« 新選組と北条氏照の日野 | トップページ | 三増合戦まつり プログラム(2012) »

2012年10月12日 (金)

早雲が最初に賜った城は、三国同盟の城?

Dsc_0971_3
~伝・善得寺城跡~


北条早雲が、甥である今川家当主・氏親から最初に賜わった城は沼津「興国寺城」だというのが通説・・・いや、定説?でした。何を隠そう、私も定説に基づき興国寺城に立ち妄想して大喜びした一人です。ぜんぜん隠しておりやせんがね。

ところが、そうではなく富士の「善得寺」であるという説を今年読みました(戦国北条氏五代by黒田基樹氏 2012)。ちょっと衝撃的でしたよ。


前にも書きましたが、その根拠は、

▲ 興国寺城拝領は史料になく、伝承の域は出ない
▲ 興国寺城築城は天文18年である(早雲はおろか氏綱も死んじょるcoldsweats02
▲ 早雲の領地は富士市の「下方荘」であり、駿東郡にある興国寺城は下方荘の支配拠点にはそぐわない

ゆえに、下方荘拝領が事実ならその拠点にふさわしいのは「善得寺」である・・・そうなのであります。


017_2

「善得寺城」といわれてビビッとくるのは、天文23年、今川・北条・武田の「三国の会盟」により結ばれたといわれる、名にし負う 「三国同盟」 です。

そのお説を読んだあと急に大河の三国会盟シーンが見たくなって、「武田信玄」と「風林火山」を、N○Kオン○マンドで見てみました。「風林火山」も大好きな大河のひとつですが、2本続けて同じシーンを見ると、「武田信玄」の方が私には巧みに感じられましたですねえ。


三国の会盟は当主によってではなく、それぞれの家臣たちによって行われたそうですし、三国の婚姻も同盟によって今更はじまったわけでもありません。それ以前の天文19年にすでに今川の娘が武田Jr.に嫁いでいますよね。

また、会ったのは三国の重臣達ではなく、義元に武田の3将が面談しに行ったとか、はたまた、面談があった年も天文23年ではなくて、2年後の弘治2年だとも聞きます。


まあ、そんなこんなの史実は色々あるようですが、大河ドラマ「武田信玄」では、「三国同盟」の発案は今川の寿桂尼となっています。「風林火山」の藤村志保さんの寿桂尼も大~好きですけれど、こちらの寿桂尼の岸田今日子さんもいいですねえ。

庭を眺めていた目線を、中の信玄に移しながら発する、

「さて・・・、この年寄りがヨロヨロとまかり出て参りましたのは・・・」
の台詞。

「うんうん、なぁに?」って、次の言葉を待ってしまいますよ。


話はズレますが、寿桂尼の性格は氏康の正室になった娘の瑞渓院に受け継がれた気がします。勝気で政(まつりごと)に参加したがる。会った事ないけど。


話をドラマに戻し、武田・今川・北条の、同盟にむかう各家の思惑もコラージュのように次々と描かれ興味深いです。

山県殿が信玄に、小田原の備えの盤石さを細かく語っちょりますよ。ほほほ。

寿桂尼殿も義元くんにおっしゃいます。「北条の底力を甘くみてはならぬ!」そして、言われちゃう。

「母上は、動きすぎます~sad」 by義元くん。
「その場かぎりの和睦など、かえって裏切りの種を蒔くようなものじゃ・・」

な~る。

このへんから、我らが北条氏康殿の、後へつながる葛藤も描かれはじめたり、途中で挿入される、一人違うワールドの謙信くんの変わり者ぶりも面白いです。


さて、ドラマはいよいよ三国の会盟です。史実にのっとり?三国の重臣たちによる善得寺での事前ミーティングシーンから始まります。重臣は、北条が松田殿、武田が真田殿、今川が・・見逃した。誰だった?

