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2012年10月 4日 (木)

新選組と北条氏照の日野

♪春まだあ~さき(浅き)壬生の朝
誠 一字に集いたる~
丈夫(ますらお)たぁちの雄たぁけびが
燃えよ~わがぁ剣 我が思い

リフレイン♪

燃えよ~わがぁ剣 わが命~♪

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~源さんち♪ in 日野。派手になったのう。~


前に、この世にひとつしか映画が残らないとしたら、10個だと悩むが1つだとしたら迷うことなく「アラビアのロレンス」を選ぶと書いたことがある。

では、この世に1つしか小説が残らないとしたら・・・迷うことなく、「萌えよ剣」ちゃうちゃう、「燃えよ剣」である!


当ブログでは何度もしつこく書いているが、10代の頃、司馬さんの小説を順番に読んでいてこの小説に出会った。まあぁぁぁ、ハマったハマった。小説の主人公として脚色はあるにしても、こんなカッコイイ人がつい100年前にこの世にいたことに驚いた。

なんと偶然、ちょうどその頃深夜のテレビドラマでこの「燃えよ剣」が、引き続き「新選組」が再放送された。

結束信二氏の脚本と栗塚旭さんの土方歳三に私は完全にやられてしまい、その頃出ていた新選組関係の本を読み漁り、石田村へ行き、板橋へ行き、京都をほっつき歩き、栗塚旭さんの喫茶店へ会いにいってお茶を飲みサインをいただき写真まで一緒に撮っていただき、会津から宮古湾へと土方さんの足取りを辿ったものだ。

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~↑こわい・・。明里さんやあらへんえ、わらわや。ウン十年も前に壬生の屯所前で撮った。言わずもがな、前川邸の山南さんが切腹した部屋の前。~


最近思うに、どうも私は「新選組」というより「土方歳三」のファンのようだ。

京で活躍していた頃の土方さんより、近藤さんが死に、近藤さんや新選組の呪縛、それは土方さん自らが作り上げたものではあるけれど、そういう呪縛のようなものから解き放たれてからの土方歳三が好きみたいなのである。

それもそのはず。だって、土方歳三は、我らが北条氏照の生まれ変わりなんだもん。根拠は先のブログ記事をご覧あれ。他のことでは異論は大歓迎じゃが、ことこのことに限っては異論は聞かないぞぉ~!


新選組に凝った頃からウン十年も経ち後北条にカブレテいる今、土方さんのことは随分忘れてしまったが、先日、後北条の歴史の集いに声をかけていただけましてね、その場所が日野でござんした。

久々に新選組を妄想できるチャンス!と、集いの場であるお蕎麦屋さんに行く前に、土方さんと北条氏照の日野を、単騎、しばしの「ぶらマリコ・ポーロ」でござる。

♪燃えよ~わが剣
我が祈り~

ってか(↑鼻歌)

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~日野用水。「そば」と書かれている黄色い旗を左に入ると集合場所のお蕎麦屋さん。~

日野用水は、我らが北条氏照が永禄10年、佐藤隼人に命じ罪人を下げ渡して開削が始まったそうです(ここからは、ですます調)。隼人殿は、用水を引かされたり街道を造らされたり、随分と氏照どのにコキ使われた印象がありますねえ。

ん?土方さんが使った偽名「内藤隼人」の「隼人」は、土方家の当主が世襲してきた「隼人」からとったと思ってましたが、佐藤家も「隼人」なのかね?


