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2012年12月11日 (火)

小田原市「遺跡調査発表会」2012

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~立派な冊子状のレジュメもいただける。表紙は幸田口の戦国期の堀から出てきた漆塗りの弓♪~


ひとつの町で、毎年毎年 新しい発掘結果を、しかも盛りだくさんで発表しきれないほど発表できる小田原って凄い!

サル日曜日(2012.12.9)、先にご紹介した小田原の「最新出土品展」とそれに関連した「遺跡調査発表会」に行ってまいりました。

発表会では、古墳時代・中世・江戸時代と多岐の時代に渡る前年度の発掘調査報告が、それぞれの担当者さんにより発表されます。丸一日にわたり行われていますので、拝聴者は気になる発表を聞いたり、隣の展示会場を覗いたり、発掘を担当したインディー・ジョーンズさんを捕まえて?質問したりと自由に過ごしていました。


発表会の合間には、各展示コーナーで担当インディーさん達による展示説明もありました。これは、私にとっては、ファンタジーワンダーランド小田原のさながらパーティーのようでしたわ。

周りの方達が(もちろん私も)、「担当者を一人占めにして質問攻めしたい」とおっしゃっていましたが、そんなことは出来ないくらい盛況でした。

私は色々な場所の現地見学会や講演会などに参ります。その中でも小田原市はこういう機会が多いせいかもしれませんが、一般の歴史ファンと文化財課などの市の方達や研究者の方達との間が近いなあと感じます。


▲ レジュメの表紙の戦国時代の漆塗りの弓(トップ画像)

展示されていましたよ!現物が!

出土した一昨年の「最新出土品展」では写真だけでしたが、今年は、とりあえずの保存処理がなされ見せてくれました。

PEG(人工の樹脂)処理がされているので、出土ホヤホヤ時の写真に比べると色は少々黒ずんでいましたが、巻いた糸の痕とか、漆塗り~感がよっく分かります。


幸田口の戦国期の堀から現れた実戦用の重藤弓。永禄の頃、上杉謙信や武田信玄がここまで攻めてきたのでもしかしたらと妄想をかきたてられますが、それは今のところまったく分からないそうです。

と、よく見たら・・・名前が書いてあるではありませんか!
「うえすぎ まさとら」って。

な~んて、わきゃない。
それに、就任式前だから「ながおかげとら」かな?


調査発表は戦国期に限らず古墳時代も江戸時代も行われました。古墳時代や江戸時代は私はよく分からぬのですが、やはり凄い!みたい・・です。

古墳を壊した・・・ちゃうちゃう、埋められたのは誰だ?みたいなご質問をされていた方がいらして、そうか、古墳スキーな人達にとっては、戦国期も江戸期もぶっ壊して古墳をフューチャーしてくれいと願うものなのだろうなあと思いましたわ。

あ、古墳が埋められたのは平安時代頃だとのことでした。


文化財の保存処理についての展示があったのも興味深かったです。


古墳スキーな方達には申し訳ないですが、戦国北条推しのマリコ・ポーロが萌えたのは、まず・・

▲ 16世紀後半の、幸田口の田の字の「障子堀」

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~1月のブログ記事で写真なしでご紹介(あの時は、公式発表があるまでブログに写真載せないでと言われた)した、幸田口にある建て替え中だった某ビル地~


以前のブログ記事の繰り返しになりますが、この堀は当然ですが加藤図(寛永時代)にはない堀です。発表では、画像で加藤図の上にこの掘を重ねて堀の向きを示してくださいました。

皆様ご承知の如く、超方向音痴&3G脳内組立ができないマリコ・ポーロにとって、現地で見ていた時にどんだけ説明されても今一つピンとこなかったものがやっと3Gになりましたよ。

また、ビルとはいえ発掘中の残土の置き場もない商店街のど真ん中の狭いエリアですので、この堀がどこからどこへ繋がっているのか私には想像できずにおりましたが、「蓮池に沿って展開している」との想定される方向も示してくださいました。

な~に言っちょるんや!と思うでしょ。私は度が過ぎておりますが、これって見慣れている人でないとなかなか分からんもんですよぉ。


「田の字」の障子掘の検出例は、小田原では2つ目になり、天正年間の かわらけ がまとまって出土していました。展示されています。

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↑これは、上の私の写真の左上あたりにある後北条期の井戸2基の写真。井戸の中からは小振りな仏像(映像の写真を撮ったがうまく写ってにゃい)を含むたくさんの木製品が出てきていました。

なんで、井戸から出てくるの?
天正18年の開城時に捨てられたのかな?

