行われた11年前の平成13年だったそうです。
しかし、それから普通に60年としたら・・・わらわが拝むのはもう無理じゃな。
写真を見せてくださいました。ブログには載せられませんが、富士市のHPにある昭和43年の「広報ふじ」で拝見することが出来ますよ!
念持仏ですし坐像ですから、15cmにも満たない程の大きさだそうで、平成13年にはまだ青い色が残っていたそうです。
造りについては、「広報ふじ」から以下一部抜粋。
~身は紫金色で、上に肉髪(につけい)があり、頂に円光があって、その中に500の化仏があるとされています。頂上に毘りよう伽摩尼宝という天冠があってその中に一つの化仏があり、眉間の白毫(びゃくごう)には宝石をはめてあります。~
ゴージャスですねえ。写真だけ見ても、みっちりと濃い感じで素晴らしかったです。藤原時代のものとみられているそうですよ。
お厨子に向かって手を合わせました。
もしこれがホントなら(←いつもこればっかり)、氏政さんの首級は、自身の念持仏と共に佐野殿に大事に抱えられ、高野山を下りこの地にやってきたのでしょうか。父上の念持仏は、氏直さんが高野山へ持っていっていたのでしょうねえ 。
当初、佐野殿が埋葬した場所には、目印に「槇の木」が植えられていたそうです。「槇」といえば、ね、高野山ですよ。
その槇の木は、案内してくださったお寺の方が小さい頃まだあって(昭和37年に枯れた)、直径は1m以上、高さは・・忘れた。写真を見せてくださいましたが、高~い高~い木でした。
木は二代目もなく、仕方なく処分する時に木の下や周りを掘ってみたそうです。何も無かったそうです。このあたり一帯は昔から何度も富士川の氾濫で流されたそうで、氏政さんのお墓も一番上の部分が残っているだけでした。
いつも書いておりますが、そこに埋まっていようがなかろうが、そんなことはどうでもいいことなんですよ。大切なのは供養しようとか、「思い」を寄せる何か「よすが」が欲しいと願う気持ちだと思うのだよ。
お墓は「槇」に替わって「ナギ」の木に守られていました。
「ナギ」は神社のご神木で、同じく槇の仲間だそうですがお寺にもあるのですね。このあたりは海の町です。「ナギ」は「凪」に通じるところから、神社ではなくとも好んで植えられるそうです。
兄上様の魂も、今、凪のように穏やかであれかしと願いました。
「源立寺」はかつて広大な敷地を有していました。絵図面によると、敷地は「舟形」であり、船尾は田子の浦に、船首は富士のお山に向かっていました。
案内してくださった方がおっしゃるには、
「今、海を上がり、富士に向かってまた進んでいくところ」だそうです。
富士へ向かう船。な~んて素敵なんでしょう 。
田子の浦
富士にゆかんと
月待てば
潮もかないぬ
今は漕ぎい出な
↑額田王君のパクリ
この後、バスで20分位のところにある、「あの 善得寺城」に行きました。すでに長くなってしまったので 次回に。でも、たいした内容ではありまへんので期待せんといて。
注、なり)
・源立寺は現在住職不在のため普通に行っても本堂は開いていません。
・兄上様のお墓はお参りできます。案内版も親切に出してくださっています。
・JR富士駅から徒歩15分位。線路に沿って吉原駅の方へ歩き、王子製紙の大工場群がきれたあたりにあります。
多聞院英俊日記(歴探より)
二人の首はニセモノ?の噂
http://rek.jp/?p=5036
「北条氏照 の首級はどこに・・・?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-df65.html
「北条一族の高野山3 高室院」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/3-6cea.html
ちょっとだけ続く・・・。 コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。
画像は、マリコ・ポーロが撮影したものです。
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