そしていよいよ三当主の会面となり、腹の探り合いのしたたかな会話が続くわけですな。これが三者(杉さま、現勘三郎さん、中井貴一さん)、風格あって上手い~。続けて見るとちょっと「風林火山」の三人が・・・申し訳ないが、弱い。ごにょcoldsweats01

040
~今川・北条側から見える富士。「表」富士?「裏」富士?~


もう有名ですが例の富士山の会話です(うろ覚えのため要訳)。

氏康
「少々、間近過ぎますな。いま少し遠くに見えた方がありがたく拝めるようじゃ・・ふぉっふぉっふぉっ」
義元
「あまり遠くては霊験あらたかではござらぬ。仰ぎみてこその霊峰・・ふぉっふぉっふぉっ」

甲斐から見るのは「裏 富士」という義元に、信玄、
「甲斐では誰ひとり裏富士などと申すものはおりませぬannoy古来、裾野隠してそびえ立つ姿を霊峰富士と申すそうじゃ

続けて、信玄
尻丸出し の姿では霊験も消えてしまうそうな・・ふっふっふっ」

義元&氏康
アハハハ、ウフフフ、オホホホ・・・


二人して甲斐を「山国」とか「山だらけ」とか「尻丸出しの富士とは上手いことを言う」とか笑い続け、感じ悪いね~。でも、このドラマは甲斐が主役だから仕方がないね~。しつこいが、上手いのよ。三人の台詞回しとか間合いが。

で、婚姻の話になり会談は御開き。

Dsc_0977


そんなこんなで、わらわは、その善得寺「城」址に立ち、善得「寺」跡で「尻丸出しの富士」を見てみたく、先のブログ記事「北条氏政の御首級はどこに・・」で書いた沼津「源立寺」の帰りに立ち寄ってみようと思ったのじゃ。

ふぉっふぉっふぉっ。


善得寺城は、「伝」なのですね。善得寺城の築城は今川範政。寿桂尼の夫であり、義元の父である氏親の曾祖父の時代ですか。

城は、現在の日吉浅間神社が本丸の跡と言われています。確かに、下からはいかにも城跡に登城するような細いカーブした坂道が続きます。両側はびっしり住宅が立ち並んでいます。


神社の創建は古く、今川家と徳川家の崇敬をうけたとあります。ここも、またまた途中の「後北条」が抜けていますね。

毎度書いていますが、鎌倉鶴岡八幡宮はじめ関東の神社仏閣に多い、これが怪しくなる原因のひとつなんですよねえ。徳川により、完全に後北条が抹殺されてますでしょ。ごにょごにょ。

このブログは神社仏閣の御由緒・御縁起に疑問を投げかけるブログではないですし、小田原北条に限らず「敗者の歴史」とはそういうものだから、そのあたりは、ごにょごにょ状態でスルーして、いずれにしても、日吉浅間神社は、移転していなければ当時からここ(城内)にあったということになりますな。


善得寺城は、信玄の駿河侵攻の時に焼け落ちているはずです。

石垣は残るとはいえ、なんだか新しいですね。「打ち込みはぎ」の乱積みっていうんですか?よく知りませんが、落城後に積み直ししたのかな?それとも、義元時代後半に積んだのかな?


伝・善得寺「城」址と善得「寺」跡は、隣接とはいえ当時の城も寺も広大なため、少し歩かねばなりません。

お寺の方は、灼熱地獄のためさすがのマリコ・ポーロさんもヘバってしまいbearingsweat01もう行けませんでした。でも、今でも町中からは家やビルの隙間さえあればどこからでも、「尻丸出し」ではありませんが霊峰富士は拝めるため、当時なら富士は「尻丸出し」で見えたことでしょう。ドラマの台詞ではありますがね。


三国同盟はかなり長く続き、有効活用された同盟だと思います。しかし、それも、永禄11年、北へも西へも東へも侵攻が行き詰まった武田信玄の駿河・小田原侵攻により破棄となります。

善得寺城はこの時に灰塵と帰すのですが、この一連の信玄の軍事行動の中で、三増合戦 が行われるわけでござります。


wine 業務連絡~♪
妄想をほめてくださった T様(O様とお読みする?)、コメントに返信申し上げたのですがアドレスが違うと戻ってきてしまいました。嬉しいお言葉を賜り恐縮しております。コメントありがとうございました。今後共よろしくお願い申し上げます。


「伊勢新九郎さん in 駿河の巻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-f636.html
「北条氏政の御首級はどこに・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-470a.html
「駿府で後北条~ぶらマリコ・ポーロ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html


ほにゃ。

cat コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

|

« 新選組と北条氏照の日野 | トップページ | 三増合戦まつり プログラム(2012) »

4.その他の後北条ゆかりの地」カテゴリの記事

8.時代劇・小説・なんちゃって小説など」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/545855/55702276

この記事へのトラックバック一覧です: 早雲が最初に賜った城は、三国同盟の城?:

« 新選組と北条氏照の日野 | トップページ | 三増合戦まつり プログラム(2012) »