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2012年10月19日 (金)

武田信玄、多摩川を渡る!

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~拝島大師の凄っい山門~


▲ 永禄12年9月末、前年、三国同盟破棄にいたる駿河侵攻を開始した武田信玄は、多摩川を渡河。我らが殿・北条氏照が守る滝山城を攻めた後、左入・尾崎山に陣取る総大将・勝頼と合流し、小田原へ向かう!▲


滝山城から、信玄が陣を張ったといわれているあたりを氏照どの目線で見下ろしたことは何度もありますが、そういえば、信玄目線で対岸から滝山城を見たことがありませんでした。

この日は、渡河した地点といわれている現在の東京都昭島市拝島町あたりの、多摩川に沿った遊歩道を歩いてみました。


拝島駅からバスに乗り、まずは陣を張った「拝島大師」へ。

不思議なお寺ですね。境内は、白壁ではなく瓦屋根の板塀の縦格子状の回廊で囲まれています。トップの写真の山門も巨大。両側に二層の瓦屋根があり、その上にまたもうひとつ大きな屋根がのっている感じ。

何か正式な言い方があるのでしょうが、今までたくさんのお寺を訪ねていますが、日本のお寺でこういう門、しかも巨大な門は見たことがない気がします。日本じゃないみたい。


「大師」といっても弘法大師ではなくて、元三大師をお祀りしているそうです。

ほぉ、元三大師といえば、比叡山延暦寺の中興の祖、慈恵大師ですね。叡山の横川に祀られていますね。横川も2回ほどお参りしたことがありますが、こちらの拝島大師は随分と雰囲気が違いますねえ。

聖地の山の中にあるか交通量の多いバス通りにあるかではなく、なんと申せばいいのかなあ。回廊も結界感があり、門や本堂からは威圧感というかちょっと怖いというか・・・ごにょごにょ。お寺というより、御廟みたいでした。(マリコ・ポーロの主観です。)


といいながら、実は拝島大師の創建は天正6年頃だそうです。永禄12年に信玄が陣を張った頃はなかったんですね。本陣は隣の「大日堂」だったそうですよ。いずれにしても、このあたりは、その日、武田の大軍で埋め尽くされていたことでしょう。


現代は、大日堂や拝島大師から多摩川までは民家で埋め尽くされていますので、滝山城を眺めるためにバス通りを反対側へ渡り民家の間を川に向かって坂を下ってみました。

が、しかし・・・河原の木々が鬱蒼としていて、川面も滝山城もぜんぜん見えない涙。遊歩道を右・上(滝山城主郭の方)へ向かって少し歩いてみましたが、なかなか見えにゃい。

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おお!
やっと木々の切れ目から少し見えました。でも、水面は見えないにゃ。

当時の滝山城はこんなに広大ではなかったとは思いますが、あそこから我らが殿が
「うぬ!信玄めっ」
とこちらを睨み降ろしていたのですね。

氏照どのぉーーっ!
と手を振ったりなんかはしませんよ。いい歳して恥ずかしいから。


さて、再びバスに乗りバス停4つ-5つ川下へ向かいます。全部歩こうかとも思ったのですが、鬱蒼としているところもありそうだし、平日なので人もあまりいないし、それにもう10月なのに夏日ときたもんで河原沿いはまたまた灼熱地獄。ゆえに、バスに乗りました。

成隣小学校で下車。小学校の脇を下ると、大神の河川敷に出ました。

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~大神←→平の渡し。わずかに川面が光る。越後のお屋形様(上杉謙信)も永禄4年、ここを渡河した・・・たぶん。天正18年には家康殿も、八王子城を視察したあと河越に向かってここを渡った。~


信玄の渡河地点については諸説ありますね。 およそ2万の軍勢。そりゃあ一ヵ所で渡りきれるわけはありませんから何ヶ所かに全軍を分けたでしょう。でも、ここを渡るのが、四郎勝頼くんが待つ左入には一番近いんです。

この渡しは、今でも都道162号として地図の上では点線でつながっているのね。面白いですね。しかし400年前は橋はありませんから、大軍はどうやって渡ったのかしら?


