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2012年8月14日 (火)

北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?

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~曹洞宗 「金峰山 永林寺」の総門。七堂伽藍の名残がある立派なお寺である。~


八王子市由木にある永林寺は、「道俊院心月閣」→「永」→「永林寺」と寺名が替わったお寺です。

そこのところで小田原北条(後北条)ファンはビビッときたかと存じます。そうでござる。永林寺の開基は、武蔵の名族であった大石道俊殿。

中興開基が、その大石氏の地盤乗っ取りのため養子としてパパ氏康殿に送りこまれた、四代当主・氏政殿のすぐ下の弟であり、北条軍団軍団長であり、小田原北条 No.2 であり(長いぞ)、八王子城主である我らが殿 北条氏照どの。

そして、小田原北条滅亡後は、「鱗」の字を嫌った家康をはばかり、「永寺」→「永寺」となったそうです。

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~「道俊院」と読める~


御縁起には、天文15年、北条氏照が重臣の横地監物・中山勘解由を建築奉行とし、七堂伽藍の美々しい寺院を完成させたとあります。

ん?天文15年?
我らが照どのは天文10年頃の生まれですから、まだチビですぞ(←カワユイheart01)。

これは、つまり、パパ氏康が横地・中山に命じ、照どのの名のもとに「永鱗寺」を中興させたということですな。

伽藍完成後には僧侶千人を集めて壮大な「江湖会」が催されています。江湖会(ごうこえ)とは、周辺寺院から一同に僧侶が集まり一定期間共に修行をすることです。当時の「永鱗寺」は千人もが集えるほどの広大なお寺だったのですね。


この「江湖会」は、この地が大石から北条のものになったことの大お披露目イベントであったとも思います。氏照どのが大石の地に入る前後のパパ氏康やその重臣達が関連諸所に出した文書などから見ても、氏照どのは大層な前準備を整えられてから養子入りしています。

御曹司どのですなあ。

照どのは、生涯を通し、その期待を裏切らないばかりか上回るほどの活躍をしましたね。いや、し過ぎちゃった・・・coldsweats01

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~大石殿は「由木城」跡地にお寺を開基。由木城はかなり広域で城山はずっと野猿峠の方まで続いている。画像右上、柵の4枚の白い板に 由・木・城・跡 とある。~


天正18年のこと。

7月11日に切腹した四代・氏政とその弟である No.2 氏照の首は、京都に運ばれ「一条戻橋」に晒された・・・といわれておる。

戦国期の「戻橋」は一条通りではなく筋が違ったそうですがそれは置いておいて、どちらにしても「戻橋」は聚楽第のところにある橋で、当時の著名人の首がよく晒された場所なので他所者にとっても三条河原と並び馴染みのある場所です。


戻橋に晒された・・・といわれてはいますが、それはお話の中ででしかないのでよく分かりません。でも、今川義元も朝倉義景もだれもかれも首実験の後は晒されることがほとんどですから、どこかに晒されたことは確かでしょう。

晒されたのが京都だったとして、今でさえ後北条は全国区ではないですから、当時の京の都の民衆に「北条兄弟の首」と言っても、それが誰でどの程度の武将だか分かったのでしょうかね。今と同じく、前北条の政子さんちの家系の誰かだと思ったのではないでしょうか。


また、氏照どのの首については前にも書いたこんな話もあります。

照どのの小姓に山角牛太郎くんという美少年(←ウソ。‘美’とは書かれていない)がいて、牛太郎くんは氏照どのが切腹した時その首を奪って逃げようとし、家康がその忠義心に感服したというものです。

これも軍記物のお話ですので、本当かどうかは分かりませんでございます。

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~「永林寺」には寺域の中にも城の遺構が残っている~


さて、晒された後の氏照どのの御首級(みしるし)はどうなったのでしょうか。

「武蔵名勝図会」というものがあります。江戸時代後半に幕府が作成した「新編武蔵風土記」の編纂作業にも携わった、植田もうしんと いう千人同心が書いたものです。編纂されたのは小田原北条が滅びてから200年以上経ってからではありますが、挿絵付きで見ていてとても面白いです。


私がツボなのは、もちろん、「八王子城本丸跡荒廃の図」です。埋もれつつある御主殿の石垣や大手の石段や城山川の様子が妄想をかき立てます。「宗関寺」の絵も、萱葺き屋根の本堂の後方に「古城山」があるのにグッときます。

最近は、「高尾山の頂上より相模の広原を望む」の絵に、「三増峠」の書き込みがあるのにも心惹かれるようになりました。


その「武蔵名勝図会」に、

▲ ・・・北条氏照の首を北条家落魄の人梟首の後その首を持ち来たりて、由木村永林寺の現住照鑑禅師を頼みて葬せんことを乞う・・・▲

ということが書かれています。


「永林寺」の大檀那である氏照の御首級(みしるし)を住職禅師があちらこちら手をつくし願い出て、それが叶い返してもらったというのです。

禅師は引導を渡し法名を付け、城山の麓に葬ったそうです。その葬った場所が今、氏照のお墓がある場所(旧宗関寺跡)で、のちに、氏照どのの師であった卜山和尚がそこを「宗関寺」としてお寺にしたと書かれているのです。


法名をつけたのは卜山和尚であると私はずっと思っていたのですが、「武蔵名勝図会」によると法名をつけたのは永林寺の照鑑禅師ということになります。

卜山舜悦は当時でも高名な高僧です。もしかしたら卜山和尚がかなりな働きをかけをし、返してもらった首級をとりあえず「永林寺」に安置したということも妄想できますな。

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~旧宗関寺跡にある北条氏照の墓。山の中腹にある。~


これが本当でしたら、小田原→京都→八王子と移された氏照どの御首級は、いくら塩漬けにされたとはいえ、八王子に着いた頃はもう・・・

ちょっとちょっと、ファンのくせに、よくそんなことを妄想できるわねっ!うぅ。

まあ、なんにしても、もし本当なら(クドイっ)、お墓の下には、我らが殿の御首級(みしるし)がちゃんとおわすということになりますね!


と、ここで我れ思う。
お兄ちゃんの御首級はどうしたい?やっぱり富士市の源立寺ですかい?


そんなこんなで、皆の者!
明日(15日)は北条早雲公のご命日ですよ~。
「今日は北条早雲ご命日」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-5875.html


ほな。


cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は、マリコ・ポーロが撮影したものです。

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