佐藤家は、戦国期、日野に落ち着くまでは美濃齋藤家の家臣だったようです。佐藤家といえば、約300年後に土方さんのお姉ちゃんが嫁いだ彦五郎さんの家。江戸時代は名主さんで、新選組の大スポンサー。彦五郎さんは日野の農兵を組織して、勝先生に江戸から体よく追い出された近藤さん達と共に、甲陽鎮撫隊として勝沼までも行っています。

上の写真は日野宿本陣の真裏で、佐藤家の屋敷があったあたりです(今もある)。佐藤彦五郎さんは天然理心流に師事し、当時は敷地に道場もありました。写真の用水に沿ってまっすぐ先へ進むと、そこは、土方さんの生家がある石田村。土方家は、氏照どの時代の三沢十騎衆です。

この道を、土方さんも通ったのでしょうねえ

なんだか妄想が300年の間を行ったり来たりして、脳内がゴチャゴチャになっちゃいましたよ。

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~大昌寺~


さてっと。もっとゴチャゴチャになりましょう。

日野用水を石田村とは反対方向へ、つまり日野駅の方へ戻ると、「三鷲山 鶴樹院大昌寺」という浄土宗の立派なお寺があります。

天正18年6月23日、落城した八王子城には首をとられ血にまみれた敵味方無数の遺体が放置されていました。ある程度は前田殿達が回収してくれたでしょうが、伝わるにその数千三百余り。とても回収しきれなかったことでしょう。


暑さで腐敗もすすみ猛烈な臭気漂う中、それらの亡骸一体一体に引導を渡してまわったお坊さんがいます。「牛秀讃誉 ぎゅうしゅうさんよ」上人です。

牛秀上人は元は甲斐の武人で、甲斐であんなことがあった後に武蔵の立川にやってきて出家したといわれています。北条軍団軍団長である北条氏照の帰依を受けた八王子の名僧で、「大昌寺」は上人の隠居所として慶長19年に建立されました。


「大昌寺」には牛秀上人のお墓がありますが、なんとなんと、佐藤彦五郎さんちの菩提寺でもあるんですよ。


さぁ~て、もっともっとゴチャゴチャになりたいでしょ?次は、このお寺です。

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~宝泉寺~

天水桶の紋をご覧(ごろう)じよ!

日野駅を出たとたん、甲州街道をはさんで目に入った本堂屋根の「三鱗紋」に、アタシャいきなりテンションが上がりましたよ。

あれはなんというお寺!?
私は「ぶらり」する時はけっこう下調べをするのですが、日野のお寺で三鱗は知りませんでした。八王子衆から事前にいただいていた「日野宿発見隊」作成のチラシを広げると、ここが源さんの菩提寺「宝泉寺」でした。

宗派は、臨済宗建長寺派・・・?
なぁ~んだ。「三鱗」は特に後北条や氏照というわけではなく、臨済の建長寺派だからか・・・。

ということで、ゴチャゴチャにはなれませんですね。期待を持たせてしまい失礼申した。ちょっと、クールダウン~。

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~源さんこと新選組副長助勤・六番隊組長 井上源三郎のお墓~


ドラマなどで源さんは必ずちょっと年寄りじみて描かれますが、亡くなったのは40才少し前。いくら昔でも、バリバリ現役です。

そして、氏照後に八王子に入った大久保のオヤジが組織した「八王子千人同心」の家柄でもあります。

源さんは鳥羽伏見の戦いで命を落としました。ドラマや小説やコミックでは、土方さんの腕の中で息をひきとる源さんが描かれることが多いですね。まあ、ここがファンのツボでもあるわけですが、ということは、遺体はここにはないのではないか?と思いました。


いつも書いておりますが、遺体や首がそこにあろうがなかろうがどうでもよいことで、その人を偲ぶ気持ちがあれば確かにそこにあるのだとは思うのですよ。

思うのですが、思いはすれど気になったので夜の集いで聞いてみましたところ・・・


源さんの遺体(首級と刀)は、近藤さんの小姓を勤め鳥羽伏見にも従軍していた、源さんの甥である12才の泰助くんが、大阪へ撤退する時そのあまりの重さに持ち帰れず伏見の「欣浄寺」というお寺に埋葬したそうです。