ものの本やサル御方の論文によると、このあたりの多摩川は川床が浅いため「瀬渡り」が主であっただろうとあります。渇水期でもありますしね。瀬渡りだったとして、大軍がモタモタ?目と鼻の先を渡河しているのを、血気盛んな年令だった(いや、生涯血気盛ん?)われらが殿・氏照どのがよく黙って見ていましたね。

でも、お兄ちゃん(氏政さん)から言われてますからね。あちこちで同時多発ゲリラ戦法を行っている武田軍に「いちいち関わらず自分の場所を守れ」って。お兄ちゃんの言うことはよく聞く源三くん(氏照)。ここは、ぐっと我慢。

そして、向かうは 三増(みませ) ですな。ふふふ。

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~氏照の目線で。滝山城から拝島を見下ろした図。~


こののち武田軍は相模川を渡河。江戸城方面へまわっていた一隊とも合流し、10月1日、酒匂川を渡河し小田原や箱根に火を放ちます。(最近、この時の焼土痕検出!当ブログご覧くだされ。)

しかし皆の者、ご安心あれ!
鉢形・玉縄はじめ後北条支城衆がすでに追撃を開始しておりまする。もちろん、我らが殿・総大将北条氏照どのも滝山城をいざ 出陣!

凄いでしょ。この統制のとれた北条の大追撃軍と、侵攻&撤退する武田の大軍勢。今のようにパソコンやスマホがない時代、両軍の斥候やラッパが走り乱れたことでしょうね。ヘリで空から追いながら現場レポートしたら、それだけでひとつのドキュメンタリードラマができるわね。

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小田原城に ↑ この焼土痕をつけた武田信玄は、10月4日、長居はヤバイと撤退を開始。5日夜三増峠下に到着。そして、翌6日。日本合戦史史上に名高い大山岳戦、「三増合戦」が繰り広げられることになるのであ~る。


この続きを知りたい方は、日曜10月21日、 「三増合戦まつり」 at 三増合戦場碑広場へ行こう。

ちなみに、合戦場は神奈川県愛川町でござる。


拝島のお土産

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拝島といえば、石川酒造。創業は文久3年。あ!新選組が結成された年だ!その石川酒造といえば、多摩の銘酒「多摩自慢」。こちらの「たまの八重桜~純米」のラベルは、来年の創業150年を記念して復刻した江戸時代のラベルだそうです。

石川酒造さんは、以前、秋に「蔵開き」という催しが毎年あって、数年続けて行ったことがあります。広いお庭全てが解放されて、無料の試飲やジャンケン大会や、一升何万円もする純米大吟醸をほんの少々有料で飲めたりもして、地元の方やファンがおつまみを持ち寄って皆で飲むんです。

お土産には甘酒だったか酒粕をくださるんです。もう、やってらっしゃらないようですが、拝島の町にほろ酔いの人達がたくさんフラフラ歩いている楽しいイベントでした(催す方は大変でしたでしょうね)。


「小田原城、戦国の御主殿クラスの建物跡」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-1f30.html
「信玄に火を放たれた小田原城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-8322.html
「大河 武田信玄~永禄12年小田原攻め」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-d8e7.html


再来年の大河は「黒田官兵衛」ですか・・・

黒官は興味がないことはないですが、昨年お正月にたっぷりやっていましたし、やはり昨年の大河「お江でござる」でも、おサルの家臣が三成と黒官だけでしたので印象が強いです(再来年になれば薄くなるのかな)。

しかし、もういい加減、信長・おサルの周辺話は飽き過ぎましたよ。いまだに、大河は信長・秀吉信仰なんですかね。それとも、昨年がひど過ぎたから、やり直しかな?

未来永劫「後北条」をやらないつもりなら、北や南の武将をやってくれい。

ほにゃ。


コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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