捨てるくらいなら、わらわにオクレ。


幸田口からは、江戸時代の堀や石垣などなども検出されていて、まさに様々な時代がコラージュのように錯綜する小田原の姿が凝縮された一角なのですね。


そして、もうひとつ・・・

▲ ご存知!「御用米曲輪」

御用米曲輪の戦国期の遺構については、度々こってりと書いてまいりましたのでここでは省かせていただきやすが、障子堀、当主クラスの館の礎石、大庭園の跡、数々の遺物・・・戦国時代の遺構や遺物が次々と目を覚まし現代に現れ出てきている御用米曲輪。

曲輪取りも、今までは「戦国期の面影を残す御用米曲輪」といわれてきましたが、全然違ってたことが分かってきましたね。


御用米曲輪、後北条時代メインではいけないのですかねえ。ここまで凄いの出てきちゃうと、今更「ここに江戸時代の蔵がありました~」の表面展示で公園化ではもったいなくて。

それに、一般観光客の方達は結局は表面展示じゃつまらんでしょうし、オタクは戦国期なら何度でも行きたいですよねえ。

何度もおんなじことを申して恐縮ですが、文化庁様、よろしく前向きに検討をおすすめくださいませ。


御用米曲輪は、江戸時代だけではなく昭和にも野球場などでずっと使われてきたから、そのまた下に、まさか戦国期の遺構がこんなに残っているとは思わなかったですものねえ。


徳川幕府さま、ぶっ壊さないでそのまま埋めといてくださり、ありがとうーっ!


いや~。となると、天守の下とか屏風曲輪とか弁財天のとことか二の丸とかとかとか‥考えると、わらわ御用米曲輪スゴい凄いと申しておるが、もっと凄いとこがあるのかもしれないですねえ。

サクラダファミリアみたいに永遠に発掘調査してなきゃならないなんてね?

来年2月、なおいっそう凄いことになった御用米曲輪の現地見学会が行われる予定だそうですよん。


以上の他、本町遺跡の発表などでも後北条期の堀の話などが出て面白かったです。また、正直「どーでもエエ」と思っていた江戸期の発表内容も、ちゃんと聞いてみると興味深かったですわ。午後から拝聴したゆえ、残念ながら古墳時代は聞いちょりませんでした。


発表会の最後に課長さんが、こういう発掘が出来るのも、おウチやビルの建て替えの時に2ヶ月3ヵ月工事をストップし調査をさせてくれる住民の方達の協力あってこそ、とおっしゃっていました。

ほんとうにそうですよねえ。我が家も覚えがありますが、家を建て替える時の仮住まいとは非常に不便でストレスがたまるものです。それを延長して、自分の家の下を徹底的に掘り起こさせてあげ、赤の他人にも見せてくれる。ありがたいことです。


「最新出土品展は」、12月16日までです。


別件

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~先の天守閣で開かれた「戦国最大の城郭 小田原城展」の図録~

発掘写真やデータがたくさん掲載されていて大変オススメです。戦国北条ファンや支城衆は必ずもっていたい図録だと思います。ここ最近で、いや、今まで小田原城で戦国期だけに限った図録ってありましたっけ?


後北条期の小田原城の縄張図ってないですよね。おサルに引き渡す時に縄張図も添えたはずですよね。どこかのお宅の蔵や押し入れで眠っているのでしょうか。はたまた、そうとも知らず、屏風や襖の下張りにされちゃったのかにゃ~。


以下、御用米曲輪の記事の一部なり

「小田原城、戦国の御主殿クラスの建物跡」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-1f30.html
「幸田口門に出現した「障子堀」と、「御用米曲輪」再び見学(1月24日)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-4c47.html
「御用米曲輪」の見学説明会の報告(2月4日)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-48fa.html


ほにゃ。


コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。画像は全てマリコ・ポーロが撮影したものです。

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