時は移り明治の御代、泰助さんはそのこととお寺の名前を息子の嫁であったケイさんに遺言し亡くなりました。そして、また時は移り昭和の御代。ケイさんの遺言でそのことを知った郷土史家や新選組研究家の方達の調査の結果、京都伏見の「欣浄寺」は廃寺となっていましたが確かにあったことが分かりました。

その後、近藤さんのご子孫・土方さんのご子孫・佐藤彦五郎さんのご子孫や研究家の方達と井上家の方達で、廃寺となっていた「欣浄寺」の墓地跡から土を持ち帰り、この宝泉寺の源さんの墓所の土と一緒にしたそうです。


私はこの日この話を伺いとても感じるものがあり、家に帰ってからネットで「井上源三郎資料館」のHPを覗いてみました。そして、そこにある、市川三千代さんという日野のガイドの方が書かれた「井上源三郎埋葬地を訪ねて!」という、市川さんの新選組ゆかりの地を訪ねる見聞の旅からはじまる「欣浄寺」の発見や、そこから広がっていくドラマチックな出来事に胸がワクワクしてしまいました。

ご興味のある方は是非読んでみてくださいまし。


そんなこんなの「日野ぶらり マリコ・ポーロ」の半日を終え、集合場所のお蕎麦屋さんへと、氏照どのが造らせ、土方さんも通った用水沿いの道を戻りました。

お蕎麦屋さんにて、新選組の話はまだ続きます ↓ 。

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お蕎麦屋さん「ちばい」は、本陣の裏手にあります。

「ちばい」は、日野の新選組研究の第一人者である谷氏のご家族の方が営まれている、個人宅のようなお蕎麦屋さんです。現在のご亭主もかなりの新選組研究家でらっしゃるようです。


「ちばい」とは変った名前でしょう。「血梅」、紅梅のことだそうです。枝を切ると、中は血が滲んだように真っ赤なことからそう呼ばれるんですって。

以下は、美味しいお蕎麦をたぐりながら、一杯いただきながら伺ったこの血梅の話。


梅は、元々は、千人同心である源さんのお兄さん松五郎さんが世話役を勤めていた、千人頭石坂家の庭にあったものだそうです。松五郎さんに伴われて石坂家を訪れた近藤さんも「激賞」したという話も残っています。

戊辰の時、石坂殿達は日光東照宮に詰めていましたが、新政府軍に引き渡し帰郷しました。そして、戦わずして敵(新政府軍)に日光を渡したことを恥じ、帰郷同日深夜、切腹。


その後この梅のことは忘れられていましたが、ある時、残っていたことが判明。しかし、第二次世界大戦の時、八王子がうけた空襲で黒こげになってしまいました。

ところが、梅は、それでも芽が出、花を咲かせるようになりました。新選組研究家である蕎麦屋「ちばい」の血梅は、この梅を接穂し育てた方から譲り受けた1本だそうです。


いやはや、ひとつの町をチョビッと歩くだけでも、歴史はいくつも折り重なって今に伝わり残るものなんですねえ。


ほろ酔い加減で外に出ると降るような秋の虫の声。
見上げれば、天には煌々と輝く満月。

鉾(ほこ)とりて
月見るごとに
おもふ哉(かな)
明日はかばね(屍)の
上に照(てる)かと

昨年、土方さんが函館で詠んだ最後の和歌らしいとの説が出たもの。


飛行機が嫌いなので、いまだ函館に行ったことがないのが残念至極。4日間位お休みがないと行けないし、たとえ休めてもそんなに長い日数の旅行は出来ないから、たぶんもう一生行けないね・・・。

ちなみに源さんちや佐藤彦五郎さんちも資料館をなさっているのだが、万願寺駅にある新選組資料館と同じく月に1-2日しかも日曜日だけの開館です。お調べくだされ。


「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html
「北条氏照と土方歳三の国府台」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-b174.html
「BSドラマ新選組血風録」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-b381.html


ほにゃ。


コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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